論語 1-1 子曰學而時習之(学習):原文対訳と解説

    論語
学而第一
1
学而時習之
(学習)
孝弟
原文 書き下し 現代語訳
(独自)
子し曰く、  孔子が言うには
而時習之 学まなびて時ときに之を習ならふ、 「学んで適時にこれを(事例に応じ適用、即ち応用し)復習する。
不亦說乎 亦また説よろこばしからずや。 これが何よりも悦ばしいことではないか。
有朋自遠方來 朋とも遠方えんぱうより来きたる有あり、 遠方からも来る友(同志)がいる、
不亦樂乎 亦楽たのしからずや。 これが何よりも楽しいことではないか。
人不知而不慍 人ひと知しらずして慍うらみず、 そうして精進する自分を世の人が知らず認めなくても恨まない。
不亦君子 亦君子くんしならずや。 これが誰よりも立派な君子ではないか」

 

    論語
学而第一
1
学而時習之
(学習)
孝弟

下村湖人による注釈

 

原文に単に「子」とあるのは孔子を指すのであるが、他にも姓の下に「子」の尊称をつけたものもあるので、それらと区別するため、本訳では、孔子の場合は「先師」と呼び、他の場合は「先生」と呼ぶことにした。
論語において、「学ぶ」ということは、常に道徳的精進を意味し、更に進んでそれを政治に実現する道を学ぶことを意味する。そして孔子の理想とする有徳者乃至政治家は、堯・舜・禹・湯・武等の如き古代の帝王であるが故に、所詮はそうした先王の道を学ぶことが、論語における「学ぶ」ということになるのである。
君子
この語はところによつて多少意味が変るが、主として「求道者」「真人」「上に立つ人」「為政家」等を意味し、場合によつては、そのすべてを含めた意味に用いられる。本章では「求道者」「真人」というような意味であろう。

下村湖人による現代語訳(参考)

 

 先師がいわれた。
「聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。
何と生き甲斐のある生活だろう。
こうして道に精進しているうちには、 求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、
そうなつたら、何と人生は楽しいことだろう。
だが、むろん、名聞が大事なのではない。ひたすらに道を求める人なら、 かりに自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。
そして、それほどに心が道そのものに落ちついてこそ、 真に君子の名に値するのではあるまいか。」