源氏物語 50帖 東屋:あらすじ・目次・原文対訳

宿木 源氏物語
第三部
第50帖
東屋
浮舟

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 東屋(あずまや)のあらすじ

 薫26歳の八月から九月にかけての話。

 薫〔源氏の幼妻と柏木の子・頭中将の孫〕は、亡き大君〔八の宮の長女〕に似た浮舟〔読者による通称。八の宮の三女・源氏の姪〕に関心を持ちつつも、受領の継娘という身分の低さにためらっていた。その浮舟の母である中将の君も、身分違いの縁談に消極的だった。

 浮舟は、宇治八の宮〔源氏の異母弟〕とその女房であった中将の君との間に生まれた娘だったが、宮には認知されなかった。中将の君はまもなく浮舟を連れて陸奥守(のちに常陸介)と再婚し、東国に長く下っていた。常陸介との間にも数多の子をもうけていたが、高貴の血を引き一際美しい浮舟をことさら大事に育て、良縁をしきりに願っていた。

 受領ながらも裕福で家柄も卑しくない常陸介のところには、それを目当てにした求婚者が多かった。20歳を過ぎた浮舟は、そのうちの左近の少将と婚約したが、財産目当ての少将は浮舟が常陸介の実子でないと知るや、実の娘である妹に乗りかえて結婚した。浮舟を不憫に思った中将の君は、彼女を二条院の中君〔八の宮の次女〕のもとに預けに行く。

 ところが匂宮〔今上帝の三宮。源氏の異母兄(朱雀帝)の孫・中君の夫〕が偶然浮舟を見つけ、強引に言い寄ってきた。御所からの知らせで明石の中宮〔源氏と明石の方の子〕が倒れた事を知らされ、浮舟に未練を残しつつ出かけた匂宮。姉の夫に言い寄られるという出来事にいたたまれない思いの浮舟。騒ぎを聞き彼女の様子を見て、心を痛める中君。髪洗いを終え、女房に髪を梳かせながら彼女と絵巻物を読む中君。姉が生き返ったようだと改めて実感する。かろうじて事なきをえたが、浮舟の乳母からそれを聞いた中将の君は驚いて彼女を引き取り、三条の小家に隠した。

 秋九月、薫は浮舟が三条の隠れ家にいることを知り、弁の尼に仲立ちを頼んでその小家を訪れる。そして翌朝、浮舟を車で宇治に連れて行ってしまった。浮舟の不安をよそに、彼女に大君の面影を映し見る薫は、大君を偲びつつも浮舟の顔は亡き大君に瓜二つではあるが、教養〔琴や歌、故事の嗜み〕は彼女とは比べ物にならないぐらい程遠いことから〔しかし気後れはしていない〕、今後の浮舟の扱いに思い悩むのだった。

(以上Wikipedia東屋(源氏物語)より。色づけと〔〕は本ページ)
 
目次
和歌抜粋内訳#東屋(11首:別ページ)
主要登場人物
あはれ吾が妻といふ琴=東歌(独自)
 
第50帖 東屋
 薫君の大納言時代
 二十六歳秋八月から九月までの物語
 
第一章 浮舟 左近少将との縁談とその破綻
第二章 浮舟 京に上り、匂宮夫妻と左近少将を見比べる
第三章 浮舟の母、中君に娘の浮舟を託す
第四章 浮舟、匂宮に見つかり言い寄られる
第五章 浮舟、三条の隠れ家に身を寄せる
第六章 薫、浮舟を伴って宇治へ行く
 
 
第一章 浮舟の物語
 左近少将との縁談とその破綻
 第一段 浮舟の母、娘の良縁を願う
 第二段 継父常陸介と求婚者左近少将
 第三段 左近少将、浮舟が継子だと知る
 第四段 左近少将、常陸介の実娘を所望す
 第五段 常陸介、左近少将に満足す
 第六段 仲人、左近少将を絶賛す
 第七段 左近少将、浮舟から常陸介の実娘にのり換える
 第八段 浮舟の縁談、破綻す
 
第二章 浮舟の物語
 京に上り、匂宮夫妻と左近少将を見比べる
 第一段 浮舟の母と乳母の嘆き
 第二段 継父常陸介、実娘の結婚の準備
 第三段 浮舟の母、京の中君に手紙を贈る
 第四段 母、浮舟を匂宮邸に連れ出す
 第五段 浮舟の母、匂宮と中君夫妻を垣間見る
 第六段 浮舟の母、左近少将を垣間見て失望
 
第三章 浮舟の物語
 浮舟の母、中君に娘の浮舟を託す
 第一段 浮舟の母、中君と談話す
 第二段 浮舟の母、娘の不運を訴える
 第三段 浮舟の母、薫を見て感嘆す
 第四段 中君、薫に浮舟を勧める
 第五段 浮舟の母、娘に貴人の婿を願う
 第六段 浮舟の母、中君に娘を託す
 
第四章 浮舟と匂宮の物語
 浮舟、匂宮に見つかり言い寄られる
 第一段 匂宮、二条院に帰邸
 第二段 匂宮、浮舟に言い寄る
 第三段 浮舟の乳母、困惑、右近、中君に急報
 第四段 宮中から使者が来て、浮舟、危機を脱出
 第五段 乳母、浮舟を慰める
 第六段 匂宮、宮中へ出向く
 第七段 中君、浮舟を慰める
 第八段 浮舟と中君、物語絵を見ながら語らう
 
第五章 浮舟の物語
 浮舟、三条の隠れ家に身を寄せる
 第一段 乳母の急報に浮舟の母、動転す
 第二段 浮舟の母、娘を三条の隠れ家に移す
 第三段 母、左近少将と和歌を贈答す
 第四段 母、薫のことを思う
 第五段 浮舟の三条のわび住まい
 
第六章 浮舟と薫の物語
 薫、浮舟を伴って宇治へ行く
 第一段 薫、宇治の御堂を見に出かける
 第二段 薫、弁の尼に依頼して出る
 第三段 弁の尼、三条の隠れ家を訪ねる
 第四段 薫、三条の隠れ家の浮舟と逢う
 第五段 薫と浮舟、宇治へ出発
 第六段 薫と浮舟の宇治への道行き
 第七段 宇治に到着、薫、京に手紙を書く
 第八段 薫、浮舟の今後を思案す
 第九段 薫と浮舟、琴を調べて語らう
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

薫(かおる)
源氏の子〔と一般にみなされる柏木の子、頭中将の孫〕
呼称:右大将・大将殿・大将・殿・君
匂宮(におうのみや)
今上帝の第三親王
呼称:兵部卿宮・宮
今上帝(きんじょうてい)
朱雀院の第一親王
呼称:帝・内裏・当代
明石中宮(あかしのちゅうぐう)
源氏の娘
呼称:大宮・后の宮
夕霧(ゆうぎり)
源氏の長男
呼称:右の大殿・大殿
紅梅大納言(こうばいのだいなごん)
致仕大臣の二男
呼称:按察使大納言
女三の宮(おんなさんのみや)
薫の母
呼称:母宮・入道の宮
女二の宮(おんなにのみや)
今上帝の第二内親王
呼称:姫宮・宮・帝の御かしづき女・当代の御かしづき女
中君(なかのきみ)
八の宮の二女
呼称:宮の上・宮の北の方・上・女君・君
浮舟(うきふね)
八の宮の三女
呼称:姫君・御方・西の御方・君
弁尼君(べんのあまぎみ)
〔八の宮の義理の従姉妹、柏木の乳母子〕
呼称:弁の尼君・尼君・弁
左近少将(さこんのしょうしょう)
浮舟への求婚者
呼称:左近の少将殿・少将殿・少将の君・少将・朝臣
中将の君(ちゅうじょうのきみ)
浮舟の母
呼称:常陸殿・母北の方・母君・母上・北の方
常陸介(ひたちのすけ)
浮舟の継父
呼称:常陸守・守・守の主・父主
浮舟の乳母(うきふねのめのと)
呼称:御方の乳母・乳母

 
 以上の内容は〔〕以外、以下の原文のリンクから参照。
 
 
 

あはれ吾が妻といふ琴=東歌

 
 
 本巻末尾では、浮舟が琴や故事のことを知らないとして薫が妻にどうかと思案する描写がある。
 その例示として「あはれ、吾が妻といふ琴」位は知っているだろうとしている(六章九段)。

 

 東(あづま)が、吾妻(ああわが妻、妻問い・妻恋の話)に掛けられるのは、古事記以来の古来の知識。
 なのでただ「吾が妻」ではなく「あはれ」をつけている。
 ここで浮舟に吾妻の歌を知っているだろうというのはそういう意味で(東に長くいたので)、そう言う状況もその意味(妻問い)。
 
 
 

原文対訳

和歌 定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  東屋
 
 

第一章 浮舟の物語 左近少将との縁談とその破綻

 
 

第一段 浮舟の母、娘の良縁を願う

 
   筑波山を分け見まほしき御心はありながら、端山の繁りまであながちに思ひ入らむも、いと人聞き軽々しう、かたはらいたかるべきほどなれば、思し憚りて、御消息をだにえ伝へさせたまはず。
 
 筑波山を分け入ってみたいお気持ちはあるが、そんな端山の茂みにまで無理に熱中するようなのも、たいそう人聞きが軽々しく、確かに体裁の悪いことなので、お差し控えになって、お手紙をさえお伝えさせになることができない。
 
   かの尼君のもとよりぞ、母北の方にのたまひしさまなど、たびたびほのめかしおこせけれど、まめやかに御心とまるべきこととも思はねば、ただ、さまでも尋ね知りたまふらむこと、とばかりをかしう思ひて、人の御ほどのただ今世にありがたげなるをも、数ならましかば、などぞよろづに思ひける。
 
 あの尼君のもとから、母北の方におっしゃったことなどを、何度もそれとなく言ってよこすが、本気でお心がとまるように思われないので、ただ、そんなにまでお探してご存知になったこと、というぐらいにおもしろく思って、ご身分が今の世ではめったにないようなのにつけても、人並みの身分であったら、などといろいろと思うのであった。
 
   守の子どもは、母亡くなりにけるなど、あまた、この腹にも、姫君とつけてかしづくあり、まだ幼きなど、すぎすぎに五、六人ありければ、さまざまにこの扱ひをしつつ、異人と思ひ隔てたる心のありければ、常にいとつらきものに守をも恨みつつ、「いかでひきすぐれて、おもだたしきほどにしなしても見えにしがな」と、明け暮れ、この母君は思ひ扱ひける。
 
 常陸介の子供は、母親が亡くなった者など、大勢いて、今の母腹にも、姫君と名づけて大切にする者があり、まだ幼い者など、次々に五、六人いたので、いろいろと子供の世話をしながら、連れ子と思い隔てる気持ちがあったので、いつもとてもつらいと介を恨みながら、「何とかすぐれて、晴れがましいところに縁づけたい」と、明け暮れ、この母君は思い世話をしていたのであった。
 
   さま容貌の、なのめに、とりまぜてもありぬべくは、いとかうしも何かは苦しきまでももてなやまじ、同じごと思はせてもありぬべき世を、ものにも混じらず、あはれにかたじけなく生ひ出でたまへば、あたらしく心苦しき者に思へり。
 
 容姿や器量が、並々で、他の娘たちと同じようなのであったら、とてもこんなにまでどうして苦しいまでに悩んだりしようか、皆と同じように思わせてもよいものを、誰にも似ず、何とももったいなくもお生まれになったので、もったいなくおいたわしい人と思っていた。
 
   娘多かりと聞きて、なま君達めく人びとも、おとなひ言ふ、いとあまたありけり。
 初めの腹の二、三人は、皆さまざまに配りて、大人びさせたり。
 今はわが姫君を、「思ふやうにて見たてまつらばや」と、明け暮れ護りて、なでかしづくこと限りなし。
 
 娘が多いと聞いて、なまじ公達めいた人びとも、恋文を送り言い寄るのが、たいそう大勢いるのであった。
 先妻の腹の二、三人は、皆それぞれに縁づけて、一人前にさせていた。
 今は自分の姫君を、「思い通りにお世話申したい」と、朝から晩まで気をつけて、大切にお世話することこの上ない。
 
 
 

第二段 継父常陸介と求婚者左近少将

 
   守も卑しき人にはあらざりけり。
 上達部の筋にて、仲らひもものきたなき人ならず、徳いかめしうなどあれば、ほどほどにつけては思ひ上がりて、家の内もきらきらしく、ものきよげに住みなし、事好みしたるほどよりは、あやしう荒らかに田舎びたる心ぞつきたりける。
 
 常陸介も卑しい人ではなかったのだ。
 上達部の血筋を引いて、一門の人びとも見苦しい人でなく、財力など大変に有ったので、身分相応に気位高くて、邸の内も輝くように美しく、こざっぱりと生活し、風流を好むわりには、妙に荒々しく田舎人めいた性情もついていたのであった。
 
   若うより、さる東方の、遥かなる世界に埋もれて年経ければにや、声などほとほとうちゆがみぬべく、ものうち言ふ、すこしたみたるやうにて、豪家のあたり恐ろしくわづらはしきものに憚り懼ぢ、すべていとまたく隙間なき心もあり。
 
 若くから、そのような東国の方の、遥か遠い世界に埋もれて長年過ごしてきたせいか、声などもほとんど田舎風になって、何か言うと、すこし訛りがあるようで、権勢家のあたりを恐ろしく厄介なものと気兼ねし恐がって、すべての面で実に抜け目ない心がある。
 
   をかしきさまに琴笛の道は遠う、弓をなむいとよく引ける。
 なほなほしきあたりともいはず、勢ひに引かされて、よき若人ども、装束ありさまはえならず調へつつ、腰折れたる歌合せ、物語、庚申をし、まばゆく見苦しく、遊びがちに好めるを、この懸想の君達、
 風雅な方面の琴や笛の芸道には疎遠で、弓をたいそう上手に引くのであった。
 身分の低い家柄を問題にせず、財力につられて、よい若い女房連中が、衣装や身なりは素晴らしく整えて、下手な歌合せや、物語、庚申待ちをし、まぶしいほど見苦しく、遊び事に風流めかしているのを、この懸想の公達は、
   「らうらうじくこそあるべけれ。
 容貌なむいみじかなる」
 「才たけているにちがいない。
 器量も大変なものらしい」
   など、をかしき方に言ひなして、心を尽くし合へる中に、左近少将とて、年二十二、三ばかりのほどにて、心ばせしめやかに、才ありといふ方は、人に許されたれど、きらきらしう今めいてなどはえあらぬにや、通ひし所なども絶えて、いとねむごろに言ひわたりけり。
 
 などと、素晴らしいように言い作って、恋心を尽くしあっている中で、左近少将といって、年は二十二、三歳くらいで、性格が落ち着いていて、学問があるという点では、誰からも認められていたが、きらきらしく派手にはしていなかったのか、通っていた妻とも縁が切れて、たいそう熱心に言い寄って来るのであった。
 
   この母君、あまたかかること言ふ人びとの中に、  この母君は、大勢このようなことを言って来る人びとの中で、
   「この君は、人柄もめやすかなり。
 心定まりてももの思ひ知りぬべかなるを、人もあてなりや。
 これよりまさりて、ことことしき際の人はた、かかるあたりを、さいへど、尋ね寄らじ」
 「この君は、人柄も無難である。
 思慮もしっかりしていて分別がありそうだし、人品も卑しくないな。
 この人以上の、立派な身分の人はまた、このようなあたりを、そうはいっても、探し求めて来るまい」
   と思ひて、この御方に取りつぎて、さるべき折々は、をかしきさまに返り事などせさせたてまつる。
 心一つに思ひまうく。
 
 と思って、この御方に取り次いで、適当な折々には、結構なように返事などをおさせ申し上げる。
 自分独りで心用意する。
 
   「守こそおろかに思ひなすとも、我は命を譲りてかしづきて、さま容貌のめでたきを見つきなば、さりとも、おろかになどは、よも思ふ人あらじ」  「常陸介はいいかげんに思うとも、自分は命に代えて大切に世話し、容姿器量の素晴らしいのを見たならば、そうはいっても、いいかげんにまどは、けっして思う人はいまい」
   と思ひ立ち、八月ばかりと契りて、調度をまうけ、はかなき遊びものをせさせても、さまことにやうをかしう、蒔絵、螺鈿のこまやかなる心ばへまさりて見ゆるものをば、この御方にと取り隠して、劣りのを、  と決心して、八月ぐらいにと約束して、調度を準備し、ちょっとした遊び道具を作らせても、恰好は格別に美しく、蒔絵、螺鈿のこまやかな趣向がすぐれて見える物を、この御方のために隠し置いて、劣った物を、
   「これなむよき」  「これが結構です」
   とて見すれば、守はよくしも見知らず、そこはかとない物どもの、人の調度といふ限りは、ただとり集めて並べ据ゑつつ、目をはつかにさし出づるばかりにて、琴、琵琶の師とて、内教坊のわたりより迎へ取りつつ習はす。
 
 と言って見せると、常陸介はよくも分からず、これといった価値のない物どもで、世間でいう調度類という調度は、すべて集めて部屋中いっぱいに並べ据えて、目をわずかに覗かせるくらいで、琴、琵琶の師匠として、内教坊のあたりから迎え迎えして習わせる。
 
   手一つ弾き取れば、師を立ち居拝みてよろこび、禄を取らすること、埋むばかりにてもて騒ぐ。
 はやりかなる曲物など教へて、師と、をかしき夕暮などに、弾き合はせて遊ぶ時は、涙もつつまず、をこがましきまで、さすがにものめでしたり。
 かかることどもを、母君は、すこしもののゆゑ知りて、いと見苦しと思へば、ことにあへしらはぬを、
 一曲習得すると、師匠を立ったり座ったり拝んでお礼申し上げ、謝礼を与えることは、それで埋まるほどに啄騒ぎする。
 調子の早い曲などを教えて、師匠と一緒に、美しい夕暮時などに、合奏して遊ぶときは、涙も隠さず、馬鹿馬鹿しいまでに、それほど感動していた。
 このようなことを、母君は、少しは物事を知っていて、とても見苦しいと思うので、特に相手にしないのを、
   「吾子をば、思ひ落としたまへり」  「わが娘を、馬鹿にしておられる」
   と、常に恨みけり。
 
 と、いつも恨んでいるのであった。
 
 
 

第三段 左近少将、浮舟が継子だと知る

 
   かくて、この少将、契りしほどを待ちつけで、「同じくは疾く」とせめければ、わが心一つに、かう思ひ急ぐも、いとつつましう、人の心の知りがたさを思ひて、初めより伝へそめける人の来たるに、近う呼び寄せて語らふ。
 
 こうして、あの少将は、約束した月を待たないで、「同じことなら早く」と催促したので、自分の考え一つで、このように急ぐのも、たいそう気がひけて、相手の心の知りにくいことを思って、初めから取り次いだ人が来たので、近くに呼んで相談する。
 
   「よろづ多く思ひ憚ることの多かるを、月ごろかうのたまひてほど経ぬるを、並々の人にもものしたまはねば、かたじけなう心苦しうて。
 かう思ひ立ちにたるを、親などものしたまはぬ人なれば、心一つなるやうにて、かたはらいたう、うちあはぬさまに見えたてまつることもやと、かねてなむ思ふ。
 
 「いろいろと気兼ねすることがありますが、何か月もこのようにおっしゃって月日がたったが、平凡な身分の方でもいらっしゃらないので、もったいなくお気の毒で。
 このように決心しましたが、父親などもいらっしゃらない娘なので、自分一人の考えのようで、はた目にも見苦しく、行き届かない点がありましょうかと、今から心配しています。
 
   若き人びとあまたはべれど、思ふ人具したるは、おのづからと思ひ譲られて、この君の御ことをのみなむ、はかなき世の中を見るにも、うしろめたくいみじきを、もの思ひ知りぬべき御心ざまと聞きて、かうよろづのつつましさを忘れぬべかめるをしも、もし思はずなる御心ばへも見えば、人笑へに悲しうなむ」  若い娘たちは大勢いますが、世話する父親がいる者は、自然と何とかなろうと任せる気になりまして、この姫君のことばかりが、はかないこの世を見るにつけても、不安でたまらないので、物の情理を弁えるお方と聞いて、このようにいろいろと遠慮を忘れてしまいそうなのも、もし意外なお気持ちが見えたら、物笑いにになって悲しいことでしょう」
   と言ひけるを、少将の君に参うでて、  と言ったのを、少将の君のもとに参って、
   「しかしかなむ」  「これこれしかじかでした」
   と申しけるに、けしき悪しくなりぬ。
 
 と申したところ、機嫌が悪くなった。
 
   「初めより、さらに、守の御娘にあらずといふことをなむ聞かざりつる。
 同じことなれど、人聞きもけ劣りたる心地して、出で入りせむにもよからずなむあるべき。
 ようも案内せで、浮かびたることを伝へける」
 「初めから、全然、介の娘でないということを聞かなかった。
 同じ結婚であるが、人聞きも劣った気がして、出入りするにも良くないことであろう。
 詳しく調べもしないで、いいかげんなことを伝えて」
   とのたまふに、いとほしくなりて、  とおっしゃるので、困りきって、
   「詳しくも知りたまへず。
 女どもの知るたよりにて、仰せ言を伝へ始めはべりしに、中にかしづく娘とのみ聞きはべれば、守のにこそは、とこそ思ひたまへつれ。
 異人の子持たまへらむとも、問ひ聞きはべらざりつるなり。
 
 「詳しくは存じませんでした。
 女房連中の知り合いのつてで、お願いを伝え始めたのでしたが、娘たちの中で大切にお世話している娘とばかり聞きましたので、介の娘であろうと存じました。
 他人の娘を連れておいでだったとは、尋ねませんでした。
 
   容貌、心もすぐれてものしたまふこと、母上のかなしうしたまひて、おもだたしう気高きことをせむと、あがめかしづかると聞きはべりしかば、いかでかの辺のこと伝へつべからむ人もがな、とのたまはせしかば、さるたより知りたまへりと、取り申ししなり。
 さらに、浮かびたる罪、はべるまじきことなり」
 器量や、気立てもすぐれていらっしゃることは、母上がかわいがっていらっしゃって、晴れがましく面目のたつようにしようと、大切にお育てしていると聞いておりましたので、何とかあの介の家と縁組を取り持ってくれる人がいないものか、とおっしゃいましたので、あるつてを存じておりますと、申し上げたのです。
 まったく、いいかげんなという非難を、受けることはございませんはずです」
   と、腹悪しく言葉多かる者にて、申すに、君、いとあてやかならぬさまにて、  と、腹黒く口数の多い者で、こう申すので、少将の君は、大して上品でない様子で、
   「かやうのあたりに行き通はむ、人のをさをさ許さぬことなれど、今様のことにて、咎あるまじう、もてあがめて後見だつに、罪隠してなむあるたぐひもあめるを、同じこととうちうちには思ふとも、よそのおぼえなむ、へつらひて人言ひなすべき。
 
 「あのような受領ふぜいの家に通って行くのは、誰も良いことだとは認めないことだが、当節よくあることで、咎めもあるまいし、婿を大切に世話するので、欠点を隠している例もあるようだが、実の娘と同じように内々では思っても、世間の思惑は、追従しているように人は言うであろう。
 
   源少納言、讃岐守などの、うけばりたるけしきにて出で入らむに、守にもをさをさ受けられぬさまにて交じらはむなむ、いと人げなかるべき」  源少納言や、讃岐守などが、威張った感じで出入りするのに、常陸介からも少しも認められずに婿入りするのは、実に不面目であろう」
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
 
 

第四段 左近少将、常陸介の実娘を所望す

 
   この人、追従あるうたてある人の心にて、これをいと口惜しう、こなたかなたに思ひければ、  この仲人は、人に追従する嫌なところのある性質の人なので、これをとても残念に、相手方とこちら方とに思ったので、
   「まことに守の娘と思さば、まだ若うなどおはすとも、しか伝へはべらむかし。
 中にあたるなむ、姫君とて、守、いとかなしうしたまふなる」
 「実の介の娘をとお思いならば、まだ若くていらっしゃるが、そのようにお伝え申しましょう。
 妹にあたる娘を、姫君として、常陸介は、たいそうかわいがっていらっしゃるそうです」
   と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
   「いさや。
 初めよりしか言ひ寄れることをおきて、また言はむこそうたてあれ。
 されど、わが本意は、かの守の主の、人柄もものものしく、大人しき人なれば、後見にもせまほしう、見るところありて思ひ始めしことなり。
 もはら顔、容貌のすぐれたらむ女の願ひもなし。
 品あてに艶ならむ女を願はば、やすく得つべし。
 
 「さあね。
 初めからあのように申し込んでいたことをおいて、別の娘に申し込むのも嫌な気がする。
 けれど、自分の願いは、あの常陸介の、人柄も堂々として、老成している人なので、後見人ともしたく、考えるところがあって思い始めたことなのだ。
 もっぱら器量や、容姿のすぐれている女の希望もない。
 上品で優美な女を望むなら、簡単に得られよう。
 
   されど、寂しうことうち合はぬ、みやび好める人の果て果ては、ものきよくもなく、人にも人ともおぼえたらぬを見れば、すこし人にそしらるとも、なだらかにて世の中を過ぐさむことを願ふなり。
 守に、かくなむと語らひて、さもと許すけしきあらば、何かは、さも」
 けれど、物寂しく不如意でいて、風雅を好む人の最後は、みすぼらしい暮らしで、人から人とも思われないのを見ると、少し人から馬鹿にされようとも、平穏に世の中を過ごしたいと願うのである。
 介に、このように話して、そのように認める様子があったら、何の、かまうものか」
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
 
 

第五段 常陸介、左近少将に満足す

 
   この人は、妹のこの西の御方にあるたよりに、かかる御文なども取り伝へはじめけれど、守には詳しくも見え知られぬ者なりけり。
 ただ行きに、守の居たりける前に行きて、
 この仲人は、妹がこの西の御方に仕えているのをつてにして、このようなお手紙なども取り次ぎ始めたが、常陸介からは詳しく知られていない者なのであった。
 ただずかずかと、介の座っている前に出て行って、
   「とり申すべきことありて」  「申し上げねばならないことがあります」
   など言はす。
 守、
 などと言わせる。
 介は、
   「このわたりに時々出で入りはすと聞けど、前には呼び出でぬ人の、何ごと言ひにかあらむ」  「この家に時々出入りしているとは聞くが、前には呼び出さない人が、何事を言うのであろうか」
   と、なま荒々しきけしきなれど、  と、どこか荒々しい様子であるが、
   「左近少将殿の御消息にてなむさぶらふ」  「左近少将殿からのお手紙でございます」
   と言はせたれば、会ひたり。
 語らひがたげなる顔して、近うゐ寄りて、
 と言わせたので、会った。
 話し出しにくそうな顔をして、近くに座り寄って、
   「月ごろ、内の御方に消息聞こえさせたまふを、御許しありて、この月のほどにと契りきこえさせたまふことはべるを、日をはからひて、いつしかと思すほどに、ある人の申しけるやう、  「ここ幾月も、御内儀の御方にお便りを差し上げなさっていましたが、お許しがあって、今月にとお約束申し上げなさったことがございましたが、吉日を選んで、早くとお考えのうちに、ある人が申したことには、
   『まことに北の方の御はからひにものしたまへど、守の殿の御娘にはおはせず。
 君達のおはし通はむに、世の聞こえなむへつらひたるやうならむ。
 受領の御婿になりたまふかやうの君達は、ただ私の君のごとく思ひかしづきたてまつり、手に捧げたるごと、思ひ扱ひ後見たてまつるにかかりてなむ、さる振る舞ひしたまふ人びとものしたまふめるを、さすがにその御願ひはあながちなるやうにて、をさをさ受けられたまはで、け劣りておはし通はむこと、便なかりぬべきよし』
 『確かに北の方のご計画ではあるが、常陸介様の御娘さまではいらっしゃらない。
 良家のご子息がお通いになるには、世間の評判も追従しているようであろう。
 受領の婿殿におなりになるこのような公達は、ただ私的な主君のように大切にされて、手に持った玉のように、大事にご後見申されることによって、そのような縁組を結びなさる人びともいらっしゃるようですが、やはりその願いは無理なようなので、少しも婿として承知していただけず、劣った扱いでお通いになることは、不都合なこと』
   をなむ、切にそしり申す人びとあまたはべるなれば、ただ今思しわづらひてなむ。
 
 だと、しきりに申す人びとが大勢ございますようなので、ただ今お困りになっています。
 
   『初めよりただきらぎらしう、人の後見と頼みきこえむに、堪へたまへる御おぼえを選び申して、聞こえ始め申ししなり。
 さらに、異人ものしたまふらむといふこと知らざりければ、もとの心ざしのままに、まだ幼きものあまたおはすなるを、許いたまはば、いとどうれしくなむ。
 御けしき見て参うで来』
 『初めからただ威勢がよく、後見者としてお頼り申すのに、十分でいらっしゃるご評判をお選び申して、求婚しは始めたのです。
 まったく、他人の娘がいらっしゃるということは知らなかったので、最初の希望通りに、まだ幼い娘も大勢いらっしゃるというのを、お許しくださったら、ますます嬉しい。
 ご機嫌を伺って来るように』
   と仰せられつれば」  と命じられましたので」
   と言ふに、守、  と言うと、介は、
   「さらに、かかる御消息はべるよし、詳しく承らず。
 まことに同じことに思うたまふべき人なれど、よからぬ童べあまたはべりて、はかばかしからぬ身に、さまざま思ひたまへ扱ふほどに、母なる者も、これを異人と思ひ分けたることと、くねり言ふことはべりて、ともかくも口入れさせぬ人のことにはべれば、ほのかに、しかなむ仰せらるることはべりとは聞きはべりしかど、なにがしを取り所に思しける御心は、知りはべらざりけり。
 
 「まったく、そのようなお便りがございますこと、詳しく存じませんでした。
 ほんとうに実の娘と同じように存じている人ですが、よろしくない娘どもが大勢おりまして、大したことでもないわが身で、いろいろとお世話申し上げて来たところ、母にあたる者も、わたしがこの娘を自分の娘と分け隔てしていると、僻んで言うことがありまして、何とも口出しさせない人のことでございましたので、ちらっと、そのようにおっしゃったということは聞きましたが、わたしを期待してお思いになっていたお心がありましたとは、存じませんでした。
 
   さるは、いとうれしく思ひたまへらるる御ことにこそはべるなれ。
 いとらうたしと思ふ女の童は、あまたの中に、これをなむ命にも代へむと思ひはべる。
 のたまふ人びとあれど、今の世の人の御心、定めなく聞こえはべるに、なかなか胸いたき目をや見むの憚りに、思ひ定むることもなくてなむ。
 
 それは、実に嬉しく存じられることでございます。
 たいそうかわいいと思う幼い娘は、大勢の娘たちの中で、この子を命に代えてもよいと思っております。
 求婚なさる方々はいるが、今の世の中の人の心は、頼りないと聞いておりますので、かえって胸を痛めることになろうかと遠慮され、決心することもございませんでした。
 
   いかでうしろやすくも見たまへおかむと、明け暮れかなしく思うたまふるを、少将殿におきたてまつりては、故大将殿にも、若くより参り仕うまつりき。
 家の子にて見たてまつりしに、いと警策に、仕うまつらまほしと、心つきて思ひきこえしかど、遥かなる所に、うち続きて過ぐしはべる年ごろのほどに、うひうひしくおぼえはべりてなむ、参りも仕まつらぬを、かかる御心ざしのはべりけるを。
 
 何とか安心な状態にしておきたいと、明け暮れかわいく存じておりましたが、少将殿におかれましては、亡き大将殿にも、若い時からお仕えしてまいりました。
 家来として拝見しましたが、たいそう人物が立派なので、お仕え申したいと、お慕い申し上げて来ましたが、遠国に、引き続いて過ごして来ました何年もの間に、お会いするのも恥ずかしく思われまして、参上してお仕えしませんでしたが、このようなお気持ちがございましたとは。
 
   返す返す、仰せの事たてまつらむはやすきことなれど、月ごろの御心違へたるやうに、この人、思ひたまへむことをなむ、思うたまへ憚りはべる」  返し返すも、仰せの通り差し上げますことはたやすいことですが、今までのお考えに背いたように、わが妻が、思いますことが、気がかりに存じられるのです」
   と、いとこまやかに言ふ。
 
 と、たいそうこまごまと言う。
 
 
 

第六段 仲人、左近少将を絶賛す

 
   よろしげなめりと、うれしく思ふ。
 
 うまく行きそうだと、嬉しく思う。
 
   「何かと思し憚るべきことにもはべらず。
 かの御心ざしは、ただ一所の御許しはべらむを願ひ思して、『いはけなく年足らぬほどにおはすとも、真実のやむごとなく思ひおきてたまへらむをこそ、本意叶ふにはせめ。
 もはらさやうのほとりばみたらむ振る舞ひすべきにもあらず』と、なむのたまひつる。
 
 「何やかやと気づかいなさることはございません。
 あの方のお気持ちは、ただあなたお一方のお許しがございますことを願っておいでで、『子供っぽくまだ幼くいらっしゃっても、実の娘で大切に思っていらっしゃる娘こそが、希望に叶うように思うのです。
 まったくあのような回りの話には乗るべきでない』と、おっしゃいました。
 
   人柄はいとやむごとなく、おぼえ心にくくおはする君なりけり。
 若き君達とて、好き好きしくあてびてもおはしまさず、世のありさまもいとよく知りたまへり。
 領じたまふ所々もいと多くはべり。
 まだころの御徳なきやうなれど、おのづからやむごとなき人の御けはひのありげなるやう、直人の限りなき富といふめる勢ひには、まさりたまへり。
 来年、四位になりたまひなむ。
 こたみの頭は疑ひなく、帝の御口づからごてたまへるなり。
 
 人柄はたいそう立派で、評判は大した方でいらっしゃる公達です。
 若い公達といっても、好色がましく上品ぶっていらっしゃらず、世間の実情もよくご存知でいらっしゃいます。
 所有するご荘園もたいそうたくさんあります。
 今はまだ大したご威勢でないようですが、自然と高貴な人の雰囲気が備わっているように、普通の人の莫大な財産というような威勢には、まさっていらっしゃいます。
 来年は、四位におなりになろう。
 今度の蔵人頭への任官は疑いなく、帝が直におっしゃったものです。
 
   『よろづのこと足らひてめやすき朝臣の、妻をなむ定めざなる。
 はやさるべき人選りて、後見をまうけよ。
 上達部には、我しあれば、今日明日といふばかりになし上げてむ』とこそ仰せらるなれ。
 何事も、ただこの君ぞ、帝にも親しく仕うまつりたまふなる。
 
 『何事にわたって申し分なく結構な朝臣が、妻を持っていないという。
 早く適当な人を選んで、後見人を設けなさい。
 上達部には、わたしがいるので、今日明日にでもして上げよう』と仰せになったと言います。
 どのような事も、ただこの君は、帝にも親しくお仕え申し上げていらっしゃると言います。
 
   御心はた、いみじう警策に、重々しくなむおはしますめる。
 あたら人の御婿を。
 かう聞きたまふほどに、思ほし立ちなむこそよからめ。
 かの殿には、我も我も婿にとりたてまつらむと、所々にはべるなれば、ここにしぶしぶなる御けはひあらば、他ざまにも思しなりなむ。
 これ、ただうしろやすきことをとり申すなり」
 お考えはまた、たいそう立派で、重々しくいらっしゃるようです。
 もったいなくも立派な婿殿よ。
 このようにお聞きになるうちに、ご決心なさるのがよいことでしょう。
 あの殿には、われもわれもと婿にお迎え申したいと、あちこちに話がございますので、こちらで渋っているご様子があったら、他のところにお決まりになりましょう。
 わたしは、ただ安心な縁談を申し上げるだけです」
   と、いと多く、よげに言ひ続くるに、いとあさましく鄙びたる守にて、うち笑みつつ聞きゐたり。
 
 と、たいそう言葉多く、うまそうに言い続けるので、まことにあきれるほど田舎人めいた介なので、にっこりして聞いていた。
 
 
 

第七段 左近少将、浮舟から常陸介の実娘にのり換える

 
   「このころの御徳などの心もとなからむことは、なのたまひそ。
 なにがし命はべらむほどは、頂に捧げたてまつりてむ。
 心もとなく、何を飽かぬとか思すべき。
 たとひあへずして仕うまつりさしつとも、残りの宝物、領じはべる所々、一つにてもまた取り争ふべき人なし。
 
 「ただ今のご収入などが少ないことなどは、おっしゃいますな。
 わたしが生きている間は、頭上にも戴き申し上げよう。
 気がかりに、何を不足とお思いになることがあろう。
 たとい寿命が尽きて中途でお仕えすることができなくなってしまったとしても、遺産の財宝や、所有していている領地など、一つとして他に争う者はいません。
 
   子ども多くはべれど、これはさま異に思ひそめたる者にはべり。
 ただ真心に思し顧みさせたまはば、大臣の位を求めむと思し願ひて、世になき宝物をも尽くさむとしたまはむに、なきものはべるまじ。
 
 子供は多くいますが、この娘は特別にかわいがっていた者でございます。
 ただ誠意をもってお情けをかけてくださいましたら、大臣の地位を手に入れようとお考えになって、世にない財宝を使い尽くそうとなさっても、無い物はございません。
 
   当時の帝、しか恵み申したまふなれば、御後見は心もとなかるまじ。
 これ、かの御ためにも、なにがしが女の童のためにも、幸ひとあるべきことにやとも知らず」
 今上の帝が、あのように引き立てなさるというのであれば、ご後見は不安なことはあるまい。
 この縁談は、あの方のためにも、わたしの娘のためにも、幸福なことになるかも知れません」
   と、よろしげに言ふ時に、いとうれしくなりて、妹にもかかることありとも語らず、あなたにも寄りつかで、守の言ひつることを、「いともいともよげにめでたし」と思ひて聞こゆれば、君、「すこし鄙びてぞある」とは聞きたまへど、憎からず、うち笑みて聞きゐたまへり。
 大臣にならむ贖労を取らむなどぞ、あまりおどろおどろしきことと、耳とどまりける。
 
 と、結構なように言うときに、実に嬉しくなって、仲人の妹にもこのような話があったとは話さず、あちらにも寄りつかないで、常陸介の言ったことを、「まことにたいそう結構な話だ」と思って申し上げるので、少将の君は、「少し田舎者めいている」とお聞きになったが、憎くは思わず、ほほ笑んで聞いていらっしゃった。
 大臣になるための物資を調達するなどと、あまりに大げさなことだと、耳が止まるのだった。
 
   「さて、かの北の方には、かくとものしつや。
 心ざしことに思ひ始めたまへらむに、ひき違へたらむ、ひがひがしくねぢけたるやうにとりなす人もあらむ。
 いさや」
 「ところで、あの北の方には、このようになったとを伝えましたか。
 格別熱心に思い始めなさったので、変えたりするのは、間違った筋の通らないことのように取り沙汰する人もいるだろう。
 どんなものかしら」
   と思したゆたひたるを、  と躊躇なさっているのを、
   「何か。
 北の方も、かの姫君をば、いとやむごとなきものに思ひかしづきたてまつりたまふなりけり。
 ただ中のこのかみにて、年も大人びたまふを、心苦しきことに思ひて、そなたにとおもむけて申されけるなりけり」
 「どうしてそのようなことがありましょうか。
 北の方も、あの姫君を、たいそう大切にお世話申し上げていらっしゃるのです。
 ただ、姉妹の中で最年長で、年齢も成人していらっしゃるのを、気の毒に思って、結婚をと考えて申されるのです」
   と聞こゆ。
 「月ごろは、またなく世の常ならずかしづくと言ひつるものの、うちつけにかく言ふもいかならむと思へども、なほ、一わたりはつらしと思はれ、人にはすこし誹らるとも、長らへて頼もしき事をこそ」と、いとまたくかしこき君にて、思ひ取りてければ、日をだにとり替へで、契りし暮れにぞ、おはし始めける。
 
 と申し上げる。
 「今までは、並々ならず大切にお世話していると言ったものの、急にこのように言うのもどんなものかしらと思うが、やはり、一度はつらいと恨まれ、人からも少しは非難されようとも、長い目で見れば頼りになることこそ大切だ」と、実に抜け目ないしっかりした方なので、決心してしまったので、その日まで変えずに、約束した夕方に、お通い始めなさったのだった。
 
 
 

第八段 浮舟の縁談、破綻す

 
   北の方は、人知れずいそぎ立ちて、人びとの装束せさせ、しつらひなどよしよししうしたまふ。
 御方をも、頭洗はせ、取りつくろひて見るに、少将などいふほどの人に見せむも、惜しくあたらしきさまを、
 北の方は、誰にも知られず準備して、女房たちの衣装を新調させ、飾りつけなど風流になさる。
 御方にも、髪を洗わせ、身繕いさせて見ると、少将などという程度の人に結婚させるのも、惜しくもったいないようなのを、
   「あはれや。
 親に知られたてまつりて生ひ立ちたまはましかば、おはせずなりにたれども、大将殿ののたまふらむさまに、おほけなくとも、などかは思ひ立たざらまし。
 されど、うちうちにこそかく思へ、他の音聞きは、守の子とも思ひ分かず、また、実を尋ね知らむ人も、なかなか落としめ思ひぬべきこそ悲しけれ」
 「お気の毒に。
 父親に認知していただいてお育ちになったならば、お亡くなりになったとしても、大将殿がおっしゃるようにも、分不相応だが、どうして思い立たないことがあろうか。
 けれども、内心ではこう思っても、世間の評判では、常陸介の娘と区別せずに、また、真実を知った人でも、かえって認知してもらえなかったゆえに見下すであろうことが悲しい」
   など、思ひ続く。
 
 などと、思い続ける。
 
   「いかがはせむ。
 盛り過ぎたまはむもあいなし。
 卑しからず、めやすきほどの人の、かくねむごろにのたまふめるを」
 「どうしたらよかろう。
 女盛りをお過ぎになるのもつまらない。
 身分の低くない、無難な人が、このように熱心に求婚なさっているようだから」
   など、心一つに思ひ定むるも、媒のかく言よくいみじきに、女はましてすかされたるにやあらむ。
 明日明後日と思へば、心あわたたしくいそがしきに、こなたにも心のどかに居られたらず、そそめきありくに、守外より入り来て、ながながと、とどこほるところもなく言ひ続けて、
 などと、自分の考え一つで決めてしまうのも、仲人のこのような言葉巧みに大変なものだから、女はそれ以上にだまされたのだろうか。
 婚儀が明日明後日と思うと、心が落ち着かず気がせくので、こちらでものんびりとしていられず、そわそわと歩いていると、常陸介が外から入って来て、長々と、つかえるところもなく話し続けて、
   「我を思ひ隔てて、吾子の御懸想人を奪はむとしたまひける、おほけなく心幼きこと。
 めでたからむ御娘をば、要ぜさせたまふ君達あらじ。
 卑しく異やうならむなにがしらが女子をぞ、いやしうも尋ねのたまふめれ。
 かしこく思ひ企てられけれど、もはら本意なしとて、他ざまへ思ひなりたまふべかなれば、同じくはと思ひてなむ、さらば御心、と許し申しつる」
 「わたしを分け隔てして、わたしの実の娘のお婿殿を横取りしようとなさったのが、分不相応なあさはかなことだ。
 立派そうなあなたの娘を、お求あそばす公達はいらっしゃるまい。
 身分低くみっともないわたくしめの娘を、かりそめにも求婚なさるようだ。
 結構に計画立てられたが、全然その気がないと、他家の婿になろうとお考えになってしまうようなので、同じことならと思って、それでは実娘を、とお許し申したのです」
   など、あやしく奥なく、人の思はむところも知らぬ人にて、言ひ散らしゐたり。
 
 などと、妙に無頓着で、相手の気持ちも考えない人で、言いまくっていた。
 
   北の方、あきれて物も言はれで、とばかり思ふに、心憂さをかき連ね、涙も落ちぬばかり思ひ続けられて、やをら立ちぬ。
 
 北の方は、驚きあきれて何も言うことができないで、しばらく思い沈んでいたが、つらさが次から次へと浮かんで来て、涙もこぼれ落ちそうに思い続けて、そっと立った。
 
 
 

第二章 浮舟の物語 京に上り、匂宮夫妻と左近少将を見比べる

 
 

第一段 浮舟の母と乳母の嘆き

 
   こなたに渡りて見るに、いとらうたげにをかしげにて居たまへるに、「さりとも、人には劣りたまはじ」とは思ひ慰む。
 乳母と二人、
 こちらに来てみると、たいそうかわいらしい様子で座っていらっしゃるので、「不縁になったとはいっても、誰にもお負けになるまい」と気持ちを慰める。
 乳母と二人で、
   「心憂きものは人の心なりけり。
 おのれは、同じごと思ひ扱ふとも、この君のゆかりと思はむ人のためには、命をも譲りつべくこそ思へ、親なしと聞きあなづりて、まだ幼くなりあはぬ人を、さし越えて、かくは言ひなるべしや。
 
 「いやなものは人の心ですこと。
 わたくしは、同じようにお世話していても、この姫君が婿殿と思うお方のためには、命に代えてもと思っても、父親がいないと聞いて馬鹿にし、まだ十分に成人していない妹を、姉をさしおいて、このように言うものでしょうか。
 
   かく心憂く、近きあたりに見じ聞かじと思ひぬれど、守のかくおもだたしきことに思ひて、受け取り騒ぐめれば、あひあひにたる世の人のありさまを、すべてかかることに口入れじと思ふ。
 いかでここならぬ所に、しばしありにしがな」
 こんなに情けない、同じ家の中で見まい聞くまいと思っていたが、介がこのように面目がましいことと思って、承知して騒いでいるようなので、どちらもお似合いの様子なので、いっさいこの話には口を入れまいと思います。
 何とかここではない所で、しばらく暮らしたいものだ」
   とうち嘆きつつ言ふ。
 乳母もいと腹立たしく、「わが君をかく落としむること」と思ふに、
 と泣きながら言う。
 乳母もひどく腹が立って、「自分の主人をこのように見下していること」と思うと、
   「何か、これも御幸ひにて違ふこととも知らず。
 かく心口惜しくいましける君なれば、あたら御さまをも見知らざらまし。
 わが君をば、心ばせあり、もの思ひ知りたらむ人にこそ、見せたてまつらまほしけれ。
 
 「なあに、これもご幸運なことで破談になったのかも知れません。
 あのように情けない方でいらっしゃるのだから、もったいない姫君の美しいご様子をご存知ないのでしょう。
 大事な姫君は、思慮もあり、道理の分かる方にこそ、差し上げたいものです。
 
   大将殿の御さま容貌の、ほのかに見たてまつりしに、さも命延ぶる心地のしはべりしかな。
 あはれにはた聞こえたまふなり。
 御宿世にまかせて、思し寄りねかし」
 大将殿のお姿や器量を、ちらっと拝見しましたが、ほんとうに寿命が延びるような気持ちしましたね。
 嬉しいことにお世話申し上げたいとおっしゃっています。
 ご運勢にまかせて、そのようにお決めなさいまし」
   と言へば、  と言うと、
   「あな、恐ろしや。
 人の言ふを聞けば、年ごろ、おぼろけならむ人をば見じとのたまひて、右の大殿、按察使大納言、式部卿宮などの、いとねむごろにほのめかしたまひけれど、聞き過ぐして、帝の御かしづき女を得たまへる君は、いかばかりの人かまめやかには思さむ。
 
 「まあ、恐ろしいこと。
 人の言うことを聞くと、長年、並大抵の女とは結婚しまいとおっしゃって、右の大殿や按察使大納言、式部卿宮などが、とても熱心にお申し込みなさったが、聞き流して、帝が大切にしている姫宮を得なさった君は、どれほどの人を熱心にお思いになりましょうか。
 
   かの母宮などの御方にあらせて、時々も見むとは思しもしなむ、それはた、げにめでたき御あたりなれども、いと胸痛かるべきことなり。
 宮の上の、かく幸ひ人と申すなれど、もの思はしげに思したるを見れば、いかにもいかにも、二心なからむ人のみこそ、めやすく頼もしきことにはあらめ。
 わが身にても知りにき。
 
 あの母宮などのお側におかせて、時々は会おうとはお思いになろうが、それもまた、なるほど結構なお所ですが、とても胸の痛いことです。
 宮の上が、このように幸い人と申し上げるようだが、物思いがちにいらっしゃるのを見ると、いかにもいかにも、二心のない人だけが、安心で信頼できることでしょう。
 自分の体験でも分かりました。
 
   故宮の御ありさまは、いと情け情けしく、めでたくをかしくおはせしかど、人数にも思さざりしかば、いかばかりかは心憂くつらかりし。
 このいと言ふかひなく、情けなく、さま悪しき人なれど、ひたおもむきに二心なきを見れば、心やすくて年ごろをも過ぐしつるなり。
 
 故宮のご様子は、とても情愛があって、素晴らしく好感が持てるお方でしたが、人並みにもお思いくださらなかったので、どんなにかつらい思いをしたことか。
 この介はまことに取るに足らない、情けない、不恰好な人ですが、一途で二心のないのを見ると、気を揉むこともなく何年も過ごしてきたのです。
 
   をりふしの心ばへの、かやうに愛敬なく用意なきことこそ憎けれ、嘆かしく恨めしきこともなく、かたみにうちいさかひても、心にあはぬことをばあきらめつ。
 上達部、親王たちにて、みやびかに心恥づかしき人の御あたりといふとも、わが数ならでは甲斐あらじ。
 
 折々の仕打ちが、あのように癪な思いやりのないのが憎らしいが、嘆かわしく恨めしいこともなく、お互いに言い合っても、納得できないことははっきりさせました。
 上達部や、親王方で、優雅で心恥ずかしい方の所といっても、わたしのように一人前でない身分では詮のないことでしょう。
 
   よろづのこと、わが身からなりけりと思へば、よろづに悲しうこそ見たてまつれ。
 いかにして、人笑へならずしたてたてまつらむ」
 万事が、わが身分からであった思うと、何もかも悲しく拝見される。
 何とかして、物笑いにならないようにして差し上げよう」
   と語らふ。
 
 と相談する。
 
 
 

第二段 継父常陸介、実娘の結婚の準備

 
   守は急ぎたちて、  介は急いで準備して、
   「女房など、こなたにめやすきあまたあなるを、このほどは、あらせたまへ。
 やがて、帳なども新しく仕立てられためる方を、事にはかになりにためれば、取り渡し、とかく改むまじ」
 「女房など、こちらに無難な者が大勢いるので、当座の間、回してください。
 そのまま、帳台なども新調されたようなのをも、事情が急に変わったようなので、引っ越したり、あれこれ模様変えもしないことにしよう」
   とて、西の方に来て、立ち居、とかくしつらひ騒ぐ。
 めやすきさまにさはらかに、あたりあたりあるべき限りしたる所を、さかしらに屏風ども持て来て、いぶせきまで立て集めて、厨子二階など、あやしきまでし加へて、心をやりて急げば、北の方見苦しく見れど、口入れじと言ひてしかば、ただに見聞く。
 御方は、北面に居たり。
 
 と言って、西の対に来て、立ったり座ったりして、あれこれと準備に騒いでいる。
 体裁のよい様子にさっぱりとさせ、あちらこちらに必要な準備をすべて整えてあるところに、利口ぶって屏風類を持って来て、狭苦しいまでに立て並べて、厨子や二階棚など、妙なまで増やして、得意になって準備するので、北の方は見苦しいと思うが、口出しすまいと言ったので、ただ見聞きしている。
 御方は、北面に座っていた。
 
   「人の御心は、見知り果てぬ。
 ただ同じ子なれば、さりとも、いとかくは思ひ放ちたまはじとこそ思ひつれ。
 さはれ、世に母なき子は、なくやはある」
 「あなたのお気持ちは、すっかり分かりました。
 全く同じ娘なのだから、そうは言っても、まるでこんなには放っておかれまいと思っていました。
 まあよい、世間に母親のない子は、いないのだから」
   とて、娘を、昼より乳母と二人、撫でつくろひ立てたれば、憎げにもあらず、十五、六のほどにて、いと小さやかにふくらかなる人の、髪うつくしげにて小袿のほどなり、裾いとふさやかなり。
 これをいとめでたしと思ひて、撫でつくろふ。
 
 と言って、娘を、昼から乳母と二人で、念入りに装い立てたので、憎らしいところもなく、十五、六歳の年齢で、たいそう小柄でふっくらとした人で、髪は美しく小袿の長さで、裾はとてもふさやかである。
 この娘を実に素晴らしいと思って、念入りに装っている。
 
   「何か、人の異ざまに思ひ構へられける人をしも、と思へど、人柄のあたらしく、警策にものしたまふ君なれば、我も我もと、婿に取らまほしくする人の多かなるに、取られなむも口惜しくてなむ」  「何も、北の方があちらにと思っていた人をよりによって横取りしなくても、と思うが、少将の人柄がもったいなく、すぐれていらっしゃる公達なので、われもわれもと、婿に迎えたい人が多いらしいので、人に取られるのも残念である」
   と、かの仲人にはかられて言ふもいとをこなり。
 男君も、「このほどのいかめしく思ふやうなること」と、よろづの罪あるまじう思ひて、その夜も替へず来そめぬ。
 
 と、あの仲人にだまされて言うのもほんとうに愚かである。
 男君も、「今般の待遇が豪勢で申し分ないこと」と、何の支障もないように思って、その夜も改めず通い始めた。
 
 
 

第三段 浮舟の母、京の中君に手紙を贈る

 
   母君、御方の乳母、いとあさましく思ふ。
 ひがひがしきやうなれば、とかく見扱ふも心づきなければ、宮の北の方の御もとに、御文たてまつる。
 
 母君や、御方の乳母は、たいそうあきれて思う。
 ひがんでいるようなので、あれこれと婿の世話をするのも気にいらないので、宮の北の方の御もとに、お手紙を差し上げる。
 
   「そのこととはべらでは、なれなれしくやとかしこまりて、え思ひたまふるままにも聞こえさせぬを、つつしむべきことはべりて、しばし所変へさせむと思うたまふるに、いと忍びてさぶらひぬべき隠れの方さぶらはば、いともいともうれしくなむ。
 数ならぬ身一つの蔭に隠れもあへず、あはれなることのみ多くはべる世なれば、頼もしき方にはまづなむ」
 「特別のご用事がございませんでは、ご無礼かとご遠慮申しまして、思うままにはお便り差し上げませんでしたが、慎まねばならないことがございまして、暫く場所を変えさせたいと存じていましたが、とても人目につかないでいられる所がございましたら、とてもとても嬉しく存じます。
 人数にも入らないわが身一つでは庇護することもできず、気の毒なことばかりが多い世の中ですので、頼りになるお方にまずお願い申し上げました」
   と、うち泣きつつ書きたる文を、あはれとは見たまひけれど、「故宮の、さばかり許したまはでやみにし人を、我一人残りて、知り語らはむもいとつつましく、また見苦しきさまにて世にあぶれむも、知らず顔にて聞かむこそ心苦しかるべけれ。
 ことなることなくてかたみに散りぼはむも、亡き人の御ために見苦しかるべきわざ」を思しわづらふ。
 
 と、泣きながら書いた手紙を、しみじみと御覧になったが、「亡き父宮が、あれほどお許しにならずに終わった人を、自分一人が生き残って、親しく世話するのもたいそう気がひけるし、またみっともない恰好で世の中に落ちぶれているのを知らない顔をしているのも、いたわしいことだろう。
 特別なこともなくて、互いに散り散りになっているようなのも、亡き父宮のためにもみっともない事だ」と思案に暮れなさる。
 
   大輔がもとにも、いと心苦しげに言ひやりたりければ、  大輔のもとにも、とても気がかりそうに書いてやったので、
   「さるやうこそははべらめ。
 人憎くはしたなくも、なのたまはせそ。
 かかる劣りの者の、人の御中に交じりたまふも、世の常のことなり」
 「何か事情がございますのでしょう。
 人を恨んで体裁悪く、おっしゃいますな。
 このような母親の卑しい人が、ご姉妹の中にいらっしゃるということも、世間にはよくあることです」
   など聞こえて、  などと申し上げて、
   「さらば、かの西の方に、隠ろへたる所し出でて、いとむつかしげなめれど、さても過ぐいたまひつべくは、しばしのほど」  「それでは、あの西の対に、人目につかない所を用意して、とてもむさ苦しいようですが、そうしてお過ごしになってはいかがですか、暫くの間を」
   と言ひつかはしつ。
 いとうれしと思ほして、人知れず出で立つ。
 御方も、かの御あたりをば、睦びきこえまほしと思ふ心なれば、なかなか、かかることどもの出で来たるを、うれしと思ふ。
 
 と言い送った。
 とても嬉しく思って、人に知られないようにして出発する。
 御方も、あの方と親しく交際申したいと思う考えなので、かえって、このようなことが出て来たのを、嬉しく思う。
 
 
 

第四段 母、浮舟を匂宮邸に連れ出す

 
   守、少将の扱ひを、いかばかりめでたきことをせむと思ふに、そのきらきらしかるべきことも知らぬ心には、ただ、あららかなる東絹どもを、押しまろがして投げ出でつ。
 食ひ物も、所狭きまでなむ運び出でてののしりける。
 
 常陸介は、少将の新婚のもてなしを、どんなにか立派なふうにしようと思うが、その豪華にする方法も知らないので、ただ、粗末な東絹類を、おし丸めて投げ出した。
 食べ物も、あたり狭しと運び出して大騒ぎした。
 
   下衆などは、それをいとかしこき情けに思ひければ、君も、「いとあらまほしく、心かしこく取り寄りにけり」と思ひけり。
 北の方、「このほどを見捨てて知らざらむもひがみたらむ」と思ひ念じて、ただするままにまかせて見ゐたり。
 
 下衆などは、それをたいそうありがたいお心づかいだと思ったので、君も、「とても理想的な、賢明な縁組をしたものだ」と思うのだった。
 北の方は、「この間の事を見捨てて知らないふうをするのもひねくれているようだろう」と思い堪えて、ただするままに任せて見ていた。
 
   客人の御出居、侍ひとしつらひ騒げば、家は広けれど、源少納言、東の対には住む、男子などの多かるに、所もなし。
 この御方に客人住みつきぬれば、廊などほとりばみたらむに住ませたてまつらむも、飽かずいとほしくおぼえて、とかく思ひめぐらすほど、宮にとは思ふなりけり。
 
 お客人のお座敷や、お供の部屋と準備に騒ぐので、家は広いけれど、源少納言が、東の対に住み、男の子などが多いので、場所もない。
 こちらのお部屋にお客人が住みつくようになると、渡廊などの端の方にお住まわせ申すのも、どんなにかお気の毒に思われて、あれこれと思案するうちに、宮の邸にと思うのであった。
 
   「この御方ざまに、数まへたまふ人のなきを、あなづるなめり」と思へば、ことに許いたまはざりしあたりを、あながちに参らず。
 乳母、若き人びと、二、三人ばかりして、西の廂の北に寄りて、人げ遠き方に局したり。
 
 「この御方には、人並みに扱ってくださる人がいないので、馬鹿にしているのだろう」と思うと、特に認めていただけなかった所だが、無理に参上させる。
 乳母や、若い女房二、三人ほどして、西の廂の北側寄りで、人気の遠い所に部屋を用意した。
 
   年ごろ、かくはかなかりつれど、疎く思すまじき人なれば、参る時は恥ぢたまはず、いとあらまほしく、けはひことにて、若君の御扱ひをしておはする御ありさま、うらやましくおぼゆるもあはれなり。
 
 長年、このように頼りなく過ごして来たが、よそよそしくお思いになれない方なので、参上した時には姿を隠したりなさらず、とても理想的に、感じがまるで違って、若君のお世話をしていらっしゃるご様子を、羨ましく思われるのも感慨無量である。
 
   「我も、故北の方には、離れたてまつるべき人かは。
 仕うまつるといひしばかりに、数まへられたてまつらず、口惜しくて、かく人にはあなづらるる」
 「自分も、亡くなった北の方とは、縁のない人ではない。
 女房としてお仕えしたために、人並みに扱ってもらえず、残念なことに、このように人から馬鹿にされるのだ」
   と思ふには、かくしひて睦びきこゆるもあぢきなし。
 ここには、御物忌と言ひてければ、人も通はず。
 二、三日ばかり母君もゐたり。
 こたみは、心のどかにこの御ありさまを見る。
 
 と思うと、このように無理してお親しみ申すのもつまらない。
 こちらには、御物忌と言ったので、誰も来ない。
 二、三日ほど母君もいた。
 今度は、のんびりとこちらのご様子を見る。
 
 
 

第五段 浮舟の母、匂宮と中君夫妻を垣間見る

 
   宮渡りたまふ。
 ゆかしくてもののはさまより見れば、いときよらに、桜を折りたるさましたまひて、わが頼もし人に思ひて、恨めしけれど、心には違はじと思ふ常陸守より、さま容貌も人のほども、こよなく見ゆる五位四位ども、あひひざまづきさぶらひて、このことかのことと、あたりあたりのことども、家司どもなど申す。
 
 宮がお越しになる。
 見たくて物の間から見ると、たいそう美しく、桜を手折ったような姿をして、自分が頼りにする人と思い、恨めしいけれど、気持ちには背くまいと思っている常陸介よりも、容姿や器量も人品も、この上なく見える五位や四位の人が、一斉にひざまずいて控えて、あれやこれやと、あれこれの事務を、家司連中が申し上げる。
 
   また若やかなる五位ども、顔も知らぬどもも多かり。
 わが継子の式部丞にて蔵人なる、内裏の御使にて参れり。
 御あたりにもえ近く参らず。
 こよなき人の御けはひを、
 また若々しい五位の人で、顔も知らない人たちも多かった。
 自分の継子の式部丞で蔵人なのが、帝のお使いとして参上したが、お側近くにも参ることができない。
 この上なく高貴なご様子を、
   「あはれ、こは何人ぞ。
 かかる御あたりにおはするめでたさよ。
 よそに思ふ時は、めでたき人びとと聞こゆとも、つらき目見せたまはばと、もの憂く推し量りきこえさせつらむあさましさよ。
 この御ありさま容貌を見れば、七夕ばかりにても、かやうに見たてまつり通はむは、いといみじかるべきわざかな」
 「まあ、この方はいったいどのようなお方か。
 このようなお方の所にいらっしゃる幸運なことよ。
 遠くで考えている時は、素晴らしい方々と申し上げても、つらい思いをさせなさったらと、嫌なお方とお思い申し上げていたのはあさはかな考えであったことよ。
 この方のご様子や器量を見ると、七夕のように年に一度の逢瀬でも、このようにお目にかかれてお通いいただけるのは、とてもありがたいことだわ」
   と思ふに、若君抱きてうつくしみおはす。
 女君、短き几帳を隔てておはするを、押しやりて、ものなど聞こえたまふ御容貌ども、いときよらに似合ひたり。
 故宮の寂しくおはせし御ありさまを思ひ比ぶるに、「宮たちと聞こゆれど、いとこよなきわざにこそありけれ」とおぼゆ。
 
 と思うと、若君を抱いてかわいがっていらっしゃる。
 女君は、短い几帳を隔てておいでになるが、押しやって、お話し申し上げなさる。
 そのお二方のご器量は、実に美しく似合っている。
 亡き父宮が寂しくいらっしゃった時のご様子を思い比べると、「宮様と申し上げても、とてもこの上なくいらっしゃるのだ」と思われる。
 
   几帳の内に入りたまひぬれば、若君は、若き人、乳母などもてあそびきこゆ。
 人びと参り集まれど、悩ましとて、大殿籠もり暮らしつ。
 御台こなたに参る。
 よろづのこと気高く、心ことに見ゆれば、わがいみじきことを尽くすと見思へど、「なほなほしき人のあたりは、口惜しかりけり」と思ひなりぬれば、「わが娘も、かやうにてさし並べたらむには、かたはならじかし。
 勢ひを頼みて、父ぬしの、后にもなしてむと思ひたる人びと、同じわが子ながら、けはひこよなきを思ふも、なほ今よりのちも、心は高くつかふべかりけり」と、夜一夜あらまし語り思ひ続けらる。
 
 几帳の中にお入りになったので、若君は、若い女房や、乳母などがお相手申し上げる。
 官人たちが参集したが、気分が悪いと言って、お休みになって一日中を過ごされた。
 食膳をこちらで差し上げる。
 万事が気高くて、格別に見えるので、自分がどんなに善美を尽くしたと思っても、「普通の身分のすることは、たかが知れている」と悟ったので、「自分の娘も、このような立派な方の側に並べて見ても、不体裁ではあるまい。
 財力を頼んで、父親が、后にもしようと思っている娘たちは、同じわが子ながらも、感じがまるで違うのを思うと、やはり今後は理想は高く持つべきであるわ」と、一晩中将来の事を思い続けられる。
 
 
 

第六段 浮舟の母、左近少将を垣間見て失望

 
   宮、日たけて起きたまひて、  宮は、日が高くなってからお起きになって、
   「后の宮、例の、悩ましくしたまへば、参るべし」  「后の宮が、相変わらず、お具合が悪くいらっしゃるので、参内しよう」
   とて、御装束などしたまひておはす。
 ゆかしうおぼえて覗けば、うるはしくひきつくろひたまへる、はた、似るものなく気高く愛敬づききよらにて、若君をえ見捨てたまはで遊びおはす。
 御粥、強飯など参りてぞ、こなたより出でたまふ。
 
 と言って、ご装束などをお召しになっていらっしゃる。
 興味をもって覗くと、きちんと身づくろいなさったのが、また、似る者がいないほど気高く魅力的で美しくて、若君をお放しになることができず遊んでいらっしゃる。
 お粥や、強飯などを召し上がって、こちらからお出かけになる。
 
   今朝より参りて、さぶらひの方にやすらひける人びと、今ぞ参りてものなど聞こゆる中に、きよげだちて、なでふことなき人のすさまじき顔したる、直衣着て太刀佩きたるあり。
 御前にて何とも見えぬを、
 今朝方から参上して、侍所の方に控えていた供人たちは、今しも御前に参上して何か申し上げている中で、めかしこんで、何ということもない人でつまらない顔をして、直衣を着て太刀を佩いている人がいる。
 御前では何とも見えないが、
   「かれぞ、この常陸守の婿の少将な。
 初めは御方にと定めけるを、守の娘を得てこそいたはられめ、など言ひて、かしけたる女の童を持たるななり」
 「あの人が、この常陸介の婿の少将ですよ。
 初めはこの御方にと決めていたが、介の実の娘を得てこそ大切にされたい、などと言って、痩せっぽっちの女の子を得たと言います」
   「いさ、この御あたりの人はかけても言はず。
 かの君の方より、よく聞くたよりのあるぞ」
 「いえ、こちらの女房たちはそんな噂は全然しません。
 あの君の方からは、よく聞く話ですよ」
   など、おのがどち言ふ。
 聞くらむとも知らで、人のかく言ふにつけても、胸つぶれて、少将をめやすきほどと思ひける心も口惜しく、「げに、ことなることなかるべかりけり」と思ひて、いとどしくあなづらはしく思ひなりぬ。
 
 などと、めいめい言っている。
 聞いているとも知らないで、女房がこのように言っているのにつけても、胸がどきりとして、少将を無難だと思っていた考えも残念で、「なるほど、格別なことはなかったのだ」と思って、ますます馬鹿らしく思った。
 
   若君のはひ出でて、御簾のつまよりのぞきたまへるを、うち見たまひて、立ち返り寄りおはしたり。
 
 若君が這いだして来て、御簾の端から顔を出していらっしゃるのを、ちょっと御覧になって、後戻りなさった。
 
   「御心地よろしく見えたまはば、やがてまかでなむ。
 なほ苦しくしたまはば、今宵は宿直にぞ。
 今は、一夜を隔つるもおぼつかなきこそ苦しけれ」
 「ご気分がよくお見えでしたら、そのまま帰って来ましょう。
 やはりお悪いようでいらしたら、今夜は宿直します。
 今は、一晩でも会わないのは気がかりでつらいことだ」
   とて、しばし慰め遊ばして、出でたまひぬるさまの、返す返す見るとも見るとも、飽くまじく、匂ひやかにをかしければ、出でたまひぬる名残、さうざうしくぞ眺めらるる。
 
 と言って、暫くご機嫌をおとりになって、お出かけになった様子が、繰り返し見ても、どこまでも満ち足りていて、華やかにお美しいので、お出かけになった後の気持ちが、物足りなく物思いに沈んでしまう。
 
 
 

第三章 浮舟の物語 浮舟の母、中君に娘の浮舟を託す

 
 

第一段 浮舟の母、中君と談話す

 
   女君の御前に出で来て、いみじくめでたてまつれば、田舎びたる、と思して笑ひたまふ。
 
 女君の御前に出て来て、たいそうお誉め申し上げると、田舎人めいている、とお思いになってお笑いになる。
 
   「故上の亡せたまひしほどは、言ふかひなく幼き御ほどにて、いかにならせたまはむと、見たてまつる人も、故宮も思し嘆きしを、こよなき御宿世のほどなりければ、さる山ふところのなかにも、生ひ出でさせたまひしにこそありけれ。
 口惜しく、故姫君のおはしまさずなりにたるこそ、飽かぬことなれ」
 「故母上がお亡くなりになったときは、何ともお話にならないほど小さいころで、どんなにおなりにあそばすのかと、お世話申し上げる人も、亡き父宮もお嘆きになったが、この上ないご運勢でいらっしゃったので、あの山里の中でも、ご立派に成人あそばしたのです。
 残念なことに、亡くなった姫君がいらっしゃらなくなったのが、惜しまれることです」
   など、うち泣きつつ聞こゆ。
 君もうち泣きたまひて、
 などと、泣きながら申し上げる。
 君もお泣きになって、
   「世の中の恨めしく心細き折々も、またかくながらふれば、すこしも思ひ慰めつべき折もあるを、いにしへ頼みきこえける蔭どもに後れたてまつりけるは、なかなかに世の常に思ひなされて、見たてまつり知らずなりにければ、あるを、なほこの御ことは、尽きせずいみじくこそ。
 大将の、よろづのことに心の移らぬよしを愁へつつ、浅からぬ御心のさまを見るにつけても、いとこそ口惜しけれ」
 「世の中が恨めしく心細い時々も、またこのように生きていると、少しでも思いが慰められるときがあるのを、昔お頼り申し上げていた肉親たちに先立たれ申したときは、かえって世間一般の事と諦めもついて、お顔も存じ上げずになってしまったのを、それなのに、やはりこの姉君のご逝去は、いつまでも悲しいことです。
 大将が、何にも心が移らないことを愁えながら、深く変わらないご愛情を見るにつけても、まことに残念です」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「大将殿は、さばかり世にためしなきまで、帝のかしづき思したなるに、心おごりしたまふらむかし。
 おはしまさましかば、なほこのこと、せかれしもしたまはざらましや」
 「大将殿は、あれほど世の中に例がないまでに、帝が大切になさっているといいますが、得意でいらっしゃるでしょう。
 姉君が生きていらっしゃったら、このご降嫁のことは、おやめにもならなかったでしょうか」
   など聞こゆ。
 
 などと申し上げる。
 
   「いさや、やうのものと、人笑はれなる心地せましも、なかなかにやあらまし。
 見果てぬにつけて、心にくくもある世にこそ、と思へど、かの君は、いかなるにかあらむ、あやしきまでもの忘れせず、故宮の御後の世をさへ、思ひやり深く後見ありきたまふめる」
 「さあね、姉妹同じような運命だと、物笑いになる気がしましょうも、かえってつらい思いをしたことでしょう。
 途中で亡くなられたので、奥ゆかしくもある仲だ、と思いますが、あの君は、どういうわけでしょうか、不思議なまでに忘れないで、故父宮の亡き後の追善供養までを、深く考えてお世話してくださるようです」
   など、心うつくしう語りたまふ。
 
 などと、素直にお話しなさる。
 
   「かの過ぎにし御代はりに尋ねて見むと、この数ならぬ人をさへなむ、かの弁の尼君にはのたまひける。
 さもやと、思うたまへ寄るべきことにははべらねど、一本ゆゑにこそはと、かたじけなけれど、あはれになむ思うたまへらるる御心深さなる」
 「あの亡くなった姉君の代わりに捜し出して会いたいと、この物の数にも入らない娘までを、あの弁の尼君にはおっしゃったのでした。
 ではそのようにと、考えるわけではございませんが、ゆかりの者だからかと、恐れ多いことですが、しみじみとありがたく思われますお気持ちの深さですこと」
   など言ふついでに、この君をもてわづらふこと、泣く泣く語る。
 
 などと言うついでに、この姫君の身の振りに困っていることを、泣きながら話す。
 
 
 

第二段 浮舟の母、娘の不運を訴える

 
   こまかにはあらねど、人も聞きけりと思ふに、少将の思ひあなづりけるさまなどほのめかして、  こまごまとではないが、女房も聞いて知っていると思うので、少将が馬鹿にしたことなどちらっと話して、
   「命はべらむ限りは、何か、朝夕の慰めぐさにて見過ぐしつべし。
 うち捨てはべりなむのちは、思はずなるさまに散りぼひはべらむが悲しさに、尼になして、深き山にやし据ゑて、さる方に世の中を思ひ絶えてはべらましなどなむ、思うたまへわびては、思ひ寄りはべる」
 「生きています限りは、何とか、朝夕の話相手として暮らせましょう。
 先立ってしまった後は、不本意な身の上となって落ちぶれてさまようのが悲しいので、尼にして、深い山中にでも生活させて、そのような考えで世の中を諦めようなどと、思いあぐねました末には、そのように思っています」
   など言ふ。
 
 などと言う。
 
   「げに、心苦しき御ありさまにこそはあなれど、何か、人にあなづらるる御ありさまは、かやうになりぬる人のさがにこそ。
 さりとても、堪へぬわざなりければ、むげにその方に思ひおきてたまへりし身だに、かく心より外にながらふれば、まいていとあるまじき御ことなり。
 やついたまはむも、いとほしげなる御さまにこそ」
 「おっしゃるように、お気の毒なご様子のようですが、どうして、人に馬鹿にされるご様子は、このように父親のいない人の常です。
 そうかといって、それもできる事でないので、一途にその方面にと父宮が考えていらっしゃったわたしの身の上でさえ、このように心ならずも生きながらえていますので、それ以上にとんでもない御事です。
 髪を落としなさるのも、おいたわしいほどのご器量です」
   など、いと大人びてのたまへば、母君、いとうれしと思ひたり。
 ねびにたるさまなれど、よしなからぬさましてきよげなり。
 いたく肥え過ぎにたるなむ、常陸殿とは見えける。
 
 などと、とても大人ぶっておっしゃると、母君は、たいそう嬉しく思った。
 ふけて見える姿だが、品がなくもない姿で小ぎれいである。
 ひどく太り過ぎているのが、常陸殿といった感じである。
 
   「故宮の、つらう情けなく思し放ちたりしに、いとど人げなく、人にもあなづられたまふと見たまふれど、かう聞こえさせ御覧ぜらるるにつけてなむ、いにしへの憂さも慰みはべる」  「故宮が、つらく情けなくお見捨てになったので、ますます一人前らしくなく、人からも馬鹿にされなさると拝見しましたが、このようにお話し申し上げさせてただき、このようにお目にかからせていただけるにつけて、昔のつらさも晴れます」
   など、年ごろの物語、浮島のあはれなりしことも聞こえ出づ。
 
 などと、長年の話や、浮島の美しい景色のことなどを申し上げる。
 
   「わが身一つのとのみ、言ひ合はする人もなき筑波山のありさまも、かくあきらめきこえさせて、いつも、いとかくてさぶらはまほしく思ひたまへなりはべりぬれど、かしこにはよからぬあやしの者ども、いかにたち騷ぎ求めはべらむ。
 さすがに心あわたたしく思ひたまへらるる。
 かかるほどのありさまに身をやつすは、口惜しきものになむはべりけると、身にも思ひ知らるるを、この君は、ただ任せきこえさせて、知りはべらじ」
 「自分一人だけがつらい思いをと、話し合う相手もいない筑波山での暮らしぶりも、このように胸が晴れるように申し上げて、いつも、まことにこのように伺候していたく存じなりましたが、あちらには出来の悪い卑しい娘たちが、どんなに騒いで捜していることでしょう。
 やはり落ち着かない気がいたします。
 このような受領の妻に身を落としているのは、情けないことでございましたと、身にしみて思い知られるのですが、この姫君は、ひたすらお任せ申し上げて、わたしは構いますまい」
   など、かこちきこえかくれば、「げに、見苦しからでもあらなむ」と見たまふ。
 
 などと、お願い申し上げるようにするので、「なるほど、よい結婚をしてほしいものだ」と御覧になる。
 
 
 

第三段 浮舟の母、薫を見て感嘆す

 
   容貌も心ざまも、え憎むまじうらうたげなり。
 もの恥ぢもおどろおどろしからず、さまよう児めいたるものから、かどなからず、近くさぶらふ人びとにも、いとよく隠れてゐたまへり。
 ものなど言ひたるも、昔の人の御さまに、あやしきまでおぼえたてまつりてぞあるや。
 かの人形求めたまふ人に見せたてまつらばやと、うち思ひ出でたまふ折しも、
 器量も気立ても、憎むことができないほどかわいらしい。
 はにかみようも大げさでなく、よい具合におっとりしているものの、才気がないでなく、近くに仕えている女房たちに対しても、たいそうよく隠れていらっしゃる。
 何か言っているのも、亡くなった姉君のご様子に不思議なまでにお似申していることよ。
 あの人形を捜していらっしゃる方にお見せ申し上げたいと、ふと思い出しなさった折しも、
   「大将殿参りたまふ」  「大将殿が参っておられます」
   と、人聞こゆれば、例の、御几帳ひきつくろひて、心づかひす。
 この客人の母君、
 と、女房が申し上げるので、いつものように、御几帳を整えて注意をする。
 この客人の母君は、
   「いで、見たてまつらむ。
 ほのかに見たてまつりける人の、いみじきものに聞こゆめれど、宮の御ありさまには、え並びたまはじ」
 「それでは、拝見させていただきましょう。
 ちらっと拝見した人が、大変にお誉め申していたが、宮のご様子には、とてもお並びになることはできまい」
   と言へば、御前にさぶらふ人びと、  と言うと、御前に伺候する女房たちは、
   「いさや、えこそ聞こえ定めね」  「さあね、とてもお定め申し上げることができません」
   と聞こえあへり。
 
 と申し上げ合っている。
 
   「いかばかりならむ人か、宮をば消ちたてまつらむ」  「どれほどの人が、宮をお負かせ申せましょうか」
   など言ふほどに、「今ぞ、車より降りたまふなる」と聞くほど、かしかましきまで追ひののしりて、とみにも見えたまはず。
 待たれたまふほどに、歩み入りたまふさまを見れば、げに、あなめでた、をかしげとも見えずながらぞ、なまめかしうあてにきよげなるや。
 
 などと言っているうちに、「今、車から降りなさっている」と聞く間、うるさいほど先払いの声がして、すぐにはお現れにならない。
 お待たされになっているうちに、歩いてお入りになる様子を見ると、なるほど、何ともご立派で、色めかしい風情とは見えないが、優雅で上品に美しい。
 
   すずろに見え苦しう恥づかしくて、額髪などもひきつくろはれて、心恥づかしげに用意多く、際もなきさまぞしたまへる。
 内裏より参りたまへるなるべし、御前どものけはひあまたして、
 何となく対面するのも遠慮されて、額髪などもついつくろって、気がひけるほど嗜み深い態度で、この上ない様子をしていらっしゃった。
 内裏から参上なさったのであろう、ご前駆の様子が大勢いて、
   「昨夜、后の宮の悩みたまふよし承りて参りたりしかば、宮たちのさぶらひたまはざりしかば、いとほしく見たてまつりて、宮の御代はりに今までさぶらひはべりつる。
 今朝もいと懈怠して参らせたまへるを、あいなう、御あやまちに推し量りきこえさせてなむ」
 「昨夜、后の宮がご病気でいらっしゃる旨を承って参内しましたら、宮様方が伺候していらっしゃらなかったので、お気の毒に拝見して、宮のお代わりに今まで伺候しておりました。
 今朝もとても怠けて参内あそばしたのを、失礼ながら、あなたのご過失とお察し申し上げまして」
   と聞こえたまへば、  と申し上げなさると、
   「げに、おろかならず、思ひやり深き御用意になむ」  「なるほど、大変なこと、行き届いたお心遣いをいただきまして」
   とばかりいらへきこえたまふ。
 宮は内裏にとまりたまひぬるを見おきて、ただならずおはしたるなめり。
 
 とだけお答え申し上げなさる。
 宮は内裏にお泊まりになったのを見届けて、思うところがあっていらっしゃったようである。
 
 
 

第四段 中君、薫に浮舟を勧める

 
   例の、物語いとなつかしげに聞こえたまふ。
 事に触れて、ただいにしへの忘れがたく、世の中のもの憂くなりまさるよしを、あらはには言ひなさで、かすめ愁へたまふ。
 
 いつものように、お話をとても親しく申し上げなさる。
 何につけても、ただ亡き姫君が忘れられず、世の中がますますつまらなくなっていくことを、はっきりとは言わないで、それとなく訴えなさる。
 
   「さしも、いかでか、世を経て心に離れずのみはあらむ。
 なほ、浅からず言ひ初めてしことの筋なれば、名残なからじとにや」など、見なしたまへど、人の御けしきはしるきものなれば、見もてゆくままに、あはれなる御心ざまを、岩木ならねば、思ほし知る。
 
 「そんなにまで深く、どうして、いつまでも忘れられずばかりいらっしゃるのだろう。
 やはり、深く思っているように言い出したことだから、忘れられたと思われたくないのだろうか」などと、しいてお思いになるが、相手のご様子ははっきりとしているので、見ているうちに、しみじみとしたお気持ちを、岩木ではないから、お分かりになる。
 
   怨みきこえたまふことも多かれば、いとわりなくうち嘆きて、かかる御心をやむる禊をせさせたてまつらまほしく思ほすにやあらむ、かの人形のたまひ出でて、  お恨み申し上げることが多いので、たいそう困って嘆息して、このようなお気持ちを無くす禊をおさせ申し上げたくお思いになったのであろうか、あの人形のことをお話し出しになって、
   「いと忍びてこのわたりになむ」  「とても人目を忍んでこの辺りにいます」
   と、ほのめかしきこえたまふを、かれもなべての心地はせず、ゆかしくなりにたれど、うちつけにふと移らむ心地はたせず。
 
 と、それとなく申し上げなさると、相手も平気な気持ちではいられず、興味をもったが、急に心移りする気はしない。
 
   「いでや、その本尊、願ひ満てたまふべくはこそ尊からめ、時々、心やましくは、なかなか山水も濁りぬべく」  「さあ、そのご本尊が、願いをお満たしくださったら尊いことでしょうが、時々、悩ましく思うようでは、かえって悟りも濁ってしまいましょう」
   とのたまへば、果て果ては、  とおっしゃると、最後は、
   「うたての御聖心や」  「困ったご道心ですこと」
   と、ほのかに笑ひたまふも、をかしう聞こゆ。
 
 と、かすかにお笑いになるのも、おもしろく聞こえる。
 
   「いで、さらば、伝へ果てさせたまへかし。
 この御逃れ言葉こそ、思ひ出づればゆゆしく」
 「さあ、それでは、すっかりお伝えになってください。
 このお逃れの言葉も、思い出すと不吉な気がします」
   とのたまひても、また涙ぐみぬ。
 
 とおっしゃって、再び涙ぐんだ。
 
 

723
 「見し人の 形代ならば 身に添へて
 恋しき瀬々の なでものにせむ」
 「亡き姫君の形見ならば、いつも側において
  恋しい折々の気持ちを移して流す撫物としよう」
 
   と、例の、戯れに言ひなして、紛らはしたまふ。
 
 と、いつものように、冗談のように言って、紛らわしなさる。
 
 

724
 「みそぎ河 瀬々に出ださむ なでものを
 身に添ふ影と 誰れか頼まむ
 「禊河の瀬々に流し出す撫物を
  いつまでも側に置いておくと誰が期待しましょう
 
   引く手あまたに、とかや。
 いとほしくぞはべるや」
 引く手あまたで、とか言います。
 不憫でございますわ」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「つひに寄る瀬は、さらなりや。
 いとうれたきやうなる水の泡にも争ひはべるかな。
 かき流さるるなでものは、いで、まことぞかし。
 いかで慰むべきことぞ」
 「最後の寄る瀬は、言うまでもありませんよ。
 たいそういまいましいような水の泡にも負けないようでございますね。
 捨てられて流される撫物は、いやもう、まったくその通りです。
 どうして慰められることができましょうか」
   など言ひつつ、暗うなるもうるさければ、かりそめにものしたる人も、あやしくと思ふらむもつつましきを、  などと言っているうちに、暗くなってくるのもやっかいなので、一時的に泊まっている人も、変だと思うのも気がひけて、
   「今宵は、なほ、とく帰りたまひね」  「今夜は、やはり、早くお帰りなさいませ」
   と、こしらへやりたまふ。
 
 と、機嫌をおとりになる。
 
 
 

第五段 浮舟の母、娘に貴人の婿を願う

 
   「さらば、その客人に、かかる心の願ひ年経ぬるを、うちつけになど、浅う思ひなすまじう、のたまはせ知らせたまひて、はしたなげなるまじうはこそ。
 いとうひうひしうならひにてはべる身は、何ごともをこがましきまでなむ」
 「それでは、その客人に、このような願いを何年も持っていたので、急になど、浅く考えないようにおっしゃってお知らせなさって、みっともない目にあわないように願います。
 とても不慣れでございますわが身には、何事も愚かしいほど不調法で」
   と、語らひきこえおきて出でたまひぬるに、この母君、  と、約束申してお出になったので、この母君、
   「いとめでたく、思ふやうなるさまかな」  「とても立派で、理想的な様子ですこと」
   とめでて、乳母ゆくりかに思ひよりて、たびたび言ひしことを、あるまじきことに言ひしかど、この御ありさまを見るには、「天の川を渡りても、かかる彦星の光をこそ待ちつけさせめ。
 わが娘は、なのめならむ人に見せむは惜しげなるさまを、夷めきたる人をのみ見ならひて、少将をかしこきものに思ひける」を、悔しきまで思ひなりにけり。
 
 と誉めて、乳母がひょいと思いついて、度々言ったことを、とんでもないことに言ったが、このご様子を見ては、「天の川を渡ってでも、このような彦星の光を待ち受けさせたいもの。
 自分の娘は、平凡な人と結婚させるのは惜しい様子を、東国の田舎者ばかり見馴れていて、少将を立派な人と思っていた」のを、後悔されるのだった。
 
   寄りゐたまへりつる真木柱も茵も、名残匂へる移り香、言へばいとことさらめきたるまでありがたし。
 時々見たてまつる人だに、たびごとにめできこゆ。
 
 寄り掛かっていらした真木柱にも茵にも、そのまま残っている匂いや移り香が、言うとわざとらしいまでに素晴らしい。
 時々拝見する女房でさえ、その度ごとにお誉め申し上げる。
 
   「経などを読みて、功徳のすぐれたることあめるにも、香の香うばしきをやむごとなきことに、仏のたまひおきけるも、ことわりなりや。
 薬王品などに、取り分きてのたまへる、牛頭栴檀とかや、おどろおどろしきものの名なれど、まづかの殿の近く振る舞ひたまへば、仏はまことしたまひけり、とこそおぼゆれ。
 幼くおはしけるより、行ひもいみじくしたまひければよ」
 「お経などを読んで、功徳のすぐれたことがあるようなのにつけても、香の芳しいのをこの上ないこととして、仏さまが説いておおきになったのも、もっともなことですわ。
 薬王品などに、特別に説かれている牛頭栴檀とかは、大げさな物の名前だが、まずあの大将殿が近くで身動きなさると、仏さまがほんとうにおっしゃったのだ、と思われます。
 子供でいらした時から、勤行も熱心になさっていたからですよ」
   など言ふもあり。
 また、
 などと言う者もいる。
 また、
   「前の世こそゆかしき御ありさまなれ」  「前世が知りたいご様子ですこと」
   など、口々めづることどもを、すずろに笑みて聞きゐたり。
 
 などと、口々に誉めることを、思わずにっこりして聞いていた。
 
 
 

第六段 浮舟の母、中君に娘を託す

 
   君は、忍びてのたまひつることを、ほのめかしのたまふ。
 
 女君は、こっそりとおっしゃった話を、それとなくおっしゃる。
 
   「思ひ初めつること、執念きまで軽々しからずものしたまふめるを、げに、ただ今のありさまなどを思へば、わづらはしき心地すべけれど、かの世を背きても、など思ひ寄りたまふらむも、同じことに思ひなして、試みたまへかし」  「思いはじめたことは、執念深いまでに軽々しくなくいらっしゃるようなのを、なるほど、ただ今の様子などを思うと、やっかいな気持ちがしましょうが、あの出家をしても、などとお考えになるのも、同じこととお思いになって、お試しなさいませ」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「つらき目見せず、人にあなづられじの心にてこそ、鳥の音聞こえざらむ住まひまで思ひたまへおきつれ。
 げに、人の御ありさまけはひを見たてまつり思ひたまふるは、下仕へのほどなどにても、かかる人の御あたりに、馴れきこえむは、かひありぬべし。
 まいて若き人は、心つけたてまつりぬべくはべるめれど、数ならぬ身に、もの思ふ種をやいとど蒔かせて見はべらむ。
 
 「つらい目にあわず、誰からも馬鹿にされまいとの考えで、鳥の声が聞こえないような深山での生活まで考えておりました。
 おっしゃるように、殿のご様子や態度などを拝見して存じますことは、下仕えの身分などであっても、このような方のご身辺で、親しくしていただけるのは、生き甲斐のあることでしょう。
 まして若い女は、きっと心をお寄せ申し上げるにちがいないでしょうが、物の数にも入らない身で、物思いの種をますます蒔かせることになりましょうか。
 
   高きも短きも、女といふものは、かかる筋にてこそ、この世、後の世まで、苦しき身になりはべるなれ、と思ひたまへはべればなむ、いとほしく思ひたまへはべる。
 それもただ御心になむ。
 ともかくも、思し捨てず、ものせさせたまへ」
 身分の高い者も低い者も、女というものは、このような男女の仲のことで、現世と、来世まで、苦しい身になるものです、と存じておりますので、かわいそうに存じております。
 その話もただお気持ちに任せます。
 ともかくも、お見捨てにならず、お世話くださいませ」
   と聞こゆれば、いとわづらはしくなりて、  と申し上げるので、たいそうやっかいになって、
   「いさや。
 来し方の心深さにうちとけて、行く先のありさまは知りがたきを」
 「さあね。
 過去の思いやり深さに気を許しても、将来の様子は分からないことです」
   とうち嘆きて、ことに物ものたまはずなりぬ。
 
 とためいきをついて、他には何もおっしゃらずになった。
 
   明けぬれば、車など率て来て、守の消息など、いと腹立たしげに脅かしたれば、  夜が明けたので、車などを引き出して来て、介の手紙などが、とても立腹した文面で脅かしていたので、
   「かたじけなく、よろづに頼みきこえさせてなむ。
 なほ、しばし隠させたまひて、巌の中にとも、いかにとも、思ひたまへめぐらしはべるほど、数にはべらずとも、思ほし放たず、何ごとをも教へさせたまへ」
 「恐れ多いことですが、万事お頼み申し上げます。
 やはり、もうしばらくお隠しになって、巌の中なりとも、どこなりとも、思案いたします間は、人並みの者でございませんが、お見捨てなく、何事もお教えくださいませ」
   など聞こえおきて、この御方も、いと心細く、ならはぬ心地に、立ち離れむを思へど、今めかしくをかしく見ゆるあたりに、しばしも見馴れたてまつらむと思へば、さすがにうれしくもおぼえけり。
 
 などと申し上げておいて、この御方も、たいそう心細く、初めてのことで、別れることを心配するが、はなやかで美しく見える所で、しばらくの間もお親しみ申せると思うと、そうはいっても嬉しく思われるのだった。
 
 
 

第四章 浮舟と匂宮の物語 浮舟、匂宮に見つかり言い寄られる

 
 

第一段 匂宮、二条院に帰邸

 
   車引き出づるほどの、すこし明うなりぬるに、宮、内裏よりまかでたまふ。
 若君おぼつかなくおぼえたまひければ、忍びたるさまにて、車なども例ならでおはしますにさしあひて、おしとどめて立てたれば、廊に御車寄せて降りたまふ。
 
 車を引き出すときの、少し明るくなったころに、宮が、内裏から退出なさる。
 若君が気がかりに思われなさったので、人目につかないようにして、車などもいつもと違った物でお帰りになるのに出くわして、止めて立ち止まっていると、渡廊にお車を寄せて降りなさる。
 
   「なぞの車ぞ。
 暗きほどに急ぎ出づるは」
 「誰の車か。
 暗いうちに急に出ようとするのは」
   と目とどめさせたまふ。
 「かやうにてぞ、忍びたる所には出づるかし」と、御心ならひに思し寄るも、むくつけし。
 
 と目をお止めあそばす。
 「このように、忍んで通う女のもとから出る者か」と、ご自身の経験からお考えになるのも、嫌なことだ。
 
   「常陸殿のまかでさせたまふ」  「常陸殿が退出あそばします」
   と申す。
 若やかなる御前ども、
 と申し上げる。
 若い御前駆たちは、
   「殿こそ、あざやかなれ」  「殿というのは、大げさな」
   と、笑ひあへるを聞くも、「げに、こよなの身のほどや」と悲しく思ふ。
 ただ、この御方のことを思ふゆゑにぞ、おのれも人びとしくならまほしくおぼえける。
 まして、正身をなほなほしくやつして見むことは、いみじくあたらしう思ひなりぬ。
 宮、入りたまひて、
 と、笑い合っているのを聞くと、「おっしゃるとおり、笑われてもしかたない身分だ」と悲しく思う。
 ただ、この御方のことを思うために、自分も人並みになりたいと思うのだった。
 それ以上に、ご本人を身分の低い男と結婚させるのは、ひどく惜しいと思った。
 宮が、お入りになって、
   「常陸殿といふ人や、ここに通はしたまふ。
 心ある朝ぼらけに、急ぎ出でつる車副などこそ、ことさらめきて見えつれ」
 「常陸殿という人を、こちらに通わせているのですか。
 意味ありげな朝ぼらけに、急いで出た車の供揃いが、特別に見えました」
   など、なほ思し疑ひてのたまふ。
 「聞きにくくかたはらいたし」と思して、
 などと、やはりお疑いになっておっしゃる。
 「聞きにくく回りの者がどう思うか」とお思いになって、
   「大輔などが若くてのころ、友達にてありける人は。
 ことに今めかしうも見えざめるを、ゆゑゆゑしげにものたまひなすかな。
 人の聞きとがめつべきことをのみ、常にとりないたまふこそ、なき名は立てで」
 「大輔などが若かったころ、友人であった人ですわ。
 特にしゃれた人には見えないようだったが、わけがありそうにおっしゃいますね。
 人聞きの悪そうなことばかりを、いつもおっしゃいますが、無実の罪を着せないでください」
   と、うち背きたまふも、らうたげにをかし。
 
 と、横を向きなさるのも、かわいらしく美しい。
 
   明くるも知らず大殿籠もりたるに、人びとあまた参りたまへば、寝殿に渡りたまひぬ。
 后の宮は、ことことしき御悩みにもあらで、おこたりたまひにければ、心地よげにて、右の大殿の君達など、碁打ち韻塞などしつつ遊びたまふ。
 
 夜の明けるのも知らずにお休みになっていると、人びとが大勢参上なさったので、寝殿にお渡りになった。
 后の宮は、仰々しいご病気でなく平癒なさったので、気分よさそうで、右の大殿の公達などは、碁を打ったり韻塞ぎなどをしてお遊びになる。
 
 
 

第二段 匂宮、浮舟に言い寄る

 
   夕つ方、宮こなたに渡らせたまへれば、女君は、御ゆするのほどなりけり。
 人びともおのおのうち休みなどして、御前には人もなし。
 小さき童のあるして、
 夕方、宮がこちらにお渡りあそばすと、女君は、ご洗髪の時であった。
 女房たちもそれぞれ休んだりしていて、御前には女房もいない。
 小さい童女がいたのをつかって、
   「折悪しき御ゆするのほどこそ、見苦しかめれ。
 さうざうしくてや、眺めむ」
 「折悪くご洗髪の時とは、困りましたね。
 手持ち無沙汰で、ぼんやりしていようかな」
   と、聞こえたまへば、  と、申し上げなさると、
   「げに、おはしまさぬ隙々にこそ、例は済ませ。
 あやしう日ごろももの憂がらせたまひて、今日過ぎば、この月は日もなし。
 九、十月は、いかでかはとて、仕まつらせつるを」
 「仰せのとおり、いらっしゃらない合間に、いつもは済ませます。
 妙に近頃は億劫になられまして、今日を過ごしたら、今月は吉日もありません。
 九月、十月は、とてもと思われまして、いたしておりますが」
   と、大輔いとほしがる。
 
 と、大輔はお気の毒がる。
 
   若君も寝たまへりければ、そなたにこれかれあるほどに、宮はたたずみ歩きたまひて、西の方に例ならぬ童の見えつるを、「今参りたるか」など思して、さし覗きたまふ。
 中のほどなる障子の、細目に開きたるより見たまへば、障子のあなたに、一尺ばかりひきさけて、屏風立てたり。
 そのつまに、几帳、簾に添へて立てたり。
 
 若君もお寝みになっていたので、そちらに女房の皆がいるときで、宮はぶらぶらお歩きになって、西の方にいつもとちがった童女が見えたのを、「新参者か」などとお思いになって、お覗きになる。
 中程にある襖障子が、細めに開いている所から御覧になると、障子の向こうに、一尺ほど離れて、屏風が立っていた。
 その端に、几帳を、御簾に添って立ててある。
 
   帷一重をうちかけて、紫苑色のはなやかなるに、女郎花の織物と見ゆる重なりて、袖口さし出でたり。
 屏風の一枚たたまれたるより、「心にもあらで見ゆるなめり。
 今参りの口惜しからぬなめり」と思して、この廂に通ふ障子を、いとみそかに押し開けたまひて、やをら歩み寄りたまふも、人知らず。
 
 帷子一枚を横木にひっ懸けて、紫苑色の華やかな袿に、女郎花の織物と見える表着が重なって、袖口が出ている。
 屏風の一枚が畳まれている間から、「意外にも見えるようだ。
 新参者でかなりの身分の女房のようだ」とお思いになって、この廂に通じている障子を、たいそう密かに押し開けなさって、静かに歩み寄りなさるのも、誰も気がつかない。
 
   こなたの廊の中の壺前栽の、いとをかしう色々に咲き乱れたるに、遣水のわたり、石高きほど、いとをかしければ、端近く添ひ臥して眺むるなりけり。
 開きたる障子を、今すこし押し開けて、屏風のつまより覗きたまふに、宮とは思ひもかけず、「例こなたに来馴れたる人にやあらむ」と思ひて、起き上がりたる様体、いとをかしう見ゆるに、例の御心は過ぐしたまはで、衣の裾を捉へたまひて、こなたの障子は引き立てたまひて、屏風のはさまに居たまひぬ。
 
 こちらの渡廊の中の壷前栽が、たいそう美しく色とりどりに咲き乱れているところに、遣水のあたりの、石が高くなっているところが、実に風情があるので、端近くに添い臥して眺めているのであった。
 開いている障子を、もう少し押し開けて、屏風の端からお覗きなさると、宮とは思いもかけず、「いつもこちらに来馴れている女房であろうか」と思って、起き上がった姿形は、たいそう美しく見えるので、いつもの好色のお癖はお堪えになれず、衣の裾を捉えなさって、こちらの障子は引き閉めなさって、屏風の隙間に座りなさった。
 
   あやしと思ひて、扇をさし隠して見返りたるさま、いとをかし。
 扇を持たせながら捉へたまひて、
 変だと思って、扇で顔を隠して振り返った様子、実に美しい。
 扇をお持になったまま掴えなさって、
   「誰れぞ。
 名のりこそ、ゆかしけれ」
 「どなたですか。
 名前が、ぜひ聞きたい」
   とのたまふに、むくつけくなりぬ。
 さるもののつらに、顔を他ざまにもて隠して、いといたう忍びたまへれば、「このただならずほのめかしたまふらむ大将にや、香うばしきけはひなども」思ひわたさるるに、いと恥づかしくせむ方なし。
 
 とおっしゃると、気持ち悪くなった。
 そうした物の際で、顔を外向けに隠して、とてもたいそうお忍びになっているので、「あの一方ならず思いを寄せていらっしゃるらしい大将であろうか、香ばしい様子などもそれらしく」思われるので、とても恥ずかしくどうしてよいか分からない。
 
 
 

第三段 浮舟の乳母、困惑、右近、中君に急報

 
   乳母、人げの例ならぬを、あやしと思ひて、あなたなる屏風を押し開けて来たり。
 
 乳母は、人の気配がいつもと違うのを、変だと思って、あちらにある屏風を押し開けて来た。
 
   「これは、いかなることにかはべらむ。
 あやしきわざにもはべる」
 「これは、どうしたことでございましょう。
 変な事でございます」
   など聞こゆれど、憚りたまふべきことにもあらず。
 かくうちつけなる御しわざなれど、言の葉多かる本性なれば、何やかやとのたまふに、暮れ果てぬれど、
 などと申し上げるが、遠慮なさるべきのことでもない。
 このような突然のなさりようだが、口上手なご性分なので、何やかやとおっしゃるうちに、すっかり暮れてしまったが、
   「誰れと聞かざらむほどは許さじ」  「誰それと名前を聞かないうちは許しません」
   とて、なれなれしく臥したまふに、「宮なりけり」と思ひ果つるに、乳母、言はむ方なくあきれてゐたり。
 
 と言って、なれなれしく臥せりなさるので、「宮であったのだ」と思い当たって、乳母は、何とも言いようがなく驚きあきれていた。
 
   大殿油は灯籠にて、「今渡らせたまひなむ」と人びと言ふなり。
 御前ならぬ方の御格子どもぞ下ろすなる。
 こなたは離れたる方にしなして、高き棚厨子一具立て、屏風の袋に入れこめたる、所々に寄せかけ、何かの荒らかなるさまにし放ちたり。
 かく人のものしたまへばとて、通ふ道の障子一間ばかりぞ開けたるを、右近とて、大輔が娘のさぶらふ来て、格子下ろしてここに寄り来なり。
 
 大殿油は燈籠に入れて、「まもなくお帰りあそばしましょう」と女房たちが言っている声がする。
 御前以外の御格子を下ろす音がする。
 こちらは離れた所であって、高い棚厨子を一具ほど立て、屏風が袋に入れてあるのを、あちこちに立て掛けて、何やかやと雑然とした様子に散らかしている。
 このように人がいらっしゃるからといって、通り道の障子を一間ほど開けてあるのを、右近といって、大輔の娘で仕えている者が来て、格子を下ろしてこちらに近寄って来る音がする。
 
   「あな、暗や。
 まだ大殿油も参らざりけり。
 御格子を、苦しきに、急ぎ参りて、闇に惑ふよ」
 「まあ、暗いわ。
 まだ大殿油もお灯けになっていないのですね。
 御格子を、苦労して、急いで下ろして、暗闇にまごつきますこと」
   とて、引き上ぐるに、宮も、「なま苦し」と聞きたまふ。
 乳母はた、いと苦しと思ひて、ものづつみせずはやりかにおぞき人にて、
 と言って、引き上げるので、宮も、「ちょっと困ったな」とお聞きになる。
 乳母は、乳母で、まことに困ったことだと思って、遠慮せずせっかちで気の強い人なので、
   「もの聞こえはべらむ。
 ここに、いとあやしきことのはべるに、見たまへ極じてなむ、え動きはべらでなむ」
 「申し上げます。
 こちらに、とても怪しからんことがございまして、扱いあぐねて、身動きもとれずにおります」
   「何ごとぞ」  「どうしたことですか」
   とて、探り寄るに、袿姿なる男の、いと香うばしくて添ひ臥したまへるを、「例のけしからぬ御さま」と思ひ寄りにけり。
 「女の心合はせたまふまじきこと」と推し量らるれば、
 と言って、手探りで近づくと、袿姿の男が、とてもよい匂いで寄り添っていらっしゃるのを、「いつもの困ったお振る舞いだ」と気づくのだった。
 「女が同意なさるはずがない」と察せられるので、
   「げに、いと見苦しきことにもはべるかな。
 右近は、いかにか聞こえさせむ。
 今参りて、御前にこそは忍びて聞こえさせめ」
 「なるほど、とても見苦しいことでございますね。
 右近めは、何とも申し上げられません。
 早速参上して、ご主人にこっそりと申し上げましょう」
   とて立つを、あさましくかたはに、誰も誰も思へど、宮は懼ぢたまはず。
 
 と言って立つのを、とんでもなく不体裁なことと、誰も彼もが思うが、宮はびくともなさらない。
 
   「あさましきまであてにをかしき人かな。
 なほ、何人ならむ。
 右近が言ひつるけしきも、いとおしなべての今参りにはあらざめり」
 「驚くほどに上品で美しい人だな。
 やはり、どのような人なのであろうか。
 右近が言った様子からも、とても並の新参者ではないようだ」
   心得がたく思されて、と言ひかく言ひ、怨みたまふ。
 心づきなげにけしきばみてももてなさねど、ただいみじう死ぬばかり思へるがいとほしければ、情けありてこしらへたまふ。
 
 納得がゆかず思われなさって、ああ言いこう言い、恨みなさる。
 嫌がる素振りでもないが、ただひどく死ぬほどつらく思っているのが気の毒なので、思いやりをこめて慰めなさる。
 
   右近、上に、  右近は、主人に、
   「しかしかこそおはしませ。
 いとほしく、いかに思ふらむ」
 「これこれしかじかでいらっしゃいます。
 お気の毒で、どんなに困っていらっしゃることでしょうか」
   と聞こゆれば、  と申し上げると、
   「例の、心憂き御さまかな。
 かの母も、いかにあはあはしく、けしからぬさまに思ひたまはむとすらむ。
 うしろやすくと、返す返す言ひおきつるものを」
 「いつもの、情けないお振る舞いですこと。
 あの母親も、どんなにか軽率で、困ったこととお思いになることだろう。
 安心にと、繰り返し言っていたものを」
   と、いとほしく思せど、「いかが聞こえむ。
 さぶらふ人びとも、すこし若やかによろしきは、見捨てたまふなく、あやしき人の御癖なれば、いかがは思ひ寄りたまひけむ」とあさましきに、ものも言はれたまはず。
 
 と、お気の毒にお思いになるが、「何と申し上げられよう。
 仕えている女房たちでも、少し若くて結構な女は、お見捨てになることのない、不思議なご性分の人なので、どのようにしてお気づきになったのだろう」とあきれて、何ともおっしゃれない。
 
 
 

第四段 宮中から使者が来て、浮舟、危機を脱出

 
   「上達部あまた参りたまふ日にて、遊び戯れては、例も、かかる時は遅くも渡りたまへば、皆うちとけてやすみたまふぞかし。
 さても、いかにすべきことぞ。
 かの乳母こそ、おぞましかりけれ。
 つと添ひゐて護りたてまつり、引きもかなぐりたてまつりつべくこそ思ひたりつれ」
 「上達部が大勢参上なさっている日なので、遊びに興じなさっては、いつも、このようなときには遅くお渡りになるので、みな気を許してお休みになっているのです。
 それにしても、どうしたらよいことでしょう。
 あの乳母は、気が強かった。
 ぴったりと付き添ってお守り申して、引っ張って放しかねないほどに思っていました」
   と、少将と二人していとほしがるほどに、内裏より人参りて、大宮この夕暮より御胸悩ませたまふを、ただ今いみじく重く悩ませたまふよし申さす。
 右近、
 と、少将と二人で気の毒がっているところに、内裏から使者が参上して、大宮が今日の夕方からお胸を苦しがりあそばしていたが、ただ今ひどく重態におなりあそばした旨を申し上げる。
 右近は、
   「心なき折の御悩みかな。
 聞こえさせむ」
 「折悪いご病気だわ。
 申し上げましょう」
   とて立つ。
 少将、
 と言って立つ。
 少将は、
   「いでや、今は、かひなくもあべいことを、をこがましく、あまりな脅かしきこえたまひそ」  「さあ、でも、今からでは、手遅れであろうから、馬鹿らしくあまり脅かしなさいますな」
   と言へば、  と言うと、
   「いな、まだしかるべし」  「いや、まだそこまではいってないでしょう」
   と、忍びてささめき交はすを、上は、「いと聞きにくき人の御本性にこそあめれ。
 すこし心あらむ人は、わがあたりをさへ疎みぬべかめり」と思す。
 
 と、ひそひそとささやき合うのを、上は、「とても聞きずらいご性分の人のようだわ。
 少し考えのある人なら、わたしのことまでを軽蔑するだろう」とお思いになる。
 
   参りて、御使の申すよりも、今すこしあわたたしげに申しなせば、動きたまふべきさまにもあらぬ御けしきに、  参上して、ご使者が申したのよりも、もう少し急なように申し上げると、動じそうもないご様子で、
   「誰れか参りたる。
 例の、おどろおどろしく脅かす」
 「誰が参ったか。
 いつものように、大げさに脅かしている」
   とのたまはすれば、  とおっしゃるので、
   「宮の侍に、平重経となむ名のりはべりつる」  「中宮職の侍者で、平重経と名乗りました」
   と聞こゆ。
 出でたまはむことのいとわりなく口惜しきに、人目も思されぬに、右近立ち出でて、この御使を西面にてと言へば、申し次ぎつる人も寄り来て、
 と申し上げる。
 お出かけになることがとても心残りで残念なので、人目も構っていられないので、右近が現れ出て、このご使者を西表で尋ねると、取り次いだ女房も近寄って来て、
   「中務宮、参らせたまひぬ。
 大夫は、ただ今なむ、参りつる道に、御車引き出づる、見はべりつ」
 「中務宮が、いらっしゃいました。
 中宮大夫は、ただ今、参ります途中で、お車を引き出しているのを、拝見しました」
   と申せば、「げに、にはかに時々悩みたまふ折々もあるを」と思すに、人の思すらむこともはしたなくなりて、いみじう怨み契りおきて出でたまひぬ。
 
 と申し上げるので、「なるほど、急に時々お苦しみになる折々もあるが」とお思いになるが、人がどう思うかも体裁悪くなって、たいそう恨んだり約束なさったりしてお出になった。
 
 
 

第五段 乳母、浮舟を慰める

 
   恐ろしき夢の覚めたる心地して、汗におし浸して臥したまへり。
 乳母、うち扇ぎなどして、
 恐ろしい夢から覚めたような気がして、汗にびっしょり濡れてお臥せりになっていた。
 乳母が、扇いだりなどして、
   「かかる御住まひは、よろづにつけて、つつましう便なかりけり。
 かくおはしましそめて、さらに、よきことはべらじ。
 あな、恐ろしや。
 限りなき人と聞こゆとも、やすからぬ御ありさまは、いとあぢきなかるべし。
 
 「このようなお住まいは、何かにつけて、遠慮されて不都合であった。
 このように一度お会いなさっては、今後、良いことはございますまい。
 ああ、恐ろしい。
 この上ない方と申し上げても、穏やかならぬお振る舞いは、まことに困ったことです。
 
   よそのさし離れたらむ人にこそ、善しとも悪しともおぼえられたまはめ、人聞きもかたはらいたきこと、と思ひたまへて、降魔の相を出だして、つと見たてまつりつれば、いとむくつけく、下衆下衆しき女と思して、手をいといたくつませたまひつるこそ、直人の懸想だちて、いとをかしくもおぼえはべりつれ。
 
 他人で縁故のないような人なら、良いとも悪いとも思っていただきましょうが、外聞も体裁悪いこと、と存じられて、降魔の相をして、じっと睨み続け申したところ、とても気持ち悪く、下衆っぽい女とお思いになって、手をひどくおつねりになったのは、普通の人の懸想めいて、とてもおかしくも思われました。
 
   かの殿には、今日もいみじくいさかひたまひけり。
 「ただ一所の御上を見扱ひたまふとて、わが子どもをば思し捨てたり、客人のおはするほどの御旅居見苦し」と、荒々しきまでぞ聞こえたまひける。
 下人さへ聞きいとほしがりけり。
 
 あの殿では、今日もひどく喧嘩をなさいました。
 「ただお一方のお身の上をお世話するといって、自分の娘を放りっぱなしになさって、客人がおいでになっている時のご外泊は見苦しい」と、荒々しいまでに非難申し上げなさっていました。
 下人までが聞きずらく思っていました。
 
   「すべてこの少将の君ぞ、いと愛敬なくおぼえたまふ。
 この御ことはべらざらましかば、うちうちやすからずむつかしきことは、折々はべりとも、なだらかに、年ごろのままにておはしますべきものを」
 ぜんたいが、この少将の君がとても愛嬌ない方と思われなさいます。
 あの事がございませんでしたら、内輪で穏やかでない厄介な事が、時々ございましても、穏便に、今までの状態でいらっしゃることができましたものを」
   など、うち嘆きつつ言ふ。
 
 などと、嘆息しながら言う。
 
   君は、ただ今はともかくも思ひめぐらされず、ただいみじくはしたなく、見知らぬ目を見つるに添へても、「いかに思すらむ」と思ふに、わびしければ、うつぶし臥して泣きたまふ。
 いと苦しと見扱ひて、
 君は、ただ今は何もかも考えることができず、ただひどくいたたまれず、これまでに経験したこともないような目に遭った上に、「どのようにお思いになっているだろう」と思うと、つらいので、うつ臥してお泣きになる。
 とてもおいたわしいとなだめかねて、
   「何か、かく思す。
 母おはせぬ人こそ、たづきなう悲しかるべけれ。
 よそのおぼえは、父なき人はいと口惜しけれど、さがなき継母に憎まれむよりは、これはいとやすし。
 ともかくもしたてまつりたまひてむ。
 な思し屈ぜそ。
 
 「どうして、こんなにお嘆きになります。
 母親がいらっしゃらない人こそ、頼りなく悲しいことでしょう。
 世間から見ると、父親のいない人はとても残念ですが、意地悪な継母に憎まれるよりは、この方がとても気が楽です。
 何とかして差し上げましょう。
 くよくよなさいますな。
 
   さりとも、初瀬の観音おはしませば、あはれと思ひきこえたまふらむ。
 ならはぬ御身に、たびたびしきりて詣でたまふことは、人のかくあなづりざまにのみ思ひきこえたるを、かくもありけり、と思ふばかりの御幸ひおはしませ、とこそ念じはべれ。
 あが君は、人笑はれにては、やみたまひなむや」
 そうはいっても、初瀬の観音がいらっしゃるので、お気の毒とお思い申し上げなさるでしょう。
 旅馴れないお身の上なのに、度々参詣なさることは、人がこのように侮りがちにお思い申し上げているのを、こんなであったのだ、と思うほどのご幸運がありますように、と念じております。
 わが姫君さまは、物笑いになって、終わりなさるでしょうか」
   と、世をやすげに言ひゐたり。
 
 と、何の心配もないように言っていた。
 
 
 

第六段 匂宮、宮中へ出向く

 
   宮は、急ぎて出でたまふなり。
 内裏近き方にやあらむ、こなたの御門より出でたまへば、もののたまふ御声も聞こゆ。
 いとあてに限りもなく聞こえて、心ばへある古言などうち誦じたまひて過ぎたまふほど、すずろにわづらはしくおぼゆ。
 移し馬ども牽き出だして、宿直にさぶらふ人、十人ばかりして参りたまふ。
 
 宮は、急いでお出かけになる様子である。
 内裏に近い方からであろうか、こちらの御門からお出になるので、何かお命じになるお声が聞こえる。
 たいそう上品でこの上ないお声に聞こえて、風情のある古歌などを口ずさみなさってお過ぎになるところ、何となくやっかいに思われる。
 予備の馬を牽き出して、宿直に伺候する人を、十人ほど連れて参内なさる。
 
   上、いとほしく、うたて思ふらむとて、知らず顔にて、  上は、お気の毒に、嫌な気がしているだろうと思って、知らないそぶりして、
   「大宮悩みたまふとて参りたまひぬれば、今宵は出でたまはじ。
 泔の名残にや、心地も悩ましくて起きゐはべるを、渡りたまへ。
 つれづれにも思さるらむ」
 「大宮がご病気だとて参内なさってしまったので、今夜はお帰りになりますまい。
 洗髪したせいか、気分もさえなくて起きておりますので、いらっしゃいませ。
 お寂しくいらっしゃいましょう」
   と聞こえたまへり。
 
 と申し上げなさった。
 
   「乱り心地のいと苦しうはべるを、ためらひて」  「気分がとても悪うございますので、おさまりましてから」
   と、乳母して聞こえたまふ。
 
 と、乳母を使って申し上げなさる。
 
   「いかなる御心地ぞ」  「どのようなご気分ですか」
   と、返り訪らひきこえたまへば、  と、折り返してお見舞いなさるので、
   「何心地ともおぼえはべらず、ただいと苦しくはべり」  「どこが悪いとも分かりませんが、ただとても苦しうございます」
   と聞こえたまへば、少将、右近目まじろきをして、  と申し上げなさるので、少将と、右近は目くばせをして、
   「かたはらぞいたくおはすらむ」  「きまり悪くお思いでしょう」
   と言ふも、ただなるよりはいとほし。
 
 と言うのも、誰も知らないよりはお気の毒である。
 
   「いと口惜しう心苦しきわざかな。
 大将の心とどめたるさまにのたまふめりしを、いかにあはあはしく思ひ落とさむ。
 かく乱りがはしくおはする人は、聞きにくく、実ならぬことをもくねり言ひ、またまことにすこし思はずならむことをも、さすがに見許しつべうこそおはすめれ。
 
 「とても残念でお気の毒なこと。
 大将が関心のあるようにおっしゃっているようであったが、どんなにか軽薄な女とさげすむであろう。
 こうばかり好色がましくいらっしゃる方は、聞くに堪えなく、事実でないことをもひねくり出し、また実際不都合なことがあっても、さすがに大目に見る方でいらっしゃるようだ。
 
   この君は、言はで憂しと思はむこと、いと恥づかしげに心深きを、あいなく思ふこと添ひぬる人の上なめり。
 年ごろ見ず知らざりつる人の上なれど、心ばへ容貌を見れば、え思ひ離るまじう、らうたく心苦しきに、世の中はありがたくむつかしげなるものかな。
 
 この君は、表面には出さないで心中に思っていることは、とてもこちらが恥ずかしいほど心深く立派だが、不本意にも心配事が加わった身の上のようだ。
 長年見ず知らずであった身の上の人であるが、気立てや器量を見ると、放っておくことができず、かわいらしくおいたわしいので、世の中は生きにくく難しいものだなあ。
 
   わが身のありさまは、飽かぬこと多かる心地すれど、かくものはかなき目も見つべかりける身の、さは、はふれずなりにけるにこそ、げに、めやすきなりけれ。
 今はただ、この憎き心添ひたまへる人の、なだらかにて思ひ離れなば、さらに何ごとも思ひ入れずなりなむ」
 わが身のありさまは、物足りないところが多くある気持ちがするが、このように人並みにも扱われないはずであった身の上が、そのようには、落ちぶれなかったのは、なるほど、結構なことであった。
 今はただ、あの憎い懸想心がおありの方が、平穏になって離れてたら、まったく何もくよくよすることはなくなるだろう」
   と思ほす。
 いと多かる御髪なれば、とみにもえ乾しやらず、起きゐたまへるも苦し。
 白き御衣一襲ばかりにておはする、細やかにてをかしげなり。
 
 とお思いになる。
 とても多い御髪なので、すぐには乾かすことができず、起きていらっしゃるのもつらい。
 白い御衣を一襲だけお召しになっているのは、ほっそりと美しい。
 
 
 

第七段 中君、浮舟を慰める

 
   この君は、まことに心地も悪しくなりにたれど、乳母、  この君は、ほんとうに気分も悪くなっていたが、乳母が、
   「いとかたはらいたし。
 事しもあり顔に思すらむを。
 ただおほどかにて見えたてまつりたまへ。
 右近の君などには、事のありさま、初めより語りはべらむ」
 「とてもみっともありません。
 何かあったようにお思いになられましょうよ。
 ただおっとりとお目にかかりなさいませ。
 右近の君などには、事のありさまを、初めからお話しましょう」
   と、せめてそそのかしたてて、こなたの障子のもとにて、  と、無理に促して、こちらの障子のもとで、
   「右近の君にもの聞こえさせむ」  「右近の君にお話し申し上げたい」
   と言へば、立ちて出でたれば、  と言うと、立って出て来たので、
   「いとあやしくはべりつることの名残に、身も熱うなりたまひて、まめやかに苦しげに見えさせたまふを、いとほしく見はべる。
 御前にて慰めきこえさせたまへ、とてなむ。
 過ちもおはせぬ身を、いとつつましげに思ほしわびためるも、いささかにても世を知りたまへる人こそあれ、いかでかはと、ことわりに、いとほしく見たてまつる」
 「とてもおかしなことのございましたせいで、熱がお出になって、ほんとうに苦しそうにお見えなさるのを、気の毒に拝見しています。
 御前で慰めていただきたい、と思いまして。
 過失もおありでない身で、とてもきまり悪そうに困っていらっしゃるのも、少しでも男女関係を経験した者ならともかく、とてもとてもそう平気でいらっしゃれまいと、ご無理もない、お気の毒なことと存じあげます」
   とて、引き起こして参らせたてまつる。
 
 と言って、起こしたててお連れ申し上げる。
 
   我にもあらず、人の思ふらむことも恥づかしけれど、いとやはらかにおほどき過ぎたまへる君にて、押し出でられて居たまへり。
 額髪などの、いたう濡れたる、もて隠して、灯の方に背きたまへるさま、上をたぐひなく見たてまつるに、け劣るとも見えず、あてにをかし。
 
 正体もなく、皆が想像しているだろうことも恥ずかしいけれど、たいそう素直でおっとりし過ぎていらっしゃる姫君で、押し出されて座っていらしゃった。
 額髪などが、ひどく濡れているのを。
 ちょっと隠して、燈火の方に背を向けていらっしゃる姿は、上をこの上なく美しいと拝見しているのと、劣るとも見えず、上品で美しい。
 
   「これに思しつきなば、めざましげなることはありなむかし。
 いとかからぬをだに、めづらしき人、をかしうしたまふ御心を」
 「この人にご執心なさったら、不愉快なことがきっと起ころう。
 これほど美しくない人でさえ、珍しい人に、ご興味をお持ちになるご性分だから」
   と、二人ばかりぞ、御前にてえ恥ぢたまはねば、見ゐたりける。
 物語いとなつかしくしたまひて、
 と、二人ばかりが、御前のこととて恥ずかしがっていらっしゃれないので、見ていた。
 お話をとてもやさしくなさって、
   「例ならずつつましき所など、な思ひなしたまひそ。
 故姫君のおはせずなりにしのち、忘るる世なくいみじく、身も恨めしく、たぐひなき心地して過ぐすに、いとよく思ひよそへられたまふ御さまを見れば、慰む心地してあはれになむ。
 思ふ人もなき身に、昔の御心ざしのやうに思ほさば、いとうれしくなむ」
 「馴れない気の置ける所などと、お思いなさいますな。
 故姫君がお亡くなりになって後、忘れる時もなくひどく悲しく、身も恨めしく、例のないような気持ちで過ごして来ましたが、とてもよく似ていらっしゃるご様子を見ると、慰められる気がして感慨深いです。
 大切に思ってくれる肉親もない身なので、故人のお気持ちのようにお思いくださったら、とても嬉しいです」
   など語らひたまへど、いとものつつましくて、また鄙びたる心に、いらへきこえむこともなくて、  などとお話しになるが、とても遠慮されて、また田舎者めいた気持ちで、お答え申し上げる言葉も浮かばなくて、
   「年ごろ、いと遥かにのみ思ひきこえさせしに、かう見たてまつりはべるは、何ごとも慰む心地しはべりてなむ」  「長年、とても遥か遠くにばかりお思い申し上げていましたので、このようにお目にかからせていただきますのは、すべてが思い慰められるような気がいたしております」
   とばかり、いと若びたる声にて言ふ。
 
 とだけ、とても若々しい声で言う。
 
 
 

第八段 浮舟と中君、物語絵を見ながら語らう

 
   絵など取り出でさせて、右近に詞読ませて見たまふに、向ひてもの恥ぢもえしあへたまはず、心に入れて見たまへる灯影、さらにここと見ゆる所なく、こまかにをかしげなり。
 額つき、まみの薫りたる心地して、いとおほどかなるあてさは、ただそれとのみ思ひ出でらるれば、絵はことに目もとどめたまはで、
 絵などを取り出させて、右近に詞書を読ませて御覧になると、向かい合って恥ずかしがっていることもおできになれず、熱心に御覧になっている燈火の姿、まったくこれという欠点もなく、繊細で美しい。
 額の具合、目もとがほんのりと匂うような感じがして、とてもおっとりとした上品さは、まるで亡くなった姫君かとばかり思い出されるので、絵は特に目もお止めにならず、
   「いとあはれなる人の容貌かな。
 いかでかうしもありけるにかあらむ。
 故宮にいとよく似たてまつりたるなめりかし。
 故姫君は、宮の御方ざまに、我は母上に似たてまつりたるとこそは、古人ども言ふなりしか。
 げに、似たる人はいみじきものなりけり」
 「とてもよく似た器量の人だわ。
 どうしてこんなにも似ているのであろう。
 亡き父宮にとてもよくお似申していらっしゃるようだ。
 亡き姫君は、父宮の御方に、わたしは母上にお似申していたと、老女連中は言っていたようだ。
 なるほど、似た人はひどく懐かしいものであった」
   と思し比ぶるに、涙ぐみて見たまふ。
 
 とお比べになると、涙ぐんで御覧になる。
 
   「かれは、限りなくあてに気高きものから、なつかしうなよよかに、かたはなるまで、なよなよとたわみたるさまのしたまへりしにこそ。
 
 「姉君は、この上なく上品で気高い感じがする一方で、やさしく柔らかく、度が過ぎるくらいなよなよともの柔らかくいらっしゃった。
 
   これは、またもてなしのうひうひしげに、よろづのことをつつましうのみ思ひたるけにや、見所多かるなまめかしさぞ劣りたる。
 ゆゑゆゑしきけはひだにもてつけたらば、大将の見たまはむにも、さらにかたはなるまじ」
 この妹君は、まだ態度が初々しくて万事を遠慮がちにばかり思っているせいか、見栄えのする優雅さという点で劣っている。
 重々しい雰囲気だけでもついたならば、大将が結婚なさるにも、全然不都合ではあるまい」
   など、このかみ心に思ひ扱はれたまふ。
 
 などと、姉心にお世話がやかれなさる。
 
   物語などしたまひて、暁方になりてぞ寝たまふ。
 かたはらに臥せたまひて、故宮の御ことども、年ごろおはせし御ありさまなど、まほならねど語りたまふ。
 いとゆかしう、見たてまつらずなりにけるを、「いと口惜しう悲し」と思ひたり。
 昨夜の心知りの人びとは、
 お話などなさって、暁方になってお寝みになる。
 横に寝せなさって、故父宮のお話や、生前のご様子などを、ぽつりぽつりとお話しになる。
 とても会いたく、お目にかかれずに終わってしまったことを、「たいそう残念に悲しい」と思っていた。
 昨夜の事情を知っている女房たちは、
   「いかなりつらむな。
 いとらうたげなる御さまを。
 いみじう思すとも、甲斐あるべきことかは。
 いとほし」
 「どうしたのでしょうね。
 とてもかわいらしいご様子でしたが。
 どんなにおかわいがりになっても、その効がないでしょうね。
 かわいそうなこと」
   と言へば、右近ぞ、  と言うと、右近が、
   「さも、あらじ。
 かの御乳母の、ひき据ゑてすずろに語り愁へしけしき、もて離れてぞ言ひし。
 宮も、逢ひても逢はぬやうなる心ばへにこそ、うちうそぶき口ずさびたまひしか」
 「そうでも、ありません。
 あの乳母が、わたしをつかまえてとりとめもなく愚痴をこぼした様子では、何もなかったと言っていました。
 宮も、会っても会わないような意味の古歌を、口ずさんでいらっしゃいました」
   「いさや。
 ことさらにもやあらむ。
 そは、知らずかし」
 「さあね。
 わざとそう言ったのかも。
 それは、知りませんわ」
   「昨夜の火影のいとおほどかなりしも、事あり顔には見えたまはざりしを」  「昨夜の燈火の姿がとてもおっとりしていたのも、何かあったようにはお見えになりませんでした」
   など、うちささめきていとほしがる。
 
 などと、ひそひそ言って気の毒がる。
 
 
 

第五章 浮舟の物語 浮舟、三条の隠れ家に身を寄せる

 
 

第一段 乳母の急報に浮舟の母、動転す

 
   乳母、車請ひて、常陸殿へ往ぬ。
 北の方にかうかうと言へば、胸つぶれ騷ぎて、「人もけしからぬさまに言ひ思ふらむ。
 正身もいかが思すべき。
 かかる筋のもの憎みは、貴人もなきものなり」と、おのが心ならひに、あわたたしく思ひなりて、夕つ方参りぬ。
 
 乳母は、車を頼んで、常陸殿邸へ行った。
 北の方にこれこれでしたと言うと、驚きあわてて、「女房が怪しからんことのように言ったり思ったりするだろう。
 ご本人もどのようにお思いであろう。
 このようなことでの嫉妬は、高貴な方も変わりないものだ」と、自分の経験からじっとしてしていられなくなって、夕方参上した。
 
   宮おはしまさねば心やすくて、  宮がいらっしゃらないので安心して、
   「あやしく心幼げなる人を参らせおきて、うしろやすくは頼みきこえさせながら、鼬のはべらむやうなる心地のしはべれば、よからぬものどもに、憎み恨みられはべる」  「妙に子供じみた娘を置いていただき、安心してお頼み申し上げていましたが、鼬がおりますような気がしますので、ろくでもない家の者たちに、憎まれたり恨まれたりしております」
   と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
   「いとさ言ふばかりの幼さにはあらざめるを。
 うしろめたげにけしきばみたる御まかげこそ、わづらはしけれ」
 「とてもそう言うような子供ではないと思いますが。
 心配そうに疑っていらっしゃるお口ぶりが、気になりますこと」
   とて笑ひたまへるが、心恥づかしげなる御まみを見るも、心の鬼に恥づかしくぞおぼゆる。
 「いかに思すらむ」と思へば、えもうち出で聞こえず。
 
 と言って笑っていらっしゃるのが、気おくれするようなお目もとを見ると、内心気が咎める。
 「どのように思っていらっしゃるだろう」と思うと、何も申し上げることができない。
 
   「かくてさぶらひたまはば、年ごろの願ひの満つ心地して、人の漏り聞きはべらむもめやすく、おもだたしきことになむ思ひたまふるを、さすがにつつましきことになむはべりける。
 深き山の本意は、みさをになむはべるべきを」
 「こうしてお側に置かせていただけるなら、長年の願いが叶う気持ちがして、誰が漏れ聞きましても体裁よく、面目がましくことに存じられますが、やはり気兼ねされることでございました。
 出家の本願は、固く守って変わらぬものでございますものを」
   とて、うち泣くもいといとほしくて、  と言って、泣くのもとても気の毒で、
   「ここには、何事かうしろめたくおぼえたまふべき。
 とてもかくても、疎々しく思ひ放ちきこえばこそあらめ、けしからずだちてよからぬ人の、時々ものしたまふめれど、その心を皆人見知りためれば、心づかひして、便なうはもてなしきこえじと思ふを、いかに推し量りたまふにか」
 「こちらでは、どのようなことを不安に思われるでしょうか。
 どうなるにせよ、よそよそしく見放しているのならともかく、けしからぬ気を起こして困った方が、時々いらっしゃるようだが、その性質を誰もが知っているので、気をつけて、不都合なお扱いはいたすまいと思うのですが、どのようにお思いなのでしょうか」
   とのたまふ。
 
 おっしゃる。
 
   「さらに、御心をば隔てありても思ひきこえさせはべらず。
 かたはらいたう許しなかりし筋は、何にかかけても聞こえさせはべらむ。
 その方ならで、思ほし放つまじき綱もはべるをなむ、とらへ所に頼みきこえさする」
 「まったく、お心隔てがあるとは存じ上げておりません。
 お恥ずかしいことに認知していただけなかったことは、どうして今さら申し上げましょう。
 そのことでなくても、離れない縁がございますのを、よりどころとしてお頼み申し上げています」
   など、おろかならず聞こえて、  などと、並々ならずお頼み申し上げて、
   「明日明後日、かたき物忌にはべるを、おほぞうならぬ所にて過ぐして、またも参らせはべらむ」  「明日明後日に、固い物忌みがございますので、厳重な所で過ごして、改めて参上させましょう」
   と聞こえて、いざなふ。
 「いとほしく本意なきわざかな」と思せど、えとどめたまはず。
 あさましうかたはなることに驚き騷ぎたれば、をさをさものも聞こえで出でぬ。
 
 と申し上げて、連れて行く。
 「お気の毒に不本意なことだわ」とお思いになるが、引き止めなさることもできない。
 思いがけない不祥事に驚き騒いでいたので、ろくろく挨拶も申し上げないで出発した。
 
 
 

第二段 浮舟の母、娘を三条の隠れ家に移す

 
   かやうの方違へ所と思ひて、小さき家まうけたりけり。
 三条わたりに、さればみたるが、まだ造りさしたる所なれば、はかばかしきしつらひもせでなむありける。
 
 このような方違えの場所と思って、小さい家を準備していたのであった。
 三条近辺に、しゃれた家が、まだ造りかけのところなので、これといった設備もできていなかった。
 
   「あはれ、この御身一つを、よろづにもて悩みきこゆるかな。
 心にかなはぬ世には、あり経まじきものにこそありけれ。
 みづからばかりは、ただひたぶるに品々しからず人げなう、たださる方にはひ籠もりて過ぐしつべし。
 このゆかりは、心憂しと思ひきこえしあたりを、睦びきこゆるに、便なきことも出で来なば、いと人笑へなるべし。
 あぢきなし。
 ことやうなりとも、ここを人にも知らせず、忍びておはせよ。
 おのづからともかくも仕うまつりてむ」
 「ああ、この方一人を、いろいろと持て余し申し上げることよ。
 思い通りにいかない世の中では、長生きなんかするものではない。
 自分一人は、平凡にまったくの身分もなく人並みでない、ただ受領の後妻として引っ込んで過ごせもしよう。
 こちらのご親戚筋は、つらいとお思い申し上げた方を、お親しみ申し上げて、不都合なことが出てきたら、実に物笑いなことでしょう。
 つまらないことだ。
 粗末な家であるけれども、この家を誰にも知らせず、こっそりといらっしゃいませ。
 そのうち何とかうまくして上げましょう」
   と言ひおきて、みづからは帰りなむとす。
 君は、うち泣きて、「世にあらむこと所狭げなる身」と、思ひ屈したまへるさま、いとあはれなり。
 親はた、ましてあたらしく惜しければ、つつがなくて思ふごと見なさむと思ひ、さるかたはらいたきことにつけて、人にもあはあはしく思はれむが、やすからぬなりけり。
 
 と言い置いて、自分自身は帰ろうとする。
 姫君は、ちょっと泣いて、「生きているのも肩身の狭い思いだ」と、沈んでいらっしゃる様子、とても気の毒である。
 母親は母親で、それ以上に惜しくも残念なので、何の支障もなくて思う通りに縁づけてやりたいと思い、あのいたたまれない事件によって、人からいかにも軽薄に思われたり言われたりするのが、気になってならないのであった。
 
   心地なくなどはあらぬ人の、なま腹立ちやすく、思ひのままにぞすこしありける。
 かの家にも隠ろへては据ゑたりぬべけれど、しか隠ろへたらむをいとほしと思ひて、かく扱ふに、年ごろかたはら去らず、明け暮れ見ならひて、かたみに心細くわりなしと思へり。
 
 思慮が浅いというのではない人で、やや腹を立てやすくて、気持ちのままに行動するところが少しあったのだった。
 あの家でも隠して置けたであろうが、そのように引っ込ませておくのを気の毒に思って、このようにお世話するので、長年側を離れず、毎日一緒にいたので、互いに心細く堪え難く思っていた。
 
   「ここは、またかくあばれて、危ふげなる所なめり。
 さる心したまへ。
 曹司曹司にある物ども、召し出でて使ひたまへ。
 宿直人のことなど言ひおきてはべるも、いとうしろめたけれど、かしこに腹立ち恨みらるるが、いと苦しければ」
 「ここは、まだこうして造作が整っていず、危なっかしい所のようです。
 用心しなさい。
 あちこちの部屋にある道具類を、持ち出してお使いなさい。
 宿直人のことなどを言いつけてありますのも、とても気がかりですが、あちらに怒られ恨まれるのが、とても困るので」
   と、うち泣きて帰る。
 
 と、ちょっと泣いて帰る。
 
 
 

第三段 母、左近少将と和歌を贈答す

 
   少将の扱ひを、守は、またなきものに思ひ急ぎて、「もろ心に、さま悪しく、営まず」と怨ずるなりけり。
 「いと心憂く、この人により、かかる紛れどももあるぞかし」と、またなく思ふ方のことのかかれば、つらく心憂くて、をさをさ見入れず。
 
 少将の待遇を、常陸介は、この上ないものに思って準備し、「一緒に、ぶざまにも、世話をしてくれない」と恨むのであった。
 「とても億劫で、この人のために、このような厄介事が起こったのだ」と、この上もなく大事な娘がこのようなことになったので、つらく情けなくて、少しも世話をしない。
 
   かの宮の御前にて、いと人げなく見えしに、多く思ひ落としてければ、「私ものに思ひかしづかましを」など、思ひしことはやみにたり。
 「ここにては、いかが見ゆらむ。
 まだうちとけたるさま見ぬに」と思ひて、のどかにゐたまへる昼つ方、こなたに渡りて、ものより覗く。
 
 あの宮の御前で、たいそう貧相に見えたので、たぶんに軽蔑してしまっていたので、「秘蔵の婿にとお世話申し上げたい」などと、思った気持ちもなくなってしまった。
 「ここでは、どのように見えるであろうか。
 まだ気を許した姿は見えないが」と思って、くつろいでいらした昼頃、こちらの対に来て、物蔭から覗く。
 
   白き綾のなつかしげなるに、今様色の擣目などもきよらなるを着て、端の方に前栽見るとて居たるは、「いづこかは劣る。
 いときよげなめるは」と見ゆ。
 娘、まだ片なりに、何心もなきさまにて添ひ臥したり。
 宮の上の並びておはせし御さまどもの思ひ出づれば、「口惜しのさまどもや」と見ゆ。
 
 白い綾の柔らかい感じの下着に、紅梅色の打ち目なども美しいのを着て、端の方に前栽を見ようとして座っているのは、「どこが劣ろうか。
 とても美しいようだ」と見える。
 娘は、とてもまだ幼なそうで、無心な様子で添い臥していた。
 宮の上が並んでいらしたご様子を思い出すと、「物足りない二人だわ」と見える。
 
   前なる御達にものなど言ひ戯れて、うちとけたるは、いと見しやうに、匂ひなく人悪ろげにて見えぬを、「かの宮なりしは、異少将なりけり」と思ふ折しも、言ふことよ。
 
 前にいる御達に、何か冗談を言って、くつろいでいるのは、とても見たように、見栄えがしなく貧相には見えないのは、「あの宮にいた時とは、まるで別の少将だなあ」と思ったとたんに、こう言うではないか。
 
   「兵部卿宮の萩の、なほことにおもしろくもあるかな。
 いかで、さる種ありけむ。
 同じ枝さしなどのいと艶なるこそ。
 一日参りて、出でたまふほどなりしかば、え折らずなりにき。
 『ことだに惜しき』と、宮のうち誦じたまへりしを、若き人たちに見せたらましかば」
 「兵部卿宮の萩が、やはり格別に美しかったなあ。
 どのようにして、あのような種ができたのであろうか。
 同じ萩ながら枝ぶりが実に優美であったよ。
 先日参上して、お出かけになるところだったので、折ることができずになってしまった。
 『色が褪せることさえ惜しいのに』と、宮が口ずさみなさったのを、若い女房たちに見せたならば」
   とて、我も歌詠みゐたり。
 
 と言って、自分でも歌を詠んでいた。
 
   「いでや。
 心ばせのほどを思へば、人ともおぼえず、出で消えはいとこよなかりけるに。
 何ごと言ひたるぞ」
 「どんなものかしら。
 気持ちのほどを思うと、人並みにも思えず、人前に出ては普段より見劣りがしていたのだが。
 どのように詠むのであろうか」
   とつぶやかるれど、いと心地なげなるさまは、さすがにしたらねば、いかが言ふとて、試みに、  とぶつぶつ言いたくなるが、大して物の分からない様子には、そうはいっても見えないので、どのように詠むかと、試しに、
 

725
 「しめ結ひし 小萩が上も 迷はぬに
 いかなる露に 映る下葉ぞ」
 「囲いをしていた小萩の上葉は乱れもしないのに
  どうした露で色が変わった下葉なのでしょう」
 
   とあるに、惜しくおぼえて、  と言うと、捨て難く思って、
 

726
 「宮城野の 小萩がもとと 知らませば
 露も心を 分かずぞあらまし
 「宮城野の小萩のもとと知っていたならば
  露は少しも心を分け隔てしなかったでしょうに
 
   いかでみづから聞こえさせあきらめむ」  何とか自分自身で申し開きしたいものです」
   と言ひたり。
 
 言っていた。
 
 
 

第四段 母、薫のことを思う

 
   「故宮の御こと聞きたるなめり」と思ふに、「いとどいかで人と等しく」とのみ思ひ扱はる。
 あいなう、大将殿の御さま容貌ぞ、恋しう面影に見ゆる。
 同じうめでたしと見たてまつりしかど、宮は思ひ離れたまひて、心もとまらず。
 あなづりて押し入りたまへりけるを、思ふもねたし。
 
 「故宮の御事を聞いているらしい」と思うと、「ますます何とかして人並みな結婚を」とばかり心にかかる。
 筋ちがいながら、大将殿のご様子や器量が、恋しく面影に現れる。
 同じく素晴らしい方と拝見したが、宮は問題にもなさらず、念頭にも思ってくださらない。
 侮って無理に入り込みなさったのを、思うにつけても悔しい。
 
   「この君は、さすがに尋ね思す心ばへのありながら、うちつけにも言ひかけたまはず、つれなし顔なるしもこそいたけれ、よろづにつけて思ひ出でらるれば、若き人は、まして、かくや思ひはてきこえたまふらむ。
 わがものにせむと、かく憎き人を思ひけむこそ、見苦しきことなべかりけれ」
 「この君は、何と言っても言い寄ろうとするお気持ちがありながら、急にはおっしゃらず、平気を装っていらっしゃるのは大したものだ、なにごとにつけても思い出されるので、若い娘は、わたし以上に、このようにお思い申し上げていらっしゃるだろう。
 自分の婿にしようと、このような憎い男を思ったのこそ、見苦しいことであった」
   など、ただ心にかかりて、眺めのみせられて、とてやかくてやと、よろづによからむあらまし事を思ひ続くるに、いと難し。
 
 などと、ただ気になって、物思いばかりがされて、ああしたらこうしたらと、万事に良い将来の事を思い続けるが、とても実現は難しい。
 
   「やむごとなき御身のほど、御もてなし、見たてまつりたまへらむ人は、今すこしなのめならず、いかばかりにてかは心をとどめたまはむ。
 世の人のありさまを見聞くに、劣りまさり、いやしうあてなる、品に従ひて、容貌も心もあるべきものなりけり。
 
 「高貴なご身分や、ご風采、ご結婚申し上げなさった方は、もう一段優れた方であるから、どのような人であったらお心を止めてくださるだろうか。
 世間の人のありさまを見たり聞いたりすると、優劣は、身分の高低や、出自の尊卑によって、器量も気立ても決まるものであった。
 
   わが子どもを見るに、この君に似るべきやはある。
 少将を、この家のうちにまたなき者に思へども、宮に見比べたてまつりしは、いとも口惜しかりしに推し量らる。
 当帝の御かしづき女を得たてまつりたまへらむ人の御目移しには、いともいとも恥づかしく、つつましかるべきものかな」
 自分の娘たちを見ても、この姫君に似た者がいようか。
 少将を、この家の内でまたとない人のように思っているが、宮とご比較申しては、まったく話にもならないほどに推察される。
 今上帝の御秘蔵の娘をいただきなさったような方のお目から見れば、とてもとても恥ずかしく、気が引けるにちがいないな」
   と思ふに、すずろに心地もあくがれにけり。
 
 と思うと、何となく気分もうわの空になってしまった。
 
 
 

第五段 浮舟の三条のわび住まい

 
   旅の宿りは、つれづれにて、庭の草もいぶせき心地するに、いやしき東声したる者どもばかりのみ出で入り、慰めに見るべき前栽の花もなし。
 うちあばれて、晴れ晴れしからで明かし暮らすに、宮の上の御ありさま思ひ出づるに、若い心地に恋しかりけり。
 あやにくだちたまへりし人の御けはひも、さすがに思ひ出でられて、
 旅の宿は、所在なくて、庭の草もうっとうしい気がするので、卑しい東国の声をした連中ばかりが出入りして、慰めとして見ることのできる前栽の花もない。
 未完成の所で、気分も晴れないまま明かし暮らすので、宮の上のご様子を思い出すと、若い気持ちに恋しかった。
 困ったことをなさった方のご様子も、やはり思い出されて、
   「何事にかありけむ。
 いと多くあはれげにのたまひしかな」
 「何と言ったのだろうか。
 とてもたくさんしみじみとおっしゃったなあ」
   名残をかしかりし御移り香も、まだ残りたる心地して、恐ろしかりしも思ひ出でらる。
 
 立ち去った後の御移り香が、まだ残っている気がして、恐ろしかったことも思い出される。
 
   「母君、たつやと、いとあはれなる文を書きておこせたまふ。
 おろかならず心苦しう思ひ扱ひたまふめるに、かひなうもて扱はれたてまつること」とうち泣かれて、
 「母君が、どうしているだろうかと、とてもしみじみとした手紙を書いてお寄こしになる。
 並々ならずおいたわしく気づかってくださるようなのに、世話していただく効もないようなこと」とつい泣けてきて、
   「いかにつれづれに見ならはぬ心地したまふらむ。
 しばし忍び過ぐしたまへ」
 「どのように所在なく落ち着かない気がなさっていることでしょう。
 しばらく隠れてお過ごしなさい」
   とある返り事に、  とあるのに対する返事に、
   「つれづれは何か。
 心やすくてなむ。
 
 「所在なさが何でしょう。
 この方が気楽です。
 
 

727
 ひたぶるに うれしからまし 世の中に
 あらぬ所と 思はましかば」
 一途に嬉しいことでしょう
 ここが世の中で別の世界だと思えるならば」
 
   と、幼げに言ひたるを見るままに、ほろほろとうち泣きて、「かう惑はしはふるるやうにもてなすこと」と、いみじければ、  と、子供っぽく詠んだのを見ながら、ほろほろと泣いて、「このように行方も定めずふらふらさせていること」と、ひどく悲しいので、
 

728
 「憂き世には あらぬ所を 求めても
 君が盛りを 見るよしもがな」
 「憂き世ではない所を尋ねてでも
  あなたの盛りの世を見たいものです」
 
   と、なほなほしきことどもを言ひ交はしてなむ、心のべける。
 
 と、素直な思いのままに詠み交わして、心情を吐露するのであった。
 
 
 

第六章 浮舟と薫の物語 薫、浮舟を伴って宇治へ行く

 
 

第一段 薫、宇治の御堂を見に出かける

 
   かの大将殿は、例の、秋深くなりゆくころ、ならひにしことなれば、寝覚め寝覚めにもの忘れせず、あはれにのみおぼえたまひければ、「宇治の御堂造り果てつ」と聞きたまふに、みづからおはしましたり。
 
 あの大将殿は、いつものように、秋が深まってゆくころ、習慣になっている事なので、夜の寝覚めごとに忘れず、しみじみとばかり思われなさったので、「宇治の御堂を造り終わった」と聞きなさると、ご自身でお出かけになった。
 
   久しう見たまはざりつるに、山の紅葉もめづらしうおぼゆ。
 こぼちし寝殿、こたみはいと晴れ晴れしう造りなしたり。
 昔いとことそぎて、聖だちたまへりし住まひを思ひ出づるに、この宮も恋しうおぼえたまひて、さま変へてけるも、口惜しきまで、常よりも眺めたまふ。
 
 久しく御覧にならなかったので、山の紅葉も珍しく思われる。
 解体した寝殿は、今度は立派に造り変えなさった。
 昔とても簡略にして、僧坊めいていらした住まいを思い出すと、この宮邸も恋しく思い出されなさって、様変りさせてしまったのも、残念なまでに、いつもより眺めていらっしゃる。
 
   もとありし御しつらひは、いと尊げにて、今片つ方を女しくこまやかになど、一方ならざりしを、網代屏風何かのあらあらしきなどは、かの御堂の僧坊の具に、ことさらになさせたまへり。
 山里めきたる具どもを、ことさらにせさせたまひて、いたうもことそがず、いときよげにゆゑゆゑしくしつらはれたり。
 
 もとからあったご設備は、たいへん尊重して、もう一方を女性向きにこまやかに整えるなどして、一様ではなかったが、網代屏風や何やらの粗末な物などは、あの御堂の僧坊の道具として、特別に役立たせなさった。
 山里めいた道具類を、特別に作らせなさって、ひどく簡略にせず、たいそう美しく奥ゆかしく作らせてあった。
 
   遣水のほとりなる岩に居たまひて、  遣水の辺にある岩にお座りになって、
 

729
 「絶え果てぬ 清水になどか 亡き人の
 面影をだに とどめざりけむ」
 「涸れてしまわないこの清水にどうして亡くなった人の
  面影だけでもとどめておかなかったのだろう」
 
   涙を拭ひて、弁の尼君の方に立ち寄りたまへれば、いと悲しと見たてまつるに、ただひそみにひそむ。
 長押にかりそめに居たまひて、簾のつま引き上げて、物語したまふ。
 几帳に隠ろへて居たり。
 ことのついでに、
 涙を拭いながら、弁の尼君の方にお立ち寄りになると、とても悲しいと拝見すると、ただべそをかくばかりである。
 長押にちょっとお座りになって、簾の端を引き上げて、お話なさる。
 几帳に隠れて座っていた。
 話のついでに、
   「かの人は、さいつころ宮にと聞きしを、さすがにうひうひしくおぼえてこそ、訪れ寄らね。
 なほ、これより伝へ果てたまへ」
 「あの人は、最近宮邸にいると聞いたが、やはりきまり悪く思われて、尋ねていません。
 やはり、こちらからすっかりお伝え下さい」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「一日、かの母君の文はべりき。
 忌違ふとて、ここかしこになむあくがれたまふめる。
 このころも、あやしき小家に隠ろへものしたまふめるも心苦しく、すこし近きほどならましかば、そこにも渡して心やすかるべきを、荒ましき山道に、たはやすくもえ思ひ立たでなむ、とはべりし」
 「先日、あの母君の手紙がございました。
 物忌みの方違えするといって、あちらこちらと移っていらしたようです。
 最近も、粗末な小家に隠れていらっしゃるらしいのも気の毒で、少し近い所であったら、そこに移して安心でしょうが、荒々しい山道で、簡単には思い立つことができないで、とございました」
   と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
   「人びとのかく恐ろしくすめる道に、まろこそ古りがたく分け来れ。
 何ばかりの契りにかと思ふは、あはれになむ」
 「人びとがこのように恐ろしがっているような山道を、自分は相変わらず分け入って来るのだ。
 どれほどの前世からの約束事があってかと思うと、感慨無量です」
   とて、例の、涙ぐみたまへり。
 
 と言って、いつものように、涙ぐんでいらっしゃった。
 
   「さらば、その心やすからむ所に、消息したまへ。
 みづからやは、かしこに出でたまはぬ」
 「それでは、その気楽な隠れ家に、お便りしてください。
 ご自身で、あちらに出向いてくださいませんか」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「仰せ言を伝へはべらむことはやすし。
 今さらに京を見はべらむことはもの憂くて、宮にだにえ参らぬを」
 「お言葉をお伝えしますことは簡単です。
 今さら京に出ますことは億劫で、宮邸にさえ参りませんのに」
   と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
 
 

第二段 薫、弁の尼に依頼して出る

 
   「などてか。
 ともかくも、人の聞き伝へばこそあらめ、愛宕の聖だに、時に従ひては出でずやはありける。
 深き契りを破りて、人の願ひを満てたまはむこそ尊からめ」
 「どうしてそんなことが。
 どうするにせよ、誰かが伝え聞いて言うならともかく、愛宕の聖でさえ、場合によっては出ないことがあろうか。
 固い誓いを破って、人の願いをお満たしになるのが尊いことです」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「人渡すこともはべらぬに、聞きにくきこともこそ、出でまうで来れ」  「衆生済度の徳もございませんのに、聞き苦しい噂も、出て来ましょう」
   と、苦しげに思ひたれど、  と言って、困ったことに思っていたが、
   「なほ、よき折なるを」  「やはり、ちょうどよい機会だから」
   と、例ならずしひて、  と、いつもと違って無理強いして、
   「明後日ばかり、車たてまつらむ。
 その旅の所尋ねおきたまへ。
 ゆめをこがましうひがわざすまじきを」
 「明後日ぐらいに、車を差し向けましょう。
 その仮住まいの家を調べておいてください。
 けっして馬鹿げたまちがいはしませんから」
   と、ほほ笑みてのたまへば、わづらはしく、「いかに思すことならむ」と思へど、「奥なくあはあはしからぬ御心ざまなれば、おのづからわがためにも、人聞きなどは包みたまふらむ」と思ひて、  と、にっこりしておっしゃるので、やっかいで、「どのようにお考えなのだろう」と思うが、「浅薄で軽々しくないご性質なので、自然とご自分のためにも、外聞はお慎みになっていらっしゃるだろう」と思って、
   「さらば、承りぬ。
 近きほどにこそ。
 御文などを見せさせたまへかし。
 ふりはへさかしらめきて、心しらひのやうに思はれはべらむも、今さらに伊賀専女にや、と慎ましくてなむ」
 「それでは、承知いたしました。
 お近くですから。
 お手紙などをおやりくださいませ。
 わざわざ利口ぶって、取り持ちを買って出たようにとられますのも、今さら伊賀専女のようではないかしら、と気がひけます」
   と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
   「文は、やすかるべきを、人のもの言ひ、いとうたてあるものなれば、右大将は、常陸守の娘をなむよばふなるなども、とりなしてむをや。
 その守の主、いと荒々しげなめり」
 「手紙は、簡単でしょうが、人の噂が、とてもうるさいものですから、右大将は、常陸介の娘に求婚しているそうだなどとも、取り沙汰しようから。
 その介の殿は、とても荒々しい人のようですね」
   とのたまへば、うち笑ひて、いとほしと思ふ。
 
 とおっしゃると、ふと笑って、お気の毒にと思う。
 
   暗うなれば出でたまふ。
 下草のをかしき花ども、紅葉など折らせたまひて、宮に御覧ぜさせたまふ。
 甲斐なからずおはしぬべけれど、かしこまり置きたるさまにて、いたうも馴れきこえたまはずぞあめる。
 内裏より、ただの親めきて、入道の宮にも聞こえたまへば、いとやむごとなき方は、限りなく思ひきこえたまへり。
 こなたかなたと、かしづききこえたまふ宮仕ひに添へて、むつかしき私の心の添ひたるも、苦しかりけり。
 
 暗くなったのでお出になる。
 木の下草が美しい花々や、紅葉などを折らせなさって、宮に御覧にお入れなさる。
 ご結婚の効がなくはなくいらっしゃるようだが、畏れ敬っているような感じで、たいそうお親しみ申し上げずにいるようである。
 帝から、普通の親のように、入道の宮にもお頼み申し上げなさっているので、たいそう重々しい点では、この上なくお思い申し上げていらっしゃった。
 あちらからもこちらからも、大切にされなさるお世話に加えて、やっかいな執心が加わったのが、つらいことであった。
 
 
 

第三段 弁の尼、三条の隠れ家を訪ねる

 
   のたまひしまだつとめて、睦ましく思す下臈侍一人、顔知らぬ牛飼つくり出でて遣はす。
 
 お約束になった日のまだ早朝に、腹心の家来とお思いになる下臈の侍を一人、顔を知られていない牛飼童を用意して遣わす。
 
   「荘の者どもの田舎びたる召し出でつつ、つけよ」  「荘園の連中で田舎者じみたのを召し出して、付き添わせよ」
   とのたまふ。
 かならず出づべくのたまへりければ、いとつつましく苦しけれど、うち化粧じつくろひて乗りぬ。
 野山のけしきを見るにつけても、いにしへよりの古事ども思ひ出でられて、眺め暮らしてなむ来着きける。
 いとつれづれに人目も見えぬ所なれば、引き入れて、
 とおっしゃる。
 必ず京に出て来るようにとおっしゃっていたので、とても気がひけてつらいけれど、ちょっと化粧をして車に乗った。
 野山の様子を見るにつけても、若いころからの古い出来事が自然と思い出されて、物思いに耽りながら着いたのであった。
 とてもひっそりとして人の出入りもない所なので、車を引き入れて、
   「かくなむ、参り来つる」  「これこれで、参りました」
   と、しるべの男して言はせたれば、初瀬の供にありし若人、出で来て降ろす。
 あやしき所を眺め暮らし明かすに、昔語りもしつべき人の来たれば、うれしくて呼び入れたまひて、親と聞こえける人の御あたりの人と思ふに、睦ましきなるべし。
 
 と、案内の男を介して言わせると、初瀬のお供をした若い女房が、出てきて車から降ろす。
 粗末な家で物思いに耽りながら明かし暮らしていたので、昔話もできる人が来たので、嬉しくなって呼び入れなさって、父親と申し上げた方のご身辺の人と思うと、慕わしくなるのであろう。
 
   「あはれに、人知れず見たてまつりしのちよりは、思ひ出できこえぬ折なけれど、世の中かばかり思ひたまへ捨てたる身にて、かの宮にだに参りはべらぬを、この大将殿の、あやしきまでのたまはせしかば、思うたまへおこしてなむ」  「しみじみと、人知れずお目にかかりまして後は、お思い出し申し上げない時はありませんが、世の中をこのように捨てた身なので、あちらの宮邸にさえ参りませんが、この大将殿が、不思議なまでにお頼みになるので、思い起こして参りました」
   と聞こゆ。
 君も乳母も、めでたしと見おききこえてし人の御さまなれば、忘れぬさまにのたまふらむも、あはれなれど、にはかにかく思したばかるらむと、思ひも寄らず。
 
 と申し上げる。
 姫君も乳母も、素晴らしいお方と拝見していたお方のご様子なので、忘れないふうにおっしゃるというのも、嬉しいが、急にこのようにご計画なさるとは、思い寄らなかった。
 
 
 

第四段 薫、三条の隠れ家の浮舟と逢う

 
   宵うち過ぐるほどに、「宇治より人参れり」とて、門忍びやかにうちたたく。
 「さにやあらむ」と思へど、弁の開けさせたれば、車をぞ引き入るなる。
 「あやし」と思ふに、
 宵を少し過ぎたころに、「宇治から参った者です」と言って、門をそっと叩く。
 「そうかしら」と思うが、弁が開けさせると、車を引き入れる。
 妙だと思うと、
   「尼君に、対面賜はらむ」  「尼君に、お目にかかりたい」
   とて、この近き御庄の預りの名のりをせさせたまへれば、戸口にゐざり出でたり。
 雨すこしうちそそくに、風はいと冷やかに吹き入りて、言ひ知らず薫り来れば、「かうなりけり」と、誰れも誰れも心ときめきしぬべき御けはひをかしければ、用意もなくあやしきに、まだ思ひあへぬほどなれば、心騷ぎて、
 と言って、その近くの荘園の支配人の名を名乗らせなさったので、戸口にいざり出た。
 雨が少し降りそそいで、風がとても冷やかに吹きこんで、何ともいえない良い匂いが漂ってくるので、「そうであったのか」と、皆が皆心をときめかせるにちがいないご様子が結構なので、心づもりもなくむさくるしいうえに、まだ予想もしていなかった時なので、気が動転して、
   「いかなることにかあらむ」  「どうしたことであろうか」
   と言ひあへり。
 
 と言い合っていた。
 
   「心やすき所にて、月ごろの思ひあまることも聞こえさせむとてなむ」  「気楽な所で、いく月もの間の抑えきれない思いを申し上げたいと思いまして」
   と言はせたまへり。
 
 と言わせなさった。
 
   「いかに聞こゆべきことにか」と、君は苦しげに思ひてゐたまへれば、乳母見苦しがりて、  「どのように申し上げたらよいものか」と思って、君はつらそうに思っていらしたので、乳母が見苦しがって、
   「しかおはしましたらむを、立ちながらや、帰したてまつりたまはむ。
 かの殿にこそ、かくなむ、と忍びて聞こえめ。
 近きほどなれば」
 「このようにいらっしゃったのを、お座りもいただかず、このままお帰し申し上げることができましょうか。
 あちらの殿にも、これこれです、とそっと申し上げましょう。
 近い所ですから」
   と言ふ。
 
 と言う。
 
   「うひうひしく。
 などてか、さはあらむ。
 若き御どちもの聞こえたまはむは、ふとしもしみつくべくもあらぬを。
 あやしきまで心のどかに、もの深うおはする君なれば、よも人の許しなくて、うちとけたまはじ」
 「気がきかないことを。
 どうして、そうすることがありましょう。
 若い方どうしがお話し申し上げなさるのに、急に深い仲になるものでもありますまい。
 不思議なまでに気長で、慎重でいらっしゃる君なので、けっして相手の許しがなくては、気をお許しになりますまい」
   など言ふほど、雨やや降り来れば、空はいと暗し。
 宿直人のあやしき声したる、夜行うちして、
 などと言っているうちに、雨が次第に降って来たので、空はたいそう暗い。
 宿直人で変な声をした者が、夜警をして、
   「家の辰巳の隅の崩れ、いと危ふし。
 この、人の御車入るべくは、引き入れて御門鎖してよ。
 かかる人の御供人こそ、心はうたてあれ」
 「家の辰巳の隅の崩れが、とても危険だ。
 こちらの、客のお車は入れるものなら、引き入れてご門を閉めよ。
 この客人の供人は、気がきかない」
   など言ひあへるも、むくむくしく聞きならはぬ心地したまふ。
 
 などと言い合っているのも、気持ち悪く聞き馴れない気がなさる。
 
   「佐野のわたりに家もあらなくに」  「佐野の辺りに家もないのに」
   など口ずさびて、里びたる簀子の端つ方に居たまへり。
 
 などと口ずさんで、田舎めいた簀子の端の方に座っていらっしゃった。
 
 

730
 「さしとむる 葎やしげき 東屋の
 あまりほど降る 雨そそきかな」
 「戸口を閉ざすほど葎が茂っているためか
  東屋であまりに待たされ雨に濡れることよ」
 
   と、うち払ひたまへる、追風、いとかたはなるまで、東の里人も驚きぬべし。
 
 と、露を払っていらっしゃる、その追い風が、とても尋常でないほど匂うので、東国の田舎者も驚くにちがいない。
 
   とざまかうざまに聞こえ逃れむ方なければ、南の廂に御座ひきつくろひて、入れたてまつる。
 心やすくしも対面したまはぬを、これかれ押し出でたり。
 遣戸といふもの鎖して、いささか開けたれば、
 あれやこれやと言い逃れるすべもないので、南の廂にお座席を設けて、お入れ申し上げる。
 気安くお会いなさらないのを、誰彼らが押し出した。
 遣戸という物を錠をかけて、少し開けてあったので、
   「飛騨の工も恨めしき隔てかな。
 かかるものの外には、まだ居ならはず」
 「飛騨の大工までが恨めしい仕切りですね。
 このような物の外には、まだ座ったことがありません」
   と愁へたまひて、いかがしたまひけむ、入りたまひぬ。
 かの人形の願ひものたまはで、ただ、
 とお嘆きになって、どのようになさったのか、お入りになってしまった。
 あの人形の願いもおしゃっらず、ただ、
   「おぼえなき、もののはさまより見しより、すずろに恋しきこと。
 さるべきにやあらむ、あやしきまでぞ思ひきこゆる」
 「思いがけず、何かの間から覗き見して以来、何となく恋しいこと。
 そのような運命であったのか、不思議なまでにお思い申し上げています」
   とぞ語らひたまふべき。
 人のさま、いとらうたげにおほどきたれば、見劣りもせず、いとあはれと思しけり。
 
 とお口説きになるのであろう。
 女の様子は、とてもかわいらしくおっとりしているので、見劣りもせず、とてもしみじみとお思いになった。
 
 
 

第五段 薫と浮舟、宇治へ出発

 
   ほどもなう明けぬ心地するに、鶏などは鳴かで、大路近き所に、おぼとれたる声して、いかにとか聞きも知らぬ名のりをして、うち群れて行くなどぞ聞こゆる。
 かやうの朝ぼらけに見れば、ものいただきたる者の、「鬼のやうなるぞかし」と聞きたまふも、かかる蓬のまろ寝にならひたまはぬ心地も、をかしくもありけり。
 
 まもなく夜が明けてしまう気がするのに、鶏などは鳴かないで、大路に近い所で間のびした声で、何とも聞いたことのない物売りの呼び上げる声がして、連れ立って行くのなどが聞こえる。
 このような朝ぼらけに見ると、品物を頭の上に乗せている姿が、「鬼のような恰好だ」とお聞きになっているのも、このような蓬生の宿でごろ寝をした経験もおありでないので、興味深くもあった。
 
   宿直人も門開けて出づる音する。
 おのおの入りて臥しなどするを聞きたまひて、人召して、車妻戸に寄せさせたまふ。
 かき抱きて乗せたまひつ。
 誰れも誰れも、あやしう、あへなきことを思ひ騒ぎて、
 宿直人も門を開けて出る音がする。
 それぞれ中に入って横になる音などをお聞きになって、人を呼んで、車を妻戸に寄せさせなさる。
 抱き上げてお乗せになった。
 誰も彼もが、おかしな、どうしようもないことだとあわてて、
   「九月にもありけるを。
 心憂のわざや。
 いかにしつることぞ」
 「九月でもありますのに。
 情けないことです。
 どうなさるのですか」
   と嘆けば、尼君も、いといとほしく、思ひの外なることどもなれど、  と嘆くと、尼君も、とてもお気の毒になって、意外なことだったが、
   「おのづから思すやうあらむ。
 うしろめたうな思ひたまひそ。
 長月は、明日こそ節分と聞きしか」
 「自然とお考えのことがあるのでしょう。
 不安にお思いなさるな。
 九月は、明日が節分だと聞きました」
   と言ひ慰む。
 今日は、十三日なりけり。
 尼君、
 と言って慰める。
 今日は、十三日であった。
 尼君は、
   「こたみは、え参らじ。
 宮の上、聞こし召さむこともあるに、忍びて行き帰りはべらむも、いとうたてなむ」
 「今回は、同行できません。
 宮の上が、お聞きになることもありましょうから、こっそりと行ったり来たりいたしますのも、まことに具合が悪うございます」
   と聞こゆれど、まだきこのことを聞かせたてまつらむも、心恥づかしくおぼえたまひて、  と申し上げるが、早々にこの事をお聞かせ申し上げるのも、恥ずかしく思われなさって、
   「それは、のちにも罪さり申したまひてむ。
 かしこもしるべなくては、たづきなき所を」
 「それは、後からお詫び申してもお済みになることでしょう。
 あちらでも案内する人がいなくては、頼りない所ですから」
   と責めてのたまふ。
 
 とお責めになる。
 
   「人一人や、はべるべき」  「誰か一人、お供しなさい」
   とのたまへば、この君に添ひたる侍従と乗りぬ。
 乳母、尼君の供なりし童などもおくれて、いとあやしき心地してゐたり。
 
 とおっしゃると、この君に付き添っている侍従と乗った。
 乳母は、尼君の供をして来た童女などもとり残されて、まことに何が何やら分からぬ気持ちでいた。
 
 
 

第六段 薫と浮舟の宇治への道行き

 
   「近きほどにや」と思へば、宇治へおはするなりけり。
 牛などひき替ふべき心まうけしたまへりけり。
 河原過ぎ、法性寺のわたりおはしますに、夜は明け果てぬ。
 
 「近い所にか」と思うと、宇治へいらっしゃるのであった。
 牛なども取り替える準備をなさっていた。
 加茂の河原を過ぎ、法性寺の付近をお通りになるころに、夜はすっかり明けた。
 
   若き人は、いとほのかに見たてまつりて、めできこえて、すずろに恋ひたてまつるに、世の中のつつましさもおぼえず。
 君ぞいとあさましきに、ものもおぼえでうつぶし臥したるを、
 若い女房は、とてもかすかに拝見して、お誉め申して、何となくお慕い申し上げるので、世間の思惑も何とも思わない。
 女君はとても驚いて、何も考えられずうつ伏しているのを、
   「石高きわたりは、苦しきものを」  「大きな石のある道は、つらいものだ」
   とて、抱きたまへり。
 羅の細長を、車の中に引き隔てたれば、はなやかにさし出でたる朝日影に、尼君はいとはしたなくおぼゆるにつけて、「故姫君の御供にこそ、かやうにても見たてまつりつべかりしか。
 あり経れば、思ひかけぬことをも見るかな」と、悲しうおぼえて、包むとすれど、うちひそみつつ泣くを、侍従はいと憎く、「ものの初めに形異にて乗り添ひたるをだに思ふに、なぞ、かくいやめなる」と、憎くをこにも思ふ。
 老いたる者は、すずろに涙もろにあるものぞと、おろそかにうち思ふなりけり。
 
 と言って、抱いていらっしゃった。
 薄物の細長を、車の中に垂れて仕切っていたので、明るく照り出した朝日に、尼君はとても恥ずかしく思われるにつけて、「故姫君のお供をして、このように拝見したかったものだ。
 生き永らえると、思いもかけないことにあうものだ」と、悲しく思われて、抑えようとするが、つい顔がゆがんで泣くのを、侍従はとても憎らしく、「ご結婚早々に尼姿で乗り添っているだけでも不吉に思うのに、何で、こうしてめそめそするのか」と、憎らしく愚かにも思う。
 年老いた人は、何となく涙もろいものだ、と簡単に考えるのであった。
 
   君も、見る人は憎からねど、空のけしきにつけても、来し方の恋しさまさりて、山深く入るままにも、霧立ちわたる心地したまふ。
 うち眺めて寄りゐたまへる袖の、重なりながら長やかに出でたりけるが、川霧に濡れて、御衣の紅なるに、御直衣の花のおどろおどろしう移りたるを、落としがけの高き所に見つけて、引き入れたまふ。
 
 君も、相手の女は憎くないが、空の様子につけても、故人への恋しさがつのって、山深く入って行くにしたがって、霧が立ち渡ってくる気がなさる。
 物思いに耽って寄り掛かっていらっしゃる袖が、重なりながら長々と外に出ているのが、川霧に濡れて、お召し物が紅色なところに、お直衣の花が大変に色変わりしているのを、急坂の下る所で見つけて、引き入れなさる。
 
 

731
 「形見ぞと 見るにつけては 朝露の
 ところせきまで 濡るる袖かな」
 「故姫君の形見だと思って見るにつけ
  朝露がしとどに置くように涙に濡れることだ」
 
   と、心にもあらず一人ごちたまふを聞きて、いとどしぼるばかり、尼君の袖も泣き濡らすを、若き人、「あやしう見苦しき世かな」。
 心ゆく道に、いとむつかしきこと、添ひたる心地す。
 忍びがたげなる鼻すすりを聞きたまひて、我も忍びやかにうちかみて、「いかが思ふらむ」といとほしければ、
 と、心にもなく独り言をおっしゃるのを聞いて、ますます袖をしぼるほどに、尼君の袖も泣き濡れているのを、若い女房は、「妙な見苦しいことだ」。
 嬉しいはずの道中に、とてもやっかいな事が、加わった気持ちがする。
 堪えきれない鼻水をすする音をお聞きになって、自分もこっそりと鼻をかんで、「どのように思っているだろうか」とお気の毒なので、
   「あまたの年ごろ、この道を行き交ふたび重なるを思ふに、そこはかとなくものあはれなるかな。
 すこし起き上がりて、この山の色も見たまへ。
 いと埋れたりや」
 「長年、この道をいく度も行き来したことを思うと、何となく感慨無量な気持ちがします。
 少し起き上がって、この山の景色を御覧なさい。
 とてもふさぎこんでいらっしゃいませんか」
   と、しひてかき起こしたまへば、をかしきほどに、さし隠して、つつましげに見出だしたるまみなどは、いとよく思ひ出でらるれど、おいらかにあまりおほどき過ぎたるぞ、心もとなかめる。
 「いといたう児めいたるものから、用意の浅からずものしたまひしはや」と、なほ行く方なき悲しさは、むなしき空にも満ちぬべかめり。
 
 と、無理に起こしなさると、美しい感じに、ちょっと隠して、遠慮深そうに外を見い出しなさっている目もとなどは、とてもよく似て思い出されるが、おだやかであまりにおっとりとし過ぎているのが、不安な気がする。
 「とてもたいそう子供っぽくいらしたが、思慮深くいらっしゃったな」と、やはり癒されない悲しみは、空しい大空いっぱいにもなってしまいそうである。
 
 
 

第七段 宇治に到着、薫、京に手紙を書く

 
   おはし着きて、  宇治にお着きになって、
   「あはれ、亡き魂や宿りて見たまふらむ。
 誰によりて、かくすずろに惑ひありくものにもあらなくに」
 「ああ、亡き方の魂がとどまって御覧になっていようか。
 誰のために、このようにあてもなく彷徨い歩こうというのか」
   と思ひ続けたまひて、降りてはすこし心しらひて、立ち去りたまへり。
 女は、母君の思ひたまはむことなど、いと嘆かしけれど、艶なるさまに、心深くあはれに語らひたまふに、思ひ慰めて降りぬ。
 
 と思い続けられなさって、降りてからは少し気をきかせて、側を立ち去りなさった。
 女は、母君がどうお思いになるかが、とても気がかりであるが、優雅な態度で、愛情深くしみじみとお話なさるので、慰められて降りた。
 
   尼君は、ことさらに降りで、廊にぞ寄するを、「わざと思ふべき住まひにもあらぬを、用意こそあまりなれ」と見たまふ。
 御荘より、例の、人びと騒がしきまで参り集まる。
 女の御台は、尼君の方より参る。
 道は茂かりつれど、このありさまは、いと晴れ晴れし。
 
 尼君は、こちらで特に降りないで、渡廊の方に寄せたのを、「わざわざ気をつかうべき住まいでもないのに、心づかいが過ぎる」と御覧になる。
 御荘園から、いつものように、人びとが騒がしいほど参集する。
 女のお食事は、尼君の方から差し上げる。
 道中は草が茂っていたが、こちらの様子は、たいそう晴れ晴れとしている。
 
   川のけしきも山の色も、もてはやしたる造りざまを見出だして、日ごろのいぶせさ、慰みぬる心地すれど、「いかにもてないたまはむとするにか」と、浮きてあやしうおぼゆ。
 
 川の様子も山の景色も、上手に取り入れた建物の造りを眺めやって、日頃の鬱陶しい思いが慰められた気がするが、「どのようになさるおつもりか」と、不安で変な感じがする。
 
   殿は、京に御文書きたまふ。
 
 殿は、京にお手紙をお書きになる。
 
   「なりあはぬ仏の御飾りなど見たまへおきて、今日吉ろしき日なりければ、急ぎものしはべりて、乱り心地の悩ましきに、物忌なりけるを思ひたまへ出でてなむ、今日明日ここにて慎みはべるべき」  「まだ完成しない仏像のお飾りなどを拝見しておりましたが、今日が吉日なので、急いで参りまして、気分が良くないうえに、物忌であったのを思い出しまして、今日明日はこちらで慎んでおります」
   など、母宮にも姫宮にも聞こえたまふ。
 
 などと、母宮にも姫宮にも申し上げなさる。
 
 
 

第八段 薫、浮舟の今後を思案す

 
   うちとけたる御ありさま、今すこしをかしくて入りおはしたるも恥づかしけれど、もて隠すべくもあらで居たまへり。
 女の装束など、色々にきよくと思ひてし重ねたれど、すこし田舎びたることもうち混じりてぞ、昔のいと萎えばみたりし御姿の、あてになまめかしかりしのみ思ひ出でられて、
 くつろいでいらっしゃるご様子で、いま一段と魅力的になって入っていらっしゃったのも恥ずかしい気がするが、身を隠すわけにもいかず座っていらっしゃった。
 女の装束などは、色とりどりに美しくと思って襲着していたが、少し田舎風なところが混じっていて、故人がとても柔らかくなったお召し物のお姿で、上品に優美であったことばかりが思い出されたが、
   「髪の裾のをかしげさなどは、こまごまとあてなり。
 宮の御髪のいみじくめでたきにも劣るまじかりけり」
 「髪の裾の美しさなどは、たっぷりと上品である。
 宮の御髪がたいそう素晴らしかったのにも劣らないようだ」
   と見たまふ。
 かつは、
 と御覧になる。
 一方では、
   「この人をいかにもてなしてあらせむとすらむ。
 ただ今、ものものしげにて、かの宮に迎へ据ゑむも、音聞き便なかるべし。
 さりとて、これかれある列にて、おほぞうに交じらはせむは本意なからむ。
 しばし、ここに隠してあらむ」
 「この人をどのように扱ったらよいのだろう。
 今すぐに、重々しくあの自邸に迎え入れるのも、外聞がよくないだろう。
 そうかといって、大勢いる女房と同列にして、いい加減に暮らさせるのは望ましくないだろう。
 しばらくの間は、ここに隠しておこう」
   と思ふも、見ずはさうざうしかるべく、あはれにおぼえたまへば、おろかならず語らひ暮らしたまふ。
 故宮の御ことものたまひ出でて、昔物語をかしうこまやかに言ひ戯れたまへど、ただいとつつましげにて、ひたみちに恥ぢたるを、さうざうしう思す。
 
 と思うのも、会わなかったら寂しくかわいそうに思われなさるので、並々ならず一日中お話なさる。
 故宮の御事もお話し出して、昔話を興趣深く情をこめて冗談もおっしゃるが、ただとても遠慮深そうにして、ひたすら恥ずかしがっているのを、物足りないとお思いになる。
 
   「あやまりても、かう心もとなきはいとよし。
 教へつつも見てむ。
 田舎びたるされ心もてつけて、品々しからず、はやりかならましかば、形代不用ならまし」
 「間違っても、このように頼りないのはとてもよい。
 教えながら世話をしよう。
 田舎風のしゃれ気があって、品が悪く、軽はずみだったならば、身代わりにならなかったろうに」
   と思ひ直したまふ。
 
 と思い直しなさる。
 
 
 

第九段 薫と浮舟、琴を調べて語らう

 
   ここにありける琴、箏の琴召し出でて、「かかることはた、ましてえせじかし」と、口惜しければ、一人調べて、  ここにあった琴や、箏の琴を召し出して、「このような事は、またいっそうできないだろう」と、残念なので、独りで調べて、
   「宮亡せたまひてのち、ここにてかかるものに、いと久しう手触れざりつかし」  「宮がお亡くなりになって以後、ここでこのような物に、実に久しく手を触れなかった」
   と、めづらしく我ながらおぼえて、いとなつかしくまさぐりつつ眺めたまふに、月さし出でぬ。
 
 と、珍しく自分ながら思われて、たいそうやさしく弄びながら物思いに耽っていらっしゃると、月が出た。
 
   「宮の御琴の音の、おどろおどろしくはあらで、いとをかしくあはれに弾きたまひしはや」  「宮のお琴の音色が、仰々しくはなくて、とても美しくしみじみとお弾きになったなあ」
   と思し出でて、  とお思い出しになって、
   「昔、誰れも誰れもおはせし世に、ここに生ひ出でたまへらましかば、今すこしあはれはまさりなまし。
 親王の御ありさまは、よその人だに、あはれに恋しくこそ、思ひ出でられたまへ。
 などて、さる所には、年ごろ経たまひしぞ」
 「昔、皆が生きていらっしゃった時に、ここで大きくおなりになったら、もう一段と感慨は深かったでしょうに。
 親王のご様子は、他人でさえ、しみじみと恋しく思い出され申します。
 どうして、そのような場所に、長年いられたのですか」
   とのたまへば、いと恥づかしくて、白き扇をまさぐりつつ、添ひ臥したるかたはらめ、いと隈なう白うて、なまめいたる額髪の隙など、いとよく思ひ出でられてあはれなり。
 まいて、「かやうのこともつきなからず教へなさばや」と思して、
 とおっしゃると、とても恥ずかしくて、白い扇を弄びながら、添い臥していらっしゃる横顔は、とてもどこからどこまで色白で、優美な額髪の間などは、まことによく思い出されて感慨深い。
 それ以上に、「このような音楽の技芸もふさわしく教えたい」とお思いになって、
   「これは、すこしほのめかいたまひたりや。
 あはれ、吾が妻といふ琴は、さりとも手ならしたまひけむ」
 「これは、少しお弾きになったことがありますか。
 ああ、吾が妻という和琴は、いくらなんでもお手を触れたことがありましょう」
   など問ひたまふ。
 
 などとお尋ねになる。
 
   「その大和言葉だに、つきなくならひにければ、まして、これは」  「その和歌でさえ、聞きつけずにいましたのに、まして、和琴などは」
   と言ふ。
 いとかたはに心後れたりとは見えず
 ここに置きて、え思ふままにも来ざらむことを思すが、今より苦しきは、なのめには思さぬなるべし。
 琴は押しやりて、
 と言う。
 まったく見苦しく気がきかないようには見えない。
 ここに置いて、思い通りに通って来られないことをお思いになるのが、今からつらいのは、並一通りにはお思いでないのだろう。
 琴は押しやって、
   「楚王の台の上の夜の琴の声」  「楚王の台の上の夜の琴の声」
   と誦じたまへるも、かの弓をのみ引くあたりにならひて、「いとめでたく、思ふやうなり」と、侍従も聞きゐたりけり。
 さるは、扇の色も心おきつべき閨のいにしへをば知らねば、ひとへにめできこゆるぞ、後れたるなめるかし。
 「ことこそあれ、あやしくも、言ひつるかな」と思す。
 
 と朗誦なさるのも、あの弓ばかりを引く所に住み馴れて、「とても素晴らしく、理想的である」と、侍従も聞いているのであった。
 一方では、扇の色も心を配らねばならない閨の故事を知らないので、一途にお誉め申し上げているのは、教養のないことである。
 「事もあろうに、変なことを、言ってしまったなあ」とお思いになる。
 
   尼君の方より、くだもの参れり。
 箱の蓋に、紅葉、蔦など折り敷きて、ゆゑゆゑなからず取りまぜて、敷きたる紙に、ふつつかに書きたるもの、隈なき月にふと見ゆれば、目とどめたまふほどに、くだもの急ぎにぞ見えける。
 
 尼君のもとから、果物を差し上げた。
 箱の蓋に、紅葉や、蔦などを折り敷いて、風流にとりまぜて、敷いてある紙に、不器用に書いてあるものが、明るい月の光にふと見えたので、目を止めなさっていると、果物を欲しがっているように見えた。
 
 

732
 「宿り木は 色変はりぬる 秋なれど
 昔おぼえて 澄める月かな」
 「宿木は色が変わってしまった秋ですが
  昔が思い出される澄んだ月ですね」
 
   と古めかしく書きたるを、恥づかしくもあはれにも思されて、  と古風に書いてあるのを、恥ずかしくもしみじみともお思いになって、
 

733
 「里の名も 昔ながらに 見し人の
 面変はりせる 閨の月影」
 〔薫:柏木の子〕「里の名もわたしも昔のままですが
昔の人が面変わりしたかと思われる閨の月です」
 
   わざと返り事とはなくてのたまふ、侍従なむ伝へけるとぞ。
 
 特に返歌というわけではなくおっしゃったのを、侍従が伝えたとか。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 筑波山端山繁山繁けれど思ひ入るには障らざりけり(新古今集恋一-一〇一三 源重之)(戻)  
  出典2 東にて養はれたる人の子は舌だみてこそ物は言ひけれ(拾遺集物名-四一三 読人しらず)(戻)  
  出典3 紫の一本ゆゑに武蔵野の草は見ながらあはれとぞ見る(古今集雑上-八六七 読人しらず)(戻)  
  出典4 塩釜の前に浮きたる浮島の浮きて思ひのある世なりけり(古今六帖三-一七九六 山口女王)(戻)  
  出典5 おほかたは我が身一つの憂きからになべての世をも恨みつるかな(拾遺集恋五-九五三 紀貫之)世の中は昔よりやは憂かりけむ我が身一つのためになれるか(古今集雑下-九四八 読人しらず)(戻)  
  出典6 人非木石皆有情 不如不逢傾城<人木石にあらざれば皆情け有り 傾城に逢はざるに如かず>(白氏文集巻四-一六〇 李夫人)(戻)  
  出典7 恋せじとと御手洗川にせし禊神はうけずぞなりにけらしも(古今集恋一-五〇一 読人しらず)(戻)  
  出典8 大幣(おほぬさ)の引く手あまたになりぬれば思へどえこそ頼まざりけれ(古今集恋四-七〇六 読人しらず)(戻)  
  出典9 大幣(おほぬさ)と名にこそ立てれ流れてもつひに寄る瀬はありてふものを(古今集恋四-七〇七 在原業平)(戻)  
  出典10 水の泡の消えで憂き身と言ひながら流れて猶も頼まるるかな(古今集恋五-七九二 紀友則)(戻)  
  出典11 彦星に恋はまさりぬ天の川隔つる関を今はやめてよ(伊勢物語-一七〇)(戻)  
  出典12 我妹子が来ては寄り立つ真木柱睦まじきゆかりと思へば(源氏釈所引-出典未詳)(戻)  
  出典13 飛ぶ鳥の声も聞こえぬ奥山の深き心を人は知らなむ(古今集恋一-五三五 読人しらず)(戻)  
  出典14 今はとて忘るる草の種をだに人の心に蒔かせずもがな(伊勢物語-三九)(戻)  
  出典15 いかならむ巌の中に住まばかは世の憂きことの聞こえ来ざらむ(古今集雑下-九五二 読人しらず)(戻)  
  出典16 思はむと頼めしこともあるものをなき名を立てでただに忘れね(後撰集恋二-六六二 読人しらず)(戻)  
  出典17 玉簾明くるも知らで寝しものを夢にも見じとゆめ思ひきや(伊勢集-五五)(戻)  
  出典18 臥すほどもなくて明けぬる夏の夜は逢ひても逢はぬ心地こそすれ(源氏釈所引-出典未詳)(戻)  
  出典19 移ろはむことだに惜しき秋萩を折れるばかりも置ける露かな(拾遺集秋-一八三 伊勢)(戻)  
  出典20 花散ると厭ひしものを夏衣たつや遅きと風を待つかな(拾遺集夏-八二 盛明親王)(戻)  
  出典21 世の中にあらぬ所も得てしかな年ふりにたる形隠さむ(拾遺集雑上-五〇六 読人しらず)(戻)  
  出典22 人渡すことだになきを何しかも長柄の橋と身のなりぬらむ(後撰集雑一-一一一七 七条后)(戻)  
  出典23 苦しくも降り来る雨か三輪の崎佐野のわたりに家もあらなくに(万葉集巻三-二六七 長忌寸奥麿)(戻)  
  出典24 東屋の 真屋のあまりの その 雨そそぎ 我立ち濡れぬ 殿戸開かせ 鎹(かすがひ)も 錠(とざし)もあらばこそ その殿戸 我鎖さめ おし開いて来ませ 我や人妻(催馬楽-東屋)(戻)  
  出典25 我が恋は虚しき空に満ちぬらし思ひやれども行く方もなし(古今集恋一-四八八 読人しらず)(戻)  
  出典26 班女閨中秋扇色 楚王台上夜琴声<班女が閨(ねや)の中の秋の扇の色 楚王が台(うてな)の上の夜の琴(きん)の声>(和漢朗詠集上-三八〇 尊敬)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 よその--よそのの(の<後出>/#)(戻)  
  校訂2 源少納言--源少(少/+納<朱>)言(戻)  
  校訂3 守、「このわたりに時々出で入りはすと--(+かみ此わたりに時/\出ていりはすと<朱>)(戻)  
  校訂4 思す--おも(も/$)ほす(戻)  
  校訂5 捧げたるごと--さゝけたるか(か/#こ)と(戻)  
  校訂6 はべり--侍つる(つる/#り)(戻)  
  校訂7 まだころ--またこの(この/#)ころ(戻)  
  校訂8 御口づから--御くちつ(つ/+か<朱>)ら(戻)  
  校訂9 かく言よく--かくこそ(そ/$と<朱>)よく(戻)  
  校訂10 心憂さ--世中の(世中の/$)心うさ(戻)  
  校訂11 たまへる--給つ(つ/$へ)るに(戻)  
  校訂12 同じごと--おなし事(事/#こと)(戻)  
  校訂13 言ひなる--いひなす(す/$る)(戻)  
  校訂14 いかばかり--いかは(は/+か)り(戻)  
  校訂15 故宮--この(の/#)宮(戻)  
  校訂16 見たてまつれ--みたてまつれと(と/#)(戻)  
  校訂17 厨子--(/+つし<朱>)(戻)  
  校訂18 仲人--中ひと(ひと/#人)(戻)  
  校訂19 聞かむこそ心苦しかるべけれ。
 ことなることなくて--(/+きかんこそ心くるしかるへけれことなる事なくて)(戻)
 
  校訂20 飽かず--(/+あかす<朱>)(戻)  
  校訂21 故宮--この(の/#)宮(戻)  
  校訂22 心うつくしう--心うつくしく(く/#う)(戻)  
  校訂23 常陸殿とは--ひたち殿と(と/+は<朱>)(戻)  
  校訂24 ほど--程に(に/#)(戻)  
  校訂25 見えたまはず--みえ(え/+給は)す(戻)  
  校訂26 惜しげなるさま--おしけな(な/+るさ<朱>)ま(戻)  
  校訂27 見たまへ極じて--*こうして(戻)  
  校訂28 げに--(/+けに<朱>)(戻)  
  校訂29 悩ませたまふ--なや(や/+ませ)たまふ(戻)  
  校訂30 さまにも--さま(ま/+に)も(戻)  
  校訂31 はべりつる」と--侍つるに(に/#と)(戻)  
  校訂32 出でたまひ--(/+いて<朱>)たまひ(戻)  
  校訂33 おはしまし--おはし(し/+まし<朱>)(戻)  
  校訂34 わが--*我/\(戻)  
  校訂35 かたはらぞいたく--かたはら(ら/+そ<朱>)いたく(戻)  
  校訂36 聞きにくく--きゝにくき(き/#ゝ)(戻)  
  校訂37 添ひぬる--そ(そ/+ひ<朱>)ぬる(戻)  
  校訂38 はべり--(/+侍<朱>)(戻)  
  校訂39 おほどかなりしも--おほとかなりし(し/+も<朱>)(戻)  
  校訂40 思ひしこと--おもひ(ひ/+し)こと(戻)  
  校訂41 知らませ--しらさ(さ/#ま)せ(戻)  
  校訂42 思ひ出でらるれば、若き人は、まして、かくや思ひはて--思は(は/=いイ)て(/+らるれはわかき人はましてかくや思はて<朱>)(戻)  
  校訂43 しばし--(/+しはし<朱>)(戻)  
  校訂44 いたう--い(い/+た)う(戻)  
  校訂45 たてまつらむ--たてまつれ(れ/#ら)ん(戻)  
  校訂46 ほどにこそ--程に(に/+こそ<朱>)(戻)  
  校訂47 たまはむは--給はんと(と/$は<朱>)(戻)  
  校訂48 おぼとれたる--おほ(ほ/+と)れたる(戻)  
  校訂49 なぞ--(/+な)そ(戻)  
  校訂50 もて隠す--△△(△△/#もて)かくす(戻)  
  校訂51 をかしげさ--おかしけ(け/+さ)(戻)  
  校訂52 いと--△△(△△/#いと)(戻)  
  校訂53 ましかば--ましかしも(しも/$かはイ)(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。