伊勢物語 23段:筒井筒 あらすじ・原文・現代語訳

第22段
千夜一夜
伊勢物語
第一部
第23段
筒井筒
第24段
梓弓

 
 筒井筒とは、①幼い頃からの思いがやっと成就することを象徴する言葉で、この伊勢23段に由来している(古今994と大和149段は伊勢に由来)。
 以下の導入は多少長くなるので、あらすじや訳だけ見れればいい人は、目次を参照してほしい。
 

 この段は日本古典史上極めて重要。その理解の根底を支えているとすら言える。本段の沖つ白波は、突出した古今最長の詞書の歌(平均16字で298文字)。
 なお古今とはこの国の古典を知る人には言うまでもなく、万葉に次ぎ権威ある、数多の書で最大の敬意を払われてきた、この国最初の仮名の和歌集である。
 宮中の勅撰歌集なのに田舎の無名女の歌が1111首中最長。無名の田舎女の歌で、非業平認定の歌が詞書最長(次が東下り)。この重みが分かるだろうか。
 これが無名の昔男の重みで、貫之の配置の重みである(業平否定の配置)。一般の評価でこうなったのではない。だから流布する解釈が全く通っていない。
 
 「筒井つの」とあるのに奈良・大和の筒井は無視されるが、それは業平前提が危うくなるからか(沖つ白波の歌を、業平妻の有常娘の歌とするのもある)。
 しかし筒井とは第一に高安と龍田山で対称の筒井でしかありえない。「田舎わたらひしける人の子ども」も曲げ、男は業平というのは絶対にありえない。
 それらは古今の業平認定に一方的に基づき、伊勢の言葉を曲げ、筋を破壊し続ける。伊勢が古今を利用したのではない。古今が伊勢を利用したのである。
 だから各段は(別個)独立とか言い出す。業平目線で伊勢を分断し破壊する。だから物語の筋も、人としての筋を全く通さない。業平では筋を通せない。
 だから直後、筒井筒と2つだけ冒頭田舎から始まる梓弓・別れを惜しんで宮仕えに出た男の話も完全に無視する。独立しているが分断しているのではない。
 
 そんな発想だから、古今詞書上位占有率で圧倒的(上位20首中50%)な伊勢の歌を、都合よく伊勢が利用したと都合よく思う。
 圧倒的である伊勢を無視し、どこかにあるはずの業平原歌集などと都合よく言い出す。これが主人公という理論的根拠。つまり根拠はないからみなしている。
 上記の上位の伊勢の歌10首中9首が業平認定。残り1首が筒井筒。そしてこの僅か1首、女の歌が古今最高なのである。これで意図的でないという方が無理。
 ちなみに古今全体に占める女性の歌の割合は、全体の1111首中、この歌のような伊勢の不知を含めて見ても70首・6%程度しかない(男53%、不知41%)。
 加えて、古今の詞書上位30首で伊勢以外の歌での複数入選は、10位16位の遍照の2首のみ。かたや伊勢は上位10首でも60%。しかも寄せ集めではない。
 これだけ一人に偏重しながら無名女の筒井筒が最高なのは、圧倒的な業平認定に対抗したのが貫之一人ということ。貫之100首は厳密な配分の証拠である。
 
 だからどれだけ伊勢が特別か。筒井筒がどれだけ特別なのか。それは現代の教科書でも言える。最初の児童向け話を除き、絶対共通は筒井筒しかない。
 この伊勢への偏りで無名女が最高。古今が一貫する伊勢を利用した以外に何があるか。貴族社会が無名に乗じ、及ぶ理解に矮小化し、散々占奪・解体した。
 だから各地の地名や田舎の題を無視して、ここだけ大和の筒井と見ず、河内で郡でも上流の話と思う。根本の見立てが道理を無視しているからそう思う。
 

 筒井筒は、冒頭の①と同時に、②平安の恋愛観(一夫多妻でとっかえひっかえ)の理論的支柱とされ、まず最初に教科書で筒井筒が根拠として出される。
 つまり、①やっと結ばれた男女が、女の親が亡くなり、②それで男も女を見捨て(??男はヒモは常識??)、次の寄生先、高安(の女)に通うという。
 この①と②のギャップをどう思うだろうか。人としてありえるか。しかしそれを当時の常識とするのが、まず全ての教科書で参考書。根拠は? 筒井筒。
 人としての誠意や愛も何もない非常識が当時の常識で、それが古文の理解という。それで「時代がいかに変わろうとも普遍的な教養」云々。ありえるか。
 だからそれは誤り。古典の本質は教典、人類普遍の美学・普遍の常識を表すもの。人の世の常の退廃性賛美などは残らない。普通で見るに耐えないから。
 

 高安の女(に通った)という、文中にない女を勝手に読み込むのは誤り。その存在を前提として問う設問の存在自体が誤り。あまりに古典をコケにしている。
 そもそもの大前提、筒井筒の精神を、真逆に踏みにじっている。そういう見立てそのものがありえない。そちらに誘導(誘惑)されれば、すぐ転ぶ人達。
 それらの解釈は、伊勢が業平日記と根拠なくみなされた時代の、人として浅はかで退廃的な貴族的見立ての残滓。話が田舎からスタートすることも無視。
 そもそも一夫多妻制は、基本的に未開社会でのごく一部の上澄みで金をはべらかす浮世離れした貴族的存在にしか認められない芸当である。それが常識。
 そんな筒井を本拠に高安という田舎と行き来することなどない。しかしそう書いてあるではない。業平の話で上流貴族の話という見立てが、誤っている。
 つまり古今の認定が端的に誤り。伊勢が業平日記とみなされたからそう認定された。これは当初から当然の前提とされてきたことで、今更争うことじゃない。
 しかしその前提が崩れ、著者と主人公を分離させたその時点で、業平認定を0にしなければならない。前提を欠くのに増補などと進めても、論理上誤り。
 古今には伊勢以外の出典は事実上存在しない。そして伊勢の著者は業平ではない。昔男の身は卑しく(84段)、一貫して業平を非難しているからである。
 

 筒井と高安は和歌で有名な竜田山・竜田川を隔てて近接する町。だから竜田川は昔男の歌で有名になった。それを業平が詠んだという実質的根拠がない。
 あるのはそこだけ伊勢から不自然に浮いた屏風一枚。しかも素性と完全同一の詞書、しかも素性の次で独立オリジナル性が皆無。業平の証拠は全てこう。
 業平を昔男とみなす人々は、こうした論理的関連性・自然なつながり・相応を無視する。貫之や紫に絶大に評価された実力を支える能力を全く無視する。
 そもそも伊勢は常に業平を非難している。初出の「在五」(63段)から、思うも思わぬも「けぢめ見せぬ心」と。この心こそ本段の一般の解釈そのもの。
 一般はこの言葉をどう見ると思うか。大らかに愛する心だなあ、感心感心などというのである。言葉を曲げるにも程がある。これが「けぢめ見せぬ心」。
 

 これ以上たかれないと見るや、即別の女を作り、夜いそいそ通う男を一途に想い、役立たずの化粧をし待つ健気な女? どれだけ人をなめた発想なのか。
 源氏物語で伊勢物語が「伊勢の海の深き心」(先行する竹取の天の高さと対比し、海ほど深い心=底が見えない=誰にもはかりきれない)とされるのは、
 一つには「風吹けば沖つ白浪龍田山夜半にや君がひとり越ゆらむ」が「海の底沖つ白波龍田山いつか越えなむ妹があたり見む)(万葉83)と掛かるから。
 古来世界最高の知性と教養ある女性と目される紫が、現状のような解釈を海ほど深い心とすることはありえない。あまりに女性の知性と古典を愚弄している。
 それが源氏の絵合での、伊勢を片端も読めず在五の話だと争う、全体を全く(全然)理解できない「浅はかなる若人ども」。古の心を解せないので若人。
 人として未熟で浅いという意味。浅はかと若人どもとばかどもを掛けている。ちなみに、光る君は没落した不美人も守る無名の男である(末摘花→蓬生)。
 
 

 目次
 

あらすじ(大意)
 

原文
 

現代語訳(逐語解説)
 

 シーン1:筒井筒 
 
 はぢかはし(大和の筒井の幼馴染)
 
 まろがたけ(背丈×おれの思いの丈)
 
 ほいのごとく(結ばれる)

 

 シーン2:沖つ白浪(万葉83参照)
 

 たよりなく(女の親が死に、生活を支えるため、男は龍田山を越えて高安拠点の出稼ぎに。田舎者なので余裕はない。後掲の筒井の駅参照)
 
 こと心(素っ気ない女。なぜ? 文字通り愛想をつかされた? 隠れて見てみる)
 
 龍田山(女の隠れた秘密=夜×化粧=女を売るサイン=限りなく悲し・そばにいよう)
 

 シーン3:けこのうつは(万葉142参照。質素な食器=みやびな塗り物ではない。色々売って落ちた暗示)
 
 心うがり(そんな生活を憂う男。己の不甲斐なさを憂う。女をクサしたのではない。初段の「はしたなく」と同じ。衣の裾(はした)をなくしてはしたない)
 
 生駒山(=龍田山本体=飯盛山・河内飯盛山ともいう。その歌の心は、ご飯はあるから、もう向こうに行かないでね。そのご飯はどこから?=てづから)
 
 過ぎぬれば(別れを惜しんで宮仕え=梓弓冒頭=左に行かず上に行った。向こうには行ってない。しかしそういうのはいりませんでした)
 
 いかないでと言われれば無性にいきたくなるのが、悲しい男の性でした。ちゃんちゃん。
 

コラム:高安の女という解釈創出とその問題背景
 
 

 筒井と高安は直線距離で14km。その中間に紅葉に掛ける竜田川がある(下図参照。見づらければ上の地図を左に推移されたい。ただし古来の竜田川は、筒井と高安の通い路になる大和川のこととされているので、こちらが本来)。
 だから筒井筒は筒井の話ということには根拠がある。そのような言及は見られないが。「竜田川は在原業平が著名な和歌に詠んだ紅葉の名所である」とされるが、業平が詠んだのではない。純粋貴族の業平がこんな田舎の風景を詠む理由がない。昔男が筒井出身だから詠んだのである。著名なのは業平が詠んだからではない。伊勢の昔男が詠んだからである。竜田川は「古よりの紅葉の名所として名高い」ともされるが、名高いのは伊勢の昔男が詠んだからである。万葉に竜田川=龍田川は存在しない。業平が詠んだ根拠はない。古今が細部を無視して伊勢を業平日記とみなしただけ。しかしそれでは説明を通せず、後に著者と主人公を分離させるに至り、その不都合を無視するため、歌集にすぎない古今を出典とし、伊勢を無視してどこかにあるはずの業平原歌集などと不自然なことを想定し、それでいてエピソードだけは全力で伊勢を利用し、主人公とみなしている。古今で有名なのではない。伊勢で有名なのである。実力差を勘違いしないように。
 物事の仔細を区別できず、整合性も理解できず、単純な情報しか受け入れられず、後宮で淫奔の話だから業平日記とみて、伊勢の在五・在原なりける男の批判(63・65・106段等)などどこ吹く風で業平のものと吹聴し続け、それにより業平説が固められてきた。自分達の想定(古今の認定)のみを根拠に論を進める循環論法。業平のものと言われてきたから業平のものだ。それ以上の説明も検証も要らない。公の認定発表が事実と違うことなどあるはずがない。教科書で教えてきたことが恣意的で誤っていることなどあるはずがない。そんなことが堂々まかり通って圧倒的多数に支持されることなどあるはずがない。そういうことが、中世どころか日本の近代化で最もお手本にして国のエリートが留学した国であったにせよ、日本はそれ以上の歴史哲学と理知と思弁、深い思惟と正誤の弁えを持っているから違う。細かい部分で至らぬ所はあるにせよ、大筋は正しいのだから批判とかケチな発想自体が間違いである。現状説明できないことがあるにしても、世の中そんな簡単に割り切れないとでも言っておけばいい。
 そしてその根拠は古今の業平認定だけ。それも他の記録とは整合しない。なぜならその認定自体が誤っているからである。それを認めない。顧みない。矛盾にみちた古今の業平認定を疑問に思わず、頑なに伊勢の記述を曲げて伊勢を利用する傲慢な態度。根本で誤っているはずがないという、思い込みの非学問的態度。自分達の説の前提から厳しくクリティカルに考えない生ぬるさ。だからいつも外から壊され根底から覆される。しかしなお自分達の問題を受け入れない。
 業平認定を否定し、ごく自然に伊勢を大本にすれば問題なく通る。答えが不明になるのではない。あらゆる角度から通して説明できるようになる。二条の后に最も近い古今で唯一完全オリジナルの詞書という証拠と、東下りの証拠をもつ文屋の著作で文屋の歌。だから地位も家名も何もないのに歌仙。これが実力の証。それが道理で筋である。道理に外れているから筋が通らない。それは伊勢のせいではない。読者の認知の器の問題。だから現状の筋が滅茶苦茶ということも認めず、従来のずれた見立てからずれれば滅茶苦茶という滅茶苦茶さ。自分達の目線で原初の古典を貶め、全く道理に外れた権力礼賛に捻じ曲げてきた。

 

筒井と高安の位置関係

 左は高安駅、右が筒井駅(写真はwikipediaより)。いずれも近鉄の駅。一見して経済状態はどう見えるか。サビれているとはまさに右のこと(言葉の理)。高安は手前のランプもあって感じが少し違う。そこまでサビてもない(よく見れば若干サビてる)。駅の歴史でも筒井が3年古い(大正11年)。駅は町の状態をよく象徴している。ここいらは宮中周辺とはまず縁がないという場所ということは理解してほしい。だから各地の田舎の話を随所に入れつつ後宮の女達も描く昔男の存在感は、古典史上異彩を放っており、業平の恋の何たら日記では説明しきれず、伊勢の著者が謎とされている(実は卑官なので黙殺してるだけ)。ここから宮中に行くのは実力とコネしかない。宮だったとされる母親(84段)の縁故。また中判事・文章生とされ大学出。それが二条の后のまだいと若うてただ人だった頃(6段)から「二条の后に仕うまつる男」(95段)。それが昔男の宮仕え。いわば阿保の子の業平を完全に裏返した存在。ちなみに阿保(王)は業平の父の正式名称であるのは伊勢通には言うまでもなく、業平は右馬頭である。文屋はフンでクサされているが、大事なのは内実。貫之は身分・地位は評価しないとしているのだから、そういうのが何もない真の実力者は文屋だけ。それが唯一伊勢物語の歌と同様の詞書率を誇る文屋の詞書であり、文屋と小町と敏行のみ先頭連続で(秋下・恋二・物名)、恋三で業平の連続が敏行により崩される古今の配置である。この選定・序列に意味を見れないのは歌の素人。
 

 以下は伊勢物語の歌分布であるが、最も厚いのが筒井筒周辺であることは一目瞭然。話は20~24段で一体をなしている。そして、伊勢で歌がない段は一つもない。だから当然、歌が最重要の指標である。よってこの部分の田舎の男女の話が、伊勢物語で最重要の話である。つまり昔男の馴れ初め話。
 業平は全くどうでもいい。だから100年ほど通用していた在五が物語を拒み、伊勢物語とあえて紫に定義されたのである(名称の由来参照)。その精神が理解できないから、伊勢とされた説明が全くできない。伊勢では業平を否定したことにならないではない。否定の意味はある。それが源氏の絵合の内容。在五と伊勢の海人(無名の伊勢の生み人)を対比させた歌である。また、圧倒的に通用した在五名称ではなくすること自体に否定の意味があるのである。
 伊勢物語の最長は65段の在原なりける男だが、それは先行する63段での「けぢめ見せぬ心」の在五とリンクし、徹底的にダメ出しした内容(後宮で女に拒絶されてもつきまとい笑われ、帝に陳情され流された)。しかしこの65段は伊勢で在原を冠している唯一の段なのに、一般の主人公評では、すがすがしいまでに無視。アンタッチャブル。つきまとった女自身に帝にまで陳情されているのに、実は両思いなどと危険な発想をする。これだけでも主人公はありえない。
 それはさておき、前半に歌が厚く、後半に記述の分量が増える構図は、源氏と全く同じ。若い頃の歌が特に厚く、後半に入ってダメ出しで文章が厚くなる。
 源氏で否定されたのは薫という中将の孫。なのに表面上は源氏の子・後継者とされる(中将の子・柏木が、源氏が兄朱雀からおしつけられた娘を孕ませた)。
つまり主人公に注入された中将の系列の拒絶。それが源氏物語。柏木とは業平の息子の棟梁であり、源氏唯一正統の嫡出は夕霧であり、これが朝康。源氏の最初の幼少時からの妻で早世した葵は、いうまでもなく筒井筒と梓弓の女である。それといさかいをおこした六条御息所は二条の后である。一人の男をめぐって争いが起きた構図。…業平? 一体なんだろうそれは。主人公のライバル(天敵)頭中将である。イケメンでよかったね。いや、それは主人公の方でした。だから業平イケメン説を紫は認めていない。違うとか言ったところでしょうがない。証拠はそろってる。もののあはれとかそういう次元の話ではない。

伊勢物語~和歌数の推移

あらすじ

 
 
 昔、田舎辺りを渡っていた人(転勤族)の子どもが、居合わせた筒井に掛け、井戸の周りで遊んでいた(ギャグ)。
 大人になって男も女も、恥交わし(恥らいあって)ていたが、
 男はこの女こそ、女はこの男こそと思いツツ、親が他の人に会わせようとする話にも聞く耳を持たなかった(親のあはすれど聞かでなむありける。男が縁談を聞かない話は10段・たのむの雁にある)。
 

 ここ試験に出ます。いや冗談ですよ。古典の解釈全部そう。単純な知不知ではなくセンスが大事。自分達が見たいように見るのではなく、表現者の意図を表現を通して見なければならない。一番大事なことは一貫しているか。かぐやが影になったのは、どこかに姿を隠したということ? なわけない。それなら直後の「もとの御かたちとなり」とは何か。天人が降りてきたことは何なのだ。全部幻想? そうやってすぐ自分達に都合よく決めつけて、そういう解釈の不都合を著者の表現に責任転嫁するから、はじめより思い上がったままで進歩しない。それに答えが想定されているなら思考とは言わない。忖度。著者の本意など究極どうでもいい。我々の見解・解釈を忖度してみよう。それが教科書で叩き込まれること。日本での思考力とは、基本忖度力。全て解決済みで答えがあると思い込む。明らかに通らない説明でもそういうものだと教え込めばいい。それが古文教育の世界では常識などとされる。だから、何が普遍的で人として正しいことで、何がおかしいのに正しいとされること(不正=誤り)かは、自分の頭で考えなくてはならない。別に考えなくてもいいがそういう人はそういう存在で終わる。そして後者が圧倒的だから、世の中は動物的混沌と虚言に満ちているのである。それとも何か、この世は基本的に人として洗練された美しい社会か。そうではない(権力者は省みよ)というのが竹取の趣旨で、それを認めないのが人の世の常。

 さて、この女の隣に住む男のもとより、こうあった。
 「筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな妹見ざる間に」
 
 筒井筒 おれの思いの たけと掛け 時間がたって キミはこんなに(可愛くなった)
 
 女、返し、
 「くらべこし  ふりわけ髪も肩過ぎぬ 君ならずして誰かあぐべき」
 
 くらべても 髪も伸びたし わかるでしょ 大人にするのは キミの手で夜露(49)
 
 などと田舎風にみやびに言い合って、遂に本意のごとくあった(心と体が結ばれた=夫婦になった)のであった。
 
 
 さて、年頃経つほどに、女の親が亡くなり、女の生活の頼りがなくなったので(それまでは生活の心配なく気ままに愛し合っていた)、「もろともにいふかひなくてあらむやは(ずっと一緒にいたいと言っても、大人ならせんないことだろうよ)」といって、
 河内の国、高安の郡に、行き通う所が出来た。
 

 だからこれは出稼ぎである。出稼ぎでなくても世に出るための準備である。また伊勢で全国記を記す器量なのだから、田舎で終わる人間ではない。
 まして別の女の所に行って養われることなどではありえない。高安にはそんな余裕のある家があるんですか。
 高安とはどこか。大阪の右端だよ。筒井も高安も近鉄だよ。
 田舎の転勤族の息子のどこに、突如違う土地でジゴロになれる価値があるわけ? あ、イケメンだから? 失礼失礼、一番大事なことを忘れてました。
 そういう解釈は、文面と文脈と伊勢全体に反し、何より人の心をもてあそんで、また伊勢の知性を侮辱しているので、即刻悔い改めてほしい。
 

 しかしながら、このもとの(?)女は、悪いと思う様子(負い目を感じたり、別れを悲しむ様子)もなく、男を出してやったので、
 男はいぶかしんで、異心(?)があってそのようにするのかと思い疑った。
 (生活を支えれない男に愛想を尽かしたのか、やはり実利的に金のある男がいいのかと。前者はわかっていたはずなので、後者がメイン)
 

 ここで「もとの」女という表記が、間接的に高安の女を作りだす根拠だろうが、このたった三文字だけで、そう解するのは無理。
 この三文字のみ付け足しと思わなくもないが、もとのままであってとして、この三文字だけでそのような意味に見てはいけない。
 この漠然としたたった三文字で、筒井筒の精神を、冒頭のこの女こそという精神を、親が他に会わせようとする話は聞かずという精神を、20段から連続してきた伊勢で最も歌が厚い部分の精神を、根底から履すことはありえない。言葉とおつむが緩くて独善的。それが日本貴族社会のファニーでセクシーな伝統である。このままではいけない、だからこそ日本はこのままではいけないのである。(岩盤支持だし別にどーでもいいけど。え、支持する人いんの?マジで? 知性とか教養とか素養って言葉知ってっかなあ? だからこそ日本はこのままではいけないんだなこれが。いやもう滅んだほうがエコでしょ)

 そこで男は(情けなくも)河内へ行くような顔をして、前栽の中に隠れて見ていると、
 この女は、いとようけさじて(とてもよく化粧をして。こういう顕著な特有事情は伊勢では特に注意せよ。最も重要な暗示である)、うち眺めて、
 
 「風吹けば 沖つ白浪龍田山 夜半にや君がひとり越ゆらむ」
 (海の底 沖つ白波龍田山 いつか越えなむ妹があたり見む)(万葉01/0083)
 
 と(女があたりを見ながら=当然万葉を読み込む)詠んだのを聞いて、限りなく悲しく思い、河内へも行かなくなった。
 

 ここで「とよみけるをきゝて」とあるが、それは表面的なことで、真の理由はそうではない。
 どう見てもおかしな事情が一つある。女がとてもよく化粧をしたことだ(この女いとようけさじて)。男が出発したのに。しかも夜中には山にいると言っているのに。
 つまりこれは古来、生活に窮した女、貧しい女がとる方法であり、生活のため隠れて女を売ろうとしている示唆である。そうしている最中には、あの人はここに来るはずないから見られないよね、という歌である(梓弓のストーリー参照)。
 だから限りなく悲しくなった。高校生ならこれ位の悲しさはわかるか、わからないのか。いや、そもそも大人でもわかってなかった。
 だから次段の梓弓で家に戻った男に女が家には入れられないとしながら、なぜか心は昔より君のもとにあったとし、その後で女が男を追ってきて自害するのである。
 

 そうしてまれまれかの高安に(通って)来て見れば、
 はじめこそ、心にくもつくりけれ(落ちたなりの生活に心に曇りをみせていたが)、
 いまはうちとけて(体の距離は遠くなっても、心の距離は次第に近くなり)
 てづから飯匙とり笥子のうつはものにもりけるを見て(つまり今までは隠れて手を煩わせていたことを、ついうっかり男の前でも隠さなくなった)
 心うがりて、(高安には)いかずなりけり。
 
 そんなものは苦労ではない! という「常識」的発想はやめるように。そういう人は炊飯器もサ○ウのご飯もコンビニの類も禁止。別に苦労ではないだろう。
 だからこそ女は隠していたのである。
 
 高安は通っている場所で、「来て」見たのは女のもとにである。高安の女ではない。女は一人しかいない。絶対にそうだと決めて見れば通るだろう。
 高安「の女」というのも、絶対にそうだと決めて見ているだけ。何を根拠にそう言っている。勝手に文中外の常識を読み込まないように。
 伊勢竹取は当時の常識などではない。何より紫の絵合にはそう書いてある。
 それが「伊勢の海の深き心」=底が知れない。それを認めたがらない、自分達の視点に落とし込もうとするのが、伊勢を「片端」も読めない「浅はかなる若人ども」。だから「海の深き心」も、表面的で意味不明な浅い意味にとろうとする。
 そういう解釈ではないと思うのは自由だが、少なくとも古典の第一人者、紫はこう思っている。竹取と伊勢には誰の目も及ばない。だから多角的に読み込まれた万葉も想定せずに無視する。この軽薄な内容でそんなことまで考えているはずがないからである。それが目の及ばぬ浅はかさ。
 

 ここで笥子≒茶碗を、家子=使用人の器とする説もあるが、万葉を参照しているので家子ではない。教科書は自分で言葉を勝手に当てる傾向がある。
 「家にあれば笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る」(万葉02/0142)
 家にいるのだから筒井の女である。高安は通っているだけ。
 また肝心は「てづから」という普通ならつけない単語である。
 これはそういうことはしていなかったが、今は馴れないことをしているということ。万葉後段の辛さも読み込む。そういう生活に馴染みがないということ。
 一緒にいては女が苦労する。しかし安易に離れるとまた化粧しかねない。
 
 女が馬脚をあらわした! なんですか? その意味不明で下卑た発想は。
 「心憂がり」とは、一般に自分への憂いと解されているようだが。
 
 さりければ、かの女、大和(=人)の方を見やりて、
 「君があたり見つゝを居らむ生駒山 雲な隠しそ 雨は降るとも」
 「君があたり見つつも居らむ生駒山 雲なたなびき雨は降るとも」(万葉12/3032)
 
 その心は、もう姿を隠さないで。
 
 といひて見だすに、からうじて大和人(答え合わせ)「来む」といへり。
 

 大和は大和は場所と男を掛けて大和出身の男。大体これで昔男の意味。また大和の筒井という根拠にもなる。
 また対面している表現。行くや来るは主体で相対的である(女目線ではカム=来む)。いくよくるよで一体である。
 かの女は高安の女などではない。男にとって女は一人だけ。それが筒井筒という言葉の象徴的意味。
 

 よろこびて待つに、たびたび過ぎぬれば、
 「君来むと言ひし夜毎に過ぎぬれば 頼まぬものゝ恋ひつゝぞ経る」
 
 といへけれど、男(大和に)すまずなりにけり。(大和人ではなくなっている)
 
 つまり高安にも行かなくなったが(行かずなり)、大和にも住まなくなった(くどいが、高安には住んでいた訳ではない。通っていただけ)。
 一体どうしたのだろう。
 その答えが次の梓弓。結局、別れを惜しんで宮仕えに出た。女が金のことを考えなくてもいい所に。
 
 こういう後出し構成なのは、伊勢物語は連載ものだから。男が仕えた女所での女達の手習がてらの。それを受けたのが土佐日記であり、源氏の構成である。
 いい年した貫之が、土佐日記で女を装ったとか当然のように説明されるが、完全に変態だろう。女性達への啓蒙以外ない。貫之は常に伊勢に見習っている。
 仮名文字が女の文字なのではない。漢文(≒真名)よりは口語とのギャップが少ないから、事前教育が総じて少ない女性にも扱いやすいというだけである。
 伊勢はまず女向けだから男女の話を語っている。楽しんでもらうためでもあるし、色々考えてもらうためでもあるし、多分女達の感想も聞いてみたかった。
 
 なぜ後宮周辺の女性日記文学という特殊極まる文化が出来たというのか。それは和歌史上最高の知性ある二人が、最高の手本を残したからに他ならない。
 教育の成果というなら、男の日記文学はなぜない。それで女の日記を教えたのは誰か。日記文学は当時の教育内容だったのか? 
 伊勢は当初は業平の日記と目されており、「ざい五中将の恋の日記」などという軽薄な呼称があったとされる。
 しかし伊勢は在五の日記などではありえない。63段・65段参照。そういう浅はかな在五名称を忌避するために、紫が伊勢物語と定義した。源氏の絵合の文脈はまさにそういう文脈。在五と無名の伊勢の男の名を争わせ、伊勢斎宮側を勝たせ、中将(=中納言)の娘側を負けさせる。これは言葉を曲げない限り、解釈で左右されるレベルの話ではない。
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第23段 筒井筒
   
   むかし、  昔、  むかし。
  田舎わたらひしける人の子ども、 ゐなかわたらひしける人のこども、 いなかわたらひしける人の子ども。
  井のもとに出でてあそびけるを、 ゐのもとにいでゝあそびけるを、 井のもとにいでゝあそびけるを。
  大人になりければ、 おとなになりにければ、 おとなになりにければ。
♂♀ 男も女も、はぢかはしてありけれど、 おとこも女もはぢかはしてありけれど、 おとこも女もはぢかはしてありければ。
  男は、この女をこそ得めと思ふ、 おとこはこの女をこそえめとおもふ。 男はこの女をこそえめ。
  女はこの男をと思ひつゝ、 女はこのおとこをとおもひつゝ、 をんなはこの男をと心ひつゝ。
  親のあはすれど おやのあはすれども おやのあはすることも
  聞かでなむありける。 きかでなむありける。 きかでなんありける。
 
  さて、この隣の男の さて、このとなりのおとこの さてこのとなりのおとこの
  もとよりかくなむ。 もとよりかくなむ。 もとよりなん。
 

47
 筒井つの
 井筒にかけしまろがたけ
 つゝゐつの
 ゐづゝにかけしまろがたけ
 筒ゐつの
 井筒にかけし麿かたけ
  過ぎにけらしな
  妹見ざる間に
  すぎにけらしも
  いもみざるまに
  過にけらしな
  君(あひ一本)見さるまに
 
  女、返し、 をむな、返し  返し。
 

48
 くらべこし
 ふりわけ髪も肩過ぎぬ
 くらべこし
 ふりわけ神もかたすぎぬ
 くらへこし
 振分髮もかたすきぬ
  君ならずして
  誰かあぐべき
 きみならずして
 たれかあぐべき
  君ならすして
  誰かなつ(あく一本)へき
 
  などいひいひて、 などいひいひて、  かくいひて。
  つひにほいのごとくあひにけり。 つゐにほいのごとくあひにけり。 ほいのごとくあひにけり。
 
 
   さて年ごろふるほどに、  さてとしごろふるほどに、  さて年ごろふるほどに。
  女、親なく、 女、おやなく 女のおやなくなりて。
  たよりなくなるままに、 たよりなくなるまゝに、 たよりなかりければ。
  もろともにいふかひなくて
あらむやはとて、
もろともにいふかひなくて
あらむやはとて、
かくて
あらんやはとて。
  河内の国、高安の郡に、 かうちのくに、たかやすのこほりに、 かうちのくにたかやすのこほりに
  いきかよふ所いできにけり。 いきかよふ所いできにけり。 いきかよふ所いできにけり。
 
  さりけれど、このもとの女、 さりけれど、このもとの女、 さりけれど。このもとの女。
  あしとおもへる気色もなくて あしとおもへるけしきもなくて、 あしとおもへるけしきもなく。
  いだしやりければ、 いだしやりければ、 くるればいだしたてゝやりければ。
 
  男こと心ありて、 おとこ、こと心ありて 男こと心ありて。
  かゝるにやあらむと思ひうたがひて、 かゝるにやあらむと思ひうたがひて、 かゝるにやあらんとおもひうたがひて。
  前栽の中にかくれゐて、 せんざいのなかにかくれゐて、 ぜんざいのなかにかくれゐて。
  河内へいぬる顔にて見れば、 かうちへいぬるかほにて見れば、 かの河內へいぬるかほにて見れば。
 
  この女 この女、 この女。
  いとようけさじて、うちながめて、 いとようけさうじて、うちながめて いとようけさうして。うちながめて。
 

49
 風吹けば
 沖つ白浪龍田山
 風ふけば
 おきるしらなみたつた山
 風吹は
 おきつしら浪たつた山
  夜半にや君が
  ひとり越ゆらむ
 夜はにやきみが
 ひとりこゆらむ
  夜半にや君か
  獨ゆくらん
 
  とよみけるをきゝて、 とよみけるをきゝて、 とよめりけるをきゝて。
  かぎりなくかなしと思ひて、 かぎりなくかなしと思て、 限なくかなしと思ひて。
  河内へもいかずなりにけり。 かうちへもいかずなりにけり。 河內へもおさ〳〵かよはずなりにけり。
 
 
   まれまれ  まれまれ  さてまれ〳〵
  かの高安に来て見れば、 かのたかやすにきて見れば、 かのたかやすのこほりにいきて見れば。
  はじめこそ はじめこそ はじめこそ
  心にくもつくりけれ、 心にくもつくりけれ、 こゝろにく・[くイ]もつくりけれ。
  いまはうちとけて、 いまはうちとけて、 いまはうちとけて。
      髮をかしらに卷あげて。
おもながやかなる女の。
  てづから飯匙とりて ゝづからいゐがひとりて、 てづ・[かイ]らいひがいをとりて。
  笥子の けこの けごの
  うつはものにもりけるを見て、 うつはものにもりけるを見て、 うつはものに。もりてゐたりけるをみて。
  心うがりていかずなりけり。 心うがりていかずなりにけり。 心うがりていかずなりにけり。
 
  さりければ、かの女、 さりければ、かの女、 さりければ。
  大和の方を見やりて、 やまとの方を見やりて、 かの女やまとのかたを見やりて。
 

50
 君があたり
 見つゝを居らむ生駒山
 きみがあたり
 見つゝをゝらむいこま山
 君かあたり
 見つゝをくらん伊駒山
  雲な隠しそ
  雨は降るとも
  雲なかくしそ
  雨はふるとも
  雲な隱しそ
  雨はふるとも
 
  といひて見だすに、 といひて見いだすに、 といひて見いだすに。
  からうじて大和人、来むといへり。 からうじてやまと人、こむといへり。 からうじて。やまと人こむといへり。
  よろこびて待つに、たびたび過ぎぬれば、 よろこびてまつにたびたびすぎぬれば、 よろこびてまつに。たび〳〵過ぬれば。
 

51
 君来むと
 言ひし夜毎に過ぎぬれば
 きみこむと
 いひし夜ごとにすぎぬれば
 君こむと
 云しよことに過ぬれは
  頼まぬものゝ
  恋ひつゝぞ経る
  たのまぬものゝ
  こひつゝぞぬる
  賴めぬ物の
  こひつゝそをる
 
  といへけれど、 といひけれど、 といへりけれど。
  男すまずなりにけり。 おとこすまずなりにけり。 おとこすまずなりにけり。
   

現代語訳

 
 

シーン1:筒井筒

 

はぢかはし

 

むかし、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとに出でてあそびけるを、
大人になりければ、男も女も、はぢかはしてありけれど、
男は、この女をこそ得めと思ふ、女はこの男をと思ひつゝ、
親のあはすれど聞かでなむありける。

 
 
むかし、
 

田舎わたらひしける人の子ども、
 田舎で暮らしている人の子どもが、
 
わたらひ 【渡らひ】
:暮らし向き。そのための仕事。
 
 わたり
 【渡り】:移転。転居。
 【辺り】:付近。かた。(田舎とかかり辺境)
 
 以上の意味をまとめた言葉が、田舎わたらひ)
 

井のもとに出でてあそびけるを、
 井戸のところに出てきて遊んでいたところ、
 

もと 【本・元】
 :付近。ほとり。(人のいる)所。)
 

大人になりければ、
 大人になったので、
 

男も女も、はぢかはしてありけれど、
 男も女も、互いに恥ずかしがっていたが、
 

はぢかはす 【恥ぢ交はす】
:互いに恥ずかしがる・気がねする。

 ただしこの定義は、伊勢のこの部分が出典なので、造語だろう。
 気にするあまり「見交わす」ことが容易にできないでいること。
 

男は、この女をこそ得めと思ふ、
 男は、この女こそ(私の妻)にと思い、
 

女はこの男をと思ひつゝ、
 女は、この男をこそ(夫に)、と思いつつ
 

親のあはすれど(△ことも)
 親が(別に)会わせようとする人のことも
 

聞かでなむありける。
 聞かないでいた。(10段
 
 

まろがたけ

 

さて、この隣の男のもとよりかくなむ。
 
 筒井つの
 井筒にかけし まろがたけ
  過ぎにけらしな
  妹(△君)見ざる間に

 
 
さて、この隣の男のもとより
 さて、この隣の男のもとから
 

かくなむ。
 こうあった。
 

筒井つの
 ①筒井の②筒井の
 

 つつゐ 【筒井】:①大和の田舎。②円筒形に掘った井戸
 

井筒にかけし
 井筒で駆けと掛け
 

 ゐづつ 【井筒】:井戸の囲い。角がある。
 

まろがたけ
 おれの思いのたけと掛け。
 
 まろは男の自称。
 思いの丈:ある人を思う(愛する)心の、ありったけ。
 

 たけ 【丈・長】:高さ。身のたけ。身長。
 

過ぎにけらしな
 過ぎてしまったのかな
 

 過ぎる:物理的な丈と、私には過ぎる(もったいない)という意味
 そして「私には過ぎた」にかかるのは妻。
 

 けらし:
 ①〔過去の事柄に基づく推定〕…たようだ。
 ②〔過去の詠嘆〕…たのだなあ。
 

妹見ざる間に
 キミ(を少し)見ない間に。
 

 いも 【妹】:妻。恋人。姉妹。
 男性から女性を親しんで呼ぶ言葉。
 あかぬけない田舎の子もイモという。
 
 いや~スゲー大人になったね? んじゃケッコンすっか。
 あ、サイヤ人や。ケッコンしたらアカンやつや。可愛いチチをソッコーで孕ませ放置して、どこかに行ってしまう奴や。
 チチはおっとう(牛魔王=田舎のボス)がいたからいいものの…。その財産もなくなるって、ご飯に嘆いてただ。
 世間的には最悪な男で父でも、チチは好きなんだよね。それに最初から暫く会っていないのに一途に思って、はじらってたじゃない。
 
 

ほいのごとく

 

女、返し、
 
くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ
 君ならずして 誰かあぐべき
 
などいひいひて、
つひにほいのごとくあひにけり。

 
 
女、返し、
 女がこれに返し
 

くらべこし
 では比べてみて、こちらに来て。
(比べ+来し)
 

ふりわけかみ(▲髪・神、△振分髪)も
 この分けた髪も、
 

肩過ぎぬ
 肩過ぎて
 
(背は伸びないが髪伸びた)
 

君ならずして
 キミでなければ
 

誰かあぐべき(△なつへき)
 誰が上げるの。
 

 髪上げ:女の成人儀式。
 ここでは、オトナになる儀式の暗示。
 つまり私をあげるのは君ダケ(まろがたけ)という掛かりである。
 

などいひいひて、(△かくいひて)
 などとモジモジ言い合って、
 

つひにほいのごとくあひにけり。
 遂に本意のごとく、あったのであった。
 

 ほい 【本意】:本来の目的。かねてからの願い。
 

 あふ:結婚する。結ばれる(心と体が)。
 
 

シーン2:沖つ白浪

 

たよりなく

 

さて年ごろふるほどに、女、親なく、たよりなくなるままに、
「もろともにいふかひなくてあらむやは」とて、
河内の国、高安の郡に、いきかよふ所いできにけり。

 
さて年ごろふるほどに、
 さて、数年がたって
 

 としごろ 【年頃】:数年間。数年来。長年。
 
 

女、親なく、
 女の親がなくなり、
 

たよりなくなるままに、
 生活の頼りがなくなって、
 

 たより 【頼り】
 :よりどころ。
 

 ままに 【儘に・随に】
 :…ので。…によって。
 

もろともに
 二人ともに、
 

 もろともに 【諸共に】
 :いっしょに。そろって。
 

いふかひなくてあらむやは、とて、
 しょうがないことだよなといって、
 

 いふかひなし 【言ふ甲斐無し】
 :言ってもしかたがない。どうしようもない。
 

河内の国、高安の郡に、
 河内の高安に
 
 筒井から見て龍田山を挟んだすぐ向こう。
 

いきかよふ所いできにけり。
 (仕事で)行き通う所ができた。
 
 つまりそれまでの男の生活は一人分で、二人分には足りなかった。
 

 他の女の所に通うではない。人としてありえないし、前段からの流れ、及び次の梓弓とのつながりも完全に破壊する。
 何より、田舎の男がどうしてすぐヒモになれるのか。田舎の男がそうやって生計を立てるなら、一体誰が社会を支えているのか。
 王の子でボンボンで、いずれ京で中将が、奈良や大阪のはずれの女にタカりまくるのか?
 どれだけ無節操で不誠実な見方なのか。そういうのは文化でも常識でもない。
 幼い頃からの思い交わしは一体何だった。
 
 

こと心

 

さりけれど、このもとの女、
あしとおもへる気色もなくていだしやりければ、
男こと心ありて、かゝるにやあらむと思ひうたがひて、
前栽の中にかくれゐて、河内へいぬる顔にて見れば、

 
 
さりけれど、このもとの女、
 それなのに、このもと(いたところ)の女は
 
 もと 【本・元】
 :根本。よりどころ。原因。(人のいる)所。
 

 もとの女! だから別の女がいる! ではない。男が違う所にいる表現と見る。女ではなく場所にかかった説明。
 それに男や女は、伊勢は冒頭で定義した後は、固有名詞的に用いている。表記は抽象的でも抽象の意味ではない。それが昔男である。
 
 「もとの」という三文字のみを根拠に別の女を想定するのは、冒頭の筒井筒の文脈からして絶対無理。
 そういう人は筒井筒を完全に破壊している。
 ほぼ全てが、伊勢文中外の事情(認定)を勝手に読み込んで男を業平とみなす読解レベルだが、国語的良心があるなら、文中冒頭の事情をしっかり熟読して、その趣旨に従い、絶対に業平の方向性で解してはいけない。
 

あしとおもへる気色もなくて
 そのことを悪いと思う様子もなく、
 

 あし 【悪し】悪い。具合が悪い。不都合。

 
 つまり、離れても気にかけない様子である。出稼ぎに行っても負い目を感じるそぶりもない。
 普通に冒頭でイチャついた趣旨を考えたら不自然、だから男は疑問に思う。
 しかしそれは別の女に嫉妬しないとかいう割とどうでもいい次元ではなく、男に心配かけまいという女の覚悟、自分の生活は自分で何とかするという覚悟でプライドだった、ということである。
 

いだしやりければ、
 家から出してやったので、
 

男こと心ありて、かゝるにやあらむと思ひ
 男は、心が離れてこのように平気なのかと思い、
 
 21段冒頭「こと心なかりけり」と対比。
 

うたがひて、
 疑って、
 
 甲斐性なしと愛想をつかされたか、別のつて=たよりがあるのかと
 

前栽の中にかくれゐて、
 庭の植栽の中に隠れて
 

河内へいぬる顔にて見れば、
 河内に行くような顔をして、見ていれば
 
 

龍田山

 

この女、いとようけさじて、うちながめて、
 
風吹けば 沖つ白浪 龍田山
 夜半にや君が ひとり越ゆらむ
 
とよみけるをきゝて、
かぎりなくかなしと思ひて、河内へもいかずなりにけり。

 
※この女子の歌は基本万葉に即す。21段でも梓弓でも。
 つまり同一人物。
 

風吹けば沖つ白浪龍田山 夜半にや君がひとり越ゆらむ(伊勢)

海の底 沖つ白波龍田山 いつか越えなむ妹があたり見む(万葉01/0083

風吹けば沖つ白波畏みと 能許の亭にあまた夜ぞ寝る15/3673
 
 
この女
 

いとようけさ(う)じて、
 とてもよく化粧をして、
 

 けさう 【化粧】
 ①化粧(けしょう)すること。
 ②(よい服装をして)身づくろいをすること。

 けさう 【懸想】
 :(異性に)思いを懸けること。恋い慕うこと。
 
 この意味は、続く「かぎりなくかなし」と相まって、化粧である。懸想なら限りなく悲しくなるのはおかしい。悲しみで、限りないのである。
 つまり古来貧した女の常套手段。14段・陸奥の国で女から声を掛けられることはその伏線。
 

うちながめて、
 うちをうち眺めて
 
 うち【打ち】
 :ちょっと。ふと。(語調を整えたり続く動詞の意味を強め)
 
 

風吹けば
 風吹いて
 

沖つ白浪
 起きて沖の白波
 

龍田山
 
 筒井と高安との間の山
 

夜半(よは)にや君が
 夜中には君が
 

 よは 【夜半】:夜。夜中(よなか)
 

ひとり越ゆらむ
 ひとり山を越えているだろう。

とよみけるをきゝて、
 と妹があたりを見ながら詠んでいるのを聞いて、
 (海の底 沖つ白波龍田山 いつか越えなむ妹があたり見む)(万葉01/0083)
 
 つまりこの時間には、ここには戻ってこないだろう。
 だから夜に化粧をしている。そうやって女を売ることを男に見られないですむ。
 

かぎりなくかなしと思ひて、
 限りなく悲しいと思って、
 

河内へもいかずなりにけり。
 河内にも行かなくなった。
 
 

シーン3:笥子のうつは

 

心うがり

 

まれまれ、かの高安に来て見れば、
はじめこそ、心にくもつくりけれ、いまはうちとけて、
てづから飯匙とりて、笥子のうつはものにもりけるを見て、
心うがりていかずなりけり。

 
まれまれ
 (しかし)ごくまれに
 

かの高安に来て見れば、
 かの高安に(通って、かの女のもとに)来てみれば、
 
 女は一人しかいない。筒井のもとの彼女しかいない。そう見れば十分通るだろう。
 高安の女と見てはいけない。なぜなら高安「の女」という表現は一度もないからである。
 古今994の詞書も慎重に避けている。
 「この女おやもなくなりて家もわるくなりゆくあひたに、このをとこ、かふちのくにに人をあひしりてかよひつつ」
 このように、男と女と人を画然と区別している。主語がこうだから、「あひ」も「かよひ」も、ごくごくフラットな方向で解さなければならない。
 高安の女を連発する普通の教科書執筆者が説明したなら、こうはしないだろう。だから貫之はそう見ていない。
 

はじめこそ
 

心にくもつくりけれ、
 心を曇らせていたが

 

いまはうちとけて、
 今は打ち解けて、
 

 うちとける【打(ち)解ける】
 :相手と隔たりのない気持ちになる。
 
 つまりたまに離れても、近い気持ちのままである。
 

てづから飯匙とりて
 手ずからしゃもじをとって
 

 いひがひ 【飯匙】:しゃもじ。
 

笥子のうつはものにもりけるを見て
 けこの器物に(何かを)盛っているのを見て
 

 けこ 【笥籠・笥子】:飯を盛る器。
 
 教科書では家子(使用人)の器とするのが主。著者の原文は「けこ」と見て、生活が落ちたという意味を端的にするためだろう。
 しかしそういう解釈は違う。誤り。それを誤解という。
 なぜなら、本段(の周辺)は一貫して万葉に即しているから。
 というか、筒井(や高安)に使用人がいる家があるのか。
 「家にあれば笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る」(万葉02/0142)
 
 これは有間皇子の歌とされるが、これは万葉1同様、皇族に下々の生活を教えるための、人麻呂お決まりの作法。
 そもそも万葉集は万侶集。古事記の安万侶こそ万葉の人麻呂の本名。万侶=人麻呂(形)。卑官、歌物語、相応の影響力、没723と724。
 そしてここでの万葉の歌も、問題なくその編纂による。
 この歌の直前は10首連続して人麻呂の歌。人麻呂が妻と別れて宮仕えに出た時の歌(万葉02/0131題詞「柿本朝臣人麿が石見国いはみのくにより妻めに別れ上来まゐのぼる時の歌」)。妻が大好き人麻呂の宮仕えと、昔男が宮仕えに出た梓弓とリンクし、内容でも配置でも人麻呂の作で、これを読み込んでいる根拠がある。
 皇子が「家」と詠んだり、出先で草葉でご飯を食べることはありえないし、したがって笥子が立派な器ということにもならない。
 字義からしても、むき出しの器だろう。
 

心うがりて
 心憂いて
 

 こころうがる 【心憂がる】
 :情けなく思う。うんざりする。
 というのは乱暴な定義。字義から離れすぎている。「憂い」とはどんなニュアンスか? そこから離れることはない。
 

 憂い:心配。悲しみ。嘆き。思うようにならなくて、つらい。せつない。憂鬱だ。
 これが本来の意味。だからこう見る。
 心からこう思っている。杞憂(とりこし苦労)ではない。つまり本当に苦労している。それがここでの心憂がり。
 

 憂鬱とうんざりは、似ているようで違う。憂鬱は自分に原因があり嫌だと思うこと(それが鬱)。うんざりは相手に原因があり嫌だと思うこと。
 ここでの心うがりも、自分に原因があると見る。それが言葉に忠実な解釈。
 

 ここの「心うがり」が、伊勢全体の世界観解釈姿勢を反映する。
 憂いたのは女に対してではない。男が自身の不甲斐なさに対して。
 女をすぐ小ばかにする解釈の人は、他の部分でもそう見る。
 

 初段の「はしたなく」の解釈方向性と全く同じ。
 「この男かいまみてけり。 思ほえず、ふる里にいとはしたなくてありければ、 心地まどひにけり」
 このふる里は、奈良の古里と掛けて筒井の里(故郷)のこと。
 初段ではしたないと思ったのも、心地まどったのも、かの筒井の女=彼女がいたのに、綺麗な女性を見て心惑わせたからである。
 しかも美人姉妹だったので、そのどちらかでも惑ったのである。だからはしたない。
 
 春日の里で、初見の美人姉妹をはしたない(古里に不似合いだ←??)とかいう男は、人としておかしい。色々ねじまがっている。
 そもそも「はしたなく」を不自然に曲げる時点で誤り。
 狩衣の裾(はした)をなくして、はしたない。自分が。
 
 女がおかしいというのは、そういう感性の人の見立てで、伊勢は違う。
 

いかずなりけり。
 行かなくなった。
 
 

生駒山

 

さりければ、かの女、大和の方を見やりて、
 
君があたり 見つゝを居らむ 生駒山
 雲な隠しそ 雨は降るとも
 
といひて見だすに、からうじて大和人、来むといへり。

  

君があたり 見つゝを居らむ 生駒山 雲な隠しそ  雨は降るとも(伊勢)

君があたり 見つつも居らむ 生駒山 雲なたなびき 雨は降るとも12/3032

 
さりければ、かの女、
 そうしたところ、この女
 

大和の方を見やりて、
 大和の方を見て、
 

君があたり
 君がいるあたりを
 

見つゝを居らむ生駒山
 見つつ居るよの生駒山
 


 筒井と高安の間にある山。
 

雲な隠しそ
 雲よ隠さないで
 

雨は降るとも
 雨は降っても
 

といひて見(▲い)だすに、
 と言って外を見ていると、
 

 みいだす 【見出だす】
 :外を見る。ながめやる。
 

からうじて大和人、来むといへり。
 かろうじて昔男は、行くよと言った。
 

 からうして 【辛うして】
 :やっとのことで。ようやく。
 
 

過ぎぬれば

 

よろこびて待つに、たびたび過ぎぬれば、
 
君来むと 言ひし夜毎に 過ぎぬれば
 頼まぬものゝ 恋ひつゝぞ経る
 
といへけれど、男すまずなりにけり。

 
よろこびて待つに、たびたび過ぎぬれば、
 喜んで待ったが、来ないことが重なって、
 

 たびたび 【度度】
 :何度も何度も。
 

 すぐ 【過ぐ】
 :①通り過ぎる。②時がたつ。経過する。
 
 

君来むと
 君が来ると
 

言ひし夜毎に 過ぎぬれば
 言った夜毎に、(来ないまま時もキミも)過ぎ去って
 

頼まぬものゝ
 何も頼んだわけではないけども、
 

恋ひつゝぞ経る
 恋しながら時が経つ。
 
 そんなことしている内に、花は散ってしまうがな。
 

といへけれど、
 と言ったが
 

すまずなりにけり。
 男は住まなくなってしまった。
 
 そして女は梓弓でこの世からいなくなってしまいました。

 
 

高安の女という解釈創出とその問題背景

 
 
 筒井の昔男が高安に通ったのは、困窮のため。親をなくした女を養うための出稼ぎでしかない。直接書いていないのは、最低限の教養と常識とモラルがあれば、そう見るのは当然だからで、ダイレクトに書くと金目の行為は古来より誇り高い男にはみっともないことだからである。だから間接的に次段の梓弓で、別れを惜しんで宮仕えに出たとしている。しかしそれは無視。筒井筒の後に梓弓を取り上げる教科書は、主要なもの5つほど見る限りではなかった。
 
 文脈が大事なのではなかったのか? 「筒井筒」はやっとの思いで結ばれた象徴の言葉ではなかったのか? その直後に高安の女に通う? ありえない。
 人としてありえない。物語の筋も人としての筋も通せない。それが「けぢめ見せぬ心」と非難された在五である(63段)。それが何となくの東下りで、突如都の妻を思い出して泣くという一般の訳の訳のわからなさ。
 しかし伊勢全体もこの段もそんな話ではありえない。20~24段(と94段)は、奈良の片田舎の筒井で育った幼馴染の男女の話。楓・紅葉に掛けた一連一体の話である。そしてここが伊勢で最も歌が厚くなる部分であり、この部分こそ昔男が最も大事にした自身の馴れ初め話である。歌の配置は揺らがない事実であり、瑣末な解釈で左右されるものではない。
 
 筒井筒の筋を完全に破壊した高安の女という根拠のない解釈を、右も左もわからない人に常識として刷り込む。おかしいと思ってもそれが当時の常識なのだ。常識ではない。勘違いで常識とみなしている解釈である。理由はどうでもいい、与えた答えをただ覚えよ、与えた枠内でのみ考えよという教育が、まさにここに結実している。全く分かっていないのに言われたまま覚えて分かったと勘違いする。貫之や紫などが極力控えて、弁えないのが散々まき散らした結果がこれ。
 
 その実績に対し最低限の敬意を払える良心があるなら、紫に「伊勢の海の深き心」とされた古典を、人として幼稚な説明で見切ったように小ばかにした態度はやめてもらいたい。分かっていない中での一つの足りていない解釈ということを説明して欲しい。それが謙虚さで誠実さ。筋を通すことが大事。しかし誰も筋を通そうとしない。だから原初の古典の解釈が、ひたすら無節操な権力万世と(古事記や万葉の見立て、竹取の帝の蛮行の無視)、道理に外れた男女観から全然進歩しないのである。漢文の哲学と比較してあまりに幼稚ではないか? 幼稚に見えるのは本のせいではない。少なくとも貫之や紫はそう評してはいないからだ。この2人以上の実力があるというならともかく、古を立てられないならその人は本質的に古典に深い意味を見れない。権威が与えた解釈がないと価値を認められない。社会の権威秩序の序列を根本で認めない、これらの古典の価値観が受け入れられず、幼稚(青い)と反発するのである。しかし人の権力を超越し、戒め、普遍の道理を説くこそ、古来古典の本質である。こちらは反発ではない。だから直接的ではない。直接に言うほど、抹殺されてきた。
 
 ここでの高安通いも、困窮の文脈。女が自らご飯をよそって男が心憂がったのも、困窮の文脈。女が何食わぬ顔で送りだしたのも、困窮の文脈。女が男の出発後、なぜかよく化粧し、男が限りなく悲しくなったのも、困窮の文脈。互いに体を張って、金で心配かけまいとした強がりで、昔の悲しい物語である。何が高安の女だ。ありえない。人としてありえない。それが「けぢめ見せぬ心」。業平を思慕した人が書いた? 在五の63段だけでありえない。何が昔男にはその面影があるだ。そんなものはない。そもそも在五自体が蔑称で坊の暗示。それが分からない坊に古典は千年早い。素養や哲学がなさすぎて文脈を理解できない。
 

 昔男は田舎から宮仕えに出た「二条の后に仕うまつる男」(95段)で文屋である。伊勢の記述でも、二条の后に近い古今の詞書でも、東下りの裏づけとなる三河行きの詞書でも、あらゆる記録で一貫している。おかしなのは宙に浮いた古今の業平認定、それが誤り。なぜ誤ったのかというと、現状のように全体の整合性を誰も考えず淫奔日記と安易にみなしたからである。ただ貫之はそうではなかったから、諸々の配置によりまず文屋を立て業平を否定し(文屋・小町・敏行(秋下・恋二・物名)のみ巻先頭連続業平は恋三で敏行(義弟)により連続を崩す)、伊勢の歌ながら非業平の歌を古今で突出した最長の詞書にしているのである(次は東下り。つまり筒井筒・あづさ弓での妻の死が、あづま下りの理由である。筒井筒の妻をなくした。だから「身をえうなきものに思ひなし」た。貴族の気まぐれ行楽で、都に残してきた妻を思い出し泣く? あまりに幼稚で馬鹿げている。それは伊勢がおかしいのではない。読み手の精神レベルの問題)。
 こういう配置に意味を見れない人は和歌の教典たる伊勢を評する資格がない。素人。貫之にここまでさせた配置の重みを弁えて欲しい。貫之や紫以上の実力というならともかく。
 

 「(海の底)沖つ白波龍田山」(万葉83。→伊勢23段)。これが「伊勢の海の深き心」と紫が源氏の絵合で評した理由である。その心は海ほど深い心、誰もその器をはかれない。古今の業平の歌を引用しまくったとかいうのが伊勢の深さを片端も読めない「浅はかなる若人ども」。これはそういう言説を唱えている、古と歌の心を解せない人々のことである。
 業平の物語、在五の物語というのに、唯一在五とある63段の「けぢめ見せぬ心」もわからない。それで主人公とみなせる感覚。それが千年以上続いてきた。それがこの国の国語教育のあり方。言葉は関係ない。自分達が正しいと思う言葉から離れた気まぐれ解釈を正解として与えてしまえばいい。だから募ったが募集していないとか、倍増は2倍の意味ではないという人々が堂々と国の中核に出現して、それが放置されて国を動かす。
 これがこの国の信じ難く乱れきった言語感覚。