源氏物語 13帖 明石:あらすじ・目次・原文対訳

須磨 源氏物語
第一部
第13帖
明石
澪標

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 明石のあらすじ

 三月上巳の日、海辺で祓えを執り行った矢先に恐ろしい嵐が須磨一帯を襲い、源氏一行は皆恐怖におののいた(須磨末尾)。

 連日のように続く、豪風雨。眠れぬ日々を過ごす源氏一行。ある晩、二条院から紫の上の使いが訪れ、紫の上からの文を読んだ源氏は都でもこの豪風雨が発生している事を知る。この悪天候のため、厄除けの仁王会が開催されることになり、都での政事は中止されていることが使いの口から明らかにされた。都に残してきた家族を案ずる、源氏たち。源氏はかつて、出会って間もない頃に幼い紫の上が住んでいた邸で、宿直(とのい)した事を思い出していた。

 須磨は激しい嵐が続き、光源氏は住吉の神に祈ったが、ついには落雷で邸が火事に見舞われた。嵐が収まった明け方、源氏の夢に故桐壺帝が現れ、住吉の神の導きに従い須磨を離れるように告げる。その予言どおり、翌朝明石入道が迎えの舟に乗って現れ、源氏一行は明石へと移った。

 入道は源氏を邸に迎えて手厚くもてなし、かねて都の貴人と娶わせようと考えていた一人娘(明石の御方)を、この機会に源氏に差し出そうとする。当の娘は身分違いすぎると気が進まなかったが、源氏は娘と文のやり取りを交わすうちにその教養の深さや人柄に惹かれ、ついに八月自ら娘のもとを訪れて契りを交わした。この事を源氏は都で留守を預かる紫の上に文で伝えたが、紫の上は「殿はひどい」と嘆き悲しみ、源氏の浮気をなじる内容の文を送る。紫の上の怒りが堪えた源氏はその後、明石の御方への通いが間遠になり明石入道一家は、やきもきする。

 一方都では太政大臣(元右大臣)が亡くなり、弘徽殿大后も病に倒れて、自らも夢で桐壺帝に叱責され眼病を患い、気弱になった朱雀帝はついに源氏の召還を決意した。息子の決断に弘徽殿大后はショックを受け、「ついに源氏を追い落とせなかった」と悔し泣き。晴れて許された源氏は都へ戻ることになったが、その頃既に明石の御方は源氏の子を身ごもっており、別れを嘆く明石の御方に源氏はいつか必ず都へ迎えることを約束するのだった。

(以上Wikipedia明石(源氏物語)より。色づけは本ページ。冒頭段のみ須磨で説明されていたので、こちらに挿入している)
目次
和歌抜粋内訳#明石(30首:別ページ)
主要登場人物
 
第13帖 明石
 光る源氏の
 二十七歳春から二十八歳秋まで、
 明石の浦の別れと政界復帰の物語
 
第一章 光る源氏 須磨の嵐と神の導き
第二章 明石の君 明石での新生活
第三章 明石の君 結婚の喜びと嘆き
第四章 明石の君 明石の浦の別れの秋
第五章 光る源氏 帰京と政界復帰
 
 
第一章 光る源氏の物語
 須磨の嵐と神の導きの物語
 第一段 須磨の嵐続く
 第二段 光る源氏の祈り
 第三段 嵐収まる
 第四段 明石入道の迎えの舟
 
第二章 明石の君の物語
 明石での新生活の物語
 第一段 明石入道の浜の館
 第二段 京への手紙
 第三段 明石の入道とその娘
 第四段 夏四月となる
 第五段 源氏、入道と琴を合奏
 第六段 入道の問わず語り
 第七段 明石の娘へ懸想文
 第八段 都の天変地異
 
第三章 明石の君の物語
 結婚の喜びと嘆きの物語
 第一段 明石の侘び住まい
 第二段 明石の君を初めて訪ねる
 第三段 紫の君に手紙
 第四段 明石の君の嘆き
 
第四章 明石の君の物語
 明石の浦の別れの秋の物語
 第一段 七月二十日過ぎ、帰京の宣旨下る
 第二段 明石の君の懐妊
 第三段 離別間近の日
 第四段 離別の朝
 第五段 残された明石の君の嘆き
 
第五章 光る源氏の物語
 帰京と政界復帰の物語
 第一段 難波の御祓い
 第二段 源氏、参内
 第三段 明石の君への手紙、他
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
二十七歳から二十八歳
呼称:源氏の君・君・男
頭中将(とうのちゅうじょう)
故葵の上の兄
呼称:三位中将・宰相
桐壺院(きりつぼのいん)
光る源氏の父
呼称:故院・帝王・父帝・帝・院の帝・院
朱雀帝(すざくてい)
光る源氏の兄
呼称:主上・帝・当代・主上・内裏
弘徽殿大后(こうきでんのおおぎさき)
朱雀帝の母后
呼称:后・宮・大宮
藤壺の宮(ふじつぼのみや)
東宮の母
呼称:入道の宮
紫の上(むらさきのうえ)
光る源氏の妻
呼称:二条院・二条の君・女君
明石の君(あかしのきみ)
明石入道の娘
呼称:娘・女・明石
明石入道(あかしのにゅうどう)
明石の君の父
呼称:前の守新発意・明石入道・入道・主人の入道

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンク先参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 
 

原文対訳

  定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  明石
 
 

第一章 光る源氏の物語 須磨の嵐と神の導きの物語

 
 

第一段 須磨の嵐続く

 
1  なほ雨風やまず、雷鳴り静まらで、日ごろになりぬ。
 いとどものわびしきこと、数知らず、来し方行く先、悲しき御ありさまに、心強うしもえ思しなさず、「いかにせまし。
 かかりとて、都に帰らむことも、まだ世に許されもなくては、人笑はれなることこそまさらめ。
 なほ、これより深き山を求めてや、あと絶えなまし」と思すにも、「波風に騒がれてなど、人の言ひ伝へむこと、後の世まで、いと軽々しき名や流し果てむ」と思し乱る。
 
 依然として雨風が止まず、雷も鳴り静まらないで数日がたった。
 ますます心細いことは際限もなくて、過去も未来も悲しいお身の上で、気強くもお考えになることもできず、「どうしよう。
 こんなだからといって、都に帰るようなことも、まだ赦免がなくては、益々物笑いになることだろう。
 やはり、ここよりも深い山を求めて、姿をくらましてしまおうか」とお思いになるにつけても、「波風に脅かされてなどと、人が言い伝えるようなことは、後の世にまで、たいそう軽率な浮き名を流してしまうことになろう」とお迷いになる。
 
2  夢にも、ただ同じさまなる物のみ来つつ、まつはしきこゆと見たまふ。
 雲間なくて、明け暮るる日数に添へて、京の方もいとどおぼつかなく、「かくながら身をはふらかしつるにや」と、心細う思せど、頭さし出づべくもあらぬ空の乱れに、出で立ち参る人もなし。
 
 夢の中にも、まるで先夜と同じ恰好をした物ばかりが現れては現れて、自分にお付きまとい申すのを御覧になる。
 雲の晴れ間もなくて、明け暮らす日数が過ぎていくにつれ、京の方面もますます気がかりになって、「こうしたまま身を滅ぼしてしまうのだろうか」と、心細くお思いになるが、頭をさし出すこともできない空の荒れ具合に、やって参る者もいない。
 
3  二条院よりぞ、あながちにあやしき姿にて、そほち参れる。
 道かひにてだに、人か何ぞとだに御覧じわくべくもあらず、まづ追ひ払ひつべき賤の男の、むつましうあはれに思さるるも、我ながらかたじけなく、屈しにける心のほど思ひ知らる。
 御文に、
 そこに、二条院から無理をしてみすぼらしい姿で、ずぶ濡れになって参ったのだ。
 道ですれ違っても、人か何物かとさえ御覧じ分けられないような、早速追い払ってしまうにちがいない賤しい男を、慕わしくしみじみとお感じになるのも、自分ながらももったいなくも、卑屈になってしまった心の程を思わずにはいられない。
 お手紙に、
4  「あさましくを止みなきころのけしきに、いとど空さへ閉づる心地して、眺めやる方なくなむ。
 
 「驚くほどの止むことのない日頃の天気に、ますます空までが塞がってしまう心地がして、物思いの晴らしようがございません。
 
 

218
 浦風や いかに吹くらむ 思ひやる
 袖うち濡らし 波間なきころ」
  須磨の浦ではどんなに激しく風が吹いていることでしょう
  心配で袖を涙で濡らしている今日このごろです」
 
5  あはれに悲しきことども書き集めたまへり。
 いとど汀まさりぬべく、かきくらす心地したまふ。
 
 しみじみとした悲しい気持ちがいっぱい書き連ねてある。
 ますます涙があふれてしまいそうで、目の前がまっ暗になる気がなさる。
 
6  「京にも、この雨風、あやしき物のさとしなりとて、仁王会など行はるべしとなむ聞こえはべりし。
 内裏に参りたまふ上達部なども、すべて道閉ぢて、政事も絶えてなむはべる」
 「京でも、この雨風は、不思議な天の啓示であると言って、仁王会などを催す予定だと噂していました。
 宮中に参内なさる上達部なども、まったく道路が塞がって、政道も途絶えております」
7  など、はかばかしうもあらず、かたくなしう語りなせど、京の方のことと思せばいぶかしうて、御前に召し出でて、問はせたまふ。
 
 などと、はきはきとでなく、たどたどしく話すが、京のこととお思いになると知りたくて、御前に召し出して、お尋ねあそばす。
 
8  「ただ、例の雨のを止みなく降りて、風は時々吹き出でて、日ごろになりはべるを、例ならぬことに驚きはべるなり。
 いとかく、地の底徹るばかりの氷降り、雷の静まらぬことははべらざりき」
 「ただ、例によって雨が小止みなく降って、風は時々吹き出して、数日来になりますのを、ただ事でないと驚いているのでございす。
 まことにこのように、地の底に通るほどの雹が降り、雷の静まらないことはございませんでした」
9  など、いみじきさまに驚き懼ぢてをる顔のいとからきにも、心細さまさりける。
 
 などと、大変な様子で驚き脅えて畏まっている顔がとてもつらそうなのにつけても、心細さがつのるのだった。
 
 
 

第二段 光る源氏の祈り

 
10  「かくしつつ世は尽きぬべきにや」と思さるるに、そのまたの日の暁より、風いみじう吹き、潮高う満ちて、波の音荒きこと、巌も山も残るまじきけしきなり。
 雷の鳴りひらめくさま、さらに言はむ方なくて、「落ちかかりぬ」とおぼゆるに、ある限りさかしき人なし。
 
 「こうしながらこの世は滅びてしまうのであろうか」と思わずにはいらっしゃれないでいると、その翌日の明け方から、風が激しく吹きだし、潮が高く満ちきて、波の音の荒々しいことは、巌も山をも砕き無くしてしまいそうである。
 雷の鳴りひらめく様子は、さらに言いようがなくて、「そら、落ちてきたか」と思われると、その場に居合わせた者でしっかりした人はいない。
 
11  「我はいかなる罪を犯して、かく悲しき目を見るらむ。
 父母にもあひ見ず、かなしき妻子の顔をも見で、死ぬべきこと」
 「自分はどのような罪を犯して、このような悲しい憂き目に遭うのだろう。
 父母にも互いに顔を見ず、いとしい妻や子どもにも会えずに、死なねばならぬとは」
12  と嘆く。
 君は御心を静めて、「何ばかりのあやまちにてか、この渚に命をば極めむ」と、強う思しなせど、いともの騒がしければ、色々の幣帛ささげさせたまひて、
と嘆く。
 君は、お心を静めて、「いったいどれほどの過失によって、この海辺に命を落とすというのか」と、気を強くお持ちになるが、供人がひどく脅え騒いでいるので、色とりどりの幣帛を奉らせなさって、
13  「住吉の神、近き境を鎮め守りたまふ。
 まことに迹を垂れたまふ神ならば、助けたまへ」
 「住吉の神よ、この近辺一帯をご鎮護なさる、真に現世に迹を現しなさる神ならば、我らを助けたまえ」
14  と、多くの大願を立てたまふ。
 おのおのみづからの命をば、さるものにて、かかる御身のまたなき例に沈みたまひぬべきことのいみじう悲しき、心を起こして、すこしものおぼゆる限りは、「身に代へてこの御身一つを救ひたてまつらむ」と、とよみて、諸声に仏、神を念じたてまつる。
 
 と、数多くの大願を立てなさる。
 供人たちは各自めいめいの命はそれはそれとして、このような尊いお方がまたとないさまでお命を落としてしまいそうなことがひどく悲しいので、心を奮い起こして、わずかに気を確かに持っている者は皆、「わが身に代えて、この御身ひとつをお救い申し上げよう」と、大声を上げて、声を合わせて仏や神にお祈り申し上げる。
 
15  「帝王の深き宮に養はれたまひて、いろいろの楽しみにおごりたまひしかど、深き御慈しみ、大八洲にあまねく、沈める輩をこそ多く浮かべたまひしか。
 今、何の報いにか、ここら横様なる波風には溺ほれたまはむ。
 天地、ことわりたまへ。
 罪なくて罪に当たり、官、位を取られ、家を離れ、境を去りて、明け暮れ安き空なく、嘆きたまふに、かく悲しき目をさへ見、命尽きなむとするは、前の世の報いか、この世の犯しか、神、仏、明らかにましまさば、この愁へやすめたまへ」
 「帝王の奥深い宮殿に育てられなさって、さまざまな楽しみをほしいままになさったが、深いご仁徳は、大八洲にあまねく行き渡り、沈淪していた人々を数多く浮かび上がらせなさった。
 今、いったい何の報いによってか、こんなに非道な波風に溺れ死ななければならないのか。
 天地の神々よ、理非をご判断ください。
 罪なくして罪に当たり、官職、爵位を剥奪され、家を離れ、都を去って、日夜お心の安まる時なく、お嘆きになっていらっしゃる上に、このような悲しい憂き目にまで遭い、命を失ってしまいそうになるのは、前世からの報いか、この世での犯しによるのか。
 神よ、仏よ、確かにいらっしゃるならば、この災いをお鎮めください」
16  と、御社の方に向きて、さまざまの願を立てたまふ。
 
 と、住吉のお社の方を向いて、さまざまな願を立てなさる。
 
17  また、海の中の龍王、よろづの神たちに願を立てさせたまふに、いよいよ鳴りとどろきて、おはしますに続きたる廊に落ちかかりぬ。
 炎燃え上がりて、廊は焼けぬ。
 心魂なくて、ある限り惑ふ。
 後の方なる大炊殿とおぼしき屋に移したてまつりて、上下となく立ち込みて、いとらうがはしく泣きとよむ声、雷にも劣らず。
 空は墨をすりたるやうにて、日も暮れにけり。
 
 また、海の中の龍王や、八百万の神々に願をお立てさせになると、ますます雷が鳴り轟いて、いらっしゃるご座所に続いている廊に落ちてきた。
 炎が燃え上がって、廊は焼け落ちてしまった。
 生きた心地もせず、皆が皆あわてふためく。
 後方にある大炊殿といったような建物にお移し申して、身分の上下なく人々が入り込んで、ひどく騒がしく泣き叫ぶ声は、雷鳴にも負けない。
 空は黒墨を摺ったようで、日も暮れてしまった。
 
 
 

第三段 嵐収まる

 
18  やうやう風なほり、雨の脚しめり、星の光も見ゆるに、この御座所のいとめづらかなるも、いとかたじけなくて、寝殿に返し移したてまつらむとするに、  だんだんと風が弱まり、雨脚が衰え、星の光も見えてきたので、このご座所がひどく場違いなのも、まことに恐れ多いので、寝殿にお戻りいただこうとするが、
19  「焼け残りたる方も疎ましげに、そこらの人の踏みとどろかし惑へるに、御簾などもみな吹き散らしてけり」  「焼け残った所も気味が悪く、おおぜいの人々が踏み荒らした上に、御簾などもみな吹き飛んでしまった」
20  「夜を明してこそは」  「夜を明かしてからにしては」
21  とたどりあへるに、君は御念誦したまひて、思しめぐらすに、いと心あわたたし。
 
 とあれこれしている間に、君は御念誦を唱えながら、いろいろお考えめぐらしになるが、気持ちが落ち着かない。
 
22  月さし出でて、潮の近く満ち来ける跡もあらはに、名残なほ寄せ返る波荒きを、柴の戸押し開けて、眺めおはします。
 近き世界に、ものの心を知り、来し方行く先のことうちおぼえ、とやかくやとはかばかしう悟る人もなし。
 あやしき海人どもなどの、貴き人おはする所とて、集り参りて、聞きも知りたまはぬことどもをさへづりあへるも、いとめづらかなれど、え追ひも払はず。
 
 月が出て、潮が近くまで満ちてきた跡がはっきりと分かり、その後も依然として寄せては返す波の荒いのを、柴の戸を押し開けて、物思いに耽りながら眺めていらっしゃる。
 この界隈には、ものの道理をわきまえ、過去や将来のことを判断して、あれこれとはっきりと理解する者もいない。
 賤しい海人どもなどが、高貴な方のいらっしゃるところだといって、集まり参って、お聞きになっても分からないようなことがらをぺちゃくちゃしゃべり合っているのも、ひどく珍しいことではあるが、追い払うこともできない。
 
23  「この風、今しばし止まざらましかば、潮上りて残る所なからまし。
 神の助けおろかならざりけり」
 「この風が、今しばらく止まなかったら、潮が上がって来て、残るところなく攫われてしまったことでしょう。
 神様のご加護は大変なものであった」
24  と言ふを聞きたまふも、いと心細しといへばおろかなり。
 
 と言うのをお聞きになるのも、とても心細いといったのでは言い足りないくらいである。
 
 

219
 「海にます 神の助けに かからずは
 潮の八百会に さすらへなまし」
 「海に鎮座まします神の御加護がなかったならば
  潮の渦巻く遥か沖合に流されていたことであろう」
 
25  ひねもすにいりもみつる雷の騷ぎに、さこそいへ、いたう困じたまひにければ、心にもあらずうちまどろみたまふ。
 かたじけなき御座所なれば、ただ寄りゐたまへるに、故院、ただおはしまししさまながら立ちたまひて、
 一日中、激しく煎り揉みしていた雷の騷ぎのために、そうはいってもひどくお疲れになったので、思わずうとうととなさる。
 恐れ多いほど粗末なご座所なので、ちょっと寄り掛かっていらっしゃると、故院が、まるで御生前おいであそばしたお姿のままお立ちになって、
26  「など、かくあやしき所にものするぞ」  「どうして、このような見苦しい所にいるのだ」
27  とて、御手を取りて引き立てたまふ。
 
 と仰せになって、お手を取って引き立てなさる。
 
28  「住吉の神の導きたまふままには、はや舟出して、この浦を去りね」  「住吉の神がお導きになるのに従って、早く船出して、この浦を去りなさい」
29  とのたまはす。
 いとうれしくて、
 と仰せあそばす。
 とても嬉しくなって、
30  「かしこき御影に別れたてまつりにしこなた、さまざま悲しきことのみ多くはべれば、今はこの渚に身をや捨てはべりなまし」  「畏れ多い父上のお姿にお別れ申して以来、さまざまな悲しいことばかりが多くございますので、今はこの海辺に命を捨ててしまいましょうかしら」
31  と聞こえたまへば、  と申し上げなさると、
32  「いとあるまじきこと。
 これは、ただいささかなる物の報いなり。
 我は、位に在りし時、あやまつことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を終ふるほど暇なくて、この世を顧みざりつれど、いみじき愁へに沈むを見るに、堪へがたくて、海に入り、渚に上り、いたく困じにたれど、かかるついでに内裏に奏すべきことのあるによりなむ、急ぎ上りぬる」
 「実にとんでもないことだ。
 これは、ちょっとしたことの報いである。
 朕は、在位中に、過失はなかったけれども、知らず知らずのうちに犯した罪があったので、その罪を償うのに暇がなくて、この世を顧みなかったが、そなたが大変な難儀に苦しんでいるのを見ると、堪え難くて、海に入り渚に上がり、たいそう疲れたけれど、このような機会に、帝に奏上しなければならないことがあるので、急いで上るのだ」
33  とて、立ち去りたまひぬ。
 
 と言って、お立ち去りになってしまった。
 
34  飽かず悲しくて、「御供に参りなむ」と泣き入りたまひて、見上げたまへれば、人もなく、月の顔のみきらきらとして、夢の心地もせず、御けはひ止まれる心地して、空の雲あはれにたなびけり。
 
 名残惜しく悲しくて、「お供して参りたい」とお泣き入りになって、お顔を上げなさると、人影もなく、月の面だけが耿々として、夢とも思えず、お姿が残っていらっしゃるような気がして、空の雲がしみじみとたなびいているのであった。
 
35  年ごろ、夢のうちにも見たてまつらで、恋しうおぼつかなき御さまを、ほのかなれど、さだかに見たてまつりつるのみ、面影におぼえたまひて、「我かく悲しびを極め、命尽きなむとしつるを、助けに翔りたまへる」と、あはれに思すに、「よくぞかかる騷ぎもありける」と、名残頼もしう、うれしうおぼえたまふこと、限りなし。
 
 ここ数年来、夢の中でもお会い申さず、恋しくお会いしたいお姿を、わずかな時間ではあるが、はっきりと拝見したお顔だけが、眼前にお浮かびになって、「自分がこのように悲しみを窮め尽くし、命を失いそうになったのを、助けるために天翔っていらっしゃったのだ」と、しみじみと有り難くお思いになると、「よくぞこんな騷ぎもあったものよ」と、夢の後も頼もしくうれしく思われなさること、限りない。
 
36  胸つとふたがりて、なかなかなる御心惑ひに、うつつの悲しきこともうち忘れ、「夢にも御応へを今すこし聞こえずなりぬること」といぶせさに、「またや見えたまふ」と、ことさらに寝入りたまへど、さらに御目も合はで、暁方になりにけり。
 
 胸がぴたっと塞がって、かえってお心の迷いに、現実の悲しいこともつい忘れ、「夢の中でお返事をもう少し申し上げずに終わってしまったことよ」と残念で、「再びお見えになろうか」と、無理にお寝みになるが、さっぱりお目も合わず、明け方になってしまった。
 
 
 

第四段 明石入道の迎えの舟

 
37  渚に小さやかなる舟寄せて、人二、三人ばかり、この旅の御宿りをさして参る。
 何人ならむと問へば、
 渚に小さい舟を漕ぎ寄せて、二、三人ほどの人が、君の旅のお館をめざして来る。
 何者だろうと尋ねると、
38  「明石の浦より、前の守新発意の、御舟装ひて参れるなり。
 源少納言、さぶらひたまはば、対面してことの心とり申さむ」
 「明石の浦から、前の播磨守の新発意が、お舟を支度して参上したのです。
 源少納言がここに伺候しておいででしたら、面会して事の子細を申し上げたい」
39  と言ふ。
 良清、おどろきて、
 と言う。
 良清は、驚いて、
40  「入道は、かの国の得意にて、年ごろあひ語らひはべりつれど、私に、いささかあひ恨むることはべりて、ことなる消息をだに通はさで、久しうなりはべりぬるを、波の紛れに、いかなることかあらむ」  「入道は、あの国での知人として、長年互いに親しくお付き合いしてきましたが、私事でいささか恨めしく思うことがございまして、特に手紙さえも交わさず久しくなっておりましたが、この荒波に紛れて、何の用であろうか」
41  と、おぼめく。
 君の、御夢なども思し合はすることもありて、「はや会へ」とのたまへば、舟に行きて会ひたり。
 「さばかり激しかりつる波風に、いつの間にか舟出しつらむ」と、心得がたく思へり。
 
 と言って不審がる。
 君は、お夢などもお考え及ばされることがあって、「早く会え」とおっしゃるので、舟まで行って会った。
 良清は「あれほど激しかった波風なのに、いつの間に舟出をしたのだろう」と、合点が行かず思っていた。
 
42  「去ぬる朔日の日、夢にさま異なるものの告げ知らすることはべりしかば、信じがたきことと思うたまへしかど、『十三日にあらたなるしるし見せむ。
 舟装ひまうけて、かならず、雨風止まば、この浦にを寄せよ』と、かねて示すことのはべりしかば、試みに舟の装ひをまうけて待ちはべりしに、いかめしき雨、風、雷のおどろかしはべりつれば、人の朝廷にも、夢を信じて国を助くるたぐひ多うはべりけるを、用ゐさせたまはぬまでも、このいましめの日を過ぐさず、このよしを告げ申しはべらむとて、舟出だしはべりつるに、あやしき風細う吹きて、この浦に着きはべること、まことに神のしるべ違はずなむ。
 ここにも、もししろしめすことやはべりつらむ、とてなむ。
 いと憚り多くはべれど、このよし、申したまへ」
 「去る朔日の夢に、異形のものが告げ知らせることがございましたので、信じがたいこととは存じましたが、『十三日にあらたかな霊験を見せよう。
 舟の準備をして、必ず、この雨風が止んだら、この須磨の浦に寄せ着けよ』と、前もって告げていたことがございましたので、試しに舟の用意をして待っておりましたところ、激しい雨や風、雷がそれと気づかせてくれましたので、異国の朝廷でも夢を信じて国を助けるた例が多くございましたので、たとい君がお取り上げにならないにしても、この予告の日をやり過さず、この由をお知らせ申し上げましょうと思って、舟出をしましたところ、不思議な風が細く吹いて、この浦に着きましたことは、ほんとうに神のお導きは間違いがございません。
 こちらにも、もしやお心あたりのこともございましたでしょうか、と存じまして。
 大変に恐縮ですが、この由をお伝え申し上げてください」
43  と言ふ。
 良清、忍びやかに伝へ申す。
 
 と言う。
 良清は、こっそりとお伝え申し上げる。
 
44  君、思しまはすに、夢うつつさまざま静かならず、さとしのやうなることどもを、来し方行く末思し合はせて、  君はお考えめぐらすと、夢や現実にいろいろと穏やかでなく、もののさとしのようなことを、過去から未来をとお考え合わせになって、
45  「世の人の聞き伝へむ後のそしりもやすからざるべきを憚りて、まことの神の助けにもあらむを、背くものならば、またこれよりまさりて、人笑はれなる目をや見む。
 うつつざまの人の心だになほ苦し。
 はかなきことをもつつみて、我より齢まさり、もしは位高く、時世の寄せ今一際まさる人には、なびき従ひて、その心むけをたどるべきものなりけり。
 退きて咎なしとこそ、昔、さかしき人も言ひ置きけれ。
 げに、かく命を極め、世にまたなき目の限りを見尽くしつ。
 さらに後のあとの名をはぶくとても、たけきこともあらじ。
 夢の中にも父帝の御教へありつれば、また何ごとか疑はむ」
 「世間の人々がこれを聞き伝えるような後世の非難も穏やかではないだろうことを恐れて、本当の神の助けであるのに、それに背いたものなら、またそれ以上に物笑いを受けることになるだろうか。
 現実の世の人の意向でさえ背くのは難しいものだ。
 ちょっとしたことでも慎重にして、自分より年齢もまさるとか、もしくは爵位が高いとか、世の信望がいま一段まさる人とかには、その言葉に従って、その意向を考え入れるべきである。
 『謙虚に振る舞って非難されることはない』と、昔の賢人も言い残していた。
 なるほど、このような命の極限まで辿り着き、この世にまたとないほどの困難の限りを体験し尽くした。
 今さら後世の悪評を避けたところで、たいしたこともあるまい。
 夢の中にも父帝のお導きがあったのだから、また何を疑おうか」
46  と思して、御返りのたまふ。
 
 と考えになって、お返事をおっしゃる。
 
47  「知らぬ世界に、めづらしき愁への限り見つれど、都の方よりとて、言問ひおこする人もなし。
 ただ行方なき空の月日の光ばかりを、故郷の友と眺めはべるに、うれしき釣舟をなむ。
 かの浦に、静やかに隠ろふべき隈はべりなむや」
 「知らない世界で、珍しい困難の極みに遭ってきたが、都の方からといって、安否を尋ねて来る人もいない。
 ただ茫漠とした空の月と日の光だけを、故郷の友として眺めていますが、『うれしい釣舟』と思うぞ。
 あちらの浦で、静かに隠れて過ごせる所はありますか」
48  とのたまふ。
 限りなくよろこび、かしこまり申す。
 
 とおっしゃる。
 使者はこの上なく喜んでお礼をお伝え申し上げる。
 
49  「ともあれ、かくもあれ、夜の明け果てぬ先に御舟にたてまつれ」  「ともかくも、夜のすっかり明けない前にお舟にお乗りください」
50  とて、例の親しき限り、四、五人ばかりして、たてまつりぬ。
 
 ということで、いつもの側近の者だけ、四、五人ほどお供にしてお乗りになった。
 
51  例の風出で来て、飛ぶやうに明石に着きたまひぬ。
 ただはひ渡るほどに片時の間といへど、なほあやしきまで見ゆる風の心なり。
 
 例の不思議な風が吹き出してきて、飛ぶように明石にお着きになった。
 わずか這って行けそうな距離は時間もかからないとはいえ、やはり不思議にまで思える風の働きである。
 
 
 

第二章 明石の君の物語 明石での新生活の物語

 
 

第一段 明石入道の浜の館

 
52  浜のさま、げにいと心ことなり。
 人しげう見ゆるのみなむ、御願ひに背きける。
 入道の領占めたる所々、海のつらにも山隠れにも、時々につけて、興をさかすべき渚の苫屋、行なひをして後の世のことを思ひ澄ましつべき山水のつらに、いかめしき堂を建てて三昧を行なひ、この世のまうけに、秋の田の実を刈り収め、残りの齢積むべき稲の倉町どもなど、折々、所につけたる見どころありてし集めたり。
 
 浜の様子は、なるほどまことに格別である。
 人の往来が多く見える点だけが、ご希望に添わないのであった。
 入道が所領している土地どちは、海岸につけまた山蔭につけ、季節折々に応じて、興趣をわかすにちがいない海辺の苫屋や、勤行をして来世のことを思い澄ますにふさわしい山水のほとりに、厳かな堂を建てて念仏三昧を行い、この世の生活には、秋の田の実を刈り収めて、余生を暮らすための稲の倉町が幾倉も建っているなど、それぞれが四季折々につけて、場所にふさわしい見所を多く集めている。
 
53  高潮に怖ぢて、このころ、娘などは岡辺の宿に移して住ませければ、この浜の館に心やすくおはします。
 
 高潮を恐れて、近頃は、娘などは岡辺の家に移し住まわせていたので、君はこの海辺の館に気楽にお過ごになる。
 
54  舟より御車にたてまつり移るほど、日やうやうさし上がりて、ほのかに見たてまつるより、老忘れ、齢延ぶる心地して、笑みさかえて、まづ住吉の神を、かつがつ拝みたてまつる。
 月日の光を手に得たてまつりたる心地して、いとなみ仕うまつること、ことわりなり。
 
 舟からお車にお乗り移りになるころ、日がだんだん高くなって、入道は君をほのかに拝するやいなや、老いも忘れ、寿命も延びる心地がして、笑みを浮かべて、まずは住吉の神をともかくも拝み申し上げる。
 月と日の光を手にお入れ申した心地がして、お世話申し上げることは、ごもっともである。
 
55  所のさまをばさらにも言はず、作りなしたる心ばへ、木立、立石、前栽などのありさま、えも言はぬ入江の水など、絵に描かば、心のいたり少なからむ絵師は描き及ぶまじと見ゆ。
 月ごろの御住まひよりは、こよなくあきらかに、なつかしき。
 御しつらひなど、えならずして、住まひけるさまなど、げに都のやむごとなき所々に異ならず、艶にまばゆきさまは、まさりざまにぞ見ゆる。
 
 天然の景勝はいうまでもなく、こしらえた趣向の、木立、立て石、前栽などの様子や、何とも表現しがたい入江の水などは、もし絵に描いたならば、修業の浅いような絵師ではとても描き尽くせまいと見える。
 ここ数か月来の須磨の住まいよりは、この上なく明るく好もしい感じがする。
 お部屋の飾りつけなどが、立派に設えてあって、その生活していた様子などは、なるほど都の高貴な方々の住居と少しも異ならず、優美で眩しいさまは、むしろ勝っているように見える。
 
 
 

第二段 京への手紙

 
56  すこし御心静まりては、京の御文ども聞こえたまふ。
 参れりし使は、今は、 「いみじき道に出で立ちて悲しき目を見る」 と泣き沈みて、あの須磨に留まりたるを召して、身にあまれる物ども多くたまひて遣はす。
 むつましき御祈りの師ども、さるべき所々には、このほどの御ありさま、詳しく言ひ遣はすべし。
 
 少しお心が落ち着いてから、京へのお手紙をお書き申し上げなさる。
 参上していた使者は 今「ひどい時に使いに立って辛い思いをした」と泣き沈んであの須磨に留まっていたのを、君は明石に呼び寄せて、身にあまるほどのご褒美を多く賜って京へ帰し遣わす。
 親しいご祈祷の師たちや、しかるべき方々には、このほどのご様子を、詳しく書いて遣わすのであろう。
 
57  入道の宮ばかりには、めづらかにてよみがへるさまなど聞こえたまふ。
 二条院のあはれなりしほどの御返りは、書きもやりたまはず、うち置きうち置き、おしのごひつつ聞こえたまふ御けしき、なほことなり。
 
 入道の宮にだけは、不思議にも生き返った様子などをお書き申し上げなさる。
 二条院からの胸を打つ手紙のお返事には、すらすらと筆もお運びにならず、筆をうち置きうち置きして、涙を拭いながらお書き申し上げになるご様子は、やはり格別である。
 
58  「返す返すいみじき目の限りを尽くし果てつるありさまなれば、今はと世を思ひ離るる心のみまさりはべれど、『鏡を見ても』とのたまひし面影の離るる世なきを、かくおぼつかなながらやと、ここら悲しきさまざまのうれはしさは、さしおかれて、  「繰り返し繰り返し、恐ろしい目の極限を体験し尽くした状態なので、今は俗世を離れたいという気持ちだけが募っていますが、『鏡を見ても』とお詠みになった面影が離れる間がないので、このように遠く離れたままになってしまうのかと思うと、たくさんのさまざまな心配事は、自然と二の次に思われまして、
 

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 遥かにも 思ひやるかな 知らざりし
 浦よりをちに 浦伝ひして
  遥か遠くより思いやっております
  知らない浦からさらに遠くの浦に流れ来ても
 
59  夢のうちなる心地のみして、覚め果てぬほど、いかにひがこと多からむ」  夢の中の心地ばかりして、まだ覚めきらないでいるうちは、どんなにか変なことを多く書いたことでしょう」
60  と、げに、そこはかとなく書き乱りたまへるしもぞ、いと見まほしき側目なるを、「いとこよなき御心ざしのほど」と、人びと見たてまつる。
 
 と、なるほど、とりとめもなくお書き散らしになっているが、まことに側からのぞき込みたくなるようなので、「たいそう並々ならぬご寵愛のほどだ」と、供の人々は拝見する。
 
61  おのおの、故郷に心細げなる言伝てすべかめり。
 
 それぞれも、故郷に心細そうな言伝をしているようである。
 
62  を止みなかりし空のけしき、名残なく澄みわたりて、漁する海人ども誇らしげなり。
 須磨はいと心細く、海人の岩屋もまれなりしを、人しげき厭ひはしたまひしかど、ここはまた、さまことにあはれなること多くて、よろづに思し慰まる。
 
 絶え間なく降り続いた空模様も、すっかり晴れわたって、漁をする海人たちも元気がよさそうである。
 須磨はとても心細く、海人の岩屋さえ数少なかったのに、ここは人の行き来の多い嫌悪感はおありになったものの、また一方で、格別にしみじみと心を打つことが多くて、何かにつけて自然と慰められるのであった。
 
 
 

第三段 明石の入道とその娘

 
63  明石の入道、行なひ勤めたるさま、いみじう思ひ澄ましたるを、ただこの娘一人をもてわづらひたるけしき、いとかたはらいたきまで、時々漏らし愁へきこゆ。
 御心地にも、をかしと聞きおきたまひし人なれば、「かくおぼえなくてめぐりおはしたるも、さるべき契りあるにや」と思しながら、「なほ、かう身を沈めたるほどは、行なひより他のことは思はじ。
 都の人も、ただなるよりは、言ひしに違ふと思さむも、心恥づかしう」思さるれば、けしきだちたまふことなし。
 ことに触れて、「心ばせ、ありさま、なべてならずもありけるかな」と、ゆかしう思されぬにしもあらず。
 
 明石の入道の、その勤行の態度は、たいそう悟り澄ましてはいるが、ただその娘一人を心配している様子は、とても傍で見ているのも気の毒なくらいに、時々愚痴をこぼし申し上げる。
 君のご心中にも、興味をお持ちになった女なので、「このように意外にも廻り合わせなさったのも、そうなるはずの前世からの宿縁があるのか」とお思いになるものの、「やはり、このように身を沈めている間は、勤行より他のことは考えまい。
 都の人も、普通の場合以上に、口で言っていたことと違うとお思いになるのも、気恥ずかしい」と思われなさると、素振りをお見せになることはない。
 折にふれて、「気立てや、容姿など、並み大抵ではないのかなあ」と、心惹かれないでもない。
 
64  ここにはかしこまりて、みづからもをさをさ参らず、もの隔たりたる下の屋にさぶらふ。
 さるは、明け暮れ見たてまつらまほしう、飽かず思ひきこえて、「思ふ心を叶へむ」と、仏、神をいよいよ念じたてまつる。
 
 こちら君のお側には入道の方はご遠慮申し上げて、自身はめったに参上せず、離れた下屋に控えている。
 その実、毎日お世話申し上げたく思い、物足りなくお思い申し上げて、「ぜひ何とか願いを叶えたい」と、仏や神をますますお祈り申し上げる。
 
65  年は六十ばかりになりたれど、いときよげにあらまほしう、行なひさらぼひて、人のほどのあてはかなればにやあらむ、うちひがみほれぼれしきことはあれど、いにしへのことをも知りて、ものきたなからず、よしづきたることも交れれば、昔物語などせさせて聞きたまふに、すこしつれづれの紛れなり。
 
 年齢は六十歳くらいになっているが、とてもこざっぱりとしていかにも好ましく、勤行のために痩せぎみになって、人品が高いせいであろうか、頑固で老いぼれたところはあるが、故事にもよく通じていて、どことなく上品で、趣味のよいところもまじっているので、古い話などをさせてお聞きになると、少しは所在なさも紛れるのであった。
 
66  年ごろ、公私御暇なくて、さしも聞き置きたまはぬ世の古事どもくづし出でて、「かかる所をも人をも、見ざらましかば、さうざうしくや」とまで、興ありと思すことも交る。
 
 ここ数年来、君は公私にお忙しくてこんなにお聞きになったことのない世の中の故事来歴を入道が少しずつ説きおこすので、「もしこのような土地に来てこの人に会わないでいたら、残念なことであったろう」とまで、興味深くお思いになることもある。
 
67  かうは馴れきこゆれど、いと気高う心恥づかしき御ありさまに、さこそ言ひしか、つつましうなりて、わが思ふことは心のままにもえうち出できこえぬを、「心もとなう、口惜し」と、母君と言ひ合はせて嘆く。
 
 このようにお親しみ申し上げてはいるが、たいそう気高く立派なご様子に、そうはいったものの、遠慮されて、自分の思うことは思うようにもお話し申し上げることができないので、「気がせいてならぬ、残念だ」と、母君と話しては嘆いていた。
 
68  正身は、「おしなべての人だに、めやすきは見えぬ世界に、世にはかかる人もおはしけり」と見たてまつりしにつけて、身のほど知られて、いと遥かにぞ思ひきこえける。
 親たちのかく思ひあつかふを聞くにも、「似げなきことかな」と思ふに、ただなるよりはものあはれなり。
 
 娘ご本人は、「普通の身分の男性でさえ、まあまあの人は見当たらないこの田舎に、世の中にはこのような方もいらっしゃっるのだ」と拝見したのにつけても、わが身のほどが思い知らされて、とても及びがたくお思い申し上げるのであった。
 両親がこのように事を進めているのを聞くにつけても、「不釣り合いなことだわ」と思うと、何でもなかった時よりもかえって物思いがまさるのであった。
 
 
 

第四段 夏四月となる

 
69  四月になりぬ。
 更衣の御装束、御帳の帷子など、よしあるさまにし出でつつ、よろづに仕うまつりいとなむを、「いとほしう、すずろなり」と思せど、人ざまのあくまで思ひ上がりたるさまのあてなるに、思しゆるして見たまふ。
 
 四月になった。
 衣更えのご装束や御帳台の帷子などを、風流な様に作って調進しながら、万事にわたってお世話申し上げるのを、「気の毒でもあり、これほどしてくれなくてもよいものを」とお思いになるが、人柄がどこまでも気位を高くもって上品なので、そのままになさっていらっしゃる。
 
70  京よりも、うちしきりたる御とぶらひども、たゆみなく多かり。
 のどやかなる夕月夜に、海の上曇りなく見えわたれるも、住み馴れたまひし故郷の池水、思ひまがへられたまふに、言はむかたなく恋しきこと、何方となく行方なき心地したまひて、ただ目の前に見やらるるは、淡路島なりけり。
 
 京からもひっきりなしにお見舞いの手紙がつぎつぎと多かった。
 のんびりとした夕月夜の晩に、海上に雲もなくはるかに見渡されるのが、都のお住みなれたお邸の池の水のように、思わず見間違えられなさると、何とも言いようなく恋しい気持ちは、どこへともなくさすらって行く気がなさって、ただ目の前に見やられるのは淡路島なのであった。
 
71  「あはと、遥かに」などのたまひて、  「ああ、と遥かに」などとおっしゃって、
 

221
 「あはと見る 淡路の島の あはれさへ
 残るくまなく 澄める夜の月」
 「ああと、しみじみ眺める淡路島の悲しい情趣まで
  すっかり照らしだす今宵の月であることよ」
 
72  久しう手触れたまはぬ琴を、袋より取り出でたまひて、はかなくかき鳴らしたまへる御さまを、見たてまつる人もやすからず、あはれに悲しう思ひあへり。
 
 長いこと手をお触れにならなかった琴を袋からお取り出しになって、ほんのちょっとお掻き鳴らしになっているご様子を、拝し上げる人々も心が動いて、しみじみと悲しく思い合っている。
 
73  「広陵」といふ手を、ある限り弾きすましたまへるに、かの岡辺の家も、松の響き波の音に合ひて、心ばせある若人は身にしみて思ふべかめり。
 何とも聞きわくまじきこのもかのものしはふる人どもも、すずろはしくて、浜風をひきありく。
 
 「広陵」という曲を、秘術の限りを尽くして一心に弾いていらっしゃると、あの岡辺の家でも、松風の音や波の音に響き合って、音楽に嗜みのある若い女房たちは身にしみて感じているようである。
 何の楽の音とも聞き分けることのできそうにないあちこちの山賤どもも、そわそわと浜辺に浮かれ出て、風邪をひくありさまである。
 
 
 

第五段 源氏、入道と琴を合奏

 
74  入道もえ堪へで、供養法たゆみて、急ぎ参れり。
 
 入道もじっとしていられず、供養法を怠って、急いで参上した。
 
75  「さらに、背きにし世の中も取り返し思ひ出でぬべくはべり。
 後の世に願ひはべる所のありさまも、思うたまへやらるる夜の、さまかな」
 「まったく、一度捨て去った俗世も改めて思い出されそうでございます。
 来世に願っております極楽浄土の有様も、かくやと想像される今宵の妙なる笛の音でございますね」
76  と泣く泣く、めできこゆ。
 
 と感涙にむせんで、お褒め申し上げる。
 
77  わが御心にも、折々の御遊び、その人かの人の琴笛、もしは声の出でしさまに、時々につけて、世にめでられたまひしありさま、帝よりはじめたてまつりて、もてかしづきあがめたてまつりたまひしを、人の上もわが御身のありさまも、思し出でられて、夢の心地したまふままに、かき鳴らしたまへる声も、心すごく聞こゆ。
 
 君ご自身でも、四季折々の管弦の御遊や、その人あの人の琴や笛の音、または声の出し具合、その時々の催しにおいて絶賛されなさった様子などを、帝をはじめたてまつり、多くの方々が大切に敬い申し上げなさったことを、他人の身の上もご自身の様子も、お思い出しになられて、夢のような気がなさるままに、掻き鳴らしなさっている琴の音も、寂寞として聞こえる。
 
78  古人は涙もとどめあへず、岡辺に、琵琶、箏の琴取りにやりて、入道、琵琶の法師になりて、いとをかしう珍しき手一つ二つ弾きたり。
 
 老人は涙も止めることができず、岡辺の家に琵琶や箏の琴を取りにやって、入道は例の「琵琶法師」になって、たいそう興趣ある珍しい曲を一つ二つ弾き出した。
 
79  箏の御琴参りたれば、少し弾きたまふも、さまざまいみじうのみ思ひきこえたり。
 いと、さしも聞こえぬ物の音だに、折からこそはまさるものなるを、はるばると物のとどこほりなき海づらなるに、なかなか、春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭ども、なまめかしきに、水鶏のうちたたきたるは、「誰が門さして」と、あはれにおぼゆ。
 
 箏の琴をお進め申したところ、少しお弾きになるにつけても、さまざまな方面にも、たいそうご堪能だとばかり感じ入り申し上げた。
 実際には、さほどだと思えない楽の音でさえ、その状況によっては引き立つものであるが、ここは広々と何物もない海辺である上に、かえって春秋の花や紅葉の盛りである時よりも、ただ何ということなく青々と繁っている木蔭が美しい感じがするところに、水鶏が鳴いているのは、「誰が門さして」と、しみじみと興趣が催される。
 
80  音もいと二なう出づる琴どもを、いとなつかしう弾き鳴らしたるも、御心とまりて、  入道が音色もまこと二つとないくらい素晴らしく出す二つの琴を、たいそう優しく弾き鳴らしたのにつけても、感心なさって、
81  「これは、女のなつかしきさまにてしどけなう弾きたるこそ、をかしけれ」  「この琴は、女性が優しい姿態でくつろいだ感じに弾いたのが、おもしろいですね」
82  と、おほかたにのたまふを、入道はあいなくうち笑みて、  と、何気なくおっしゃるのを、入道は無性に微笑んで、
83  「あそばすよりなつかしきさまなるは、いづこのかはべらむ。
 なにがし、延喜の御手より弾き伝へたること、四代になむなりはべりぬるを、かうつたなき身にて、この世のことは捨て忘れはべりぬるを、もののせちにいぶせき折々は、かき鳴らしはべりしを、あやしう、まねぶ者のはべるこそ、自然にかの先大王の御手に通ひてはべれ。
 山伏のひが耳に、松風を聞きわたしはべるにやあらむ。
 いかで、これも忍びて聞こしめさせてしがな」
 「あなた様がお弾きあそばす以上に優しい姿態の人は、どこにございましょうか。
 わたくしは、延喜の帝のご奏法を弾き伝えますことは、四代になるのでございますが、このようにふがいない身の上で、この世のことは捨て忘れておりましたが、ひどく気の滅入ります時々には、掻き鳴らしておりましたが、不思議にも、それを見よう見真似で弾く者がおりまして、自然とあの先大王のご奏法に似ているのでございます。
 山伏のようなひが耳では、松風をその音を妙なる音と聞き誤ったのでございましょうか。
 何とかして、それも一度こっそりとお耳にお入れ申し上げたいものです」
84  と聞こゆるままに、うちわななきて、涙落とすべかめり。
 
 と申し上げるにつれて、身をふるわして、涙を落としているようである。
 
85  君、  君は、
86  「琴を琴とも聞きたまふまじかりけるあたりに、ねたきわざかな」  「琴など、琴ともお聞きになるなずのない名人揃いの所で、悔しいことをしたなあ」
87  とて、押しやりたまふに、  と言って、押しやりなさって、
88  「あやしう、昔より箏は、女なむ弾き取るものなりける。
 嵯峨の御伝へにて、女五の宮、さる世の中の上手にものしたまひけるを、その御筋にて、取り立てて伝ふる人なし。
 すべて、ただ今世に名を取れる人びと、掻き撫での心やりばかりにのみあるを、ここにかう弾きこめたまへりける、いと興ありけることかな。
 いかでかは、聞くべき」
 「不思議なことに、昔から箏は、女が習得するものであった。
 嵯峨の帝のご伝授で、女五の宮がその当時の名人でいらっしゃったが、その御系統で格別に伝授する人はいません。
 総じて、ただ現在に著名な人々は、通り一遍の自己満足程度に過ぎないが、ここにそのように隠れて伝えていらっしゃるとは、実に興味深いものですね。
 ぜひとも、聴いてみたいものです」
89  とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
90  「聞こしめさむには、何の憚りかはべらむ。
 御前に召しても。
 商人の中にてだにこそ、古琴聞きはやす人は、はべりけれ。
 琵琶なむ、まことの音を弾きしづむる人、いにしへも難うはべりしを、をさをさとどこほることなうなつかしき手など、筋ことになむ。
 いかでたどるにかはべらむ。
 荒き波の声に交るは、悲しくも思うたまへられながら、かき積むるもの嘆かしさ、紛るる折々もはべり」
 「お聴きあそばすについては、何の支障がございましょう、御前にお召しになってでも。
 商人の中でさえ、古曲を賞美した人もございました。
 琵琶は、本当の音色を弾きこなす人は、昔も少のうございましたが、娘は少しも滞ることない優しい弾き方など格別でございます。
 どのように習得したものでございましょう。
 荒い波の音と一緒なのは、悲しく存じられますが、積もる愁えも、慰められる折々がございます」
91  など好きゐたれば、をかしと思して、箏の琴取り替へて賜はせたり。
 
 などと風流がっているので、おもしろいとお思いになって、箏の琴を取り替えてお与えになった。
 
92  げに、いとすぐしてかい弾きたり。
 今の世に聞こえぬ筋弾きつけて、手づかひいといたう唐めき、ゆの音深う澄ましたり。
 「伊勢の海」ならねど、「清き渚に貝や拾はむ」など、声よき人に歌はせて、我も時々拍子とりて、声うち添へたまふを、琴弾きさしつつ、めできこゆ。
 御くだものなど、めづらしきさまにて参らせ、人びとに酒強ひそしなどして、おのづからもの忘れしぬべき夜のさまなり。
 
 なるほど、たいそう上手に掻き鳴らした。
 現在では知られていない奏法を身につけていて、手さばきもたいそう唐風で、揺の音が深く澄んで聞こえた。
 「伊勢の海」ではないが、「清い渚で貝を拾おう」などと、声の美しい人に歌わせて、自分でも時々拍子をとって、お声を添えなさるのを、琴の手を度々弾きやめて、お褒め申し上げる。
 お菓子などを、珍しいさまに盛って差し上げ、供の人々に酒を大いに勧めたりして、いつしか物憂さも忘れてしまいそうな夜の様子である。
 
 
 

第六段 入道の問わず語り

 
93  いたく更けゆくままに、浜風涼しうて、月も入り方になるままに、澄みまさり、静かなるほどに、御物語残りなく聞こえて、この浦に住みはじめしほどの心づかひ、後の世を勤むるさま、かきくづし聞こえて、この娘のありさま、問はず語りに聞こゆ。
 をかしきものの、さすがにあはれと聞きたまふ節もあり。
 
 たいそう夜が更けて行くにつれて、浜風が涼しくなってきて、月も入り方になるにつれて、ますます澄みきって、静かになった時分に、お話を残らず申し上げて、この浦に住み初めたころの心づもりや、来世を願う模様などをぽつりぽつりお話し申し上げて、自分の娘の様子を問わず語りに申し上げる。
 おかしくおもしろいと聞く一方で、やはりしみじみ不憫なとお聞きになる点もある。
 
94  「いと取り申しがたきことなれど、わが君、かうおぼえなき世界に、仮にても、移ろひおはしましたるは、もし、年ごろ老法師の祈り申しはべる神仏のあはれびおはしまして、しばしのほど、御心をも悩ましたてまつるにやとなむ思うたまふる。
 
 「とても取り立てては申し上げにくいことでございますが、あなた様がこのような思いがけない土地に一時的にせよ、移っていらっしゃいましたことは、もしや長年この老法師めがお祈り申していました神仏がお憐れみになって、しばらくの間、あなた様にご心労をお掛け申し上げることになったのではないかと存ぜられます。
 
95  その故は、住吉の神を頼みはじめたてまつりて、この十八年になりはべりぬ。
 女の童いときなうはべりしより、思ふ心はべりて、年ごとの春秋ごとに、かならずかの御社に参ることなむはべる。
 昼夜の六時の勤めに、みづからの蓮の上の願ひをば、さるものにて、ただこの人を高き本意叶へたまへと、なむ念じはべる。
 
 そのわけは、住吉の神をご祈願申し始めて、ここ十八年になりました。
 娘がほんの幼少でございました時から、思う子細がございまして、毎年の春秋ごとに、必ずあの住吉の御社に参詣することに致しております。
 昼夜の六時の勤行に、自分自身の極楽往生の願いは、それはそれとして、ただ自分の娘に高い望みを叶えてくださいと、祈っております。
 
96  前の世の契りつたなくてこそ、かく口惜しき山賤となりはべりけめ、親、大臣の位を保ちたまへりき。
 みづからかく田舎の民となりにてはべり。
 次々、さのみ劣りまからば、何の身にかなりはべらむと、悲しく思ひはべるを、これは、生れし時より頼むところなむはべる。
 いかにして都の貴き人にたてまつらむと思ふ心、深きにより、ほどほどにつけて、あまたの人の嫉みを負ひ、身のためからき目を見る折々も多くはべれど、さらに苦しみと思ひはべらず。
 命の限りは狭き衣にもはぐくみはべりなむ。
 かくながら見捨てはべりなば、波のなかにも交り失せね、となむ掟てはべる」
 前世からの宿縁に恵まれませんもので、このようなつまらない下賤な者になってしまったのでございますが、父親は大臣の位を保っておられました。
 自分からこのような田舎の民となってしまったのでございます。
 子々孫々と、落ちぶれていく一方では終いにはどのようになってしまうのかと悲しく思っておりますが、わが娘には生まれた時から頼もしく思うところがございます。
 何とかして都の高貴な方に差し上げたいと思う決心が、固いものですから、身分が低ければ低いなりに多数の人々の嫉妬を受け、わたしにとってもつらい目に遭う折々が多くございましたが、少しも苦しみとは思っておりません。
 娘には、自分が生きておりますうちは微力ながらも育てましょう、だが、このまま先立ってしまったら、海の中にでも身を投げてしまいなさい、と申しつけております」
97  など、すべてまねぶべくもあらぬことどもを、うち泣きうち泣き聞こゆ。
 
 などと、全部はお話できそうにもないことを、泣く泣く申し上げる。
 
98  君も、ものをさまざま思し続くる折からは、うち涙ぐみつつ聞こしめす。
 
 君も、いろいろと物思いに沈んでいらっしゃる時なので、涙ぐみながら聞いていらっしゃる。
 
99  「横さまの罪に当たりて、思ひかけぬ世界にただよふも、何の罪にかとおぼつかなく思ひつる、今宵の御物語に聞き合はすれば、げに浅からぬ前の世の契りにこそはと、あはれになむ。
 などかは、かくさだかに思ひ知りたまひけることを、今までは告げたまはざりつらむ。
 都離れし時より、世の常なきもあぢきなう、行なひより他のことなくて月日を経るに、心も皆くづほれにけり。
 かかる人ものしたまふとは、ほの聞きながら、いたづら人をばゆゆしきものにこそ思ひ捨てたまふらめと、思ひ屈しつるを、さらば導きたまふべきにこそあなれ。
 心細き一人寝の慰めにも」
 「無実の罪に当たって、思いもよらない地方にさすらうのも、何の罪によるのかと分からなく思っていたが、今夜のお話をうかがって考え合わせてみると、なるほど浅くはない前世からの宿縁であったのだと、しみじみと分かった。
 どうして、このようにはっきりとご存じであったことを、今までお話してくださらなかったのか。
 都を離れた時から、世の無常に嫌気がさし、勤行以外のことはせずに月日を送っているうちに、すっかり意気地がなくなってしまった。
 そのような人がいらっしゃるとは、ほのかに聞いてはいたが、役立たずの者では縁起でもなく思って相手にもなさらぬであろうと、自信をなくしていたが、それではご案内してくださるというのだね。
 心細い独り寝の慰めにでも……」
100  などのたまふを、限りなくうれしと思へり。
 
 などとおっしゃるのを、この上なく光栄に思った。
 
 

222
 「一人寝は 君も知りぬや つれづれと
 思ひ明かしの 浦さびしさを
 「独り寝はあなた様もお分かりになったでしょうか
  所在なく物思いに夜を明かしている明石の浦の心淋しさを
 
101  まして年月思ひたまへわたるいぶせさを、推し量らせたまへ」  まして長い年月ずっと願い続けてまいった気のふさぎようを、お察しくださいませ」
102  と聞こゆるけはひ、うちわななきたれど、さすがにゆゑなからず。
 
 と申し上げる様子は、身を震わせていたが、それでも気品は失っていない。
 
103  「されど、浦なれたまへらむ人は」とて、  「それでも、海辺の生活に馴れた人は」とおっしゃって、
 

223
 「旅衣 うら悲しさに 明かしかね
 草の枕は 夢も結ばず」
 「旅の生活の寂しさに夜を明かしかねて
  安らかな夢を見ることもありません」
 
104  と、うち乱れたまへる御さまは、いとぞ愛敬づき、言ふよしなき御けはひなる。
 数知らぬことども聞こえ尽くしたれど、うるさしや。
 ひがことどもに書きなしたれば、いとど、をこにかたくなしき入道の心ばへも、あらはれぬべかめり。
 
 と、ちょっと寛いでいらっしゃるご様子はたいそう魅力的で、何ともいいようのないお美しさである。
 数えきれないほどのことどもを申し上げたが、何とも煩わしいことよ。
 誇張をまじえて書いたので、ますます馬鹿げて頑固な入道の性質も現れてしまったことであろう。
 
 
 

第七段 明石の娘へ懸想文

 
105  思ふこと、かつがつ叶ひぬる心地して、涼しう思ひゐたるに、またの日の昼つ方、岡辺に御文つかはす。
 心恥づかしきさまなめるも、なかなか、かかるものの隈にぞ、思ひの外なることも籠もるべかめると、心づかひしたまひて、高麗の胡桃色の紙に、えならずひきつくろひて、
 願いがまずまず叶った心地がして、すがすがしい気持ちでいると、君は翌日の昼頃に岡辺の家にお手紙をおつかわしになる。
 奥ゆかしい方らしいのも、かえってこのような辺鄙な土地に意外な素晴らしい人が埋もれているようだとお気づかいなさって、高麗の胡桃色の紙に、何ともいえないくらい念入りに趣向を調えて、
 

224
 「をちこちも 知らぬ雲居に 眺めわび
 かすめし宿の 梢をぞ訪ふ
 「何もわからない土地にわびしい生活を送っていましたが
  お噂を耳にしてお便りを差し上げます
 
106  『思ふには』」 とばかりやありけむ。
 
 『心に思うことには、こらえることが……』」というぐらいあったのであろうか。
 
107  入道も、人知れず待ちきこゆとて、かの家に来ゐたりけるもしるければ、御使いとまばゆきまで酔はす。
 
 入道も、こっそりとお待ち申し上げようとして、あちらの家に来ていたのだが、それも期待どおりなので、お使者をたいそうおもはゆく思うほどもてなして酔わせる。
 
108  御返り、いと久し。
 内に入りてそそのかせど、娘はさらに聞かず。
 恥づかしげなる御文のさまに、さし出でむ手つきも、恥づかしうつつまし。
 人の御ほど、わが身のほど思ふに、こよなくて、心地悪しとて寄り臥しぬ。
 
 お返事には、たいそう時間がかかる。
 奥に入って催促するが、娘は一向に聞き入れない。
 気後れするようなお手紙の様子に、お返事をしたためる筆跡も恥ずかしく気後れして、相手のご身分とわが身の程を思い比べると、比較にもならない思いがして、気分が悪いといって物に寄り伏してしまった。
 
109  言ひわびて、入道ぞ書く。
 
 説得に困って、入道が書く。
 
110  「いとかしこきは、田舎びてはべる袂に、つつみあまりぬるにや。
 さらに見たまへも、及びはべらぬかしこさになむ。
 さるは、
 「とても恐れ多い仰せ言は、田舎者には身に余るほどのことだからでございましょうか。
 まったく拝見させて戴くことなど、思いも及ばぬもったいなさでございます。
 それでも、
 

225
 眺むらむ 同じ雲居を 眺むるは
 思ひも同じ 思ひなるらむ
  物思いされながら眺めていらっしゃる空を同じく眺めていますのは
  娘もきっと同じ気持ちだからなのでしょう
 
111  となむ見たまふる。
 いと好き好きしや」
 と拝察してます。
 大変に色めいたことで、恐縮でございます」
112  と聞こえたり。
 陸奥紙に、いたう古めきたれど、書きざまよしばみたり。
 「げにも、好きたるかな」と、めざましう見たまふ。
 御使に、なべてならぬ玉裳などかづけたり。
 
 とお返事申し上げた。
 陸奥紙にひどく古風な書き方だが、筆跡はしゃれていた。
 「なるほど、色っぽく書いたものだ」と、目を見張って御覧になる。
 入道はお使者に並々ならぬ女装束などを与えた。
 
113  またの日、  翌日、
114  「宣旨書きは、見知らずなむ」とて、  「代筆のお手紙を頂戴したのは、初めてです」とあって、
 

226
 「いぶせくも 心にものを 悩むかな
 やよやいかにと 問ふ人もなみ
 「悶々として心の中で悩んでおります
  いかがですかと尋ねてくださる人もいないので
 
115  『言ひがたみ』」  『恋しいとも言いがたいので……』」
116  と、このたびは、いといたうなよびたる薄様に、いとうつくしげに書きたまへり。
 若き人のめでざらむも、いとあまり埋れいたからむ。
 めでたしとは見れど、なずらひならぬ身のほどの、いみじうかひなければ、なかなか、世にあるものと、尋ね知りたまふにつけて、涙ぐまれて、さらに例の動なきを、せめて言はれて、浅からず染めたる紫の紙に、墨つき濃く薄く紛らはして、
 と、今度は、たいそうしなやかな薄様に、とても美しそうにお書きになっていた。
 若い女性が素晴らしいと思わなかったら、あまりに引っ込み思案というものであろう。
 ご立派なとは思うものの、比較にならないわが身の程がひどくふがいないので、かえって自分のような女がいるということを、お知りになり訪ねてくださるにつけて、自然と涙ぐまれて、まったく例によって動こうとしないのを責められ促されて、深く香をたきしめた紫の紙に、墨つきも濃く薄く書き紛らわして、
 

227
 「思ふらむ 心のほどや やよいかに
 まだ見ぬ人の 聞きか悩まむ」
 「思って下さるとおっしゃいますが、その真意はいかがなものでしょうか
  まだ見たこともない方が噂だけで悩むということがあるのでしょうか」
 
117  手のさま、書きたるさまなど、やむごとなき人にいたう劣るまじう、上衆めきたり。
 
 筆跡や出来ぐあいなどは、高貴な婦人方に比べてもたいして見劣りがせず、貴婦人といった感じである。
 
118  京のことおぼえて、をかしと見たまへど、うちしきりて遣はさむも、人目つつましければ、二、三日隔てつつ、つれづれなる夕暮れ、もしは、ものあはれなる曙などやうに紛らはして、折々、同じ心に見知りぬべきほど推し量りて、書き交はしたまふに、似げなからず。
 
 京の事が思い出されて、興趣深いと御覧になるが、続けざまに手紙を出すのも人目が憚られるので、二、三日置きに、所在ない夕暮や、もしくはしみじみとした明け方などに紛らわして、それらの時々に同じ思いをしているにちがいない時を推量して書き交わしなさると、相手として不似合いではない。
 
119  心深う思ひ上がりたるけしきも、見ではやまじと思すものから、良清が領じて言ひしけしきもめざましう、年ごろ心つけてあらむを、目の前に思ひ違へむもいとほしう思しめぐらされて、「人進み参らば、さる方にても、紛らはしてむ」と思せど、女はた、なかなかやむごとなき際の人よりも、いたう思ひ上がりて、ねたげにもてなしきこえたれば、心比べにてぞ過ぎける。
 
 思慮深く気位高くかまえている様子も、是非とも会わないと気がすまないと、お思いになる一方で、良清がわがもの顔に言っていた様子もしゃくにさわるし、長年心にかけていただろうことを、彼の目の前で失望させるのも気の毒にご思案されて、「相手が進んで参ったような恰好ならば、そのようなことにして、うやむやのうちに事をはこぼう」とお思いになるが、女は女で、かえって高貴な身分の方以上にたいそう気位高くかまえていて、いまいましく思うようにお仕向け申しているので、意地の張り合いで日が過ぎて行ったのであった。
 
120  京のことを、かく関隔たりては、いよいよおぼつかなく思ひきこえたまひて、「いかにせまし。
 たはぶれにくくもあるかな。
 忍びてや、迎へたてまつりてまし」と、思し弱る折々あれど、「さりとも、かくてやは、年を重ねむと、今さらに人悪ろきことをば」と、思し静めたり。
 
 京の事をこのように関よりも遠くに行った今では、ますます気がかりにお思い申し上げなさって、「どうしたものだろう。
 あの『冗談でない……』ことだ。
 こっそりとお迎え申してしまおうか」と、お気弱になられる時々もあるが、「そうかといって、こうして何年も過せようかと、今さら体裁の悪いことを」と、お思い静めになった。
 
 
 

第八段 都の天変地異

 
121  その年、朝廷に、もののさとししきりて、もの騒がしきこと多かり。
 三月十三日、雷鳴りひらめき、雨風騒がしき夜、帝の御夢に、院の帝、御前の御階のもとに立たせたまひて、御けしきいと悪しうて、にらみきこえさせたまふを、かしこまりておはします。
 聞こえさせたまふことも多かり。
 源氏の御事なりけむかし。
 
 その年、朝廷では、神仏のお告げが続いてあって、物騒がしいことが多くあった。
 三月十三日に、雷が鳴りひらめき雨風が激しかった夜に、帝の御夢の中に、故院の帝が御前の階段の下にお立ちあそばして、ひどく御機嫌が悪く帝をお睨み申し上げあそばすので、帝は畏まっておいであそばす。
 お話し申し上げあそばすことが多かった。
 源氏のお身の上の事であったのだろう。
 
122  いと恐ろしう、いとほしと思して、后に聞こえさせたまひければ、  帝はたいそう恐ろしく、またおいたわしく思し召されて、母大后にお申し上げあそばしたのだが、
123  「雨など降り、空乱れたる夜は、思ひなしなることはさぞはべる。
 軽々しきやうに、思し驚くまじきこと」
 「雨などが降り、天候が荒れている夜には、思い込んでいることが夢に現れるのでございます。
 何とも軽々しい振る舞いに、お驚きあそばすものではありませぬ」
124  と聞こえたまふ。
 
 とお諌め申される。
 
125  にらみたまひしに、目見合はせたまふと見しけにや、御目患ひたまひて、堪へがたう悩みたまふ。
 御つつしみ、内裏にも宮にも限りなくせさせたまふ。
 
 故父院がお睨みになったときに、眼をお見合わせになったと思し召してか、その後眼病をお患になって、堪えきれないほどお苦しみになる。
 御物忌みを、宮中でも大后のお邸でも、数知れずお執り行わせあそばす。
 
126  太政大臣亡せたまひぬ。
 ことわりの御齢なれど、次々におのづから騒がしきことあるに、大宮もそこはかとなう患ひたまひて、ほど経れば弱りたまふやうなる、内裏に思し嘆くこと、さまざまなり。
 
 太政大臣がお亡くなりになった。
 無理もないお年ではあるが、次々に自然と騒がしいことが起こって来る上に、大后宮もどことなくお具合が悪くなって、日がたつにつれ弱って行かれる様子なので、主上におかれてもお嘆きになることが、あれやこれやと尽きない。
 
127  「なほ、この源氏の君、まことに犯しなきにてかく沈むならば、かならずこの報いありなむとなむおぼえはべる。
 今は、なほもとの位をも賜ひてむ」
 「やはり、この源氏の君が、真実に無実の罪でこのように沈んでいるならば、必ずその報いがあるだろうと思われます。
 今は、やはり元の位階を授けましょう」
128  とたびたび思しのたまふを、  と度々お考えになって仰せになるが、
129  「世のもどき、軽々しきやうなるべし。
 罪に懼ぢて都を去りし人を、三年をだに過ぐさず許されむことは、世の人もいかが言ひ伝へはべらむ」
 「世間の非難が、軽々しいというでしょう。
 罪を恐れて都を去った人を、わずか三年も過ぎないうちに赦されるようなことは、世間の人もどのように言い伝えることでしょう」
130  など、后かたく諌めたまふに、思し憚るほどに月日かさなりて、御悩みども、さまざまに重りまさらせたまふ。
 
 などと、大后は固くお諌めになるので、ためらっていらっしゃるうちに月日がたって、お二方の御病気もそれぞれ次第に重くなって行かれる。
 
 
 

第三章 明石の君の物語 結婚の喜びと嘆きの物語

 
 

第一段 明石の侘び住まい

 
131  明石には、例の、秋、浜風のことなるに、一人寝もまめやかにものわびしうて、入道にも折々語らはせたまふ。
 
 明石では、例によって、秋は浜風が格別に身にしみて、独り寝も本当に何となく淋しくて、入道にも時々話をおもちかけになる。
 
132  「とかく紛らはして、こち参らせよ」  「何とか人目に立たないようにして、娘をこちらに差し向けなさい」
133  とのたまひて、渡りたまはむことをばあるまじう思したるを、正身はた、さらに思ひ立つべくもあらず。
 
 とおっしゃって、ご自身からいらっしゃることは決してないようにお思いになっているが、娘は娘でまた、まったく出向く気などはない。
 
134  「いと口惜しき際の田舎人こそ、仮に下りたる人のうちとけ言につきて、さやうに軽らかに語らふわざをもすなれ、人数にも思されざらむものゆゑ、我はいみじきもの思ひをや添へむ。
 かく及びなき心を思へる親たちも、世籠もりて過ぐす年月こそ、あいな頼みに、行く末心にくく思ふらめ、なかなかなる心をや尽くさむ」と思ひて、「ただこの浦におはせむほど、かかる御文ばかりを聞こえかはさむこそ、おろかならね。
 年ごろ音にのみ聞きて、いつかはさる人の御ありさまをほのかにも見たてまつらむなど、思ひかけざりし御住まひにて、まほならねどほのかにも見たてまつり、世になきものと聞き伝へし御琴の音をも風につけて聞き、明け暮れの御ありさまおぼつかなからで、かくまで世にあるものと思し尋ぬるなどこそ、かかる海人のなかに朽ちぬる身にあまることなれ」
 「まったく取るに足りない身分の田舎者ならば、一時的に下向した人の甘い言葉に乗って、そのように軽く良い仲になることもあろうが、一人前の夫人として思ってくださらないだろうから、わたしはたいへんつらい物思いの種を増すことだろう。
 あのように及びもつかぬ高望みをしている両親も、未婚の間で過ごしているうちは、当てにならないことを当てにして、将来に希望をかけていようが、かえって心配が増ることであろう」と思って、「ただこの浦に君がいらっしゃる間は、このようなお手紙だけをやりとりさせていただけるのは、並々ならぬ幸せなこと。
 長年噂にだけ聞いて、いつの日にかそのような方のご様子をちらっとでも拝見しようなどと、思いもしなかったお住まいで、よそながらもちらと拝見でき、また世にも素晴らしいと聞き伝えていたお琴の音をも風に乗せて聴くことができ、毎日のお暮らしぶりもはっきりと見聞きし、このようにまでわたしに対してご関心いただくのは、このような海人の中に混じって朽ち果てた身にとっては、過分の幸せだわ」
135  など思ふに、いよいよ恥づかしうて、つゆも気近きことは思ひ寄らず。
 
 などと思うと、ますます気後れがして、少しもお側近くに上がることなどは考えもしない。
 
136  親たちは、ここらの年ごろの祈りの叶ふべきを思ひながら、  両親は、長年の念願が今にも叶いそうに思いながらも、
137  「ゆくりかに見せたてまつりて、思し数まへざらむ時、いかなる嘆きをかせむ」  「不用意にお見せ申して、もし相手にもしてくださらなかった時は、どんなに悲しい思いをするだろうか」
138  と思ひやるに、ゆゆしくて、  と想像すると、心配でたまらず、
139  「めでたき人と聞こゆとも、つらういみじうもあるべきかな。
 目にも見えぬ仏、神を頼みたてまつりて、人の御心をも、宿世をも知らで」
 「立派な方とは申しても、辛く堪らないことであるよ。
 目に見えない仏や神を信じ申して、君のお心や娘の運命をも分からないままに……」
140  など、うち返し思ひ乱れたり。
 君は、
 などと、改めて思い悩んでいた。
 
141  「このころの波の音に、かの物の音を聞かばや。
 さらずは、かひなくこそ」
 一方で、君は、 「この頃の波の音に合わせて、あの琴の音色を聴きたいものだ。
 それでなかったら、何にもならない」
142  など、常はのたまふ。
 
 などと、いつもおっしゃっていた。
 
 
 

第二段 明石の君を初めて訪ねる

 
143  忍びて吉しき日見て、母君のとかく思ひわづらふを聞き入れず、弟子どもなどにだに知らせず、心一つに立ちゐ、かかやくばかりしつらひて、十三日の月のはなやかにさし出でたるに、ただ「あたら夜の」と聞こえたり。
 
 こっそりと吉日を調べて、母君があれこれと心配するのには耳もかさず、弟子たちにさえ知らせず、自分の一存で一生懸命に世話をやき、輝くばかりに部屋を整えて、十三夜の月が明るくさし出た時分に、ただ「惜しいこの夜の月を」と申し上げた。
 
144  君は、「好きのさまや」と思せど、御直衣たてまつりひきつくろひて、夜更かして出でたまふ。
 御車は二なく作りたれど、所狭しとて、御馬にて出でたまふ。
 惟光などばかりをさぶらはせたまふ。
 やや遠く入る所なりけり。
 道のほども、四方の浦々見わたしたまひて、思ふどち見まほしき入江の月影にも、まづ恋しき人の御ことを思ひ出できこえたまふに、やがて馬引き過ぎて、赴きぬべく思す。
 
 君は、「風流ぶっているな」とお思いになるが、お直衣をお召しになり身なりを整えて、夜が更けるのを待ってお出かけになる。
 お車はまたとなく立派に整えたが、それは仰々しいと考えて、お馬でお出かけになる。
 惟光などぐらいをお供させなさる。
 そこは少し遠く奥まった所であった。
 道すがら四方の浦々をお見渡しになって、あの『恋人どうしで眺めたい入江』の月影を見るにつけても、まずは恋しい人の御ことをお思い出し申さずにはいらっしゃれないので、そのまま馬で通り過ぎて上京してしまいたく思われなさる。
 
 

228
 「秋の夜の 月毛の駒よ 我が恋ふる
 雲居を翔れ 時の間も見む」
 「秋の夜の月毛の駒よ、わが恋する都へ天翔っておくれ
  束の間でもあの人に会いたいので」
 
145  と、うちひとりごたれたまふ。
 
 と思わず独り言が口から漏れる。
 
146  造れるさま、木深く、いたき所まさりて、見どころある住まひなり。
 海のつらはいかめしうおもしろく、これは心細く住みたるさま、「ここにゐて、思ひ残すことはあらじ」と、思しやらるるに、ものあはれなり。
 三昧堂近くて、鐘の声、松風に響きあひて、もの悲しう、岩に生ひたる松の根ざしも、心ばへあるさまなり。
 前栽どもに虫の声を尽くしたり。
 ここかしこのありさまなど御覧ず。
 娘住ませたる方は、心ことに磨きて、月入れたる真木の戸口、けしきばかり押し開けたり。
 
 造りざまは、木が深く繁ってひどく感心する所があって、結構な住まいである。
 海辺の住まいは堂々として興趣に富み、こちらの家はひっそりとした住まいの様子で、「ここで暮らしたら、どんな物思いもし残すことはなかろう」と自然と想像されて、しみじみとした思いにかられる。
 三昧堂が近くにあって、鐘の音が松風に響き合ってもの悲しく、巌に生えている松の根ざしも情趣ある様子である。
 前栽などに秋の虫が盛りに鳴いている。
 あちらこちらの様子を御覧になる。
 娘を住ませている建物は格別に美しくしつらえてあって、月の光を入れた真木の戸口は、ほんの気持ちばかり開けてある。
 
147  うちやすらひ、何かとのたまふにも、「かうまでは見えたてまつらじ」と深う思ふに、もの嘆かしうて、うちとけぬ心ざまを、「こよなうも人めきたるかな。
 さしもあるまじき際の人だに、かばかり言ひ寄りぬれば、心強うしもあらずならひたりしを、いとかくやつれたるに、あなづらはしきにや」とねたう、さまざまに思し悩めり。
 「情けなうおし立たむも、ことのさまに違へり。
 心比べに負けむこそ、人悪ろけれ」など、乱れ怨みたまふさま、げにもの思ひ知らむ人にこそ見せまほしけれ。
 
 君は少しためらいがちに何かと言葉をおかけになるが、娘は「こんなにまでお側近くには上がるまい」と深く決心していたので、何となく嘆かわしくて、気を許さない娘の態度を、「ずいぶんと貴婦人ぶっているな。
 容易に近づきがたい高貴な身分の女でさえ、わたしがこれほど近づいて言葉をかけてしまえば、気強く拒むことはないのであったが、このように落ちぶれているので、見くびっているのだろうか」といまいましくて、いろいろと悩んでいるようである。
 「容赦なく無理じいするのも、意向に背くことになる。
 かといって根比べに負けたりしたら、体裁の悪いことだ」などと、千々に心乱れてお恨みになるご様子は、本当に物の情趣を理解する人に見せたいものである。
 
148  近き几帳の紐に、箏の琴の弾き鳴らされたるも、けはひしどけなく、うちとけながら掻きまさぐりけるほど見えてをかしければ、  近くの几帳の紐に触れて箏の琴が音をたてたのも、感じが取り繕ってなく、くつろいだ普段のまま琴を弄んでいた様子が想像されて、興趣あるので、
149  「この、聞きならしたる琴をさへや」  「お声ばかりでなく、この噂に聞いていた琴の音までも聴かせてくれないのですか」
150  など、よろづにのたまふ。
 
 などと、いろいろとおっしゃる。
 
 

229
 「むつごとを 語りあはせむ 人もがな
 憂き世の夢も なかば覚むやと」
 「睦言を語り合える相手が欲しいものです
  この辛い世の夢がいくらかでも覚めやしないかと」
 

230
 「明けぬ夜に やがて惑へる 心には
 いづれを夢と わきて語らむ」
 「闇の夜にそのまま迷っておりますわたしには
  どちらが夢か現実かと区別してお話し相手になれましょう」
 
151  ほのかなるけはひ、伊勢の御息所にいとようおぼえたり。
 何心もなくうちとけてゐたりけるを、かうものおぼえぬに、いとわりなくて、近かりける曹司の内に入りて、いかで固めけるにか、いと強きを、しひてもおし立ちたまはぬさまなり。
 されど、さのみもいかでかあらむ。
 
 ほのかな感じは、伊勢の御息所にとてもよく似ていた。
 何も知らずにくつろいでいたところを、こう意外なお出ましとなったので、たいそう困って、近くにある曹司の中に入って、どのように戸締りしたものか、固く閉ざしているのを、無理して開けようとはなさらない様子である。
 けれども、いつまでもそうしてばかりいられようか。
 
152  人ざま、いとあてに、そびえて、心恥づかしきけはひぞしたる。
 かうあながちなりける契りを思すにも、浅からずあはれなり。
 御心ざしの、近まさりするなるべし、常は厭はしき夜の長さも、とく明けぬる心地すれば、「人に知られじ」と思すも、心あわたたしうて、こまかに語らひ置きて、出でたまひぬ。
 
 人柄はとても上品で、すらりとした姿態で気後れするような感じがする。
 このような無理に結んだ契りをお思いになるにつけても、ひとしおいとしい思いが増すのである。
 情愛が逢ってますます思いが募るのであろう、いつもは嫌でたまらない秋の夜の長さもすぐに明けてしまった気持ちがするので、「人に知られまい」とお思いになると気がせかれて、心をこめたお言葉を残してお出になった。
 
153  御文、いと忍びてぞ今日はある。
 あいなき御心の鬼なりや。
 ここにも、かかることいかで漏らさじとつつみて、御使ことことしうももてなさぬを、胸いたく思へり。
 
 後朝のお手紙はこっそりと今日は届けられる。
 つまらない良心の呵責であるよ。
 入道方でも、このようなことを何とか世間に知られまいと隠して、お使者を仰々しくもてなせないのを残念に思った。
 
154  かくて後は、忍びつつ時々おはす。
 「ほどもすこし離れたるに、おのづからもの言ひさがなき海人の子もや立ちまじらむ」と思し憚るほどを、「さればよ」と思ひ嘆きたるを、「げに、いかならむ」と、入道も極楽の願ひをば忘れて、ただこの御けしきを待つことにはす。
 今さらに心を乱るも、いといとほしげなり。
 
 こうしてから後は、こっそりと時々お通いになる。
 「距離も少し離れて遠いので、自然と口さがない海人の子どもがいるかも知れない」とおためらいになる途絶えがあるのを、「やはり、思っていたとおりだわ」と嘆いているので、「なるほど、どうなることやら」と、入道も極楽往生の願いも忘れて、ただ君のお通いを待つことばかりである。
 今さら心を乱すのも、とても気の毒なことである。
 
 
 

第三段 紫の君に手紙

 
155  二条の君の、風のつてにも漏り聞きたまはむことは、「たはぶれにても、心の隔てありけると、思ひ疎まれたてまつらむ、心苦しう恥づかしう」思さるるも、あながちなる御心ざしのほどなりかし。
 「かかる方のことをば、さすがに、心とどめて怨みたまへりし折々、などて、あやなきすさびごとにつけても、さ思はれたてまつりけむ」など、取り返さまほしう、人のありさまを見たまふにつけても、恋しさの慰む方なければ、例よりも御文こまやかに書きたまひて、
 二条院の君がこのことを風の便りにでも漏れお聞きなさるようなことは、「遊び事にもせよ、隠しだてをしたのだと、お疎み申されるのは、申し訳なくも恥ずかしいことだ」とお思いになるのも、あまりなご愛情の深さというものであろう。
 「こういう方面のことは、穏和な方とはいえ、気になさってお恨みになった折々に、どうして、つまらない忍び歩きにつけても、そのようなつらい思いをおさせ申したのだろうか」などと、昔を今に取り戻したく、女の有様を御覧になるにつけても、恋しく思う気持ちが慰めようがないので、いつもよりお手紙を心こめてお書きになって、
156  「まことや、我ながら心より外なるなほざりごとにて、疎まれたてまつりし節々を、思ひ出づるさへ胸いたきに、また、あやしうものはかなき夢をこそ見はべりしか。
 かう聞こゆる問はず語りに、隔てなき心のほどは思し合はせよ。
 『誓ひしことも』」など書きて、
 「ところで、そうそう、自分ながら心にもない出来心を起こして、お恨まれ申した時々のことを思い出すのさえ胸が痛くなりますのに、またしても変なつまらない夢を見たのです。
 このように申し上げます問わず語りに、わたしの隠しだてしない胸の中だけはご理解ください。
 『誓ったことは』」などと書いて、
157  「何事につけても、  「何事につけても、
 

231
 しほしほと まづぞ泣かるる かりそめの
 みるめは海人の すさびなれども」
  あなたのことが思い出されて、さめざめと泣けてしまいます
  かりそめの恋は海人のわたしの遊び事ですけれども」
 
158  とある御返り、何心なくらうたげに書きて、  とあるお返事は、何のこだわりもなくかわいらしげに書いて、
159  「忍びかねたる御夢語りにつけても、思ひ合はせらるること多かるを、  「隠しきれずに打ち明けてくださった夢のお話につけても、思い当たることが多くございますが、
 

232
 うらなくも 思ひけるかな 契りしを
 松より波は 越えじものぞと」
  固い約束をしましたので、何の疑いもなく信じておりました
   『末の松山』のように、心変わりはないものと」
 
160  おいらかなるものから、ただならずかすめたまへるを、いとあはれに、うち置きがたく見たまひて、名残久しう、忍びの旅寝もしたまはず。
 
 鷹揚な書きぶりながら、お恨みをこめてほのめかしていらっしゃるのを、とてもしみじみと思われ、下に置くこともできず御覧になって、その後は久しい間お忍び通いもなさらない。
 
 
 

第四段 明石の君の嘆き

 
161  女、思ひしもしるきに、今ぞまことに身も投げつべき心地する。
 
 女君は、予想通りの結果になったので、今こそほんとうに身を海に投げ入れてしまいたい心地がする。
 
162  「行く末短げなる親ばかりを頼もしきものにて、いつの世に人並々になるべき身と思はざりしかど、ただそこはかとなくて過ぐしつる年月は、何ごとをか心をも悩ましけむ、かういみじうもの思はしき世にこそありけれ」  「老い先短い両親だけを頼りにして、いつになったら人並みの境遇になれる身の上とも思っていなかったが、ただとりとめもなく過ごしてきた年月の間は、何事に心を悩ましたことがあったろうか、このようにひどく物思いのする結婚生活であったのだ」
163  と、かねて推し量り思ひしよりも、よろづに悲しけれど、なだらかにもてなして、憎からぬさまに見えたてまつる。
 
 と、以前から想像していた以上に、何事につけ悲しいけれど、穏やかに振る舞って、憎からぬ態度で君にお会い申し上げる。
 
164  あはれとは月日に添へて思しませど、やむごとなき方の、おぼつかなくて年月を過ぐしたまひ、ただならずうち思ひおこせたまふらむが、いと心苦しければ、独り臥しがちにて過ぐしたまふ。
 
 君もこの女君をいとしい人よと月日がたつにつれてだんだんお思いになっていくが、都のれっきとした方が、いつかいつかと自分の帰りを待って年月を送っていられ、一方ならずご心配なさっていらっしゃるだろうことが、とても気の毒なので、独り寝がちにお過ごしになる。
 
165  絵をさまざま描き集めて、思ふことどもを書きつけ、返りこと聞くべきさまにしなしたまへり。
 見む人の心に染みぬべきもののさまなり。
 いかでか、空に通ふ御心ならむ、二条の君も、ものあはれに慰む方なくおぼえたまふ折々、同じやうに絵を描き集めたまひつつ、やがて我が御ありさま、日記のやうに書きたまへり。
 いかなるべき御さまどもにかあらむ。
 
 君は絵をいろいろとお描き集めになって、それに思うことを書きつけて、その絵に女君から返歌を聞かれるようにという趣向にお作りなった。
 見る人の心にしみ入るような絵の様子である。
 どのようにして、お心が通じあっているのであろうか、二条院の女君も、悲しい気持ちが紛れることなくお思いになる時々は、同じように絵をたくさんお描きになって、そのままご自分の有様を、日記のようにお書きになっていた。
 さてこれから、どうなって行かれるお二方の身の上であろうか。
 
 
 

第四章 明石の君の物語 明石の浦の別れの秋の物語

 
 

第一段 七月二十日過ぎ、帰京の宣旨下る

 
166  年変はりぬ。
 内裏に御薬のことありて、世の中さまざまにののしる。
 当代の御子は、右大臣の女、承香殿の女御の御腹に男御子生まれたまへる、二つになりたまへば、いといはけなし。
 春宮にこそは譲りきこえたまはめ。
 朝廷の御後見をし、世をまつりごつべき人を思しめぐらすに、この源氏のかく沈みたまふこと、いとあたらしうあるまじきことなれば、つひに后の御諌めを背きて、赦されたまふべき定め出で来ぬ。
 
 年が変わった。
 主上におかせられては御不例のことがあって、世の中ではいろいろと取り沙汰する。
 今上の御子は、右大臣の娘で、承香殿の女御がお生みになった男御子がいらっしゃるが、二歳におなりなので、たいそう幼い。
 春宮に御譲位申されることであろう。
 朝廷の御後見をし、政権を担当すべき人をお考え廻らすと、この源氏の君がこのように沈んでいらっしゃることは、まことに惜しく不都合なことなので、ついに皇太后の御諌言にも背いて、御赦免になられる評定が下された。
 
167  去年より、后も御もののけ悩みたまひ、さまざまのもののさとししきり、騒がしきを、いみじき御つつしみどもをしたまふしるしにや、よろしうおはしましける御目の悩みさへ、このころ重くならせたまひて、もの心細く思されければ、七月二十余日のほどに、また重ねて、京へ帰りたまふべき宣旨下る。
 
 去年から、皇太后も御物の怪をお悩みになり、さまざまな前兆がしきりにあり、世間も騒がしいので、厳重な御物忌みなどをなさった効果があってか、悪くはなくおいであそばした御眼病までもが、この頃は重くおなりあそばして、何となく心細く思わずにはいらっしゃれなかったので、七月二十日過ぎに、再度重ねて、帰京なさるよう宣旨が下る。
 
168  つひのことと思ひしかど、世の常なきにつけても、「いかになり果つべきにか」と嘆きたまふを、かうにはかなれば、うれしきに添へても、また、この浦を今はと思ひ離れむことを思し嘆くに、入道、さるべきことと思ひながら、うち聞くより胸ふたがりておぼゆれど、「思ひのごと栄えたまはばこそは、我が思ひの叶ふにはあらめ」など、思ひ直す。
 
 いつかはこうなることと思っていたが、世の中の定めないことにつけても、「どういうことになってしまうのだろうか」とお嘆きになるが、このように急なので、嬉しいと思うとともに、また一方で、この浦を今を限りと離れることをお嘆き悲しみになるが、入道も当然そうなることとは思いながらも、それを聞くなり胸のつぶれる気持ちがするが、「思い通りにお栄えになってこそ、自分の願いも叶うことなのだ」などと、思い直す。
 
 
 

第二段 明石の君の懐妊

 
169  そのころは、夜離れなく語らひたまふ。
 六月ばかりより心苦しきけしきありて悩みけり。
 かく別れたまふべきほどなれば、あやにくなるにやありけむ、ありしよりもあはれに思して、「あやしうもの思ふべき身にもありけるかな」と思し乱る。
 
 そのころは、毎夜お通いになってお語らいになる。
 六月頃から懐妊の兆候が現れて苦しんでいるのであった。
 このようにお別れなさらねばならない時なので、あいにくご愛情もいや増すというのであろうか、以前よりもいとしくお思いになって、「不思議と物思いせずにはいられない、わが身であることよ」とお悩みになる。
 
170  女は、さらにも言はず思ひ沈みたり。
 いとことわりなりや。
 思ひの外に悲しき道に出で立ちたまひしかど、「つひには行きめぐり来なむ」と、かつは思し慰めき。
 
 女君は、さらにいうまでもなく思い沈んでいる。
 まことに無理もないことであるよ。
 思いもかけない悲しい旅路にお立ちになったが、「けっきょくは帰京するであろう」と、一方ではお慰めになっていた。
 
171  このたびはうれしき方の御出で立ちの、「またやは帰り見るべき」と思すに、あはれなり。
 
 今度は嬉しい都へのご出発であるが、「二度とここに来るようなことはあるまい」とお思いになると、しみじみと感慨無量である。
 
172  さぶらふ人びと、ほどほどにつけてはよろこび思ふ。
 京よりも御迎へに人びと参り、心地よげなるを、主人の入道、涙にくれて、月も立ちぬ。
 
 お供の人々は、それぞれ身分に応じて喜んでいる。
 京からもお迎えに人々が参り、愉快そうにしているが、主人の入道は涙にくれているうちに、月が替わった。
 
173  ほどさへあはれなる空のけしきに、「なぞや、心づから今も昔も、すずろなることにて身をはふらかすらむ」と、さまざまに思し乱れたるを、心知れる人びとは、  季節までもしみじみとした空の様子なので、「どうして自分から求めて今も昔も、埒もない恋のために憂き身をやつすのだろう」と、さまざまに思い悩んでいらっしゃるのを、事情を知っている人々は、
174  「あな憎、例の御癖ぞ」  「ああ、困った方だ。
 いつものお癖だ」
175  と、見たてまつりむつかるめり。
 
 と拝見し、忌ま忌ましがっているようである。
 
176  「月ごろは、つゆ人にけしき見せず、時々はひ紛れなどしたまへるつれなさを」  「ここ数月来、全然、誰にもそぶりもお見せにならず、時々人目を忍んでお通いになっていらっしゃった冷淡さだったのに」
177  「このころ、あやにくに、なかなかの、人の心づくしにか」  「最近は、あいにくと、かえって、女が嘆きを増すことであろうに」
178  と、つきしろふ。
 少納言、しるべして聞こえ出でし初めのことなど、ささめきあへるを、ただならず思へり。
 
 と、互いに陰口をたたき合う。
 源少納言良清は、ご紹介申した当初の頃のことなどささやき合っているのを、おもしろからず思っていた。
 
 
 

第三段 離別間近の日

 
179  明後日ばかりになりて、例のやうにいたくも更かさで渡りたまへり。
 さやかにもまだ見たまはぬ容貌など、「いとよしよししう、気高きさまして、めざましうもありけるかな」と、見捨てがたく口惜しう思さる。
 「さるべきさまにして迎へむ」と思しなりぬ。
 さやうにぞ語らひ慰めたまふ。
 
 ご出発の日が明後日ほどになって、いつものようにあまり夜が更けないうちにお越しになった。
 まだはっきりと御覧になっていない女君の容貌などを、「とても風情があり、気高い様子をしていて、目を見張るような美しさだ」と、お見捨てにくく残念にお思いになる。
 「しかるべき手筈を整えて京に迎えよう」とお考えになった。
 そのように約束してお慰めになる。
 
180  男の御容貌、ありさまはた、さらにも言はず。
 年ごろの御行なひにいたく面痩せたまへるしも、言ふ方なくめでたき御ありさまにて、心苦しげなるけしきにうち涙ぐみつつ、あはれ深く契りたまへるは、「ただかばかりを、幸ひにても、などか止まざらむ」とまでぞ見ゆめれど、めでたきにしも、我が身のほどを思ふも、尽きせず。
 波の声、秋の風には、なほ響きことなり。
 塩焼く煙かすかにたなびきて、とりあつめたる所のさまなり。
 
 男君のお顔だちやお姿は改めていうまでもない。
 長い間のご勤行にひどく面痩せなさっていらっしゃるのが、いいようもなく立派なご様子で、痛々しいご様子に涙ぐみながらしみじみと固いお約束なさるのは、「ただ一時の逢瀬だけでも幸せと思って、諦めてもいいのではないか」とまで思われもするが、源氏の君のご立派さにつけて、わが身のほどを思うと、悲しみは尽きない。
 波の音が秋の風の中では、やはり響きは格別である。
 塩焼く煙がかすかにたなびいて、何もかもが悲しい所の様子である。
 
 

233
 「このたびは 立ち別るとも 藻塩焼く
 煙は同じ 方になびかむ」
 「今はいったんお別れしますが、藻塩焼く煙が同じ方向にたなびいているようにいずれは一緒に暮らしましょう」
 
181  とのたまへば、  とお詠みになると、
 

234
 「かきつめて 海人のたく藻の 思ひにも
 今はかひなき 恨みだにせじ」
 「あれこれと何とも悲しい気持ちでいっぱいですが
  今は申しても甲斐のないことですから、お恨みはいたしません」
 
182  あはれにうち泣きて、言少ななるものから、さるべき節の御応へなど浅からず聞こゆ。
 この、常にゆかしがりたまふ物の音など、さらに聞かせたてまつらざりつるを、いみじう恨みたまふ。
 
 せつなげに涙ぐんで、言葉少なではあるが、しかるべきお返事などは心をこめて申し上げる。
 あの、いつもお聴きになりたがっていらっしゃった琴の音色など、これまで一度もお聴かせ申さなかったのを、たいそうお恨みになる。
 
183  「さらば、形見にも偲ぶばかりの一琴をだに」  「それでは、形見として思い出になるよう、せめて一節だけでも」
184  とのたまひて、京より持ておはしたりし琴の御琴取りに遣はして、心ことなる調べをほのかにかき鳴らしたまへる、深き夜の澄めるは、たとへむ方なし。
 
 とおっしゃって、京から持っていらっしゃった琴のお琴を取りにやって、格別に風情のある一曲をほのかに掻き鳴らしていらっしゃる、その夜更けの澄んだ音色は、たとえようもなく素晴しい。
 
185  入道、え堪へで箏の琴取りてさし入れたり。
 みづからも、いとど涙さへそそのかされて、とどむべき方なきに、誘はるるなるべし、忍びやかに調べたるほど、いと上衆めきたり。
 入道の宮の御琴の音を、ただ今のまたなきものに思ひきこえたるは、「今めかしう、あなめでた」と、聞く人の心ゆきて、容貌さへ思ひやらるることは、げに、いと限りなき御琴の音なり。
 
 入道もたまりかねて箏の琴を取って御簾の内に差し入れた。
 娘自身も、ますます涙まで催されて止めようもないので、気持ちをそそられるのであろう、ひそやかに音色を調べた風情は、まことに気品のある奏法である。
 入道の宮のお琴の音色を今の世に類のないものとお思い申し上げているのは、「当世風で、ああ、素晴らしい」と、聴く人の心がほれぼれとして、その御器量までが自然と想像されるのは、なるほど、まことにこの上ないお琴の音色なのである。
 
186  これはあくまで弾き澄まし、心にくくねたき音ぞまされる。
 この御心にだに、初めてあはれになつかしう、まだ耳なれたまはぬ手など、心やましきほどに弾きさしつつ、飽かず思さるるにも、「月ごろ、など強ひても、聞きならさざりつらむ」と、悔しう思さる。
 心の限り行く先の契りをのみしたまふ。
 
 それに対して、こちらはどこまでも冴えた音色で、奥ゆかしく憎らしいほどの音色が優れていた。
 この君でさえ、これまで経験したことのないくらいにしみじみと心惹きつけられる感じで、まだお聴きつけにならない曲などを、もっと聴いていたいと感じさせる程度に、弾き止め弾き止めして、物足りなくお思いになるにつけても、「いく月も、どうして無理してでも、聴き親しまなかったのだろう」と、残念にお思いになる。
 心をこめて将来のお約束をなさるばかりである。
 
187  「琴は、また掻き合はするまでの形見に」  「この琴は、再び掻き合わせをするまでの形見に」
188  とのたまふ。
 女、
 とおっしゃる。
 女君は、
 

235
 「なほざりに 頼め置くめる 一ことを
 尽きせぬ音にや かけて偲ばむ」
 「軽いお気持ちでおっしゃるお言葉でしょうが
  その一言を悲しくて泣きながら心にかけて、お偲び申します」
 
189  言ふともなき口すさびを、恨みたまひて、  と言うともなく口ずさみなさるのを、お恨みになって、
 

236
 「逢ふまでの かたみに契る 中の緒の
 調べはことに 変はらざらなむ
 「今度逢う時までの形見に残した琴の中の緒の調子のように
  二人の仲の愛情も、格別変わらないでいて欲しいものです
 
190  この音違はぬさきにかならずあひ見む」  この琴の絃の調子が変らないうちに必ず逢いましょう」
191  と頼めたまふめり。
 されど、ただ別れむほどのわりなさを思ひ咽せたるも、いとことわりなり。
 
 とお約束なさるようである。
 それでも、ただ別れる時のつらさを思ってむせび泣いているのも、まことに無理はない。
 
 
 

第四段 離別の朝

 
192  立ちたまふ暁は、夜深く出でたまひて、御迎への人びとも騒がしければ、心も空なれど、人まをはからひて、  ご出立になる朝は、まだ夜の深いうちにお出になって、お迎えの人々も騒がしいので、心も上の空であるが、人のいない合間を見はからって、
 

237
 「うち捨てて 立つも悲しき 浦波の
 名残いかにと 思ひやるかな」
 「あなたを置いて明石の浦を旅立つわたしも悲しい気がしますが
  後に残ったあなたはさぞやどのような気持ちでいられることかお察しします」
 
193  御返り、  お返事は、

238
 「年経つる 苫屋も荒れて 憂き波の
 返る方にや 身をたぐへまし」
 「長年住みなれたこの苫屋も、あなた様が立ち去った後は荒れはてて
  つらい思いをしましょうから、いっそ打ち返す波に身を投げてしまおうかしら」
 
194  と、うち思ひけるままなるを見たまふに、忍びたまへど、ほろほろとこぼれぬ。
 心知らぬ人びとは、
 と、お気持ちのままのお歌であるのを御覧になると、堪えていらっしゃったが、ほろほろと涙がこぼれてしまった。
 事情を知らない供人たちは、
195  「なほかかる御住まひなれど、年ごろといふばかり馴れたまへるを、今はと思すは、さもあることぞかし」  「やはりこのようなお住まいであるが、一年ほどもお住み馴れになったので、いよいよ立ち去るとなると、悲しくお思いになるのももっともなことだ」
196  など見たてまつる。
 
 などと、拝見する。
 
 
197  良清などは、「おろかならず思すなめりかし」と、憎くぞ思ふ。
 
 良清などは、「並々ならずお思いでいらっしゃるようだ」と、いまいましく思っている。
 
198  うれしきにも、「げに、今日を限りに、この渚を別るること」などあはれがりて、口々しほたれ言ひあへることどもあめり。
 されど、何かはとてなむ。
 
 嬉しいにつけても、「なるほど、今日限りで、この浦を去ることよ」などと、名残を惜しみ合って、口々に涙ぐんで挨拶をし合っているようだ。
 けれど、いちいちお話する必要もあるまい。
 
199  入道、今日の御まうけ、いといかめしう仕うまつれり。
 人びと、下の品まで、旅の装束めづらしきさまなり。
 いつの間にかしあへけむと見えたり。
 御よそひは言ふべくもあらず。
 御衣櫃あまたかけさぶらはす。
 まことの都の苞にしつべき御贈り物ども、ゆゑづきて、思ひ寄らぬ隈なし。
 今日たてまつるべき狩の御装束に、
 入道は今日のお支度をたいそう盛大に用意した。
 お供の人々には下々の者にまで、旅の装束を立派に整えてある。
 いつの間にこんなに準備したのだろうかと思われた。
 君のご装束はいうまでもない。
 み衣櫃を幾棹となく荷なわせお供をさせる。
 実に都への土産にできるお贈り物類は、立派な物で、気のつかないところがない。
 今日お召しになるはずの狩衣のご装束に、
 

239
 「寄る波に 立ちかさねたる 旅衣
 しほどけしとや 人の厭はむ」
 「ご用意致しました旅のご装束は寄る波の
  涙に濡れていまので、お厭いになられましょうか」
 
200  とあるを御覧じつけて、騒がしけれど、  とあるのをお見つけになって、騒がしい最中ではあるが、
 

240
 「かたみにぞ 換ふべかりける 逢ふことの
 日数隔てむ 中の衣を」
 「お互いに形見として着物を交換しましょう
  また逢える日までの間の二人の仲の、この中の衣を」
 
201  とて、「心ざしあるを」とて、たてまつり替ふ。
 御身になれたるどもを遣はす。
 げに、今一重偲ばれたまふべきことを添ふる形見なめり。
 えならぬ御衣に匂ひの移りたるを、いかが人の心にも染めざらむ。
 
 とおっしゃって、「せっかくのご好意だから」と言って、お召し替えになる。
 そしてお身に着けていらしたのを女君にお遣りになる。
 なるほど、もう一つお偲びになるよすがを添えた形見のようである。
 素晴らしいお召し物に移り香が匂っているのを、どうして相手の心にも染みないことがあろうか。
 
202  入道、  入道は、
203  「今はと世を離れはべりにし身なれども、今日の御送りに仕うまつらぬこと」  「きっぱりと世を捨てました出家の身ですが、今日のお見送りにお供申しませんことが……」
204  など申して、かひをつくるもいとほしながら、若き人は笑ひぬべし。
 
 などと申し上げて、べそをかいているのも気の毒だが、若い人ならきっと笑ってしまうであろう。
 
 

241
 「世をうみに ここらしほじむ 身となりて
 なほこの岸を えこそ離れね
 「世の中が嫌になって長年この海浜の汐風に吹かれて暮らして来たが
  なお依然として子の故に此岸を離れることができずにおります
 
205  心の闇は、いとど惑ひぬべくはべれば、境までだに」と聞こえて、  娘を思う親の心は、ますます迷ってしまいそうでございますから、せめて国境までなりとも」と申し上げて、
206  「好き好きしきさまなれど、思し出でさせたまふ折はべらば」  「あだめいた事を申すようでございますが、もし娘のことをお思い出してくださることがございましたら……」
207  など、御けしき賜はる。
 いみじうものをあはれと思して、所々うち赤みたまへる御まみのわたりなど、言はむかたなく見えたまふ。
 
 などと、ご内意を頂戴する。
 たいそう気の毒にお思いになって、お顔の所々を赤くしていらっしゃるお目もとのあたりがなどが、何ともいいようなくお見えになる。
 
208  「思ひ捨てがたき筋もあめれば、今いととく見直したまひてむ。
 ただこの住みかこそ見捨てがたけれ。
 いかがすべき」とて、
 「放っておきがたい事情もあるので、きっと今すぐにお思い直しくださるでしょう。
 ただ、この住まいが見捨てがたいのです。
 どうしたものでしょう」とおっしゃって、
 

242
 「都出でし 春の嘆きに 劣らめや
 年経る浦を 別れぬる秋」
 「都を立ち去ったあの春の悲しさに決して劣ろうか
  年月を過ごしてきたこの浦を離れる悲しい秋は」
 
209  とて、おし拭ひたまへるに、いとどものおぼえず、しほたれまさる。
 立ちゐもあさましうよろぼふ。
 
 とお詠みになって、涙を拭っていらっしゃると、入道はますます分別を失ってさらに涙を流す。
 立居もままならず転びそうになる。
 
 
 

第五段 残された明石の君の嘆き

 
210  正身の心地、たとふべき方なくて、かうしも人に見えじと思ひ沈むれど、身の憂きをもとにて、わりなきことなれど、うち捨てたまへる恨みのやる方なきに、たけきこととは、ただ涙に沈めり。
 母君も慰めわびては、
 娘ご本人の気持ちは、たとえようもないくらいで、こんなに深く悲嘆していると誰にも見せまいと気持ちを静めていたが、わが身のつたなさがもとで、無理のないことではあるが、君がお残しになって行かれた恨みの晴らしようがないのにつけ、せいぜいできることは、ただ涙に沈むばかりである。
 母君も慰めるのに困って、
211  「何に、かく心尽くしなることを思ひそめけむ。
 すべて、ひがひがしき人に従ひける心のおこたりぞ」
 「どうして、こんなに気を揉むようなことを思いついたのでしょう。
 あれもこれも、偏屈な主人に従ったわたしの失敗でした」
212  と言ふ。
 
 と言う。
 
213  「あなかまや。
 思し捨つまじきこともものしたまふめれば、さりとも、思すところあらむ。
 思ひ慰めて、御湯などをだに参れ。
 あな、ゆゆしや」
 「まあ、静かに。
 お捨て置きになれない事情もおありになるようですから、今は別れたといっても、お考えになっていることがございましょう。
 気持ちを落ち着かせて、せめてお薬湯などでも召し上がれ。
 ああ、縁起でもない」
214  とて、片隅に寄りゐたり。
 乳母、母君など、ひがめる心を言ひ合はせつつ、
 と言って、片隅に座っていた。
 乳母、母君などは、偏屈な心をそしり合いながら、
215  「いつしか、いかで思ふさまにて見たてまつらむと、年月を頼み過ぐし、今や、思ひ叶ふとこそ頼みきこえつれ、心苦しきことをも、もののはじめに見るかな」  「早く早く、何とか願い通りにしてお世話申そうと、長い年月を期待して過ごしてき、今や、その願いが叶ったと頼もしくお思い申したのに、気の毒にも、事の初めから味わおうとは」
216  と嘆くを見るにも、いとほしければ、いとどほけられて、昼は日一日、寝をのみ寝暮らし、夜はすくよかに起きゐて、「数珠の行方も知らずなりにけり」とて、手をおしすりて仰ぎゐたり。
 
 と嘆くのを見るにつけても、かわいそうなので、ますます頭がぼんやりしてきて、昼は一日中、寝てばかり暮らし、夜はすっくと起き出して、「数珠の在りかも分からなくなってしまった」と言って、手をすり合わさせて茫然としていた。
 
217  弟子どもにあはめられて、月夜に出でて行道するものは、遣水に倒れ入りにけり。
 よしある岩の片側に腰もつきそこなひて、病み臥したるほどになむ、すこしもの紛れける。
 
 弟子たちに軽蔑されて、月夜に庭先に出て行道をしたにはしたのだが、遣水の中に落ち込んだりするのであった。
 風流な岩の突き出た角に腰をぶっつけて、怪我をして寝込むことになって、ようやく物思いも少し紛れるのであった。
 
 
 

第五章 光る源氏の物語 帰京と政界復帰の物語

 
 

第一段 難波の御祓い

 
218  君は、難波の方に渡りて御祓へしたまひて、住吉にも、平らかにて、いろいろの願果たし申すべきよし、御使して申させたまふ。
 にはかに所狭うて、みづからはこのたびえ詣でたまはず、ことなる御逍遥などなくて、急ぎ入りたまひぬ。
 
 君は、難波の方面に渡って、お祓いをなさって、住吉の神にもお蔭で無事であったので、改めていろいろと願ほどきのお礼を申し上げる旨を、お使いの者に申させなさる。
 急に大勢の供回りとなったので、ご自身は今回はお参りすることがおできになれず、格別のご遊覧などもなくて、京に急いでお入りになった。
 
219  二条院におはしまし着きて、都の人も、御供の人も、夢の心地して行き合ひ、喜び泣きどもゆゆしきまで立ち騷ぎたり。
 
 二条院にお着きになって、都の人もお供の人も、夢のような心地がして再会し、喜んで泣くのも縁起が悪いくらいまで大騷ぎした。
 
220  女君も、かひなきものに思し捨てつる命、うれしう思さるらむかし。
 いとうつくしげにねびととのほりて、御もの思ひのほどに、所狭かりし御髪のすこしへがれたるしも、いみじうめでたきを、「今はかくて見るべきぞかし」と、御心落ちゐるにつけては、また、かの飽かず別れし人の思へりしさま、心苦しう思しやらる。
 なほ世とともに、かかる方にて御心の暇ぞなきや。
 
 女君も、生きていても甲斐ないとまでお思い棄てていた命を、嬉しくお思いのことであろう。
 とても美しくご成人なさって、ご心労の間にうるさいほどあったお髪が少し減ったのも、かえってたいそう素晴らしいのを、「今はもうこうして毎日お会いできるのだ」と、お心が落ち着くにつけても、また一方では、心残りの別れをしてきた人が悲しんでいた様子を痛々しくお思いやらずにはいられない。
 やはり源氏の君は、いつになってもこのような方面ではお心の休まる時のないことであるよ。
 
221  その人のことどもなど聞こえ出でたまへり。
 思し出でたる御けしき浅からず見ゆるを、ただならずや見たてまつりたまふらむ、わざとならず、「身をば思はず」など、ほのめかしたまふぞ、をかしうらうたく思ひきこえたまふ。
 かつ、「見るにだに飽かぬ御さまを、いかで隔てつる年月ぞ」と、あさましきまで思ほすに、取り返し、世の中もいと恨めしうなむ。
 
 あの明石の女のことなどをお話し申し上げなさった。
 お思い出しになるご様子が一通りのお気持ちでなく見えるので、並々のご愛着ではないと拝見するのであろうか、さりげなく、『わたしの身の上は思いませんが』などと、ちらっと嫉妬なさるのが、しゃれていていじらしいとお思い申し上げなさる。
 また一方で、「見ていてさえ見飽きることのないご様子を、どうして長い年月会わずにいられたのだろうか」と、信じられないまでの気持ちがするので、今さらながら、まことに世の中が恨めしく思われる。
 
222  ほどもなく、元の御位あらたまりて、員より外の権大納言になりたまふ。
 次々の人も、さるべき限りは元の官返し賜はり、世に許さるるほど、枯れたりし木の春にあへる心地して、いとめでたげなり。
 
 まもなく元のお位に復して、定員外の権大納言におなりになる。
 以下の人々も、しかるべき者は皆元の官を返し賜わって世に復帰するのは、枯れていた木が春にめぐりあった心地で、たいそうめでたい感じである。
 
 
 

第二段 源氏、参内

 
223  召しありて、内裏に参りたまふ。
 御前にさぶらひたまふに、ねびまさりて、「いかで、さるものむつかしき住まひに年経たまひつらむ」と見たてまつる。
 女房などの、院の御時さぶらひて、老いしらへるどもは、悲しくて、今さらに泣き騒ぎめできこゆ。
 
 お召しがあって、参内なさる。
 御前に伺候していらっしゃると、いよいよご立派になられて、「どのようしてあのような辺鄙な土地で長年お暮らしになっていたのだろう」と人々は拝見する。
 女房などの中で、故院の御在世中からお仕えしていて、年老いた人たちは悲しくて、今さらのように泣き騒いでお褒め申し上げる。
 
224  主上も、恥づかしうさへ思し召されて、御よそひなどことに引きつくろひて出でおはします。
 御心地、例ならで、日ごろ経させたまひければ、いたう衰へさせたまへるを、昨日今日ぞ、すこしよろしう思されける。
 御物語しめやかにありて、夜に入りぬ。
 
 主上も恥ずかしくまで思し召されて、御装束なども格別におつくろいになってお出ましになる。
 お加減がすぐれない状態でここ数日おいであそばしたので、ひどくお弱りあそばしていらっしゃったが、昨日今日は少しよろしくお感じになるのであった。
 お話をしみじみとなさって夜に入った。
 
225  十五夜の月おもしろう静かなるに、昔のこと、かき尽くし思し出でられて、しほたれさせたまふ。
 もの心細く思さるるなるべし。
 
 十五夜の月が美しく静かなので、昔のことを一つ一つ自然とお思い出しになられてお泣きあそばす。
 何となく心細くお思いあそばさずにはいられないのであろう。
 
226  「遊びなどもせず、昔聞きし物の音なども聞かで、久しうなりにけるかな」  「管弦の催しなどもせず、昔聞いたあなたの楽の音なども聞かないで、久しくなってしまったね」
227  とのたまはするに、  と仰せになるので、
 

243
 「わたつ海に しなえうらぶれ 蛭の児の
 脚立たざりし 年は経にけり」
 「海浜でうちしおれて落ちぶれながら蛭子のように
  立つこともできず三年を過ごして来ました」
 
228  と聞こえたまへり。
 いとあはれに心恥づかしう思されて、
 とお応え申し上げなさった。
 とても胸をうち心恥しく思わずにはいらっしゃれないので、
 

244
 「宮柱 めぐりあひける 時しあれば
 別れし春の 恨み残すな」
 「こうしてめぐり会える時があったのだから
  あの別れた春の恨みはもう忘れてください」
 
229  いとなまめかしき御ありさまなり。
 
 実に優美な御様子である。
 
230  院の御ために、八講行はるべきこと、まづ急がせたまふ。
 春宮を見たてまつりたまふに、こよなくおよすげさせたまひて、めづらしう思しよろこびたるを、限りなくあはれと見たてまつりたまふ。
 御才もこよなくまさらせたまひて、世をたもたせたまはむに、憚りあるまじく、かしこく見えさせたまふ。
 
 君は、故院の御追善供養のために法華御八講を催しなさることを、何より先にご準備させなさる。
 春宮にお目にかかりなさると、すっかりと御成人あそばして、珍しくお喜びになっているのを、感慨無量のお気持ちで拝しなさる。
 御学問もこの上なくご上達になって、天下をお治めあそばすにも、何の心配もいらないように、ご立派にお見えあそばす。
 
231  入道の宮にも、御心すこし静めて、御対面のほどにも、あはれなることどもあらむかし。
 
 入道の宮にも、お心を少し落ち着けて、ご対面の折には、しみじみとしたお話がきっとあったことであろう。
 
 
 

第三段 明石の君への手紙、他

 
232  まことや、かの明石には、返る波に御文遣はす。
 ひき隠してこまやかに書きたまふめり。
 
 そうそう、あの明石には、送って来た者たちが帰って行くのにことづけて、お手紙をお遣わしになる。
 人目に見られないようにして情愛こまやかにお書きになったようである。
 
233  「波のよるよるいかに、  「波の寄せる夜々は、どのように、
 

245
 嘆きつつ 明石の浦に 朝霧の
 立つやと人を 思ひやるかな」
  お嘆きになりながら暮らしていらっしゃる明石の浦には
  嘆きの息が朝霧となって立ちこめているのではないかと思いやっています」
 
234  かの帥の娘五節、あいなく、人知れぬもの思ひさめぬる心地して、まくなぎつくらせてさし置かせけり。
 
 あの大宰大弐の娘の五節君は、どうにもならないことだが、人知れずご好意をお寄せ申していたのも醒めてしまった感じがして、使の者に、誰ともしらせず目くばせさせて置いて行かせたのであった。
 
 

246
 「須磨の浦に 心を寄せし 舟人の
 やがて朽たせる 袖を見せばや」
 「須磨の浦で好意をお寄せ申した舟人が
  そのまま涙で朽ちさせてしまった袖をお見せ申しとうございます」
 
235  「手などこよなくまさりにけり」と、見おほせたまひて、遣はす。
 
 「筆跡などはたいそう上手になったものよ」と、お見抜きになって、返事をお遣わしになる。
 
 

247
 「帰りては かことやせまし 寄せたりし
 名残に袖の 干がたかりしを」
 「かえってこちらこそ愚痴を言いたいくらいです、ご好意を寄せていただいて
  それ以来涙に濡れて袖が乾かないものですから」
 
236  「飽かずをかし」と思しし名残なれば、おどろかされたまひて、いとど思し出づれど、このごろは、さやうの御振る舞ひ、さらにつつみたまふめり。
 
 「いかにもかわいい」とお思いになった昔の思い出もあるので、はっとびっくりさせられなさってますますいとしくお思い出しになるが、最近はそのようなお忍び歩きはまったく慎んでいらっしゃるようである。
 
237  花散里などにも、ただ御消息などばかりにて、おぼつかなく、なかなか恨めしげなり。
 
 花散里などにも、ただお手紙などばかりなので、心もとなく思われて、かえって恨めしそうである。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 浪にのみ濡れつるものを吹く風の便りうれしき海人の釣舟(後撰集雑三-一二二四 紀貫之)(戻)  
  出典2 漁する与謝の海人びとほこるらむ浦風ぬるく霞わたれり(恵慶集-一)(戻)  
  出典3 淡路にてあはとはるかに見し月の近き今宵は心からかも(新古今集雑上-一五一五 凡河内躬恒)(戻)  
  出典4 まだ宵にうち来てたたく水鶏かな誰が門さして入れぬなるらむ(源氏釈所引、出典未詳)(戻)  
  出典5 松風に耳慣れにける山伏は琴を琴とも思はざりけり(花鳥余情所引、出典未詳)(戻)  
  出典6 伊勢の海の 清き渚に しほがひに なのりそや摘まむ 貝や拾はむや 玉や拾はむや(催馬楽-伊勢の海)(戻)  
  出典7 思ふには忍ぶることぞ負けにける色には出でじと思ひしものを(古今集恋一-五〇三 読人しらず)(戻)  
  出典8 うれしさを昔は袖につつみけり今宵は身にもあまりぬるかな(新勅撰集賀-四五六 読人しらず)うれしきを何につつまむ唐衣袂豊かに裁てと言はましを(古今集雑上-八六五 読人しらず)(戻)  
  出典9 ありぬやと試みがてら逢ひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき(古今集俳諧歌-一〇二五 読人しらず)(戻)  
  出典10 あたら夜の月と花とを同じくはあはれ知れらむ人に見せばや(後撰集春下-一〇三 源信明)(戻)  
  出典11 思ふどちいざ見に行かむ玉津島入り江の底に沈む月影(源氏釈所引、出典未詳)(戻)  
  出典12 久方の月毛の駒をうち早め来ぬらむとのみ君を待つかな(古今六帖二-一四三〇)(戻)  
  出典13 忘れじと誓ひしことをあやまたば三笠の山の神もことわれ(源氏釈所引、出典未詳)(戻)  
  出典14 君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ(古今集東歌-一〇九三 陸奥歌)契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは(元輔集-二一八)(戻)  
  出典15 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔)(戻)  
  出典16 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな(拾遺集恋四-八七〇 右近)(戻)  
  出典17 陸奥の安積の沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたらむ(古今集恋四-六七七 読人しらず)(戻)  
  出典18 かぞいろはいかにあはれと思ふらむ三年になりぬ足立たずして(和漢朗詠下-六九七 大江朝綱)(戻)  
  出典19 いたづらに立ち返りにし白波の名残に袖のひる時もなし(後撰集恋四-八八四 藤原朝忠)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 騒がれて--さはかさ(さ/$<朱>)れて(戻)  
  校訂2 いとど--(ひきあくるより/$<朱>)いとど(戻)  
  校訂3 あやしき--(いと/$<朱>)あやしき(戻)  
  校訂4 吹き出でて--吹いてつゝ(て/+て、つゝ/$)(戻)  
  校訂5 あやまちにて--あやまち(ち/+に)て(戻)  
  校訂6 見--(/+み)(戻)  
  校訂7 え--(/+え<朱>)(戻)  
  校訂8 払はず--はゝ(ゝ/$ら<朱>)はす(戻)  
  校訂9 終ふる--ゝ(ゝ/$お)ふる(戻)  
  校訂10 かの国の--かの(の/+国の)(戻)  
  校訂11 はべりつれど--侍れ(れ/+つれイ)と(戻)  
  校訂12 ここにも--こゝに(に/+も)(戻)  
  校訂13 よし--よしを(を/$<朱>)(戻)  
  校訂14 うつつざま--うつゝ(ゝ/+さま<朱>)(戻)  
  校訂15 げに--けふ(ふ/$に)(戻)  
  校訂16 目の--め(め/+の)(戻)  
  校訂17 何ごとか--なにことかは(は/#)(戻)  
  校訂18 田の実--た(た/+の<朱>)み(戻)  
  校訂19 まづ--(/+まつ)(戻)  
  校訂20 なつかしき--なつかし(し/+き)(戻)  
  校訂21 あの--あ(あ/+の)(戻)  
  校訂22 おぼつかなながら--おほつかなく(く/$+な)から(戻)  
  校訂23 思されぬに--おほされぬる(る/#に<朱>)(戻)  
  校訂24 こと--か(か/$こ)と(戻)  
  校訂25 あてなるに--あてなさ(さ/$る)に(戻)  
  校訂26 など--(/+なと)(戻)  
  校訂27 聞き--(/+きゝ)(戻)  
  校訂28 思うたまへ--思ひ(思ひ/#おもふ給へ)(戻)  
  校訂29 わが--我我(我/#)(戻)  
  校訂30 古人は--*る人は(戻)  
  校訂31 箏--*笙(生/#笙)(戻)  
  校訂32 だに--(/+た)に(戻)  
  校訂33 これも--これの(の/#も)(戻)  
  校訂34 箏--*笙(戻)  
  校訂35 まからば--まから(ら/#ら)は(戻)  
  校訂36 恥づかしう--はつかし(し/+う)(戻)  
  校訂37 思ふに--思ひ(ひ/#に)(戻)  
  校訂38 心の--こゝろ(ろ/+の)(戻)  
  校訂39 御目--御めに(に/#)(戻)  
  校訂40 わざ--は(は/$わ)さ(戻)  
  校訂41 前栽どもに虫の声を尽くしたり--(/+前栽ともに虫のこゑをつくしたり)(戻)  
  校訂42 ばかり--ことに(ことに/#はかり)(戻)  
  校訂43 胸--む(む/+ね)(戻)  
  校訂44 ことをば--ことをを(を/#)は(戻)  
  校訂45 さ--(/+さ)(戻)  
  校訂46 なければ--なけれ(れ/+は)(戻)  
  校訂47 書きて--かきてはてに(はてに/#)(戻)  
  校訂48 なり--(/+なり)(戻)  
  校訂49 にか--(/+に)か(戻)  
  校訂50 思し--おほしめし(めし/#)(戻)  
  校訂51 なかなかの--中/\(/\/+の)(戻)  
  校訂52 など--な(な/+と)(戻)  
  校訂53 咽せ--むせひ(ひ/#)(戻)  
  校訂54 御住まひ--御すさ(さ/#ま)ひ(戻)  
  校訂55 良清--よしきよと(と/#)(戻)  
  校訂56 さぶらはす--*たまはす(戻)  
  校訂57 笑ひ--わ(わ/+ら)ひ(戻)  
  校訂58 ものの--*物(戻)  
  校訂59 所狭うて--所せう(う/+て)(戻)  
  校訂60 入り--ま(ま/#)いり(戻)  
  校訂61 おはしまし--おはし(し/+まし<朱>)(戻)  
  校訂62 思さるらむ--おほさるらむも(も/#)(戻)  
  校訂63 へがれ--つ(つ/#へ)かれ(戻)  
  校訂64 いかで--いかて/\(/\/#)(戻)  
  校訂65 かき尽くし--かき(き/+つ<朱>)くし(し/$<朱>)(戻)  
  校訂66 と--な(な/#)と(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。