枕草子33段 説経の講師は

檳榔毛は 枕草子
上巻上
33段
説経の講師は
菩提といふ寺

(旧)大系:33段
新大系:30段、新編全集:31段
(以上全て三巻本系列本。しかし後二本の構成は2/3が一致せず、混乱を招くので、三巻本理論の根本たる『(旧)大系』に準拠すべきと思う)
(旧)全集=能因本:39, 40段(蔵人おりたる人、昔は)
 


 
 説経の講師は顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説くことのたふとさもおぼゆれ。ひが目しつればふとわするるに、にくげなるは罪や得たらむとおぼゆ。
 このことはとどむべし。すこし年などのよろしきほどは、かやうの罪えがたのことはかき出でけめ、今は罪いとおそろし。
 

 また、たふときこそ、道心おほかりとて、説経すといふ所ごとに最初にいきゐるこそ、なほこの罪の心には、いとさしもあらでと見ゆれ。
 

 蔵人など、昔は御前などいふわざもせず、その年ばかりは、内裏わたりなどにはかげもみえざりける、いまはさしもあらざめる。
 蔵人の五位とて、それをしもぞいそがしうつかへど、なほ名残つれづれにて、心ひとつはいとまある心地すべかめれば、さやうの所にぞひとたび二たびもききそめつれば、つねにまでまほしうなりて、夏などのいとあつきにも、かたびらいとあざやかにて、薄二藍、青鈍の指貫など、ふみちらしてゐためり。烏帽子に物忌つけたるは、さるべき日なれど、功徳のかたにはさはらずと見えむとにや。そのことする聖と物語し、車たつることなどをさへぞ見入れ、ことについたるけしきなる。
 ひさしうあはざりつる人のまうであひたる、めづらしがりて、ちかうゐより、物いひうなづき、をかしきことなど語り出でて、扇ひろうひろげて、口にあててわらひ、よくさうぞくしある数珠かいまさぐり、手まさぐりにして、こなたかなたうち見やりなどして、車のよしあしほめそしり、なにがしにてその人のせし八講、経供養せしこと、とありしことかかりしこと、いひくらべゐたるほどに、この説経のことは聞きも入れず。なにかは、つねに聞くことなれば、耳なれてめづらしうもあらぬにこそは。
 

 さはあらで、講師ゐてしばしあるほどに、前駆すこしおはする車とどめておるる人、蝉の羽よりも軽げなる直衣、指貫、生絹のひとへなど着たるも、狩衣の姿なるも、さやうにてわかうほそやかなる三四人ばかり、侍のもの、またさばかりして入れば、はじめゐたる人々もすこしうち身じろぎ、くつろい、高座のもとちかきはしらもとにすゑつれば、かすかに数珠おしもみなどして聞きゐたるを、講師ははえばえしくおぼゆるなるべし、いかでか語りつたふばかりと説き出でたなり。
 

 聴聞すなどたふれさわぎ、ぬかつくほどにもならで、よきほどにたちいづとて、車どもかたなど見おこせて、我どちいふことも、何事ならむとおぼゆ。見しりたる人はをかしと思ふ、見知らぬは、たれならむ、それにやなど思ひやり、目をつけて見おくらるるこそをかしけれ。
 「そこに説経しつ、八講しけり」など人のいひつたふるに、「その人はありつや」「いかがは」など、さだまりていはれたる、あまりなり。などかはむげにさしのぞかではあらむ。あやしからむ女だに、いみじう聞くめるものを。さればとて、はじめつ方は、かちありきする人はなかりき。たまさかには、壺装束などして、なまめき化粧じてこそはあめりしか。それも物まうでなどをぞせし。説経などにはことにおほく聞こえざりき。
 この頃、そのをりさしいでけむ人、命ながくて見ましかば、いかばかりそしり誹謗せまし。