平家物語 巻第三 公卿揃:概要と原文

御産 平家物語
巻第三
公卿揃
くぎょうぞろえ
異:付 公卿揃
大塔建立

〔概要〕
 
 平徳子(清盛の娘)が産んだ言仁親王(安徳天皇)の誕生祝いに、関白・太政大臣以下三十三人以上の公卿がそろって六波羅の清盛宅に挨拶。(以上Wikipedia『平家物語の内容』に基づき加筆)

 


 
 御乳には、前右大将宗盛卿の北の方と定められたりしが、去んぬる七月に難産をして失せ給ひしかば、平大納言時忠卿の北の方、御乳に参らせ給ひけり。後には帥典侍とぞ申しける。法皇やがて還御、門前に御車をたてられたり。入道相国うれしさのあまりに、砂金一千両、富士の綿二千両、法皇へ進上せらる。しかるべからずとぞ人申しける。
 

 今度の御産に勝事あまたあり。まづ法皇の御験者。次に后の御産の時御殿の棟より甑を転ばかす事ありけり。皇子御誕生には南へ落とし、皇女誕生には北へ落とすを、これは北へ落としたりければ、急ぎとりあげ、落としなほしたりけれども、なほ悪しき事にぞ人申しける。をかしかりしは、入道相国のあきれざま、めでたかりしは小松の大臣の振る舞ひ、本意なかりしは、前右大将宗盛卿の最愛の北の方におくれ給ひて、大納言、大将両職を辞して、籠居せられし事、兄弟ともに出仕あらば、いかにめでたからん。
 次に七人の陰陽師を召して、千度の御祓ひつかまつる。その中に、掃部頭時晴といふ老者あり。所従なども乏少なりけるが、人多く参りつどひ、たかんなを混み、稲麻竹葦のごとし。「役人ぞ、あけられ候へ」とて、押し分け押し分け参るほどに、いかがはしたりけん、右の沓を踏み脱がれぬ。そこにてちと立ちやすらふが、冠をさへ突き落とされて、さばかんの砌に、束帯正しき老者が髻はなつてねり出でたりければ、若き公卿殿上人はこらへずして、一度にどつとぞ笑ひ給へり。陰陽師などいふは、反陪とて足をもあだにふまずとこそ承れ。それにかかる不思議のありけるを、その時は何ともおぼえざりけれども、後にこそ思ひ合はする事ども多かりけれ。
 

 御産によつて六波羅へ参らせ給ふ人々、関白松殿、太政大臣妙音院、左大臣大炊御門、右大臣月輪殿、内大臣小松殿、左大将実定、源大納言定房、三条大納言実房、五条大納言邦綱、藤大納言実国、按察使資賢、中御門中納言宗家、花山院中納言兼雅、源中納言雅頼、権中納言実綱、藤中納言資長、池中納言頼盛、左衛門督時忠、別当忠親、左宰相中将実家、右宰相の中将実宗、新宰相中将通親、平宰相教盛、六角宰相家通、堀河宰相頼定、左大弁宰相長賢、右大弁三位俊経、左兵衛督重範、右兵衛督光能、皇太后大夫朝方、左京大夫脩範、太宰大弐親信、新三位実清、以上三十三人、右大弁のほかは直衣なり。不参の人々には、花山院前太政大臣忠雅公、大宮大納言隆季卿以下十余人、後日に布衣着して、入道相国の西八条の亭へ参りむかはれけるとぞ聞こえし。
 

御産 平家物語
巻第三
公卿揃
くぎょうぞろえ
異:付 公卿揃
大塔建立

しかるべからずの贈り物の解釈

 
 

 清盛は、安産祈願に異例にも加わった後白河法皇に砂金一千両、富士の綿二千両を進上したが、これがそうすべきではない(しかるべからず)と評された。
 この何が「しかるべからず」なのか、明らかではなく、その解釈が問題となる(これを解説する本は見る限りない)。なお、このしかるべからずという人の評はしばしば皇室関連の要所で登場し、著者の理由を明示しない批判ということを示す定型句と解すべきものである。

 

 この点、①清盛はこの後で後白河を幽閉する(法皇被流)など、武家と公家で権勢維持向上に相互利用しつつ反目する立場にあること、②続く金渡で「黄金…千両を育王山の僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、小松殿の申されつるやうをつぶさに奏聞せられければ、帝も大きに感じ思し召して」と、同じ分量で身分の軽重の意義を持たせていることから、ここでの進呈は、重んじるべき所に軽い物を当てがった象徴的意味の描写と解される。金すら砂金で、上述のように黄金と砂金は平家物語は区別している。

 送り先は天皇経験者であるから、贈り物だからと喜ばない(世間=市場にあるなら自分で買える)。意図と動機を考える。そして皇子が生まれた清盛が素直に感謝する動機はない。
 巻四の大衆揃(公卿揃と名実共に対)では「昔、鳥羽院(後白河の先代)の御時、金を千両宋朝の御門へ参らせ給ひたりければ、返報とおぼしくて、生きたる蝉のごとくに、節のついたる笛竹を一節参らつさせ給ひけり…この御笛を吹かれけるに、世の常の笛のやうに思ひ忘れて、膝より下に置かれたりければ笛やとがめけん、その時蝉折れにけり。さてこそ蝉折とは召されけれ」とあり、日本側は宝物として喜んだが蝉は一つに短い命を象徴し、笛でその主を蝉に見立てる。

 

 以上まとめると、この進上は清盛が慶事に乗じ、法皇に古来の統治者の流儀(非常に微妙な嫌味)で今風に言えばマウントをとった出来事として描かれた。自分もその一員どころか最早その筆頭。揃えた公卿三十三人もその意味で、三十三間堂は後白河法皇が清盛に資材協力を命じ1165年に完成したとされ、ここでの安徳天皇誕生は1178年。続く大塔建立の「百八十間の廻廊を作られけり」はこの関連の示唆と見る。