伊勢物語 初段:初冠 あらすじ・原文・現代語訳

原文
全文
伊勢物語
第一部
第1段
初冠
第2段
西の京

 
 目次
 

あらすじ(大意) 大和の昔男の初陣。女達に翻弄され、人知れずその心の歌を詠む物語。
 

原文対照
 

現代語訳(逐語解説)
 

 むかし男文屋(大和の筒井から宮仕えに出た男=卑官=無名) だから最初が奈良。領地を所有する縁→文脈の根拠が全くない思い込み。

 

 しるよし(知る由。訳あって。×領る=外部の業平認定を当然のように持ち込み、文脈と文言無視で伊勢を業平目線で捻じ曲げる曲解の象徴)
 

 なまめいたる(なまめかしい・劣情にかられた)
 

 女はらから(姉妹。故郷の子と迷うだけでなく、姉妹どっちも可愛くて迷った。cf. 69段・狩の使での斎宮と童)
 

 ふる里(古里×故郷=大和×筒井=幼馴染の妻) 伊勢は一体で解釈するように。読者の業平目線で文脈をバラすのは作品の凌辱。在五の63段を直視せよ。
 

 かいまみ(通りすがりチラ見して脳裏に焼き付いた) 家政婦は見た状態にする源氏若紫は紫のパロディー。
 

 はしたなく(自分が。裾=はしたをなくす) 女が田舎に不釣り合いなのではない。古里なのにはしたない! どこのオヤジ?
 

 狩衣の裾切り (114段で仁和帝に狩衣の裾に歌を要望された=伊勢の影響力。後撰は業平没後の行平の歌とし袖に刺繍があったとする凡の捏造)
 

 歌を書きてやる(妻に見せるため。根拠:「信夫」摺。面前の姉妹になら何も忍んでない)
 

 信夫摺の狩衣(衣かつ柄まで語る所が縫殿の文屋の物語。業平にはこうした実質的根拠が全くない。地方の話題も説明できない)
 

若紫のすりごろも(源氏・若紫の元ネタ。根拠:垣間見文脈) 紫の上:伊勢41段(紫・上の衣)。伊勢竹取源氏は三位一体。
 

 追ひつきて言ひやりける(狩の本隊にこんな歌を詠みましたと。書いてやってすぐ女に言った→どこがみやび? 素直な意味を無理に曲げない)
 

陸奥のしのぶもぢ摺り(百人一首14:源融。しかし昔男の代作。根拠:14・15段;陸奥の国・しのぶ山。及び81段で地べたを這ってくる翁)
 

 誰ゆゑに(筒井の妻か、姉妹か、陸奥の女か、自分か、源融か)
 

 昔人(昔男) 徹底して自称自尊しないのが、昔男のスタイル
 

みやび(見や美。初段の行為の総称。自分しかよめない繊細な掛かりの和歌を詠むこと)

 
 

あらすじ

 
 
 昔男が初冠し、初々しく一丁前に一張羅を着て、狩のお供にでた。
 
 その先で、いきなり女(め)に目を奪われ、はしたなく思う(はしたないのは、女でなく男)。
 女はらから(姉妹)で、あっちもこっちも綺麗だな。はしたない自分。
 
 それで着ていた信夫摺の狩衣の裾に歌を書く(はしたをなくす)。
 忍ぶ心とかけ、陸奥の歌(百人一首14)のことを思い出す。
 

 「しのぶもぢずり 誰ゆゑに」 誰って誰? 忍ぶのは誰のため?

 一つに妻のため(筒井筒と梓弓)。だから信夫の文字。当然面前の女性にもそんなことは言えない。

 一つは自分。自分の面子。われならなくに、ってなんなのか。このわれとは誰か? 昔男。加えて、誰で自分のことですと言ったら泣くわという意味。
 一つは源融。その面子。
 
 「ふるさと」は、奈良の古里とかけ、自分の故郷(大和の筒井)をかけている。
 だから「歌をかきてやる」とは、その妻に向けて。

 それを目の前の女性にやるなら、どこにも忍びがない。
 
 垣間みた女性に、おまえに心乱された!という文を渡す奇行に走ると見るのは、全く初々しくないどころか、既に危険なおっさんの発想。
 業平の物語と見るからそうなる。現に「在原なりける男」は後宮で人目もはばからず女につきまとい陳情され流されたと65段にある。
 この段の一般的な解釈を実践してこうなった。
 65段はどう解されるかというと、実は女とは両思いで、面倒な社会のしがらみで流されたと解するのである。まさにそのものの発想では?
 

 これは文屋の物語。縫殿に仕えたから女の話を沢山出している。卑官だから匿名。65段を女所内部目線で描いているのは、そこで勤めていたから。
 むかし男は大和の筒井出身で、親を亡くした幼馴染の妻を養えず、宮仕えに出た(23段24段)。
 そしてそれらの情況はこの初段と符合しているし、相容れない要素は何もない。かたや業平は奈良に何か関係があるのか。領地とするのは字義でも文脈でも根拠がない。
 
 しるよしして(狩りに往にけり)は、知る由して。大人の人なら知っているように。しかしそんなことを他人は知る由もないというギャグ。
 だから領るとかになるのである。領るって何かな~。どうして文字を素直に読めないのかな~。そんな読みはないって大人なのにわからないのかな~。
 
 陸奥の歌は文屋の代作。陸奥の国としのぶ山。14段と15段。いずれも陸奥で出会った女の話。源融は陸奥に行ってない。陸奥とくればしのぶを導く? どうみても固有の詞である。これもお決まりだが、伊勢に書いてあるからと反射的に一般化しないように。伊勢を侮辱している。

 81段の六条の河原屋敷の宴会で、最後に地べたを這って出てきて、歌をトリで詠む謎の翁の話は、文屋の代作を暗示している。
 殿上に対し地下を象徴。これは身はいやしとする昔男の一貫した描写と符合する。業平の物語と見るなら、81段の表現は一体何なのか。
 六条河原屋敷といえば、源氏の総本山とされた場所であり、相当に重みのある段である。業平がそこにどう関係する? 無関係?
 
 人目忍ぶのは昔男のポリシー。だから徹頭徹尾匿名。それが在五なら、在五を出した後も昔男にする意味が全くないし、そもそも在五は蔑称。だから大和や更級では在中将としているのである。源氏の絵合は在五中将としているが、それは主人公の名を浅はかなあだなる業平の名と、伊勢の海の深き心、ふりにし伊勢の海人(生み人=無名の昔男)の名を争う内容である。
 竹取の天の高さと対比された伊勢の海の深き心、誰にも計り知れない、底が知れない。それが最高実力者紫の伊勢評である。

 伊勢の古今に占める圧倒的な詞書を、貴族目線で理解できるようにおとしこむため(自分達は理解している、解説できるんだと)、業平のものとれた。だからアホの子業平にしては不思議と中々やるなという謎の上から目線の評がある。だからそのレベルのしょうもない解釈、単体でも伊勢全体でも、筋を全く通せない支離滅裂な解釈が限界なのである。
 
 

原文対照

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第1段 初冠
   
 むかし、男  むかし、おとこ、  むかしおとこありけり。
  初冠して、 うゐかうぶりして、 うゐかぶりして。
  奈良の京春日の里に、 ならの京、かすがのさとに、 ならの京かすがの里に
  しるよしして、狩りに往にけり。 しるよしゝて、かりにいにけり。 しるよしして。かりにいきけり。
 
  その里に、いとなまめいたる女 そのさとに、いとなまめいたるをむな 其さとに。いともなまめきたる女
  はらから住みけり。 はらからすみけり。 ばら[女はらからイ]すみけり。
  この男かいまみてけり。 このおとこかいまみてけり。 かのおとこかいま見てけり。
  思ほえず、ふる里に おもほえずふるさとに おもほえずふるさとに。
  いとはしたなくてありければ、 いとはしたなくてありければ、 いともはしたなくありければ。
  心地まどひにけり。 心地まどひにけり。 心ちまどひにけり。
 
  男の、着たりける狩衣の おとこのきたりけるかりぎぬの 男きたりけるかりぎぬの
  裾を切りて、 すそをきりて、 すそをきりて。
  歌を書きてやる。 うたをかきてやる。 うたをかきてやる。
  その男、 そのおとこ、 そのおとこ
  信夫摺の狩衣をなむ着たりける。 しのぶずりのかりぎぬをなむきたりける。 しのぶずりのかりぎぬをなんきたりける。
 
♪1  春日野の
 若紫のすりごろも
 かすがのゝ
 わかむらさきのすり衣
 かすかのゝ
 若紫の摺ころも
  しのぶの乱れ
  かぎりしられず
  しのぶのみだれ
  かぎりしられず
  しのふのみたれ
  かきりしられす
 
  となむ追ひつきて言ひやりける。 となむをいづきていひやりける。  となん。をいつぎてやれりける。
  ついで
おもしろきことともや思ひけむ。
ついで
おもしろきことゝもやおもひけむ。
となんいひつぎてやれりける
おもしろきことゝや。
 
♪2  陸奥の
 しのぶもぢ摺り誰ゆゑに
 みちのくの
 しのぶもぢすりたれゆへに
 陸奧に
 忍ふもちすりたれゆへに
  乱れそめにし
  我ならなくに
  みだれそめにし
  我ならなくに
  亂れそめけん
  我ならなくに
 
  といふ歌の心ばへなり。 といふ哥のこゝろばへ也。  といふうたのこゝろばへなり。
  昔人は、 むかし人は、 むかし人は。
  かくいちはやきみやびをなむしける。 かくいちはやき、みやびをなむしける。 かくいちはやきみやびをなんしける。
   

現代語訳

 
 

むかし男=文屋=大和の筒井の里から宮仕えに出た男=卑官=無名

むかし、男初冠して、
奈良の京春日の里に、しるよしして、狩りに往にけり。

 
むかし男、初冠して
 昔男が、初冠をして
 
 初冠。男の成人儀式。
 12-16歳(諸説あり)とされている。つまり形式ばったものではない。
 一丁前になり一張羅を颯爽と着て早速切る話。大人になってボウをかぶるとはこれいかに。この帽ダサない?
 

 昔男は著者で文屋

 業平認定には以下のような実質的な根拠が全くない。事実の根拠なく一方的にみなしているだけ。ここまで影響力ある作品を、古今で圧倒的詞書比率を有する作品(詞書上位10首中6首伊勢、20首中10首伊勢。20首の中、他の複数は2首の遍照しかない。つまり最も重んじられ解説された作品)を、非貴族の作と認めるわけにはいかなかったからである。だから伊勢を業平目線で自在に前後左右させ、貴族目線の人としてけじめのない内容に貶め、筋を滅裂に破壊し、本筋に全く関係ない他人の歌を勝手に挿入したりする(塗籠本)。
 文屋は縫殿にいたから狩衣という服の話から始まる。ふくからに。狩衣や唐衣、羽衣もそう。伊勢16段の羽衣は、竹取の暗示で、その著作を示唆している(「これやこの天の羽衣むべしこそ君が御衣と奉りけれ」。よろこびに堪へで)。

 竹取も文屋の作。小町も縫殿にいたから小町針。小町針は言い寄る男達を断固拒絶する話で、これがかぐやのモデルであり、だから貫之は小町を衣通姫(光を放つ=かぐやも光を放つ)のりうとし、文屋と小町を東下りの三河でセットにしたのであり、筒井筒の歌を突出した古今最長の詞書にしたのである(2位は東下り、3位は万葉末期の仲麻呂。つまり貫之ら古今世代より前の本を参照したという意味である。この厳然として一貫した配置を曲げて、ここだけ後日の左注と曲げだすのは学問的態度といえないし、何より筋が通ってない。貫之は文屋を重んじ、業平は排斥している。それは古今8・9(文屋・貫之)の配置と在五の63段に掛けた業平の53・63から明らかで、加えて、文屋・小町・敏行(秋下・恋二・物名)のみ巻先頭連続、業平を恋三で敏行(義弟)により連続を崩す。この分野選定と人選に意味を見れないのは和歌の完全素人。伊勢を論じる資格がない。個別の文言解釈の次元ではない)。

 
 12段(武蔵野)昔男が女を盗んで追われる罪人として他人目線で描かれるが、それは唯一の例外。
 まだ物語の方向性が明確に定まっておらず、一般名詞として用いた。
 それは明らかに文屋が判事であった時、武蔵で見聞したエピソード。予断排除など、刑事手続の法的論点を含む話題である。法的論点も伊勢の特徴。
 様々な田舎の男女の話を、京の中枢の上流貴族が書いていると想定するより、下級官吏の作品と見るのが、よほど自然な認定。だから無名なのである。

 12段の男は、女を盗んで追われて途中で女を捨てたように見えたが「妻もこもれり、われもこもれり」という女の謎発言を受けて男はとってかえして女の手をとって行った。つまりこれは「われ」とはアンタの意味を含ませているのであり、こもれりは、基本的に身ごもれりである。それで女を見捨てないで一緒に行った。しかし昔男(文屋)は、妻を置いて行った(筒井筒・梓弓)。

 だから41段(紫・上の衣)でも武蔵野の心なるべし、これが男気だよね、と褒めているのである。
 
 それ以降の「むかし男」は、全て著者を表わし、本段のように一見他人のようにしつつ、明らかに自分の心情を描いている。
 在五や在原なりける男は、明確に他人目線で描いているし、かつ非難している。在五と出しつつ、なお「むかし男」とし続ける意味も全くない。だから伊勢の昔男は業平ではありえない。業平の歌でもありえない。業平の歌という根拠が、裏付ける実態が何一つない。他方で、文屋には盤石の根拠がある。歌の実力も、知的な言語センスも。
 

奈良の京、春日の里に
 

 

しるよし


 しるよしして
 知る由して、

 知る由もなく、と対比した言葉。
 大人の皆さんなら当然知っているようにという含み。

 学者の誰もが意味をとれなくても、これが伊勢の作法である。意味をとれないのは、これが言葉遊びと分かるレベルではないである。ネタにマジレスするレベルだからである。

 それが源氏の絵合でいう「伊勢の海の深き心」の片端も見れず、業平のものだという「浅はかなる若人ども」。
 

 通説は「しる」に「領る」と当て、領地を所有する縁があってとするが100%誤り。この部分を出典にする辞書の定義が誤り。業平ありきの思い込み解釈。何より、領を「しる」と読むのが無理。

 徒然236段(丹波に出雲)にも「領る」を適用する教科書があったが、それが明らかに「知る」「知らない」を対比した文脈で(しだのなにがしとかやしる所なれば)、あえて領地とする文脈は全くない。だから「領る」という見立てそのものが誤り。

 なお、徒然は以下の文脈からしても明らかにふざけた文脈である。よーわからんけど凄いらしいから遊びに行こう。そういう文脈である。「丹波に出雲といふ所あり。大社をうつして、めでたくつくれり。しだのなにがしとかやしる所なれば、秋のころ、聖海上人、そのほかも、人あまた誘ひて、「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」と」
 「かいもち」もお決まりのギャグである。
 

 字義に領るという用法はなく、かつ文脈にも全く根拠がない。文脈に根拠がない解釈を、伊勢外部の認定を当然のように根拠にして補ってはならない。伊勢は在五をけぢめ見せぬ心と他人目線で非難している(63段)。この初段は明らかに主観だろう。だから日記という呼称があるのである。
 
 「むかし男」の父はなほ人(=ただの人、母は宮とあり皇族ではない意味)、それと符合し「身はいやし」という説明がある(10段84段)。
 それを裏づける伊勢で最も歌が厚い部分の、筒井筒と梓弓。田舎から宮仕えに出た男。二条の后に仕うまつる男(95段)、それが文屋。古今においても二条の后の完全オリジナルの詞書を持つのは文屋のみ。なんでこれで完全にスルーできるのか、理解に苦しむ。
 
 

狩りに往にけり
 狩りに行ったのであった。
 
 

なまめいたる

その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。

 
その里に
 その春日の里に、
 

いとなまめいたる
 とてもなまめかしくしている
 
 普通になまめかしいという意味で良い。目を奪われる文脈からそれで通る。
 なまめいたるは造語(伊勢語)だろう。なまめきといたる(そうしている)という意味を掛けて。
 

 なまめかしの一般の定義は以下の通り。
 ①あでやかで美しい。
 ②落ち着いた気品があり、色気漂うさま。
 ③優雅で気品がある。清新でみずみずしい。若々しい

(①②は一般的説明、③は源氏の解釈からの出典)

 
 ここまで区分する意味があるのか不明。
 

女はらから


 女はらから住みけり
 姉妹が住んでいた。
 
 はらからは、同じ腹からの兄弟姉妹。同母かどうかは文脈上当然確定できないが、似ていたという意味に解する。
 
 ここで二人にしているのは、あの人も綺麗、この人も綺麗で目を奪われたから。
 それが一つのはしたなさ。
 はらから、は血の繋がりをあえていう単語であるから、禁忌を示唆するのである。手を出せない。まともな感性があるものなら。
 
 

かいまみ

この男かいまみてけり。
思ほえず、ふる里にいとはしたなくてありければ、
心地まどひにけり。

 
この男かいまみてけり
 この男これをかいま見てしまい
 

 これが有名な垣間見る。狩りについて行ってる途中、チラっと見えた。

 

 源氏では、源氏と子分のコレミツが、垣間から若紫を、家政婦のようにミタするが、これは彼女なりの伊勢をパロッたギャグである。どう見ても滑稽だろう。そしてこの伊勢初段の「若紫のすりごろも」を当然受けている。

 かいまみたは、一瞬見えたという意味である。悦子のようにジッと見るのではない。

 擬古物やら古文常識やらで、さも当然のように垣間見でアプローチするというが、ナンセンスでしかない。覗いてくる男、気持ち悪くないか。それが常識。
 

ふる里


思ほえず 
 思いもよらず、
 

ふる里に 
 故郷に、
 

はしたなく


 いとはしたなくてありければ
 とてもはしたなくなったので、
 

心地まどひにけり
 心地が惑うようであった。
 
 古里に似つかわしくない、はしたない女というのはありえない。それ自体で意味不明で危うさすら感じる。
 自分の故郷にいるこの人しかいないと思った相手への申し訳なさで、はしたなく思った。そういうこと。
 それが思いもよらず。この人しかいない、というのは筒井筒の有名な表現。
 

 「はしたない」(現代):不作法。つつしみがなく、見苦しい。

 「はしたなし」(古語):現代のはしたないと同義。別に解する意味がない。
 

 これを「不似合い。どっちつかずで落ち着かない。中途半端」などとするのは、中途半端の定義。

 はしたない対象を勘違いしているから「どっちつかずで落ち着かなく」なる。
 
 
 

狩衣の裾を切り

男の、着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。

 
男の、着たりける狩衣の
 男が着ていた狩衣の
 

裾を切りて
 裾を切って
 
 裾が端(はした)で、はしたなし。
 
 その暗示。直接書かずに、こうした暗示にする、これが昔人のするみやびなのである。
 これは日本でいえば古事記。
 はしたをなくして歌を送ったその行為がみやびなのではない。
 そう見ても別にいいけども、暗示にしていることが、より概念的で繊細な意味でのみやび。
 

歌を書きてやる


歌を書きてやる
 歌を書いてやる。
 
 やるとは、誰に? 自分の故郷の女(大和の筒井の妻)に書くということ。その根拠が「信夫」摺。
 
 目の前の女性に書いてやるのでは何一つ忍んでいない。文脈がおかしいだろう。だから解釈しなければならない。業平だからそういうもんだではない。伊勢の著者は在五を、女に対し思うも思わぬも「けぢめ見せぬ心」と非難しているのである。けぢめを見せぬ心の奴は絶対認めない。それが伊勢の著者の基本スタンス。何が筒井筒の女が困窮したら河内の女に通っただ。人としてありえないんだよ。河内の「女」とは一言も書いていない。仕事。女が貧しくなったから、別れを惜しんで宮仕え(出稼ぎ)に出た。それが厳然として確実な文脈。
 
 
 

信夫摺の狩衣

その男、信夫摺の狩衣をなむ着たりける。

 春日野の 若紫の すりごろも
 しのぶの乱れ かぎりしられず

となむ追ひつきて言ひやりける。

 
その男、信夫摺の狩衣をなむ着たりける 
 その男は、信夫摺の狩衣を着て来ていた。
 

若紫のすりごろも


春日野の 若紫のすりごろも 
 

しのぶの乱れ かぎりしられず
 忍ぶ乱れは 限り知られない。
 
 信夫と忍ぶをかけるのは当然。
 ここでは限り知れないではなく、限り「知られない」。
 

追ひつきて言ひやりける


となむ追ひつきて  
 と(狩の本隊に)追いついて、
 
 すぐに(姉妹に恋文を渡した)、という何一つ忍んでない意味ではない。正気なのか。

 狩にいにける最中に、姉妹をかいまみて心を乱していたので、そこに戻ったのである。
 

言ひやりける
 言ったのであった。
 
 この「やりける」は前の「書きてやる」と対置しているが、やるの対象は違う。こういう多義的用法・言葉遊びが、伊勢の基本ルールである。いたずらに変えて変えているわけではない。そのままの流れで見たら通らない、だから解釈しないといけない。解釈とは文脈が通るようにすることで、従前の流れにこじつけることではない。つまり読者の解釈能力を試している問題集である。一般的字義から離れ、かつ文脈を無視しているのはアウト。誤り。その典型が「領る」。
 こんな歌を詠んで遅れたと言うが、事情まで説明しない。これが「しられず」の心。
 
 

陸奥のしのぶもぢ摺り

ついでおもしろきことともや思ひけむ。

 陸奥の しのぶもぢ摺り 誰ゆゑに
 乱れそめにし 我ならなくに

(古今727、百人一首14、河原左大臣=源融)

といふ歌の心ばへなり。

 
 ※貫之が伊勢を特別視していることは詞書から明らか。詞書1位筒井筒、2位東下り、3位仲麻呂の歌。仲麻呂の歌は土佐で貫之が特に重視した歌であり、渚の院の歌も土佐で参照している(伊勢で右馬頭なりける人=業平と明示された歌で、昔男の歌にしていないところがポイント)。
 百人一首14の選定もその意味。つまり伊勢以外の歌にしていない。
 続く15の光孝の歌が代作ということもその裏づけ(君がため)。伊勢で光孝が出てくる114段ともリンクしている。
 しかしそれ以前に15は「君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ」とあり、本段「春日野の若紫のすりごろも」とリンクしている。
 伊勢の写本の大家の定家が伊勢初段を意識しないことはない。
 

 
ついで
 

おもしろきことともや
 面白いこととだなと
 

思ひけむ
 思った。
 

誰ゆゑに


 陸奥の しのぶもぢ摺り 誰ゆゑに
 

乱れそめにし 我ならなくに
 

といふ歌の心ばへなり
 という歌の心栄えのことである。
 
 心栄えとは、出来栄えと心を掛け合わせた造語と思う。
 
 この歌の心とは「誰ゆえに」であり、一番問題となるのは「我ならなくに」という一見意味不明な言葉である。
 こういう意味不明な言葉は、直接言えないからこうしている。格好つけた技巧でそうしているのではない。
 オレならそうしない(オレのことじゃないけど)。例えばそうは書けませんね。
 しかるに「我のことではなく」として(忍んで)いるので、我のことなのである。
 そうやって詠んでいる時点で、実は忍んでいないのだなあと。これが「おもしろきこと」こと。
 

昔人=昔男

昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。

 
昔人は 
 昔の人は、

 これは三通りの見方がある。
 1昔男 2古代人 3源融
 
 2とみせかけ、1のこと。
 つまり男はマン。つまり人という意味。むかし男=昔人。そういうトンチ。
 それに英語と関係なくても、男は一般代名詞で使っている。
 しかし昔男とは著者のことである。そして昔人という一般的でない言葉なので著者のこと。
 自画自賛だが、忍んでいるでしょ? そういう上記のトンチと掛けたオチ。
 
 3は1が代作しただけなので違う。
 

みやび


かくいちはやきみやびをなむしける 
 このような、いち早いみやびをしていたのであった。
 

「みやび」は見や美。美をめでること。
 雅は、上品・正しい・もともと。
 
 しかしどちらがみやびかといえば、上ではないでしょうか。
 

 このように一見すると普通の人にはわからない繊細な機微を楽しむ、それがみやびである。

 

 一般の解釈は何も美しくない。人として乱れている。

 初見の姉妹に欲情し、業平的にはしたない!と逆上しつつ、心乱されたわ!という文を渡し、さすが昔はみやびだなあ、となる。これが当時からのとんでもない読解力。何よりそれを疑問に思えず、思慕しているとか、主人公の面影とか言い出す脳内回路。みな一斉に従っておかしいと思う者がない。体制に都合の良い解釈を与えてやれば、それがどんなに筋が通ってなくても、そういうものだと思い込む。与えらえた結論の理由づけに一生懸命・真面目にいそしむ。それがこの国の知的水準。真っ当な結論自体を自分で導き出すことはできない。それが証明されただろう。それができたのは、貫之と紫レベルだけ。