伊勢物語 12段:武蔵野 原文対照・大意の解説

第11段
空ゆく月
伊勢物語
第一部
第12段
武蔵野
第13段
武蔵鐙

 
 目次
 

 ・冒頭「むかし男」の意義
 

 ・原文 
 

 ・解説
 
 
 

冒頭「むかし男」の意義

 
 
 この段は「むかし男」から始まるが、著者のことを描いていない唯一の段(厳密には、著者が見聞した話という意味では、著者の物語ではある)。
 

 その他の「むかし男」表記は、その主観的心理描写から、匿名の著者を明示する意図的な言葉、と見る以外に合理的に説明できない。
 合理とは、語義に即して道理通りという意味であり(つまり前提に道理=人道の理解があり、それがないと非合理、野蛮な詭弁、その正当化でみち溢れる)、
 その意味で、伊勢で全否定される業平が主人公という、物語外の断片的認定を当然のように伊勢に持ち込む発想では、肝心の部分の言葉を曲げることになる。
 

 本段と同様の世間話の体(しかも男女の駆け落ちにからむ話)の40段では、「むかし若き男」から始めて、「むかし男」と区別し、他人目線で評している。
 つまり物語冒頭は「むかし男」を便宜上抽象化していたが、次第に自己表記の言葉として固定させたと言える(冒頭が業平の話と混同されたこともあって)。
 
 なお、在五や馬頭、行平のはらから(兄弟)等、業平を暗示し、その言動を描写する段では、全て「むかし男」から始まらない(63,65,76,79等)。
 業平がむかし男だから表記しないという見立ては、あまりにご都合的で無秩序。在五登場後も「むかし男」を最後まで一貫させた意味が全くなくなる。
 何より在五の63段を筆頭に、別目線で描写し、その全てでクサすか明確に非難している。例外は一つの段もなく、しかもそう扱われる人物は業平のみ。
 (65段:在原なりける男では、初段の初心、忍ぶ心・みやびと相容れない、後宮で人目もはばからず女につきまとい陳情され流された男と描写される。
 ちなみに、一般の訳は初段も何も忍ばず面前の女に文を渡す内容と見て、65段も実は女とは両思いなのだとコペルニクス的転回で美談にしてしまう)
 

 ここで上記の「むかし男」の意味を貫徹させるなら、本段冒頭の一段は、昔男の昔話(聞いた話)という一応の前置きとも解釈できる。
 なぜなら、続く本文中には男は一度も出てきていないから(最終段の表現からも意図的に伏せている)。他方で女は何度も明示している。
 そういう言葉の意味の、微妙なズラしが、この物語最大の特徴。
 「むかし男」と「むかし若き男」(40段)の違いは上述したが、40段では文中何度も男を出している。
 

 ただ、ここでは、それと同時に、著者が唯一(一番)男と認めた稀有な漢(オトコ)がいた、という意味に見ることが、最もすんなり通る。
 そして武蔵野は、この段をとっかかりに、あっぱれな男気の意味で用いているから(41段)、著者はこの盗人の心意気を気に入ったことは、間違いない。
 それは、大体女の「恋に死なずは」(14段・陸奥の国)と同じもので、男が保身に走らず女と添い遂げんとする心意気を気に入った(40段はその対照)。
 41段も14段同様、恋に生きようとする女の「志はいたし」という内容。こういう数字のリンクもしばしばある。14段の続きの15段の後日談が115段。
 

 家柄も何もない卑官の文屋が、宮中の誉れ、歌仙と称されるには、伊勢を記すほど突き抜けた実力、知性・品性がないと、そう称される理由が全くない。
 歌仙は文屋のための称号。和歌三神が人麻呂を称える称号であるように。文屋と小町は二人で一人。あとは全員、大人の都合でついてきたおまけ。
 業平は伊勢のためにそう称されており、したがって業平に歌仙たる実態は何もない。
 その裏づけが一般の軽薄極まる人物評。及び行平のはらからは歌をもとより知らないとする101段、加えて、馬頭の歌をよくもないと評する77段
 
 冒頭一段の内容を、全体と切り分け、かつ全体を象徴させた内容(サマリー)にすることがあるのは、この物語ではしばしばある(判決文の体裁)。
 判決文の体裁というのは、著者である文屋が判事だったからであり、本段は刑事手続の基本問題を含んだ内容でもある(予断排除・伝聞)。
 そして、伊勢が業平の物語というのが典型的な予断で伝聞。
 伝聞を証拠とするには、一般に外部情況との多角的符合が必要だが、それは業平認定に一切ない。その表れが主人公と「みなされ」ているという表現。
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第12段 武蔵野 盗人
   
 むかし、男ありけり。  むかし、おとこ有けり。  むかしおとこありけり。
  人のむすめを盗みて、 人のむすめをぬすみて 女をぬすみて。
  武蔵野へ率てゆく程に、 武蔵野へゐてゆくほどに、 むさしの國へ行ほどに。
  盗人なりければ、 ぬす人なりければ、 ぬす人成ければ。
  国の守にからめられにけり。 くにのかみにからめられにけり。 くにのつかさからめければ。
  女をば草むらのなかにおきて逃げにけり。 女をばくさむらの中にをきて、にげにけり。 女をば草むらの中にをきてにげにけり。
  道くる人、 みちくる人、 みちゆく人。
  この野は盗人あなり このゝはぬす人あなり 此野はぬす人あり
  とて火つけむとす。 とて、火つけむとす。 とて。火をつけんとするに。
       
  女わびて、 女、わびて、 女わびて。
       

17
 武蔵野は
 今日はな焼きそ若草の
 むさしのは
 けふはなやきそわかくさの
 むさしのは
 けふはな燒そ若草の
  つまもこもれり
  われもこもれり
  つまもこもれり
  我もこもれり
  妻もこもれり
  我もこもれり
       
  とよみけるを聞きて、 とよみけるをきゝて、 とよみけるを聞て。
  女をばとりて、ともに率てけり。 女をばとりて、ともにゐていにけり この女をばとりて。ともにゆきにけり。
   

解説

 
 
 この段は、短いにもかかわらず、特に解釈に問題をきたすようなので、解説しよう。
 

 この野は盗人あなり
 →この野郎は野盗だ盗人だ~。人さらいの非があるようなので火をつける。しかし火とはひでーな、なんつって。ジャブねジャブ。
 

 女わびて
 →まずここがおかしい。女は被害者の会のはずだが。つまり以下は、予断なくよく考えて欲しい、そういう問題を孕んでいる。
 予断なくとは(先生が言うから、本に書いてあるからと、考えなく)決めつけないように、ということ。
 人は自分の頭で考えることが大事。すでにある見解を機械的に適用し、決まった答えを出すことは厳密には思考ではない。機械と同じ処理にすぎない。
 それで問題ないという人は人でなしとか冷血といい、予断排除の意義も根本的に理解できない(全て予断で判断しているため、問題自体理解できない)。
 さて。
 

 武蔵野は 今日はな焼きそ 若草の つまもこもれり われもこもれり
 

 この歌が問題のようだ。
 この怪しげに繰り返される「こもれり」とはなんぞや。
 え~、大事なことなので繰り返しました。ムシサれないように。
 
 そしてこれ、「こまれり」と直されるようなの。あの人が焼かれると私困っちゃうって。え?なんで?根拠は?情で? いや所詮物語でしょって。
 いやあまりにあんまりでしょ。何の奥行きもない。小学生でもふ~ん?ってなる。だったら最初からこまれりって書くわ。それにこれは伊勢物語よ? 
 ちょーっと古典の元祖をナメすぎでないですか。あ~美しい国か~。こまれりを連発するレベルで1000年も残りますか。あまりに安易ではないですか。
 紫式部は源氏中で伊勢物語を評し、「伊勢の海の深き心」と詠んでるんですよ。海のように深いと。ただの業平翼賛物語がそう評されるわけないでしょう。
 

 つまりですね、「こもれり」は「みごもれり」の暗示なの。
 伊勢の著者が表現を微妙にずらす場合、常に示唆的意味がある。そこが一番大事。しかも繰り返されている。伊勢はそこいらの表面的な文章ではない。
 しかしそういうところから、そもそも理解されていない。
 
 そもそも男が女を盗むとは、そういう目的の行為。だから「つま」も出しているし「われ」は二面的(なんやワレのワレ=あんた。それでわれわれ)。
 このように言葉を本来と違う意外な意味に微妙に掛けて、奥行きをもたせるのが、伊勢物語の真骨頂。
 ほとんどというか、誰もそう読まず、読者の理解で矮小化され、それでなぜかクサされる。それでも盤石で存在するのが、元祖の古典たるゆえん。
 
 困るにも、もちろん掛けているが、それはグ○コのおまけ。
 暗示の方がいつでも重要。それが大人の嗜み。それを知らないのは表面的とか浅いとか、考えなしとか、おかしとかあはれという。
 
 著者が言わんとすることをよく考える。そもそも著者が誰かわかってないのに。反射的に業平業平。だから著者がわからない。これぞ、THE・予断。
 在五が主人公なわけない。在五は蔑称ですよ? 63段見て下さい。中見なくても字面がそうでしょ。それを真逆に曲げるから、全体が曲がってしまう。
 著者は文屋なの。二条の后に近い文屋の物語が業平のものと吹聴されたの。それが現状と同じように扱われ、古今の実態ない業平認定として結実した。
 文屋は判事でもあったから、たまにこうした法的基本問題を題材にしているの(民事では所有と占有、40段58段。40段は、本段とほぼパラレルの話)。
 武蔵野いうのは、東下りの先の陸奥あたりの赴任先の話だからなの。全部すんなり通るじゃない。在五を主人公と決めて見続けるから、無理が出る。
 
 それなのに、伊勢が低俗とか、著者が史実と違うことを書いているとか、こじつけてるとかひどすぎないですか?
 その史実ってなんすか? それこそがこじつけではないですか? 何でも伊勢に一言も書いてない業平認定ありきで話を進めるじゃないですか。
 いや、何も問題ないなら古今に基づいてもいいんですよ。しかし業平認定では悉く無理がでるじゃないですか。ここで考えずいつ考えるの。今でしょ。
 業平は、伊勢に来た二条の后に藤原の氏神だしてクサし(76段)、彼女と知らずに、御前の面前で、車中の后に言寄ったりしてるんですよ(99段)。
 だから熱烈云々は噂で根拠がないというのが6段。そういう伊勢の記述は全部無視。それで伊勢の主人公とみなし続ける。どっちがこじつけなの。
 

 ま、貫之と紫と、定家もわかってくれてるし、とりあえずいいです。
 あとは現代の賢い人がわかってくれればなぁ~。いないかなぁ~。悲しいなあ~。
 
 
 さて、この叫びを聞いて逃げた男は、
 女をばとりて、ともにゐて(に)けりと再びとってかえし、女の手をとって、どっかに行くのである。
 
 しかしまたもや問題だ。主語がないから、追手が女を捕えていくとするのがある。あえていおう、なんでやねん。
 それだと「ともに」の意味が全く不明。ロマンもない、オチもない、カケオチもない。
 
 つまりですね。
 一度捨てた女が、やや!子がおるんやと叫ぶから、とって返し手をとって逃げにけり。そういうこと。文面上の根拠ありますからね?
 それにこうじゃないと筋が通らない。
 ややは、否定と、驚きと、悲嘆と、やや子とかけている。
 これがほんまのややこしい(つまりややこしいの由来は、これしかない)。
 
 そして、この状況をどうみる?
 なぜ男は一度手放した女の手をとっていったのか。それがこの段の腹心。
 文屋はこの時、この情況に心打たれ、あるいは情状を考えた。だからこの物語は、どこぞの淫奔の物語などではありえない。
 お上(国の守or古今の認定)が言うことだから正しいなら自分で判断する意味がない。万一、事実誤認してたらどうなる。それが予断排除の一つの意義。
 誤認しないように頑張る! 誤認など注意していたら起こらない! とかじゃないんだっての。それを無知の無知という。
 

 一つの見方は、この男は女が欲しかったのではなく、実は子が欲しかったのだと。だから女を盗ったと。
 したがって、ここで女を守っているようにみえても、実はそうではないとみる皮肉。そして子をとりあげれば、簡単に捨てるかもしれん。
 という夢も希望もない解釈。
 しかしこれは間違い。間とは愛だ。わかります? たとえ実態がそうでも、その方向は誤り。それが言葉に示された理。
 

 もう一つは、実は二人はノっピきならない進退窮まった関係で、本段はその表れだと。なので一緒に逃げていたが、第三者からみれば盗人だったと。
 そして、娘を置いて逃げたのは、危険(非)にさらすまいとした行為だったと。しかし娘はそれを嫌がった。実は腹に子がいると言って引き留めた。
 「な焼きそ」とは、そいつを焼かないでということに加え、今さらヤケになって行かんといて、最後まで一緒だと。
 男はそれを聞いて、やはり思いなおしたと。「子はかすがい」というやつ。これだとロマンが出るでしょう。
 
 人の娘というからまだ子供、親が通報したと思われる。形式的な咎はあるかもしれないが、処罰するのは人道に反するという問題意識。
 
 この物語は全体に、男女の愛とそれにまつわる苦しみを、必要最小限で描き、和歌る人はいるかと読者を試しているともいえる。
 そしてその読解レベルが、その人の水準。著者の水準ではない。
 文屋を上回るなら、伊勢を上回る古典を生み出せるだろうから、そのレベルなら、読みきれる人もいるのかもしれません。
 
 伊勢は言葉足らずと言われるようだが、説明しても、わかる人にしかわからない。
 いや辛いこと位わかるよ、良くてそんな感じ。最悪は、みな辛いんだ甘えるな、とかになる。それを野蛮という。
 辛さが身に染みた人、身をもって知っている人は、情況だけで痛いほどわかる。ただ、著者の説明はハードルが高かったのかもしれませんね。
 それをわかったのが、貫之と紫、そして定家であった。
 だからいずれも不動の古典を生み出している。これが伊勢のハードル。