伊勢物語 103段:寝ぬる夜 あらすじ・原文・現代語訳

第102段
あてなる女
伊勢物語
第四部
第103段
寝ぬる夜
第104段
賀茂の祭見

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  いとまめにじちようにて (昔男=超真面目)
 
  心あやまり(業平と知りあってしまった)
 
  きたなげさ(業平の歌)
 
 
 
 

あらすじ

 
 
 むかし男いた。
 とてもまじめで実直で、不埒な(あだなる)心はなかった。
 

 深草の帝に仕えていた頃。
 

 心誤りをしてしまった。
 というのも皇子達が使っている人(不埒な輩)と出会ってしまった。
 (みこたちの使ひ給ひける人をあひいへり)
 

 さて(その不埒な輩が)歌を詠んでやっている。
 寝ぬる夜の 夢をはかなみまどろめば いやはかなにも なりまさるかな
 

 この歌の実に汚いこと。
 (さる歌のきたなげさよ)
 
 ~
 
 つまり寝れば、後はもうどうでもいい。ばかなのにはかない賢者ターイム。それだけの歌。
 「汚げ」とは101段で、行平が「はらから(兄弟)」のありえない非礼さを誹りもしなかったこと(みな人そしらずになりけり)を受けている。
 誹らずとは、在原の都合で藤原の客を招いたのに、面前で藤原の大臣の不幸(瀕死)を喜ぶ発言をしたこと。人としてありえねーんだよ在原は。
 
 なお、この歌を古今644は業平の歌とするが、物語の流れからそうともいえない。
 こいつのことを歌っているが、こいつ自身による歌ではない。
 もちろん業平の歌という体だが、101段(藤の花)の歌同様、著者によって翻案されたものといわざるをえない。101段では確実にそうだった。
 本段の歌の韻の踏み方は、著者が101段で「もとより歌のことは知らざりければ」と評した業平では、事実上ありえない。
 自然な形で韻を踏むことは、高度な言語能力(高度かつシンプルな思考能力)がなければ、絶対できない。
 
 しかしこういう形で表現してしまったところが、著者が迂闊だった所とも言えるな。
 中身をなくそうとして、絶妙なかかりが目立つ。そういうもの。
 
 ~
 

 皇子達が使う人とは、業平。
 男が業平なのではない。使われている人が業平。
 
 皇子(たち)とセットで、しかも名前を伏せられる存在は、業平しかいない。
 (著者とすぐ混同されるが、業平は子分扱いで、著者はそこに居合わせているだけ=あひいへり)
 

 82段(渚の院)
 惟喬の親王と申す親王おはしましけり。……その時右馬頭なりける人を常に率ておはしましけり。
 時世へて久しくなりにぬれば、その人の名忘れにけり

 81段(塩竃)の親王達の宴会、それを受けて82段で著者が(無理に)召集された。
 

 冒頭で真面目誠実と念を押し、最後もダメだししているのは、一緒にするなということ。
 ここまで最後を強い表現にしたのは、現実でもそうみなされたから。
 別に自分が真面目誠実と言いたい訳ではないが、こうでもしないと、明確に業平を拒絶できない。
 
 男は女達・女方の話をよく出すが、
 それは仕事場が後宮だからで(95段「二条の后に仕うまつる男ありけり」)、女に言い寄るためではない。
 (しかし一般は、その段すら突如出現する後宮に仕える女に言い寄るとみるのだが、珍獣以外の何ものでもない。職場にいれないだろ、ばかかよ)
 
 ~
 

 みこたちの使ひ給ひける人を、あひいへり
 →皇子達の使用人の女と、契って通じて一夜を過ごした?
 
 はあ???? おいおいおいおい。
 冒頭で強調していた、マジでマジメの意味は何だった? 
 即座に180度覆るのか? 書いた意味ねーだろ。
 まじで何なんだよ。ほんと軽いよな。
 
 どんだけ「あひいへり」に読み込むんだよ。
 会う! ピコーン! 寝る! は?
 種馬?
 
 この時代はそういう意味? ねーよ。著者は誤りって書いてるがな。
 そもそも「あひいへり」が相言う? 言い寄る? どうしてそう言えるわけ? そういう文脈で見たからだろ? 
 
 そうじゃくて「出会ってしまった」だって。いへりは言うの意味じゃねーよ。色眼鏡で見ないで、まず字面通りみれや。
 仮に「相言う」でも、文句言い合っているだけ。
 (77段「よくもあらざり」・82段「散ればこそ」・101段「もとより歌のことは知らざりければ」「などかくしもよむ」)
 
 そう見ないで、反射的にヤらしい・汚い意味を読む込むから、筋が通らんだろ。
 だからそういうのを拒絶しているってなぜわからんの。顔面スライディングしそうになったわ。
 最後の言葉をあれこれ、苦し紛れにいじくってさ。ごちゃごちゃさせて。
 意味が通らんなら、謙虚に省みれって。一つ一つの解釈が滅茶苦茶だからそうなっているのよ?
 いや、それを辿れば業平が否定されるから、できないんだろうけどな。
 

 姿勢がおかしいのよ。根本的な解釈の仕方が。
 まず字義どおり見れよ。素直にみれや。自分らの発想で言葉を混同させるなって。転じて、じゃねーよ。
 全体の文脈で通してみろや。全部分断して場当たり的に見るなって。参照してどっかの1段ふわっとって視野狭すぎだろ。物語の意味ねーだろ。
 何の掛かりもないのに、事情を好き勝手・手当たり次第、読み込むなや。
 既にある言葉をやたら置き換えるなよ。現代で通じる言葉はそのままにせーって。いたずらにずらすから、訳分かんなくなるんだって。
 
 会う=寝る(ヤる)? プロセス皆無だろ。深い関係ならともかく、初見でそう見るのは危険だろ。だから訳も筋を通せない。
 なにがこの時代ほとんどレ○プだよ。そういう人達の頭がそうなだけ。つか、なんつーカミングアウトだよ。
 いや源氏の時代のことは知らんけど、伊勢では違うからな。たとえ世間がそうでも著者は俗物ではない。当然だろ。
 誇り高い古典を、低俗極まる目線で滅茶苦茶貶めるなや。あう=寝る! あう=口説く! はあ? きもいんですけど。
 
 そういう類の妄想は、63段「在五」・65段の「在原なりける男」の行動も一般の解釈も、全く同じ。
 どんだけ女が泣いて嫌がって逃げて伏せっていても、心では愛しあっているんだ~ってさ。
 あの在五様が寝てやるんだから有難いと思え!ってか? はあ? きもすぎ。
 
 もうそうやって、滅茶苦茶好き勝手に、業平の文脈で上書きしないで。
 どんだけ汚せば気が済むの。著者に失礼だって思えないの?
 失礼どころか死の宣告。一番大事な、人としての誠実さが、真逆な人に乗っ取られ、汚され続けるか…。なんだよそれ。
 
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第103段 寢ぬる夜
   
 むかし、男ありけり。  むかし、おとこありけり。  昔男ありけり。
深草のみかどにつかうまつりけり。
  いとまめにじちようにて、 いとまめにじちようにて、  
  あだなる心なかりけり。 あだなる心なかりけり。 そのおとこあだなる心なかりけり。
  深草のみかどになむつかうまつりける。 ふかくさのみかどになむつかうまつりける。  
       
   心あやまりやしたりけむ、  心あやまりやしたりけむ、  こゝろあやまりやしたりけん。
  みこたちの使ひ給ひける人を みこたちのつかひたまひける人を みこたちのめしつかひ給ける人を
  あひいへり。 あひいへりけり。 あひしりにけり。
       
  さて、 さて、 さて朝にいひやる。
       

179
 寝ぬる夜の
 夢をはかなみまどろめば
 ねぬる夜の
 ゆめをはかなみまどろめば
 ねぬるよの
 夢をはかなみまとろめは
  いやはかなにも
  なりまさるかな
  いやはかなにも
  なりまさるかな
  いやはかなくも
  成勝る哉
       
  となむよみてやりける。 となむよみてやりける。  
  さる歌のきたなげさよ。 さるうたのきたなげさよ。  
   

現代語訳

 
 

いとまめにじちようにて

 

むかし、男ありけり。
いとまめにじちようにて、あだなる心なかりけり。

 
 
むかし男ありけり
 むかし男がいた。
 
 当然著者。
 

いとまめにじちようにて(△欠落)
 とてもまめでまじめにして、

 まめ
 :まじめ。
 

 じちよう 【実用】
 :実直。まじめ。
 
 これは2段「かのまめ男」と同じ。
 

あだなる心なかりけり
 不誠実な心はなかった。
 

 あだ・なり 【徒なり】:
 ①はかない。もろい。
 ②誠実でない。浮気だ。
 
 これは 63段の在五の「けぢめ見せぬ心」と対比させ、断固区別した表現。
 
 むかし男が(当時から)それと混同され、いらつきが極まった段。
 
 

心あやまり

 

深草のみかどになむつかうまつりける。
心あやまりやしたりけむ、
みこたちの使ひ給ひける人をあひいへり。

 
 
深草のみかどになむつかうまつりける
 深草の帝に仕えていた時のこと。
 

 深草のみかど
 :仁明天皇(810-850≒40歳)。墓所が深草。
 今まで出てきた、文徳→清和(69段)の前の帝。
 ここでは、著者の若い頃という意味。
 

心あやまりやしたりけむ
 心(底)誤りをしてしまった。
 
 あだなりとかかる「あやまり」。
 

みこたちの使ひ給ひける人を
 皇子達が使っている人と
 

あひいへり
 会って知ってしまった。
 
 これは業平のこと。
 皇子(たち)とセットとされ、しかも存在を伏せられる存在は、業平しかいない。
 82段(渚の院)
 惟喬の親王と申す親王おはしましけり。……その時右馬頭なりける人を常に率ておはしましけり。
 時世へて久しくなりにぬれば、その人の名忘れにけり

 81段(塩竃)の親王達の宴会、それを受けて82段で著者が(無理に)召集された。
 
 魔が差して突如出現した女とねんごろに通じ合った? ありえねーよ。
 文脈と完全に相容れないだろうが。そうやって物語を滅茶苦茶にし続けるの、いいかげんにしろ。
 女を突如出す根拠が何一つないだろうが。「いとまめにじちようにて」って同じ意味の言葉繰り返しているの、見えんのかよ。
 そういう人達の心誤りって、全部女をやらかすことなの? ちょっと発想きもすぎ。
 
 古文で「あう」=寝るという見方は、業平みたいな、頭が常にそういうことで一杯の人達のこじつけ。
 女と会う=寝る? やべーだろ。ただのビョーキ。みやびでも何でもない。ほんと節操ないよな。
 
 しかし今まで「人」は、文脈がおかしくても断固男としてきたのに(44段・馬の餞等)、「寝る」があるだけで、文脈無視して女にする。
 ほんとしょーもねーな。流れっつーもんが全く理解できないのな。まさに種馬。じゃなかった、まさに外道。
 
 いや別にシスター的な清純きどるつもりはねーよ。著者も14段・陸奥の国で寝てるからな。
 でもそれは、女から声かけられて、その言葉に粋を感じて、かつパートナーがいなくてヤモメだったから、だからな?
 女とみれば、何でもかんでも、男から突っ込んでいくのは違う。何が会う=寝るだよ。ばかかよ。雰囲気も配慮もなんもねーな。何がみやびだよ。
 
 

きたなげさ

 

さて、
 
寝ぬる夜の 夢をはかなみまどろめば
 いやはかなにも なりまさるかな
 
となむよみてやりける。
 
さる歌のきたなげさよ。

 
 
さて
 さて(誰とは言わんが)
 

寝ぬる夜の 夢をはかなみ まどろめば
 寝た夜の 夢を儚み まどろめば
 

いやはかなにも なりまさるかな
 否が応にも儚なく(むなしく) なりまさるかな
 
 寝たらすぐに賢者ターイム。あーもうむなしい。あーもうどうでもいい。
 馬頭の俺でも、寝れば寝るほど賢者になるw あー俺ってばウマいww
 

となむよみてやりける
 と詠んでやっていた。
 

さる歌のきたなげさよ(△欠落)
 この歌の実に見苦しい汚さよ。(「じち」にかけて)
 
 この部分を塗籠は無視するが、こうしたご都合的な改変は良くやるので、むしろ業平と相容れないと認識したといういい証拠になる。
 

 きたなげなり 【汚げなり】
 見るからに汚い。見苦しい。
 
 技術的な意味ではない? はい? 汚いのに技術云々あるか。
 
 なお補足すると、101段と今までの流れからも、こいつ(行平のはらから)の歌も確実に著者の翻案だったから、その意味で見る目はある。
 とはいえ、馬頭にかけウマいとバカにしても、こいつの手柄でもなんでもないよな。上手いことは著者の自然な習性なの。
 
 加えて「寝る」は、この物語ではそれしかない男女の文脈で度々用いてきたので、その意味。夜と会わせて確実。
 しかし「会う」は違う。会うと寝るは、全然違う意味の言葉。むしろ真逆。