伊勢物語 115段:みやこしま あらすじ・原文・現代語訳

第114段
芹川行幸
伊勢物語
第四部
第115段
みやこしま
第116段
浜びさし

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  みちの国(14・15段の続き)
 
  おきのゐて都島といふ所(居酒屋)
 
  身を焼くよりも悲しき(焼肴=アテ)
 
 
 

 
 沖の井がある多賀城にはこの当時、陸奥国府があったという。
 つまり都から派遣されて来た者達が集う所。それにかけて都島。
 地元民はよりつかない所。
 
 直上に塩釜があるが、81段で本塩竃、都の六条の邸宅に掛けて用いた。
 ここら辺は魚が旨いことに掛け、酒の肴の当てを積極的に用いている。
 

沖の井1

住宅街に突如出現する沖の井。
画像はグーグルストリートビュー。
沖の石は左の石のことで、沖の井はこの枠組全体のことではないか。

なんとも寂しい。
その心境を「おきのゐ」で表現している。
いやしかし何か違くない?(コレジャナイ感)
そういう文脈もある。
 
ここで何かしたわけではない。
以上の心境と、おきにの場所と沖の井を当てただけ。
 
 

あらすじ

 
 
 むかし、みちの国に、男女が住んでいた。
 
 男が都へ行く(いなむ≒去る×行こう)という。
 この女はとても悲しくて(一緒に行く暗示とは思わず)、
 馬の餞(送別会)をしようといって、
 
 おきのゐて都島といふ所にて、酒飲ませて詠む。
 
 ゐてを行ってと、沖の井とオキニと掛け、沖の井辺りの都島=多賀城のお気に入りの酒処に行って。
 あ、お酌? おおきに…
 
 (都島を多賀城とみることは、前段で帝の鷹匠(鷹飼)が出てきたことと掛かり、根拠はある)
 

 おきのゐて 身を焼くよりも悲しきは
 都のしまべの 別れなりけり

 
 酒の肴を当てと掛け、
 魚の身を焼く煙より、目に染みると解く。
 (112段「塩焼く煙 風をいたみ 思はぬ方にたなびきにけり」)
 
 その心は、おきにの都島でお別れ会や。
 
 やっぱり行っちゃうんだね。
 あ~身を焼くような恋もここで終わりか~。
 (ま~た言ってる)
 
 そうねえ~。
 あ、身を焦がして…、それが旨い? あ…そう。
 ここでサヨナラか…。
 
 ~
 

 わが身を焼くなどマジな例えな訳ない。演歌じゃないよ和歌ですよ。
 和歌も演歌化していくが、伊勢の命はみやびにあるので。
 奇をてらわず、素直な本心を緻密に繊細に表現する、それがみやび。
 技巧に走っているわけではない。表現の精度・密度を高めただけ。
 
 女は「恋に死なずば」と言っていた(14段)、それを受けた言葉。
 この物語では、高貴を「あてなる」「あてはかなる」という言葉で表現する。つまり物に当て、繊細な儚い気持ちを表現する、それがみやび。
 
 おきのゐ(沖の井)は寂しい岩礁だが、沖と都の島とかけ、61段の染河という色街の話に出てきた、有明の「たはれ島」の文脈を読み込んでいる。
 
 「たはれ島」は実際に沖に存在する寂しい岩礁なのだが、そこは浮気なことをする島なんだと。
 ここでもそうだけど、沖の井とか、そこらの岩場で男女が酒飲むとかありえない。
 都に戻ることに掛けて都島。9段の都鳥と同じ例え。
 塩釜が出てきた81段でも全く同じだが、例えをの意図を考えない。なお塩釜は多賀城のすぐ上にある漁港。その景色に基づき邸宅を建てた??
 絶対に通らないことを言う場合は、言葉を掛けていたり何かを仄めかしている。文面上通らないから「いけず」。
 
 そして、本段のような内容(遊女・酒)だから、小町の歌ではない。
 つまりそう認定する古今1104は誤り(ただし正本では墨塗されているが)。
 また、伊勢の文脈においてこの歌が存在するのだから、この意味でも小町の作ではない(古今は本体ではないただの歌集。しかも脈絡なく断片的)。
 

 冒頭で「男女すみけり」とあるが、一緒にでも夫婦でもない。しかし、そういう含みを若干持たせている文章。
 男は当然著者。(突如別人の話にする意味が一切ない。一般は全体をそのように解するが支離滅裂)
 女は、これ以前に陸奥の女が出てきたのは、14段・15段のみでその女。明らかにその続きの話。
 
 女は、一言でいえば遊女。酒を出しているのはその暗示(この物語で酒と盃は区別される)。
 しかし、そういう関係(売り買い)ではなく、純粋な大人の男女の関係(14段参照)。
 
 この物語で、これ以前に馬の餞が端的に出てきた44段は、小町の送別会の話だった。そこでは酒はなく盃。
 だから、以上の解釈は伊勢全体で根拠がある。全て有機的に関連し矛盾はない。一般はそう解さないが。
 矛盾だなんだ、史実にないとかいうのは、業平の話と決めて見ているから。そんな史実などありえない。
  
 なお、前段で業平没後の年が確定させ、冒頭の陸奥の話はそいつの話ではありえないことを、ここで確実にする。
 著者は、物語後半に入り業平を拒絶する表現を繰り返すが(63段等全ての登場段)、これは、当時から伊勢の内容が混同されていたことを表わしている。
 つまり、その都度リリースしていた。後宮で。
 複写は手習いがてら、女官達にさせ、添削代わりに校正した(だから一つ一つが短い)。それが伊勢の御(子)や、紫を生み出す素地になった。
 でなければこの時代そのような男女の教養の逆転はありえない。今以上に教育と情報格差がある時代。だから最高の実力者が女子に直接手本を示した。
 
 だから紫は、この物語や竹取に言及していたと。
 それに伊勢の御という呼び名の由来も、普通に考えれば、それしかない。
 
 そして、紫が妄想した気位の高い主人公は、伊勢の昔男がモデルと解するのが普通。
 母は宮、身は賤しという記述を源氏と解した(84段)。しかしまさか文字通り地下のスケとは分からなかったと。ま、普通はそうなる。
 
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第115段 みやこしま(都島) おきの井
   
   むかし、みちの国にて、  むかし、みちのくにゝて、  昔。みちのくにに
♂♀ 男女すみけり。 おとこ女すみけり。 おとこすみけり。
       
  男、都へいなむといふ。 おとこ、みやこへいなむといふ。 みやこへいなんとするに。
  この女いと悲しうて、 この女、いとかなしうて、 女いとかなしと思ひて。
  馬のはなむけをだにせむとて、 うまのはなむけをだにせむとて、 むまのはなむけをだにせんとて。
  おきのゐて都島といふ所にて おきのゐ宮こじまといふ所にて、 おきのゐみやこつしまといふ所にて。
  酒飲ませてよめる。 さけのませてよめる。 さけのませんとして よめる。
       

196
 おきのゐて
 身を焼くよりも悲しきは
 をきのゐて
 身をやくよりもかなしきは
 おきのゐて
 身を燒よりもわひしきは
  都のしまべの
  別れなりけり 
  みやこしまべの
  わかれなりけり
  都つしまの
  別れなり鳬
       
      とよめりけるに。めでてとまりにけり。
   

現代語訳

 
 

みちの国

 

むかし、みちの国にて、男女すみけり。

 
 
むかしみちの国にて
 むかし陸奥の国で
 

男女すみけり
 男女が住んでいた。
 
 一緒に住んでいる描写はない。ただ住んでいた。
 むしろ場所を指定し酒を飲んでいるので、別々。
 
 つまり14段(陸奥の国)、15段(しのぶ山)の女との後日談。
 陸奥の国で女が出てきたのは、ここしかない。
 14段で女と出会い、
 15段では「女かぎりなくめでたしと思へど、さるさがなきえびすごゝろを見ては、いかゞはせむは」で終わっていた。
 
 どうしようか、とは色々あるが、この人こそ(23段)、つまり迷いない状態という所までではなかった。
 記述自体でそう言える。惹かれているのは確かだが。
 だからやもめ(113段)。
 
 古今1104は、本段の歌を小町の歌としたが、どうだろう(ただし墨塗)。
 確かに彼女も陸奥に流れたが、14・15段は、まず小町ではない。
 
 細かいが、伊勢が古今の歌を流用することはない。
 (記述内容が明確に~886年で区切られ、一世代後の905年の古今参照はありえない。前段参照)
 物語の表記の仕方からも、これも著者の歌でしかないが、小町と解される分に何も問題ないし、むしろ良い。二人の一致した作風の裏づけになる。
 伊勢の歌、全部小町の歌でもいい。しかしそれで発情した貴族がむらがり(小町針・竹取)、流れる羽目になったので、その意味では良くなかった。
 
 しかし在五の話ではない。
 そもそも「在五」は蔑称ということが何でわからんかな。それを「けぢめ見せぬ心」と著者が評しているのに(63段)、何で無視するかな。
 
 

おきのゐて都島といふ所

 

男、都へいなむといふ。
この女いと悲しうて、馬のはなむけをだにせむとて、
おきのゐて都島といふ所にて酒飲ませてよめる。

 
 
男都へいなむといふ
 男が都に行く(去る)と言う。
 

この女いと悲しうて
 この女はとても悲しんで 
 

馬のはなむけをだにせむとて
 送別会をしようといって、
 
 馬の餞は宴会のこと。
 馬の鼻を向ける儀式ではない。普通に考えてくれー。
 遠くへの旅立ちが上手くいくように、そのハナムケ(餞別・花向け)の言葉を当てているだけ。
 
 馬は自分のことを低めて言っている。14段で女が自分のこと馬鹿頭な私(クタカケ=馬鹿鶏)というのと同じ。
 (この馬・鹿・鳥の解釈は、前段のワシ・タカ・ツルとかかり、根拠がある。
 つまり陸奥のク・タカ・ケとの掛かり。だから大鷹の鷹飼と強調していた。
 ま、超こまけーがな)
 
 なお、44段で一度出てきた馬の餞は、小町を送り出すものだった。
 

おきのゐて都島といふ所にて
 沖の井の都島という所にいって
 
 沖の井:多賀城市(昔の陸奥国府)にある、ショボンとしたランドマーク。
 
 「ゐて」をそこに行ってとかける。
 
 「都島」は、多賀城の揶揄。多賀城は前段の鷹匠に掛かっている。
 
 都島は既に崩れたというが、そもそもそんな所があったのか? それは多賀城のことを言っているのかな。
 
 そして、この島が61段(染河)で「たはれ島」=沖にある人が近寄れない岩礁で、女を口説くと一般の訳が言い張る話と符合している。
 その段は、簾の内の女で、端的に遊女を仄めかした話。とはいえ一般はそう見ないが。染川といっても、その色とは見ない。
 それなのに、通うとか言い交わすとかのフラットな文脈を、悉く求婚だの言い寄っただの夜を共にしたとかにする。何なんだよ。ほんとズレてる。
 
 81段・塩釜を都の本塩竃の大邸宅に当てたら、東北の塩釜の風情に由来するとかいうのもそうだけど(地名を当てただけの皮肉)、ちっとは考えてって。
 すんごいおかしな訳を繰り返して、そういうもんだ? ちげーから。
 みやびなんてどうでもいい、って人は別にいいけど。
 みやび語るなら宮城のこと知らんとな。なんつって。
 いや、まじよこれ。これが○がかりね。住めば都ってそういう意味だから。長く住めば長いこと都になる。名前だけなのは短期間って意味。
 

酒飲ませてよめる
 そこで酒を飲ませて(男に酌をして)詠む。
 
 つまり暗にそういう商売。
 男が酒を明示する場合、常に特有の(大人の)遊びの含みがある。上述の81段(塩釜)でもそうだった(親王達の徹夜の放蕩)。
 (そうではない、やらしくない場合、盃になる。44段・馬の餞等)
 
 しかし同伴とかそういうことではない。純粋に大人の男女として仲良くしただけ。女の背景にそれがあるというだけ。
 なぜなら著者は、そういう色街的な気持ちと一緒にしないでと、上述の、61段(染川)で言っている。
 
 14段・「栗原のあねはの松の人ならば 都のつとにいざといはましを(都に一緒に行こうとはいえない)」 宮城県栗原金成姉歯。
 同伴という言葉が、何を意味しているのかは、よくは知らない、知りたくもない。
 
 

身を焼くよりも悲しき

 

おきのゐて 身を焼くよりも悲しきは
 都のしまべの 別れなりけり

 
 
おきのゐて 身を焼くよりも悲しきは
 
 「おきのゐて」とは、起きれば行く(去て)と掛け、14段で「いきてねにけり夜ふかくいでにければ、女」を受けている。
 
 「身を焼くよりも」とは、何かの肴を焼いて、それが目にしみる様子。
 つまり煙が目にしみるよりも悲しい。泣きたいな~。え、軽くない?
 
 つまり、これで女の相変わらずな乙女の心情の描写を表現している。
 ♀「恋に死なずは」(14段)
 ♂「さるさがなきえびすごゝろ」(15段)
 エビスって派手でヤボという意味。
 
 わたし、身を焦がすほどヤいちゃうって、そうでしょ。
 実際、焦げるわけねーじゃん。
 魚焼いてんだって。まじで。
 

都のしまべの 別れなりけり
 都の島辺りで お別れだね
 
 あれ、ここ都じゃん? なのにお別れっておかしいね。
 
 お別れと言うから、女としてもあっさりしたもの(多分。男は沢山知っている)。
 でも男は、こうして最後まで心にとどめておくわけ。
 男なのに女々しいね。最後にこうして女達のことを思い返してる。
 
 でも別れても、絶対忘れてはいないと思うんだよな。
 だって著者みたいなやつ、そうそう他にいるわけないもの。自分でも見たことないって(我と等しき・124段)。
 
 他の女の子(梓弓の子も、伊勢斎宮)も、みんなそういう反応だもの。だからみんな向こうから来てくれている(14段20段69段)。
 ま、心の中は本人達にしかわからんけどな、男の心の中はこうだ。
 じゃないとここまでの描写の説明ができないでしょ。それにそう言うに足りる実績を残しているじゃない。
 
 人格破綻で歌を知らない業平(101段)の歌を借用しているなどと、盗人に得意面されて汚されてもな。
 なんつー恥辱だよ。文を読めないのが多いな。
 
 

△とよめりけるに。めでてとまりにけり。
 
 塗籠独自の補い。は~安易だよな。
 
 84段でもそうだった。母が著者に会いたいとかいう手紙をよこしてきたら
 「是を見て馬にものりあへずまいるとて。道すがらおもひける」だって。
 アホっぽいだろ。何がとりあえずまいるだよ。フユヒコかよ。やめてくれー。
 
 なんつーか、発想が安直で反射的だよね。
 相手が何を意図して言っているのか考えない。著者の意図も全く考えない。ただ自分の記憶に従って反応するだけ。
 そういうの馬○っていわない?