平家物語 巻第十一 遠矢 原文

鶏合 壇浦合戦 平家物語
巻第十一
遠矢
とおや
異:先帝身投
先帝身投

 
 源氏の方には、和田小太郎義盛、船には乗らず馬にうち乗つて汀にひかへたりけるが、馬のふと腹つかる程に打ち入り、鐙の踏みそらし、平家の勢の中を、さしつめひきつめ散々に射ければ、三町が内外の者をば、はづさず強う射けり。
 その中に、ことに遠う射たると思しき矢をば、「その矢賜はらん」とぞ招きける。新中納言知盛卿、この矢を抜かせて見給へば、しらのに鶴の本白、鵠の羽わり合はせてはいだる矢の、十三束三伏ありけるに、沓巻より一束ばかりおいて、和田小太郎平義盛と漆にてぞ書き付けたる。
 平家のかたにも精兵おほしといへども、さすが遠矢射る者やなかりけん。ややあつて、伊予国の住人、仁井紀四郎親清、この矢を賜はつて射返す。これも三町余をつと射渡いて、和田が後ろ一段ばかりにひかへたる三浦の石左近太郎が弓手のかひなに、したたかにこそ立つたりけれ。
 三浦の人ども寄り合うて、「あなにくや、和田小太郎が、我に過ぎたる精兵なしと心得て、恥かいたるをかしさよ」と笑ひければ、義盛、安からぬことなりとて、今度は小舟に乗つて漕ぎ出だし、平家の勢の中を、さしつめ引きつめ散々に射ければ、多くの者ども手負ひ射殺さる。
 

 沖の方よりまた、判官の乗り給ひたる船に、しらのの大矢を一つ射立て、和田がやうに、「その矢賜はらん」と招きけり。判官、後藤兵衛実基を召してこの矢抜かせて見給へば、しらのに山鳥の尾をもつてはいだる矢の、十四束三伏ありけるに、伊予国の住人、仁井四郎親清と、漆にてぞ書き付けたる。
 判官、「味方にこの矢射つべき仁は誰かある」と宣へば、「上手いくらも候ふ中に、甲斐源氏に、浅利与一殿こそ、精兵の手利きでましまし候へ」。「さらばよいちよべ」とて呼ばれたり。浅利与一出で来たり。
 「奥よりこの矢を射て候ふが、返し給はらんと招き候ふ。御辺あそばされ候ひなんや」と宣へば、「給はつて見候はん」とて、取つてつまよつて、「これはのが少し弱う候ふ。矢づかも少し短う候ふ。同じうは義成が具足でつかまつり候はん」とて、塗りのに黒ぼろはいだる矢の、我が大手におし握つて、十五束ありけるを、塗篭籐の弓の九尺ばかりありけるに取つてつがひ、よつぴいてしばし固め、これは四町余をつと射渡いて、大船の舳に立つたる仁井紀四郎親清が真つただ中をひやうつばと射て、船底へまつさかさま射倒す。
 もとよりこの浅利与一は、精兵の手利きなり。二町が内に走る鹿をばはづさず、強う射けるとぞ聞こえし。その後は源平の兵ども、互に命も惜しまず攻め戦ふ。
 

 されども平家の御方には、十善帝王、三種の神器を帯して渡らせ給へば、源氏いかがあらんとあやふう思ふ所に、しばしは白雲かと思しくて、虚空にただよひけるが、雲にてはなかりけり。主もなき白旗一流れまひさがつて、源氏の船の舳に棹付けのをのさはるほどにぞ見えたりける。
 

鶏合 壇浦合戦 平家物語
巻第十一
遠矢
とおや
異:先帝身投
先帝身投