宇治拾遺物語:同僧正、大嶽の岩祈り失ふ事

静観僧正 宇治拾遺物語
巻第二
2-3 (21)
大嶽の岩
金峯山薄打

 
 今は昔、静観僧正は西搭の千手院といふ所に住み給へり。その所は、南向きにて大嶽をまもる所にてありけり。大嶽の乾の方のそひに大きなる巌あり。その岩の有様、竜の口をあきたるに似たりけり。
 その岩の筋に向かひて住みける僧ども、命もろくして多く死にけり。しばらくは、「いかにして死ぬるやらん」と心も得ざりけるほどに、「この岩ある故ぞ」と言ひ立ちにけり。この岩を毒竜の巌とぞ名づけたりける。これによりて西搭有様ただ荒れにのみ荒れまさりける。この千手院のも人多く死にければ、住み煩ひけり。
 

 この巌見るに、まことに竜の大口をあきたるに似たり。「人のいふ事はげにもさありけり」と、僧正思ひ給ひて、この岩の方に向かひて七日七夜加持しければ、七日といふ夜半ばかりに、空曇り、振動する事おびたたし。大嶽に黒雲かかりて見えず。しばらくありて、空晴れぬ。夜明けて、大嶽を見れば、毒竜巌砕けて散り失せにけり。
 それより後、西搭に人住みけれども、祟りなかりけり。西搭の僧どもは、件の座主をぞ、今のいたるまで貴み拝みけるとぞ語り伝へたる。不思議の事なり。
 

静観僧正 宇治拾遺物語
巻第二
2-3 (21)
大嶽の岩
金峯山薄打