源氏物語 51帖 浮舟:あらすじ・目次・原文対訳

東屋 源氏物語
第三部
第51帖
浮舟
蜻蛉

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 浮舟(うきふね)のあらすじ(一部にさむしろとの異名もある)

 薫27歳の春の話。

 薫〔源氏の幼妻と柏木の子・頭中将の孫〕浮舟〔読者による通称。八の宮の三女・源氏の姪〕を宇治の山荘に放置したまま、訪れるのも間遠であった。一方、匂宮〔今上帝の三宮。源氏の異母兄(朱雀帝)の孫・中君の夫〕は二条院で見かけた女〔浮舟〕のことが忘れられない。正月、中君〔匂宮の妻、浮舟の姉〕のもとに届いた文を見て女の居所を知った匂宮は、薫の邸の事情に通じている家臣に探らせ、女が薫の囲い人として宇治に住んでいることを知る。匂宮はある夜、ひそかに宇治を訪れ、薫を装って寝所に忍び入り、浮舟と強引に契りを結んでしまう。人違いに気づくも時すでに遅く、浮舟は重大な過失におののくが、淡白な薫と異なって情熱的に愛情を表現する匂宮へと、次第に心惹かれていくのだった。

 二月、ようやく宇治を訪れた薫は、浮舟の思い悩むさまを女として成長したものと誤解して喜び、京へ迎える約束をする。宮中の詩宴の夜、浮舟を思って古歌を口ずさむ薫の様子に焦りを覚えた匂宮は、雪を冒して再び宇治に赴き、浮舟を宇治川対岸の隠れ家へ連れ出し、そこで二日間を過ごした。

 薫は浮舟を京に迎える準備を進めていた。匂宮はその前に浮舟を引き取ろうと言う。何も知らずに上京の準備を手伝う母中将の君に苦悩を打ち明けることもできず、浮舟は宇治川の流れを耳にしながら物思う。ある日、宇治で薫と匂宮両者の使者が鉢合わせしたことからこの秘密は薫に知られ、薫からは心変わりを詰る内容の文が届いた。薫に秘密を知られてしまい、ショックを受ける浮舟。やむなく、「宛て先が違っている」ということにして、文を送り返した〔※物語最後と同じ〕。宇治の邸は薫によって警戒体制が敷かれ、匂宮は焦りを募らせる。

 薫に恨みの歌を送られ、匂宮との板ばさみになって進退窮まった浮舟はついに死を決意する。死を間近に、薫や匂宮、母や中君を恋しく思いながら、浮舟は匂宮と母にのみ最後の文を書きしたためた。

 鐘の音の絶ゆるるひびきに音をそへて わが世尽きぬと君に伝へよ

(以上Wikipedia浮舟(源氏物語)より。色づけと〔〕と下線は本ページ)

  本巻は、浮舟という女性の呼称の由来となる、彼女を象徴する大事な巻。
  彼女は終盤3巻(東屋・浮舟・手習)だけで、紫上の23首を超える怒涛の26首を詠み、女性で最も歌が多い人物となる(源氏・薫・夕霧に続く4位)。
  浮舟13首・手習12首、他方薫は総角12首・宿木10首が最高。客観的指標で見て、物語で一番大事な女性(不適格の薫を拒絶)。著者の強い怒りの代弁者。一度死んだことになり出家騒動が起きるのも紫上と同じ。
 

目次
和歌抜粋内訳#浮舟(22首:別ページ)
主要登場人物
 
第51帖 浮舟(うきふね)
 薫君の大納言時代
 二十六歳十二月から
 二十七歳の春雨の降り続く三月頃までの物語
 
第一章 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を聞く
第二章 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に
第三章 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す
第四章 匂宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す
第五章 浮舟、恋の板ばさみに、入水を思う
第六章 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う
第七章 浮舟、母へ告別の和歌を詠み残す
 
 
第一章 匂宮の物語
 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を聞き知る
 第一段 匂宮、浮舟を追想し、中君を恨む
 第二段 薫、浮舟を宇治に放置
 第三段 薫と中君の仲
 第四段 正月、宇治から京の中君への文
 第五段 匂宮、手紙の主を浮舟と察知す
 第六段 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を知る
 第七段 匂宮、薫の噂を聞き知り喜ぶ
 
第二章 浮舟と匂宮の物語
 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む
 第一段 匂宮、宇治行きを大内記に相談
 第二段 匂宮、馬で宇治へ赴く
 第三段 匂宮、浮舟とその女房らを覗き見る
 第四段 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む
 第五段 翌朝、匂宮、京へ帰らず居座る
 第六段 右近、匂宮と浮舟の密事を隠蔽す
 第七段 右近、浮舟の母の使者の迎えを断わる
 第八段 匂宮と浮舟、一日仲睦まじく過ごす
 第九段 翌朝、匂宮、京へ帰る
 
第三章 浮舟と薫の物語
 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す
 第一段 匂宮、二条院に帰邸し、中君を責める
 第二段 明石中宮からと薫の見舞い
 第三段 二月上旬、薫、宇治へ行く
 第四段 薫と浮舟、それぞれの思い
 第五段 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す
 
第四章 浮舟と匂宮の物語
 匂宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す
 第一段 二月十日、宮中の詩会催される
 第二段 匂宮、雪の山道の宇治へ行く
 第三段 匂宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す
 第四段 匂宮、浮舟に心奪われる
 第五段 匂宮、浮舟と一日を過ごす
 第六段 匂宮、京へ帰り立つ
 第七段 匂宮、二条院に帰邸後、病に臥す
 
第五章 浮舟の物語
 浮舟、恋の板ばさみに、入水を思う
 第一段 春雨の続く頃、匂宮から手紙が届く
 第二段 その同じ頃、薫からも手紙が届く
 第三段 匂宮、薫の浮舟を新築邸に移すことを知る
 第四段 浮舟の母、京から宇治に来る
 第五段 浮舟の母、弁の尼君と語る
 第六段 浮舟、母と尼の話から、入水を思う
 第七段 浮舟の母、帰京す
 
第六章 浮舟と薫の物語
 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う
 第一段 薫と匂宮の使者同士出くわす
 第二段 薫、匂宮が女からの文を読んでいるのを見る
 第三段 薫、随身から匂宮と浮舟の関係を知らされる
 第四段 薫、帰邸の道中、思い乱れる
 第五段 薫、宇治へ随身を遣わす
 第六段 右近と侍従、右近の姉の悲話を語る
 第七段 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う
 
第七章 浮舟の物語
 浮舟、匂宮にも逢わず、母へ告別の和歌を詠み残す
 第一段 内舎人、薫の伝言を右近に伝える
 第二段 浮舟、死を決意して、文を処分す
 第三段 三月二十日過ぎ、浮舟、匂宮を思い泣く
 第四段 匂宮、宇治へ行く
 第五段 匂宮、浮舟に逢えず帰京す
 第六段 浮舟の今生の思い
 第七段 京から母の手紙が届く
 第八段 浮舟、母への告別の和歌を詠み残す
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

薫(かおる)
源氏の子〔と一般にみなされる柏木の子、頭中将の孫〕
呼称:右大将・大将殿・大将・殿・君
匂宮(におうのみや)
今上帝の第三親王
呼称:兵部卿宮・宮
今上帝(きんじょうてい)
朱雀院の第一親王
呼称:帝・内裏
明石中宮(あかしのちゅうぐう)
源氏の娘
呼称:大宮・后の宮・宮
夕霧(ゆうぎり)
源氏の長男
呼称:右大臣・右の大殿・大臣・殿
女一の宮(おんないちのみや)
今上帝の第一内親王
呼称:姫宮・一品の宮
女二の宮(おんなにのみや)
今上帝の第二内親王
呼称:二の宮・女宮・帝の御女
中君(なかのきみ)
八の宮の二女
呼称:宮の上・宮の御方・対の御方・上・女君
浮舟(うきふね)
八の宮の三女
呼称:女君・御前・君・女
中将の君(ちゅうじょうのきみ)
浮舟の母
呼称:母君・母・親
弁尼君(べんのあまぎみ)
〔八の宮の義理の従姉妹、柏木の乳母子〕
呼称:尼君・尼
浮舟の乳母(うきふねのめのと)
呼称:おとど・乳母
時方(ときかた)
匂宮の従者
呼称:時方朝臣・左衛門大夫・出雲権守・守の君
大内記(だいないき)
匂宮の家来
呼称:道定朝臣・道定・内記・式部少輔・少輔
大蔵大輔(おおくらのたいふ)
道定の妻の父親
呼称:仲信・家司、薫の家司
右近(うこん)
大輔君の子
呼称:右近・大輔が娘
随身(ずいじん)
薫の随身
呼称:御随身・舎人
使者(ししゃ)
匂宮の使者
呼称:男

 
 以上の内容は〔〕以外、以下の原文のリンクから参照。
 
 
 

原文対訳

和歌 定家本
(明融臨模本
現代語訳
(渋谷栄一)
  浮舟
 
 

第一章 匂宮の物語 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を聞き知る

 
 

第一段 匂宮、浮舟を追想し、中君を恨む

 
   宮、なほ、かのほのかなりし夕べを思し忘るる世なし。
 「ことことしきほどにはあるまじげなりしを、人柄のまめやかにをかしうもありしかな」と、いとあだなる御心は、「口惜しくてやみにしこと」と、ねたう思さるるままに、女君をも、
 宮は、今もなお、あのちらっと御覧になった夕方をお忘れになる時とてない。
 「たいした身分ではけっしてなさそうであったが、人柄が誠実で魅力的であったなあ」と、とても浮気なご性分にとっては、「残念なところで終わってしまったことだ」と、悔しく思われなさるままに、女君に対しても、
   「かう、はかなきことゆゑ、あながちに、かかる筋のもの憎みしたまひけり。
 思はずに心憂し」
 「あのように、ちょっとしたことぐらいで、むやみに、このような方面の嫉妬をなさるなあ。
 思いがけなく情けない」
   と、恥づかしめ怨みきこえたまふ折々は、いと苦しうて、「ありのままにや聞こえてまし」と思せど、  と、悪口言って恨み申し上げなさる時々は、とてもつらくて、「ありのままに申し上げてしまおうかしら」とお思いになるが、
   「やむごとなきさまにはもてなしたまはざなれど、浅はかならぬ方に、心とどめて人の隠し置きたまへる人を、物言ひさがなく聞こえ出でたらむにも、さて聞き過ぐしたまふべき御心ざまにもあらざめり。
 
 「重々しい様子にはお扱いなさらないようだが、いいかげんでない扱いに、心とめて人が隠していらっしゃる女を、おしゃべりに申し上げてしまうようなのも、そのまま聞き流しなさるようなご性分の方ではいらっしゃらないようだ。
 
   さぶらふ人の中にも、はかなうものをものたまひ触れむと思し立ちぬる限りは、あるまじき里まで尋ねさせたまふ御さまよからぬ御本性なるに、さばかり月日を経て、思ししむめるあたりは、ましてかならず見苦しきこと取り出でたまひてむ。
 他より伝へ聞きたまはむはいかがはせむ。
 
 仕えている女房の中でも、ちょっと何かおっしゃり関係を持とうとお思いになった者にはすべて、身分柄あってはならない実家までお尋ねあそばすご体裁の良くないご性分なので、あれほど月日を経ても、お思い込んでいらっしゃるあたりの女は、女房の場合以上にきっと見苦しいことを引き起こしなさるだろう。
 他から伝え聞きなさるのはどうすることもできない。
 
   いづ方ざまにもいとほしくこそはありとも、防ぐべき人の御心ありさまならねば、よその人よりは聞きにくくなどばかりぞおぼゆべき。
 とてもかくても、わがおこたりにてはもてそこなはじ」
 どちらにとってもお気の毒ではあっても、それを防げる方のご性分でないので、他人の場合よりは聞きにくいなどとばかりに思われるだろう。
 どうなるにせよ、自分からの過失にはするまい」
   と思ひ返したまひつつ、いとほしながらえ聞こえ出でたまはず、異ざまにつきづきしくは、え言ひなしたまはねば、おしこめてもの怨じしたる、世の常の人になりてぞおはしける。
 
 と思い返しなさっては、お気の毒には思うが申し上げなさらず、嘘をついてもっともらしく言いつくろうことは、おできになれないので、黙りとおして嫉妬する、世の常の女になっていらっしゃった。
 
 
 

第二段 薫、浮舟を宇治に放置

 
   かの人は、たとしへなくのどかに思しおきてて、「待ち遠なりと思ふらむ」と、心苦しうのみ思ひやりたまひながら、所狭き身のほどを、さるべきついでなくて、かやしく通ひたまふべき道ならねば、神のいさむるよりもわりなし。
 されど、
 あの方は、たとえようもなくのんびりと構えていらっしゃって、「待ち遠しいと思っているだろう」と、お気の毒にはお思いやりになりながら、窮屈な身の上を、適当な機会がなくては、たやすくお通いになれる道ではないので、神が禁じている以上に困っている。
 けれども、
   「今いとよくもてなさむ、とす。
 山里の慰めと思ひおきてし心あるを、すこし日数も経ぬべきことども作り出でて、のどやかに行きても見む。
 さて、しばしは人の知るまじき住み所して、やうやうさる方に、かの心をものどめおき、わがためにも、人のもどきあるまじく、なのめにてこそよからめ。
 
 「いずれはたいそうよく扱ってやろう、と思う。
 山里の慰めと思っていた考えがあるが、少し日数のかかりそうな事柄を作り出して、のんびりと出かけて行って逢おう。
 そうして、しばらくの間は誰も知らない住処で、だんだんとそのようなことで、あの女の気持ちも馴れさせて、自分にとっても、他人から非難されないように、目立たぬようにするのがよいだろう。
 
   にはかに、何人ぞ、いつより、など聞きとがめられむも、もの騒がしく、初めの心に違ふべし。
 また、宮の御方の聞き思さむことも、もとの所を際々しう率て離れ、昔を忘れ顔ならむ、いと本意なし」
 急に迎えて、誰だろう、いつからだろう、などと取り沙汰されるのも、何となく煩わしく、当初の考えと違ってこよう。
 また、宮の御方がお聞きになってご心配になることも、もとの場所をきっぱりと離れて連れ出し、昔を忘れてしまったような顔なのも、まことに不本意だ」
   など思し静むるも、例の、のどけさ過ぎたる心からなるべし。
 渡すべきところ思しまうけて、忍びてぞ造らせたまひける。
 
 などと冷静に考えなさるのも、例によって、のんびりと構え過ぎた性分からであろう。
 引っ越しさせる所をお考えおいて、こっそりと造らせなさるのであった。
 
 
 

第三段 薫と中君の仲

 
   すこしいとまなきやうにもなりたまひにたれど、宮の御方には、なほたゆみなく心寄せ仕うまつりたまふこと同じやうなり。
 見たてまつる人もあやしきまで思へれど、世の中をやうやう思し知り、人のありさまを見聞きたまふままに、「これこそはまことに昔を忘れぬ心長さの、名残さへ浅からぬためしなめれ」と、あはれも少なからず。
 
 少し暇がないようにおなりになったが、宮の御方に対しては、やはりたゆまずお心寄せ申し上げなさることは以前と同じようである。
 拝見する女房も不思議なまでに思っているが、世の中をだんだんとお分かりになってきて、他人の様子を見たり聞いたりなさるにつけて、「この人こそは本当に昔を忘れない心長さが、引き続いて浅くない例のようだ」と、感慨も少なくない。
 
   ねびまさりたまふままに、人柄もおぼえも、さま殊にものしたまへば、宮の御心のあまり頼もしげなき時々は、  成人なさっていくにつれて、人柄も評判も、格別でいらっしゃるので、宮のお気持ちがあまりに頼りなさそうな時には、
   「思はずなりける宿世かな。
 故姫君の思しおきてしままにもあらで、かくもの思はしかるべき方にしもかかりそめけむよ」
 「思いもかけなかった運命であったわ。
 亡き姉君がお考えおいたとおりでもなく、このように悩みの多い結婚をしてしまったことよ」
   と思す折々多くなむ。
 されど、対面したまふことは難し。
 
 とお思いになる時々も多かった。
 けれども、お会いなさることは難しい。
 
   年月もあまり昔を隔てゆき、うちうちの御心を深う知らぬ人は、なほなほしきただ人こそ、さばかりのゆかり尋ねたる睦びをも忘れぬに、つきづきしけれ、なかなか、かう限りあるほどに、例に違ひたるありさまも、つつましければ、宮の絶えず思し疑ひたるも、いよいよ苦しう思し憚りたまひつつ、おのづから疎きさまになりゆくを、さりとても絶えず、同じ心の変はりたまはぬなりけり。
 
 年月もあまりに昔から遠ざかってきて、内々のご事情を深く知らない女房は、普通の身分の人なら、これくらいの縁者を求めて親交を忘れないのも、ふさわしいが、かえって、このように高い身分では、一般と違った交際も、気がひけるので、宮が絶えずお疑いになっているのも、ますますつらくご遠慮なさりながら、自然と疎遠になってゆくのを、それでも絶えず、同じ気持ちがお変わりにならないのであった。
 
   宮も、あだなる御本性こそ、見まうきふしも混じれ、若君のいとうつくしうおよすけたまふままに、「他にはかかる人も出で来まじきにや」と、やむごとなきものに思して、うちとけなつかしき方には、人にまさりてもてなしたまへば、ありしよりはすこしもの思ひ静まりて過ぐしたまふ。
 
 宮も、浮気っぽいご性質は、厭わしいところも混じっているが、若君がとてもかわいらしく成長なさってゆくにつれて、「他にはこのような子も生まれないのではないかしら」と、格別大事にお思いになって、気のおけぬ親しい夫人としては、正室にまさってご待遇なさるので、以前よりは少し悩み事も落ち着いて過ごしていらっしゃる。
 
 
 

第四段 正月、宇治から京の中君への文

 
   睦月の朔日過ぎたるころ渡りたまひて、若君の年まさりたまへるを、もて遊びうつくしみたまふ昼つ方、小さき童、緑の薄様なる包み文の大きやかなるに、小さき鬚籠を小松につけたる、また、すくすくしき立文とり添へて、奥なく走り参る。
 女君にたてまつれば、宮、
 正月の上旬が過ぎたころにお越しになって、若君が一つ年齢をおとりになったのを、相手にしてかわいがっていらっしゃる昼ころ、小さい童女が、緑の薄様の包紙で大きいのに、小さい鬚籠を小松に結びつけてあるのや、また、きちんとした立文とを持って、無邪気に走って参る。
 女君に差し上げると、宮は、
   「それは、いづくよりぞ」  「それは、どこからのですか」
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
   「宇治より大輔のおとどにとて、もてわづらひはべりつるを、例の、御前にてぞ御覧ぜむとて、取りはべりぬる」  「宇治から大輔のおとどにと言ったが、いないので困っていましたのを、いつものように、御前様が御覧になるだろうと思って、受け取りました」
   と言ふも、いとあわたたしきけしきにて、  と言うのも、とても落ち着きのないふうなので、
   「この籠は、金を作りて色どりたる籠なりけり。
 松もいとよう似て作りたる枝ぞとよ」
 「この籠は、金属で作って色を付けた籠でしたのだわ。
 松もとてもよく本物に似せて作ってある枝ですよ」
   と、笑みて言ひ続くれば、宮も笑ひたまひて、  と、笑顔で言い続けるので、宮もにっこりなさって、
   「いで、我ももてはやしてむ」  「それでは、わたしも鑑賞しようかね」
   と召すを、女君、いとかたはらいたく思して、  とお取り寄せになると、女君は、とても見ていられない気持ちがなさって、
   「文は、大輔がりやれ」  「手紙は、大輔のもとにやりなさい」
   とのたまふ。
 御顔の赤みたれば、宮、「大将のさりげなくしなしたる文にや、宇治の名のりもつきづきし」と思し寄りて、この文を取りたまひつ。
 
 とおっしゃる。
 お顔が赤くなっているので、宮は、「大将がさりげなくよこした手紙であろうか、宇治からと名乗るのもいかにもらしい」とお思いつきになって、この手紙をお取りになった。
 
   さすがに、「それならむ時に」と思すに、いとまばゆければ、  とはいえ、「もし本当にそれであったら」とお思いになると、たいそう気がひけて、
   「開けて見むよ。
 怨じやしたまはむとする」
 「開けてみますよ。
 お恨みになりますか」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「見苦しう。
 何かは、その女どちのなかに書き通はしたらむうちとけ文をば、御覧ぜむ」
 「みっともありません。
 どうして、女房どうしの間でやりとりしている気を許した手紙を、御覧になるのでしょう」
   とのたまふが、騒がぬけしきなれば、  とおしゃるが、あわてない様子なので、
   「さは、見むよ。
 女の文書きは、いかがある」
 「それでは、見ますよ。
 女性の手紙とは、どんなものかな」
   とて開けたまへれば、いと若やかなる手にて、  と言ってお開けになると、とても若々しい筆跡で、
   「おぼつかなくて、年も暮れはべりにける。
 山里のいぶせさこそ、峰の霞も絶え間なくて」
 「ご無沙汰のまま、年も暮れてしまいました。
 山里の憂鬱さは、峰の霞も絶え間がなくて」
   とて、端に、  とあって、端の方に、
   「これも若宮の御前に。
 あやしうはべるめれど」
 「これも若宮様の御前に。
 不出来でございますが」
   と書きたり。
 
 と書いてある。
 
 
 

第五段 匂宮、手紙の主を浮舟と察知す

 
   ことにらうらうじきふしも見えねど、おぼえなき、御目立てて、この立文を見たまへば、げに女の手にて、  特に才気があるようには見えないが、心当たりがないので、お目を凝らして、この立文を御覧になると、なるほど女性の筆跡で、
   「年改まりて、何ごとかさぶらふ。
 御私にも、いかにたのしき御よろこび多くはべらむ。
 
 「年が改まりましたが、いかがお過しでしょうか。
 あなた様ご自身におかれましても、どんなに楽しくお喜びが多いことでございましょう。
 
   ここには、いとめでたき御住まひの心深さを、なほ、ふさはしからず見たてまつる。
 かくてのみ、つくづくと眺めさせたまふよりは、時々は渡り参らせたまひて、御心も慰めさせたまへ、と思ひはべるに、つつましく恐ろしきものに思しとりてなむ、もの憂きことに嘆かせたまふめる。
 
 こちらでは、とても結構なお住まいで行き届いておりますが、やはり、不似合いに存じております。
 こうしてばかり、つくづくと物思いにお耽りあそばすより他には、時々そちらにお伺いなさって、お気持ちをお慰めあそばしませ、と存じておりますが、気がねして恐ろしい所とお思いになって、嫌なこととお嘆きになっているようです。
 
   若宮の御前にとて、卯槌まゐらせたまふ。
 大き御前の御覧ぜざらむほどに、御覧ぜさせたまへ、とてなむ」
 若宮の御前にと思って、卯槌をお贈り申し上げなさいます。
 ご主人様が御覧にならない時に御覧下さいませ、とのことでございます」
   と、こまごまと言忌もえしあへず、もの嘆かしげなるさまのかたくなしげなるも、うち返しうち返し、あやしと御覧じて、  と、こまごまと言忌もできずに、もの悲しい様子が見苦しいのにつけても、繰り返し繰り返し、変だと御覧になって、
   「今は、のたまへかし。
 誰がぞ」
 「今はもう、おっしゃいなさい。
 誰からのですか」
   とのたまへば、  とお尋ねになると、
   「昔、かの山里にありける人の娘の、さるやうありて、このころかしこにあるとなむ聞きはべりし」  「昔、あの山里に仕えておりました女の娘が、ある事情があって、最近あちらにいると聞きました」
   と聞こえたまへば、おしなべて仕うまつるとは見えぬ文書きを心得たまふに、かのわづらはしきことあるに思し合はせつ。
 
 と申し上げなさると、普通にお仕えする女とは見えない書き方を心得ていらっしゃるので、あの厄介なことがあると書いてあったのでお察しになった。
 
   卯槌をかしう、つれづれなりける人のしわざと見えたり。
 またぶりに、山橘作りて、貫き添へたる枝に、
 卯槌が見事な出来で、所在ない人が作った物だと見えた。
 松の二股になったところに、山橘を作って、それを貫き通した枝に、
 

734
 「まだ古りぬ 物にはあれど 君がため
 深き心に 待つと知らなむ」
 「まだ古木にはなっておりませんが、若君様のご成長を
  心から深くご期待申し上げております」
 
   と、ことなることなきを、「かの思ひわたる人のにや」と思し寄りぬるに、御目とまりて、  と、特にたいした歌でないなので、「あのずっと思い続けている女のか」とお思いになると、お目が止まって、
   「返り事したまへ。
 情けなし。
 隠いたまふべき文にもあらざめるを。
 など、御けしきの悪しき。
 まかりなむよ」
 「お返事をなさい。
 返事しなくては情愛がない。
 隠さなければならない手紙でもあるまいに。
 どうして、ご機嫌が悪いのですか。
 去りましょうよ」
   とて、立ちたまひぬ。
 女君、少将などして、
 と言って、お立ちになった。
 女君は、少将などに向かって、
   「いとほしくもありつるかな。
 幼き人の取りつらむを、人はいかで見ざりつるぞ」
 「お気の毒なことになってしまいましたね。
 幼い童女が受け取ったのを、他の女房はどうして気づかなかったのでしょう」
   など、忍びてのたまふ。
 
 などと、小声でおっしゃる。
 
   「見たまへましかば、いかでかは、参らせまし。
 すべて、この子は心地なうさし過ぐしてはべり。
 生ひ先見えて、人は、おほどかなるこそをかしけれ」
 「拝見しましたら、どうして、こちらへお届けしたりしましょうか。
 ぜんたい、この子は思慮が浅く出過ぎています。
 将来性がうかがえて、女の子は、おっとりとしているのが好ましいものです」
   など憎めば、  などと叱るので、
   「あなかま。
 幼き人、な腹立てそ」
 「お静かに。
 幼い子を、叱りなさいますな」
   とのたまふ。
 去年の冬、人の参らせたる童の、顔はいとうつくしかりければ、宮もいとらうたくしたまふなりけり。
 
 とおっしゃる。
 去年の冬、ある人が奉公させた童女で、顔がとてもかわいらしかったので、宮もとてもかわいがっていらっしゃるのだった。
 
 
 

第六段 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を知る

 
   わが御方におはしまして、  ご自分のお部屋にお帰りになって、
   「あやしうもあるかな。
 宇治に大将の通ひたまふことは、年ごろ絶えずと聞くなかにも、忍びて夜泊りたまふ時もあり、と人の言ひしを、いとあまりなる人の形見とて、さるまじき所に旅寝したまふらむこと、と思ひつるは、かやうの人隠し置きたまへるなるべし」
 「不思議なことであったな。
 宇治に大将がお通いになることは、何年も続いていると聞いていた中でも、こっそりと夜お泊まりになる時もある、と人が言ったが、実にあまりな故人の思い出の土地だからとて、とんでもない所に旅寝なさるのだろうこと、と思ったのは、あのような女を隠して置きなさったからなのだろう」
   と思し得ることもありて、御書のことにつけて使ひたまふ大内記なる人の、かの殿に親しきたよりあるを思し出でて、御前に召す。
 参れり。
 
 と合点なさることもあって、ご学問のことでお使いになる大内記である者で、あちらの邸に親しい縁者がいる者を思い出しなさって、御前にお召しになる。
 参上した。
 
   「韻塞すべきに、集ども選り出でて、こなたなる厨子に積むべきこと」  「韻塞をしたいのだが、詩集などを選び出して、こちらにある厨子に積むように」
   などのたまはせて、  などとお命じになって、
   「右大将の宇治へいますること、なほ絶え果てずや。
 寺をこそ、いとかしこく造りたなれ。
 いかでか見るべき」
 「右大将が宇治へ行かれることは、相変わらず続いていますか。
 寺を、とても立派に造ったと言うね。
 何とか見られないかね」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「寺いとかしこく、いかめしく造られて、不断の三昧堂など、いと尊くおきてられたり、となむ聞きたまふる。
 通ひたまふことは、去年の秋ごろよりは、ありしよりも、しばしばものしたまふなり。
 
 「寺をたいそう立派に、荘厳にお造りになって、不断の三昧堂など、大変に尊くお命じになった、と聞いております。
 お通いになることは、去年の秋ごろからは、以前よりも、頻繁に行かれると言います。
 
   下の人びとの忍びて申ししは、『女をなむ隠し据ゑさせたまへる、けしうはあらず思す人なるべし。
 あのわたりに領じたまふ所々の人、皆仰せにて参り仕うまつる。
 宿直にさし当てなどしつつ、京よりもいと忍びて、さるべきことなど問はせたまふ。
 いかなる幸ひ人の、さすがに心細くてゐたまへるならむ』となむ、ただこの師走のころほひ申す、と聞きたまへし」
 下々の人びとがこっそりと申した話では、『女を隠し据えていらっしゃり、憎からずお思いになっている女なのでしょう。
 あの近辺に所領なさる所々の人が、皆ご命令に従ってお仕えしております。
 宿直を担当させたりしては、京からもたいそうこっそりと、しかるべき事などお尋ねになります。
 どのような幸い人で、幸せながらも心細くおいでなのでしょう』と、ちょうどこの十二月のころに申していた、とお聞き致しました」
   と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
 
 

第七段 匂宮、薫の噂を聞き知り喜ぶ

 
   「いとうれしくも聞きつるかな」と思ほして、  「とても嬉しいことを聞いたなあ」とお思いになって、
   「たしかにその人とは、言はずや。
 かしこにもとよりある尼ぞ、訪らひたまふと聞きし」
 「はっきりと名前を、言わなかったか。
 あちらに以前から住んでいた尼を、お訪ねになると聞いていたが」
   「尼は、廊になむ住みはべるなる。
 この人は、今建てられたるになむ、きたなげなき女房などもあまたして、口惜しからぬけはひにてゐてはべる」
 「尼は、渡廊に住んでおりますと言います。
 この女は、今度建てられた所に、こぎれいな女房なども大勢して、結構な具合で住んでおります」
   と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
   「をかしきことかな。
 何心ありて、いかなる人をかは、さて据ゑたまひつらむ。
 なほ、いとけしきありて、なべての人に似ぬ御心なりや。
 
 「興味深いことだね。
 どのような考えがあって、どのような女を、そのように据えていらしゃるのだろうか。
 やはり、とても好色なところがあって、普通の人と似ていないお心なのだろうか。
 
   右の大臣など、『この人のあまりに道心に進みて、山寺に、夜さへともすれば泊りたまふなる、軽々し』ともどきたまふと聞きしを、げに、などかさしも仏の道には忍びありくらむ。
 なほ、かの故里に心をとどめたると聞きし、かかることこそはありけれ。
 
 右大臣などが、『この人があまりに仏道に進んで、山寺に、夜までややもすればお泊まりになるというが、軽々しい行為だ』と非難なさると聞いたが、なるほど、どうしてそんなにも仏道にこっそり行かれるのだろう。
 やはり、あの思い出の地に心を惹かれていると聞いたが、このようなわけがあったのだ。
 
   いづら、人よりはまめなるとさかしがる人しも、ことに人の思ひいたるまじき隈ある構へよ」  どうだ、誰よりも真面目だと分別顔をする人の方がかえって、ことさら誰も考えつかないようなところがあるものだよ」
   とのたまひて、いとをかしと思いたり。
 この人は、かの殿にいと睦ましく仕うまつる家司の婿になむありければ、隠したまふことも聞くなるべし。
 
 とおっしゃって、たいそうおもしろいとお思いになった。
 この人は、あちらの邸でたいそう親しくお仕えしている家司の婿であったので、隠していらっしゃることも聞いたのであろう。
 
   御心の内には、「いかにして、この人を、見し人かとも見定めむ。
 かの君の、さばかりにて据ゑたるは、なべてのよろし人にはあらじ。
 このわたりには、いかで疎からぬにかはあらむ。
 心を交はして隠したまへりけるも、いとねたう」おぼゆ。
 
 ご心中では、「何とかして、この女を、前に会ったことのある女かどうか確かめたい。
 あの君が、あのように据えているのは、平凡で普通の女ではあるまい。
 こちらでは、どうして親しくしているのだろう。
 しめし合わせて隠していらっしゃったというのも、とても悔しい」と思われる。
 
 
 

第二章 浮舟と匂宮の物語 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む

 
 

第一段 匂宮、宇治行きを大内記に相談

 
   ただそのことを、このころは思ししみたり。
 賭弓、内宴など過ぐして、心のどかなるに、司召など言ひて、人の心尽くすめる方は、何とも思さねば、宇治へ忍びておはしまさむことをのみ思しめぐらす。
 この内記は、望むことありて、夜昼、いかで御心に入らむと思ふころ、例よりはなつかしう召し使ひて、
 ただそのことを、最近は考え込んでいらっしゃった。
 賭弓や、内宴などが過ぎて、のんびりとした時に、司召などといって、皆が夢中になっていることは、何ともお思いにならないで、宇治へこっそりとお出かけになることばかりをご思案なさる。
 この大内記は、期待するところがあって、昼夜、何とかお気に入ってもらおうと思っているとき、いつもよりは親しく召し使って、
   「いと難きことなりとも、わが言はむことは、たばかりてむや」  「たいへん難しいことではあるが、わたしの言うことを、何とかしてくれないか」
   などのたまふ。
 かしこまりてさぶらふ。
 
 などとおっしゃる。
 恐縮して承る。
 
   「いと便なきことなれど、かの宇治に住むらむ人は、はやうほのかに見し人の、行方も知らずなりにしが、大将に尋ね取られにける、と聞きあはすることこそあれ。
 たしかには知るべきやうもなきを、ただ、ものより覗きなどして、それかあらぬかと見定めむ、となむ思ふ。
 いささか人に知るまじき構へは、いかがすべき」
 「たいそう不都合なことだが、あの宇治に住んでいるらしい人は、早くにちらっと会った女で、行く方が分からなくなったのが、大将に捜し出された人と、思い当たるところがあるのだ。
 はっきりとは知る手立てもないが、ただ、物の隙間から覗き見して、その女か違うかと確かめたい、と思う。
 まったく誰にも知られない方法は、どうしたらよいだろうか」
   とのたまへば、「あな、わづらはし」と思へど、  とおっしゃるので、「何と、やっかいな」と思うが、
   「おはしまさむことは、いと荒き山越えになむはべれど、ことにほど遠くはさぶらはずなむ。
 夕つ方出でさせおはしまして、亥子の時にはおはしまし着きなむ。
 さて、暁にこそは帰らせたまはめ。
 人の知りはべらむことは、ただ御供にさぶらひはべらむこそは。
 それも、深き心はいかでか知りはべらむ」
 「お出かけになることは、たいへん険しい山越えでございますが、格別遠くはございません。
 夕方お出かけあそばして、亥子の刻にはお着きになるでしょう。
 そうして、早朝にはお帰りあそばせましょう。
 誰か気づくとすれば、ただお供する者だけでございしょう。
 それも、深い事情はどうして分かりましょう」
   と申す。
 
 と申し上げる。
 
   「さかし。
 昔も、一度二度、通ひし道なり。
 軽々しきもどき負ひぬべきが、ものの聞こえのつつましきなり」
 「そうだ。
 昔も一、二度は、通ったことのある道だ。
 軽々しいと非難されるのが、その評判が気になるのだ」
   とて、返す返すあるまじきことに、わが御心にも思せど、かうまでうち出でたまへれば、え思ひとどめたまはず。
 
 と言って、繰り返しとんでもないことだと、自分自身反省なさるが、このようにまでお口に出されたので、お思い止めなさることはできない。
 
 
 

第二段 宮、馬で宇治へ赴く

 
   御供に、昔もかしこの案内知れりし者、二、三人、この内記、さては御乳母子の蔵人よりかうぶり得たる若き人、睦ましき限りを選りたまひて、「大将、今日明日よにおはせじ」など、内記によく案内聞きたまひて、出で立ちたまふにつけても、いにしへを思し出づ。
 
 お供に、昔もあちらの様子を知っている者、二、三人と、この内記、その他には乳母子で蔵人から五位になった若い者で、親しい者ばかりをお選びになって、「大将の、今日明日はよもやいらっしゃるまい」などと、内記によく調べさせなさって、ご出立なさるにつけても、昔を思い出す。
 
   「あやしきまで心を合はせつつ率てありきし人のために、うしろめたきわざにもあるかな」と、思し出づることもさまざまなるに、京のうちだに、むげに人知らぬ御ありきは、さはいへど、えしたまはぬ御身にしも、あやしきさまのやつれ姿して、御馬にておはする心地も、もの恐ろしくややましけれど、もののゆかしき方は進みたる御心なれば、山深うなるままに、「いつしか、いかならむ、見あはすることもなくて帰らむこそ、さうざうしくあやしかるべけれ」と思すに、心も騷ぎたまふ。
 
 「不思議なまでに心を合わせて連れて行ってくれた人に対して、後ろめたいことをするなあ」と、お思い出しになることもいろいろであるが、京の中でさえ、まるきり人の知らないお忍び歩きは、そうはいっても、おできになれないご身分でいて、粗末な恰好に身をやつして、お馬でお出かけになる気持ちも、何となく恐ろしく気が咎めるが、知りたい気持ちは強いご性質なので、山深く入って行くにつれて、「早く着きたい、どうであろうか、確かめることもなくて帰るようでは、物足りなく変なものであろう」とお思いになると、気が気でない思いがなさる。
 
   法性寺のほどまでは御車にて、それよりぞ御馬にはたてまつりける。
 急ぎて、宵過ぐるほどにおはしましぬ。
 内記、案内よく知れるかの殿の人に問ひ聞きたりければ、宿直人ある方には寄らで、葦垣し籠めたる西表を、やをらすこしこぼちて入りぬ。
 
 法性寺の付近まではお車で、そこから先はお馬にお乗りになったのであった。
 急いで、宵を過ぎたころにお着きになった。
 大内記が、様子をよく知っているあの邸の人に尋ねて知っていたので、宿直人がいる方には寄らないで、葦垣をめぐらした西面を、静かにすこし壊してお入りになった。
 
   我もさすがにまだ見ぬ御住まひなれば、たどたどしけれど、人しげうなどしあらねば、寝殿の南表にぞ、火ほの暗う見えて、そよそよとする音する。
 参りて、
 大内記自身も何といってもまだ見たことのないお住まいなので、不案内であるが、女房なども多くはいないので、寝殿の南面に燈火がちらちらとほの暗く見えて、そよそよと衣ずれの音がする。
 戻って参って、
   「まだ、人は起きてはべるべし。
 ただ、これよりおはしまさむ」
 「まだ、人は起きているようでございます。
 直接、ここからお入りください」
   と、しるべして入れたてまつる。
 
 と、案内してお入れ申し上げる。
 
 
 

第三段 匂宮、浮舟とその女房らを覗き見る

 
   やをら昇りて、格子の隙あるを見つけて寄りたまふに、伊予簾はさらさらと鳴るもつつまし。
 新しうきよげに造りたれど、さすがに粗々しくて隙ありけるを、誰れかは来て見むとも、うちとけて、穴も塞たがず、几帳の帷子うちかけておしやりたり。
 
 静かに昇って、格子の隙間があるのを見つけて近寄りなさると、伊予簾はさらさらと鳴るのが気が引ける。
 新しくこぎれいに造ってあるが、やはり荒っぽい造りで隙間があったが、誰も来て覗き見はしまいかと、気を許して、穴も塞がず、几帳の帷子をうち懸けて押しやっていた。
 
   火明う灯して、もの縫ふ人、三、四人居たり。
 童のをかしげなる、糸をぞ縒る。
 これが顔、まづかの火影に見たまひしそれなり。
 うちつけ目かと、なほ疑はしきに、右近と名のりし若き人もあり。
 君は、腕を枕にて、火を眺めたるまみ、髪のこぼれかかりたる額つき、いとあてやかになまめきて、対の御方にいとようおぼえたり。
 
 燈火を明るく照らして、何か縫物をしている女房が、三、四人座っていた。
 童女でかわいらしいのが、糸を縒っている。
 この子の顔は、まずあの燈火で御覧になった顔であった。
 とっさの見間違いかと、まだ疑われたが、右近と名乗った若い女房もいる。
 女主人は、腕を枕にして、燈火を眺めている目もとや、髪のこぼれかかっている額つき、たいそう上品に優美で、対の御方にとてもよく似ていた。
 
   この右近、物折るとて、  この右近が、衣類を折り畳もうとして、
   「かくて渡らせたまひなば、とみにしもえ帰り渡らせたまはじを、殿は、『この司召のほど過ぎて、朔日ころにはかならずおはしましなむ』と、昨日の御使も申しけり。
 御文には、いかが聞こえさせたまへりけむ」
 「こうしてお出かけあそばしたら、すぐにはお帰りあそばすわけにはいきませんが、殿は、『今度の司召の間が終わって、朔日ころにはきっといらっしゃる』と、昨日のお使いも申していました。
 お手紙には、どのように申し上げなさいましたのでしょうか」
   と言へど、いらへもせず、いともの思ひたるけしきなり。
 
 と言うが、返事もせずに、たいそう物思いに沈んでいる様子である。
 
   「折しも、はひ隠れさせたまへるやうならむが、見苦しさ」  「来訪の折しも、身を隠していらっしゃるようなのは、困ったことです」
   と言へば、向ひたる人、  と言うと、向かいにいた女房が、
   「それは、かくなむ渡りぬると、御消息聞こえさせたまへらむこそよからめ。
 軽々しう、いかでかは、音なくては、はひ隠れさせたまはむ。
 御物詣での後は、やがて渡りおはしましねかし。
 かくて心細きやうなれど、心にまかせてやすらかなる御住まひにならひて、なかなか旅心地すべしや」
 「それでは、このようにお出かけになったと、お手紙を差し上げなさるのがよいでしょう。
 軽々しく、どうして、何も言わずに、お隠れあそばせましょう。
 ご参詣の後は、そのままこちらにお帰りあそばしませ。
 こうして心細いようですが、思い通りに気楽なお暮らしに馴れて、かえって本邸の方が旅心地がするのではないでしょうか」
   など言ふ。
 またあるは、
 などと言う。
 また他の女房は、
   「なほ、しばし、かくて待ちきこえさせたまはむぞ、のどやかにさまよかるべき。
 京へなど迎へたてまつらせたまへらむ後、おだしくて親にも見えたてまつらせたまへかし。
 このおとどの、いと急にものしたまひて、にはかにかう聞こえなしたまふなめりかし。
 昔も今も、もの念じしてのどかなる人こそ、幸ひは見果てたまふなれ」
 「やはり、しばらくの間、こうしてお待ち申し上げなさるのが、落ち着いていて体裁がよいでしょう。
 京へなどとお迎え申されてから後、ゆっくりとして母君にもお会い申されませ。
 あの乳母が、とてもせっかちでいられて、急にこのような話を申し上げなさるのでしょうよ。
 昔も今も、我慢してのんびりとしている人が、しまいには幸福になるということです」
   など言ふなり。
 右近、
 などと言うようである。
 右近は、
   「などて、この乳母をとどめたてまつらずなりにけむ。
 老いぬる人は、むつかしき心のあるにこそ」
 「どうして、この乳母をお止め申さずになってしまったのでしょう。
 年老いた人は、やっかいな性質があるものですから」
   と憎むは、乳母やうの人をそしるなめり。
 「げに、憎き者ありかし」と思し出づるも、夢の心地ぞする。
 かたはらいたきまで、うちとけたることどもを言ひて、
 と憎むのは、乳母のような女房を悪く言うようである。
 「なるほど、憎らしい女房がいた」とお思い出しになるのも、夢のような気がする。
 側で聞いていられないほど、うちとけた話をして、
   「宮の上こそ、いとめでたき御幸ひなれ。
 右の大殿の、さばかりめでたき御勢ひにて、いかめしうののしりたまふなれど、若君生れたまひて後は、こよなくぞおはしますなる。
 かかるさかしら人どものおはせで、御心のどかに、かしこうもてなしておはしますにこそはあめれ」
 「宮の上は、とてもめでたくご幸福でいらっしゃる。
 右の大殿が、あれほど素晴らしいご威勢で、仰々しく大騒ぎなさるようだが、若君がお生まれになって後は、この上なくいらっしゃるようです。
 このような出しゃばり者がいらっしゃらなくて、お心ものんびりと、賢明に振る舞っていらっしゃることでありましょう」
   と言ふ。
 
 と言う。
 
   「殿だに、まめやかに思ひきこえたまふこと変はらずは、劣りきこえたまふべきことかは」  「せめて殿さえ、真実愛してくださるお気持ちが変わらなかったら、負けることがありましょうか」
   と言ふを、君、すこし起き上がりて、  と言うのを、女君は、少し起き上がって、
   「いと聞きにくきこと。
 よその人にこそ、劣らじともいかにとも思はめ、かの御ことなかけても言ひそ。
 漏り聞こゆるやうもあらば、かたはらいたからむ」
 「とても聞きにくいこと。
 他人であったら、負けまいとも何とも思いましょうが、あのお方のことは口に出してはいけません。
 漏れ聞こえるようなことがあったら、申し訳ありません」
   など言ふ。
 
 などと言う。
 
 
 

第四段 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む

 
   「何ばかりの親族にかはあらむ。
 いとよくも似かよひたるけはひかな」と思ひ比ぶるに、「心恥づかしげにてあてなるところは、かれはいとこよなし。
 これはただらうたげにこまかなるところぞいとをかしき」。
 よろしう、なりあはぬところを見つけたらむにてだに、さばかりゆかしと思ししめたる人を、それと見て、さてやみたまふべき御心ならねば、まして隈もなく見たまふに、「いかでかこれをわがものにはなすべき」と、心も空になりたまひて、なほまもりたまへば、右近、
 「どの程度の親族であろうか。
 とてもよく似ている様子だな」と思い比べると、「恥ずかしくなるほどの上品なところは、あの君はとてもこの上ない。
 この人はただかわいらしくきめこまやかな顔だちがとても魅力的だ」。
 普通程度の、不十分なところを見つけたような場合でさえも、あれほど会いたいとお思い続けてきた人を、その人だと見つけて、そのままお止めになるようなご性分でないので、その上すっかり御覧になったので、「何とかしてこの女を自分のものにしたい」と、心もうわの空におなりになって、依然として見つめていらっしゃると、右近が、
   「いとねぶたし。
 昨夜もすずろに起き明かしてき。
 明朝のほどにも、これは縫ひてむ。
 急がせたまふとも、御車は日たけてぞあらむ」
 「とても眠い。
 昨夜も何となしに夜明かししてしまった。
 明朝早くにも、これは縫ってしまおう。
 お急ぎあそばしても、お車は日が高くなってから来るでしょう」
   と言ひて、しさしたるものどもとり具して、几帳にうち掛けなどしつつ、うたた寝のさまに寄り臥しぬ。
 君もすこし奥に入りて臥す。
 右近は北表に行きて、しばしありてぞ来たる。
 君のあと近く臥しぬ。
 
 と言って、作りかけていた縫物を持って、几帳に懸けたりなどして、うたた寝の状態で寄り臥した。
 女君も少し奥に入って臥す。
 右近は北面に行って、しばらくして再び来た。
 女君の後ろ近くに臥した。
 
   ねぶたしと思ひければ、いととう寝入りぬるけしきを見たまひて、またせむやうもなければ、忍びやかにこの格子をたたきたまふ。
 右近聞きつけて、
 眠たいと思っていたので、とても早く寝入ってしまった様子を御覧になって、他にどうしようもないので、こっそりとこの格子を叩きなさる。
 右近が聞きつけて、
   「誰そ」  「どなたですか」
   と言ふ。
 声づくりたまへば、あてなるしはぶきと聞き知りて、「殿のおはしたるにや」と思ひて、起きて出でたり。
 
 と言う。
 咳払いをなさったので、高貴な方の咳払いと気づいて、「殿がいらっしゃったのか」と思って、起きて出た。
 
   「まづ、これ開けよ」  「とりあえず、ここを開けなさい」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「あやしう。
 おぼえなきほどにもはべるかな。
 夜はいたう更けはべりぬらむものを」
 「変ですわ。
 思いがけない時刻でございますこと。
 夜はたいそう更けましたものを」
   と言ふ。
 
 と言う。
 
   「ものへ渡りたまふべかなりと、仲信が言ひつれば、驚かれつるままに出で立ちて。
 いとこそわりなかりつれ。
 まづ開けよ」
 「どこそこへ外出なさる予定であると、仲信が言ったので、驚いてすぐ出て来て。
 まことに困ったことであった。
 とりあえず開けなさい」
   とのたまふ声、いとようまねび似せたまひて、忍びたれば、思ひも寄らず、かい放つ。
 
 とおっしゃる声、たいそうよくお似せになって、ひっそりと言うので、別人とは思いも寄らず、格子を開けた。
 
   「道にて、いとわりなく恐ろしきことのありつれば、あやしき姿になりてなむ。
 火暗うなせ」
 「途中で、とてもひどい目に遭ったので、みっともない姿になっている。
 燈火を暗くしなさい」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「あな、いみじ」  「まあ、大変」
   とあわてまどひて、火は取りやりつ。
 
 とあわて騒いで、燈火は隠した。
 
   「我、人に見すなよ。
 来たりとて、人驚かすな」
 「わたしを、他の人には見せるな。
 来たからと言って、誰も起こすな」
   と、いとらうらうじき御心にて、もとよりもほのかに似たる御声を、ただかの御けはひにまねびて入りたまふ。
 「ゆゆしきことのさまとのたまひつる、いかなる御姿ならむ」といとほしくて、我も隠ろへて見たてまつる。
 
 と、とてもたくみなお方なので、もともとわずかに似ているお声を、まったくあの方のご様子に似せてお入りになる。
 「ひどい目に遭った姿だとおっしゃったが、どのようなお姿なのだろう」とお気の毒で、自分も隠れて拝見する。
 
   いと細やかになよなよと装束きて、香の香うばしきことも劣らず。
 近う寄りて、御衣ども脱ぎ、馴れ顔にうち臥したまへれば、
 とてもほっそりとなよなよと装束をお召しになって、香の芳しいことも劣らない。
 近くによって、お召物を脱ぎ、馴れた顔でお臥せりになったので、
   「例の御座にこそ」  「いつものご座所に」
   など言へど、ものものたまはず。
 御衾参りて、寝つる人びと起こして、すこし退きて皆寝ぬ。
 御供の人など、例の、ここには知らぬならひにて、
 などと言うが、何もおっしゃらない。
 寝具を差し上て、寝ていた女房たちを起こして、少し下がって皆眠った。
 お供の人などは、いつものように、こちらでは構わない慣例になっているので、
   「あはれなる、夜のおはしましざまかな」  「お志の深い、夜のご訪問ですこと」
   「かかる御ありさまを、御覧じ知らぬよ」  「このようなご様子を、ご存知ないのよ」
   など、さかしらがる人もあれど、  などと、利口ぶる女房もいるが、
   「あなかま、たまへ。
 夜声は、ささめくしもぞ、かしかましき」
 「お静かに。
 夜の声は、ささやく声が、かえってうるさいのです」
   など言ひつつ寝ぬ
 
 などと言いながら眠った。
 
   女君は、「あらぬ人なりけり」と思ふに、あさましういみじけれど、声をだにせさせたまはず
 いとつつましかりし所にてだに、わりなかりし御心なれば、ひたぶるにあさまし。
 初めよりあらぬ人と知りたらば、いかがいふかひもあるべきを、夢の心地するに、やうやう、その折のつらかりし、年月ごろ思ひわたるさまのたまふに、この宮と知りぬ。
 
 女君は、「違う人だわ」と思うと、びっくりし大変だと思うが、声も出させないようになさる。
 とても憚られる所でさえ、理不尽であったお心なので、何ともいいようがない仕儀だ。
 初めから別人だと知っていたら、何とかあしらうすべもあったろうが、夢のような気がするので、だんだんと、あの時のつらかった、いく年月もの間を思い続けていた有様をおっしゃるので、その宮だと分かった。
 
   いよいよ恥づかしく、かの上の御ことなど思ふに、またたけきことなければ、限りなう泣く。
 宮も、なかなかにて、たはやすく逢ひ見ざらむことなどを思すに、泣きたまふ。
 
 ますます恥ずかしくなって、あの上の御ことなどを思うと、またどうすることもできないので、限りなく泣く。
 宮も、なまじ逢ったのがかえってつらく、たやすく逢えそうにないことをお思いになって、お泣きになる。
 
 
 

第五段 翌朝、匂宮、京へ帰らず居座る

 
   夜は、ただ明けに明く。
 御供の人来て声づくる。
 右近聞きて参れり。
 出でたまはむ心地もなく、飽かずあはれなるに、またおはしまさむことも難ければ、「京には求め騒がるとも、今日ばかりはかくてあらむ。
 何事も生ける限りのためこそあれ」。
 ただ今出でおはしまさむは、まことに死ぬべく思さるれば、この右近を召し寄せて、
 夜は、どんどん明けて行く。
 お供の人が来て咳払いをする。
 右近が聞いて参上した。
 お出になる気持ちもなく、心からいとしく思われて、再びいらっしゃることも難しいので、「京では捜し求めて大騒ぎしようとも、今日一日だけはこうしていたい。
 何事も生きている間だけのことなのだ」。
 今すぐにお出になることは、本当に死んでしまいそうにお思いになるので、この右近を呼び寄せて、
   「いと心地なしと思はれぬべけれど、今日はえ出づまじうなむある。
 男どもは、このわたり近からむ所に、よく隠ろへてさぶらへ。
 時方は、京へものして、『山寺に忍びてなむ』とつきづきしからむさまに、いらへなどせよ」
 「まことに無分別と思われようが、今日はとても出て行くことができそうにない。
 男たちは、この近辺の近い所に、適当に隠し控させなさい。
 時方は、京へ行って、『山寺に人目を忍んで行っている』とつじつまが合うように、返事などさせよ」
   とのたまふに、いとあさましくあきれて、心もなかりける夜の過ちを思ふに、心地も惑ひぬべきを、思ひ静めて、  とおっしゃるので、とても驚きあきれて、気づかなかった昨夜の過失を思うと、気も動転してしまいそうなのを、落ち着けて、
   「今は、よろづにおぼほれ騒ぐとも、かひあらじものから、なめげなり。
 あやしかりし折に、いと深う思し入れたりしも、かう逃れざりける御宿世にこそありけれ。
 人のしたるわざかは」
 「今となっては、どのようにあたふた騒いだところで、効ないし、また失礼である。
 困った時にも、たいそう深く愛してくださったのも、このような逃れがたかったご運命なのであろう。
 誰がしたということでない」
   と思ひ慰めて、  と思い慰めて、
   「今日、御迎へにとはべりしを、いかにせさせたまはむとする御ことにか。
 かう逃れきこえさせたまふまじかりける御宿世は、いと聞こえさせはべらむ方なし。
 折こそいとわりなくはべれ。
 なほ、今日は出でおはしまして、御心ざしはべらば、のどかにも」
 「今日、お迎えにとございましたが、どのようにあそばす御ことでしょうか。
 このように逃れることがおできになれないご運命は、まことに申し上げようもございません。
 あいにく日が悪うございます。
 やはり、今日はお帰りあそばして、ご愛情がございましたら、改めてごゆっくりと」
   と聞こゆ。
 「およすけても言ふかな」と思して、
 と申し上げる。
 「生意気なことを言うな」とお思いになって、
   「我は、月ごろ思ひつるに、ほれ果てにければ、人のもどかむも言はむも知られず、ひたぶるに思ひなりにたり。
 すこしも身のことを思ひ憚からむ人の、かかるありきは思ひ立ちなむや。
 御返りには、『今日は物忌』など言へかし。
 人に知らるまじきことを、誰がためにも思へかし。
 異事はかひなし」
 「わたしは、いく月も物思いしたので、すっかり呆然としてしまって、人が非難するのも注意することも分別できず、一途に思いつめているのだ。
 少しでも身の上を憚るような人が、このような出歩きは思い立ちましょうか。
 お返事には、『今日は物忌です』などと言いなさい。
 人に知られてはならないことを、誰のためにも思いなさい。
 他のことは問題でない」
   とのたまひて、この人の、世に知らずあはれに思さるるままに、よろづのそしりも忘れたまひぬべし。
 
 とおっしゃって、この人が、世にも稀なくらいかわいく思われなさるままに、どのような非難もお忘れになったのであろう。
 
 
 

第六段 右近、匂宮と浮舟の密事を隠蔽す

 
   右近出でて、このおとなふ人に、  右近が出て来て、この声を出した人に、
   「かくなむのたまはするを、なほ、いとかたはならむ、とを申させたまへ。
 あさましうめづらかなる御ありさまは、さ思しめすとも、かかる御供人どもの御心にこそあらめ。
 いかで、かう心幼うは率てたてまつりたまふこそ。
 なめげなることを聞こえさする山賤などもはべらましかば、いかならまし」
 「これこれとおっしゃっていますが、やはり、とても見苦しいなさりようです、と申し上げてください。
 驚くほど目にもあまるようなお振る舞いは、どんなにお思いになっても、あなた方お供の人びとの考えでどうにでもなりましょう。
 どうして、こう無分別にも宮をお連れ申し上げなさったのですか。
 無礼な行ないを致す山賊などが途中で現れましたら、どうなりましょう」
   と言ふ。
 内記は、「げに、いとわづらはしくもあるかな」と思ひ立てり。
 
 と言う。
 内記は、「なるほど、とてもやっかいなことであるなあ」と思って立っている。
 
   「時方と仰せらるるは、誰れにか。
 さなむ」
 「時方とおっしゃる方は、どなたですか。
 これこれとおっしゃっています」
   と伝ふ。
 笑ひて、
 と伝える。
 笑って、
   「勘へたまふことどもの恐ろしければ、さらずとも逃げてまかでぬべし。
 まめやかには、おろかならぬ御けしきを見たてまつれば、誰れも誰れも、身を捨ててなむ。
 よしよし、宿直人も、皆起きぬなり」
 「お叱りなさることが恐ろしいので、ご命令がなくても逃げ出しましょう。
 本当のところを申し上げますと、並々でないご愛情を拝見しますと、皆が皆、身を捨てて参ったのです。
 よいよい、宿直人も、皆起きたようです」
   とて急ぎ出でぬ。
 
 と言って急いで出て行った。
 
   右近、「人に知らすまじうは、いかがはたばかるべき」とわりなうおぼゆ。
 人びと起きぬるに、
 右近は、「人に知られないようにするには、どうだましたらよいものか」と困りきっている。
 女房たちが起きたので、
   「殿は、さるやうありて、いみじう忍びさせたまふけしき見たてまつれば、道にていみじきことのありけるなめり。
 御衣どもなど、夜さり忍びて持て参るべくなむ、仰せられつる」
 「殿は、ある理由があって、ひどくこっそりといらっしゃっています様子を拝見しますと、道中で大変なことがあったようです。
 お召物などを、夜になってこっそりと持参するように、お命じになっています」
   など言ふ。
 御達、
 などと言う。
 御達は、
   「あな、むくつけや。
 木幡山は、いと恐ろしかなる山ぞかし。
 例の、御前駆も追はせたまはず、やつれておはしましけむに、あな、いみじや」
 「まあ、気味が悪い。
 木幡山は、とても恐ろしいという山ですよ。
 いつものように、お先も払わせなさらず、身を簡略にしていらっしゃったので、まあ、大変なこと」
   と言へば、  と言うので、
   「あなかま、あなかま。
 下衆などの、ちりばかりも聞きたらむに、いといみじからむ」
 「お静かに、お静かに。
 下衆どもが、少しでも聞きつけたら、とても大変なことになりましょう」
   と言ひゐたる、心地恐ろし。
 あやにくに、殿の御使のあらむ時、いかに言はむと、
 と言っているが、嘘をつくのが恐ろしい。
 具合悪く、殿のお使いが来た時にはどのように言おうと、
   「初瀬の観音、今日事なくて暮らしたまへ」  「初瀬の観音様、今日一日がご無事で暮らせますように」
   と、大願をぞ立てける。
 
 と、大願を立てるのであった。
 
   石山に今日詣でさせむとて、母君の迎ふるなりけり。
 この人びともみな精進し、きよまはりてあるに、
 石山寺に今日参詣させようとして、母君が迎えに来るのであった。
 この邸の女房たちも皆精進潔斎をし、身を清めていたが、
   「さらば、今日は、え渡らせたまふまじきなめり。
 いと口惜しきこと」
 「それでは、今日は、お出かけあそばすわけにはゆかないでしょう。
 とても残念なこと」
   と言ふ。
 
 と言う。
 
 
 

第七段 右近、浮舟の母の使者の迎えを断わる

 
   日高くなれば、格子など上げて、右近ぞ近くて仕うまつりける。
 母屋の簾は皆下ろしわたして、「物忌」など書かせて付けたり。
 母君もやみづからおはするとて、「夢見騒がしかりつ」と言ひなすなりけり。
 御手水など参りたるさまは、例のやうなれど、まかなひめざましう思されて、
 日が高くなったので、格子などを上げて、右近は近くにお仕えしていた。
 母屋の簾はみな下ろして、「物忌」などと書かせて貼っておいた。
 母君もご自身でお出でになるかも知れないと思って、「夢見が悪かったので」と理由をつけるのであった。
 御手水などを差し上げる様子は、いつものようであるが、介添えを不満にお思いになって、
   「そこに洗はせたまはば」  「あなたが先にお洗いあそばしたら」
   とのたまふ。
 女、いとさまよう心にくき人を見ならひたるに、時の間も見ざらむに死ぬべしと思し焦がるる人を、「心ざし深しとは、かかるを言ふにやあらむ」と思ひ知らるるにも、「あやしかりける身かな。
 誰れも、ものの聞こえあらば、いかに思さむ」と、まづかの上の御心を思ひ出できこゆれど、
 とおっしゃる。
 女は、たいそう体裁よく奥ゆかしい人を見慣れていたので、束の間も逢わないでいると死んでしまいそうだと恋い焦がれている宮を、「ご愛情が深いとは、このような方を言うのであるろうか」と思い知られるにつけても、「不思議な運命だわ。
 皆が、噂をきいたら、どのようにお思いになるだろう」と、まずはあの宮の上のお気持ちを思い出し申し上げるが、
   「知らぬを、返す返すいと心憂し。
 なほ、あらむままにのたまへ。
 いみじき下衆といふとも、いよいよなむあはれなるべき」
 「素性を知らないので、返す返すもとても情けない。
 やはり、ありのままにおっしゃってください。
 ひどく身分の低い人だと言っても、ますますいとおしく思われましょう」
   と、わりなう問ひたまへど、その御いらへは絶えてせず。
 異事は、いとをかしくけぢかきさまにいらへきこえなどして、なびきたるを、いと限りなうらうたしとのみ見たまふ。
 
 と、無理やりにお尋ねになるが、そのお返事は全然しない。
 他のことでは、とてもかわいらしく親しみやすい様子にお返事申し上げたりなどして、言うままになるのを、とてもこの上なくかわいらしいとばかり御覧になる。
 
   日高くなるほどに、迎への人来たり。
 車二つ、馬なる人びとの、例の、荒らかなる七、八人。
 男ども多く、例の、品々しからぬけはひ、さへづりつつ入り来たれば、人びとかたはらいたがりつつ、
 日が高くなったころに、迎えの人が来た。
 車二台、乗馬の人びとが、いつものように、荒々しい者が七、八人。
 男連中が大勢、例によって、下品な感じで、ぺちゃくちゃしゃべりながら入って来たので、女房たちは体裁悪がりながら、
   「あなたに隠れよ」  「あちらに隠れなさい」
   と言はせなどす。
 右近、「いかにせむ。
 殿なむおはする、と言ひたらむに、京にさばかりの人のおはし、おはせず、おのづから聞きかよひて、隠れなきこともこそあれ」と思ひて、この人びとにも、ことに言ひ合はせず、返り事書く。
 
 と言わせたりする。
 右近は、「どうしよう。
 殿がおいでになっている、と言った時、京にはそれほどの身分の方がいらっしゃる、いらっしゃらないというのは、自然と知られていて、隠せないことかも知れない」と思って、この女房たちにも、特に相談せずに、返事を書く。
 
   「昨夜より穢れさせたまひて、いと口惜しきことを思し嘆くめりしに、今宵、夢見騒がしく見えさせたまひつれば、今日ばかり慎ませたまへとてなむ、物忌にてはべる。
 返す返す、口惜しく、ものの妨げのやうに見たてまつりはべる」
 「昨夜から穢れなさって、とても残念なこととお嘆きになっていらっしゃったのですが、昨夜、悪い夢を御覧あそばしたので、今日一日はお慎みなさいと言って、物忌をいたしております。
 返す返すも、残念で、悪夢が邪魔しているように拝見いたしております」
   と書きて、人びとに物など食はせてやりつ。
 尼君にも、
 と書いて、人びとに食事をさせてやった。
 尼君にも、
   「今日は物忌にて、渡りたまはぬ」  「今日は物忌で、お出かけなさいません」
   と言はせたり。
 
 と言わせた。
 
 
 

第八段 匂宮と浮舟、一日仲睦まじく過ごす

 
   例は暮らしがたくのみ、霞める山際を眺めわびたまふに、暮れ行くはわびしくのみ思し焦らるる人に惹かれたてまつりて、いとはかなう暮れぬ。
 紛るることなくのどけき春の日に、見れども見れども飽かず、そのことぞとおぼゆる隈なく、愛敬づきなつかしくをかしげなり。
 
 いつもは時間のたつのも長く感じられ、霞んでいる山際を眺めながら物思いに耽っていたのに、日の暮れて行くのが侘しいとばかり思い焦がれていらっしゃる方に惹かれ申して、まことにあっけなく暮れてしまった。
 誰に妨げられることのない長い春の日を、いくら見てもいて見飽きず、どこがと思われる欠点もなく、愛嬌があって、慕わしく魅力的である。
 
   さるは、かの対の御方には似劣りなり。
 大殿の君の盛りに匂ひたまへるあたりにては、こよなかるべきほどの人を、たぐひなう思さるるほどなれば、「また知らずをかし」とのみ見たまふ。
 
 その実は、あの対の御方には見劣りがするのである。
 大殿の姫君の女盛りで美しくいらっしゃる方に比べたら、お話にもならないほどの女なのに、二人といないと思っていらっしゃる時なので、「こんなによい女は他に知らない」とばかり思っていらっしゃる。
 
   女はまた、大将殿を、いときよげに、またかかる人あらむやと見しかど、「こまやかに匂ひきよらなることは、こよなくおはしけり」と見る。
 
 女はまた一方、大将殿を、とても美しそうで他にこのような方がいるだろうかと思っていたが、「情愛こまやかで輝くような美しさは、この上なくいらっしゃるなあ」と思う。
 
   硯ひき寄せて、手習などしたまふ。
 いとをかしげに書きすさび、絵などを見所多く描きたまへれば、若き心地には、思ひも移りぬべし。
 
 硯を引き寄せて、手習などをなさる。
 たいそう美しそうに書き遊んで、絵などを上手にたくさんお描きになるので、若い女心には、愛情も移ることであろう。
 
   「心より外に、え見ざらむほどは、これを見たまへよ」  「思うにまかせず、お逢いになれない時は、この絵を御覧なさい」
   とて、いとをかしげなる男女、もろともに添ひ臥したる画を描きたまひて、  と言って、とても美しそうな男と女が、一緒に添い臥している絵を描きなさって、
   「常にかくてあらばや」  「いつもこうしていたいですね」
   などのたまふも、涙落ちぬ。
 
 などとおっしゃるのにも、涙が落ちた。
 
 

735
 「長き世を 頼めてもなほ 悲しきは
 ただ明日知らぬ 命なりけり
 「末長い仲を約束してもやはり悲しいのは
  ただ明日を知らない命であるよ
 
   いとかう思ふこそ、ゆゆしけれ。
 心に身をもさらにえまかせず、よろづにたばからむほど、まことに死ぬべくなむおぼゆる。
 つらかりし御ありさまを、なかなか何に尋ね出でけむ」
 まことにこのように思うのは、縁起でもないことだ。
 思いのままに訪ねることがまったくできず、万策めぐらすうちに、ほんとうに死んでしまいそうに思われる。
 つらかったご様子を、かえってどうして探し出したりしたのだろうか」
   などのたまふ。
 女、濡らしたまへる筆を取りて、
 などとおっしゃる。
 女は、濡らしていらっしゃる筆を取って、
 

736
 「心をば 嘆かざらまし 命のみ
 定めなき世と 思はましかば」
 「心変わりなど嘆いたりしないでしょう
  命だけが定めないこの世と思うのでしたら」
 
   とあるを、「変はらむをば恨めしう思ふべかりけり」と見たまふにも、いとらうたし。
 
 とあるのを、「心変わりするのを恨めしく思うようだ」と御覧になるにつけても、まことにかわいらしい。
 
   「いかなる人の心変はりを見ならひて」  「どのような人の心変わりを見てなのか」
   など、ほほ笑みて、大将のここに渡し初めたまひけむほどを、返す返すゆかしがりたまひて、問ひたまふを、苦しがりて、  などと、にっこりして、大将がここに連れて来なさった当時のことを、繰り返し知りたくなって、お尋ねになるのを、つらく思って、
   「え言はぬことを、かうのたまふこそ」  「申し上げられませんことを、このようにお尋ねになるとは」
   と、うち怨じたるさまも、若びたり。
 おのづからそれは聞き出でてむ、と思すものから、言はせまほしきぞわりなきや。
 
 と、恨んでいる様子も、若々しい。
 自然とそれは聞き出そう、とお思いになる一方で、言わせたく思うのも困ったことだ。
 
 
 

第九段 翌朝、匂宮、京へ帰る

 
   夜さり、京へ遣はしつる大夫参りて、右近に会ひたり。
 
 夜になって、京へ遣わした大夫が帰参して、右近に会った。
 
   「后の宮よりも御使参りて、右の大殿もむつかりきこえさせたまひて、『人に知られさせたまはぬ御ありきは、いと軽々しく、なめげなることもあるを、すべて、内裏などに聞こし召さむことも、身のためなむいとからき』といみじく申させたまひけり。
 東山に聖御覧じにとなむ、人にはものしはべりつる」
 「后の宮からもご使者が参って、右の大殿もご不満を申されて、『誰にも知らせあそばさぬお忍び歩きは、まことに軽々しく、無礼な行為に遭うこともあるのを、総じて、帝などがお耳にあそばすことも、わが身にとってもまことにつらい』とひどくおっしゃっていました。
 東山に聖僧にお会に行ったと、皆には申しておきました」
   など語りて、  などと話して、
   「女こそ罪深うおはするものはあれ。
 すずろなる眷属の人をさへ惑はしたまひて、虚言をさへせさせたまふよ」
 「女というものは罪深くいらっしゃるものです。
 何でもない家来までうろうろさせなさって、嘘までつかせなさるよ」
   と言へば、  と言うと、
   「聖の名をさへつけきこえさせたまひてければ、いとよし。
 私の罪も、それにて滅ぼしたまふらむ。
 まことに、いとあやしき御心の、げに、いかでならはせたまひけむ。
 かねてかうおはしますべしと承らましにも、いとかたじけなければ、たばかりきこえさせてましものを。
 奥なき御ありきにこそは」
 「聖と呼んでくださったのは、とても結構な。
 あなた個人の嘘をついた罪も、その功徳で帳消しなさりましょう。
 ほんとうに、とても困ったご性質で、おっしゃるとおり、いったいどうしてそのような癖がおつきになったのでしょう。
 前々からこのようにいらっしゃると聞いておりましたら、とても恐れ多いことですから、うまくお取り計らい申し上げましたでしょうに。
 無分別なご外出ですこと」
   と、扱ひきこゆ。
 
 と、お困り申す。
 
   参りて、「さなむ」とまねびきこゆれば、「げに、いかならむ」と、思しやるに、  帰参して、「これこれです」と申し上げると、「なるほど、どんなに騒いでいるだろう」と、ご想像になって、
   「所狭き身こそわびしけれ。
 軽らかなるほどの殿上人などにて、しばしあらばや。
 いかがすべき。
 かうつつむべき人目も、え憚りあふまじくなむ。
 
 「窮屈な身分はつらいものだ。
 軽い身分の殿上人などで、しばらくいたいものだ。
 どうしたらよいだろうか。
 このように慎むべき外聞も、構ってはいられない。
 
   大将もいかに思はむとすらむ。
 さるべきほどとは言ひながら、あやしきまで、昔より睦ましき仲に、かかる心の隔ての知られたらむ時、恥づかしう、またいかにぞや。
 
 大将もどのように思うであろうか。
 親しくて当然と言ってよいながら、不思議なまでに昔から親しい仲で、このような秘密が知られた時は、恥ずかしく、またどんなであろうか。
 
   世のたとひに言ふこともあれば、待ち遠なるわがおこたりをも知らず、怨みられたまはむをさへなむ思ふ。
 夢にも人に知られたまふまじきさまにて、ここならぬ所に率て離れたてまつらむ」
 世のたとえに言うこともあるので、待ち遠しがらせている自分の怠慢を顧みずに、あなたが恨まれなさるだろうとまで心配になります。
 まったく誰にも知られぬ状態で、ここではない所にお連れ申し上げよう」
   とぞのたまふ。
 今日さへかくて籠もりゐたまふべきならねば、出でたまひなむとするにも、袖の中にぞ留めたまひつらむかし。
 
 とおっしゃる。
 今日までもここにじっとしていらっしゃるわけにはいかないので、お出になろうとするにも、魂は女の袖の中にお残しになって行くのであろう。
 
   明け果てぬ前にと、人びとしはぶき驚かしきこゆ。
 妻戸にもろともに率ておはして、え出でやりたまはず。
 
 すっかり明けない前にと、供人たちは咳払いをしてお促し申す。
 妻戸まで一緒に連れてお出でになって、とても外にお出になれない。
 
 

737
 「世に知らず 惑ふべきかな 先に立つ
 涙も道を かきくらしつつ」
 「いったいどうしてよいか分からない
  先に立つ涙が道を真暗にするので」
 
   女も、限りなくあはれと思ひけり。
 
 女も、限りなく悲しいと思った。
 
 

738
 「涙をも ほどなき袖に せきかねて
 いかに別れを とどむべき身ぞ」
 「涙も狭い袖では抑えかねますので
  どのように別れを止めることができましょうか」
 
   風の音もいと荒ましく、霜深き暁に、おのが衣々も冷やかになりたる心地して、御馬に乗りたまふほど、引き返すやうにあさましけれど、御供の人びと、「いと戯れにくし」と思ひて、ただ急がしに急がし出づれば、我にもあらで出でたまひぬ。
 
 風の音もとても荒々しく、霜の深い早朝に、お互いの衣装も冷たくなった気がして、お馬にお乗りになるとき、引き返す気持ちのようで驚くほどつらいが、お供の人々が、「まったく冗談ではない」と思って、ひたすら急がして出発させたので、魂の抜けた思いでお出になった。
 
   この五位二人なむ、御馬の口にはさぶらひける。
 さかしき山越え出でてぞ、おのおの馬には乗る。
 みぎはの氷を踏みならす馬の足音さへ、心細くもの悲し。
 昔もこの道にのみこそは、かかる山踏みはしたまひしかば、「あやしかりける里の契りかな」と思す。
 
 この五位の二人が、お馬の口取りとして仕えた。
 険しい山道をすっかり越えて、それぞれの馬に乗る。
 水際の氷を踏みならす馬の足音までが、心細く何となく悲しい。
 以前もこの道だけは、このような山歩きもなさったので、「不思議な宿縁の山里だなあ」とお思いになる。
 
 
 

第三章 浮舟と薫の物語 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す

 
 

第一段 匂宮、二条院に帰邸し、中君を責める

 
   二条の院におはしまし着きて、女君のいと心憂かりし御もの隠しもつらければ、心やすき方に大殿籠もりぬるに、寝られたまはず、いと寂しきに、もの思ひまされば、心弱く対に渡りたまひぬ。
 
 二条の院にお着きになって、女君がたいそう水臭くお隠しになっていたことが情けないので、気楽な方の部屋でお寝みになったが、眠ることがおできになれず、とても寂しく物思いがまさるので、心弱く対の屋にお渡りになった。
 
   何心もなく、いときよげにておはす。
 「めづらしくをかしと見たまひし人よりも、またこれはなほありがたきさまはしたまへりかし」と見たまふものから、いとよく似たるを思ひ出でたまふも、胸塞がれば、いたくもの思したるさまにて、御帳に入りて大殿籠もる。
 女君も率て入りきこえたまひて、
 何があったとも知らずに、とても美しそうにしていらっしゃる。
 「又となく魅力的だと御覧になった人よりも、またこの人はやはり類稀な様子をしていらっしゃった」と御覧になる一方で、とてもよく似ているのを思い出しなさるにも、胸が塞がる思いがして、ひどく物思いをなさっている様子で、御帳台に入ってお寝みになる。
 女君もお連れ申してお入りになって、
   「心地こそいと悪しけれ。
 いかならむとするにかと、心細くなむある。
 まろは、いみじくあはれと見置いたてまつるとも、御ありさまはいととく変はりなむかし。
 人の本意は、かならずかなふなれば」
 「気分がとても悪い。
 どうなるのだろうかと、心細い気がする。
 わたしは、どんなにも深く愛していても先立ってしまったら、お身の上はまことすぐに変わってしまうでしょうね。
 人の思いは、きっと通るものですからね」
   とのたまふ。
 「けしからぬことをも、まめやかにさへのたまふかな」と思ひて、
 とおっしゃる。
 「ひどいことを、真面目になっておっしゃるわ」と思って、
   「かう聞きにくきことの漏りて聞こえたらば、いかやうに聞こえなしたるにかと、人も思ひ寄りたまはむこそ、あさましけれ。
 心憂き身には、すずろなることもいと苦しく」
 「このように聞きずらいことが漏れ聞こえたら、どのように申し上げたのかと、あちらもお考えになりましょうことが、たまりません。
 不運の身には、いい加減な冗談もとてもつらいので」
   とて、背きたまへり。
 宮も、まめだちたまひて、
 と言って、横をお向きになった。
 宮も、真面目になって、
   「まことにつらしと思ひきこゆることもあらむは、いかが思さるべき。
 まろは、御ためにおろかなる人かは。
 人も、ありがたしなど、とがむるまでこそあれ。
 人にはこよなう思ひ落としたまふべかめり。
 誰れもさべきにこそはと、ことわらるるを、隔てたまふ御心の深きなむ、いと心憂き」
 「ほんとうにつらいとお思い申し上げることがあるのは、どのようにお思いになるでしょう。
 わたしは、あなたにとっていい加減な人でしょうか。
 誰もが、めったにいない人だなどと、言い立てるくらいです。
 誰かに比べてこの上なく見下しなさるようだ。
 誰もそのような運命なのだろうと、自然と理解されるが、隔てなさるお気持ちの強いのが、とても情けない」
   とのたまふにも、「宿世のおろかならで、尋ね寄りたるぞかし」と思し出づるに、涙ぐまれぬ。
 まめやかなるを、「いとほしう、いかやうなることを聞きたまへるならむ」と驚かるるに、いらへきこえたまはむ言もなし。
 
 とおっしゃるにつけても、「宿世が並々でなく、探し出したのだ」と思い出されると、自然と涙ぐまれた。
 真剣なお姿を、「お気の毒で、どのようなことをお聞きになったのだろう」とはっとさせられるが、お答え申し上げなさる言葉もない。
 
   「ものはかなきさまにて見そめたまひしに、何ごとをも軽らかに推し量りたまふにこそはあらめ。
 すずろなる人をしるべにて、その心寄せを思ひ知り始めなどしたる過ちばかりに、おぼえ劣る身にこそ」と思し続くるも、よろづ悲しくて、いとどらうたげなる御けはひなり。
 
 「ちょっとした関係で結婚なさったので、どんなことも軽い気持ちで推量なさるのであろう。
 縁故もない人を頼みにして、その好意を受け入れたりしたのが過ちで、軽く扱われる身なのだ」とお思い続けるのも、何かと悲しくて、ますます可憐なご様子である。
 
   「かの人見つけたることは、しばし知らせたてまつらじ」と思せば、「異ざまに思はせて怨みたまふを、ただこの大将の御ことをまめまめしくのたまふ」と思すに、「人や虚言をたしかなるやうに聞こえたらむ」など思す。
 ありやなしやを聞かぬ間は、見えたてまつらむも恥づかし。
 
 「あの人を見つけたことは、しばらくの間はお知らせ申すまい」とお思いなので、「他の事に思わせて恨みなさるのを、ひたすらこの大将の事を真剣になっておっしゃる」とお思いになると、「誰かが嘘を真実のように申し上げたのだろう」などとお思いになる。
 事実か否かを確かめない間は、お会い申すのも恥ずかしい。
 
 
 

第二段 明石中宮からと薫の見舞い

 
   内裏より大宮の御文あるに、驚きたまひて、なほ心解けぬ御けしきにて、あなたに渡りたまひぬ。
 
 内裏から大宮のお手紙が来たので、驚きなさって、やはり釈然としないご様子で、あちらにお渡りになった。
 
   「昨日のおぼつかなさを。
 悩ましく思されたなる、よろしくは参りたまへ。
 久しうもなりにけるを」
 「昨日の心配したことよ。
 ご気分悪くいらっしゃったそうですが、悪くないようでしたら参内なさい。
 久しく見えませんこと」
   などやうに聞こえたまへれば、騒がれたてまつらむも苦しけれど、まことに御心地も違ひたるやうにて、その日は参りたまはず。
 上達部など、あまた参りたまへど、御簾の内にて暮らしたまふ。
 
 などというように申し上げなさったので、大げさに心配していただくのもつらいけれど、ほんとうにご気分も正気でないようで、その日は参内なさらない。
 上達部などが、大勢参上なさったが、御簾の中でその日はお過ごしになる。
 
   夕つ方、右大将参りたまへり。
 
 夕方、右大将が参上なさった。
 
   「こなたにを」  「こちらに」
   とて、うちとけながら対面したまへり。
 
 と言って、寛いだ恰好でお会いなさった。
 
   「悩ましげにおはします、とはべりつれば、宮にもいとおぼつかなく思し召してなむ。
 いかやうなる御悩みにか」
 「ご気分がお悪い、ということでございましたので、宮におかれましてもとてもご心配あそばされています。
 どのようなご病気すか」
   と聞こえたまふ。
 見るからに、御心騷ぎのいとどまされば、言少なにて、「聖だつと言ひながら、こよなかりける山伏心かな。
 さばかりあはれなる人を、さて置きて、心のどかに月日を待ちわびさすらむよ」と思す。
 
 とお尋ね申し上げなさる。
 お会いしただけで、お胸がどきどき高まってくるので、言葉少なくて、「聖めいているというが、途方もない山伏心だな。
 あれほどかわいい女を、そのままにして置いて、何日も何日も待ちわびさせているとは」とお思いになる。
 
   例は、さしもあらぬことのついでにだに、我はまめ人ともてなし名のりたまふを、ねたがりたまひて、よろづにのたまひ破るを、かかること見表はいたるを、いかにのたまはまし。
 されど、さやうの戯れ事もかけたまはず、いと苦しげに見えたまへば、
 いつもは、ほんの些細な機会でさえ、自分はまじめ人間だと振る舞い自称していらっしゃるのを、悔しがりなさって、何かと文句をおつけになるのを、このような事を発見したのを、どうしておっしゃっらないだろうか。
 けれども、そのような冗談もおっしゃらず、とてもつらそうにお見えになるので、
   「不便なるわざかな。
 おどろおどろしからぬ御心地の、さすがに日数経るは、いと悪しきわざにはべり。
 御風邪よくつくろはせたまへ」
 「お気の毒なことです。
 大したご病気ではなくても、やはり何日も続くのは、とてもよくないことでございます。
 お風邪を充分ご養生なさいませ」
   など、まめやかに聞こえおきて出でたまひぬ。
 「恥づかしげなる人なりかし。
 わがありさまを、いかに思ひ比べけむ」など、さまざまなることにつけつつも、ただこの人を、時の間忘れず思し出づ。
 
 などと、心からお見舞い申し述べてお出になった。
 「気のひけるほど立派な人である。
 わたしの態度を、どのように比較しただろう」などと、いろいろな事柄につけて、ひたすらあの女を、束の間も忘れずお思い出しになる。
 
   かしこには、石山も停まりて、いとつれづれなり。
 御文には、いといみじきことを書き集めたまひて遣はす。
 それだに心やすからず、「時方」と召しし大夫の従者の、心も知らぬしてなむやりける。
 
 あちらでは、石山詣でも中止になって、まことに何もすることない。
 お手紙には、とてもつらい思いをたくさんお書きになってお遣りになる。
 それでさえ気が落ち着かず、「時方」と言って召し出した大夫の従者で、事情を知らない者をして遣わしたのであった。
 
   「右近が古く知れりける人の、殿の御供にて尋ね出でたる、さらがへりてねむごろがる」  「私め右近が古くから知っていた人で、殿のお供で訪ねて来まして、昔に縒りを戻して懇意になろうとするのです」
   と、友達には言ひ聞かせたり。
 よろづ右近ぞ、虚言しならひける。
 
 と、女房仲間には言い聞かせていた。
 何かと右近は、嘘をつくことになったのであった。
 
 
 

第三段 二月上旬、薫、宇治へ行く

 
   月もたちぬ。
 かう思し知らるれど、おはしますことはいとわりなし。
 「かうのみものを思はば、さらにえながらふまじき身なめり」と、心細さを添へて嘆きたまふ。
 
 月が替わった。
 このようにお分かりになるが、お出かけになることはとても無理である。
 「こうして物思いばかりしていたら、生きてもいられないようなわが身だ」と、心細さが加わってお嘆きになる。
 
   大将殿、すこしのどかになりぬるころ、例の、忍びておはしたり。
 寺に仏など拝みたまふ。
 御誦経せさせたまふ僧に、物賜ひなどして、夕つ方、ここには忍びたれど、これはわりなくもやつしたまはず。
 烏帽子直衣の姿、いとあらまほしくきよげにて、歩み入りたまふより、恥づかしげに、用意ことなり。
 
 大将殿は、少しのんびりしたころ、いつものように、人目を忍んでお出でになった。
 寺で仏などを拝みなさる。
 御誦経をおさせになる僧に、お布施を与えたりして、夕方に、こちらには人目を忍んでだが、この人はひどく身を簡略になさるでもない。
 烏帽子に直衣姿が、たいそう理想的で美しそうで、歩んでお入りになるなり、こちらが恥ずかしくなりそうで、心づかいが格別である。
 
   女、いかで見えたてまつらむとすらむと、空さへ恥づかしく恐ろしきに、あながちなりし人の御ありさま、うち思ひ出でらるるに、また、この人に見えたてまつらむを思ひやるなむ、いみじう心憂き。
 
 女は、どうしてお会いできようかと、空にまで目があって恐ろしく思われるので、激しく一途であった方のご様子が、自然と思い出されると、一方で、この方にお会いすることを想像すると、ひどくつらい。
 
   「『われは年ごろ見る人をも、皆思ひ変はりぬべき心地なむする』とのたまひしを、げに、そののち御心地苦しとて、いづくにもいづくにも、例の御ありさまならで、御修法など騒ぐなるを聞くに、また、いかに聞きて思さむ」と思ふもいと苦し。
 
 「『私は今まで何年も会っていた女の思いが、皆あなたに移ってしまいそうだ』とおっしゃったのを、なるほど、その後はご気分が悪いと言って、どの方にもどの方にも、いつものようなご様子ではなく、御修法などと言って騒いでいるというのを聞くと、また、どのようにお聞きになってどのようにお思いになるだろうか」と、思うにつけてまことにつらい。
 
   この人はた、いとけはひことに、心深く、なまめかしきさまして、久しかりつるほどのおこたりなどのたまふも、言多からず、恋し愛しとおり立たねど、常にあひ見ぬ恋の苦しさを、さまよきほどにうちのたまへる、いみじく言ふにはまさりて、いとあはれと人の思ひぬべきさまをしめたまへる人柄なり。
 艶なる方はさるものにて、行く末長く人の頼みぬべき心ばへなど、こよなくまさりたまへり。
 
 この方はこの方で、たいそう感じが格別で、愛情深く、優美な態度で、久しく会わなかったご無沙汰のお詫びをおっしゃるのも、言葉数多くなく、恋しい愛しいと直接には言わないが、いつも一緒にいられない恋の苦しい気持ちを、体裁よくおっしゃるのが、ひどく言葉を尽くして言うよりもまさって、たいそうしみじみと誰もが思うにちがいないような感じを身につけていらっしゃる人柄である。
 やさしく美しい方面は無論のこと、将来末長く信頼できる性格などが、この上なくまさっていらっしゃった。
 
   「思はずなるさまの心ばへなど、漏り聞かせたらむ時も、なのめならずいみじくこそあべけれ。
 あやしううつし心もなう思し焦らるる人を、あはれと思ふも、それはいとあるまじく軽きことぞかし。
 この人に憂しと思はれて、忘れたまひなむ」心細さは、いと深うしみにければ、思ひ乱れたるけしきを、「月ごろに、こよなうものの心知り、ねびまさりにけり。
 つれづれなる住み処のほどに、思ひ残すことはあらじかし」と見たまふも、心苦しければ、常よりも心とどめて語らひたまふ。
 
 「心外なと思われる様子の気持ちなどが、漏れてお耳に入った時は、とても大変なことになるであろう。
 不思議なほど正気もなく恋い焦がれている方を、恋しいと思うのも、それはとてもとんでもなく軽率なことだわ。
 この方に嫌だと思われて、お忘れになるってしまう」心細さは、とても深くしみこんでいたので、思い乱れている様子を、「途絶えていたこの幾月間に、すっかり男女の情理をわきまえ、成長したものだ。
 何もすることのない住処にいる間に、あらゆる物思いの限りを尽くしたのだろうよ」と御覧になるにつけても、気の毒なので、いつもより心をこめてお語らいになる。
 
 
 

第四段 薫と浮舟、それぞれの思い

 
   「造らする所、やうやうよろしうしなしてけり。
 一日なむ、見しかば、ここよりは気近き水に、花も見たまひつべし。
 三条の宮も近きほどなり。
 明け暮れおぼつかなき隔ても、おのづからあるまじきを、この春のほどに、さりぬべくは渡してむ」
 「造らせている所は、だんだんと出来上がって来た。
 先日、見に行ったが、ここよりはやさしい感じの川があって、花も御覧になれましょう。
 三条宮邸も近い所です。
 毎日会わないでいる不安も、自然と消えましょうから、この春のころに、差し支えなければお連れしよう」
   と思ひてのたまふも、「かの人の、のどかなるべき所思ひまうけたりと、昨日ものたまへりしを、かかることも知らで、さ思すらむよ」と、あはれながらも、「そなたになびくべきにはあらずかし」と思ふからに、ありし御さまの、面影におぼゆれば、「我ながらも、うたて心憂の身や」と、思ひ続けて泣きぬ。
 
 と思っておっしゃるのにつけても、「あの方が、のんびりとした所を考えついたと、昨日もおっしゃっていたが、このようなことをご存知なくて、そのようにお考えになっていることよ」と、心が痛みながらも、「そちらに靡くべきではないのだ」と思うその一方で、先日のお姿が、面影に現れるので、「自分ながらも嫌な情けない身の上だわ」と、思い続けて泣いた。
 
   「御心ばへの、かからでおいらかなりしこそ、のどかにうれしかりしか。
 人のいかに聞こえ知らせたることかある。
 すこしもおろかならむ心ざしにては、かうまで参り来べき身のほど、道のありさまにもあらぬを」
 「お気持ちが、このようでなくおっとりとしていたのが、のんびりと嬉しかった。
 誰かが何か言い聞かせたことがあるのですか。
 少しでも並々の愛情であったら、こうしてわざわざやって来ることができる身分ではないし、道中でもないのですよ」
   など、朔日ごろの夕月夜に、すこし端近く臥して眺め出だしたまへり。
 男は、過ぎにし方のあはれをも思し出で、女は、今より添ひたる身の憂さを嘆き加へて、かたみにもの思はし。
 
 などと言って、初旬ころの夕月夜に、少し端に近い所に臥して外を眺めていらっしゃった。
 男は、亡くなった姫君のことを思い出しなさって、女は、今から加わった身のつらさを嘆いて、お互いに物思いする。
 
 
 

第五段 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す

 
   山の方は霞隔てて、寒き洲崎に立てる鵲の姿も、所からはいとをかしう見ゆるに、宇治橋のはるばると見わたさるるに、柴積み舟の所々に行きちがひたるなど、他にて目馴れぬことどものみとり集めたる所なれば、見たまふたびごとに、なほそのかみのことのただ今の心地して、いとかからぬ人を見交はしたらむだに、めづらしき仲のあはれ多かるべきほどなり。
 
 山の方は霞が隔てて、寒い洲崎に立っている鵲の姿も、場所柄かとても興趣深く見えるが、宇治橋がはるばると見渡されるところに、柴積み舟があちこちで行き交っているのなどが、他の場所では見慣れないことばかりがあれやこれやある所なので、御覧になる度ごとに、やはりその当時のことがまるで今のような気がして、ほんとにそうでもない女を相手にする時でさえ、めったにない逢瀬の情が多いにちがいないところである。
 
   まいて、恋しき人によそへられたるもこよなからず、やうやうものの心知り、都馴れゆくありさまのをかしきも、こよなく見まさりしたる心地したまふに、女は、かき集めたる心のうちに、催さるる涙、ともすれば出でたつを、慰めかねたまひつつ、  それ以上に、恋しい女に似ているのもこの上なく、だんだんと男女の情理を知り、都の女らしくなってゆく様子がかわいらしいのも、すっかり良くなった感じがなさるが、女は、あれこれ物思いする心中に、いつの間にかこみ上げてくる涙、ややもすれば流れ出すのを、慰めかねなさって、
 

739
 「宇治橋の 長き契りは 朽ちせじを
 危ぶむ方に 心騒ぐな
 「宇治橋のように末長い約束は朽ちないから
  不安に思って心配なさるな
 
   今見たまひてむ」  やがてお分かりになりましょう」
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
 

740
 「絶え間のみ 世には危ふき 宇治橋を
 朽ちせぬものと なほ頼めとや」
 「絶え間ばかりが気がかりでございます宇治橋なのに
  朽ちないものと依然頼りにしなさいとおっしゃるのですか」
 
   さきざきよりもいと見捨てがたく、しばしも立ちとまらまほしく思さるれど、人のもの言ひのやすからぬに、「今さらなり。
 心やすきさまにてこそ」など思しなして、暁に帰りたまひぬ。
 「いとようもおとなびたりつるかな」と、心苦しく思し出づること、ありしにまさりけり。
 
 以前よりもまことに見捨てがたく、暫くの間も逗留していたくお思いになるが、世間の噂がうるさいので、「今さら長居をすべきでもない。
 気楽に会える時になったら」などとお考えになって、早朝にお帰りになった。
 「とても素晴らしく成長なさったな」と、おいたわしくお思い出しになること、今まで以上であった。
 
 
 

第四章 浮舟と匂宮の物語 匂宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す

 
 

第一段 二月十日、宮中の詩会催される

 
   如月の十日のほどに、内裏に文作らせたまふとて、この宮も大将も参りあひたまへり。
 折に合ひたる物の調べどもに、宮の御声はいとめでたくて、「梅が枝」など謡ひたまふ。
 何ごとも人よりはこよなうまさりたまへる御さまにて、すずろなること思し焦らるるのみなむ、罪深かりける。
 
 二月の十日ころに、内裏で作文会を開催あそばすということで、この宮も大将も参内なさった。
 季節に適った楽器の響きに、宮のお声は実に素晴らしく、「梅が枝」などを謡いなさる。
 何事も誰よりもこの上なく上手でいらっしゃるご様子で、つまらないことに熱中なさることだけが、罪深いことであった。
 
   雪にはかに降り乱れ、風など烈しければ、御遊びとくやみぬ。
 この宮の御宿直所に、人びと参りたまふ。
 もの参りなどして、うち休みたまへり。
 
 雪が急に降り乱れ、風などが烈しく吹いたので、御遊会は早く終わりになった。
 この宮の御宿直部屋に、人びとがお集まりになる。
 食事を召し上がったりして、休んでいらっしゃった。
 
   大将、人にもののたまはむとて、すこし端近く出でたまへるに、雪のやうやう積もるが、星の光におぼおぼしきを、「闇はあやなし」とおぼゆる匂ひありさまにて、  大将、誰かに何かおっしゃろうとして、少し端近くにお出になったが、雪がだんだんと降り積もったのが、星の光ではっきりとしないので、「闇はわけが分からない」と思われる匂いや姿で、
   「衣片敷き今宵もや」  「小さい筵に衣を独り敷いて今夜も宇治の姫君はで待っていることだろう」
   と、うち誦じたまへるも、はかなきことを口ずさびにのたまへるも、あやしくあはれなるけしき添へる人ざまにて、いともの深げなり。
 
 と、ふと口ずさみなさったのも、ちょっとしたことを口ずさんだのだが、妙にしみじみとした情感をそそる人柄なので、たいそう奥ゆかしく見える。
 
   言しもこそあれ、宮は寝たるやうにて、御心騒ぐ。
 
 他に歌はいくらでもあろうに、宮は寝入っていたようだが、お心が騒ぐ。
 
   「おろかには思はぬなめりかし。
 片敷く袖を、我のみ思ひやる心地しつるを、同じ心なるもあはれなり。
 侘しくもあるかな。
 かばかりなる本つ人をおきて、我が方にまさる思ひは、いかでつくべきぞ」
 「いい加減には思っていないようだ。
 独り寂しくいるだろうと、わたしだけが思いやっていると思ったのに、同じ気持ちでいるとは憎らしい。
 やるせない話だ。
 あれほどの元からの人をおいて、自分の方にいっそうの愛情を、どうして向けることができようか」
   とねたう思さる。
 
 と悔しく思わずにはいらっしゃれない。
 
   明朝、雪のいと高う積もりたるに、文たてまつりたまはむとて、御前に参りたまへる御容貌、このころいみじく盛りにきよげなり。
 かの君も同じほどにて、今二つ、三つまさるけぢめにや、すこしねびまさるけしき用意などぞ、ことさらにも作りたらむ、あてなる男の本にしつべくものしたまふ。
 「帝の御婿にて飽かぬことなし」とぞ、世人もことわりける。
 才なども、おほやけおほやけしき方も、後れずぞおはすべき。
 
 早朝、雪が深く積もったので、詩文を献上しようとして、御前に参上なさったご器量は、最近特に男盛りで美しそうに見える。
 あの君も同じくらいの年齢で、もう二、三歳年長の違いからか、少し老成した態度や心配りなどは、特別に作り出したような、上品な男の手本のようでいらっしゃる。
 「帝の婿君として不足がない」と、世間の人も判断している。
 詩文の才能なども、政治向きの才能も、誰にも負けないでいらっしゃったのだろう。
 
   文講じ果てて、皆人まかでたまふ。
 宮の御文を、「すぐれたり」と誦じののしれど、何とも聞き入れたまはず、「いかなる心地にて、かかることをもし出づらむ」と、そらにのみ思ほしほれたり。
 
 詩文の披講がすっかり終わって、参会者皆が退出なさる。
 宮の詩文を「優れていた」と朗誦して誉めるが、何ともお感じにならず、「どのような気持ちで、こんなことをしているのか」と、ぼんやりとばかりしていらっしゃった。
 
 
 

第二段 匂宮、雪の山道の宇治へ行く

 
   かの人の御けしきにも、いとど驚かれたまひければ、あさましうたばかりておはしましたり。
 京には、友待つばかり消え残りたる雪、山深く入るままに、やや降り埋みたり。
 
 あの方のご様子からも、ますますはっとなさったので、無理な算段をしてお出かけになった。
 京では、わずかばかり消え残っている雪が、山深く入って行くにつれて、だんだんと深く積もって道を埋めていた。
 
   常よりもわりなきまれの細道を分けたまふほど、御供の人も、泣きぬばかり恐ろしう、わづらはしきことをさへ思ふ。
 しるべの内記は、式部少輔なむ掛けたりける。
 いづ方もいづ方も、ことことしかるべき官ながら、いとつきづきしく、引き上げなどしたる姿もをかしかりけり。
 
 いつもよりひどい人影も稀な細道を分け入って行きなさるとき、お供の人も、泣き出したいほど恐ろしく、厄介なことが起こる場合まで心配する。
 案内役の大内記は、式部少輔を兼官していた。
 どちらの官も重々しくしていなければならない官職であるが、とても似合わしく指貫の裾を引き上げたりしている姿はおかしかった。
 
   かしこには、おはせむとありつれど、「かかる雪には」とうちとけたるに、夜更けて右近に消息したり。
 「あさましう、あはれ」と、君も思へり。
 右近は、「いかになり果てたまふべき御ありさまにか」と、かつは苦しけれど、今宵はつつましさも忘れぬべし。
 言ひ返さむ方もなければ、同じやうに睦ましくおぼいたる若き人の、心ざまも奥なからぬを語らひて、
 あちらでは、いらっしゃるという知らせはあったが、「このような雪ではまさか」と気を許していたところに、夜が更けてから右近に到着の旨を伝えた。
 「驚いたわ、まあ」と、女君までが感動した。
 右近は、「どのようにしまいにはおなりになるお身の上であろうか」と、一方では心配だが、今夜は人目を憚る気持ちも忘れてしまいそうだ。
 お断りするすべもないので、同じように親しくお思いになっている若い女房で、思慮も浅くない者と相談して、
   「いみじくわりなきこと。
 同じ心に、もて隠したまへ」
 「大変に困りましたこと。
 同じ気持ちで、秘密にしてください」
   と言ひてけり。
 もろともに入れたてまつる。
 道のほどに濡れたまへる香の、所狭う匂ふも、もてわづらひぬべけれど、かの人の御けはひに似せてなむ、もて紛らはしける。
 
 と言ったのであった。
 一緒になってお入れ申し上げる。
 道中で雪にお濡れになった薫物の香りが、あたりせましと匂うのも、困ってしまいそうだが、あの方のご様子に似せて、ごまかしたのであった。
 
 
 

第三段 宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す

 
   夜のほどにて立ち帰りたまはむも、なかなかなべければ、ここの人目もいとつつましさに、時方にたばからせたまひて、「川より遠方なる人の家に率ておはせむ」と構へたりければ、先立てて遣はしたりける、夜更くるほどに参れり。
 
 夜のうちにお帰りになるのも、かえって来なかったほうがましなくらいだから、こちらの人目もとても憚れるので、時方に計略をめぐらせなさって、「川向こうの人の家に連れて行こう」と考えていたので、先立って遣わしておいたのが、夜の更けるころに参上した。
 
   「いとよく用意してさぶらふ」  「とてもよく準備してございます」
   と申さす。
 「こは、いかにしたまふことにか」と、右近もいと心あわたたしければ、寝おびれて起きたる心地も、わななかれて、あやし。
 童べの雪遊びしたるけはひのやうにぞ、震ひ上がりにける。
 
 と申し上げさせる。
 「これは、どうなさることか」と、右近もとても気がそぞろなので、寝惚けて起きている気持ちも、ぶるぶると震えて、正体もない。
 子供が雪遊びをしている時のように、震え上がってしまった。
 
   「いかでか」  「どうしてそのようなことが」
   なども言ひあへさせたまはず、かき抱きて出でたまひぬ。
 右近はこの後見にとまりて、侍従をぞたてまつる。
 
 などという余裕もお与えにならず、抱いてお出になった。
 右近はこちらの留守居役に残って、侍従をお供申させる。
 
   いとはかなげなるものと、明け暮れ見出だす小さき舟に乗りたまひて、さし渡りたまふほど、遥かならむ岸にしも漕ぎ離れたらむやうに心細くおぼえて、つとつきて抱かれたるも、いとらうたしと思す。
 
 実に頼りないものと、毎日眺めている小さい舟にお乗りになって、漕ぎ渡りなさるとき、遥か遠い岸に向かって漕ぎ離れて行ったような心細い気持ちがして、ぴたりとくっついて抱かれているのを、とてもいじらしいとお思いになる。
 
   有明の月澄み昇りて、水の面も曇りなきに、  有明の月が澄み上って、川面も澄んでいるところに、
   「これなむ、橘の小島」  「これが、橘の小島です」
   と申して、御舟しばしさしとどめたるを見たまへば、大きやかなる岩のさまして、されたる常磐木の蔭茂れり。
 
 と申して、お舟をしばらくお止めになったので御覧になると、大きな岩のような恰好をして、しゃれた常磐木が茂っていた。
 
   「かれ見たまへ。
 いとはかなけれど、千年も経べき緑の深さを」
 「あれをご覧なさい。
 とても頼りなさそうですが、千年も生きるにちがいない緑の深さです」
   とのたまひて、  とおっしゃって、
 

741
 「年経とも 変はらむものか 橘の
 小島の崎に 契る心は」
 「何年たとうとも変わりません
  橘の小島の崎で約束するわたしの気持ちは」
 
   女も、めづらしからむ道のやうにおぼえて、  女も、珍しい所へ来たように思われて、
 

742
 「橘の 小島の色は 変はらじを
 この浮舟ぞ 行方知られぬ」
 「橘の小島の色は変わらないでも
  この浮舟のようなわたしの身はどこへ行くのやら」
 
   折から、人のさまに、をかしくのみ何事も思しなす。
 
 折柄、女も美しいので、ただもう素晴らしくお思いになる。
 
   かの岸にさし着きて降りたまふに、人に抱かせたまはむは、いと心苦しければ、抱きたまひて、助けられつつ入りたまふを、いと見苦しく、「何人を、かくもて騷ぎたまふらむ」と見たてまつる。
 時方が叔父の因幡守なるが領ずる荘に、はかなう造りたる家なりけり。
 
 あちらの岸に漕ぎ着いてお降りになるとき、供人に抱かせなさるのは、とてもつらいので、お抱きになって、助けられながらお入りになるのを、とても見苦しく、「どのような人を、こんなに大騒ぎなさっているのだろう」と拝見する。
 時方の叔父で因幡守である人が所領する荘園に、かりそめに建てた家なのであった。
 
   まだいと粗々しきに、網代屏風など、御覧じも知らぬしつらひにて、風もことに障らず、垣のもとに雪むら消えつつ、今もかき曇りて降る。
 
 まだとても手入れが行き届いていず、網代屏風など、御覧になったこともない飾り付けで、風も十分に防ぎきれず、垣根のもとに雪がまだらに消え残っていて、今でも曇っては雪が降る。
 
 
 

第四段 匂宮、浮舟に心奪われる

 
   日さし出でて、軒の垂氷の光りあひたるに、人の御容貌もまさる心地す。
 宮も、所狭き道のほどに、軽らかなるべきほどの御衣どもなり。
 女も、脱ぎすべさせたまひてしかば、細やかなる姿つき、いとをかしげなり。
 ひきつくろふこともなくうちとけたるさまを、「いと恥づかしく、まばゆきまできよらなる人にさしむかひたるよ」と思へど、紛れむ方もなし。
 
 日が差し出て、軒の氷柱が光り合っていて、宮のご容貌もいちだんと立派に見える気がする。
 宮も、人目を忍ぶやっかいな道中で、身軽なお召物である。
 女も、上着を脱がさせなさっていたので、ほっそりとした姿つきがたいそう魅力的である。
 身づくろいすることもなくうちとけている様子を、「とても恥ずかしく、眩しいほどに美しい方に向かい合っていることだわ」と思うが、隠れる所もない。
 
   なつかしきほどなる白き限りを五つばかり、袖口、裾のほどまでなまめかしく、色々にあまた重ねたらむよりも、をかしう着なしたり。
 常に見たまふ人とても、かくまでうちとけたる姿などは見ならひたまはぬを、かかるさへぞ、なほめづらかにをかしう思されける。
 
 やさしい感じの白い衣だけを五枚ほど、袖口、裾のあたりまで優美で、色とりどりにたくさん重ねたのよりも美しく着こなしていた。
 いつも御覧になっている方でも、こんなにまでうちとけている姿などは御覧になったことがないので、こんなことまでが、やはり珍しく興趣深く思われなさるのであった。
 
   侍従も、いとめやすき若人なりけり。
 「これさへ、かかるを残りなう見るよ」と、女君は、いみじと思ふ。
 宮も、
 侍従も、大して悪くはない若い女房なのであった。
 「この人までが、このような姿をすっかり見ているわ」と、女君は、たまらなく思う。
 宮も、
   「これはまた誰そ。
 わが名漏らすなよ」
 「この人は誰ですか。
 わたしの名前を漏らしてはなりませんよ」
   と口がためたまふを、「いとめでたし」と思ひきこえたり。
 ここの宿守にて住みける者、時方を主と思ひてかしづきありけば、このおはします遣戸を隔てて、所得顔に居たり。
 声ひきしじめ、かしこまりて物語しをるを、いらへもえせず、をかしと思ひけり。
 
 と口がためなさるのを、「とても素晴らしい」と思い申し上げていた。
 ここの宿守として住んでいた者、時方を主人と思ってお世話してまわるので、このいらっしゃるところの遣戸を隔てて、得意顔をして座っている。
 声を緊張させて、恐縮して話しているのを、返事もできないで、おかしいと思うのであった。
 
   「いと恐ろしく占ひたる物忌により、京の内をさへ去りて慎むなり。
 他の人、寄すな」
 「たいそう恐ろしい占いが出た物忌によって、京の内をさえ避けて慎むのだ。
 他の人を、近づけるな」
   と言ひたり。
 
 と言っていた。
 
 
 

第五段 匂宮、浮舟と一日を過ごす

 
   人目も絶えて、心やすく語らひ暮らしたまふ。
 「かの人のものしたまへりけむに、かくて見えてむかし」と、思しやりて、いみじく怨みたまふ。
 二の宮をいとやむごとなくて、持ちたてまつりたまへるありさまなども語りたまふ。
 かの耳とどめたまひし一言は、のたまひ出でぬぞ憎きや。
 
 人目も絶えて、気楽に話し合って一日お過ごしになる。
 「あの方がいらっしゃったときに、このようにお会いになっているのだろう」と、ご想像になって、ひどくお恨みになる。
 二の宮をとても大切に扱って、北の方としていらっしゃるご様子などもお話しになる。
 あのお耳に止めなさった一言は、おっしゃらないのは憎いことであるよ。
 
   時方、御手水、御くだものなど、取り次ぎて参るを御覧じて、  時方が、御手水や、果物などを、取り次いで差し上げるのを御覧になって、
   「いみじくかしづかるめる客人の主、さてな見えそや」  「たいそう大切にされている客人は、そのような姿を他人に見られるでないぞ」
   と戒めたまふ。
 侍従、色めかしき若人の心地に、いとをかしと思ひて、この大夫とぞ物語して暮らしける。
 
 と戒めなさる。
 侍従は、好色っぽい若い女の考えから、とても素晴らしいと思って、この大夫と話をして一日暮らしたのであった。
 
   雪の降り積もれるに、かのわが住む方を見やりたまへれば、霞の絶え絶えに梢ばかり見ゆ。
 山は鏡を懸けたるやうに、きらきらと夕日に輝きたるに、昨夜、分け来し道のわりなさなど、あはれ多う添へて語りたまふ。
 
 雪が降り積もっているので、あのご自分が住む家の方を眺望なさると、霞の絶え間に梢だけが見える。
 山は鏡を懸けたように、きらきらと夕日に輝いているところに、昨夜、踏み分けて来た道のひどさなどを、同情を誘うようにお話しになる。
 
 

743
 「峰の雪 みぎはの氷 踏み分けて
 君にぞ惑ふ 道は惑はず
 「峰の雪や水際の氷を踏み分けて
  あなたに心は迷いましたが、道中では迷いません
 
   木幡の里に馬はあれど」  木幡の里に馬はあるが」
   など、あやしき硯召し出でて、手習ひたまふ。
 
 などと、見苦しい硯を召し出して、手習いなさる。
 
 

744
 「降り乱れ みぎはに凍る 雪よりも
 中空にてぞ 我は消ぬべき」
 「降り乱れて水際で凍っている雪よりも
  はかなくわたしは中途で消えてしまいそうです」
 
   と書き消ちたり。
 この「中空」をとがめたまふ。
 「げに、憎くも書きてけるかな」と、恥づかしくて引き破りつ。
 さらでだに見るかひある御ありさまを、いよいよあはれにいみじと、人の心にしめられむと、尽くしたまふ言の葉、けしき、言はむ方なし。
 
 と書いて消した。
 この「中空」をお咎めになる。
 「なるほど、憎いことを書いたものだわ」と、恥ずかしくて引き破った。
 そうでなくても見る効のあるご様子を、ますます感激して素晴らしいと、相手が心に思い込むようにと、あらん限りの言葉を尽くすご様子、態度は、何とも表現のしようがない。
 
 
 

第六段 匂宮、京へ帰り立つ

 
   御物忌、二日とたばかりたまへれば、心のどかなるままに、かたみにあはれとのみ、深く思しまさる。
 右近は、よろづに例の、言ひ紛らはして、御衣などたてまつりたり。
 今日は、乱れたる髪すこし削らせて、濃き衣に紅梅の織物など、あはひをかしく着替へてゐたまへり。
 侍従も、あやしき褶着たりしを、あざやぎたれば、その裳を取りたまひて、君に着せたまひて、御手水参らせたまふ。
 
 御物忌を、二日とおだましになっていたので、のんびりとしたまま、お互いに愛しいとばかり、深くご愛情がまさって行く。
 右近は、いろいろと例によって、言い紛らして、お召物などを差し上げた。
 今日は、乱れた髪を少し梳かせて、濃い紫の袿に紅梅の織物などを、ちょうどよい具合に着替えていらっしゃった。
 侍従も、見苦しい褶を着ていたが、美しいのに着替えたので、その裳をお取りになって、女君にお着せになって、御手水の世話をおさせになる。
 
   「姫宮にこれをたてまつりたらば、いみじきものにしたまひてむかし。
 いとやむごとなき際の人多かれど、かばかりのさましたるは難くや」
 「姫宮にこの女を出仕させたら、どんなにか大事になさるだろう。
 とても高貴な身分の女性が多いが、これほどの様子をした女性はいないのではないか」
   と見たまふ。
 かたはなるまで遊び戯れつつ暮らしたまふ。
 忍びて率て隠してむことを、返す返すのたまふ。
 「そのほど、かの人に見えたらば」と、いみじきことどもを誓はせたまへば、「いとわりなきこと」と思ひて、いらへもやらず、涙さへ落つるけしき、「さらに目の前にだに思ひ移らぬなめり」と胸痛う思さる。
 怨みても泣きても、よろづのたまひ明かして、夜深く率て帰りたまふ。
 例の、抱きたまふ。
 
 と御覧になる。
 みっともないほど遊び戯れながら一日お過ごしになる。
 こっそりと連れ出して隠そうということを、繰り返しおっしゃる。
 「その間に、あの方に逢ったら承知しない」と、厳しいことを誓わせなさるので、「実に困ったこと」と思って、返事もできず、涙までが落ちる様子、「全然目の前にいるときでさえもわたしに愛情が移らないようだ」と胸が痛く思われなさる。
 恨んだり泣いたり、いろいろとおっしゃって夜を明かして、夜深く連れてお帰りになる。
 例によって、お抱きになる。
 
   「いみじく思すめる人は、かうは、よもあらじよ。
 見知りたまひたりや」
 「大切にお思いの方は、このようには、なさるまいよ。
 お分かりになりましたか」
   とのたまへば、げに、と思ひて、うなづきて居たる、いとらうたげなり。
 右近、妻戸放ちて入れたてまつる。
 やがて、これより別れて出でたまふも、飽かずいみじと思さる。
 
 とおっしゃると、お言葉のとおりだ、と思って、うなずいて座っているのは、たいそういじらしげである。
 右近が、妻戸を開け放ってお入れ申し上げる。
 そのまま、ここで別れてお帰りになるのも、あかず悲しいとお思いになる。
 
 
 

第七段 匂宮、二条院に帰邸後、病に臥す

 
   かやうの帰さは、なほ二条にぞおはします。
 いと悩ましうしたまひて、物など絶えてきこしめさず、日を経て青み痩せたまひ、御けしきも変はるを、内裏にもいづくにも、思ほし嘆くに、いとどもの騒がしくて、御文だにこまかには書きたまはず。
 
 このような時の帰りは、やはり二条院においでになる。
 とても気分が悪くおなりになって、食事なども召し上がらず、日がたつにつれて青くお痩せになって、ご様子も変わるので、帝におかせられてもどちら様におかれても、お嘆きになり、ますます大騒ぎになって、お手紙さえこまごまと書くことがおできになれない。
 
   かしこにも、かのさかしき乳母、娘の子産む所に出でたりける、帰り来にければ、心やすくもえ見ず。
 かくあやしき住まひを、ただかの殿のもてなしたまはむさまをゆかしく待つことにて、母君も思ひ慰めたるに、忍びたるさまながらも、近く渡してむことを思しなりにければ、いとめやすくうれしかるべきことに思ひて、やうやう人求め、童のめやすきなど迎へておこせたまふ。
 
 あちらでも、あの利口ぶった乳母は、その娘が子供を産む所に行っていたのが、帰って来たので、気安く手紙を見ることもできない。
 このように見すぼらしい生活を、ただあの殿がお世話くださるのを期待することで、母君も思い慰めていたが、日蔭の存在ながらも、近くにお移しになることをお考えになっていたので、とても安心で嬉しかろうことと思って、だんだんと女房を求め、童女の無難な者などを迎えてお寄越しになる。
 
   わが心にも、「それこそは、あるべきことに、初めより待ちわたれ」とは思ひながら、あながちなる人の御ことを思ひ出づるに、怨みたまひしさま、のたまひしことども、面影につと添ひて、いささかまどろめば、夢に見えたまひつつ、いとうたてあるまでおぼゆ。
 
 自分自身でも、「それこそが、理想だと、初めからずっと待っていた」とは思いながらも、無理をなさる方のお事を思い出すと、お恨みになった様子、おっしゃった言葉などが、面影にぴったりと添ったまま、わずかにお寝みになると、夢に現れなさって、とても嫌なまでに思われる。
 
 
 

第五章 浮舟の物語 浮舟、恋の板ばさみに、入水を思う

 
 

第一段 春雨の続く頃、匂宮から手紙が届く

 
   雨降り止まで、日ごろ多くなるころ、いとど山路思し絶えて、わりなく思されければ、「親のかふこは所狭きものにこそ」と思すもかたじけなし。
 尽きせぬことども書きたまひて、
 雨が降り止まないで、日数が重なるころ、ますます山路通いはお諦めになって、たまらない気がなさるので、「親が大切にする子は窮屈なもの」とお思いになるのも恐れ多いことだ。
 尽きない思いの丈をお書きになって、
 

745
 「眺めやる そなたの雲も 見えぬまで
 空さへ暮るる ころのわびしさ」
 「眺めやっているそちらの方の雲も見えないくらいに
  空までが真っ暗になっている今日このごろの侘しさです」
 
   筆にまかせて書き乱りたまへるしも、見所あり、をかしげなり。
 ことにいと重くなどはあらぬ若き心地に、
 筆にまかせて書きすさびなさったのも、見所があって、美しそうである。
 特に大して重々しくはない若い気持ちでは、
   「いとかかる心を思ひもまさりぬべけれど、初めより契りたまひしさまも、さすがに、かれは、なほいともの深う、人柄のめでたきなども、世の中を知りにし初めなればにや、かかる憂きこと聞きつけて、思ひ疎みたまひなむ世には、いかでかあらむ。
 
 「とてもこのような気持ちに惹かれるにちがいないが、初めから約束なさった様子も、やはり何といっても、あの方は、やはりとても思慮深く、人柄が素晴らしく思われたのなども、男女の仲を知った初めのうちだからであろうか、このような情けないことを聞きつけて、お疎みになったら、どうして生きていられようか。
 
   いつしかと思ひ惑ふ親にも、思はずに、心づきなしとこそは、もてわづらはれめ。
 かく心焦られしたまふ人、はた、いとあだなる御心本性とのみ聞きしかば、かかるほどこそあらめ、またかうながらも、京にも隠し据ゑたまひ、ながらへても思し数まへむにつけては、かの上の思さむこと。
 よろづ隠れなき世なりければ、あやしかりし夕暮のしるべばかりにだに、かう尋ね出でたまふめり。
 
 早く殿に迎えられるようにと気を揉んでいる母親は、思いもかけないことで、気にくわないと、困ることであろう。
 このように熱心になっていらっしゃる方は、また一方で、とても浮気なご性質とばかり聞いていたので、今は熱心であっても、またこのような状態で、京にお隠し据えなさっても、末長く情けをかける一人として思ってくださることにつけては、あの上がどのようにお思いになることやら。
 何事も隠しきれない世の中なのだから、不思議な事のあった夕暮の縁だけで、このようにお尋ねになるようだ。
 
   まして、わがありさまのともかくもあらむを、聞きたまはぬやうはありなむや」  まして、自分が宮にかくまわれることになっても、殿がお知りにならないことがあろうか」
   と思ひたどるに、「わが心も、きずありて、かの人に疎まれたてまつらむ、なほいみじかるべし」と思ひ乱るる折しも、かの殿より御使あり。
 
 と次々と考えると、「自分ながら、まちがいがあって、あの殿に疎まれ申すのも、やはりつらいことであろう」とちょうど思い乱れている時、あの殿からお使者がある。
 
 
 

第二段 その同じ頃、薫からも手紙が届く

 
   これかれと見るもいとうたてあれば、なほ言多かりつるを見つつ、臥したまへれば、侍従、右近、見合はせて、  あれこれと見るのも嫌な気がするので、やはり長々とあった方を見ながら、臥せっていらっしゃると、侍従と、右近とが、顔を見合わせて、
   「なほ、移りにけり」  「やはり、心が移ったわ」
   など、言はぬやうにて言ふ。
 
 などと、声に出さないで目で言っている。
 
   「ことわりぞかし。
 殿の御容貌を、たぐひおはしまさじと見しかど、この御ありさまはいみじかりけり。
 うち乱れたまへる愛敬よ。
 まろならば、かばかりの御思ひを見る見る、えかくてあらじ。
 后の宮にも参りて、常に見たてまつりてむ」
 「無理もないことです。
 殿のご器量を、他にいらっしゃらないと見たが、こちらの宮のご容姿は大変なものでした。
 おふざけになっていらした愛嬌は。
 わたしならば、これほどのご愛情を見ては、とてもこうしていられません。
 后の宮様にでも出仕して、いつも拝見していたい」
   と言ふ。
 右近、
 と言う。
 右近は、
   「うしろめたの御心のほどや。
 殿の御ありさまにまさりたまふ人は、誰れかあらむ。
 容貌などは知らず、御心ばへけはひなどよ。
 なほ、この御ことは、いと見苦しきわざかな。
 いかがならせたまはむとすらむ」
 「安心できないお方ですよ。
 殿のご様子に勝る方は、誰がいらっしゃいましょうか。
 器量などは知りませんが、お心づかいや感じなどがね。
 やはり、このご関係は、とても見苦しいことですね。
 どのようにおなりあそばそうとするのでしょうか」
   と、二人して語らふ。
 心一つに思ひしよりは、虚言もたより出で来にけり。
 
 と、二人で相談する。
 独りで考えるよりは、嘘をつくにもよい助けが出て来たのであった。
 
   後の御文には、  後者のお手紙には、
   「思ひながら日ごろになること。
 時々は、それよりも驚かいたまはむこそ、思ふさまならめ。
 おろかなるにやは」
 「思い続けながら幾日にもなったこと。
 時々は、そちらからもお手紙をお書きになることが、理想的でしょう。
 並々には思っていません」
   など、端書きに、  などと、端に、
 

746
 「水まさる 遠方の里人 いかならむ
 晴れぬ長雨に かき暮らすころ
 「川の水が増す宇治の里人はどのようにお過ごしでしょうか
  晴れ間も見せず長雨が降り続き、物思いに耽っていらっしゃる今日このごろ
 
   常よりも、思ひやりきこゆることまさりてなむ」  いつもよりも、思うことが多くて」
   と、白き色紙にて立文なり。
 御手もこまかにをかしげならねど、書きざまゆゑゆゑしく見ゆ。
 宮は、いと多かるを、小さく結びなしたまへる、さまざまをかし。
 
 と、白い色紙で立文である。
 ご筆跡もこまやかで美しくはないが、書き方は教養ありげに見える。
 宮は、とても言葉数多いのを、小さく結んでいらっしゃるのは、それぞれに興趣深い。
 
   「まづ、かれを、人見ぬほどに」  「とりあえず、あれを。
 誰も見ていないうちに」
   と聞こゆ。
 
 とお促し申す。
 
   「今日は、え聞こゆまじ」  「今日は、お返事申し上げることができません」
   と恥ぢらひて、手習に、  と恥じらって、手習に、
 

747
 「里の名を わが身に知れば 山城の
 宇治のわたりぞ いとど住み憂き」
 「里の名をわが身によそえると
  山城の宇治の辺りはますます住みにくいことよ」
 
   宮の描きたまへりし絵を、時々見て泣かれけり。
 「ながらへてあるまじきことぞ」と、とざまかうざまに思ひなせど、他に絶え籠もりてやみなむは、いとあはれにおぼゆべし。
 
 宮がお描きになった絵を、時々見ては自然涙がこぼれた。
 「このまま末長く続くものではない」と、あれやこれやと考えてみるが、他には関係をすっかり断ってお逢いしないのは、とても耐えられなく思われるのであろう。
 
 

748
 「かき暮らし 晴れせぬ峰の 雨雲に
 浮きて世をふる 身をもなさばや
 「真っ暗になって晴れない峰の雨雲のように
  空にただよう煙となってしまいたい
 
   混じりなば」  雲に混じったら」
   と聞こえたるを、宮は、よよと泣かれたまふ。
 「さりとも、恋しと思ふらむかし」と思しやるにも、もの思ひてゐたらむさまのみ面影に見えたまふ。
 
 と申し上げたので、宮は、声を上げて泣かれる。
 「死にたいとはいえ、恋しいと思っているらしい」とご想像なさるにも、物思いに沈んでいる様子ばかりが面影にお見えになる。
 
   まめ人は、のどかに見たまひつつ、「あはれ、いかに眺むらむ」と思ひやりて、いと恋し。
 
 真面目人間は、のんびりと御覧になりながら、「ああ、どのような思いでいるのだろう」と想像して、たいそう恋しい。
 
 

749
 「つれづれと 身を知る雨の 小止まねば
 袖さへいとど みかさまさりて」
 「寂しくわが身を知らされる雨が小止みもなく降り続くので
  袖までが涙でますます濡れてしまいます」
 
   とあるを、うちも置かず見たまふ。
 
 とあるのを、下にも置かず御覧になる。
 
 
 

第三段 匂宮、薫の浮舟を新築邸に移すことを知る

 
   女宮に物語など聞こえたまひてのついでに、  女宮にお話などを申し上げた機会に、
   「なめしともや思さむと、つつましながら、さすがに年経ぬる人のはべるを、あやしき所に捨て置きて、いみじくもの思ふなるが心苦しさに、近う呼び寄せて、と思ひはべる。
 昔より異やうなる心ばへはべりし身にて、世の中を、すべて例の人ならで過ぐしてむと思ひはべりしを、かく見たてまつるにつけて、ひたぶるにも捨てがたければ、ありと人にも知らせざりし人の上さへ、心苦しう、罪得ぬべき心地してなむ」
 「失礼なとお思いになるやもと、気がひけますが、そうはいっても古くからの女がございましたが、賤しい所に放って置いて、ひどく物思いに沈んでいるというのが気の毒なので、近くに呼び寄せて、と思っております。
 昔から人とは異なった考えがございまして、世の中を、普通の人とは違って過ごそうと思っておりましたが、このようにご結婚申して、一途には世を捨てがたいので、そんな女がいるとは知らせなかった身分の低い者でさえ、気の毒で、罪障になりそうな気がいたしまして」
   と、聞こえたまへば、  と、申し上げなさると、
   「いかなることに心置くものとも知らぬを」  「どのようなことをお考えおいていらっしゃるとも存じませんが」
   と、いらへたまふ。
 
 と、お返事なさる。
 
   「内裏になど、悪しざまに聞こし召さする人やはべらむ。
 世の人のもの言ひぞ、いとあぢきなくけしからずはべるや。
 されど、それは、さばかりの数にだにはべるまじ」
 「帝になど、良くないようにお耳に入れ申す人がございましょう。
 世間の人の噂は、まことにつまらない良くないものでございますよ。
 けれども、その女は、それほど問題にもならない女でございます」
   など聞こえたまふ。
 
 などと申し上げなさる。
 
   「造りたる所に渡してむ」と思し立つに、「かかる料なりけり」など、はなやかに言ひなす人やあらむなど、苦しければ、いと忍びて、障子張らすべきことなど、人しもこそあれ、この内記が知る人の親、大蔵大輔なるものに、睦ましく心やすきままに、のたまひつけたりければ、聞きつぎて、宮には隠れなく聞こえけり。
 
 「新築した所に移そう」とお決めになったが、「このようなための家だったのだ」などと、ぱあっと言い触らす人がいようかなどと、困るので、たいそう人目に立たないようにして、襖障子を張らせることなど、人もあろうに、この大内記の妻の父親で、大蔵大輔という者に、親しいので気安く思って、命令なさっていたので、妻を介して聞き知って、宮にすっかり申し上げた。
 
   「絵師どもなども、御随身どもの中にある、睦ましき殿人などを選りて、さすがにわざとなむせさせたまふ」  「絵師連中なども、御随身の中にいる者で、親しい家人などを選んで、隠れ家とはいっても特別にお気をつけてなさっています」
   と申すに、いとど思し騷ぎて、わが御乳母の、遠き受領の妻にて下る家、下つ方にあるを、  と申すので、ますます胸騷ぎがなさって、ご自分の乳母で、遠国の受領の妻となって下る家で、下京の方にあるのを、
   「いと忍びたる人、しばし隠いたらむ」  「ごくごく内密の女を、しばらく隠して置きたい」
   と、語らひたまひければ、「いかなる人にかは」と思へど、大事と思したるに、かたじけなければ、「さらば」と聞こえけり。
 これをまうけたまひて、すこし御心のどめたまふ。
 この月の晦日方に、下るべければ、「やがてその日渡さむ」と思し構ふ。
 
 とご相談があったので、「どのような女であろうか」とは思うが、重大事とお思いでいられるのが恐れ多いので、「それではどうぞ」と申し上げた。
 この家を準備なさって、少しお心が安心なさる。
 今月の晦日頃に、下向する予定なので、「すぐその日に女を移そう」とご計画なさる。
 
   「かくなむ思ふ。
 ゆめゆめ」
 「これこれと思っている。
 決して他人に気づかれてはならぬ」
   と言ひやりたまひつつ、おはしまさむことは、いとわりなくあるうちにも、ここにも、乳母のいとさかしければ、難かるべきよしを聞こゆ。
 
 と言いやりなさっては、ご自身がお出向きになることは、とても難しいところに、こちら宇治でも、乳母がとてもうるさいので、難しい旨をお返事申し上げる。
 
 
 

第四段 浮舟の母、京から宇治に来る

 
   大将殿は、卯月の十日となむ定めたまへりける。
 「誘ふ水あらば」とは思はず、いとあやしく、「いかにしなすべき身にかあらむ」と浮きたる心地のみすれば、「母の御もとにしばし渡りて、思ひめぐらすほどあらむ」と思せど、少将の妻、子産むべきほど近くなりぬとて、修法、読経など、隙なく騒げば、石山にもえ出で立つまじ、母ぞこち渡りたまへる。
 乳母出で来て、
 大将殿は、四月の十日とお決めになっていた。
 「誘ってくれる人がいたらどこへでも」とは思わず、とても変で、「どうしたらよい身の上だろうか」と浮いたような気持ちばかりがするので、「母親のもとにしばらく出かけていたら、思案する時間があろう」とお思いになるが、少将の妻が、子供を産む時期が近づいたということで、修法や、読経などでひっきりなしに騒がしいので、石山寺にも出かけるわけにゆかず、母親がこちらにお越しになった。
 乳母が出て来て、
   「殿より、人びとの装束なども、こまかに思しやりてなむ。
 いかできよげに何ごとも、と思うたまふれど、乳母が心一つには、あやしくのみぞし出ではべらむかし」
 「殿から、女房の衣装なども、こまごまとご心配いただきました。
 何とかきれいに何事も、と存じておりますが、乳母独りのお世話では、不十分なことしかできませんでございましょう」
   など言ひ騒ぐが、心地よげなるを見たまふにも、君は、  などとはしゃいでいるのが、気持ちよさそうなのを御覧になるにつけても、女君は、
   「けしからぬことどもの出で来て、人笑へならば、誰れも誰れもいかに思はむ。
 あやにくにのたまふ人、はた、八重立つ山に籠もるとも、かならず尋ねて、我も人もいたづらになりぬべし。
 なほ、心やすく隠れなむことを思へと、今日ものたまへるを、いかにせむ」
 「とんでもない事がいろいろと起こって、物笑いになったら、誰も彼もがどのように思うであろう。
 無理無体におっしゃる方は、また、幾重にも山深い所に隠れても、必ず探し出して、自分も宮も身を破滅してしまうだろう。
 やはり、気楽な所に隠れることを考えなさいと、今日もおっしゃっているが、どうしたらよいだろう」
   と、心地悪しくて臥したまへり。
 
 と、気分が悪くて臥せっていらっしゃった。
 
   「などか、かく例ならず、いたく青み痩せたまへる」  「どうして、このようにいつもと違って、ひどく青く痩せていらっしゃるのでしょうか」
   と驚きたまふ。
 
 と驚きなさる。
 
   「日ごろあやしくのみなむ。
 はかなきものも聞こしめさず、悩ましげにせさせたまふ」
 「ここ幾日も妙な具合ばかりです。
 ちょっとした食事も召し上がらず、苦しそうにおいであそばします」
   と言へば、「あやしきことかな。
 もののけなどにやあらむ」と、
 と言うと、「不思議なことだわ。
 物の怪などによるのであろうか」と、
   「いかなる御心地ぞと思へど、石山停まりたまひにきかし」  「どのようなご気分かと心配ですが、石山詣でもお止めになった」
   と言ふも、かたはらいたければ、伏目なり。
 
 と言うのも、いたたまれない気がするので、まともに目を合わせられない。
 
 
 

第五段 浮舟、母と尼の話から、入水を思う

 
   暮れて月いと明かし。
 有明の空を思ひ出づる、「涙のいと止めがたきは、いとけしからぬ心かな」と思ふ。
 母君、昔物語などして、あなたの尼君呼び出でて、故姫君の御ありさま、心深くおはして、さるべきことも思し入れたりしほどに、目に見す見す消え入りたまひにしことなど語る。
 
 日が暮れて月がたいそう明るい。
 有明の空を思い出すと、「涙がますます抑えがたいのは、まことにけしからぬ心がけだ」と思う。
 母君、昔話などをして、あちらの尼君を呼び出して、亡くなった姫君のご様子、思慮深くいらして、しかるべき事柄をお考えになっていた間に、目の前でお亡くなりになったことなどを話す。
 
   「おはしまさましかば、宮の上などのやうに、聞こえ通ひたまひて、心細かりし御ありさまどもの、いとこよなき御幸ひにぞはべらましかし」  「生きていらっしゃったら、宮の上などのように、親しくお話し合いさって、心細かった方々のご境遇が、とてもこの上なくお幸せでございましたでしょうに」
   と言ふにも、「わが娘は異人かは。
 思ふやうなる宿世のおはし果てば、劣らじを」など思ひ続けて、
 と言うにつけても、「自分の娘とて他人ではない。
 思い通りの運命がお続きになったら、負けるまいに」と思い続けて、
   「世とともに、この君につけては、ものをのみ思ひ乱れしけしきの、すこしうちゆるびて、かくて渡りたまひぬべかめれば、ここに参り来ること、かならずしもことさらには、え思ひ立ちはべらじ。
 かかる対面の折々に、昔のことも、心のどかに聞こえ承らまほしけれ」
 「いつもいつも、この君の事では、何かと心配ばかりしてきましたが、様子が少しよくなって、このように京にお移りなるようですから、こちらにやって参ること、特別にわざわざ思い立つこともございますまい。
 このようなお目にかかった折々に、昔の話を、のんびりと承りたく存じます」
   など語らふ。
 
 などと話す。
 
   「ゆゆしき身とのみ思うたまへしみにしかば、こまやかに見えたてまつり聞こえさせむも、何かは、つつましくて過ぐしはべりつるを、うち捨てて、渡らせたまひなば、いと心細くなむはべるべけれど、かかる御住まひは、心もとなくのみ見たてまつるを、うれしくもはべるべかなるかな。
 世に知らず重々しくおはしますべかめる殿の御ありさまにて、かく尋ねきこえさせたまひしも、おぼろけならじと聞こえおきはべりにし、浮きたることにやは、はべりける」
 「縁起でもない身の上とばかり存じておりましたので、こまごまとお目にかかってお話し申し上げますのも、どんなものかしらと、遠慮して過ごしてまいりましたが、見捨てて、お移りになりましたら、とても心細くございましょうが、このようなお住まいは、不安にばかり拝見してましたので、嬉しいことでございますね。
 又となく重々しくいらっしゃるらしい殿のご様子で、このようにお訪ね申し上げなさったのも、並々な愛情ではないと申し上げたことがございましたが、いい加減なことで、ございましたでしょうか」
   など言ふ。
 
 などと言う。
 
   「後は知らねど、ただ今は、かく思し離れぬさまにのたまふにつけても、ただ御しるべをなむ思ひ出できこゆる。
 宮の上の、かたじけなくあはれに思したりしも、つつましきことなどの、おのづからはべりしかば、中空に所狭き御身なり、と思ひ嘆きはべりて」
 「先の事は分かりませんが、ただ今は、このようにお見捨てになることなくおっしゃるにつけても、ただお導きによるものと思い出し申し上げております。
 宮の上が、もったいなくもお目をかけてくださいましたのも、遠慮されることなどが、自然とございましたので、中途半端で身の置き所のない方だ、と嘆きまして」
   と言ふ。
 尼君うち笑ひて、
 と言う。
 尼君はにっこりして、
   「この宮の、いと騒がしきまで色におはしますなれば、心ばせあらむ若き人、さぶらひにくげになむ。
 おほかたは、いとめでたき御ありさまなれど、さる筋のことにて、上のなめしと思さむなむわりなきと、大輔が娘の語りはべりし」
 「この宮の、とてもうるさいほどに好色でいらっしゃるので、分別のある若い女房は、お仕えにくそうで。
 だいたいは、とても素晴らしいご様子ですが、その方面のことで、上が失礼なとお思いになるのが困ったことだと、大輔の娘が話しておりました」
   と言ふにも、「さりや、まして」と、君は聞き臥したまへり。
 
 と言うにつけても、「やはりそうか、それ以上にわたしは」と、女君は臥せって聞いていらっしゃった。
 
 
 

第六段 浮舟、母と尼の話から、入水を思う

 
   「あな、むくつけや。
 帝の御女を持ちたてまつりたまへる人なれど、よそよそにて、悪しくも善くもあらむは、いかがはせむと、おほけなく思ひなしはべる。
 よからぬことをひき出でたまへらましかば、すべて身には悲しくいみじと思ひきこゆとも、また見たてまつらざらまし」
 「まあ、嫌らしいこと。
 帝のお姫様をお持ちになっていらっしゃる方ですが、他人なので、良いとも悪いともお咎めがあろうとなかろうと、しかたのないことと、恐れ多く存じております。
 良くない事件を引き起こしなさったら、すべてわが身にとっては悲しく大変なことだとお思い申し上げても、二度とお世話しないでしょう」
   など、言ひ交はすことどもに、いとど心肝もつぶれぬ。
 「なほ、わが身を失ひてばや。
 つひに聞きにくきことは出で来なむ」と思ひ続くるに、この水の音の恐ろしげに響きて行くを、
 などと話し合っている内容に、ますます胸も潰れる思いがした。
 「やはり、自殺してしまおう。
 最後は聞きにくいことがきっと出て来ることだろう」と思い続けると、この川の水の音が恐ろしそうに響いて流れて行くのを、
   「かからぬ流れもありかし。
 世に似ず荒ましき所に、年月を過ぐしたまふを、あはれと思しぬべきわざになむ」
 「こんな恐ろしくない流れもありますのにね。
 又となく荒々しい川の所に、歳月をお過ごしになるのを、不憫とお思いになるのも当然のこと」
   など、母君したり顔に言ひゐたり。
 昔よりこの川の早く恐ろしきことを言ひて、
 などと、母君は得意顔で言っていた。
 昔からこの川の早くて恐ろしいことを言って、
   「先つころ渡守が孫の童、棹さし外して落ち入りはべりにける。
 すべていたづらになる人多かる水にはべり」
 「最近、渡守の孫の小さい子が、棹を差し損ねて川に落ちてしまいました。
 ぜんたい命を落とす人が多い川でございます」
   と、人びとも言ひあへり。
 君は、
 と、女房も話し合っていた。
 女君は、
   「さても、わが身行方も知らずなりなば、誰れも誰れも、あへなくいみじと、しばしこそ思うたまはめ。
 ながらへて人笑へに憂きこともあらむは、いつかそのもの思ひの絶えむとする」
 「それにしても、わが身の行く方が分からなくなったら、誰も彼もが、あっけなく悲しいと、しばらくの間はお思いになるであろうが、生き永らえて物笑いになって嫌な思いをするのは、いつ物思いがなくなるというのだろう」
   と、思ひかくるには、障りどころもあるまじく、さはやかによろづ思ひなさるれど、うち返しいと悲し。
 親のよろづに思ひ言ふありさまを、寝たるやうにてつくづくと思ひ乱る。
 
 と、死を考えつくと、何の支障もないように、さっぱりと何事も思われるが、また考え直すと実に悲しい。
 母親がいろいろと心配し言っている様子に、寝たふうをしながらつくづくと思い心乱れる。
 
 
 

第七段 浮舟の母、帰京す

 
   悩ましげにて痩せたまへるを、乳母にも言ひて、  悩ましそうに臥せっていらっしゃるのを、乳母にも言って、
   「さるべき御祈りなどせさせたまへ。
 祭祓などもすべきやう」
 「しかるべき御祈祷などをなさいませ。
 祭や祓などもするように」
   など言ふ。
 御手洗川に禊せまほしげなるを、かくも知らでよろづに言ひ騒ぐ。
 
 などと言う。
 御手洗川で禊をしたい恋の悩みなのに、そうとも知らずにいろいろと言い騒いでいる。
 
   「人少ななめり。
 よくさるべからむあたりを訪ねて。
 今参りはとどめたまへ。
 やむごとなき御仲らひは、正身こそ、何事もおいらかに思さめ、好からぬ仲となりぬるあたりは、わづらはしきこともありぬべし。
 隠し密めて、さる心したまへ」
 「女房が少ないようだ。
 よい適当な所から尋ねて。
 新参者は残しなさい。
 高貴な方とのご交際は、ご本人は何事もおっとりとお思いでしょうが、良くない仲になってしまいそうな女房どうしは、厄介な事もきっとありましょう。
 表立たず控え目にして、そのような用心をなさい」
   など、思ひいたらぬことなく言ひおきて、  などと、気のつかないことがないまでに注意して、
   「かしこにわづらひはべる人も、おぼつかなし」  「あちらで病んでおります人も、気がかりです」
   とて帰るを、いともの思はしく、よろづ心細ければ、「またあひ見でもこそ、ともかくもなれ」と思へば、  と言って帰るのを、とても物思いとなり、何事につけ悲しいので、「再びと会わずに、死んでしまうのか」と思うと、
   「心地の悪しくはべるにも、見たてまつらぬが、いとおぼつかなくおぼえはべるを、しばしも参り来まほしくこそ」  「気分が悪うございましても、お目にかかれないのが、とても不安に思われますので、少しの間でもお伺いしていたく存じます」
   と慕ふ。
 
 と慕う。
 
   「さなむ思ひはべれど、かしこもいともの騒がしくはべり。
 この人びとも、はかなきことなどえしやるまじく、狭くなどはべればなむ。
 武生の国府に移ろひたまふとも、忍びては参り来なむを。
 なほなほしき身のほどは、かかる御ためこそ、いとほしくはべれ」
 「そのように思いましても、あちらもとても何かと騒がしくございます。
 こちらの女房たちも、ちょっとしたことなどできそうもない、狭い所でございますので。
 武生の国府にお移りになっても、こっそりとお伺いしますから。
 人数ならぬ身の上では、このようなお方のために、お気の毒でございます」
   など、うち泣きつつのたまふ。
 
 などと、泣きながらおっしゃる。
 
 
 

第六章 浮舟と薫の物語 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う

 
 

第一段 薫と匂宮の使者同士出くわす

 
   殿の御文は今日もあり。
 悩ましと聞こえたりしを、「いかが」と、訪らひたまへり。
 
 殿のお手紙は今日もある。
 気分が悪いと申し上げていたので、「いかがな具合ですか」と、お見舞いくださった。
 
   「みづからと思ひはべるを、わりなき障り多くてなむ。
 このほどの暮らしがたさこそ、なかなか苦しく」
 「自分自身でと思っておりますが、止むを得ない支障が多くありまして。
 待っている間の身のつらさが、かえって苦しい」
   などあり。
 宮は、昨日の御返りもなかりしを、
 などとある。
 宮は、昨日のお返事がなかったのを、
   「いかに思しただよふぞ。
 風のなびかむ方もうしろめたくなむ。
 いとどほれまさりて眺めはべる」
 「どのようにお迷いになっているのか。
 思わぬ方に靡くのかと気がかりです。
 ますますぼうっとして物思いに耽っております」
   など、これは多く書きたまへり。
 
 などと、こちらはたくさんお書きになっていた。
 
   雨降りし日、来合ひたりし御使どもぞ、今日も来たりける。
 殿の御随身、かの少輔が家にて時々見る男なれば、
 雨が降った日、来合わせたお使い連中が、今日も来たのであった。
 殿の御随身は、あの少輔の家で時々見る男なので、
   「真人は、何しに、ここにはたびたびは参るぞ」  「あなたは、何しに、こちらに度々参るのですか」
   と問ふ。
 
 と尋ねる。
 
   「私に訪らふべき人のもとに参うで来るなり」  「私用で尋ねる人のもとに参るのです」
   と言ふ。
 
 と答える。
 
   「私の人にや、艶なる文はさし取らする、けしきある真人かな。
 もの隠しはなぞ」
 「私用の相手に、恋文を届けるとは、不思議な方ですね。
 隠しているのはなぜですか」
   と言ふ。
 
 と尋ねる。
 
   「まことは、この守の君の、御文、女房にたてまつりたまふ」  「本当は、わたしの主人の守の君が、お手紙を、女房に差し上げなさるのです」
   と言へば、言違ひつつあやしと思へど、ここにて定め言はむも異やうなべければ、おのおの参りぬ。
 
 と言うので、返事が次々変わるので変だと思うが、ここではっきりさせるのも変なので、それぞれが参上した。
 
 
 

第二段 薫、匂宮が女からの文を読んでいるのを見る

 
   かどかどしき者にて、供にある童を、  才覚のある者なので、供に連れている童を、
   「この男に、さりげなくて目つけよ。
 左衛門大夫の家にや入る」
 「この男に、気づかれないように後をつけよ。
 左衛門大夫の家に入るかどうか」
   と見せければ、  と跡付けさせたところ、
   「宮に参りて、式部少輔になむ、御文は取らせはべりつる」  「宮邸に参って、式部少輔に、お手紙を渡しました」
   と言ふ。
 さまで尋ねむものとも、劣りの下衆は思はず、ことの心をも深う知らざりければ、舎人の人に見現されにけむぞ、口惜しきや。
 
 と言う。
 そこまで調べるものとは、身分の低い下衆は考えず、事情を深く知らなかったので、随身に発見されたのは、情けない話である。
 
   殿に参りて、今出でたまはむとするほどに、御文たてまつらす。
 直衣にて、六条の院、后の宮の出でさせたまへるころなれば、参りたまふなりければ、ことことしく、御前などあまたもなし。
 御文参らする人に、
 殿に参上して、今お出かけになろうとするときに、お手紙を差し上げさせる。
 直衣姿で、六条の院に、后宮が里下がりあそばしている時なので、お伺いなさるものだから、仰々しく、御前駆など大勢はいない。
 お手紙を取り次ぐ人に、
   「あやしきことのはべりつる。
 見たまへ定めむとて、今までさぶらひつる」
 「不思議な事がございました。
 はっきりさせようと思って、今までかかりました」
   と言ふを、ほの聞きたまひて、歩み出でたまふままに、  と言うのを、ちらっとお聞きになって、お歩きになりながら、
   「何ごとぞ」  「どのような事か」
   と問ひたまふ。
 この人の聞かむもつつましと思ひて、かしこまりてをり。
 殿もしか見知りたまひて、出でたまひぬ。
 
 とお尋ねになる。
 この取り次ぎが聞くのも憚れると思って、遠慮している。
 殿もそうとお察しになって、お出かけになった。
 
   宮、例ならず悩ましげにおはすとて、宮たちも皆参りたまへり。
 上達部など多く参り集ひて、騒がしけれど、ことなることもおはしまさず。
 
 后宮は、御不例でいらっしゃるということで、親王方もみな参上なさっていた。
 上達部など大勢お見舞いに参っていて、騒がしいけれど、格別変わった御容態でもない。
 
   かの内記は、政官なれば、遅れてぞ参れる。
 この御文もたてまつるを、宮、台盤所におはしまして、戸口に召し寄せて取りたまふを、大将、御前の方より立ち出でたまふ、側目に見通したまひて、「せちにも思すべかめる文のけしきかな」と、をかしさに立ちとまりたまへり。
 
 あの大内記は太政官の役人なので、後れて参った。
 あのお手紙を差し上げるのを、匂宮が、台盤所にいらして、戸口に呼び寄せてお取りになるのを、大将は、御前の方からお下がりになる、その横目でお眺めになって、「熱中なさっている手紙の様子だ」と、その興味深さに目がお止まりになった。
 
   「引き開けて見たまふ、紅の薄様に、こまやかに書きたるべし」と見ゆ。
 文に心入れて、とみにも向きたまはぬに、大臣も立ちて外ざまにおはすれば、この君は、障子より出でたまふとて、「大臣出でたまふ」と、うちしはぶきて、驚かいたてまつりたまふ。
 
 「開いて御覧になっているのは、紅の薄様に、こまごまと書いてあるらしい」と見える。
 手紙に夢中になって、すぐには振り向きなさらないので、大臣も席を立って外に出てにいらっしゃるので、この君は、襖障子からお出になろうとして、「大臣がお出になります」と咳払いをして、ご注意申し上げなさる。
 
   ひき隠したまへるにぞ、大臣さし覗きたまへる。
 驚きて御紐さしたまふ。
 殿つい居たまひて、
 ちょうどお隠しになったところへ、大臣が顔をお出しになった。
 驚いて襟元の入紐をお差しになる。
 殿は膝まずきなさって、
   「まかではべりぬべし。
 御邪気の久しくおこらせたまはざりつるを、恐ろしきわざなりや。
 山の座主、ただ今請じに遣はさむ」
 「退出いたしましょう。
 御物の怪が久しくお起こりになりませんでしたが、恐ろしいことですね。
 山の座主を、さっそく呼びにやりましょう」
   と、急がしげにて立ちたまひぬ。
 
 と、忙しそうにお立ちになった。
 
 
 

第三段 薫、随身から匂宮と浮舟の関係を知らされる

 
   夜更けて、皆出でたまひぬ。
 大臣は、宮を先に立てたてまつりたまひて、あまたの御子どもの上達部、君たちをひき続けて、あなたに渡りたまひぬ。
 この殿は遅れて出でたまふ。
 
 夜が更けて、みな退出なさった。
 大臣は、宮を先にお立て申し上げになって、大勢のご子息の上達部や、若君たちを引き連れて、あちらにお渡りになった。
 この殿は遅れてお出になる。
 
   随身けしきばみつる、あやしと思しければ、御前など下りて火灯すほどに、随身召し寄す。
 
 随身がいわくありげな顔をしていたのを、何かあるとお思いになったので、御前駆たちが引き下がって松明を燈すころに、随身を呼び寄せる。
 
   「申しつるは、何ごとぞ」  「先程申したことは、何事か」
   と問ひたまふ。
 
 とお尋ねになる。
 
   「今朝、かの宇治に、出雲権守時方朝臣のもとにはべる男の、紫の薄様にて、桜につけたる文を、西の妻戸に寄りて、女房に取らせはべりつる。
 見たまへつけて、しかしか問ひはべりつれば、言違へつつ、虚言のやうに申しはべりつるを、いかに申すぞ、とて、童べして見せはべりつれば、兵部卿宮に参りはべりて、式部少輔道定朝臣になむ、その返り事は取らせはべりける」
 「今朝、あの宇治に、出雲権守時方朝臣のもとに仕えている男が、紫の薄様で、桜に付けた手紙を、西の妻戸に近寄って、女房に渡しました。
 それを拝見しまして、これこれしかじかと尋ねましたら、返事がころころと変わり、嘘のような返事を申しましたので、どうしてそう申すのかと、子どもを使って後をつけさせましたところ、兵部卿宮邸に参りまして、式部少輔道定朝臣に、その返事を渡しました」
   と申す。
 君、あやしと思して、
 と申す。
 君は、変だとお思いになって、
   「その返り事は、いかやうにしてか、出だしつる」  「その返事は、どのようにして、返したか」
   「それは見たまへず。
 異方より出だしはべりにける。
 下人の申しはべりつるは、赤き色紙の、いときよらなる、となむ申しはべりつる」
 「それは拝見できませんでした。
 別の方から出しました。
 下人の申したことでは、赤い色紙で、とても美しいもの、と申しました」
   と聞こゆ。
 思し合はするに、違ふことなし。
 さまで見せつらむを、かどかどしと思せど、人びと近ければ、詳しくものたまはず。
 
 と申し上げる。
 お考え合わせになると、ぴったりである。
 そこまで見届けさせたのを、気が利いているとお思いになるが、人びとが近くにいるので、詳しくはおっしゃらない。
 
 
 

第四段 薫、帰邸の道中、思い乱れる

 
   道すがら、「なほ、いと恐ろしく、隈なくおはする宮なりや。
 いかなりけむついでに、さる人ありと聞きたまひけむ。
 いかで言ひ寄りたまひけむ。
 田舎びたるあたりにて、かうやうの筋の紛れは、えしもあらじ、と思ひけるこそ幼けれ。
 さても、知らぬあたりにこそ、さる好きごとをものたまはめ、昔より隔てなくて、あやしきまでしるべして、率てありきたてまつりし身にしも、うしろめたく思し寄るべしや」
 帰途、「やはり、実に油断のならない、抜け目なくいらっしゃる宮であるよ。
 どのような機会に、そのような人がいるとお聞きになったのだろう。
 どのようにして言い寄りなさったのだろう。
 田舎めいた所だから、このような方面の過ちは、けっして起こるまい、と思っていたのが浅はかだった。
 それにしても、わたしに関わりのない女には、そのような懸想をなさってもよいが、昔から親しくして、おかしいまでに手引して、お連れ申して歩いた者に、裏切ってそのような考えを持たれてよいものであろうか」
   と思ふに、いと心づきなし。
 
 と思うと、まことに気にくわない。
 
   「対の御方の御ことを、いみじく思ひつつ、年ごろ過ぐすは、わが心の重さ、こよなかりけり。
 さるは、それは、今初めてさま悪しかるべきほどにもあらず。
 もとよりのたよりにもよれるを、ただ心のうちの隈あらむが、わがためも苦しかるべきによりこそ、思ひ憚るもをこなるわざなりけれ。
 
 「対の御方のことを、たいそういとしく思いながらも、そのまま何年も過ごして来たのは、自分の慎重さが、深かったからだ。
 また一方では、それは今始まった不体裁な恋情ではない。
 もともとの経緯もあったのだが、ただ心の中に後ろ暗いところがあっては、自分としても苦しいことになると思ってこそ、遠慮していたのも愚かなことであった。
 
   このころかく悩ましくしたまひて、例よりも人しげき紛れに、いかではるばると書きやりたまふらむ。
 おはしやそめにけむ。
 いと遥かなる懸想の道なりや。
 あやしくて、おはし所尋ねられたまふ日もあり、と聞こえきかし。
 さやうのことに思し乱れて、そこはかとなく悩みたまふなるべし。
 昔を思し出づるにも、えおはせざりしほどの嘆き、いといとほしげなりきかし」
 最近このように具合悪くなさって、不断よりも人の多い取り込み中に、どのようにしてはるばる遠い宇治までお書きやりになったのだろうか。
 通い初めなさったのだろうか。
 たいそう遠い恋の通い路だな。
 不思議に思って、いらっしゃる所を尋ねられる日もあった、と聞いたことだ。
 そのようなことにお苦しみになって、どこそことなく悩んでいらっしゃるのだろう。
 昔を思い出すにつけても、お越しになれなかったときの嘆きは、実にお気の毒であった」
   と、つくづくと思ふに、女のいたくもの思ひたるさまなりしも、片端心得そめたまひては、よろづ思し合はするに、いと憂し。
 
 と、つくづくと思うと、女がひどく物思いしている様子であったのも、事情の一端がお分かり始めになると、あれこれと思い合わせると、実につらい。
 
   「ありがたきものは、人の心にもあるかな。
 らうたげにおほどかなりとは見えながら、色めきたる方は添ひたる人ぞかし。
 この宮の御具にては、いとよきあはひなり」
 「難しいものは、人の心だな。
 かわいらしくおっとりしているとは見えながら、浮気なところがある人であった。
 この宮の相手としては、まことによい似合いだ」
   と思ひも譲りつべく、退く心地したまへど、  と譲ってもよい気持ちになり、身を引きたくお思いになるが、
   「やむごとなく思ひそめ始めし人ならばこそあらめ、なほさるものにて置きたらむ。
 今はとて見ざらむ、はた、恋しかるべし」
 「北の方にする気持ちの女ならともかくも、やはり今まで通りにしておこう。
 これを限りに会わなくなるのも、はたまた、恋しい気がするであろう」
   と人悪ろく、いろいろ心の内に思す。
 
 と体裁悪いほど、いろいろと心中ご思案なさる。
 
 
 

第五段 薫、宇治へ随身を遣わす

 
   「我、すさまじく思ひなりて、捨て置きたらば、かならず、かの宮、呼び取りたまひてむ。
 人のため、後のいとほしさをも、ことにたどりたまふまじ。
 さやうに思す人こそ、一品宮の御方に人、二、三人参らせたまひたなれ。
 さて、出で立ちたらむを見聞かむ、いとほしく」
 「自分が、嫌気がさしたといって、見捨てたら、きっと、あの宮が、呼び迎えなさろう。
 相手にとって、将来がお気の毒なのも、格別お考えなさるまい。
 そのように寵愛なさる女は、一品宮の御方のもとに女房を、二、三人出仕させなさったという。
 そのように、出仕させたのを見たり聞いたりするのも、気の毒なことだ」
   など、なほ捨てがたく、けしき見まほしくて、御文遣はす。
 例の随身召して、御手づから人間に召し寄せたり。
 
 などと、やはり見捨てがたく、様子を見たくて、お手紙を遣わす。
 いつもの随身を呼んで、ご自身で直接人のいない間に呼び寄せた。
 
   「道定朝臣は、なほ仲信が家にや通ふ」  「道定朝臣は、今でも仲信の家に通っているのか」
   「さなむはべる」と申す。
 
 「そのようでございます」と申す。
 
   「宇治へは、常にやこのありけむ男は遣るらむ。
 かすかにて居たる人なれば、道定も思ひかくらむかし」
 「宇治へは、いつもあの先程の男を使いにやるのか。
 ひっそり暮らしている女なので、道定も思いをかけるだろうな」
   と、うちうめきたまひて、  と、溜息をおつきになって、
   「人に見えでをまかれ。
 をこなり」
 「人に見られないように行け。
 馬鹿らしいからな」
   とのたまふ。
 かしこまりて、少輔が常にこの殿の御こと案内し、かしこのこと問ひしも思ひあはすれど、もの馴れてえ申し出でず。
 君も、「下衆に詳しくは知らせじ」と思せば、問はせたまはず。
 
 とおっしゃる。
 緊張して、少輔がいつもこの殿の事を探り、あちらの事を尋ねたことも思い合わされるが、なれなれしくは申し出ることもできない。
 君も、「下衆に詳しくは知らせまい」とお思いになったので、尋ねさせなさらない。
 
   かしこには、御使の例よりしげきにつけても、もの思ふことさまざまなり。
 ただかくぞのたまへる。
 
 あちらでは、お使いがいつもより頻繁にあるのにつけても、あれこれ物思いをする。
 ただこのようにおっしゃっていた。
 
 

750
 「波越ゆる ころとも知らず 末の松
 待つらむとのみ 思ひけるかな
 「心変わりするころとは知らずにいつまでも
  待ち続けていらっしゃるものと思っていました
 
   人に笑はせたまふな」  世間の物笑いになさらないでください」
   とあるを、いとあやしと思ふに、胸ふたがりぬ。
 御返り事を心得顔に聞こえむもいとつつまし、ひがことにてあらむもあやしければ、御文はもとのやうにして、
 とあるのを、とても変だと思うと、胸が真っ暗になった。
 お返事を理解したように申し上げるのも気がひける、何かの間違いだっら具合が悪いので、お手紙はもとのように直して、
   「所違へのやうに見えはべればなむ。
 あやしく悩ましくて、何事も」
 「宛先が違うように見えますので。
 妙に気分がすぐれませんので、何事も申し上げられません」
   と書き添へてたてまつれつ。
 見たまひて、
 と書き添えて差し上げた。
 御覧になって、
   「さすがに、いたくもしたるかな。
 かけて見およばぬ心ばへよ」
 「そうはいっても、うまく言い逃れたな。
 少しも思ってもみなかった機転だな」
   とほほ笑まれたまふも、憎しとは、え思し果てぬなめり。
 
 とにっこりなさるのも、憎いとは、お恨み切れないのであろう。
 
 
 

第六段 右近と侍従、右近の姉の悲話を語る

 
   まほならねど、ほのめかしたまへるけしきを、かしこにはいとど思ひ添ふ。
 「つひにわが身は、けしからずあやしくなりぬべきなめり」と、いとど思ふところに、右近来て、
 正面きってではないが、それとなくおっしゃった様子を、あちらではますます物思いが加わる。
 「結局は、わが身は良くない妙な結果になってしまいそうだ」と、ますます思っているところに、右近が来て、
   「殿の御文は、などて返したてまつらせたまひつるぞ。
 ゆゆしく、忌みはべるなるものを」
 「殿のお手紙は、どうしてお返しなさったのですか。
 不吉にも、忌むものでございますものを」
   「ひがことのあるやうに見えつれば、所違へかとて」  「間違いがあるように見えたので、宛先が違うのかと思いまして」
   とのたまふ。
 あやしと見ければ、道にて開けて見けるなりけり。
 よからずの右近がさまやな。
 見つとは言はで、
 とおっしゃる。
 変だと思ったので、道で開けて見たのであった。
 良くない右近の態度ですこと。
 見たとは言わないで、
   「あな、いとほし。
 苦しき御ことどもにこそはべれ。
 殿はもののけしき御覧じたるべし」
 「まあ、お気の毒な。
 難儀なお事でございます。
 殿は事情をお察しになったのでしょう」
   と言ふに、面さと赤みて、ものものたまはず。
 文見つらむと思はねば、「異ざまにて、かの御けしき見る人の語りたるにこそは」と思ふに、
 と言うと、顔がさっと赤くなって、何もおっしゃらない。
 手紙を見たとは思わないので、「別のことで、あの方のご様子を見た人が話したこと」と思うが、
   「誰れか、さ言ふぞ」  「誰が、そのように言ったのか」
   などもえ問ひたまはず。
 この人びとの見思ふらむことも、いみじく恥づかし。
 わが心もてありそめしことならねども、「心憂き宿世かな」と思ひ入りて寝たるに、侍従と二人して、
 などとも尋ねることはできない。
 この女房たちが見たり思ったりすることも、ひどく恥ずかしい。
 自分の考えから始まったことではないが、「嫌な運命だなあ」と思い入って寝ていると、侍従と二人で、
   「右近が姉の、常陸にて、人二人見はべりしを、ほどほどにつけては、ただかくぞかし。
 これもかれも劣らぬ心ざしにて、思ひ惑ひてはべりしほどに、女は、今の方にいますこし心寄せまさりてぞはべりける。
 それに妬みて、つひに今のをば殺してしぞかし。
 
 「右近めの姉で、常陸国で、男二人と結婚しましたが、身分は違っても、このようなものでございます。
 それぞれ負けない愛情なので、思い迷っておりました時に、女は、新しい男の方に少し気持ちが動いたのでございました。
 それを嫉妬して、結局新しい男を殺してしまったのです。
 
   さて我も住みはべらずなりにき。
 国にも、いみじきあたら兵一人失ひつ。
 また、この過ちたるも、よき郎等なれど、かかる過ちしたる者を、いかでかは使はむ、とて、国の内をも追ひ払はれ、すべて女のたいだいしきぞとて、館の内にも置いたまへらざりしかば、東の人になりて、乳母も、今に恋ひ泣きはべるは、罪深くこそ見たまふれ。
 
 そうして自分も住んでいられなくなったのでした。
 常陸国でも、大変惜しい兵士を一人失った。
 また、過ちを犯した男も、良い家来であったが、このような過ちを犯した者を、どうしてそのまま使うことができようか、ということで、国内を追放され、すべて女がよろしくないのだと言って、館の内にも置いてくださらなかったので、東国の人となって、乳母も、今でも恋い慕って泣いておりますのは、罪深いものと拝見されます。
 
   ゆゆしきついでのやうにはべれど、上も下も、かかる筋のことは、思し乱るるは、いと悪しきわざなり。
 御命まだにはあらずとも、人の御ほどほどにつけてはべることなり。
 死ぬるにまさる恥なることも、よき人の御身には、なかなかはべるなり。
 一方に思し定めてよ。
 
 縁起でもない話のついでのようでございますが、身分の上の方も下の者も、このようなことで、お悩みになるのは、とても悪いことです。
 お命までには関わらなくても、それぞれの方のご身分に関わることでございます。
 死ぬことにまさる恥ということも、身分の高い方には、かえってございますことです。
 お一方にお決めなさい。
 
   宮も御心ざしまさりて、まめやかにだに聞こえさせたまはば、そなたざまにもなびかせたまひて、ものないたく嘆かせたまひそ。
 痩せ衰へさせたまふもいと益なし。
 さばかり上の思ひいたづききこえさせたまふものを、乳母がこの御いそぎに心を入れて、惑ひゐてはべるにつけても、それよりこなたに、と聞こえさせたまふ御ことこそ、いと苦しく、いとほしけれ」
 宮もご愛情がまさって、せめて真面目にさえご求婚なさるならば、そちらに従いなさって、ひどくお嘆きなさるな。
 痩せ衰えなさるのもまことにつまらない。
 あれほど母上が大切に思ってお世話なさっているのを、乳母がこの上京のご準備に熱心になって、大騒ぎしておりますにつけても、あちらよりもこちらに、とおっしゃってくださる宮のことが、とてもつらく、お気の毒です」
   と言ふに、いま一人、  と言うと、もう一人は、
   「うたて、恐ろしきまでな聞こえさせたまひそ。
 何ごとも御宿世にこそあらめ。
 ただ御心のうちに、すこし思しなびかむ方を、さるべきに思しならせたまへ。
 いでや、いとかたじけなく、いみじき御けしきなりしかば、人のかく思しいそぐめりし方にも御心も寄らず。
 しばしは隠ろへても、御思ひのまさらせたまはむに寄らせたまひね、とぞ思ひえはべる」
 「まあ嫌な、恐ろしいことまでを申し上げなさいますな。
 何事もすべてご運命でしょう。
 ただお心の中で、少しでも気持ちの傾く方を、そうなるご運だとお考えなさいませ。
 それにしても、まことに恐れ多く、たいそうなご執心であったので、殿があのように何かとご準備なさっているらしいことにもお心が動きません。
 しばらくは隠れてでも、お気持ちがお傾きになる方に身をお寄せなさいませ、と存じます」
   と、宮をいみじくめできこゆる心なれば、ひたみちに言ふ。
 
 と、宮をたいそうお誉め申し上げる者なので、一途に言う。
 
 
 

第七段 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う

 
   「いさや。
 右近は、とてもかくても、事なく過ぐさせたまへと、初瀬、石山などに願をなむ立てはべる。
 この大将殿の御荘の人びとといふ者は、いみじき無道の者どもにて、一類この里に満ちてはべるなり。
 おほかた、この山城、大和に、殿の領じたまふ所々の人なむ、皆この内舎人といふ者のゆかりかけつつはべるなる。
 
 「さあね。
 右近は、どちらにしても、ご無事にお過ごしなさいと、長谷寺や、石山寺などに願を立てています。
 この大将殿のご荘園の人びとという者は、たいそうな不埒な者どもで、一族がこの里にいっぱいいると言います。
 だいたい、この山城国、大和国に、殿がお持ちになっている所々の人は、みなこの内舎人という者の縁につながっているそうでございます。
 
   それが婿の右近大夫といふ者を元として、よろづのことをおきて仰せられたるななり。
 よき人の御仲どちは、情けなきことし出でよ、と思さずとも、ものの心得ぬ田舎人どもの、宿直人にて替り替りさぶらへば、おのが番に当りて、いささかなることもあらせじなど、過ちもしはべりなむ。
 
 それの婿の右近大夫という者を首領として、すべての事を決めて命令するそうです。
 身分の高い方のお間柄では、思慮のないことを仕出かすよ、とお思いにならなくても、考えのない田舎者連中が、宿直人として交替で勤めていますので、自分の番に当たって、ちょっとしたことも起こさせまいとなどと、間違いも起こしましょう。
 
   ありし夜の御ありきは、いとこそむくつけく思うたまへられしか。
 宮は、わりなくつつませたまふとて、御供の人も率ておはしまさず、やつれてのみおはしますを、さる者の見つけたてまつりたらむは、いといみじくなむ」
 先夜のご外出は、ほんとうに気味が悪く存じられました。
 宮は、どこまでも人目をお避けになろうとして、お供の人も連れていらっしゃらず、お忍び姿ばかりでいらっしゃるのを、そのような者がお見つけ申したときには、とても大変なことになりましょう」
   と、言ひ続くるを、君、「なほ、我を、宮に心寄せたてまつりたると思ひて、この人びとの言ふ。
 いと恥づかしく、心地にはいづれとも思はず。
 ただ夢のやうにあきれて、いみじく焦られたまふをば、などかくしも、とばかり思へど、頼みきこえて年ごろになりぬる人を、今はともて離れむと思はぬによりこそ、かくいみじとものも思ひ乱るれ。
 げに、よからぬことも出で来たらむ時」と、つくづくと思ひゐたり。
 
 と、言い続けるのを、女君、「やはり、わたしを、宮に心寄せ申していると思って、この女房たちが言っている。
 とても恥ずかしく、気持ちの上ではどちらとも思っていない。
 ただ夢のように茫然として、ひどくご執着なさっているのを、どうしてこんなにまで、と思うが、お頼り申し上げて長い間になる方を、今になって裏切ろうとは思わないからこそ、このように大変だと思って悩むのだ。
 なるほど、よくない事でも起こったときには」と、つくづくと思っていた。
 
   「まろは、いかで死なばや。
 世づかず心憂かりける身かな。
 かく、憂きことあるためしは、下衆などの中にだに多くやはあなる」
 「わたしは、何とかして死にたい。
 世間並に生きられないつらい身の上だわ。
 このような、嫌なことのある例は、下衆の中でさえ多くあろうか」
   とて、うつぶし臥したまへば、  と言って、うつ臥しなさると、
   「かくな思し召しそ。
 やすらかに思しなせ、とてこそ聞こえさせはべれ。
 思しぬべきことをも、さらぬ顔にのみ、のどかに見えさせたまへるを、この御事ののち、いみじく心焦られをせさせたまへば、いとあやしくなむ見たてまつる」
 「そんなに思い詰めなさいますな。
 お心安く思いなさいませ、と思って申し上げたのでございます。
 お苦しみになることを、何げないふうにばかり、のんびりとお見えになるのを、この事件の後は、ひどくいらいらしていらっしゃるので、とても変だと拝見しております」
   と、心知りたる限りは、皆かく思ひ乱れ騒ぐに、乳母、おのが心をやりて、物染めいとなみゐたり。
 今参り童などのめやすきを呼び取りつつ、
 と、事情を知っている者だけは、みな心配しているのだが、乳母は、自分一人満足そうにして、染物などをしていた。
 新参の童女などで無難なのを呼んでは、
   「かかる人御覧ぜよ。
 あやしくてのみ臥させたまへるは、もののけなどの、妨げきこえさせむとするにこそ」と嘆く。
 
 「このような方を御覧なさい。
 変なことばかりに臥せっていらっしゃるのは、物の怪などが、お邪魔申し上げようとするのでしょう」と嘆く。
 
 
 

第七章 浮舟の物語 浮舟、匂宮にも逢わず、母へ告別の和歌を詠み残す

 
 

第一段 内舎人、薫の伝言を右近に伝える

 
   殿よりは、かのありし返り事をだにのたまはで、日ごろ経ぬ。
 この脅しし内舎人といふ者ぞ来たる。
 げに、いと荒々しく、ふつつかなるさましたる翁の、声かれ、さすがにけしきある、
 殿からは、あの先日の返事をさえおっしゃらずに、幾日も過ぎた。
 この恐ろしがらせた内舎人という者が来た。
 なるほど、たいそう荒々しく不格好に太った様子をした老人で、声も嗄れ、何といっても凄そうなのが、
   「女房に、ものとり申さむ」  「女房に、お話申し上げたい」
   と言はせたれば、右近しも会ひたり。
 
 と言わせたので、右近が会った。
 
   「殿に召しはべりしかば、今朝参りはべりて、ただ今なむ、まかり帰りはんべりつる。
 雑事ども仰せられつるついでに、かくておはしますほどに、夜中、暁のことも、なにがしらかくてさぶらふ、と思ほして、宿直人わざとさしたてまつらせたまふこともなきを、このころ聞こしめせば、
 「殿からお呼び出しがございましたので、今朝参上しまして、たった今、帰って参りました。
 雑事などをお命じになった折に、こうしてここにいらっしゃる間は、夜中、早朝の間も、わたくしどもがこうしてお勤め申している、とお思いになって、宿直人を特にお差し向け申し上げることもなかったが、最近お耳になさるには、
   『女房の御もとに、知らぬ所の人通ふやうになむ聞こし召すことある。
 たいだいしきことなり。
 宿直にさぶらふ者どもは、その案内聞きたらむ。
 知らでは、いかがさぶらふべき』
 『女房のもとに、素性の知れない者供が通っているようにお聞きになったことがある。
 不届きなことである。
 宿直に仕える者供は、その事情を聞いていよう。
 知らないでは、どうしていられよう』
   と問はせたまひつるに、承らぬことなれば、  とお尋ねあそばしたのが、全然知らないことなので、
   『なにがしは身の病重くはべりて、宿直仕うまつることは、月ごろおこたりてはべれば、案内もえ知りはんべらず。
 さるべき男どもは、解怠なく催しさぶらはせはべるを、さのごとき非常のことのさぶらはむをば、いかでか承らぬやうははべらむ』
 『わたくしは病気が重くございまして、宿直いたしますことは幾月も致しておりませんので、事情を知ることができません。
 しかるべき男どもは、怠けることなく警護させておりますのに、そのようなもってのほかのことがございますのを、どうして知らないでいられましょう』
   となむ申させはべりつる。
 用意してさぶらへ。
 便なきこともあらば、重く勘当せしめたまふべきよしなむ、仰せ言はべりつれば、いかなる仰せ言にかと、恐れ申しはんべる」
 と申し上げさせました。
 気をつけてお仕えなさい。
 不都合なことがあったら、厳重に処罰なさる旨のご命令がございますので、どのようなお考えなのかと、恐ろしく存じております」
   と言ふを聞くに、梟の鳴かむよりも、いともの恐ろし。
 いらへもやらで、
 と言うのを聞くと、梟が鳴くのよりも、とても恐ろしい。
 返事もしないで、
   「さりや。
 聞こえさせしに違はぬことどもを聞こしめせ。
 もののけしき御覧じたるなめり。
 御消息もはべらぬよ」
 「そうか。
 申し上げたことに違わないことをお聞きあそばせ。
 事の真相をお察しになったようです。
 お手紙もございませんよ」
   と嘆く。
 乳母は、ほのうち聞きて、
 と嘆く。
 乳母は、ちらっと聞いて、
   「いとうれしく仰せられたり。
 盗人多かんなるわたりに、宿直人も初めのやうにもあらず。
 皆、身の代はりぞと言ひつつ、あやしき下衆をのみ参らすれば、夜行をだにえせぬに」と喜ぶ。
 
 「とても嬉しいことをおっしゃった。
 盗賊が多いという所で、宿直人も最初のころのようではありません。
 みな、代理だと言っては、変な下衆ばかりを差し向けていたので、夜回りさえできなかったが」と喜ぶ。
 
 
 

第二段 浮舟、死を決意して、文を処分す

 
   君は、「げに、ただ今いと悪しくなりぬべき身なめり」と思すに、宮よりは、  女君は、「なるほど、今はまことに悪くなってしまった身の上のようだ」とお思いになっているところに、宮からは、
   「いかに、いかに」  「いかがですか、いかがですか」
   と、苔の乱るるわりなさをのたまふ、いとわづらはしくてなむ。
 
 と、苔が乱れるような無理なことをおっしゃるのが、とても厄介である。
 
   「とてもかくても、一方一方につけて、いとうたてあることは出で来なむ。
 わが身一つの亡くなりなむのみこそめやすからめ。
 昔は、懸想する人のありさまの、いづれとなきに思ひわづらひてだにこそ、身を投ぐるためしもありけれ。
 ながらへば、かならず憂きこと見えぬべき身の、亡くならむは、なにか惜しかるべき。
 親もしばしこそ嘆き惑ひたまはめ、あまたの子ども扱ひに、おのづから忘草摘みてむ。
 ありながらもてそこなひ、人笑へなるさまにてさすらへむは、まさるもの思ひなるべし」
 「どちらにしても、それぞれの方につけて、とても嫌なことが出て来よう。
 自分一人がいなくなるのが最もよいようだ。
 昔は、懸想する男の気持ちが、どちらとも決められないのに思いわずらって、それだけで身を投げた例もあった。
 生き永らえたら、きっと嫌な目に遭ってしまいそうな身で、死ぬのに、どうして惜しい身であろう。
 親も少しの間は嘆きなさろうが、大勢の子供の世話で、自然と忘れよう。
 生きながら間違いを犯し、物笑いな様子でうろうろしては、それ以上の物思いになろう」
   など思ひなる。
 児めきおほどかに、たをたをと見ゆれど、気高う世のありさまをも知る方すくなくて、思し立てたる人にしあれば、すこしおずかるべきことを、思ひ寄るなりけむかし。
 
 などと思うようになる。
 子供っぽくおっとりとして、たおやかに見えるが、気品高く貴族社会の様子を知ることも少なくて育った人なので、少し乱暴なことを、考えついたのであろう。
 
   むつかしき反故など破りて、おどろおどろしく一度にもしたためず、灯台の火に焼き、水に投げ入れさせなど、やうやう失ふ。
 心知らぬ御達は、「ものへ渡りたまふべければ、つれづれなる月日を経て、はかなくし集めたまへる手習などを、破りたまふなめり」と思ふ。
 侍従などぞ、見つくる時は、
 厄介な反故などを破って、大げさになるような一度には始末せず、灯台の火で焼いたり、川に投げ入れさせたりなど、だんだん少なくして行く。
 事情を知らない御達は、「京へお引っ越しになるので、退屈な日々を送るうちに、いつしか書き集めなさった手習などを、お破り捨てになるのだろう」と思う。
 侍従などは、見つけた時には、
   「など、かくはせさせたまふ。
 あはれなる御仲に、心とどめて書き交はしたまへる文は、人にこそ見せさせたまはざらめ、ものの底に置かせたまひて御覧ずるなむ、ほどほどにつけては、いとあはれにはべる。
 さばかりめでたき御紙使ひ、かたじけなき御言の葉を尽くさせたまへるを、かくのみ破らせたまふ、情けなきこと」
 「どうして、このようなことをあそばします。
 愛し合っていらっしゃるお間柄で、心をこめてお書き交わしなさった手紙は、他人にはお見せあそばさなくても、何かの箱底におしまいあそばして御覧になるのが、身分相応に、とても感慨深いものでございます。
 あれほど立派な紙を使い、恐れ多いお言葉のあらん限りをお尽くしになったのを、あのようにばかりお破りあそばすのは、情けないこと」
   と言ふ。
 
 と言う。
 
   「何か。
 むつかしく。
 長かるまじき身にこそあめれ。
 落ちとどまりて、人の御ためもいとほしからむ。
 さかしらにこれを取りおきけるよなど、漏り聞きたまはむこそ、恥づかしけれ」
 「いいえどうして。
 厄介な。
 長生きできそうにない身の上のようです。
 落ちぶれ残って、相手の方にとってもお気の毒でしょう。
 利口ぶってお手紙を残しておいたものよなどと、漏れ聞きなされたら、恥ずかしい」
   などのたまふ。
 心細きことを思ひもてゆくには、またえ思ひ立つまじきわざなりけり。
 親をおきて亡くなる人は、いと罪深かなるものをなど、さすがに、ほの聞きたることをも思ふ。
 
 などとおしゃる。
 心細いことを思い続けていくと、再び決心ができなくなるのであった。
 親を残して先立つ人は、とても罪障深いと言うものをなどと、やはり、かすかに聞いたことを思う。
 
 
 

第三段 三月二十日過ぎ、浮舟、匂宮を思い泣く

 
   二十日あまりにもなりぬ。
 かの家主、二十八日に下るべし。
 宮は、
 二十日過ぎにもなった。
 あの家の主人が、二十八日に下向する予定である。
 宮は、
   「その夜かならず迎へむ。
 下人などに、よくけしき見ゆまじき心づかひしたまへ。
 こなたざまよりは、ゆめにも聞こえあるまじ。
 疑ひたまふな」
 「その夜にきっと迎えよう。
 下人などに、様子を気づかれないように注意なさい。
 こちらの方からは、絶対漏れることはない。
 疑いなさるな」
   などのたまふ。
 「さて、あるまじきさまにておはしたらむに、今一度ものをもえ聞こえず、おぼつかなくて返したてまつらむことよ。
 また、時の間にても、いかでかここには寄せたてまつらむとする。
 かひなく怨みて帰りたまはむ」さまなどを思ひやるに、例の、面影離れず、堪へず悲しくて、この御文を顔におし当てて、しばしはつつめども、いといみじく泣きたまふ。
 
 などとおっしゃる。
 「そうして、無理をしておいでになったとしても、もう一度何も申し上げることができず、お目にかかれぬままお帰し申し上げることよ。
 また、束の間でも、どうしてここにお近づけ申し上げることができよう。
 効なく恨んでお帰りになろう」その様子を想像すると、いつものように、面影が離れず、始終悲しくて、このお手紙を顔に押し当てて、しばらくの間は我慢していたが、とてもひどくお泣きになる。
 
   右近、  右近は、
   「あが君、かかる御けしき、つひに人見たてまつりつべし。
 やうやう、あやしなど思ふ人はべるべかめり。
 かうかかづらひ思ほさで、さるべきさまに聞こえさせたまひてよ。
 右近はべらば、おほけなきこともたばかり出だしはべらば、かばかり小さき御身一つは、空より率てたてまつらせたまひなむ」
 「姫君様、このようなご様子に、終いには周囲の人もお気づき申そう。
 だんだんと、変だなどと思う女房がございますようです。
 このようにくよくよなさらずに、適当にご返事申し上げなさいませ。
 右近がおります限りは、大それたこともうまく処理いたしましたら、これほどお小さい身体一つぐらいは、空からお連れ申し上げなさいましょう」
   と言ふ。
 とばかりためらひて、
 と言う。
 しばし躊躇して、
   「かくのみ言ふこそ、いと心憂けれ。
 さもありぬべきこと、と思ひかけばこそあらめ、あるまじきこと、と皆思ひとるに、わりなく、かくのみ頼みたるやうにのたまへば、いかなることをし出でたまはむとするにかなど、思ふにつけて、身のいと心憂きなり」
 「このようにばかり言うのが、とても情けない。
 たしかにそうなってもよいこと、と思っているならともかくも、とんでもないことだ、とすっかり分かっているのに、無理に、このようにばかり期待しているようにおっしゃるので、どのようなことをし出かしなさろうとするのかなどと、思うにつけても、身がとてもつらいのです」
   とて、返り事も聞こえたまはずなりぬ。
 
 と言って、お返事も差し上げないでしまわれた。
 
 
 

第四段 匂宮、宇治へ行く

 
   宮、「かくのみ、なほ受け引くけしきもなくて、返り事さへ絶え絶えになるは、かの人の、あるべきさまに言ひしたためて、すこし心やすかるべき方に思ひ定まりぬるなめり。
 ことわり」と思すものから、いと口惜しくねたく、
 宮は、「こうしてばかり、依然として承知する様子もなくて、返事までが途絶えがちになるのは、あの人が、適当に言い含めて、少し安心な方に心が落ち着いたのだろう。
 もっともなことだ」とはお思いになるが、たいそう残念で悔しく、
   「さりとも、我をばあはれと思ひたりしものを。
 あひ見ぬとだえに、人びとの言ひ知らする方に寄るならむかし」
 「それにしても、わたしを慕っていたものを。
 逢わない間に、女房が説き聞かせた方に傾いたのであろう」
   など眺めたまふに、行く方しらず、むなしき空に満ちぬる心地したまへば、例の、いみじく思し立ちておはしましぬ。
 
 などと物思いなさると、恋しさは晴らしようもなく、むなしい空にいっぱい満ちあふれた気がなさるので、いつものように、大変なご決意でおいでになった。
 
   葦垣の方を見るに、例ならず、  葦垣の方を見ると、いつもと違って、
   「あれは、誰そ」  「あれは、誰だ」
   と言ふ声々、いざとげなり。
 立ち退きて、心知りの男を入れたれば、それをさへ問ふ。
 前々のけはひにも似ず。
 わづらはしくて、
 と言う声々が、目ざとげである。
 いったん退いて、事情を知っている男を入れたが、その男までを尋問する。
 以前の様子と違っている。
 やっかいになって、
   「京よりとみの御文あるなり」  「京から急のお手紙です」
   と言ふ。
 右近は徒者の名を呼びて会ひたり。
 いとわづらはしく、いとどおぼゆ。
 
 と言う。
 右近は従者の名を呼んで会った。
 とても煩わしく、ますますやっかいに思う。
 
   「さらに、今宵は不用なり。
 いみじくかたじけなきこと」
 「全然、今夜はだめです。
 まことに恐れ多いことで」
   と言はせたり。
 宮、「など、かくもて離るらむ」と思すに、わりなくて、
 と言わせた。
 宮は、「どうして、こんなによそよそしくするのだろう」とお思いになると、たまらなくなって、
   「まづ、時方入りて、侍従に会ひて、さるべきさまにたばかれ」  「まず、時方が入って、侍従に会って、しかるべくはからえ」
   とて遣はす。
 かどかどしき人にて、とかく言ひ構へて、訪ねて会ひたり。
 
 と言って遣わす。
 才覚ある人で、あれこれ言い繕って、探し出して会った。
 
   「いかなるにかあらむ。
 かの殿ののたまはすることありとて、宿直にある者どもの、さかしがりだちたるころにて、いとわりなきなり。
 御前にも、ものをのみいみじく思しためるは、かかる御ことのかたじけなきを、思し乱るるにこそ、と心苦しくなむ見たてまつる。
 さらに、今宵は。
 人けしき見はべりなば、なかなかにいと悪しかりなむ。
 やがて、さも御心づかひせさせたまひつべからむ夜、ここにも人知れず思ひ構へてなむ、聞こえさすべかめる」
 「どうしたわけでありましょう。
 あの殿がおっしゃることがあると言って、宿直にいる者どもが、出しゃばっているところで、まことに困っているのです。
 御前におかれても、深く思い嘆いていらっしゃるらしいのは、このようなご訪問のもったいなさを、悩んでいらっしゃるのだ、とお気の毒に拝しております。
 全然、今晩はだめです。
 誰かが様子に気づきましたら、かえってまことに悪いことになりましょう。
 そのまま、そのようにお考えあそばしている夜には、こちらでも誰にも知られず計画しまして、ご案内申し上げましょう」
   乳母のいざときことなども語る。
 大夫、
 乳母が目ざといことなども話す。
 大夫、
   「おはします道のおぼろけならず、あながちなる御けしきに、あへなく聞こえさせむなむ、たいだいしき。
 さらば、いざ、たまへ。
 ともに詳しく聞こえさせたまへ」といざなふ。
 
 「おいでになった道中が大変なことで、ぜひにもというお気持ちなので、はりあいもなくお返事申し上げるのは、具合が悪い。
 それでは、さあ、いらっしゃい。
 一緒に詳しく申し上げましょう」と誘う。
 
   「いとわりなからむ」  「とても無理です」
   と言ひしろふほどに、夜もいたく更けゆく。
 
 と言い合いをしているうちに、夜もたいそう更けて行く。
 
 
 

第五段 匂宮、浮舟に逢えず帰京す

 
   宮は、御馬にてすこし遠く立ちたまへるに、里びたる声したる犬どもの出で来てののしるも、いと恐ろしく、人少なに、いとあやしき御ありきなれば、「すずろならむものの走り出で来たらむも、いかさまに」と、さぶらふ限り心をぞ惑はしける。
 
 宮は、御馬で少し遠くに立っていらっしゃったが、里めいた声をした犬どもが出て来て吠え立てるのも、たいそう恐ろしく、供回りが少ないうえに、たいそう簡略なお忍び歩きなので、「おかしな者どもが襲いかかって来たら、どうしよう」と、お供申している者たちはみな心配していたのであった。
 
   「なほ、とくとく参りなむ」  「もっと、早く早く参ろう」
   と言ひ騒がして、この侍従を率て参る。
 髪脇より掻い越して、様体いとをかしき人なり。
 馬に乗せむとすれど、さらに聞かねば、衣の裾をとりて、立ち添ひて行く。
 わが沓を履かせて、みづからは、供なる人のあやしき物を履きたり。
 
 とうるさく言って、この侍従を連れて上がる。
 髪は、脇の下から前に出して、姿がとても美しい人である。
 馬に乗せようとしたが、どうしても聞かないので、衣の裾を持って、歩いて付いて来る。
 自分の沓を履かせて、自分は供人の粗末なのを履いた。
 
   参りて、「かくなむ」と聞こゆれば、語らひたまふべきやうだになければ、山賤の垣根のおどろ葎の蔭に、障泥といふものを敷きて降ろしたてまつる。
 わが御心地にも、「あやしきありさまかな。
 かかる道にそこなはれて、はかばかしくは、えあるまじき身なめり」と、思し続くるに、泣きたまふこと限りなし。
 
 参上して、「これこれです」と申し上げると、相談しようにも適当な場所がないので、山家の垣根の茂った葎のもとに、障泥という物を敷いて、お下ろし申し上げる。
 ご自身のお気持ちにも、「変な恰好だな。
 このような道につまずいて、これといった、将来とても期待できそうにない身の上のようだ」と、お思い続けると、お泣きになることこの上ない。
 
   心弱き人は、ましていといみじく悲しと見たてまつる。
 いみじき仇を鬼につくりたりとも、おろかに見捨つまじき人の御ありさまなり。
 ためらひたまひて、
 気弱な女は、それ以上にほんとうに悲しいと拝見する。
 大変な敵を鬼にしたとしても、いいかげんには見捨てることのできないご様子の人である。
 躊躇なさって、
   「ただ一言もえ聞こえさすまじきか。
 いかなれば、今さらにかかるぞ。
 なほ、人びとの言ひなしたるやうあるべし」
 「たった一言でも申し上げることはできないのか。
 どうして、今さらこうなのだ。
 やはり、女房らが申し上げたことがあるのだろう」
   とのたまふ。
 ありさま詳しく聞こえて、
 とおっしゃる。
 事情を詳しく申し上げて、
   「やがて、さ思し召さむ日を、かねては散るまじきさまに、たばからせたまへ。
 かくかたじけなきことどもを見たてまつりはべれば、身を捨てても思うたまへたばかりはべらむ」
 「いずれ、そのようにお考えになっている日を、事前に漏れないように、計らいなさいませ。
 このように恐れ多いことを拝見いたしておりますと、身を捨ててでもお取り計らい申し上げましょう」
   と聞こゆ。
 我も人目をいみじく思せば、一方に怨みたまはむやうもなし。
 
 と申し上げる。
 ご自身も人目をひどくお気になさっているので、一方的にお恨みになることもできない。
 
   夜はいたく更けゆくに、このもの咎めする犬の声絶えず、人びと追ひさけなどするに、弓引き鳴らし、あやしき男どもの声どもして、  夜はたいそう更けて行くが、この怪しんで吠える犬の声が止まず、供人たちが追い払いなどするために、弓を引き鳴らし、賤しい男どもの声がして、
   「火危ふし」  「火の用心」
   など言ふも、いと心あわたたしければ、帰りたまふほど、言へばさらなり。
 
 などと言うのも、たいそう気が気でないので、お帰りになる時のお気持ちは、言葉では言い尽くせない。
 
 

751
 「いづくにか 身をば捨てむと 白雲の
 かからぬ山も 泣く泣くぞ行く
 「どこに身を捨てようかと捨て場も知らない、白雲が
  かからない山とてない山道を泣く泣く帰って行くことよ
 
   さらば、はや」  それでは、早く」
   とて、この人を帰したまふ。
 御けしきなまめかしくあはれに、夜深き露にしめりたる御香の香うばしさなど、たとへむ方なし。
 泣く泣くぞ帰り来たる。
 
 と言って、この人をお帰しになる。
 ご様子が優雅で胸を打ち、夜深い露にしめったお香の匂いなどは、他にたとえようもない。
 泣く泣く帰って来た。
 
 
 

第六段 浮舟の今生の思い

 
   右近は、言ひ切りつるよし言ひゐたるに、君は、いよいよ思ひ乱るること多くて臥したまへるに、入り来て、ありつるさま語るに、いらへもせねど、枕のやうやう浮きぬるを、かつはいかに見るらむ、とつつまし。
 明朝も、あやしからむまみを思へば、無期に臥したり。
 ものはかなげに帯などして経読む。
 「親に先だちなむ罪失ひたまへ」とのみ思ふ。
 
 右近が、きっぱり断った旨を言っていると、君は、ますます思い乱れることが多くて臥せっていらっしゃるが、入って来て、先程の様子を話すので、返事もしないが、だんだんと泣けてしまったのを、一方ではどのように見るだろう、と気がひける。
 翌朝も、みっともない目もとを思うと、いつまでも臥していた。
 頼りなさそうに掛け帯などかけて経を読む。
 「親に先立つ罪障を無くしてください」とばかり思う。
 
   ありし絵を取り出でて見て、描きたまひし手つき、顔の匂ひなどの、向かひきこえたらむやうにおぼゆれば、昨夜、一言をだに聞こえずなりにしは、なほ今ひとへまさりて、いみじと思ふ。
 「かの、心のどかなるさまにて見む、と行く末遠かるべきことをのたまひわたる人も、いかが思さむ」といとほし。
 
 先日の絵を取り出して見て、お描きになった手つき、お顔の美しさなどが、向かい合っているように思い出されるので、昨夜、一言も申し上げずじまいになったことは、やはりもう一段とまさって、悲しく思われる。
 「あの、のんびりとした邸で逢おう、と末長い約束をおっしゃり続けていた方も、どのようにお思いになるだろう」とお気の毒である。
 
   憂きさまに言ひなす人もあらむこそ、思ひやり恥づかしけれど、「心浅く、けしからず人笑へならむを、聞かれたてまつらむよりは」など思ひ続けて、  嫌なことに噂する人もあるだろうことを、想像すると恥ずかしいが、「浅薄で、けしからぬ女だと物笑いになるのを、お聞かれ申すよりは」などと思い続けて、
 

752
 「嘆きわび 身をば捨つとも 亡き影に
 憂き名流さむ ことをこそ思へ」
 「嘆き嘆いて身を捨てても亡くなった後に
  嫌な噂を流すのが気にかかる」
 
   親もいと恋しく、例は、ことに思ひ出でぬ弟妹の醜やかなるも、恋し。
 宮の上を思ひ出できこゆるにも、すべて今一度ゆかしき人多かり。
 人は皆、おのおの物染めいそぎ、何やかやと言へど、耳にも入らず、夜となれば、人に見つけられず、出でて行くべき方を思ひまうけつつ、寝られぬままに、心地も悪しく、皆違ひにたり。
 明けたてば、川の方を見やりつつ、羊の歩みよりもほどなき心地す。
 
 親もとても恋しく、いつもは、特に思い出さない姉妹の醜いのも、恋しい。
 宮の上をお思い出し申し上げるにつけても、何から何までもう一度お会いしたい人が多かった。
 女房は皆、それぞれの衣類の染物に精を出し、何やかやと言っているが、耳にも入らず、夜となると、誰にも見つけられず、出て行く方法を考えながら、眠れないままに、気分も悪く、すっかり人が変わったようである。
 夜が明けると、川の方を見やりながら、羊の足取りよりも死に近い感じがする。
 
 
 

第七段 京から母の手紙が届く

 
   宮は、いみじきことどもをのたまへり。
 今さらに、人や見むと思へば、この御返り事をだに、思ふままにも書かず。
 
 宮は、たいそうな恨み言をおっしゃっていた。
 今さらに、誰が見ようかと思うと、このお返事をさえ、気持ちのままに書かない。
 
 

753
 「からをだに 憂き世の中に とどめずは
 いづこをはかと 君も恨みむ」
 「亡骸をさえ嫌なこの世に残さなかったら
  どこを目当てにと、あなた様もお恨みになりましょう」
 
   とのみ書きて出だしつ。
 「かの殿にも、今はのけしき見せたてまつらまほしけれど、所々に書きおきて、離れぬ御仲なれば、つひに聞きあはせたまはむこと、いと憂かるべし。
 すべて、いかになりけむと、誰れにもおぼつかなくてやみなむ」と思ひ返す。
 
 とだけ書いて出した。
 「あちらの殿にも、最後の様子をお見せ申し上げたいが、お二方に書き残しては、親しいお間柄なので、いつかは聞き合わせなさろうことは、とても困ることだどう。
 まるきり、どうなったのかと、誰からも分からないようにして死んでしまおう」と思い返す。
 
   京より、母の御文持て来たり。
 
 京から、母親のお手紙を持って来た。
 
   「寝ぬる夜の夢に、いと騒がしくて見えたまひつれば、誦経所々せさせなどしはべるを、やがて、その夢の後、寝られざりつるけにや、ただ今、昼寝してはべる夢に、人の忌むといふことなむ、見えたまひつれば、驚きながらたてまつる。
 よく慎ませたまへ。
 
 「昨晩の夢に、とても物騒がしくお見えになったので、誦経をあちこちの寺にさせたりなどしましたが、そのまま、その夢の後で、眠れなかったせいか、たった今、昼寝をして見ました夢に、世間で不吉とするようなことが、お現れになったので、目を覚ますなり差し上げました。
 十分に慎みなさい。
 
   人離れたる御住まひにて、時々立ち寄らせたまふ人の御ゆかりもいと恐ろしく、悩ましげにものせさせたまふ折しも、夢のかかるを、よろづになむ思うたまふる。
 
 人里離れたお住まいで、時々お立ち寄りになる方のご正室のお恨みがとても恐ろしく、気分悪くいらっしゃるときに、夢がこのようなのを、いろいろと案じております。
 
   参り来まほしきを、少将の方の、なほ、いと心もとなげに、もののけだちて悩みはべれば、片時も立ち去ること、といみじく言はれはべりてなむ。
 その近き寺にも御誦経せさせたまへ」
 参上したいが、少将の北の方が、やはり、とても心配で、物の怪めいて患っていますので、少しの間も離れることは、いけないときつく言われていますので。
 そちらの近くの寺にも御誦経をさせなさい」
   とて、その料の物、文など書き添へて、持て来たり。
 限りと思ふ命のほどを知らで、かく言ひ続けたまへるも、いと悲しと思ふ。
 
 とあって、そのお布施の物や、手紙などを書き添えて、持って来た。
 最期と思っている命のことも知らないで、このように書き綴ってお寄越しになったのも、とても悲しいと思う。
 
 
 

第八段 浮舟、母への告別の和歌を詠み残す

 
   寺へ人遣りたるほど、返り事書く。
 言はまほしきこと多かれど、つつましくて、ただ、
 寺へ使者をやった間に、返事を書く。
 言いたいことはたくさんあるが、気がひけて、ただ、
 

754
 「後にまた あひ見むことを 思はなむ
 この世の夢に 心惑はで」
 「来世で再びお会いすることを思いましょう
  この世の夢に迷わないで」
 
   誦経の鐘の風につけて聞こえ来るを、つくづくと聞き臥したまふ。
 
 誦経の鐘の音が風に乗って聞こえて来るのを、つくづくと聞き臥していらっしゃる。
 
 

755
 「鐘の音の 絶ゆる響きに 音を添へて
 わが世尽きぬと 君に伝へよ」
 「鐘の音が絶えて行く響きに、泣き声を添えて
  わたしの命も終わったと母上に伝えてください」
 
   巻数持て来たるに書きつけて、  僧の所から持って来た手紙に書き加えて、
   「今宵は、え帰るまじ」  「今夜は、帰ることはできまい」
   と言へば、物の枝に結ひつけて置きつ。
 乳母、
 と言うので、何かの枝に結び付けておいた。
 乳母が、
   「あやしく、心ばしりのするかな。
 夢も騒がし、とのたまはせたりつ。
 宿直人、よくさぶらへ」
 「妙に、胸騷ぎのすることだわ。
 夢見が悪い、とおっしゃった。
 宿直人、十分注意するように」
   と言はするを、苦しと聞き臥したまへり。
 
 などと言わせるのを、苦しいと聞きながら臥していらっしゃった。
 
   「物聞こし召さぬ、いとあやし。
 御湯漬け」
 「何もお召し上がりにならないのは、とてもいけません。
 お湯漬けを」
   などよろづに言ふを、「さかしがるめれど、いと醜く老いなりて、我なくは、いづくにかあらむ」と思ひやりたまふも、いとあはれなり。
 「世の中にえあり果つまじきさまを、ほのめかして言はむ」など思すに、まづ驚かされて先だつ涙を、つつみたまひて、ものも言はれず。
 右近、ほど近く臥すとて、
 などといろいろと言うのを、「よけいなおせっかいのようだが、とても醜く年とって、わたしが死んだら、どうするのだろう」とご想像なさるのも、とても不憫である。
 「この世には生きていられないことを、ちらっと言おう」などとお思いになるが、何より先に涙が溢れてくるのを、隠しなさって、何もおっしゃれない。
 右近は、お側近くに横になろうとして、
   「かくのみものを思ほせば、もの思ふ人の魂は、あくがるなるものなれば、夢も騒がしきならむかし。
 いづ方と思し定まりて、いかにもいかにも、おはしまさなむ」
 「このようにばかり物思いをなさると、物思う人の魂は、抜け出るものと言いますから、夢見も悪いのでしょう。
 どちらの方かとお決めになって、どうなるにもこうなるにも、思う通りになさってください」
   とうち嘆く。
 萎えたる衣を顔におしあてて、臥したまへり、となむ。
 
 と溜息をつく。
 柔らかくなった衣を顔に押し当てて、臥せっていらっしゃった、とか。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 恋しくは来てもみよかし千早振る神のいさむる道ならなくに(伊勢物語-一三一)(戻)  
  出典2 恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ人の見まくほしけれ(拾遺集恋一-六八五 大伴百世)(戻)  
  出典3 春霞たなびく山の桜花見れども飽かぬ君にもあるかな(古今集恋四-六八四 紀友則)(戻)  
  出典4 飽かざりし袖の中にや入りにけむわが魂のなき心地する(古今集雑下-九九二 陸奥)(戻)  
  出典5 しののめのほがらほがらと明け行けばおのがきぬぎぬなるぞ悲しき(古今集恋三-六三七 読人しらず)(戻)  
  出典6 ありぬやとこころみがてら逢ひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき(古今集俳諧歌-一〇二五 読人しらず)(戻)  
  出典7 心には下行く水の湧き返り言はで思ふぞ言ふにまされる(古今六帖五-二六四八)(戻)  
  出典8 蒼茫霧雨之霽初 寒汀鷺立 重畳煙嵐之断処 晩寺帰僧<蒼茫たる霧雨(うぶ)の霽(はれ)の初めに 寒汀に鷺立てり 重畳せる煙嵐の断えたる処に 晩寺に僧帰る>(和漢朗詠集下-六〇四 張読)(戻)  
  出典9 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる(古今集春上-四一 凡河内躬恒)(戻)  
  出典10 さむしろに衣片敷き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫(古今集恋四-六八九 読人しらず)(戻)  
  出典11 白雪の色分きがたき梅が枝に友待つ雪ぞ消え残りたる(家持集-二八四)(戻)  
  出典12 冬ごもり人も通はぬ山里のまれの細道ふたぐ雪かな(賀茂保憲女-一二三)(戻)  
  出典13 今もかも咲き匂ふらむ橘の小島の崎の山吹の花(古今集春下-一二一 読人しらず)(戻)  
  出典14 犬上やとこの山なるいさら川いさと答へて我が名漏らすな(古今六帖五-三〇六一)(戻)  
  出典15 山科の木幡の里に馬はあれど徒歩(かち)よりぞ来る君を思へば(拾遺集雑恋-一二四三 柿本人麿)(戻)  
  出典16 恨みても泣きても言はむ方ぞなき鏡に見ゆる影ならずして(古今集恋五-八一四 藤原興風)(戻)  
  出典17 思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを(古今集恋二-五五二 小野小町)(戻)  
  出典18 ふすまぢを引手の山に妹を置きて山路を行けば生けるともなし(万葉集巻二-二一二 柿本人麿)(戻)  
  出典19 たらちねの親のかふ蚕(こ)の繭ごもりいぶせくもあるかな妹(いも)に逢はずて(拾遺集恋四-八九五 柿本人麿)(戻)  
  出典20 白雲の晴れぬ雲居にまじりなばいづれかそれと君は思はむ(異本紫明抄所引-出典未詳)(戻)  
  出典21 つれづれの眺めにまさる涙川袖のみ濡れて逢ふよしもなし(古今集恋三-六一七 藤原敏行)かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身を知る雨は降りぞまされる(古今集恋四-七〇五 在原業平)(戻)  
  出典22 侘びぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ(古今集雑下-九三八 小野小町)(戻)  
  出典23 白雲の八重立つ山にこもるとも思ひ立ちなば尋ねざらめや(紫明抄所引-出典未詳)(戻)  
  出典24 恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずぞなりにけらしも(古今集恋一-五〇一 読人しらず)(戻)  
  出典25 道の口 武府の国府(こふ)に 我ありと 親には申したべ 心あひの風や さきむだちや(催馬楽-道の口)(戻)  
  出典26 須磨の海人(あま)の塩焼く煙風をいたみ思はぬ方にたなびきにけり(古今集恋四-七〇八 読人しらず)(戻)  
  出典27 君をおきてあだし心をわが持たば末の松山浪も越えなむ(古今集東歌-一〇九三 陸奥歌)(戻)  
  出典28 逢ふことをいつかその日と松の木の苔の乱れて恋ふるこのごろ(古今六帖六-三九六二)(戻)  
  出典29 忘れ草摘むほどとこそ思ひつれおぼつかなくて程の経つれば(和泉式部集-二四三)(戻)  
  出典30 我が恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行く方もなし(古今集恋一-四八八 読人しらず)(戻)  
  出典31 守家一犬迎人吠 放野群牛引犢休<家を守る犬は人を迎へて吠ゆ 野に放てる群牛は犢(こうし)を引いて休む>(和漢朗詠集下-五六六 都良香)(戻)  
  出典32 いづくとも所定めぬ白雲のかからぬ山はあらじと思ふ(拾遺集雑恋-一二一七 読人しらず)(戻)  
  出典33 如因趣市歩歩近死地 如牽牛羊詣於屠所<因の市に趣きて歩歩死地に近づくが如く 牛羊を牽いて屠所に詣(いた)るが如し>(涅槃経)けふもまたむまのかひこそふきつなれ羊の歩み近づきぬらむ(千載集雑下-一二〇〇 赤染衛門)(戻)  
  出典34 空蝉は殻を見つつも慰めつ深草の山煙だに立て(古今集哀傷-八三一 勝延)今日過ぎば死なましものを夢にてもいづこをはかと君が問はまし(後撰集恋二-六四〇 中将更衣)(戻)  
  出典35 寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな(古今集恋三-六四四 在原業平)(戻)  
  出典36 物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る(後拾遺集神祇-一一六二 和泉式部)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 御本性--(/+御)本正(戻)  
  校訂2 のどけさ--のとけき(き/$)さ(戻)  
  校訂3 たよりある--たより(り/+ある)(戻)  
  校訂4 すべき--すす(す<後出>/$)へき(戻)  
  校訂5 こそは--こそ(そ/+は)(戻)  
  校訂6 言はむも--(/+いはんも)(戻)  
  校訂7 今日--けけ(け<後出>/#)ふ(戻)  
  校訂8 思し焦らるる--おほしはゝか(はゝか/$いら)るゝ(戻)  
  校訂9 思せば--おもへ(もへ/$ほせ)は(戻)  
  校訂10 恋しき人に--これ(れ/$ひ)しき人(人/+に)(戻)  
  校訂11 ことことしかるべき--こと/\しか(か/+る)へき(戻)  
  校訂12 もろともに--もろとと(と<前出>/$)もに(戻)  
  校訂13 まばゆき--ま(ま/+は)ゆき(戻)  
  校訂14 これさへ--これ(れ/+さ)へ(戻)  
  校訂15 髪--(/+か)み(戻)  
  校訂16 心やすく--心や(や/+すく)(戻)  
  校訂17 なればにや--なれは(は/+に)や(戻)  
  校訂18 うしろめた--*うしろめてた(戻)  
  校訂19 さりとも--さりとて(て/$)も(戻)  
  校訂20 隠れ--かくかく(かく<後出>/$)れ(戻)  
  校訂21 たまひにきかし--たまひに(に/+きか)し(戻)  
  校訂22 さるべからむ--さ(さ/+る)へからむ(戻)  
  校訂23 おいらか--(/+お)ひらか(戻)  
  校訂24 なほなほしき--なをゝ(ゝ/$/\)しき(戻)  
  校訂25 なりけれ--なるけり(り/$れ)(戻)  
  校訂26 常陸にて--ひたちも(も/$にて)(戻)  
  校訂27 さぶらふ--は(は/=さふらふ)(戻)  
  校訂28 人笑へ--ひとわらひ(ひ/$へ)(戻)  
  校訂29 人に--人な(な/$に)(戻)  
  校訂30 おずかる--た(た/$おすかる)(戻)  
  校訂31 思す--おほゆ(ゆ/$す)(戻)  
  校訂32 掻い越して--かいた(た/$こ)して(戻)  
  校訂33 御香--御かほ(ほ/$)(戻)  
  校訂34 誰れにもおぼつかなくてやみなむ」と--(/+誰にもおぼつかなくてやみなんと)(戻)  
  校訂35 巻数--(/+巻数)(戻)  
  校訂36 あやし--あ(あ/+や)し(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)明融臨模本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。
 明融本は、定家自筆本とほぼ同等に扱われているという。