伊勢物語 120段:筑摩の祭 あらすじ・原文・現代語訳

第119段
形見こそ
伊勢物語
第四部
第120段
筑摩の祭
第121段
梅壷

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  女のまだ世へず(未経験)
 
  もの聞えて(その意味がわかる)
 
  つれなき人の鍋のかず(経験数)
 
 →しかし真意は、神意はそのように用いない。
 
 
 
 

あらすじ

 
 
 むかし男が、女のことも経験していないと思われる頃の話。
 
 人のもとに忍んで、物を知るようになって、しばらくして。
 

 近江なる筑摩の祭とくせなむ つれなき人の鍋のかず見む
 
 経験人数分の鍋を被るという祭、その人の鍋を見てみたい
 
 ~
 

 なんておかしな祭に掛け、おかしなことを思ったものと。
 しかし、見なくていいものは見なくていい。何でも知ればいいというものではない。人前では秘めておくべきことがある。
 神威(117段)は、そんなことに用いない。それは神意ではない。
 

 本段が黙示の逆接であることは、垣間見をはしたない・こと心とした初段23段、男はそうすべきでないと非難する文脈の63段からも、明らか。
 
 またこれは、85段・101段同様の、おかしな意味でのしめくくり。
 
 親王いといたうあはれがり給うて、御ぞぬぎて給へけり85段
 一般は、これを理屈を超えた主従関係の証などとするが違う。親王の無理解・滑稽さを表わした。
 

 みな人そしらずになりけり101段
 なぜみな咎めない? 明らかにおかしいのに。
 
 なぜ最後まで書かないかというのは、一々言わせないでほしい、状況の描写で自明だろうと。
 しかし物を何も知らないと自明ではないのだと。遅まきながらこの時分かった。そういう段。
 

 冒頭のまだ世のことを良く知らないという表現は、神の文脈で、全体を規定している。

 いでていなば 心かるしと言ひやせむ 世のありさまを 人は知らねば21段・思ふかひなき世)
 
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第120段 筑摩の祭
   
 むかし、男、  むかし、おとこ、  昔男。
  女のまだ世へずと覚えたるが、 女のまだよへずとおぼえたるが、 女のいまだ世にへずとおぼえたるが。
  人の御もとにしのびて 人の御もとにしのびて  
  もの聞えてのち、ほどへて、 ものきこえて、のちほどへて、 ものきこえてのち。ほどへて。
       

202
 近江なる
 筑摩の祭とくせなむ
 近江なる
 つくまのまつりとくせなむ
 近江なる
 つくまの祭とくせなん
  つれなき人の
  鍋のかず見む
  つれなき人の
  なべのかず見む
  つれなき人の
  なへの數みん
   

現代語訳

 
 

女のまだ世へず

 

むかし、男、
女のまだ世へずと覚えたるが、

 
 
むかし男
 むかし男が、
 

女のまだ世へずと覚えたるが
 女のことをよう知らんでいた頃と思われるが、
 

 世へず
 :世を経ると、よう経ず=ようせん(未体験・見たいけん)と掛ける。
 
 ただし「世を経る」自体に、情事を経験するという意味はない。
 女と掛かり、あくまで遠回りな暗示。それと対比させて後述の近江。
 
 伊勢のこの部分を根拠に定義してもそれは誤り。
 後述の文脈(特に祭)と掛けてその意味をもつだけで、単体の語義上は、その意味はない。
 
 呼ばひを求婚・情を通じると定義することと全く同じ構図。
 呼ばひ自体は呼び合うという意味しかない。それ以上の意味は文脈に依存する。
 物語前半で混同されたから、95段で仕事の呼ばひわたりにしたり、107段で文通にしている。しかし無視。
 
 自分達の(誤)認定を根拠に、それを言葉に還流させ、文字を定義している。
 伊勢ではそれが顕著。ここではそこまで齟齬はないが。
 そしてその後世の混同で古来の文書を読む。それは誤り。
 
 

もの聞えて

 

人の御もとにしのびて、もの聞えてのち、ほどへて、

 
 
人の御もとにしのびて
 人のみもと(所・懐)に忍んで行って
 

もの聞えてのちほどへて
 物を見聞し分別がついて、後にしばらくして
 

 聞こゆ
 :理解できる。わけがわかる。
 
 「もの聞こえ」は、大人の男女の遠回りな暗示だが、それも祭りのことがないと確定できない。
 つまり、この祭のことを知ったことも含まれる。
 
 そして、この祭を知らないと以下の意味は全くわからないと。
 
 

つれなき人の鍋のかず

 

近江なる 筑摩の祭とくせなむ
 つれなき人の 鍋のかず見む

 
 
近江なる 筑摩(つくま)の祭 とくせなむ
 米原の つくまのまつり 早くして
 
 筑摩の祭
 :筑摩神社で、女が経験した男の数だけ鍋をかぶせたというやばめの祭。
 神罰の文脈が106、117段と若干かかる。ただしそれを変な意味で利用されているという文脈。
 
 その風習の成立については、伊勢が持ち出されるが、この点は要注意。
 伊勢ではそういう端的な話題は、実はほぼない(あるのは女と寝たという14段のみ。間接の描写で2段・22段・69段など、片手で足りる)。
 むしろ一般の理解より、常に狭く厳しい、厳密な解釈で描いている。
 
 伊勢の理解は極めて特殊であり、この表現をもって、一般だったと混同することは違う。
 それが、女の着物を贈物にすることは当時普通だったと解することや(16段、44段)、摺狩衣が普通だったとみなすこと。
 いずれも著者特有の表現で、一般などではありえない。
 後宮で縫殿に仕える男だから、女物の着物を女性に贈っている。服に詳しく、最初の信夫摺の狩衣もその一環。
 この歌仙のセンスが、普通で一般だったといえるか? いえない。伊勢は一般的な作品ではない。一般だったら、歌仙などと呼ばれない。
 
 勝手に乗っかった業平ですら、それだけで歌仙にするほどの作品。
 

つれなき人の 鍋(なべ)のかず見む
 つれない人の 鍋の数見て 
 
 この人の秘め事の数を知りたい。
 と、ここではこの意味でないと通らないだろう。
 今でこそ簡単に調べられるが、知らないと「人の御もと」と合わさって、女=台所=鍋か? という発想になる。
 
 それを説明していないということは、わかる人だけ相手にしているということでもあるが、そしたら誰もついてこれなかった。
 もちろん全部理解されるとは思っていない。
 だから神も突如出している(117段)。
 そこでも住吉神社の話などではない。神威の理解の話。この段も。
 人の都合で利用されていたんだな、今に至ってそれが分かったという話。
 
 「つれなき人」は、前段で小町に冷たくされた流れだが、ここでの人は小町ではない。
 
 というのも、こんな野暮なことを思う時点で、あまり物聞こえてないという逆接であるから。
 つまり昔男の、つれなきに掛けた、昔の回想。
 
 書いてあることでそのままの意味で終わらないことは、85段の末尾からも明らか。
 親王いといたうあはれがり給うて、御ぞぬぎて給へけり
 一般の訳・学者は、これを理屈を超えた主従関係の証などとするが、違う。
 説明できないから理屈を超えたと言っているだけ。おかしな話だ。
 
 つまりそういうことはあまりにヤボだって一々言わせんな。滑稽な状況を描写するだけでわかってくれ。そういう意味。
 今はちっちゃい女の子が、作り物の鍋をかぶるというので、丁度いい。可愛いね。