紫式部日記 12 御頂きの御髮下ろしたてまつり 逐語分析

十一日加持祈祷 紫式部日記
第一部
彰子出産
男子誕生の慶び
目次
冒頭
1 御頂きの御髮下ろし
2 東面なる人びとは
3 化粧などのたゆみなく
4 宰相の君の顏変はり
5 ましていかなりけむ
6 されど、その際に見し
7 今とせさせたまふほど
8 源の蔵人には心誉阿闍梨
9 阿闍梨の験の薄きにあらず
10 宰相の君のをき人に
11 御もののけ移れと

 

原文
(黒川本)
現代語訳
(渋谷栄一)
〈適宜当サイトで改め〉
注釈
【渋谷栄一】
〈適宜当サイトで補注〉

1

 御頂きの御髮
下ろしたてまつり、
 中宮様の御頭頂のお髪を
形ばかりお削ぎ申し上げて、
 
御忌む事
受けさせ
たてまつりたまふほど、
御忌戒を
お受けさせ
申し上げる間、
 
くれ惑ひたる心地に、 途方に暮れるほどの気分で、  
こはいかなることと、 これはどうなることかと、  
あさましう
悲しきに、
驚きあきれるほど
悲しいと思っているうちに、
 
平らかに
せさせたまひて、
無事に
御出産なさって、
 
後のこと
まだしきほど、
後産のことが
まだの間に、
 
さばかり
広き母屋、
あれほど
広い母屋から、
 
南の廂、
高欄のほどまで
南面の廂の間、
外の簀子の高欄の際まで
高欄:こうらん・欄干〉
立ちこみたる
僧も俗も、
立て混んでいた
僧侶たちも俗人たちも、
 
いま一よりと
よみて
額をつく。
いま一段と
大きな声を上げて
礼拝した。
 

2

 東面なる
人びとは、
 東面にいる
女房たちは、
 
殿上人に
まじりたるやうにて、
殿上人に
まじって控えている格好で、
 
小中将の君の、 小中将の君が、 【小中将の君】-中宮付きの女房。〈人定未詳〉
左の頭中将に
見合せて、
左の頭中将源頼定と
ぱったり顔を合わせて、
【左の頭中将】-源頼定。為平親王の次男。
あきれたりし
さまを、
茫然とした
様子などを、
 
後にぞ
人ごと
言ひ出でて笑ふ。
後になって
それぞれが
話し出して笑った。
【人ごと】-底本「人こと」。「こ」は字母「古」とも「悲」とも読める事態。『全注釈』『集成』は「ひ」と読む。『新大系』は「こ」と読み「人々」と改める。『新編全集』『学術文庫』は「人ごと」と読む。

3

化粧などの
たゆみなく、
化粧などが
行き届いて、
 
なまめかしき人にて、 優美な人で、  
暁に顏づくり
したりけるを、
明け方に化粧を
していたのだが、
 
泣き腫れ、 泣き腫らして、  
涙にところどころ濡れ
そこなはれて、
涙でところどころ
化粧くずれして、
 
あさましう、 驚きあきれるくらいで、  
その人となむ
見えざりし。
〈小中将の君その人〉とも
見えなかった。
×小少将の君とも〈渋谷誤記〉

4

 宰相の君の、  宰相の君が、 〈蜻蛉日記の著者の孫。藤原豊子前段その他多数〉
顏変はりしたまへる
さまなどこそ、
涙で顏変わりなさった
様子などは、
 
いとめづらかに
はべりしか。
とても珍しいことで
ございました。
 

5

まして、 それ以上に、  

いかなりけむ。
わたしの顔などは
どう見えたことであろうか。
 

6

されど、 けれども、  
その際に見し
人のありさまの、
その際に見た
女房の様子が、
 
かたみに
おぼえざりしなむ、
お互いに
覚えていないというのも、
 
かしこかりし。 幸いなことであった。  

7

 今と
せさせたまふほど、
 いよいよ
御出産あそばすというときに、
 
御もののけの
ねたみ
ののしる声などの
むくつけさよ。
御もののけが
妬み声や
大きな声を出すことなどの
何とも気味の悪かったことよ。
 

8

源の蔵人には
心誉阿闍梨、
憑坐らの源の蔵人には
心誉〈しんよ〉阿闍梨を、
【源の蔵人】-中宮付きの女蔵人。憑坐(よりまし〈悪霊を代わりに憑かせる体〉)を差し出した女房。
心誉阿闍梨】-藤原重輔の三男。三十八歳。源の女蔵人が差し出した憑坐を担当。
兵衛の蔵人には
妙尊といふ人、
兵衛の蔵人には
妙尊という僧侶を、
【兵衛の蔵人】-中宮付きの女蔵人。憑坐(よりまし)を差し出した女房。
【妙尊】-底本「そうそ」。『全注釈』は「そ」は「め」の誤写と見て「妙尊」とする。延暦寺の僧侶。『集成』『新大系』『新編全集』『学術文庫』は底本のまま。
右近の蔵人には
法住寺の律師、
右近の蔵人には
法住寺の律師を、
【右近の蔵人】-中宮付きの女蔵人。憑坐(よりまし)を差し出した女房。
【法住寺の律師】-権律師尋光。藤原為光の子、斉信の弟。
宮の内侍の局には
千算阿闍梨を
預けたれば、
宮の内侍の局には
千算阿闍梨を
担当させていたところ、
【宮の内侍の局】-中宮付きの女房。憑坐(よりまし)を差し出した女房。〈橘良芸子前出
【千算阿闍梨】-底本「ちそう」。『全注釈』は「そう」は「さん」からの音韻転化と見て「千算」とする。勝算の弟子。『集成』『新大系』『新編全集』『学術文庫』は底本のまま。

もののけに
引き倒されて、
阿闍梨たちが
もののけに
引き倒されて、
 
いと
いとほしかりければ、
ひどく
気の毒だったので、
 
念覚阿闍梨を
召し加へてぞ
ののしる。
念覚阿闍梨を
呼び寄せ加えて
大声で祈祷した。
念覚阿闍梨】-藤原済時の子、円明寺検校。

9

 阿闍梨の
験の薄きにあらず、
 阿闍梨たちの
効験が薄いのではない、
 
御もののけの
いみじう
こはきなりけり。
御もののけが
ひどく
手強いのであった。
 

10

宰相の君の
をき人に
叡効を
添へたるに、
宰相の君担当の
招祷人に
叡効阿闍梨を
付き添わしたところ、
【宰相の君】-典侍藤原豊子。憑坐(よりまし〈悪霊を代わりに憑かせる体〉)を差し出した女房〈4参照〉。
【をぎ人】-底本「せき人」。「せ」は「を」の誤写。『集成』『新大系』は清音「をき人」と読む。「呼 ヲク」(色葉字類抄)。
【叡効】-園城寺の僧侶。阿闍梨。
夜一夜

ののしり明かして、
一晩中、
叡効阿闍梨は
大声を上げ続けて、
 
声も涸れにけり。 声も涸れてしまった。  

11

御もののけ
移れと
召し出でたる
人びとも、
御もののけを
移らそうと
呼び出した
憑坐たちも、
 
みな移らで
騒がれけり。
すべては移らないので
大騒ぎしたことであった。