土佐日記 上中下・あざれあへりの解釈

女もしてみむ 土佐日記
総論
「上中下」の解釈
和歌一覧

 
 「船路なれど馬の餞す。上中下(かみなかしも)ながら醉ひ過ぎていと怪しく しほ海のほとりにてあざれあへり」
 
 まず「上中下」は、伊勢物語『渚の院』特有の言葉で、は在五中将を更に略した滑稽用語で(在中・平中の大元)、古来身分は高低・上下という。それを示すために土佐はこの後で「上下童まで醉ひしれて」とし(童が酔うのもおかしい)、さらに「渚の院」を明示して引用している(後述)。つまり土佐の時点で上中下は枕詞化した。こうしたおかしな・いと怪しい「上中下」の特殊用法を示すため、おかしさが売りの宇治拾遺物語・序でも「上中下をいはず呼び集め」とある。この枕詞的用法は徒然初段の「勢ひ猛にののしり」にも見られ、徒然では竹取の「勢ひ猛」の字義を無視して有力者とする通説解釈への問題提起となっている。こうした枕詞的用法を大元の用法に還元し、当時の通常の用法とみなすのが本末転倒解釈(例えば、物語の始祖とされる竹取の「今は昔」を通常の物語の導入とする説明)。

 こうした枕詞的用法から、「しほ海のほとり」は渚の院の「渚」に掛けた表現と見る。

 また「あざれあへり」を、通説は、あざる(鯘)という語に掛け、海で魚が腐らないはずのなのに腐れ合うと掛けたおかしみとするが、何も面白くないし、人が腐れ合うという表現はないし、おかしくても意味頭がおかしいタイプのおかしさ。これはざれあうこと・ふざけあう意味でしかない(戯る・狂る)。通説はおかしさを説明できないからこじつけているに過ぎない。貫之が女を装った解釈同様、何もおかしいと思わず、ひたすら正当化に走ること自体、心理学的に研究に値する問題と思う。単に権威主義の度が過ぎて知的に疎かになっているのかもしれないが。
 

 

 まず「船」と対比した「馬の贐」で冗談の文脈ということを示し、上中下(かみなかしも)は伊勢82段・渚の院を引用した表現。

 身分は上下というところ、「中」は「在五中将」の更なる略の特有表現(蔑称)。渚の院は花見宴会でおかしな頭の悪い歌(世の中に絶えて桜のなかりせば)を詠んだ中将につっこんだ。ここ土佐の内容でも「酔ひ過ぎて」色々おかしくなり、身分の上下を超えた無礼講をいう表現。

 この渚の院の渚に掛けて「しほ海のほとり」。つまり伊勢の文脈を暗示し、伊勢の文脈のようなことをしたという表現。根本作品の定義と解釈が致命的にずれているから全部ずれていく。
 
 土佐は端的に渚の院を引用している(2/9)。また同じく引用した仲麻呂の歌と並べ、貫之が伊勢を重要視して参照したのは古今の配置から言える。

 古今の詞書3位は仲麻呂の歌、2位は伊勢9段・東下り、1位は伊勢23段筒井筒の歌・無名の田舎女の歌。渚の院の歌は13位(1111首中)。
 仲麻呂の歌と同列の説明で並べて東下りがある以上、伊勢を参照して古今の異様な伊勢への偏重があるのであり(古今詞書上位10首中6首伊勢、上位20首中、10首伊勢)、現状の古今の後に回す解釈、その不都合を糊塗する後饌の諸々の認定は、専ら業平認定を維持するための小手先の操作で、内実の根拠、及び全体の整合性が全くない。
 

伊勢82段・渚の院からの引用

 
 狩は懇にもせで酒をのみ飲みつゝ、やまと歌にかゝれりけり。

 いま狩する交野の渚の家、その院の桜いとおもしろし。
 その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、かみ、なか、しも、みな歌よみけり。

 馬頭なりける人のよめる。
 世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
 となむよみたる。また、人の歌、

 散ればこそいとゞ桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき
 

 ※馬頭とは在五中将こと業平で、世の中から桜が絶滅すると春ものどかになるなのになぁ~(俺も無理に歌を詠ませられないから。→業平はもとより歌を詠めず、強いて詠ませればこのようであったという伊勢101段参照)という極まった歌に、無名の著者(下=文屋)がばかですかとツッコミを入れる内容である。

 伊勢101段「あるじ(行平)のはらからなる、あるじし給ふと聞きて来たりければ、とらへてよませける。もとより歌のことは知らざりければ、すまひけれど、強ひてよませければ、かくなむ」
 

土佐2/9で渚の院の引用

 
 かくて船ひきのぼるに渚の院といふ所を見つゝ行く。

 その院むかしを思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。しりへなる岡には松の木どもあり。中の庭には梅の花さけり。

 こゝに人々のいはく
 「これむかし名高く聞えたる所なり。故惟喬のみこのおほん供に故在原の業平の中將の
 世の中に絕えて櫻のさかざらは春のこゝろはのどけからまし」
 といふ歌よめる所なりけり。
 
 伊勢「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
 土佐「世の中に絕えて櫻のさかざらは春の心はのどけからまし」

 このように微妙に変えているが、仲麻呂の歌も微妙に変えて遊んでいるので(あをうなばらふりさけ見れば。本来はあまのはら)、意図して変えている。普通に詠めば土佐のような発想になり、あれと思って確認する読者に、元の表現のおかしさを確認させているということ。