伊勢物語 15段:しのぶ山 あらすじ・原文・現代語訳

第14段
陸奥の国
伊勢物語
第一部
第15段
しのぶ山
第16段
紀有常

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
 
 
 

あらすじ

 
 
 昔、陸奥の国で、何とも思っていない(?)女の所に通っていた。
 (夜とか寄るとは書いていない。これは、その時はそこまで意識していなかったということ)
 

 しかし女の様子がいつもと違い、何やら怪しげ。
 そこで「人の心の奥を見るべく(?)」と人目をしのび山をはって言うと、とても喜んだ。
 つまりもっと(入って)来てほしかった、進んだ関係になりたかったのだと、理解する。
 

 しかしこのように無邪気な心の、さらに奥まで入ることが、ためらわれた(色々思い始めた)。
 前段からの流れでいえば、男はそこの土地の者ではないから。ずっといるわけではないから。
 
 ~
 

 この後日談が、115段。物語終盤にも、この時のことを思い出す。
 そこで男女は、沖の井辺り(多賀城。昔の陸奥国府)で送別会をする。男が帰る時の話。
 
 15段と115段で、良い子だったと。
 じゃないと、そこまで思い出して書かない。
 
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第15段 しのぶ山
   
   むかし、陸奥の国にて、  昔みちのくにゝて、  昔。男。みちの國へありきけるに。
なでふ事なき人のめに通ひけるに、 なでうことなき人のめにかよひけるに、 なでうことなき人のむすめにかよひけるに。
  あやしうさやうにて あやしうさやうにて あやしくさやうにて
  あるべき女ともあらず見えければ、 あるべき女ともあらず見えければ、 あるべき女にはあらず見えければ。
       

23
 しのぶ山
 しのびて通ふ道もがな
 忍山
 しのびてかよふみちもがな
 忍ふ山
 しのひてかよふ道もかな
  人の心の
  奥も見るべく
  ひとの心の
  おくも見るべく
  人の心の
  奧もみるへく
       
  女かぎりなくめでたしと思へど、 女、かぎりなくめでたしとおもへど、 女かぎりなくめでたしとおもへど。
  さるさがなきえびすごゝろを見ては、 さるさがなきえびす心を見ては、 さるさがなきえびす所にては。
  いかゞはせむは。 いかゞはせむは。 いかゞはせん。
   

現代語訳

 
 

むかし、陸奥の国にて、なでふ事なき人のめに通ひけるに、
あやしうさやうにて あるべき女ともあらず見えければ、

 
 
むかし(△男)、陸奥(△みち)の国にて(△へありきけるに)、
 むかし、むつの国にて
(△塗籠本は「男」をつけているが、男とは書いていない。これには意味がある。女の子の話だから。
 △「ありきける」と付け足し、ありけるとかけているが、これも余計。
 △みちの国は「みちのく」とかかわるわけだが、ここでは、むかし・むつで韻を踏む読みが本来。それが基本)
 

なでふ事なき人のめに通ひけるに、
 特に何とも思っていない(特別な感情はない)人の女に(普通の用で)通っていたが、

なでふ:何という・何ほどの。疑問・反語の語。
 つまり一見思っていないようにしているが、実は思っている。
 つまり、普通の安易な(男女の)文脈ではないが、心の奥底では非常に大切に思って行っている。こうみなければならない。通らない。)
 

あやしうさやうにて
 何やら怪しげな様子で、

あやし:怪し。現代と同じ。

 さやう(然様/左様):そのように
 やしう・さやうと韻を踏み、意味も対比させている。基本的に全ての文章がこのように意図されている)
 

あるべき女とも(△には)あらず見えければ、
 いつもの女性の様子でもないように見えたので
(ある・あらずで対比させ)
 

しのぶ山
しのびて通ふ 道もがな
 人の心の
 奥も見るべく

 
 
しのぶ山
 と
(山をかけて=あぶない賭け。多義的。
 ①以下のように聞くこと、②通っていること、③②の帰結として、ここで女が思っているであろうこと。
 山をはるには根拠がある。)
 

しのびて通ふ 道もがな
 人目をしのんで通う 道だから
(人目は、冒頭の「人の女」とかけて、確実に入れてみる。
 人目を忍んでいるのは、ヤマしいことだからではなく、それが男=著者のならわし(後述の「さが」)だから。例えば、初段・4段など。
 人を見舞って偲んだ4段の西の対・5段の関守の話。それを安易な夜這いにおとしめられて噂されたというのが、6段の芥河の話。
 それだからではないが、人目をはばかるのは、みやびの素養(必ずしも貴族皇族を意味しない)。だからその心得ある人は、常に控えて行動する。
 なお、業平については、65段『在原なりける男』で「人の見るをも知でのぼりゐければ」と明確に説明(否定)されている。一連の行為主体ではないと)
 

人の心の
 人の(しのんで見せない)心の
 

奥も見るべく
 奥も見ようか
(これも多義的だが、見ることは必然という程度。ただし、まだそこまでは踏み込んでいない。繊細な暗示での様子見。しかし、これをうけて)
 

女かぎりなくめでたしと思へど、
さるさがなきえびすごゝろを見ては、いかゞはせむは。

 
女かぎりなくめでたしと思へど、
 女は非常に喜んでいた様子であったが、

めでたし:喜ばしい。すばらしい。見事だ。)
 ああ、やはりそういうことかと(女の方の心の奥は少し見れたかと)。
 その気持ちは嬉しいのだが、
 

さるさがなき
 このように、いたずらに(無邪気に)はしゃいで

さる(然る):そのような。相当な。

 さる(戯る)(暗示):たわむれる。はしゃぐ。才気がある。気が利く。色気がある。しゃれている。

 さがなし(性無し):いたずら・やんちゃ)
 

えびすごゝろを見ては(△所にては)、
 そこまで開けていない(うぶな・純粋な)子の心を見ては、
えびすごころ (夷心):田舎の人の、情趣を解さない心。
 →しかしこの段は反語で始まるのだから、言葉を同時に、多角的に解する必要がある。
 言葉に反応する時点で才気はある。だから通っている。しかしここでは少し安易だと(ただし、この伊勢物語の著者レベルからみればの話)
 

いかゞはせむ(▲は)。
 一体どうしたものだろうか(という男の心の奥底)。
 
 つまり「心の奥を見るか」と言ったところ、女の人がやったあ!と喜んでいるわけだが、仄めかした意味をわかってない。という反応。
 心を見て喜んだら、見えなくなれば(土地の者ではないので)、同じくらい悲しくさせてしまうのではないか?(まして土地の者であった時の、梓弓参照)。
 喜ばせたいのは山々だけども(だから通っている)、無邪気で可愛いとは思うけど、どうにも難しい。というためらい。それを最後の言葉で表現している。
 そういう話と思う。
 
 ひるがえり、最初の何とも思っていない人の所に通っているというのは、世間的な男女の文脈のことで、人の心としてはとても大事にしていたという意味。
 そしてこの女性は、先段で声をかけてきた流れの子とみれる。「人のめ」の見方によってはそう見ないかもしれないが、同時にそうであるとも見れる。
 だから「あやしう」とかの言葉も出てくるのではなかろうか。
 

 つまり、流れの女の子と、流れ者の男の話。
 ゆく河の流れは絶えずして、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
 しかしその記憶はこうして、久しくとどまり続ける。それが永久。自然な流れで自ずととどまる。それが普遍(不変)。