枕草子306段 日のいとうららかなるに

うちとくまじき 枕草子
下巻下
306段
日のいと
右衛門の尉

(旧)大系:306段
新大系:286段-2、新編全集:286段-2
(以上全て三巻本系列本。しかし後二本の構成は2/3が一致せず混乱を招くので、以後は最も索引性に優れ三巻本理論の根本たる『(旧)大系』に準拠すべきと思う)
(旧)全集=能因本:286段
 


 
 日のいとうららかなるに、海の面のいみじうのどかに、浅みどり打ちたるをひきわたしたるやうにて、いささかおそろしきけしきもなきに、わかき女などの、袙、袴など着たる、侍の者のわかやかなるなど、櫓といふもの押して、歌をいみじう謡ひたるは、いとをかしう、やむごとなき人などにも見せ奉らまほしう思ひ行くに、風いたう吹き、海の面ただあしにあしうなるに、ものもおぼえず、とまるべき所に漕ぎ着くるほどに、船に浪のかけたるさまなど、かた時に、さばかりなごかりつる海とも見えずかし。
 

 思へば、船に乗りてありく人ばかり、あさましうゆゆしきものこそなけれ。よろしき深さなどにてだに、さるはかなきものに乗りて漕ぎ出づべきにもあらぬや。まいて、そこひも知らず、千尋などあらむよ。
 ものをいと多く積み入れたれば、水際はただ一尺ばかりだになきに、下衆どものいささかおそろしとも思はで走りありき、つゆあしうもせば沈みやせむと思ふを、大きなる松の木などの二三尺にてまろなる、五つ六つ、ほうほうと投げ入れなどするこそいみじけれ。
 

 屋形といふもののかたにておす。されど、奥なるはたのもし。端にて立てる者こそ目くるる心地すれ。早緒とつけて、櫓とかにすげたるものの弱げさよ。かれが絶えば、なににかならむ。ふと落ち入りなむを。それだに太くなどもあらず。わが乗りたるは、きよげに造り、妻戸あけ、格子あげなどして、さ水とひとしう下りげになどあらねば、ただ家の小さきにてあり。
 

 小舟を見やるこそいみじけれ。遠きはまことに笹の葉を作りてうち散らしたるにこそいとよう似たれ。とまりたる所にて、船ごとにともしたる火は、またいとをかしう見ゆ。
 

 はし舟とつけて、いみじう小さきに乗りて漕ぎありく、つとめてなどいとあはれなり。跡の白波は、まことにこそ消えもて行け。よろしき人は、なほ乗りでありくまじきこととこそおぼゆれ。徒歩路もまた、おそろしかなれど、それはいかにもいかにも地に着きたれば、いとたのもし。
 

 海はなでょゆゆしと思ふに、まいて海女のかづきしに入るは憂きわざなり。腰に着きたる緒の絶えもしなば、いかにせむとならむ。男だにせましかば、さてもありぬべきを、女はおぼろげの心ならじ。舟にをとこは乗りて、歌などうち謡ひて、この栲縄を倦みに浮けてありく、あやふくうしろめたくはあらぬにやあらむ。のぼらむとて、その縄をなむ引くとか。惑ひ繰り入るるさまぞことわりなるや。舟の端をおさへて放ちたる息などこそ、まことにただ見る人だにしほたるるに、落し入れてただよひありく男は、目もあやにあさましかし。
 
 

うちとくまじき 枕草子
下巻下
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日のいと
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