当サイトの趣旨と概要

 
 この国で古典文学が成立してから1000年ほど。

 しかしその核心的書物ほど、全く筋が通らない旧来の説にひきずられ、字義から全く離れる解釈が見受けられるので、ここでその解釈を試みようと思う。
 
 それは部分の解釈の次元ではなく、全体を総合した理解。全体構造。世界観。
 すぐ別人の増補とかいうのは、こういう目線がないし、著者への敬意がない。著者の思いを無視した自分達の思い込み解釈、解釈力不足で作品を解体する。
 わずかな末尾の注記や、外部の認定で、全体の成立が左右されることなどない。それが本末転倒。その典型が万葉で、伊勢物語。
 それができるなら写本の過程や、根拠のない他人の思い込みで、成立や著者を簡単に操作できてしまう。
 
 

古事記と万葉(安万侶=人麻呂)


 
 古事記(712年・太安万侶)万侶=人麻呂(字形・アナグラム)。
 帝に近い歌人なので単独勅命を受けた。いわば元明帝との個人的な関係。稗田阿礼は人麻呂同様のダミー。
 公文書的性格ではなく、天皇を天の視点から諌める文脈があからさまな文学作品なので、公向きの日本書紀が出来た。
 
 万葉(1~4巻=原万葉集:712~723年。古事記続編の歌物語。ミュージカル。貴族皇族・庶民の歌とされても基本的に安万侶=人麻呂作)
 5巻:山上憶良歌集。人麻呂没後、人麻呂歌風を完全に無視した付加。恐らく山柿の門の一人。配置からすると赤人の兄弟子。
 万葉(6~16巻:古万葉:山部赤人による人麻呂後継歌集。当初は16巻までしかなかったという指摘も古来よりある)
 17~20巻、各部への付加:大伴家持による万葉簒奪。典型が家持の付け足しによる8巻の四季の配分の乱れ。夏が多数の家持により春と同数になる。
 

 枕草子68段の「集は 古萬葉。古今。」の「古萬葉」は1~16巻。貫之・定家の人麻呂・赤人の別格扱いから、万葉全体の呼称という根拠がない。
 「かの万葉集は歌の源」(新古今)とされるのに家持がそれを編纂したというのはない。全く役不足。
 万葉の名声に相応しいのは人麻呂及び赤人のみ。万葉の構成でも確実にそう言える。
 家持は全体でも部分でもくっついているだけ。しかも先頭と中核と記述の仕方が全く異なる。歌ではない題詞が冗長で、個人の日記調(憶良も同じ)。
 
 

竹取・伊勢・いろは歌:かな文字・かな文学の開祖

 
 
 竹取・伊勢・いろは歌(850~885年頃。文屋作)
 

 竹取は小町をモデルにした文屋の物語。
 縫殿で女達の世話をしていた目線で描かれた。男を拒絶する『小町針』という逸話で縫殿つながりの根拠がある。
 

 伊勢は後宮に仕えた文屋の見聞録で、笑いあり泣きあり怒りあり、喜怒哀楽のミュージカル。
 故郷の話、宮仕えの話、諸国に赴任した時の出会いや、そこで見聞した話。
 女達の話を多く出しても、それは女所に仕えていたからで、全て自身の色恋話だからではない(伊勢96段)。
 

 当時から色々と緩い業平と混同されたので後半の在五以降何度も登場させ、「けぢめ見せぬ心」(伊勢63段)と徹底拒絶、「もとより歌のことは知らざり」ともする(101段)。これだけでも業平を思慕したとか、引用しまくったというのはない。逆。業平と古今が伊勢(無名の文屋)の名声を利用したのである。
 

 筒井の田舎出身で宮仕えに出て(伊勢21~24段)、二条の后(藤原高子)の幼少時から(6段末尾・39段)「二条の后に仕うまつる男」(95段)。
  「身は卑し」(84段)なので無名。なのに後宮で藤原高子に仕えたのは、母が宮で(84段)かつて藤原(10段)だった縁故もあるだろう。そういう説明。
 初段の百人一首14の歌も、81段で左大臣の屋敷で宴会の最後に出現して歌を詠む謎の地下の男の描写と合わせて文屋の代作。
 84段の歌も業平とされるが伊勢の記述と全く整合しない。かたや文屋と見れば多角的根拠をもって通る。業平レベルの根源的問題は何も存在しない。
 

 いろは歌は、色が散った悲恋の恋歌。端的には昔男の郷里の妻が死んだ伊勢24段を受けた歌。吾妻の死を嘆き、身を用なきものと思い東に下ったのである。
 業平の思いつき行楽で、都の妻を突如思い出し泣いた歌が唐衣で傑作というのは、ありえないセンスの見立て。
 この時代、歌は何でも恋歌、色は色恋と決めてみるのに、『いろは』だけ突如仏教の色とするのは根拠がない。仏教色が強まるのは紫の時代以降だろう。
 この緻密な和歌の最高傑作は、普通に考えて和歌を誰より考えた史上最高の実力者が作った。うゐの奥山で有為などと意味不明。憂いでしかありえない。
 

 小町は文屋が作詞した歌の歌手。だから詞書が作品量に比して不自然に一人だけ少ない。かぐやは小町がモデルの話。だから衣通姫のりうという。
 業平は歌の実力を基礎付けるものは何もない。その根拠は伊勢にしかない。そして伊勢は業平の作品ではない。業平は歌をもとより知らない(伊勢101段)。
 だから文屋・小町・敏行(秋下・恋二・物名)のみ巻先頭連続、業平を恋三で敏行により連続を崩す。
 これが貫之が文屋を立てた古今の配置(8・9)。文屋と小町は二人で一人。それが仮名序の一人二人。
 
 

大和物語・土佐日記:伊勢の御と貫之

 
 
 大和物語(~930年頃。伊勢の御。伊勢を強力に受けた後継作品。だから伊勢物語は後宮の女所発祥と言える)
 土佐日記(935年・貫之)
 冒頭「女もしてみむとて」=女も(一緒に)日記をしてみようといって。
 女の私もしてみよう=× 貫之は女ではない。なぜそういう見立てで疑問に思えないのか疑問。
 貫之も男目線から抜け切れなかった、とかいう評は一体何か。自分達の思い込みで貫之をばかにしている。
 

 かな文字は女文字ではない。後にそうなっても、当初からそうだったのではない。
 竹取は女文学か。伊勢は女文学か。905年の古今の女の歌の割合は6%ほどしかない。これで、かなが土佐日記の頃から女の文字だったというのは無理。
 かなが女文字と言えるようになるのは、最低でも1000年頃の源氏・枕草子以降のこと。だからといって当初からそうだったわけではない。
 竹取・伊勢の経緯を無視し、古今の男女比も無視し、万葉の時代から女性もよく詠んでいたというのは無理。それならなぜ独立の作品として残っていない。
 女性の歌となっていても文字通り女が詠んでいたことにはならない。その象徴が女性歌人の象徴たる小町。全く自己主張の要素が皆無の小町。
 彼女は自分ではなく頼まれて読んでいた。そのフィクサーが翁で昔男。それで変な男が群がってきたから逃げた(小町針。伊勢44段:馬の餞)。
 帝のアゴのせいかはわからない。しかし竹取の記述を見れば、そうでもして逃げないと帝は諦めなかった。
 
 

源氏物語:光る君とかがやく日の宮(伊勢竹取の男女)

 
 
 源氏物語は、伊勢と竹取の構図を継承した物語。
 無名の昔男が光る君で、かぐやが「かがやく日の宮」こと藤壺。桐壺冒頭で特別だと説明される二人。
 

 主人公は業平ではないから、主人公の永遠のライバルが中将。
 妻の葵は筒井筒と梓弓を受け若くして早世し、源氏の唯一の正式な嫡出・夕霧は朝康(朝夕の対)。妻の雲居雁と合わせ、影が薄い。
 中将の息子の柏木は棟梁。孫の薫は元方。薫を滑稽に描いて拒絶して物語が終わることは、中将の系列を否定するためにされている。
 それとかつて光って皆をときめかせた主人公がいなくなった後のどうしようもなさ。
 
 これらの人物の符合は、細かな解釈で左右されるレベルではないだろう。
 竹取と伊勢を論じた絵合で、その著者の名の帰属を直接に争わせ、上記の構図を確実なものとしている。
 そこで主人公の絵日記で勝利した前伊勢斎宮陣営に対し、絵を買いあさって負けた中納言(中将)陣営。これはちはやぶるの屏風の揶揄と見るのが自然。
 
 



このホームページはジンドゥーで作成されました

ジンドゥーなら誰でも簡単にホームページを作成できます。レイアウトを選んだら、あとはクリック&タイプでコンテンツを追加するだけ。しかも無料!
ジンドゥー(www.jimdo.com/jp/)であなただけのホームページを作成してください。