古事記 聖帝の世~原文対訳

宮と系譜 古事記
下巻①
16代 仁徳天皇
聖帝の世
イワヒメ皇后の嫉妬
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)
於是天皇。  ここに天皇、  或る時、天皇、
登高山 高山に登りて、 高山にお登りになつて、
見四方之國。 四方よもの國を見たまひて、 四方を御覽になつて
詔之。 詔のりたまひしく、 仰せられますには、
於國中烟不發。 「國中くぬちに烟たたず、 「國内に烟が立つていない。
國皆貧窮 國みな貧し。 これは國がすべて貧しいからである。
自今至三年 かれ今より三年に至るまで、 それで今から三年の間
悉除
人民之課役
悉に人民おほみたからの
課役みつきえだちを除ゆるせ」
とのりたまひき。
人民の租税勞役を
すべて免せ」
と仰せられました。
     
是以大殿破壞。 ここを以ちて
大殿破やれ壞こぼれて、
この故に
宮殿が破壞して
悉雖雨漏。 悉に雨漏れども、 雨が漏りますけれども
都勿修理 かつて修理をさめたまはず、 修繕なさいません。
以椷受其漏雨。 椷ひをもちてその漏る雨を受けて、 樋ひを掛けて漏る雨を受けて、
遷避于
不漏處。
漏らざる處に
遷り避さりましき。
漏らない處に
お遷り遊ばされました。
     
後見國中。 後に國中くぬちを見たまへば、 後に國中を御覽になりますと、
於國滿烟。 國に烟滿ちたり。 國に烟が滿ちております。
故爲人民富。 かれ人民
富めりとおもほして、
そこで人民が
富んだとお思いになつて、

科課役。
今はと
課役科おほせたまひき。
始めて
租税勞役を命ぜられました。
是以
百姓之榮。
ここを以ちて、
百姓おほみたから榮えて
それですから
人民が榮えて、
不苦
役使。
役使えだちに
苦まざりき。
勞役に出るのに
苦くるしみませんでした。
     
故稱其御世。 かれその御世を稱へて それでこの御世を稱えて
聖帝世也。 聖帝ひじりの御世とまをす。 聖ひじりの御世と申します。
     

 

宮と系譜 古事記
下巻①
16代 仁徳天皇
聖帝の世
イワヒメ皇后の嫉妬

先帝での論語の渡来を受けた仁徳に掛けた理想論

 
 
 ここで国民の困窮という、いつの世もありふれた理由で、税を三年免除するが(國皆貧窮 故自今至三年 悉除人民之課役)、これは事実上絶対にありえないことなので(当時よりはるかに豊かな現代で想像されたい)、明らかに先代での論語の渡来の記述を受けた、仁徳天皇に掛けた理想論で、万葉1・百人一首1と同旨の内容というほかない。

 三年で宮殿が雨漏りするだろうか? したとして雨漏りすら直さないのはあまりに不自然(天皇家は民衆同様に貧乏か?)。だからそれは自らも民と同じ苦に耐えたというただの説話である。
 

 倭の武王とされた雄略天皇が、土まみれの民とまじわる万葉1を事実の通りと見る人はいないだろう。
 しかし、なぜか百人一首1はそう見られない(秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ)。

 

 荒れた民家で実入りがなくて涙する天皇という、およそ海外侵攻で百姓を派兵し、クーデターも首謀した天智天皇(中大兄)らしからぬ歌も、特に疑問なく民衆を思いやった天皇の歌とみなされているのは、ここでの古事記の文脈を全力で真に受ける日本書紀的発想と同じ構図である。
 そういう宙に浮いた安易な賛美ではなく、民の苦しさを知ってほしい、実入りがないのにとらないで、という歌。

 これが人麻呂こと安万侶の一貫した思想。万侶集で万葉集。万侶=人麻呂(字形)。
 

 一般的な説明では、この三年租税免除を、あたかも当然の事実として扱っているが、それが無理なことは、その説明の仕方自体から表れている(享年が古事記83歳、日本書紀110歳と大幅に事実の記述が食い違うのに、一方的に日本書記を正とするように)。
 つまり日本書紀の記述は、古事記のウイットをきかせた美談にひっかかって、これでもかと全力で膨らませたものである。
 

 三年の免除の後、さらに三年課税停止を延長とし、「諸国は課税再開を要請したが、結局即位10年まで課税停止は延長された」という水戸黄門でもありえないエピソードもあるが、古事記でそれを記さない理由は何か。そこまで重大な記録ではなかったのか。

 これらの記録の相違を総合すると、三年課税停止などは絶対ありえないおとぎ話レベルの話なのだが(しかしそれが古事記の基本的性格)、それを過去の実績として利用できれば権威付けに利用できるので、学者や役人達は記述を確実なものとするために改竄した。古事記の物語をベースにし、自分達に都合がよくなるように勝手に再構成した。

 この手の一見してくどい記述は、いわゆる統治の根幹(体制の権威・名誉・信頼性)にかかわる物語の写本や歌集の認定で、ままあることである(伊勢物語39段のそこだけ浮いた末尾の源順、同114段の業平没後の歌を文脈無視で突如行平のものと断定し既成事実化する後撰集の詞書)。
 

 そして上記の説明は、この六年もの信じがたい仁徳政策で聖帝とするのではなく、治水事業と合わせて論じる。
 「その業績から聖帝(ひじりのみかど)とも称される」「租税再開後は大規模な灌漑工事を実施し、広大な田地を得た。これらの業績から聖帝(ひじりのみかど)と称され、その治世は聖の世と称えられている」。
 しかし古事記の前段で、少々まとめて記されたような治水事業で、仁徳に聖性が上乗せされるか。それとも治水事業の本質は聖性なのか。
 

 また、「即位4年、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した[1]。その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話(民のかまど)に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られる。「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する」ともされるが、それは原因と結果が逆ではないか。ではその子の反正天皇は、正に反した政治として知られたのか。色々と混同している。
 あくまでそれらは理想で理念(物語の場合は戒め)。実態と無関係の美称。それが一貫した見方。

 

 このような民を思うエピソードがここだけあるのは、先代の応神で論語の渡来が特に言及されたように、孔子の仁や徳政が特に著者に意識されたから。これが事実・記述に即した物の見方だろう。

 治水は、いわば必然の施策で、仁や徳の本質とはいえない。ましてそれで聖になるか。それに携われば仁で徳で聖人か。言葉の相応を知らないと、何とでも言える。