伊勢物語 14段:陸奥の国 あらすじ・原文・現代語訳

第13段
武蔵鐙
伊勢物語
第一部
第14段
陸奥の国
第15段
しのぶ山

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文対照
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  せちに思へる心玉の緒ばかりあはれ
 
  せなをやりつる
 
  いざといはましおもひけらし
 
 

あらすじ

 
 
 昔男が、陸奥の国(東北)を当てもなく歩いていたところ、京の人を珍しいと思ったか(多義的。多く含みがある)、女が声をかけてきた。
 「中々だね。どう? しぬほどの恋してなんぼでしょ?」というようなことを言っている。何とも「あはれ」(哀れ、そしてその通り)と思いそして、寝た。
 

 男が深夜に出立しようとすると、女が(起きて)「私はこんなバカだけど、また来てかわいがってね、今度は今回できなかったことをしよう」というので。
 「その気があれば、私はそのうち京に行くが、一緒にくるか? ただし金はもっていない」旨のことを言ったら、女は喜び「おもひけらし」と言った。
 

 話はここまで。最後の思いは女のみ知るところだが、反応を見た男としては、世知辛いと思った(つまり恋の話ではなく身請けと思われたと思った)。
 女が自らを「くたかけ(バカ鶏=三歩で忘れるほどばか)」というのは、相手が伊勢の著者だから、話しぶりから程度がわかったということだろう。
 (なお、このような表現は女がしたわけではなく、著者が歌として昇華したものと見るべき。その証拠に、前の玉の緒の歌は万葉からの翻案である)
 

 この段で男はすぐに寝ているが、2段での寝ない描写、好きな子には万葉を用いることから(23-24段)、相当惹かれたのだと思う(それが玉の緒)。
 かたや女の反応は、明らかにいつもの男とは違うというもの。しかしそれすら、男に機嫌をとる習性からなのか、男には区別できないのであった。
 (なお、この男は業平ではない。なぜなら、それ自体くたかけという評判だから)
 
 

原文対照

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第14段 陸奥の国 栗原の(あねはの松) くたかけ
   
 むかし、男、  むかし、おとこ、  むかし男。
  陸奥の国にすゞろに行きいたりけり。 みちのくにゝ、すゞろにゆきいたりにけり。 みちのくにに。すゞろにいたりにけり。
  そこなる女、 そこなる女、 そこなる女。
  京のひとはめづらかにおぼへけむ、 京の人はめづらかにやおぼえけむ、 京の人をば。めづらやかにかおもひけん。
  せちに思へる心なむありける。 せちにおもへる心なむありける。 せちにおもへるけしきなん見えける。
  さてかの女、 さてかの女、 さてかの女。
       

20
 なかなかに
 恋に死なずは桑子にぞ
 なかなかに
 こひにしなずはくはこにぞ
 中々に
 戀にしなすはくはこにそ
  なるべかりける
  玉の緒ばかり
  なるべかりける
  たまのをばかり
  なるへかりける
  玉のを計り
       
  歌さへぞ、ひなびたりける。 うたさへぞひなびたりける。 うたさへぞひがめりける。
  さすがにあはれとや思ひけむ、 さすがにあはれとやおもひけむ、 さすがにあはれとやおもひけん。
  いきてねにけり。 いきてねにけり。 いきてねにけり。
  夜ふかくいでにければ、女、 夜ふかくいでにけれは、女 夜ふかく出にければ女。
       

21
 夜も明けば
 きつにはめなでくた鶏の
 夜もあけば
 きつにはめなでくたかけの
 夜も明は
 きつにはめなてくたかけの
  まだきに鳴きて
  せなをやりつる
  まだきになきて
  せなをやりつる
  またきに鳴て
  せなをやりつる
       
  といへるに、男、京へなむまかるとて、 といへるに、おとこ、京へなむまかるとて、 といひけり。おとこ京へなんまかるとて。
       

22
 栗原の
 あねはの松の人ならば
 くりはらの
 あねはの松の人ならば
 栗原の
 あねはの松の人ならは
  都のつとに
  いざといはましを
  宮このつとに
  いざといはましを
  都のつとに
  いさといはまし
       
  といへりければ、 といへりければ、 といへりければ。
  よろこぼひて、 よろこぼひて、 よろこびて
  おもひけらしとぞいひ居りける。 おもひけらし、とぞいひをりける 思ひけり〳〵とぞいひける。
   

現代語訳

 
 

せちに思へる心

むかし、男、陸奥の国にすゞろに行きいたりけり。
そこなる女、京のひとはめづらかにおぼへけむ、
せちに思へる心なむありける。

 
 
むかし、男
 むかし、男が
 

陸奥の国にすゞろに行きいたりけり。
 陸奥の国に、当てもなく行き至った。
 
(陸奥:現在の東北地方の太平洋側全部。
 すずろ:漫ろ。漫然という意味。)
 

そこなる女、
 そこの女が
 

京のひとはめづらかにおぼへけむ、
 京の人を(もの)珍しく思ったようで、
 

(①男の謙遜。②身なりが周りと違う。→③あら良い男 ③’(金持ちかしら)と、思ったかという分析。
 身なりといっても、著者は人目を忍ぶのが習性なので、派手だからではなく小綺麗(現代的なシンプル)にしていたから、逆に目を引いたと。
 それを裏づける表現が、次段の「えびす心」。これは田舎の野暮さを表す言葉とされるが、エビスはこれみよがしにコテコテ派手にする外見だろう。
 ここであえて「京」と出したのは、そういうことを良しとしない価値観を象徴させている。実際の京はともかく、ポリシーとして。
 そして、①で包んだ男自体の個性が、女にはどれほどか、かなり大きいのではないか、そう思わないと以下の展開にはならない)
 

せちに思へる心なむありける。
 セチ(?)に思う心であった。
 

世知:一般には、世渡りの知恵?という、何やらよくわからない意味で解釈されているが、
 世知辛いを暗示していると見るべき。でないと意味が通らない。
 辛いことを辛いと書いても辛くなる。だから書かない。)
 
 つまり、切に、世知辛いなあと思った。(切に=とても=からい×辛い)
 誰が? 男。
 なぜ? 以下の文脈で。
 
 このように先に結論だけ書いて、その後、具体的な理由を書くのは著者の特徴の一つ(例えば、10段)。
 その仕事の一つの特徴(判事)。
 
 

玉の緒ばかり

さてかの女、
 
 なかなかに 恋に死なずは 桑子にぞ
  なるべかりける 玉の緒ばかり
 
歌さへぞ、ひなびたりける。

 
 ※この歌は万葉に準じる。
 

 なかなかに 恋に死なずは 桑子にぞ なるべかりける 玉の緒ばかり(伊勢)

 なかなかに 人とあらずは 桑子にも ならましものを 玉の緒ばかり万葉集12/3086
 
 何がいいたいかというと、恋に死なずば人にあらず。
 
さてかの女、
 さて、この女が(歌うには)
 

なかなかに
 中々に
(お兄さん、なかなかだね)
 

恋に死なずは
 こっちに来てシないなら、
 

桑子にぞ なるべかりける
 必ずカイコ→後悔するだろう(?)

桑子=蚕→買い子?)
 

玉の緒ばかり(△玉のを計り)
 もうこれは運命の糸でしょ
 

 玉の緒:魂の糸(意図)、運命の糸。蚕の糸とかけあわせ。
 →この言葉は、この物語では頻出。超重要単語。ここでま~す。
 

 ばかり:だけ(限定)。
 

歌さへぞ、ひなびたりける。
 という歌でさえも、ひなびている。

ひなび(鄙):田舎っぽい。)
 
 会ってすぐに「運命じゃん!」というから。
 
 

あはれ

さすがにあはれとや思ひけむ、いきてねにけり。

 
さすがにあはれとや思ひけむ、
 さすがにあはれ(なんともそうだよな)と思って
 

(さすがに:現代と同じ(文脈に依存)。

 あはれ:口ではえもいわれぬ・憚られる感情。哀れ、可哀想、哀愁、切ない。
 そういう気持ちを誘った。それで、)
 

いきてねにけり。
 行って寝た。
 
(つまりそうやって誘われたから。そして寝た動機は、あはれ=哀れ・可哀想・可愛そうと思ったから。
 中々だと言ってるのだから、それが愛想かはともかく、それならせめて可愛がろう・愛そう・優しくしようと思った。それが可愛想(=哀れでふびん)。
 しかし、ただ誘われたから寝たわけではなく、可愛いと思っていることは文字の通り。誰でも良くないことは、2段で示される。)
 
 

せなをやりつる

夜ふかくいでにければ、女、
 
 夜も明けば きつにはめなで くた鶏の
  まだきに鳴きて せなをやりつる
 
といへるに、

 
 
夜ふかくいでにければ、女、
 夜深くに、出立しようとすれば、女が(言うには)、
 

(寝るは、スリープではないという確認。
 これが冒頭の「行き至り」という、めずらかな言葉にかかる。
 至り=致。文字の形)
 

夜も明けば
 夜も明ければ、
(れがないが)
 

きつにはめなで くた鶏(かけ)の
 来ても可愛がられない このばかどりに

くたかけ(腐鶏):ばかどり。ののしり言葉。
 

まだきに鳴きて
 また来てね
 

せなをやりつる
 あなたがしてない(なき)ことを「やり」ましょう。

せな(兄な・夫な):あなた)
 

といへるに、
 というのに、
 
 

いざといはまし

男、京へなむまかるとて、
 
 栗原の あねはの松の 人ならば
  都のつとに いざといはましを
 
といへりければ、

 
 
男、京へなむまかるとて、
 男は、(今日)京へ参ると言って(歌うには)
 

まかる(罷る):退出・おいとま・行く・参る。)
 
 

栗原の あねはの松の 人ならば
 ??

(※宮城県栗原市に、金成姉歯という地区がある。したがって、この段の話はそこら辺。
 金成と言っていない→人は金ナリと思わず、居ない時も待てるなら。人買い・身請けなどと思わないなら。
 なぜ男がそんなことを言い出したのかというと、「恋に死なずは」という表現が心に残っていた。もしできるならその状況を提供しようと)
 

都のつとに
 都にこのまま
 

つと
 副詞:そのまま・ずっと・じっと。さっと・急に。
 名詞:包んだ土産。土地の土産。)
 

いざといはましを
 一緒に行こうか
 

といへりければ、
 と言ったらば、
 
 

おもひけらし

よろこぼひて、おもひけらしとぞいひ居りける。

 
よろこぼひて、
 とても喜んで、

よろこぼふ (喜ぼふ・悦ぼふ):すっかり喜ぶ。しきりに喜ぶ。うれしがる)
 

おもひけらしとぞいひ居りける。
「思った通り(? 願ったり叶ったり?)」と言っていたのだった。
 

けらし
 ①〔過去の根拠に基づく推定〕…たらしい。…たようだ。
 ②〔過去の詠嘆〕…たのだなあ。…たなあ。)
 
 

 女がまた来てというから、(金はないけど)一緒に行くかと言ったら喜んでいるのだが、そのセリフがどうにも打算的に思われた。
 「おもひけらし」とは何なのか釈然としない。これが世知辛さ。それが最初の段落の「せちに思へる心なむありける。」
 本当に死ぬほどの恋をしようとは、思っていないか。しかし普通ならそうだよなと。
 確かに好んでくれているようだが、それを生活の糧のために言うのがならわしなら、そう簡単に抜けるものではないよな、と悲しく思った。
 
 そして、この釈然としない女の気持ちを確かめようとしたのが、次の段。
 そうしたら、この段以上に喜んでいる様子(かぎりなくめでたし)ではあったが。