平家物語 巻第三 金渡:概要と原文

燈炉之沙汰 平家物語
巻第三
金渡
かねわたし
(こがねわたし)
法印問答

〔概要〕
 
 亡くなった平重盛(清盛の長男)の逸話の続き。重盛は妙典という船頭に頼み「黄金を三千五百両召し寄せて、汝は大正直の者にてあんなれば、五百両をば汝に賜ぶ。三千両をば宋朝へ渡し、(そのうち)千両をば育王山の僧に引き、二千両をば帝へ参らせ」とした。

 この合計三千五百の金額につき、昔の本は「一千二百」から「二千三百」とあってそこから増えてきており、額も巨額でそのままには受け取れない(全注釈)とされるが、現代の代表的平家物語(新旧大系・全集・全注釈)では一致して三千五百であるから、この金額は先の公卿揃における「入道相国うれしさのあまりに、砂金一千両、富士の綿二千両、法皇へ進上せらる。しかるべからずとぞ人申しける」の解釈に根拠を与える記述と解すべきである。つまり清盛の軽重の扱いは正当ではなく、重盛の扱いが正当というのが、ここまでとここでの一貫した文脈(入道相国、小松殿には後れ給ひぬ。よろづ心細くや思はれけん)。

 またこの金渡は、先の無文という章と対で解釈されるべきもの。つまりここでは世に金を渡しつつ、死に際に長男には無文という刀を渡した。つまり余力ある資金は世のために用いないと報いを受け、度が過ぎれば今生で報いを受ける思想。それが本章冒頭「滅罪生善の志深う」。罪は一つに法の無知で犯す過ち。法とは摂理天道。それを認めない無理解が無法者。人を超えた法の支配を認める国は、一代で成っても慈善の文化がある。貧者弱者のように投機的リターンを求めず積極投資する文化がある。民衆から吸い上げるものでありましてという貧者の統治。王道も天道も知る由もない。しかし法=法則は認めなくても作動する。

 


 
 またこの大臣は滅罪生善の志深うおはしければ、「我が朝にはいかなる大善根をし置きたりとも、子孫相続いて、後生を弔はん事も有り難し。他国にいかなる善根をもして、後世を弔はればや」とて、安元の頃ほひ、鎮西より妙典といふ船頭を召しのぼせ、人を遥かにのけて対面あり。
 黄金を三千五百両召し寄せて、「汝は大正直の者にてあんなれば、五百両をば汝に賜ぶ。三千両をば宋朝へ渡し、千両をば育王山の僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、田代を育王山へ申し寄せて、我が後世を弔はせよ」とぞ宣ひける。
 妙典これを給はつて、万里の煙浪を凌ぎつつ、大宋国へぞ渡りける。育王山の芳丈仏照禅師徳光に逢ひ奉て、この由申しければ、随喜感嘆して、千両を育王山の僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、小松殿の申されつるやうをつぶさに奏聞せられければ、帝も大きに感じ思し召して、五百町の田代を、育王山へぞ寄せられける。
 

 されば日本の大臣、平朝臣重盛公の後生善所と祈る事、今に絶えずとぞ承る。
 

(入道相国、小松殿には後れ給ひぬ。よろづ心細くや思はれけん、福原へ馳せ下り、閉門してこそおはしけれ。)
 

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