奥の細道 信夫の里:原文対照

白河の関 奥の細道
信夫の里
飯塚の里


『おくのほそ道』
素龍清書原本 校訂
『新釈奥の細道』
   等窮が宅を出でて 等窮か宅を出て
  五里ばかり、檜皮の宿離れて、 五里ばかりの檜皮の宿をはなれて
  浅香山あり。 淺香山有り
     
  道より近し。このあたり沼多し。 路より近し此あたり沼多し
  かつみ刈るころもやや近うなれば、 かつみ刈るころもやゝ近うなれば
  いづれの草を花がつみとはいふぞと、 いづれの草をはなかつみとはいふぞと
  人々に尋ね侍れども、さらに知る人なし。 人々にたつね侍れども更にしる人なし
  沼を尋ね、人に問ひ、 沼をたづね人にとひ
  「かつみかつみ」と尋ね歩きて、 かつみ〳〵と尋ねありきて
  日は山の端にかかりぬ。 日は山のはに一本西山にトアリかゝりぬ
  二本松より右に切れて、 二本松より右にきれて
  黒塚の岩屋を一見し、福島に宿る。 黑塚の窟一見し福島にやどる
     
   明くれば、 明れは
  しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、 しのぶもぢ摺の石をたづねて
  信夫の里に行く。 忍の里に行く
     
  遙か山陰の小里に、 遙山陰の小里に
  石半ば土に埋もれてあり。 石なかば土に埋れてあり
  里のわらべの来たりて教へける、 里のわらべの來て敎へける
  「昔はこの山の上に侍りしを、 むかしは此山の上に侍りしを
  往来の人の麦草を荒らして 往來の人の麥艸をあらして
  この石を試み侍るを憎みて、 此石を試み侍るをにくみて
  この谷に突き落とせば、 此谷につき落せば
  石の面は下ざまに伏したり」といふ。 石の面下さまにふしたり一本ふしたりといふトアリ
  さもあるべきことかな。 さもあるべき事にや
     

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 早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺り  早苗とる 手もとや昔 忍ぶずり
白河の関 奥の細道
信夫の里
飯塚の里

 
 ここでの「しのぶもぢ摺り」は伊勢物語の句(初冠)に由来しており、最後の句の「昔」はその意味。
 

 むかし男初冠して、奈良の京春日の里にしるよしして狩りに往にけり。
その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。
この男かいまみてけり。思ほえず、ふる里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。
男の、着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。
その男、信夫摺の狩衣をなむ着たりける。
 
 春日野の 若紫のすりごろも
 しのぶ乱れ かぎりしられず
 
となむ追ひつきて言ひやりける。
ついでおもしろきことともや思ひけむ。
 
 陸奥の しのぶもぢ摺り誰ゆゑに
 乱れそめにし 我ならなくに

といふ歌の心ばへなり。

 
 この2番目の和歌は源融(河原左大臣)の歌と認定されているが、これは1番目の和歌を詠んだ昔男が陸奥の遙任国守の源融のために代作した和歌と解する(伊勢81段・塩釜で源融の屋敷の宴会の最後に地べたを這って出て来て和歌を詠む無名の翁が出てくる、これが地下の著者=文屋)。源融は現地に赴かない超上流貴族である以上、片田舎の信夫摺の地区の娘への思慕云々という説は根拠に乏しいが、このようなまことしやかな風説が次々出現するのが伊勢物語の通例。

 加えて業平などの貴族はあえて無名にする理由も動機もない。現に業平が出てくる時は、主観の昔男と区別して在五、在原なりける男、右馬頭、等と称されている。第一、衣やその柄に通じる根拠が業平には全くないが(唐衣は女物)、女所の縫殿の文屋にならあるし(狩衣・唐衣という衣の和歌が普通ということはなく、それが伊勢物語の象徴。「しのぶもぢ摺り」も珍しいから歌枕となっている)、二条の后に近かった根拠も、東に下った根拠も、高い文才の根拠も、古今の詞書と現場実務系の経歴と名称が全て符合して唯一文屋にある。しかし業平には事実と整合しない宙に浮いた業平認定しかない。つまり貴族達の都合で竹取的に宮中の暴露話を繰り返す昔男を、丸ごと人格に問題がある業平と認定した(それで貴族社会の面子を保った)。だから筋も解釈も全く通せず、「在五」「けぢめ見せぬ心」という業平の評判通りの記述で業平を思慕した著者と言い張ってきた。

 

 なお、昔男が妻にはしたなく思った「ふる里」は奈良の筒井(伊勢23段・筒井筒)で東北の里という訳ではないが、ここでの信夫の里はそれに掛けられたと見る。つまり信夫摺の由来となった所(ふる里)。