『大和物語』全173段。和歌295首。
底本は定家本系天福本で諸本に照らし改めたもの。各章題は本によってはない便宜上のもの(旧大系と全訳注なし。新旧全集あり。これは伊勢物語との大きな違い。また同様の違いとして物語終盤169・171段でいわゆる切断形式がある)。
和歌に♪と番号を独自に付した。和歌一覧295首。
段 | 題 | 冒頭 |
---|---|---|
1 | 弘徽殿の壁 | 亭子の帝、今はおりゐさせ給ひなむ |
2 | 旅寝の夢 | 帝、おりゐ給ひてまたの年の秋 |
3 | 千々の色 | 故源大納言、宰相におはしける時 |
4 | 玉くしげ | 野大弐、純友が騒ぎの時 |
5 | 忍び音 | 前坊の君失せ給ひにければ |
6 | はかなき空 | 朝忠中将、人の妻にてありける人に |
7 | あかぬ別れ | 男女、あひ知りて年経けるを |
8 | 一夜めぐりの君 | 監の命婦の許に |
9 | 秋のはて | 桃園の兵部卿宮うせ給ひて |
10 | 昨日の淵 | 監の命婦、堤にありける家を |
11 | 住の江の松 | 故源大納言の君 |
12 | 春の夜の夢 | 同じ大臣、かの宮をえ奉り給ひて |
13 | 泣く泣く忍ぶ | 右馬允藤原千兼といふ人の妻には |
14 | 池の玉藻 | 本院の北の方の御おとうとの |
15 | 夜の白玉 | また、釣殿の宮に |
16 | 忘れ草 | 陽成院のすけの御 |
17 | なびく尾花 | 故式部卿宮の出羽の御に |
18 | 草の葉 | 故式部卿宮、ニ条御息所に |
19 | 夕されば | おなじ人、同じ親王の許に |
20 | 桂の皇女 | 故式部卿宮を、桂の皇女 |
21 | もりの下草 | 良少将、兵衛の佐なりけるころ |
22 | 染革の色 | 良少将、太刀の緒にすべき革を |
23 | 山水の音 | 陽成院の二のみこ |
24 | 君松山 | 先帝の御時に、右大臣殿の女御 |
25 | ちとせの松 | 比叡山に、明覚といふ法師の |
26 | 忍ぶ恋 | 桂の皇女、いとみそかに |
27 | なほ憂き山 | 戒仙といふ人、法師になりて |
28 | 霧の中 | おなじ人、かの父の兵衛の佐 |
29 | をみなへし | 故式部卿の宮に、三条の右の大臣 |
30 | ふけゐの浦 | 故右京の大夫宗于の君 |
31 | 見果てぬ夢 | 同じ右京の大夫、監の命婦に |
32 | 武蔵野の草 | 亭子の帝に、右京の大夫の |
33 | 常磐木 | 躬恒が院に詠みて奉りける |
34 | この花 | 右京の大夫のもとに、女 |
35 | 大内山 | 堤の中納言、内の御使にて |
36 | 呉竹 | 伊勢国に、さきの斎宮の |
37 | 花咲く春 | 出雲が、はらからひとりは |
38 | 消え行く帆 | 先帝の五のみこの御むすめ |
39 | 朝顔の露 | 伊勢守もろみちのむすめを |
40 | ほたる | 桂のみこに、式部卿の宮 |
41 | 源大納言 | 源大納言の君の御もとに |
42 | 庭の霜 | 恵秀といふ法師の |
43 | 横川 | この大徳、房にしける所の前に |
44 | ぬれごろも | おなじ人に、ある人 |
45 | 心の闇 | 堤の中納言の君 |
46 | いそのかみ | 平中、閑院の御に絶えてのち |
47 | 奥山のもみぢ | 陽成院の一条の君 |
48 | 春日の影 | 先帝の御時、刑部の君とて |
49 | 宿の菊 | 同じ帝、斎院のみこの御もとに |
50 | 木高き峰 | 戒仙、山にのぼりて |
51 | 花の色 | 斎院より内に |
52 | 深き心 | これも内の御返し |
53 | 鹿の鳴く音 | 陽成院にありける坂上とほみち |
54 | 帰らぬ旅 | 右京の大夫宗于の君 |
55 | 限りと聞けど | 男、かぎりなく思ひける女をおきて |
56 | もと来し駒 | 越前の権守兼盛、兵衛の君といふ人 |
57 | 山里の住居 | 近江の介平の中興が、むすめを |
58 | 黒塚 | おなじ兼盛、陸奥国にて |
59 | うさは離れぬ | 世の中をうんじて筑紫へ下りける人 |
60 | 燃ゆる思ひ | 五条の御といふ人ありけり |
61 | 藤の花 | 亭子院に、御息所たちあまた |
62 | 宿世 | のうさんの君といひける人 |
63 | 峰のあらし | 故右京の大夫の、人のむすめを |
64 | 忘らるな | 平中、にくからず思ふ若き女を |
65 | 玉すだれ | 南院の五郎、三河守にてありける |
66 | いなおほせ鳥 | 俊子、千兼を待ちける夜 |
67 | 雨もる宿 | また、俊子、雨の降りける夜 |
68 | 葉守の神 | 枇杷殿より、俊子が家に柏木の |
69 | 狩ごろも | 忠文が陸奥国の将軍になりて |
70 | やまもも | おなじ人に、監の命婦 |
71 | 山桜 | 故式部卿宮、失せ給ひける時は |
72 | 池の鏡 | 同じ宮、おはしましける時 |
73 | 待つとてさへも | 人の国の守の下りける |
74 | 宿の桜 | 同じ中納言、かの殿の寝殿の前に |
75 | 越の白山 | 同じ中納言、蔵人にてありける人の |
76 | 川千鳥 | 桂のみこの御もとに |
77 | 明石の浦 | これもおなじみこに、おなじ男 |
78 | うちつけに | 監の命婦、朝拝の威儀の命婦にて |
79 | 須磨の浦 | また、同じ親王に、おなじ女 |
80 | ふるさとの花 | 宇多院の花おもしろかりけるころ |
81 | 忘れじと | 季縄少将の娘右近 |
82 | 栗駒山 | おなじ女のもとに |
83 | わが守る床 | おなじ女、内の曹司にすみける時 |
84 | 誓ひし命 | 同じ女、男の「忘れじ」と |
85 | うつせ貝 | 同じ右近、「桃園の宰相の君 |
86 | 若菜つみ | 正月のついたちころ、大納言殿に |
87 | 別れ路の雪 | 但馬国に通ひける兵庫の允 |
88 | 紀の国の旅 | おなじ男、紀の国に下るに |
89 | 網代の氷魚 | 修理の君に、右馬の頭すみける時 |
90 | あだ心 | おなじ女に、故兵部卿宮 |
91 | 扇の香 | 三条の右大臣、中将にいますかり |
92 | 師走のつごもり | 故権中納言、左大臣の君をよばひ |
93 | 伊勢の海 | これもおなじ中納言、斎宮のみこを |
94 | 巣守 | 故中務宮の北の方、失せ給ひて |
95 | 越路の雪 | おなじ右大臣の御息所 |
96 | 浪立つ浦 | かくて九の君、侍従の君に |
97 | 月の面影 | おほきおとどの北の方失せ給ひて |
98 | 形見の色 | おなじおほきおとど、左大臣の御母 |
99 | 小倉山 | 亭子の帝の御ともに、太政大臣 |
100 | 季縄少将 | 大井に季縄の少将すみけるころ |
101 | 季縄少将② | 季蝿の少将、病にいといたう |
102 | 今日の別れ | 土佐守にありける酒井の人真 |
103 | 天の川 | 平中が色好みなりけるさかりに |
104 | 露の身 | 滋幹の少将に、女 |
105 | うぐひすの声 | 中興の近江介がむすめ、もののけに |
106 | 荻の葉 | 故兵部卿の宮、この女のかかること |
107 | むかしの恋 | 同じ宮に、こと女 |
108 | 常夏 | 南院のいま君といふは |
109 | 牛の命 | 同じ女、巨城が牛を借りて |
110 | ぬるる袖 | おなじ女、人に |
111 | 別れ路の川 | 大膳の大夫公平のむすめども |
112 | 東の風 | おなじ女、のちに兵衛の尉 |
113 | 井手の山吹 | 兵衛の尉、離れてのち |
114 | たなばた | 桂のみこ、七夕のころ |
115 | 秋の夜 | 右大臣の頭におはしける時 |
116 | 長き嘆き | きんひらがむすめ死ぬとて |
117 | 松虫の声 | 桂のみこ、嘉種に |
118 | 浜の真砂 | 閑院のおほいきみ |
119 | 死出の山 | おなじ女に、陸奥守にて |
120 | 梅の花 | おほきおとどは、大臣になり |
121 | 笛竹 | さねたうの少弐といひける人の |
122 | かつがつの思ひ | 俊子が、志賀にまうでたりけるに |
123 | 草葉の露 | おなじ増喜君、やれる人の |
124 | さねかづら | 本院の北の方の、まだ帥の |
125 | かささぎの橋 | 泉の大将、故左大臣に |
126 | 水汲む女 | 筑紫にありける檜垣の御 |
127 | くれなゐの声 | また、おなじ人、大弐の舘にて |
128 | さを鹿 | この檜垣の御、歌をなむよむ |
129 | 契りし月 | 筑紫なりける女、京に男を |
130 | 花すすき | これも、筑紫なりける女 |
131 | 鳴かぬうぐひす | 先帝の御時、四月のついたちの日 |
132 | 弓張り月 | おなじ帝の御時、躬恒を召して |
133 | 泣くを見るこそ | おなじ帝、月のおもしろき夜 |
134 | あはぬ夜も | 先帝の御時に、ある御曹司に |
135 | 火取り | 三条の右大臣のむすめ |
136 | つれづれ | また、男、「日ごろさわがしくて |
137 | 志賀山 | 志賀の山越えの道に |
138 | 沼の下草 | 先帝の御時に、承香殿の |
139 | 芥川 | 亭子の帝、河尻に |
140 | 敷きかへず | 故兵部卿宮、のぼるの大納言の |
141 | 浪路 | よしいゑといひける宰相のはらから |
142 | 命待つ間の | 御息所の御姉、おほいこに |
143 | 在次君 | むかし、在中将のみむすこ在次君 |
144 | 甲斐路 | この在次君、在中将の東に |
145 | 浜千鳥 | 亭子の帝、河尻におはしまし |
146 | 玉淵がむすめ | 亭子の帝鳥飼院におはしまし |
147 | 生田川 | むかし、津の国にすむ女ありけり |
148 | 葦刈 | 津の国の難波のわたりに |
149 | 沖つ白浪 | むかし、大和国、葛城の郡に |
150 | 猿澤の池 | 昔、ならの帝につかうまつるうねべ |
151 | 紅葉の錦 | 同じ帝、龍田川の紅葉 |
152 | いはで思ふ | 同じ帝、狩いとかしこく好み給ひ |
153 | 藤袴 | ならの帝、位におはしましける時 |
154 | ゆふつけ鳥 | 大和の国なるける人のむすめ |
155 | 安積山 | 昔、大納言の、娘いとうつくしうて |
156 | 姥捨★ | 信濃国に更級といふ所に |
157 | 馬槽 | 下野国に男女すみわたりけり |
158 | 鹿の声 | 大和の国に、男女ありけり |
159 | 雲鳥の紋 | 染殿の内侍といふいますかりけり |
160 | 秋萩 | 同じ内侍に、在中将すみける時 |
161 | 小塩の山 | 在中将、二条の后の宮 |
162 | 忘れ草 | また、在中将、内にさぶらふに |
163 | 菊の根 | 在中将に、后の宮より |
164 | かざりちまき | 在中将のもとに、人のかざりちまき |
165 | つひに行く道 | 水尾の帝の御時、左大弁のむすめ |
166 | 女車の人 | 在中将、物見にいでて |
167 | 雉雁鴨 | 男、女の衣を借り着て |
168 | 僧正遍照+小町 | 深草の帝と申しける御時 |
169 | 井手をとめ | むかし、内舎人なりける人 |
170 | 青柳の糸 | 伊衡の宰相、中将にものし給ひ |
171 | くゆる思ひ | いまの左大臣、少将にものし給う |
172 | 打出の浜 | 亭子の帝、石山につねにまうで給ひ |
173 | 五条の女 | 良岑宗貞少将、ものへゆく道に |
亭子の帝、今はおりゐさせ給ひなむとするころ、弘徽殿の壁に、伊勢の御の書きつけける、
♪1
別るれど あひもをしまぬ ももしきを
見ざらむことの なにか悲しき
とありければ、帝御覧じて、そのかたはらに書きつけさせたまうける。
♪2
身一つに あらぬばかりを おしなべて
行きめぐりても などか見ざらむ
となむありける。
帝、おりゐ給ひてまたの年の秋、御髪おろし給ひて、ところどころ山ぶみし給ひて行ひ給ひけり。
備前の掾にて橘良利といひける人、内裏におはしましける時、殿上に候ひける、御髪おろし給ひければ、やがて御ともにかしらおろししてけり。
人にも知られ給はでありき給うける御供に、これなむ遅れ奉らで候ひける。
「かかる御ありきし給ふ、いとあしきことなる」とて、内裏より、「少将、中将、これかれ、候へ」とて奉れ給ひけれど、たがひつつありき給ふ。
和泉の国に至り給うて、日根といふ所におはします夜あり。いと心細うかすかにておはしますことを思ひつつ、いと悲しかりけり。
さて、「日根といふことを歌によめ」と仰せごとありければ、この良利大徳、
♪3
ふるさとの 旅寝の夢に 見えつるは
うらみやすらむ またととはねば
とありけるに、みな人泣きて、えよまずなりにけり。
その名をなむ、寛蓮大徳といひて、のちまで候ひける。
故源大納言、宰相におはしける時、京極御息所、亭子院の御賀つかうまつり給ふとて、「かかる事なむせむと思ふ。捧げ物、一枝二枝せさせて賜へ」と聞こえ給ひければ、鬚籠をあまたせさせ給うて、としこに色々に染めさせ給ひけり。
敷物の織物ども、色々に染め、より、組み、何かと皆預けてせさせ給ひけり。
その物どもを、九月つごもりに、皆いそぎはててけり。
さて、その十月ついたちの日、この物いそぎ給ひける人の許におこせたりける、
♪4
千々の色に いそぎし秋は 過ぎにけり
今は時雨に 何を染めまし
その物急ぎ給ひける時は、まもなく、これよりも彼よりも言ひかはし給ひけるを、それより後は、その事とやなかりけむ、消息もいはで、十二月つごもりになりにければ、としこ、
♪5
かたかけの 舟にや乗れる 白浪の
さわぐ時のみ 思ひ出づる君
となむいへりけるを、その返しをもせで、年越えにけり。
さて、二月ばかりに、柳のしなひ、物よりけに長きなむ、この家にありけるを折りて、
♪6
青柳の 糸うちはへて のどかなる
春日しもこそ 思ひ出でけれ
とてなむ、遣り給へりければ、いと二なくめでて、後までなむ語りける。
野大弐、純友が騒ぎの時、討手の使にさされて、少将にて下りけり。
公にも仕うまつる、四位にもなりぬべき年に当たりければ、正月の加階賜りの事、いとゆかしうおぼえけれど、京より下る人もをさをさ聞こえず。
ある人に問へば、「四位になりたり」ともいふ。
ある人は「さもあらず」といふ。
定かなる事いかで聞かむと思ふほどに、京に便りあるに、近江守公忠の君の文をなむ持て来たる。
いとゆかしう嬉しうて、あけて見れば、よろづの事ども書きもていきて、月日など書きて、奧の方にかくなむ、
♪7
玉くしげ ふたとせ逢はぬ 君が身を
あけながらやは あらむと思ひし
これを見てなむ、限りなく悲しくてなむ泣きける。
四位にならぬよし、文の詞にはなくて、ただかくなむありける。
前坊の君失せ給ひにければ、大輔、限りなく悲しくのみおぼゆるに、后の宮、后に立ち給ふ日になりにければ、「ゆゆし」とて隠しけり。
さりければ、詠みて出だしける、
♪8
わびぬれば 今はと物を 思へども
心に似ぬは 涙なりけり
朝忠中将、人の妻にてありける人に、忍びて逢ひ渡りけるを、女も思ひ交して住みけるほどに、かの男、人の国の守になりて下りければ、これもかれも、いとあはれと思ひけり。
さて、詠みて遣しける、
♪9
たぐへやる 我が魂を いかにして
はかなき空に もて離るらむ
となむ、下りける日、いひやりける。
男女、あひ知りて年経けるを、いささかなる事によりて離れにけれど、飽く年もなくて、やみにしかばにやありけむ、男もあはれと思ひけり。
かくなむ言ひ遣りける、
♪10
逢ふことは 今は限りと 思へども
涙は絶えぬ ものにぞありける
女、いとあはれと思ひけり。
監の命婦の許に、中務宮おはしまし通ひけるを、「方のふたがれば、今宵はえなむまうでぬ」と宣へりければ、その御返り事に、
♪11
逢ふことの 方はさのみぞ ふたがらむ
ひと夜めぐりの 君と思へば
とありければ、方ふたがりたりけれど、おはしましてなむ、大殿籠りにける。
かくてまた、久しく音もし給はざりけるに、「嵯峨の院に狩すとてなむ、久しう消息などもものせざりける。いかにおぼつかなく思ひつらむ」など宣へりける御返り事に、
♪12
大澤の 池の水くき 絶えぬとも
なにか恨みむ さがのつらさは
御返しはこれにやおとりけむ、人忘れにけり。
桃園の兵部卿宮うせ給ひて、御はて九月つごもりにし給ひけるに、としこ、かの宮の北の方に奉りける。
♪13
おほかたの 秋のはてだに 悲しきに
今日はいかでか 君くらすらむ
限りなく悲しと思ひて、泣きゐ給へりけるに、かくいへりければ、
♪14
あらばこそ はじめもはても 思ほえめ
今日にも逢はで 消えにしものを
となむ、返しし給ひける。
監の命婦、堤にありける家を人に売りて後、粟田といふ所にいきけるに、その家の前を渡りければ、詠みたりける。
♪15
ふるさとを かはと見つつも 渡るかな
淵瀬ありとは むべもいひけり
故源大納言の君、忠房のぬしの御女、東の方を、年ごろ思ひて住み渡り給ひけるを、亭子院の若宮につき奉り給ひて、はなれ給うて、ほど経にけり。
子どもなどありければ、言も絶えず、同じ所になむ住み給ひける。
さて、詠み給へりける、
♪16
住の江の 松ならなくに 久しくも
君と寝ぬ夜の なりにけるかな
とありければ、返し、
♪17
久しくは おもほえねども 住の江の
松やふたたび 生ひかはるらむ
となむありける。
同じ大臣、かの宮をえ奉り給ひて、帝のあはせ奉り給へりけれど、はじめごろ、忍びて、夜な夜な通ひ給ひけるころ、帰りて、
♪18
あくといへば しづ心なき 春の夜の
夢とや君を 夜のみは見む
右馬允藤原千兼といふ人の妻には、としこといふ人なむありける。
子どもあまた出で来て、思ひてすみけるほどに、なくなりにければ、限りなく悲しくのみ思ひ歩くほどに、内の蔵人にてありける一条の君といひける人は、としこをいとよく知れりける人なりけり、かくなりにけるほどにしも、訪はざりければ、あやしと思ひ歩くほどに、この訪はぬ人の従者の女なむ逢ひたりけるを見て、かくなむ、「
♪19
思ひきや 過ぎにし人の 悲しきに
君さへつらく ならむものとは
と聞こえよ」といひければ、返し、
♪20
なき人を 君が聞かくに かけじとて
泣く泣く忍ぶ ほどな恨みそ
本院の北の方の御おとうとの、童名を、おほつぼねといふいますかりけり。
陽成院の帝に奉りけるを、おはしまさざりければ、詠みて奉りける。
♪21
あらたまの 年は経ねども 猿澤の
池の玉藻は 見つべかりけり
また、釣殿の宮に、若狭の御と言ひける人を召したりけるが、またも召しなかりければ、詠みて奉りける。
♪22
数ならぬ 身におく夜の 白玉は
光見えさす ものにぞありける
と詠みて奉りければ、見給ひて、「あなおもしろの玉の歌よみや」となむ宣ひける。
陽成院のすけの御、継父の少将の許に、
♪23
春の野は はるけながらも 忘れ草
生ふるは見ゆる ものにぞありける
少将、返し、
♪24
春の野に 生ひじとぞ思ふ 忘れ草
つらき心の 種しなければ
故式部卿宮の出羽の御に、継父の少将のすみけるを、離れて後、女、すすきに文をつけて遣りたりければ、少将、
♪25
秋風に なびく尾花は 昔見し
たもとに似てぞ 恋しかりける
といへりければ、出羽の御、返し、
♪26
たもととも しのばざらまし 秋風に
なびく尾花の おどろかさずは
故式部卿宮、ニ条御息所に絶え給ひて、またの年の正月の七日の日、若菜奉り給うけるに、
♪27
ふるさとと 荒れにし宿の 草の葉も
君がためとぞ まづは摘みける
とありけり。
おなじ人、同じ親王の許に、久しくおはしまさざりければ、秋のことなりけり。
♪28
世に経れど 恋もせぬ 身の夕されば
すずろに物の 悲しきやなぞ
とありければ、御返し、
♪29
夕ぐれに 物思ふ時は 神無月
われも時雨に おとらざりけり
となむありける。心に入らで悪しく詠み給ひける。
故式部卿宮を、桂の皇女、せちによばひ給ひけれど、おはしまさざりける時、月のいとおもしろかりける夜、御文奉り給へりけるに、
♪30
久方の 空なる月の 身なりせば
ゆくとも見えで 君は見てまし
となむありける。
良少将、兵衛の佐なりけるころ、監の命婦になむすみける。
女のもとより、
♪31
柏木の もりの下草 老いぬとも
身をいたづらに なさずもあらなむ
返し、
♪32
柏木の もりの下草 老いのよに
かかる思ひは あらじとぞ思ふ
となむいひける。
良少将、太刀の緒にすべき革をもとめければ、監の命婦なむ、「わがもとにあり」といひてひさしく出ださざりければ、
♪33
あだ人の 頼めわたりし そめかはの
色の深さを 見でややみなむ
といへりければ、監の命婦、めでくつがへりて、もとめてやりけり。
陽成院の二のみこ、後蔭の中将のむすめに、年ごろ住み給ひけるを、女五の宮をえ奉り給ひて後、さらにとひ給はざりければ、いまはおはしますまじきなめりと、思ひ絶えて、いとあはれにてゐ給へりけるに、いと久しくありて、思ひかけぬほどにおはしましたりければ、えものも聞こえで、にげて戸のうちに入りにけり。
かへり給ひて、みこ、朝に、「などか年ごろのことも申さむとてまうでたりしに、隠れ給ひにし」とありければ、ことばはなくてかくなむ。
♪34
せかなくに 絶えと絶えにし 山水の
たれしのべとか 声を聞かせむ
先帝の御時に、右大臣殿の女御、うへの御局にまうでのぼり給ひて候ひ給ひけり。
おはしましやすると、した待ち給ひけるに、おはじまさざりければ、
♪35
ひぐらしに 君まつ山の ほととぎす
とはぬ時にぞ 声もをしまぬ
となむ聞こえ給ひける。
比叡山に、明覚といふ法師の、山ごもりにてありけるに、宿徳にてましましける大徳の、はやう死にけるが室に、松の木の枯れたるを見て、
♪36
ぬしもなき 宿に枯れたる 松見れば
千代すぎにける 心地こそすれ
と詠みたりければ、かの室にとまりたりける弟子ども、あはれがりけり。
としこが兄なりけり。
桂の皇女、いとみそかに、あふまじき人に逢ひ給ひたりけり。
男のもとによみておこせ給へりける。
♪37
それをだに 思ふこととて わが宿を
見きとないひそ 人の聞かくに
となむありける。
戒仙といふ人、法師になりて山にすむ間に、あらはひなどする人のなかりければ、親のもとに衣をなむあらひにおこせたりけるを、いかなるをりにかありけむ、むつかりて、「親はらからのいふをも聞かず、法師になりぬる人は、かくうるさきこといふものか」といへりければ、よみてやりける。
♪38
いまはわれ いづちゆかまし 山にても
世の憂きことは なほも絶えぬか
おなじ人、かの父の兵衛の佐うせにける年の秋、家にこれかれ集まりて、宵より酒飲みなどす。
いますからぬことのあはれなることを、まらうどもあるじも恋ひけり。
あさぼらけに霧たちわたりけり。
まらうど、
♪39
朝霧の なかに君ます ものならば
晴るるまにまに うれしからまし
といひけり。かいせう、返し、
♪40
ことならば 晴れずもあらなむ 秋霧の
まぎれに見えぬ 君と思はむ
まらうどは、貫之、友則などになむありける。
故式部卿の宮に、三条の右の大臣、こと上達部など類してまゐり給うて、碁うち、御遊びなどし給ひて、夜ふけぬれば、これかれ酔ひ給ひて、物語し、かづけ物などせらる。
をみなへしをかざし給ひて、右大臣、
♪41
をみなへし 折る手にかかる 白露は
むかしの今日に あらぬ涙か
となむありける。
こと人々のおほかれど、よからぬは忘れにけり。
故右京の大夫宗于の君、なりいづべきほどに、わが身のえなりいでぬことと、思ひ給ひけるころほひ、亭子の帝に、紀伊国より石つきたる海松をなむ奉りけるを題にて、人々歌詠みけるに、右京の大夫、
♪42
沖つ風 ふけゐの浦に 立つ浪の
なごりにさへや われはしづまむ
同じ右京の大夫、監の命婦に、
♪43
よそながら 思ひしよりも 夏の夜の
見はてぬ夢ぞ はかなかりける
亭子の帝に、右京の大夫の詠みて奉りたりける。
♪44
あはれてふ 人もあるべく むさし野の
草とだにこそ 生ふべかりけれ
また、
♪45
時雨のみ 降る山里の 木の下は
をる人からや もりすぎぬらむ
とありければ、かへりみたまはぬ心ばへなりけり。
「帝、御覧じて、なにごとぞ、これを心得ぬとて僧都の君になむ見せ給ひけると聞きしかば、かひなくなむありし」と語り給ひける。
躬恒が院に詠みて奉りける。
♪46
立ち寄らむ 木のもともなき つたの身は
ときはながらに 秋ぞかなしき
右京の大夫のもとに、女、
♪47
色ぞとは おもほえずとも この花は
時につけつつ 思ひ出でなむ
堤の中納言、内の御使にて、大内山に院の帝おはしますにまゐり給へり。
もの心ぼそげにておはします、いとあはれなり。
高き所なれば、雲は下よりいとおほく立ちのぼるやうに見えければ、かくなむ。
♪48
白雲の ここのへに立つ 峰なれば
大内山と いふにぞありける
伊勢国に、さきの斎宮のおはしましける時に、堤の中納言、勅使にて下り給ひて、
♪49
呉竹の よよのみやこと 聞くからに
君はちとせの うたがひもなし
御返しは聞かず。
かの斎宮のおはします所は、たけのみやことなむいひける。
出雲が、はらからひとりは殿上して、われはえせざりける時に、よみたりける。
♪50
かく咲ける 花もこそあれ わがために
おなじ春とや いふべかりける
先帝の五のみこの御むすめ、一条の君といひて、京極の御息所の御もとにさぶらひ給ひけり。
よくもあらぬことありて、まかで給ひて、壱岐守の妻にていますかりて、
♪51
たまさかに とふ人あらば わたの原
嘆きほにあげて いぬとこたへよ
伊勢守もろみちのむすめを、正明の中将の君にあはせたりける時に、そこなりけるうなゐを、右京の大夫よびいでて、語らひて、朝に詠みておこせたりける。
♪52
おく露の ほどをも待たぬ 朝顔は
見ずぞなかなか あるべかりける
桂のみこに、式部卿の宮すみ給ひける時、その宮にさぶらひけるうなゐなむ、この男宮をいとめでたしと思ひかけ奉りけるをも、え知り給はざりけり。
蛍のとびありきけるを、「かれとらへて」と、この童に宣はせければ、汗衫の袖に蛍をとらへて、つつみて御覧ぜさすとて聞こえさせける。
♪53
つつめども かくれぬものは 夏虫の
身よりあまれる 思ひなりけり
源大納言の君の御もとに、としこはつねにまゐりけり。
曹司してすむ時もありけり。
をかしき人にて、よろづのことをつねにいひかはし給ひけり。
つれづれなる日、このおとど、としこ、またこのむすめ、姉にあたるあやつこといひてありけり。
母に似て、心もをかしかりけり。
また、このおとどのもとに、よぶこといふ人ありけり。
それももののあはれ知りて、いと心をかしき人なりけり。
これ四人つどひて、よろづの物語し、世の中のはかなきこと、世間のことあはれなるいひいひて、かのおとどの詠み給ひける。
♪54
いひつつも 世ははかなきを かたみには
あはれといかで 君に見えまし
と詠み給ひければ、たれもたれも、返しはせで、集まりてよよとなむ泣きける。
あやしかりけるものどもにこそはありけれ。
恵秀といふ法師の、ある人の御験者つかうまつりけるほどに、とかく、世の中にいふことありければ、よみたりける。
♪55
里はいふ 山にはさわぐ 白雲の
空にはかなき 身とやなりなむ
となむありける。また、この人の御もとに詠みたりける。
♪56
朝ぼらけ わが身は庭の しもながら
なにを種にて 心生ひけむ
この大徳、房にしける所の前に切懸をなむせさせける。
このけづりくづに書きつけける。
♪57
まがきする ひだのたくみの たつき音の
あなかしがまし なぞや世の中
などいひて、「行ひしに深き山に入りなむとす」といひていにけり。
ほど経て、「いづくにかあらむとて、深き山にこもり給ひぬとありしは、いづくぞ」といひやり給ひたりければ、
♪58
なにばかり 深くもあらず 世の常の
比叡の外山と 見るばかりなり
となむいひたりける。
横川といふ所にあるなりけり。
おなじ人に、ある人、「山へのぼり給ふべき日は、まだ遠くやある。いつぞ」といへりければ、
♪59
のぼりゆく 山の雲居の 遠ければ
日もちかくなる ものにぞありける
とぞいひおこせたりける。
かくのみよからぬことのあるが上にいできければ、
♪60
のがるとも たれか着ざらむ ぬれごろも
あめのしたにし すまむかぎりは
といひけり。
堤の中納言の君、十三のみこの母御息所を、内に奉り給ひけるはじめに、帝はいかがおぼしめすらむなど、いとかしこく思ひなげき給ひけり。
さて、帝によみて奉り給ひける。
♪61
人の親は 心はやみに あらねども
子を思ふ道に まどひぬるかな
先帝、いとあはれにおぼしめしたりけり。
御返しありけれど、人え知らず。
平中、閑院の御に絶えてのち、ほど経てあひたりけり。
さて、のちにいひおこせたる。
♪62
うちとけて 君は寝つらむ われはしも
露のおきゐて 恋にあかしつ
女、返し、
♪63
白露の おきふしたれを 恋ひつらむ
われは聞きおはず いそのかみにて
陽成院の一条の君、
♪64
おく山に 心をいれて たづねずは
ふかきもみぢの 色を見ましや
先帝の御時、刑部の君とてさぶらひ給ひける更衣の、里にまかりいで給ひて、久しうまゐり給はざりけるにつかはしける。
♪65
大空を わたる春日の 影なれや
よそにのみして のどけかるらむ
同じ帝、斎院のみこの御もとに、菊につけて、
♪66
ゆきて見ぬ 人のためにと 思はずは
たれか折らまし わが宿の菊
斎院の御返し、
♪67
わが宿に 色をりとむる 君なくは
よそにもきくの 花を見ましや
戒仙、山にのぼりて、
♪68
雲ならで 木高き 峰にゐるものは
憂き世をそむく わが身なりけり
斎院より内に、
♪69
おなじ枝を わきてしもおく 秋なれば
光もつらく おもほゆるかな
御返し、
♪70
花の色を 見ても知りなむ 初霜の
心わきては おかじとぞ思ふ
これも内の御返し、
♪71
わたつみの ふかき心は おきながら
恨みられぬる ものにぞありける
陽成院にありける坂上とほみちといふ男、おなじ院にありける女、「さはることあり」とてあはざりければ、
♪72
秋の野を わくらむ鹿も わがごとや
しげきさはりに 音をばなくらむ
右京の大夫宗于の君、三郎にあたりける人、博奕をして、親にもはらからにもにくまれければ、足のむかむ方へゆかむとて、人の国へいきける。
さて、思ひける友だちのもとへ詠みておこせたりける。
♪73
しをりして ゆく旅なれど かりそめの
命知らねば かへりしもせじ
男、かぎりなく思ひける女をおきて、人の国へいにけり。
いつしかと待ちけるに、「死にき」といひて来たりければ、
♪74
いま来むと いひてわかれし 人なれば
かぎりと聞けど なほぞ待たるる
となむいひける。
越前の権守兼盛、兵衛の君といふ人にすみけるを、年ごろはなれて、またいきけり。
さてよみける。
♪75
夕されば 道も見えねど ふるさとは
もと来し駒に まかせてぞゆく
女、返し、
♪76
駒にこそ まかせたりけれ はかなくも
心の来ると 思ひけるかな
近江の介平の中興が、むすめをいといたうかしづきけるを、親なくなりてのち、とかくはふれて、人の国にはかなき所にすみけるを、あはれがりて、兼盛がよみておこせたりける。
♪77
をちこちの 人目まれなる 山里に
家居せむとは おもひきや君
とよみてなむおこせたりければ、見て返りごともせで、よよとぞ泣きける。
女もいみじうらうある人なりけり。
おなじ兼盛、陸奥国にて、閑院の三のみこの御むすこにありける人、黒塚といふ所にすみけり。
そのむすめどもにおこせたりける。
♪78
みちのくの 安達が原の 黒塚に
鬼こもれりと 聞くはまことか
といひたりけり。
かくて、「そのむすめをえむ」といひければ、親、「まだいと若くなむある。いまさるべからむをりにを」といひければ、京にいくとて、山吹につけて、
♪79
花ざかり すぎもやすると かはづなく
井手の山吹 うしろめたしも
といひけり。
かくて、名取の御湯といふことを、恒忠の君の妻詠みたりけるといふなむ、この黒塚のあるじなりける。
♪80
大空の 雲のかよひ路 見てしかな
とりのみゆけば あとはかもなし
となむよみたりけるを兼盛のおほきみ聞きて、おなじ所を、
♪81
塩竃の 浦にはあまや 絶えにけむ
などすなどりの 見ゆる時なき
となむよみける。
さて、この心かけしむすめ、こと男して、京にのぼりたりければ、聞きて、兼盛、「のぼりものし給ふなるを告げ給はせで」といひたりければ、「井手の山吹うしろめたしも」といへりける文を、「これなむ陸奥国のつと」とておこせたりければ、男、
♪82
年を経て ぬれわたりつる 衣手を
今日の涙に くちやしぬらむ
といへりける。
世の中をうんじて筑紫へ下りける人、女のもとにおこせたりける。
♪83
忘るや といでて来しかど いづくにも
うさははなれぬ ものにぞありける
五条の御といふ人ありけり。男のもとに、わがかたを絵に書きて、女の燃えたるかたを書きて、煙をいとおほくくゆらせて、かくなむ書きたりける。
♪84
君を思ひ なまなまし身を やく時は
けぶりおほかる ものにぞありける
亭子院に、御息所たちあまた御曹司してすみ給ふに、年ごろありて、河原院のいとおもしろくつくられたりけるに、京極の御息所ひと所の御曹司をのみしてわたらせ給ひにけり。
春のことなりけり。
とまり給へる御曹司ども、いと思ひのほかにさうざうしきことをおもほしけり。
殿上人など通ひまゐりて、藤の花いとおもしろきを、これかれ、「さかりをだに御覧ぜで」などいひて見歩くに、文をなむ結びつけたりける。
あけてみれば、
♪85
世の中の あさき瀬に のみなりゆけば
昨日のふぢの 花とこそ見れ
とありければ、人々見て、かぎりなくめであはればりけれど、たが御曹司のし給へるともえ知らざりける。
男どものいひける
♪86
藤の花 色のあさくも 見ゆるかな
うつろひにける 名残なるべし
のうさんの君といひける人、浄蔵とはいとになう思ひかはす仲なりけり。
かぎりなく契りて、思ふことをもいひかはしけり。
のうさんの君、
♪87
思ふてふ 心はことに ありけるを
むかしの人に なにをいひけむ
といひおこせたりければ、浄蔵大徳の返し、
♪88
ゆくすゑの 宿世を知らぬ 心には
君にかぎりの 身とぞいひける
故右京の大夫の、人のむすめをしのびてえたりけるを、親聞きつけて、ののしりてあはせざりければ、わびてかへりにけり。
さて、朝に詠みてやりける。
♪89
さもこそは 峰の嵐は 荒からめ
なびきし枝を うらみてぞ来し
平中、にくからず思ふ若き女を、妻のもとに率て来ておきたりけり。
にくげなることどもをいひて、妻つひに追ひ出だしけり。
この妻にしたがふにやありけむ、らうたしと思ひながらえとどめず。
いちはやくいひければ、ちかくだに寄らで、四尺の屏風に寄りかかりて立てりていひける,、「世の中の、かく思ひのほかにあること。世界にものし給ふとも、忘れで消息し給へ。おのれもさなむ思ふ」といひけり。
この女、つつみに物などつつみて、車とりにやりて待つほどなり。
いとあはれと思ひけり。
さて女いにけり。とばかりありておこせたりける。
♪90
忘らるな 忘れやしぬる 春がすみ
今朝たちながら 契りつること
南院の五郎、三河守にてありける、承香殿にありける伊予の御を懸想しけり。
「来む」といひければ、「御息所の御もとに内へなむまゐる」といひおこせたりければ、
♪91
玉だれの 内とかくるは いとどしく
かげを見せじと 思ふなりけり
といへりけり。また、
♪92
嘆きのみ しげきみ山の ほととぎす
木がくれゐても 音をのみぞなく
などいひけり。
かくて来たりけるを、いまはかへりね」とやらひければ、
♪93
死ねとてや とりもあへずは やらはるる
いといきがたき 心地こそすれ
返し、をかしかりけれど、え聞かず。
また、雪の降る夜来たりけるを、ものはいひて、「夜ふけぬ。かへり給ひね」といひければ、かへりけるほどに、雪のいみじき降りければ、えいかでかへりけるほどに、戸をさしてあけざりければ、
♪94
われはさは 雪降る空に 消えねとや
たちかへれども あけぬ板戸は
となむいひてゐたりける。
「かく歌もよみ、あはれにいひゐたれば、いかにせましと思ひて、のぞきて見れば、顔こそなほいとにくげなりしか」となむ語りしとか。
としこ、千兼を待ちける夜、来ざりければ、
♪95
さ夜ふけて いなおほせ鳥の なきけるを
君がたたくと 思ひけるかな
また、としこ、雨の降りける夜、千兼を待ちけり。
雨にやさはりけむ、来ざりけり。
こぼれたる家にて、いといたくもりけり。
「雨のいたく降りしかば、えまゐらずなりにき。さるところにいかにものし給へる」といへりければ、としこ、
♪96
君を思ふ ひまなく宿と 思へども
今宵の雨は もらぬ間ぞなき
枇杷殿より、としこが家に柏木のありけるを、折りにたまへりけり。
折らせて書きつけて奉りける。
♪97
わが宿を いつかは君が ならし葉の
ならし顔には 折りにおこする
御返し、
♪98
柏木に 葉守の神の ましけるを
知らでぞ折りし たたりなさるな
忠文が陸奥国の将軍になりて下りける時、それがむすこなりける人を、監の命婦、しのびてあひ語らいけり。
うまのはなむけに、めとりくくりの狩衣、袿、幣などやりたりける。
かのえたる男、
♪99
宵々の 恋しさまさる 狩ごろも
心づくしの ものにぞありける
と詠みたりければ、女めでて泣きけり。
おなじ人に、監の命婦、山ももをやりたりければ、
♪100
みちのくの 安達の山も もろともに
こえばわかれの 悲しからじを
となむいひける。
さて、堤なる家になむすみける。
さて鮎をなむとりてやりける。
♪101
賀茂川の 瀬にふす鮎の いをとりて
寝でこそあかせ 夢に見えつや
かくて、この男、陸奥国へ下りけるたよりにつけて、あはれなる文どもを書きおこせけるを、「道にて病してなむ死にける」と聞きて、女いとあはれとなむ思ひける。
かく聞きてのち、篠塚の駅といふ所より、たよりにつけて、あはれなることどもを書きたる文をなむもて来たりける。
いと悲しくて、これを「いつのぞ」と問ひければ、使の久しくなりてもて来たるになむありける。女、
♪102
篠塚の うまやうまやと 待ちわびし
君はむなしく なりぞしにける
とよみてなむ泣きける。
童にて殿上して、大七といひけるを、かうぶりして、蔵人所にをりて、金の使かけて、やがて親のともにいくになむありける。
故式部卿宮、失せ給ひける時は、二月のつごもり、花のさかりになむありける。
堤の中納言の詠み給ひける。
♪103
咲きにほひ 風待つほどの 山ざくら
人の世よりは 久しかりけり
三条の右大臣の御返し、
♪104
春々の 花は散るとも 咲きぬべし
またあひがたき 人の世ぞ憂き
同じ宮、おはしましける時、亭子院にすみ給ひけり。
この宮の御もとに兼盛まゐりけり。
召しいでてものら宣ひなどしけり。
失せ給ひて後、かの院を見るに、いとあはれなり。
池のいとおもしろきに、あはれなりければ詠みける。
♪105
池はなほ むかしながらの 鏡にて
影見し君が なきぞかなしき
人の国の守の下りけるうまのはなむけを、堤の中納言して待ち給ひけるに、暮るるまで来ざりければ、いひやり給ひける。
♪106
わかるべき こともあるものを ひねもすに
待つとてさへも 嘆きつるかな
とありければ、まどひ来にけり。
同じ中納言、かの殿の寝殿の前に、すこし遠く立てりける桜を、近く掘り植ゑ給ひけるが、枯れざまに見えければ、
♪107
宿近く うつして植ゑし かひもなく
まちどほにのみ 見ゆる花かな
と詠み給へりける。
同じ中納言、蔵人にてありける人の、加賀守にて下りけるに、わかれ惜しみける夜、中納言、
♪108
君がゆく 越の白山 知らずとも
ゆくのまにまに あとはたづねむ
となむ詠み給ひける。
桂のみこの御もとに、嘉種が来たりけるを、母御息所、聞きつけ給ひて、門をささせ給うければ、夜ひと夜立ちわづらひて、かへるとて、「かく聞こえ給へ」とて、門のはさまよりいひ入れける。
♪109
今宵こそ 涙の川に 入るちどり
なきてかへると 君は知らずや
これもおなじみこに、おなじ男、
♪110
長き夜を あかしの浦に 焼く塩の
けぶりは空に 立ちやのぼらぬ
かくてしのびつつあひ給ひけるほどに、院に八月十五夜せられけるに、「まゐり給へ」とありければ、まゐり給ふに、院にてはあふまじければ、「せめて今宵はなまゐり給ひそ」ととどめけり。
されど、召しなりければ、えとどまらで、急ぎまゐり給ひければ、嘉種、
♪111
竹取が よよに泣きつつ とどめけむ
君は君にと 今宵しもゆく
監の命婦、朝拝の威儀の命婦にていでたりけるを、弾正の親王見給ひて、にはかにまどび懸想し給ひけり。
御文ありける御返りごとに、
♪112
うちつけに まどふ心と 聞くからに
なぐさめやすく おもほゆるかな
親王の御歌はいかがありけむ、忘れにけり。
また、同じ親王に、おなじ女、
♪113
こりずまの 浦にかづかむ うきみるは
浪さわがしく ありこそはせめ
宇多院の花おもしろかりけるころ、南院の君達とこれかれ集まりて、歌よみなどしけり。
右京の大夫宗于、
♪114
来て見れど 心もゆかず ふるさとの
昔ながらの 花は散れども
こと人のもありけらし。
季縄少将の娘右近、故后の宮にさぶらひけるころ、故権中納言の君おはしける、頼め給ふことなどありけるを、宮にまゐること絶えて、里にありけるに、さらにとひ給はざりけり。
内わたりの人来たりけるに、「いかにぞ。まゐり給ふや」と問ひければ、「常にさぶらひ給ふ」といひければ、御文奉りける。
♪115
忘れじと 頼めし人は ありと聞く
いひし言の葉 いづちいにけむ
となむありける。
おなじ女のもとに、さらに音もせで、雉をなむおこせたまへりける。
返りごとに、
♪116
栗駒の 山に朝たつ 雉よりも
かりにはあはじと 思ひしものを
となむいひやりける。
おなじ女、内の曹司にすみける時、しのびて通ひ給ふ人ありけり。
頭なりければ、殿上につねにありけり。
雨の降る夜、曹司の蔀のつらに立ち寄り給へりけるも知らず、雨のもりければ、むしろをひきかへすとて、
♪117
思ふ人 雨と降りくる ものならば
わがもる床は かへさざらまし
となむうちいひければ、あはれと聞きて、ふとはひ入り給ひにけり。
同じ女、男の「忘れじ」と、よろづのことをかけて誓ひけれど、忘れにけるのちにいひやりける。
♪118
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし
人の命の 惜しくもあるかな
返しは、え聞かず。
同じ右近、「桃園の宰相の君なむすみ給ふ」などいひののしりけれど、虚言なりければ、かの君に詠みて奉りけり。
♪119
よし思へ 海人のひろはぬ うつせ貝
むなしき名をば 立つべしや君
となむありける。
正月のついたちころ、大納言殿に兼盛まゐりたりけるに、ものなど宣はせて、すずろに、「歌よめ」と宣ひければ、ふとよみたりける。
♪120
今日よりは 荻のやけ 原かき分けて
若菜つみに とたれをさそはむ
とよみたりければ、になくめで給ひて、御返し、
♪121
片岡に わらびもえずは たづねつつ
心やりにや 若菜つままし
となむよみ給ひける。
但馬国に通ひける兵庫の允なりける男の、かの国なりける女をおきて京へのぼりければ、雪の降りけるにいひおこせたりける。
♪122
山里に われをとどめて わかれぢの
ゆくのまにまに 深くなるらむ
といひたりければ、返し、
♪123
山里に 通ふこころも 絶えぬべし
ゆくもとまるも こころぼそさに
となむ返したりける。
おなじ男、紀の国に下るに、「寒し」とて、衣をとりにおこせたりければ、女、
♪124
紀の国の むろのこほりに ゆく人は
風の寒さも 思ひ知られじ
返し、男、
♪125
紀の国の むろのこほりに ゆきながら
君とふすまの なきぞわびしき
修理の君に、右馬の頭すみける時、「方のふたがりければ、方たがへにまかるとてなむえまゐり来ぬ」といへりければ、
♪126
これならぬ ことをもおほく たがふれば
恨みむ方も なくぞわびしき
かくて、右馬の頭いかずなりにけるころ、よみておこせたりける。
♪127
いかでなほ 網代の氷魚に こととはむ
何によりてか われを問はぬと
といへりければ、返し、
♪128
網代より ほかには氷魚の よるものか
知らずは宇治の 人に問へかし
また、おなじ女に通ひける時、つとめてよんだりける。
♪129
あけぬとて 急ぎもぞする 逢坂の
きり立ちぬとも 人に聞かすな
男、はじめごとよんだりける。
♪130
いかにして われは消えなむ 白露の
かへりてのちの ものは思はじ
返し、
♪131
垣ほなる 君が朝顔 見てしかな
かへりてのちは ものや思ふと
おなじ女に、けぢかくものなどいひて、かへりてのちによみてやりける。
♪132
心をし 君にとどめて 来にしかば
もの思ふことは われにやあるらむ
修理が返し、
♪133
たましひは をかしきことも なかりけり
よろづの物は からにぞありける
おなじ女に、故兵部卿宮、御消息などし給ひけり。
「おはしまさむ」と宣ひければ、聞こえける。
♪134
たかくとも なににかはせむ くれ竹の
ひと夜ふた夜の あだのふしをば
三条の右大臣、中将にいますかりける時、祭の使にさされていでたち給ひけり。
通ひ給ひける女の、絶えて久しくなりにけるに、「かかることにてなむいでたつ。扇もたるべかりけるを、さわがしうてなむ忘れにける。ひとつ給へ」といひやり給へりける。
よしある女なりければ、よくておこせてむと思ひ給ひけるに、色などもいと清らなる扇の、香などもいとかうばしくておこせたる。
ひき返したる裏のはしの方に書きたりける。
♪135
ゆゆしとて 忌むとも今は かひもあらじ
憂きをばこれに 思ひ寄せてむ
とあるを見て、いとあはれとおぼして、返し、
♪136
ゆゆしとて 忌みけるものを わがために
なしといはぬは たがつらきなり
故権中納言、左大臣の君をよばひ給うける年の十二月のつごもりに、
♪137
もの思ふ と月日のゆくも 知らぬまに
今年は今日に はてぬとか聞く
となむありける。また、かくなむ。
♪138
いかにして かく思ふてふ ことをだに
人づてならで 君に聞かせむ
かくいひいひて、つひにあひにける朝に、
♪139
今日そへに 暮れざらめやはと 思へども
たへぬは人の 心なりけり
これもおなじ中納言、斎宮のみこを年ごろよばひ奉り給うて、今日明日あひなむとしけるほどに、伊勢の斎宮の御占にあひ給ひにけり。
「いふかひなくくちをし」と思ひ給うけり。
さて詠みて奉り給ひける。
♪140
伊勢の海の 千尋の浜に ひろふとも
今はかひなく おもほゆるかな
となむありける。
故中務宮の北の方、失せ給ひてのち、ちひさき君たちをひき具して、三条右大臣殿にすみ給ひけり。
御忌みなどすぐしては、つひにひとりはすぐし給ふまじかりければ、かの北の方の御おとうと九の君を、やがてえ給はむと、おぼしけるを、なにかは、さもと、親はらからもおぼしたりけるに、いかがありけむ、左兵衛の督の君、侍従にものし給ひけるころ、その御文もて来となむ聞き給ひける。
さて心づきなしとやおぼしけむ、もとの宮になむわたり給ひにける。
その時に御息所の御もとより、
♪141
なき人の 巣守にだにも なるべきを
いまはとかへる 今日の悲しさ
宮の御返し、
♪142
巣守にと 思ふ心は とどむれど
かひあるべくも なしとこそ聞け
となむありける。
おなじ右大臣の御息所、帝おはしまさずなりてのち、式部卿の宮なむすみ奉り給うけるを、いかがありけむ、おはしまさざりけるころ、斎宮の御もとより、御文奉り給へりけるに、御息所、宮のおはしまさぬことなど聞こえ給ひて、奥に、
♪143
白山に 降りにしゆきの あとたえて
いまはこしぢの 人も通はず
となむありける。
御返りあれど、本になしとあり。
かくて九の君、侍従の君にあはせ奉り給ひてけり。
おなじころ、御息所を、宮おはしまさずなりにければ、左大臣の、右衛門の督におはしけること、御文奉れ給ひけり。
「かの君むことられ給ひぬ」と聞き給ひて、大臣、御息所に、
♪144
浪の立つ かたも知らねど わたつみの
うらやましくも おもほゆるかな
おほきおとどの北の方失せ給ひて、御はての月になりて、御わざのことなど急がせ給ふころ、月のおもしろかりけるに、端にいでゐ給ひて、もののいとあはれにおぼされければ、
♪145
かくれにし 月はめぐりて いでくれど
影にも人は 見えずぞありける
おなじおほきおとど、左大臣の御母菅原の君かくれ給ひにけり。
御服はて給ひにけるころ、亭子の帝なむ、内に御消息聞こえ給ひて、色ゆるされ給ひける。
さりければ、大臣いと清らに蘇芳がさねなど着給ひて、后の宮にまゐり給うて、「院の御消息のいとうれしく侍りて、かく色ゆるされて侍ること」など聞こえ給ふ。
さて、詠み給ひける。
♪146
ぬぐをのみ 悲しと思ひし なき人の
かたみの色は またもありけり
とてなむ泣き給ひける。
そのほどは中弁になむものし給ひける。
亭子の帝の御ともに、太政大臣、大井に仕うまつり給へるに、紅葉、小倉の山にいろいろいとおもしろかりけるを、かぎりなくめで給ひて、「行幸もあらむに、いと興ある所になむありける。かならず奏してせさせたてまつらむ」など申し給ひて、ついでに、
♪147
小倉山 峰のもみぢ 葉心あらば
いまひとたびの みゆき待たなむ
となむありける。
かくてかへり給ひて、奏し給ひければ、いと興あることなりとてなむ、大井の行幸といふことはじめ給ひける。
大井に季縄の少将すみけるころ、帝宣ひける、「花おもしろくなりなば、かならず御覧ぜむ」とありけるを、おぼし忘れて、おはしまさざりけり。
されば、少将、
♪148
散りぬれば くやしきものを 大井川
岸の山吹 今日さかりなり
とありければ、いたうあはれがりたまひて、急ぎおはしましてなむ御覧じける。
季蝿の少将、病にいといたうわづらひて、すこしおこたりて内にまゐりたりけり。近江守公忠の君、掃部のすけにて蔵人なりけるころなりけり。
その掃部のすけにあひていひけるやう、「みだり心地はまだおこたりはてねど、いとむつかしう心もとなくはべればなむまゐりつる。のちは知らねど、かくまで侍ること、まかりいでて明後日ばかりまゐり来む。よきに奏したまへ」などいひおきてまかでぬ。
三日ばかりありて、少将のもとより文をなむおこせたりけるを見れば、
♪149
くやしくぞ のちにあはむと 契りける
今日をかぎりと いはましものを
とのみ書きたり。いとあさましくて、涙をこぼして使に問ふ。「いかがものしたまふ」と問へば、使も、「いと弱くなりたまひにたり」といひて泣くを聞くに、さらにえ聞こえず。「みづからただいままゐりて」といひて、里に車とりにやりて待つほど、いと心もとなし。
近衛の御門にいでたちて、待ちつけて乗りてはせゆく。五条にぞ少将の家あるにいきつけて見れば、いといみじうののしりて、門さしつ。死ぬるなりけり。
消息いひ入るれど、なにのかひなし。いみじう悲しくて、泣く泣くかへりにけり。かくてありけることを、上の件奏しければ、帝もかぎりなくあはれがりたまひける。
土佐守にありける酒井の人真といひける人、病して弱くなりて、鳥羽なりける家にゆくとて詠みける。
♪150
ゆく人は そのかみ来むと いふものを
心細しや 今日のわかれは
平中が色好みなりけるさかりに、市にいきけり。
中ごろは、よき人々市にいきてなむ、色好むわざはしける。
それに故后の宮の御たち、市にいでたる日になむありける。
平中色好みかかりて、になう懸想しけり。
のちに文をなむおこせたりける。
女ども、「車なりし人はおほかりしを、たれにある文にか」となむいひやりける。
さりければ、男のもとより、
♪151
ももしきの 袂のかずは 見しかども
わきて思ひの 色ぞこひしき
といへりけるは、武蔵守のむすめになむありける。
それなむいとこきかいねり着たりける。
それをと思ふなりけり。
さればその武蔵なむ、後は返りごとはして、いひつきにける。
かたち清げに髪長くなどして、よき若人になむありける。
いといたう人々懸想しけれど、思ひあがりて男などもせでなむありける。
されどせちによばひければあひにけり。
その朝に文もおこせず。夜まで音もせず。
心憂しと思ひあかして、またの日待てども文もおこせず。
その夜した待ちけれど、朝に、つかふ人など、「いとあだにものし給ふと聞きし人を、ありありてかくあひ奉り給ひて、みづからこそいとまもさはり給ふこともありとも、御文をだに奉り給はぬ、心憂きこと」などこれかれいふ。
心地にも思ひゐたることを、人もいひければ、心憂く、くやしと、思ひて泣きけり。
その夜、もしやと思ひて待てど、また来ず。
またの日も文もおこせず。
すべて音もせで五六日になりぬ。
この女、音をのみ泣きて、物も食はず。
つかふ人など、「おほかたはなおぼしそ。かくてのみやみ給ふべき御身にもあらず。人に知らせでやみ給ひて、ことわざをもし給うてむ」といひけり。
ものもいはでこもりゐて、つかふ人にも見えで、いと長かりける髪をかい切りて、手づから尼になりにけり。
つかふ人集まりて泣きけれど、いふかひもなし。
「いと心憂き身なれば、死なむと思ふにも死なれず。かくだになりて、行ひをだにせむ。かしがましく、かくな人々いひさわぎそ」となむいひける。
かかりけるやうは、平中、そのあひけるつとめて、人おこせむと思ひけるに、つかさのかみ、にはかにものへいますとて寄りいまして、寄りふしたりけるを、おひ起こして、「いままで寝たりける」とて、逍遥しに遠き所へ率ていまして、酒飲み、のにしりて、さらに返し給はず。
からうじてかへるままに、亭子の帝の御ともに大井に率ておはしましぬ。
そこにまたふた夜さぶらふに、いみじう酔ひにけり。
夜更けてかへり給ふに、この女のがりいかむとするに、方ふたがりければ、おほかたみなたがふ方へ、院の人々類していにけり。
この女、いかにおぼつかなくあやしと思ふらむと恋しきに、今日だに日もとく暮れなむ。
いきてありさまもみづからいはむ。
かつ、文をやらむと、酔ひさめて思ひけるに、人なむ来てうちたたく。
「たそ」と問へば、「なほ尉の君にもの聞こえむ」といふ。
さしのぞきて見れば、この家の女なり。
胸つぶれて、「こち来」といひて、文をとりて見れば、いと香ばしき紙に、切れたる髪をすこしかいわがねてつつみたり。
いとあやしうおぼえて、書いたることを見れば、
♪152
あまの川 空なるものと 聞きしかど
わが目のまへの 涙なりけり
と書きたり。
尼になりたるなるべしと見るに、目もくれぬ。
心きもをまどはして、この使に問へば、「はやう御ぐしおろし給うてき、かかれば御たちも昨日今日いみじう泣きまどひ給ふ。下種の心地にも、いと胸いたくなむ。さばかりに侍り御ぐしを」といひて泣く時に、男の心地いといみじ。
なでふ、かかるすき歩きをして、かくわびしきめを見るらむと、思へどかひなし。
泣く泣く返りごと書く。
♪153
世をわぶる 涙ながれて はやくとも
あまの川には さやはなるべき
「いとあさましきに、さらにものも聞こえず。みづからただ今まゐりて」となむいひたりける。
かくてすなはち来にけり。
そのかみ女は塗籠に入りにけり。
ことのあるやう、さはりを、つかふ人々にいひて泣くことかぎりなし。
「ものをだに聞こえむ。御声をだにし給へ」といひけれど、さらにいらへをだにせず。
かかるさはりをば知らで、なほただいとほしさにいふとや思ひけむとてなむ、男はよにいみじきことにしける。
滋幹の少将に、女、
♪154
恋しさに 死ぬる命を 思ひいでて
問ふ人あらば なしとこたへよ
少将、返し、
♪155
からにだに われ来たりてへ 露の身の
消えばともにと 契りおきてき
中興の近江介がむすめ、もののけにわづらひて、浄蔵大徳を験者にしけるほどに、人とかくいひけり。
なほしもはたあらざりけり。
しのびてあり経て、人のものいひなどもうたてあり。
なほ世にあり経じと思ひて失せにけり。
鞍馬といふ所にこもりていみじう行ひをり。
さすがにいと恋しうおぼえけり。
京を思ひやりつつ、よろづのこといとあはれにおぼえて行ひけり。
泣く泣くうちふして、かたはらを見れば文なむ見えける。
なぞの文ぞと、思ひとりて見れば、このわが思ふ人の文なり。
書けることは、
♪156
すみぞめの くらまの山に 入る人は
たどるたどるも かへり来ななむ
と書けり。
いとあやしく、たれしておこせつらむと思ひをり。
もて来べきたよりもおぼえず、いとあやしかりければ、またひとりまどひ来にけり。
さておこせたりける。
♪157
からくして 思ひわするる 恋しさを
うたて鳴きつる うぐひすの声
返し、
♪158
さても君 わすれけりかし うぐひすの
鳴くをりのみや 思ひいづべき
となむいへりける。また、浄蔵大徳、
♪159
わがために つらき人をば おきながら
なにの罪なき 世をや恨みむ
ともいひけり。
この女はになくかしづきて、みこたち、上達部よばひ給へど、帝に奉らむとてあはせざりけれど、このこといできにければ、親も見ずなりにけり。
故兵部卿の宮、この女のかかること、まだしかりける時、よばひ給ひけり。
親王、
♪160
荻の葉の そよぐごとにぞ 恨みつる
風にうつりて つらき心を
これも、おなじ宮、
♪161
あさくこそ 人は見るらめ 関川の
絶ゆる心は あらじとぞ思ふ
女、返し、
♪162
関川の 岩間をくぐる みづあさみ
絶えぬべくのみ 見ゆる心を
かくて、いでてもの聞こえなどすれど、あはでのみありければ、親王、おはしましたりけるに、月のいとあかかりければ、詠み給ひける。
♪163
夜な夜なに いづと見しかど はかなくて
入りにし月と いひてやみなむ
と宣ひけり。
かくて扇をおとし給へりけるをとりて見れば、知らぬ女の手にてかく書けり。
♪164
忘らるる 身はわれからの あやまちに
なしてだにこそ 君を恨みね
と書けりけるを見て、そのかたはらに書きつけて奉りける。
♪165
ゆゆしくも おもほゆるかな 人ごとに
うとまれにける 世にこそありけれ
となむ。また、この女、
♪166
忘らるる ときはの山の 音をぞなく
秋野の虫の 声にみだれて
返し、
♪167
なくなれど おぼつかなくぞ おもほゆる
声聞くことの 今はなければ
また、おなじ君、
♪168
雲居にて よをふるころは さみだれの
あめのしたにぞ 生けるかひなき
返し、
♪169
ふればこそ 声も雲居に 聞こえけめ
いとどはるけき 心地のみして
同じ宮に、こと女、
♪170
あふことの 願ふばかりに なりぬれば
ただにかへしし 時ぞ恋しき
南院のいま君といふは、右京の大夫宗于の君のむすめなり。
それ、おほきおとどの内侍の督の君の御方にさぶらひけり。
それを兵衛の督の君、あや君と聞こえける時、曹司にしばしばおはしけり。
おはし絶えにければ、常夏の枯れたるにつけて、かくなむ、
♪171
かりそめに 君がふし見し 常夏の
ねもかれにしを いかで咲きけむ
となむありける。
同じ女、巨城が牛を借りて、またのちに借りたりければ、「奉りたりし牛は死にき」といひたりける返しに、
♪172
わが乗りし ことをうしとや 消えにけむ
草にかかれる 露の命は
おなじ女、人に、
♪173
大空は くもらずながら 神無月
年のふるにも 袖はぬれけり
大膳の大夫公平のむすめども、県の井戸といふ所にすみけり。
おほいこは、后の宮に、少将の御といひてさぶらひけり。
三にあたりけるは、備後守信明、まだ若おとこなりける時になむ、はじめの男にしたりける。
すまざりければ、よみてやりける。
♪174
この世には かくてもやみぬ 別れ路の
淵瀬をたれに 問ひてわたらむ
となむありける。
おなじ女、のちに兵衛の尉もろただにあひて、よみておこせたりける。
風吹き、雨降りける日のことになむ。
♪175
こち風は 今日ひぐらしに 吹くめれど
雨もよにはた よにもあらじな
とよみけり。
兵衛の尉、離れてのち、臨時の祭りの舞人にさされていきけり。
この女ども物見にいでたり。
さて帰りてよみてやりける。
♪176
むかし着て なれしをすれる 衣手を
あなめづらしと よそに見しかな
かくて、兵衛の尉、山吹につけておこせたりける。
♪177
もろともに 井手の里こそ 恋しけれ
ひとりをり憂き 山吹の花
となむ。返しは知らず。
かくて、これは、女、通ひける時に、
♪178
大空も ただならぬかな 神無月
われのみしたに しぐると思へば
これも、おなじ人、
♪179
あふことの なみの下草 みがくれて
しづ心なく 音こそ泣かるれ
桂のみこ、七夕のころ、しのびて人にあひ給へりけり。
さて、やり給へりける。
♪180
袖をしも かさざりしかど 七夕の
あかぬわかれに ひちにけるかな
とありけり。
右大臣の頭におはしける時、小弐のめのとのもとによみて給ひける。
♪181
秋の夜を 待てと頼めし 言の葉に
今もかかれる 露のはかなさ
となむ。
♪182
秋もこず 露もおかねど 言の葉は
わがためにこそ 色かはりけれ
きんひらがむすめ死ぬとて、
♪183
長けくも 頼みけるかな 世の中を
袖に涙の かかる身をもて
桂のみこ、嘉種に、
♪184
露しげみ 草のたもとを 枕にて
君まつむしの 音をのみぞなく
閑院のおほいきみ、
♪185
むかしより 思ふ心は ありそ海
の浜のまさごは かずも知られず
おなじ女に、陸奥守にて死にし藤原真興がよみておこせたりける。
病いとおもくしておこたりたるころなり。
「いかで対面たまはらむ」とて、
♪186
からくして 惜しみとめたる 命もて
あふことをさへ やまむとやする
といへりければ、おほいきみ、返し、
♪187
もろともに いざとはいはで 死出の山
などかはひとり こえむとはせし
といひたりけり。
さて来たりける夜も、えあふまじきことやありけむ、えあはざりければ、かへりにけり。
さて、朝に、男のもとよりいひおこせたりける。
♪188
あかつきは なくゆふつけの わび声に
おとらぬ音をぞ なきてかへりし
おほいきみ、返し、
♪189
あかつきの ねざめの耳に 聞きしかど
鳥よりほかの 声はせざりき
おほきおとどは、大臣になり給ひて年ごろはするに、枇杷の大臣はえたり給はでありわたりけるを、つひに大臣になり給ひにける御よろこびに、おほきおとど梅を折りてかざし給ひて、
♪190
おそくとく つひに咲きける 梅の花
たが植ゑおきし 種にかあるらむ
とありけり。
その日のことどもを歌など書きて、斎宮に奉り給ふとて、三条の右の大殿の女御、やがてこれに書きつけ給ひける。
♪191
いかでかく 年きりもせぬ 種もがな
荒れゆく庭の かげと頼まむ
とありけり。
御返し、斎宮よりありけり。忘れにけり。
かくて願ひ給ひけるかひありて、左大臣の中納言わたりすみ給ひければ、種みな広ごり給ひて、かげおほくなりにけり。
さりける時に、斎宮より、
♪192
花ざかり 春は見に来む 年きりも
せずといふ種は 生ひぬとか聞く
さねたうの少弐といひける人のむすめの男、
♪193
笛竹の ひと夜も君と 寝ぬ時は
ちぐさの声に 音こそ泣かるれ
といひければ、
♪194
ちぢの音は ことばのふきか 笛竹の
こちくの声も 聞こえこなくに
としこが、志賀にまうでたりけるに、増喜君といふ法師ありけり。
それは比叡に住む、院の殿上もする法師になむありける。
それ、このとしこ、まうでたる日、志賀にまうであひにけり。
橋殿に局をしてゐて、よろづのことをいひかはしけり。
いまは、としこ、かへりなむとしけり。
それに、増喜のもとより、
♪195
あひ見ては わかるることの なかりせば
かつがつものは 思はざらまし
返し、としこ、
♪196
いかなれば かつがつものを 思ふらむ
なごりもなくぞ われは悲しき
となむありける。ことばもいとおほくなむありける。
おなじ増喜君、やれる人のもとは知らず、かうよめりけり。
♪197
草の葉に かかれるつゆの 身なればや
心うごくに 涙おつらむ
本院の北の方の、まだ帥の大納言の妻にていますかりけるをりに、平中がよみて聞こえける。
♪198
春の野に みどりにはへる さねかづら
わが君ざねと 頼むいかにぞ
といへりけり。
かくいひいひて、あひ契ることありけり。
そののち、左の大臣の北の方にて、ののしり給ひける時、よみておこせたりける。
♪199
ゆくすゑの 宿世も知らず わがむかし
契りしことは おもほゆや君
となむいひける。
その返し、それよりまへまへも、歌はいとおほかりけれど、え聞かず。
泉の大将、故左大臣にまうで給へりけり。
ほかにて酒などまゐり、酔ひて、夜いたくふけて、ゆくりもなくものし給へり。
大臣おどろき給ひて、「いづくにものし給へるたよりにかあらむ」など聞こえ給ひて、御格子あげさわぐに、壬生忠岑、御ともにあり。
御階のもとに、松ともしながらひざまづきて、御消息申す。「
♪200
かささぎの わたせる橋の 霜の上を
夜半にふみわけ ことさらにこそ
となむ宣ふ」と申す。
あるじの大臣、いとあはれにをかしとおぼして、その夜、夜ひと夜、大御酒まゐり、遊び給ひて、大将も物かづき、忠岑も禄賜りなどしけり。
この忠岑がむすめありと聞きて、ある人なむ、「得む」といひけるを、「いとよきことなり」といひけり。
男のもとより、「かの頼め給ひしこと、このごろのほどにとなむ思ふ」といへりける返りごとに、
♪201
わが宿の ひとむらすすき うら若み
むすび時にには まだしかりけり
となむ詠みたりける。
まことにまだいとちひさきむすめになるありける。
筑紫にありける檜垣の御といひけるは、いとらうあり、をかしくて世を経たる者になむありける。
年月かくてありわたりけるを、純友がさわぎにあひて、家も焼けほろび、物の具もみなとられはてて、いみじうなりにけり。
かかりとも知らで、野大弐、討手の使に下り給ひて、それが家のありしわたりをたづねて、「檜垣の御といひけむ人に、いかであはむ。いづくにかすむらむ」と宣へば、「このわたりになむすみはべりし」など、ともなる人もいひけり。
「あはれ、かかるさわぎに、いかになりにけむ。たづねてしかな」と宣ひけるほどに、かしら白きおうなの、水くめるなむ、前よりあやしきやうなる家に入りける。
ある人ありて、「これなむ檜垣の御」といひけり。
いみじうあはれがり給ひて、よばすれど、恥ぢて来で、かくなむいへりける。
♪202
むばたまの わが黒髪は 白川の
みづはくむまで なりにけるかな
とよみたりければ、あはれがりて、着たりける衵ひとかさねぬぎてなむやりける。
また、おなじ人、大弐の舘にて、秋の紅葉をよませければ、
♪203
鹿の音は いくらばかりの くれなゐぞ
ふりいづるからに 山のそむらむ
この檜垣の御、歌をなむよむといひて、すき者ども集まりて、よみがたかるべき末をつけさせむとて、かくいひけり。
♪204
わたつみの なかにぞ立てる さを鹿は
とて、末をつけさするに、
♪204-2
秋の山辺や そこに見ゆらむ
とぞつけたりける。
筑紫なりける女、京に男をやりてよみける。
♪205
人を待つ 宿はくらくぞ なりにける
契りし月の うちに見えねば
となむいへりける。
これも、筑紫なりける女、
♪206
秋風の 心やつらき 花すすき
吹きくるかたを まづそむくらむ
先帝の御時、四月のついたちの日、鴬の鳴かぬを詠ませ給ひける。
公忠、
♪207
春はただ 昨日ばかりを うぐひすの
かぎれるごとも 鳴かぬ今日かな
となむ詠みたりける。
おなじ帝の御時、躬恒を召して、月のいとおもしろき夜、夜遊びなどありて、「月を弓張りといふは、何の心ぞ。そのよしつかうまつれ」とおほせ給うければ、御階のもとにさぶらひて、つかうまつりける。
♪208
照る月を 弓張りと しもいふことは
山べをさして いればなりけり
禄に大袿かづきて、また、
♪209
白雲の このかたにしも おりゐるは
天つ風こそ 吹きてきつらし
おなじ帝、月のおもしろき夜、みそかに御息所たちの御曹司どもを見歩かせ給ひけり。
御ともに公忠さぶらひけり。
それに、ある御曹司より、こき袿ひとかさね着たる女の、いと清げなる、いで来て、いみじう泣きけり。
公忠をちかく召して、見せ給ひければ、髪をふりおほひていみじう泣く。
「などてかく泣くぞ」といへど、いらへもせず。
帝も、いみじうあやしがり給ひけり。公忠、
♪210
思ふらむ 心のうちは 知らねども
泣くを見るこそ 悲しかりけれ
とよめりければ、いとになくめで給ひけり。
先帝の御時に、ある御曹司に、きたなげなき童ありけり。
帝御覧じて、みそかに召してけり。
これを人にも知らせ給はで、時々召しけり。
さて、宣はせける。
♪211
あかでのみ 経ればなるべし あはぬ夜も
あふ夜も人を あはれとぞ思ふ
と宣はせけるを、童の心地にも、かぎりなくあはれにおぼえければ、しのびあへで友だちに、「さなむ宣ひし」と語りければ、この主なる御息所聞きて、追ひいで給ひけるものか、いみじう。
三条の右大臣のむすめ、堤の中納言にあひはじめ給ひけるあひだは、内蔵の助にて、内の殿上をなむし給ひける。
女はあはむの心やなかりけむ、心もゆかずなむいますかりける。
男も宮仕へし給ひければ、えつねにはいませざりけるころ、女、
♪212
たき物の くゆる心は ありしかど
ひとりはたえて 寝られざりけり
返し、上手なればよかりけめど、え聞かねば書かず。
また、男、「日ごろさわがしくてなむえまゐらぬ。かく急ぎまかり歩くうちにも、えまゐり来ぬことをなむ、いかにと、かぎりなく思ひ給ふる」とありければ、女、
♪213
さわぐなる うちにもものは 思ふなり
わがつれづれを なににたとへむ
となむありける。
志賀の山越えの道に、いはえといふ所に、故兵部卿の宮、家をいとをかしうつくり給うて、ときどきおはしましけり。
いとしのびておはしまして、志賀にまうづる女どもを見給ふときもありけり。
おほかたもいとおもしろう、家もいとをかしうなむありける。
としこ、志賀にまうでけるついでに、この家に来て、めぐりつつ見て、あはれがりめでなどして、書きつけたりける。
♪214
かりにのみ 来る君待つと ふりいでつつ
鳴くしが山は 秋ぞ悲しき
となむ書きつけていにける。
こやくしくそといひける人、ある人をよばひておこせたりける。
♪215
かくれ沼の 底の下 草みがくれて
知られぬ恋は くるしかりけり
返し、女、
♪216
みがくれに かくるばかりの 下草は
長からじとも おもほゆるかな
このこやくしといひける人は、丈なむいとみじかかりける。
先帝の御時に、承香殿の御息所の御曹司に、中納言の君といふ人さぶらひけり。
それを故兵部卿の宮、わか男にて、一の宮と聞こえて、色好み給ひけるころ、承香殿はいとちかきほどになむりける。
らうあり、をかしき人々ありと、聞き給うて、ものなど宣ひかはしけり。
さりけるころほひ、この中納言の君に、しのびて寝給ひそめてけり。
ときどきおはしましてのち、この宮、をさをさとひ給はざりけり。
さるころ、女のもとよりよみて奉りける。
♪217
人をとく あくた川てふ 津の国の
なにはたがはぬ 君にぞありける
かくて物も食はで、泣く泣く病になりて恋ひ奉りける。
かの承香殿の前の松に雪の降りかかりけるを折りて、かくなむ聞こえ奉りける。
♪218
来ぬ人を まつの葉に ふる白雪の
消えこそかへれ あはぬ思ひに
とてなむ、「ゆめこの雪おとすな」と、使にいひてなむ、奉りける。
故兵部卿宮、のぼるの大納言のむすめに住み給ひけるを、例のおはしまし所にはあらで、ひさしにおまし敷きて、おほとのごもりなどして、かへり給ひて、ほど久しうおはしまさざりけり。
かくてのたまへりける、「かのひさしにしかれたりしものは、さながらありや。とりたてやし給ひてし」とのたまへりければ、御返事に、
♪219
敷きかへず ありしながらに 草枕
塵のみぞゐる 払ふ人なみ
とありければ、御返しに、
♪220
草枕 塵払ひには からころも
袂ゆたかに たつを待てかし
とありければ、また、
♪221
唐衣 たつを待つ 間のほどこそは
わがしきたへの 塵も積らめ
となんありければ、おはしまして、また「宇治へ狩りしになん行く」とのたまひける御返しに、
♪222
御狩する くりこま山の 鹿よりも
ひとり寝る身(夜)ぞ わびしかりける
よしいゑといひける宰相のはらから、大和の掾といひてありけり。
これがもとの妻のもとに、筑紫より女を率て来てすゑたりけり。
もとの妻も、心いとよく、今の妻もにくき心なく、いとよく語らひてゐたりけり。
かくてこの男は、ここかしこ人の国がちにのみ歩きければ、ふたりのみなむゐたりける。
この筑紫の妻、しのびて男したりける。
それを、人のとかくいひければ、よみたりける。
♪223
夜はにいでて 月だに見ずは あふことを
知らずがほにも いはましものを
となむ。
かかるわざをすれど、もとの妻、いと心よき人なれば、男にもいはでのみありわたりけれども、ほかのたよりより、「かく男すなり」と聞きて、この男思ひたりけれど、心にもいれで、たださるものにておきたりけり。
さて、この男、「女、こと人にものいふ」と聞きて、その人とわれと、いづれをか思ふ」と問ひければ、女、
♪224
花すすき 君がかたにぞ なびくめる
思はぬ山の 風はふけども
となむいひける。
よばふ男もありけり。「世の中心憂し。なほ男せじ」などいひけるものなむ、この男の返りごとなどしてやりて、このもとの妻のもとに、文をなむひき結びておこせたりける。
見ればかく書けり。
♪225
身を憂しと 思ふ心の こりねばや
人をあはれと 思ひそむらむ
となむ、こりずまによみたりける。
かくて、心のへだてもなくあはれなれば、いとあはれと思ふほどに、男は心かはりにければ、ありしごともあらねば、かの筑紫に親はらからなどありければいきけるを、男も心かはりにければ、とどめでなむやりける。
もとの妻なむもろともにありならひにければ、かくていくことを、「いと悲し」と思ひける。
山崎にもろともにいきてなむ、舟に乗せなどしける。
男も来たりけり。このうはなりこなみ、ひと日ひと夜、よろづのことをいひ語らひて、つとめて舟に乗りぬ。
いまは男もとの妻は帰りなむとて車に乗りぬ。
これもかれも、いと悲しと思ふほどに、舟に乗り給ひぬる人の文をなむもて来たる。
かくのみなむありける。
♪226
ふたり来し 道とも見えぬ 浪の上を
思ひかけでも かへすめるかな
といへりければ、男も、もとの妻も、いといたうあはれがりて泣きけり。
漕ぎいでていぬれば、え返りごともせず。
車は舟のゆくを見てえいかず、舟に乗りたる人は、車を見るとておもてをさしいでて、漕ぎゆけば、遠くなるままに、顔はいとちひさくなるまで見おこせければ、いと悲しかりけり。
御息所の御姉、おほいこにあたり給ひけるなむ、いとらうらうじく、歌詠み給ふことも、おとうとたち御息所よりもまさりてなむいますかりける。
わかき時に、女親は失せ給ひにけり。
まま母の手にいますかりければ、心にもののかなはぬ時もあり。
さて詠み給ひける。
♪227
ありはてぬ 命待つまの ほどばかり
憂きことしげく 嘆かずもがな
となむ詠み給ひける。
梅の花を折りてまた、
♪228
かかる香の 秋もはからず にほひせば
春恋してふ ながめせましや
と詠み給へりける。
いとよしづきてをかしくいますかりければ、よばふ人もいとおほかりけれど、返りごともせざりけり。
「女といふもの、つひにかくて果て給ふべきにもあらず。ときどきは返りごとし給へ」と、親もまま母もいひければ、せめられてかくなむいひやりける。
♪229
思へども かひなかるべみ しのぶれば
つれなきともや 人の見るらむ
とばかりいひやりて、ものもいはざりけり。
かくいひける心ばへは、親など、「男あはせむ」といひけれど、「一生に男せでやみなむ」といふことを、よとともにいひけるもしるく、男もせで二十九にてなむ失せ給ひにける。
むかし、在中将のみむすこ在次君といふが妻なる人なむありける。
女は山蔭の中納言のみめひにて、五条の御となむいひける。
かの在次君のいもうとの、伊勢守の妻にていますかりけるがもとにいきて、守の召人にてありけるを、この妻の兄の在次君はしのびてすむになむありける。
われのみと思ふに、この男のはらからなむ、またあひたるけしきなりける。
さりければ、女のもとに、
♪230
忘れなむと 思ふ心の 悲しきは
憂きも憂からぬ ものにぞありける
となむよみたりける。
今はみな古ごとになりたることなり。
この在次君、在中将の東にいきたりけるけにやあらむ、この子どもも、人の国に通ひをなむ、ときどきしける。
心あるものにて、人の国のあはれに心ぼそきところどころにては、歌よみて書きつけなどなむしける。
小総の駅といふ所は、海辺になむありける。
それによみて書きつけたりける。
♪231
わたつうみと 人や見るらむ あふことの
なみだをふさに 泣きつめつれば
また、箕輪の里といふ駅にて、
♪232
いつはとは わかねどたえて 秋の夜ぞ
身のわびしさは 知りまさりける
とよみて書きつけたりける。
かくて、人の国歩きありきて、甲斐の国にいたりてすみけるほどに、病して死ぬとてよみたりける。
♪233
かりそめの ゆきひぢとぞ 思ひしを
いまはかぎりの 門出なりける
とよみてなむ死にける。
この在次君のひと所に具して知りたりける人、三河国よりのぼるとて、この駅どもに宿りて、この歌どもを見て、手は見知りたりければ見つけて、いとあはれと思ひけり。
亭子の帝、河尻におはしましにけり。
うかれめに、しろといふ者ありけり。
召しにつかはしたりければ、まゐりてさぶらふ。
上達部、殿上人、みこたち、あまたさぶらひ給ひければ、しもに遠くさぶらふ。
「かくはるかにさぶらふよし、歌つかまつれ」とおほせられければ、すなはちよみ奉りける。
♪234
浜千鳥 とびゆくかぎり ありければ
雲立つ山を あはとこそ見れ
と詠みたりければ、いとかしこくめで給ひて、かづけ物給ふ。
♪235
命だに 心にかなふ ものならば
なにかわかれの 悲しからまし
といふ歌も、この、しろがよみたる歌なりけり。
亭子の帝鳥飼院におはしましにけり。例のごと御遊びあり。「このわたりのうかれめどものあまた参りて候ふ中に、声おもしろくよしあるものは侍りや」と問はせ給ふに、うかれめばらの申すやう、「大江の玉淵がむすめといふものなむ、めづらしうまゐりて侍る」と申しければみさせ給ふに、様かたちもきよげなりければ、あはれがりたまうて上にめしあげ給ふ。「そもそもまことか」など問はせ給ふに、鳥飼といふ題を、みなみな人々に詠ませ給ひにけり。仰せ給ふやう、「玉淵はいと労ありて、歌などよく詠みき。この鳥飼といふ題をよくつかまつりたらむにしたがひて、まことの子とは思ほさむ」と仰せ給ひけり。うけたまはりて、すなはち、
♪236
あさみどり かひある春に あひぬれば
霞ならねど 立ちのぼりけり
と詠む時に、帝、ののしりあはれがり給ひて、御しほたれ給ふ。人々もよく酔ひたるほどにて、酔ひ泣きいとになくす。帝、御袿ひとかさね、袴賜ふ。「ありとある上達部、御子たち、四位五位、これに物脱ぎて取らせざらむ者は、座より立ちね」と宣ひければ、片端より、上下みなかづけたれば、かづきあまりて、二間ばかり積みてぞ置きたりける。かくて、帰り給ふとて、南院の七郎君といふ人ありけり、それなむ、このうかれめの住むあたりに、家つくりて住むと聞こしめして、それになむ、宣ひあづけける。「かれが申さむこと、院に奏せよ。院より賜はせむ物も、かの七郎君がりつかはさむ。すべてかれにわびしきめな見せそ」と仰せ給うければ、常になむとぶらひかへりみける。
むかし、津の国にすむ女ありけり。
それをよばふ男ふたりなむありける。
ひとりはその国にすむ男、姓はうばらになむありける。
いまひとりは和泉国の人になむありける。
姓はちぬとなむいひける。
かくてその男ども、としよはひ、顔かたち、人のほど、ただおなじばかりなむありける。
「心ざしのまさらむにこそはあらめ」と思ふに、心ざしのほど、ただおなじやうなり。
暮るれはもろともに来あひ、物おこすればただおなじやうにおこす。
いづれまされりといふべくもあらず。
女思ひわづらひぬ。
この人の心ざしのおろかならば、いづれにもあふまじけれど、これもかれも、月日を経て家の門に立ちて、よろづに心ざしを見えければ、しわびぬ。
これよりもかれよりも、おなじやうにおこする物ども、とりもいれねど、いろいろにもちて立てり。
親ありて、「かく見苦しく年月を経て、人の嘆きをいたづらにおふもいとほし。ひとりひとりにあひなば、いまひとりが思ひは絶えなむ」といふに、女、「ここにもさ思ふに、人の心ざしのおなじやうなるになむ、思ひわづらひぬる。さらばいかがすべき」といふに、そのかみ、生田の川のつらに、女、平張りをうちてゐにけり。
かかれば、そのよばひ人どもを呼びにやりて、親のいふやう、「たれもみ心ざしのおなじやうなれば、このをさなき者なむ思ひわづらひにてはべる。今日いかにまれ、このことを定めてむ。あるは遠き所よりいまする人あり。あるはここながらそのいたつきかぎりなし。これもかれもいとほしきわざなり」といふ時に、いとかしこくよろこびあへり。
「申さむと思ひ給ふるやうは、この川に浮きてはべる水鳥を射給へ。それを射あて給へらむ人に奉らむ」といふ時に、「いとよきことなり」といひて射るほどに、ひとりは頭のかたを射つ。いまひとりは、尾のかたを射つ。
そのかみ、いづれといふべくもあらぬに、
♪237
すみわびぬ わが身投げてむ 津の国の
生田の川の 名のみなりけり
とよみて、この平張は川にのぞきてしたりければ、つぶりとおち入りぬ。
親、あはてさわぎののしるほどに、このよばふ男ふたり、やがておなじ所におち入りぬ。
ひとりは足をとらへ、いまひとりは手をとらへて死にけり。
そのかみ、親いみじくさわぎて、とりあげてなき、ののしりてはぶりす。
男どもの親も来にけり。
この女の塚のかたはらに、また塚どもつくりてほりうづむ時に、津の国の男の親いふやう、「おなじ国の男をこそ、おなじ所にはせめ。こと国の人の、いかでかこの国の土をばをかすべき」といひてさまたぐる時に、和泉の方の親、和泉国の土を舟に運びて、ここにもて来てなむ、つひにうづみてける。
されば、女の墓をばなかにて、左右になむ、男の墓ども今もあなる。
かかることどものむかしありけるを、絵にみな書きて、故后の宮に人の奉りたりければ、これがうへを、みな人々この人にかはりてよみける。
伊勢の御息所、男の心にて、
♪238
かげとのみ 水のしたにて あひ見れど
魂なきからは かひなかりけり
女になり給ひて、女一のみこ、
♪239
かぎりなく ふかくしづめる わが魂は
浮きたる人に 見えむものかは
また、宮、
♪240
いづこにか 魂をもとめむ わたつみの
ここかしことも おもほえなくに
兵衛の命婦、
♪241
つかのまも もろともにとぞ 契りける
あふとは人に 見えぬものから
糸所の別当、
♪242
かちまけも なくてや果てむ 君により
思ひくらぶの 山はこゆとも
生きたりしをりの女になりて、
♪243
あふことの かたみに恋ふる なよ竹の
たちわづらふと 聞くぞ悲しき
また、
♪244
身を投げて あはむと人に 契らねど
うき身は水に かげをならべつ
また、いまひとりの男になりて、
♪245
おなじえに すみはうれしき なかなれど
などわれとのみ 契らざりけむ
返し、女、
♪246
うかりける わがみなそこを おほかたは
かかる契りの なからましかば
また、ひとりの男になりて、
♪247
われとのみ 契らずながら おなじえに
すむはうれしき みぎはとぞ思ふ
さてこの男は、くれ竹のよ長きを切りて、狩衣、袴、烏帽子、帯とを入れて、弓、胡ぐひ、太刀など入れてぞうづみける。
いまひとりはおろかなる親にやありけむ、さもせずぞありける。
かの塚の名をばをとめ塚とぞいひける。
ある旅人、この塚のもとに宿りたりけるに、人のいさかひする音のしければ、あやしと思ひて、見せけれど、「さることもなし」といひければ、あやしと思ふ思ふねぶりたるに、血にまみれたる男、前に来てひざまづきて、「われ、かたきにせめられて、わびにてはべり。御はかし、しばしかし給はらむ。ねたき者のむくひしはべらむ」といふに、おそろしと思へどかしてけり。
さめて、夢にやあらむと思へど、太刀はまことにとらせてやりてける。
とばかり聞けば、いみじう、さきのごと、いさかふなり。
しばしありて、はじめの男来て、いみじうよろこびて、「御徳に年ごろねたき者うち殺しはべりぬ。いまよりはながき御まもりとなりはべるべき」とて、このことのはじめより語る。
いとむくつけしと思へど、めづらしきことなれば問ひ聞くほどに、夜もあけにければ、人もなし。
朝に見れば、塚のもとに血などなむ流れたりける。
太刀にも、血つきてなむありける。
いとうとましくおぼゆることなれど、人のいひけるままなり。
津の国の難波のわたりに家してすむ人ありけり。
あひ知りて年ごろありけり。
女も男も、いと下種にはあらざりけれど、年ごろわたらひなどもいとわろくなりて、家もこぼれ、使ふ人なども徳あるところにいきつつ、ただふたりすみわたるほどに、さすがに下種にもあらねば、人にやとはれ、使はれもせず、いとわびしかりけるままに、思ひわびて、ふたりいひけるやう、「なほいとかうわびしうては、えあらじ」、
男は、「かくはかなくてのみいますかめるを見捨てては、いづちもいづちも、えいくまじ」、
女も、「男を捨ててはいづちかいかむ」とのみいひわたりけるを、
男、「おのれは、とてもかくても経なむ。女のかく若きほどに、かくてあるなむ、いといほとしき。京にのぼり、宮仕へをもせよ。よろしきやうにもならば、われをもとぶらへ。おのれも人のごともならば、かならずたづねとぶらはむ」など泣く泣くいひ契りて、たよりの人にいひつきて、女は京に来けり。
さしはへいづこともなくて来たれば、このつきて来し人のもとにゐて、いとあはれ、と思ひやりけり。
前に荻すすき、いとおほかる所になむありける。
風など吹けるに、かの津の国を思ひやりて、「いかであらむ」など、悲しくてよみける。
♪248
ひとりして いかにせましと わびつれば
そよとも前の 荻ぞ答ふる
となむひとりごちける。
さて、とかう女さすらへて、ある人のやむごとなき所に宮たてたり。
さて宮仕へしありくほどに、装束清げにし、むつかしきことなどもなくてありければ、いと清げに顔かたちもなりにけり。
かかれど、かの津の国をかた時も忘れず、いとあはれと思ひやりけり。
たより人に、文つけてやりたりければ、さいふ人も聞こえず」など、いとはかなくいひつつ来けり。
わがむつまじう知れる人もなかりければ、心ともえやらず、いとおぼつかなく、「いかがあらむ」とのみ思ひやりけり。
かかるほどに、この宮仕へする所の北の方失せ給ひて、これかれある人を召し使ひ給ひなどする中に、この人を思う給ひけり。
思ひつきて、妻になりにけり。
思ふこともなく、めでたげにてゐたるに、ただ人知れず思ふことひとつなむありける。
「いかにしてあらむ。あやしうてやあらむ。よくてやあらむ。わがあり所もえ知らざらむ。人をやりてたづねさせむとすれど、うたてわが男聞きて、うたてあるさまにもこそあれ」と念じつつありわたるに、
なほいとあはれにおぼゆれば、男にいひけるやう、「津の国といふ所の、いとをかしかなるに、いかで難波に祓へしがてらまからむ」といひければ、「いとよきこと。われももろともに」といひければ、「そこにはなものし給ひそ。おのれひとりまからむ」といひて、いでたちていにけり。
難波に祓へして、かへりなむとする時に、「このわたりに見るべきことなむある」とて、「いますこし、とやれ、かくやれ」といひつつ、この車をやらせつ。
家のありしわたりを見るに、屋もなし人もなし。
「いづかたへいにけむ」と悲しう思ひけり。
かかる心ばへにて、ふりはへ来たれど、わがむつまじき従者もなし。
かかれば、たづねさすべき方もなし。
いとあはれなれば、車を立ててながむるに、ともの人は、「日暮れぬべし」とて、「御車うながしてむ」といふに、「しばし」といふところに、葦になひたる男のかたゐにやうなる姿なる、この車の前よりいきけり。
それが顔を見るに、その人といふべくもあらず、いみじきさまなれど、わが男に似たり。
これを見て、よく見まほしさに、「この葦もちたるをのこよばせよ。かの葦買はむ」といはせける。
さりければ、「ようなき物買ひ給ふ」とは思ひけれど、主の宣ふことなれば、よびて買はす。
「車のもと近く荷なひ寄せさせよ。見む」などいひて、この男の顔をよく見るに、それなりけり。
「いとあはれに、かかる物商ひて世に経る人いかならむ」といひて泣きければ、ともの人は、「なほ、おほかたの世をあはれがる」となむ思ひける。
かくて、「この葦の男に物など食はせよ。物いとおほく葦の値にとらせよ」といひければ、「すずろなる者に、なにか物おほくたばむ」など、ある人々いひければ、しひてもいひにくくて、「いかで物とらせむ」と思ふあひだに、下簾のはざまのあきたるより、この男まぼれば、わが妻に似たり。
あやしさに、心をとどめて見るに、「顔も声もそれなりける」と思ふに、思ひあはせて、わがさまのいといらなくなりたるを思ひけるに、いとはしたなくて、葦もうち捨てて走り逃げにけり。
「しばし」といはせけれど、人の家に逃げて入りて、竃のしりへにかがまりをりける。
この車より、「なほこの男、たづねて率て来」といひければ、ともの人、手をあかちて、もとめさわぎけり。
人、「そこなる家になむ侍りける」といへば、この男に、「かくおほせごとありて召すなり。なにの、うちひかせ給ふべきにもあらず。物をこそたまはせむとすれ。をさなき者なり」といふ時に、硯を乞ひて文を書く。それに、
♪249
君なくて あしかりけりと 思ふにも
いとど難波の 浦ぞすみ憂き
と書きて封じて、「これを御車に奉れ」といひければ、あやしと思ひてもて来て奉る。
あけて見るに、悲しきことものに似ず、よよとぞ泣きける。
さて返しはいかがしたりけむ、知らず。
(車に着たりける衣脱ぎて、つつみに文など書き具してやりける。さてなむかへりける。のちにはいかがなりにけむ、知らず。)
♪250
(あしからじ とてこそ人の わかれけめ
なにか難波の 浦もすみ憂き)
むかし、大和国、葛城の郡にすむ男女ありけり。
この女、顔かたちいと清らなり。
年ごろ思ひかはしてすむに、この女、いとわろくなりにければ、思ひわづらひて、かぎりなく思ひながら妻をまうけてけり。
この今の妻は、富みたる女になむありける。
ことに思はねど、いけばいみじういたはり、身の装束もいと清らにせさせけり。
かくにぎははしき所にならひて、来たれば、この女、いとわろげにてゐて、かくほかにありけど、さらにねたげにも見えずなどあれば、いとあはれと思ひけり。
心地にはかぎりなくねたく心憂く思ふを、しのぶるになむありける。
とどまりなむと思ふ夜も、なほ「いね」といひければ、わがかく歩きするをねたまで、ことわざするにやあらむ。
さるわざせずは、恨むることもありなむなど、心のうちに思ひけり。
さて、いでていくと見えて、前裁の中にかくれて、男や来ると、見れば、はしにいでゐて、月のいといみじうおもしろきに、かしらかいけづりなどしてをり。
夜ふくるまで寝ず、いといたううち嘆きてながめければ、「人待つなめり」と見るに、使ふ人の前なりけるにいひける。
♪251
風吹けば 沖つしらなみ たつた山
夜半にや君が ひとりこゆらむ
とよみければ、わがうへを思ふなりけりと思ふに、いと悲しうなりぬ。
この今の妻の家は、龍田山こえていく道になむありける。
かくてなほ見をりければ、この女、うち泣きてふして、かなまりに水を入れて、胸になむすゑたりける。
あやし、いかにするにかあらむとて、なほ見る。
さればこの水、熱湯にたぎりぬれば、湯ふてつ。また水を入る。
見るにいと悲しくて、走りいでて、「いかなる心地し給へば、かくはし給ふぞ」といひて、かき抱きてなむ寝にける。
かくてほかへもさらにいかで、つとゐにけり。
かくて月日おほく経て思ひやるやう、つれなき顔なれど、女の思ふこと、いといみじきことなりけるを、かくいかぬをいかに思ふらむと思ひいでて、ありし女のがりいきたりけり。
久しくいかざりければ、つつましくて立てりける。
さてかいまめば、われにはよくて見えしかど、いとあやしきさまなる衣を着て、大櫛を面櫛にさしかけてをり、手づから飯もりをりける。
いといみじと思ひて、来にけるままに、いかずなりにけり。
この男はおほきみなりけり。
昔、ならの帝につかうまつるうねべありけり。
顔かたちいみじう清らにて、人々よばひ、殿上人などもよばひけれど、あはざりけり。
そのあはぬ心は、帝をかぎりなくめでたきものになむ思ひ奉りける。
帝召してけり。
さてのち、またも召さざりければ、かぎりなく心憂しと思ひけり。
夜昼、心にかかりておぼえ給ひつつ、恋しう、わびしうおぼえ給ひけり。
帝は召ししかど、ことともおぼさず。
さすがに、つねには見え奉る。
なほ世に経まじき心地しければ、夜、みそかにいでて、猿澤の池に身を投げてけり。
かく投げつとも、帝はえしろしめさざりけるを、ことのついでありて、人の奏しければ、聞こし召してけり。
いといたうあはれがり給ひて、池のほとりにおほみゆきし給ひて、人々に歌よませ給ふ。
柿本人麻呂、
♪252
わぎもこが ねくたれ髪を 猿澤の
池の玉藻と 見るぞかなしき
とよめる時に、帝、
♪253
猿澤の 池もつらしな わぎもこが
玉藻かづかば 水ぞひなまし
と詠み給ひけり。
さて、この池に墓せさせ給ひてなむ、かへらせおはしましけるとなむ。
同じ帝、龍田川の紅葉、いとおもしろきを御覧じける日、人麻呂、
♪254
龍田川 もみぢ葉流る 神なびの
みむろの山に しぐれ降るらし
帝、
♪255
龍田川 もみぢ乱れて 流るめり
わたらば錦 なかや絶えなむ
とぞあそばしたりける。
同じ帝、狩いとかしこく好み給ひけり。
陸奥国、磐手の郡より奉れる御鷹、世になくかしこかりければ、になうおぼして御手鷹にし給ひけり。
名をば磐手となむつけ給へりける。
それを、かの道に心ありて、あづかりつかうまつりける大納言にあづけ給へりける。
夜昼、これをあづかりて、とりかひ給ふほどに、いかがし給ひけむ、そらし給ひてけり。
心ぎもをまどはしてもとむるに、さらにえ見いでず。
山々に人をやりつつ求めさすれど、さらになし。
みづからも深き山に入りて、まどひ歩き給へどかひもなし。
このことを奏せで、しばしもあるべけれど、二三日にあげず御覧ぜぬ日なし。
いかがせむとて、内にまゐりて、御鷹のうたせるよし奏し給ふ時に、帝、ものも宣はせず。
聞こし召しつけぬにやあらむとて、また奏し給ふに、おもてをのみまもらせ給うて、ものも宣はず。
たいだいしとおぼしたるなりけりと、われにもあらぬ心地して、かしこまりていますかりて、「この御鷹の、もとむるに、侍らぬことを、いかさまにかし侍らむ。などか仰せごとも給はぬ」と奏し給ふ時に、帝、
♪256
いはで思ふぞ いふにまされる
と宣ひけり。
かくのみ宣はせて、こと事も宣はざりけり。
御心にいといふかひなく、惜しくおぼさるるになむありける。
これをなむ、世の中の人、もとをばとかくつけける。もとはかくのみなむありける。
ならの帝、位におはしましける時、嵯峨の帝は坊におはしまして、詠みたてまつり給うける。
♪257
みな人の その香にめづる ふじばかま
君のみためと 手折りたる今日
帝、御返し、
♪258
折る人の 心にかよふ ふじばかま
むべ色ことに にほひたりけり
大和の国なるける人のむすめ、いと清らにてありけるを、京より来たりける男のかいまみて見けるに、いとをかしげなりければ、盗みてかき抱きて馬にうちのせて逃げていにけり。
いとあさましうおそろしう思ひけり。
日暮れて、龍田山に宿りぬ。
草の中にあふりをときしきて、女を抱きてふせり。
女、おそろしと思ふことかぎりなし。
わびしと思ひて、男のものいへど、いらへもせで泣きければ、男、
♪259
たがみそぎ ゆふつけどりか 唐衣
たつたの山に をりはへてなく
女、返し、
♪260
龍田川 岩根をさして ゆく水の
ゆくへも知らぬ わがごとやなく
とよみて死にけり。
いとあさましうてなむ、男抱きもちて泣きける。
昔、大納言の、娘いとうつくしうて持ち給うたりけるを、帝に奉らむとてかしづき給ひけるを、殿に近う仕うまつりける内舎人にてありける人、いかでか見けむ、この娘を見てけり。
顔かたち、いとうつくしげなるを見て、よろづのことおぼえず、心にかかりて、夜昼いとわびしく、病になりておぼえければ、「せちに聞こえさすべきことなむある」と言ひわたりければ、「あやし、なにごとぞ」と言ひて出でたりけるを、さる心まうけして、ゆくりなくかき抱きて、馬に乗せて、陸奥国へ、夜ともいはず、昼ともいはず、逃げて往にけり。
安積の郡、安積山といふ所に庵を作りて、この女をすゑて、里に出でて物などは求めて来つつ食はせて、年月を経てありへけり。
この男往ぬれば、ただひとり物も食はで山中にゐたれば、かぎりなくわびしかりけり。
かかるほどに、はらみにけり。この男、物求めに出でにけるままに、三四日来ざりければ、待ちわびて立ち出でて、山の井に行きて影を見れば、わがありしかたちにもあらず、あやしきやうになりにけり。
鏡もなければ、顔のなりたらむやうも知らでありけるに、にはかに見れば、いと恐ろしげなりたりけるを、いとはづかしと思ひけり。
さて、よみたりける。
♪261
あさか山 影さへ見ゆる 山の井の
浅くは人を 思ふものかは
とよみて、木に書きつけて、庵に来て死にけり。
男、物など求めて持て来て、死にて臥せりければ、いとあさましと思ひけり。
山の井なりける歌を見て帰り来て、これを思ひ死にに、かたはらに臥せりて死にけり。
世の古ごとになむありける。
信濃国に更級といふ所に、男住みけり。
若き時に、親は死にければ、をばなむ親のごとくに、若くより添ひてあるに、この妻の心憂きこと多くて、この姑の、老いかがまりてゐたるを、常に憎みつつ、男にもこのをばの御心のさがなくあしきことを言ひ聞かせければ、昔のごとくにもあらず、おろかなること多く、このをばのためになりゆきけり。
このをば、いといたう老いて、二重にてゐたり。
これをなほ、この嫁、所狭がりて、今まで死なぬことと思ひて、よからぬことを言ひつつ、「持ていまして、深き山に捨てたうびてよ」とのみ責めければ、責められわびて、さしてむと思ひなりぬ。
月のいと明かき夜、「嫗ども、いざたまへ。寺に尊きわざすなる、見せ奉らむ」と言ひければ、限りなく喜びて負はれにけり。
高き山のふもとに住みければ、その山にはるはると入りて、高き山の峰の、降り来べくもあらぬに置きて逃げて来ぬ。
「やや」と言へど、いらへもせで、逃げて家に来て思ひをるに、言ひ腹立てけるをりは、腹立ちてかくしつれど、年ごろ親のごと養ひつつ相添ひにければ、いと悲しくおぼえけり。
この山の上より、月もいと限りなく明かく出でたるを眺めて、夜一夜、いも寝られず、悲しうおぼえければ、かく詠みたりける。
♪262
わが心 なぐさめかねつ 更級や
姥捨山に 照る月を見て
と詠みてなむ、また行きて迎へ持て来にける。
それより後なむ、姥捨山と言ひける。
「慰めがたし」とは、これが由になむありける。
下野国に男女すみわたりけり。
年ごろすみけるほどに、男、妻まうけて心かはりはてて、この家にありける物どもを、今の妻のがりかきはらひもてはこびいく。
心憂しと思へど、なほまかせて見けり。
ちりばかりの物も残さず、みなもていぬ。
ただ残りたる物は馬ぶねのみなむありける。
それを、この男の従者、まかぢといひける童使ひけるして、このふねをさへとりにおこせたり。
この童に女のいひける、「きむぢも今はここに見えじかし」などいひければ、「などてか、さぶらはざらむ。ぬし、おはせずともさぶらひなむ」などいひ、立てり。
女、「ぬしに消息聞こえば申してむや。文はよに見給はじ。ただことばにて申せよ」といひければ、「いとよく申してむ」といひければ、かくいひける。「
♪263
ふねもいぬ まかぢも見えじ 今日よりは
うき世の中を いかでわたらむ
と申せ」といひければ、男にいひければ、物かきふるひいにし男なむ、しかながらはこびかへして、もとのごとくあからめもせで添ひゐにける。
大和の国に、男女ありけり。
年月かぎりなく思ひてすみけるを、いかがしけむ、女を得てけり。
なほもあらず、この家に率て来て、壁を隔ててすゑて、わが方にはさらに寄り来ず。
いと憂しと思へど、さらに言ひもねたまず。
秋の夜の長きに、目をさまして聞けば、鹿なむ鳴きける。ものも言はで聞きけり。
壁を隔てたる男、「聞き給ふや、西こそ」と言ひければ、「なにごと」と答へければ、「この鹿の鳴くは聞きたうぶや」と言ひければ、「さ聞き侍り」といらへけり。
男、「さて、それをばいかが聞き給ふ」と言ひければ、女、ふといらへけり。
♪264
われもしか なきてぞ人に 恋ひられし
今こそよそに 声をのみ聞け
とよみたりければ、かぎりなくめでて、この今の妻をば送りて、もとのごとなむすみわたりける。
染殿の内侍といふいますかりけり。
それを能有の大臣と申すなむ、ときどきすみ給ひける。
ものをよくし給ひければ、御衣どもをなむあづけさせ給ひけるに、綾どもをおほくつかはしたりければ、「雲鳥の紋の綾をや染むべき」と聞こえたりしを、ともかくも宣はせねば、「えなむつかうまつらぬ。さだめ承はらむ」と申し奉りければ、大臣の御返しに、
♪265
雲鳥の あやの色をも おもほえず
人をあひ見で 年の経ぬれば
となむ宣へりける。
同じ内侍に、在中将すみける時、中将のもとによみてやりける。
♪266
秋萩を 色どる風の 吹きぬれば
人の心も うたがはれけり
とありければ、
♪267
秋の野を 色どる風は 吹きぬとも
心はかれじ 草葉ならねば
となむいへりける。
かくてすまずなりてのち、中将のもとより、衣をなむ、しにおこせたりける。
それに、「あらはひなどする人なくて、いとわびしくなむある。なほかならずして給へ」となむありければ、内侍、「御心もてあることにこそはあなれ。
♪268
大幣に なりぬ人の 悲しきは
よるせともなく しかぞなくなる
」となむいひやりける。中将、
♪269
なかるとも なにとか見えむ 手にとりて
ひきけむ人ぞ 幣と知るらむ
となむいひける。
在中将、二条の后の宮、まだ帝にもつかうまつり給はで、ただ人におはしける世に、よばひ奉りける時、ひじきといふ物をおこせて、かくなむ、
♪270
思ひあらば むぐらの宿に 寝もしなむ
ひじき物には 袖をしつつも
となむ宣へりける。返しを人なむ忘れにける。
さて、后の宮、春宮の女御と聞こえて大原野にまうでたまひけり。
御ともに上達部、殿上人、いとおほくつかうまつりけり。
在中将もつかうまつれり。
御車のあたりに、なま暗きをりに立てりけり。
御社にて、おほかたの人々禄たまはりてのちなりけり。
御車のしりより、奉れる御単衣の御衣をかづけさせたまへりけり。
在中将、たまはるままに、
♪271
大原や 小塩の山も 今日こそは
神代のことを おもひいづらめ
と、しのびやかにいひけり。
むかしをおぼしいでて、をかしとおぼしける。
また、在中将、内にさぶらふに、御息所の御方より、忘れ草をなむ、「これはなにとかいふ」とて給へりければ、中将、
♪272
忘れ草 生ふる野辺とは 見るらめど
こはしのぶなり のちも頼まむ
となむありける。
おなじ草を忍ぶ草、忘れ草といへば、それによりなむ、よみたりける。
在中将に、后の宮より菊を召しければ、奉りけるついでに、
♪273
植ゑし植ゑば 秋なき時や 咲かざらむ
花こそ散らめ 根さへ枯れめや
と書いつけて奉りける。
在中将のもとに、人のかざりちまきおこせたりける返しに、かくいひやりける。
♪274
あやめ刈り 君は沼にぞ まどひける
われは野にいで てかるぞわびしき
とて、雉をなむやりける。
水尾の帝の御時、左大弁のむすめ、弁の御息所とていますかりけるを、帝御ぐしおろしたまうてのちにひとりいますかりけるを、在中将しのびて通ひけり。
中将、病いとおもくしてわづらひけるを、もとの妻どももあり、これはいとしのびてあることなれば、え行きもとぶらひ給はず、しのびしのびになむとぶらひけること日々にありけり。
さるに、とはぬ日なむありけるに、病もいとおもりて、その日になりにけり。
中将のもとより、
♪275
つれづれと いとど心の わびしきに
けふはとはずて 暮らしてむとや
とておこせたり。
「よはくなりにたり」とて、いといたく泣きさわぎて、返りごとなどもせむとするほどに、「死にけり」と聞きて、いといみじかりけり。
死なむとすること、今々となりてよみたりける。
♪276
つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど
きのふけふとは 思はざりしを
と詠みてなむ絶えはてにける。
在中将、物見にいでて、女のよしある車のもとに立ちぬ。
下簾のはさまより、この女の顔いとよく見てけり。
ものなどいひかはしけり。
これもかれもかへりて、朝によみてやりける。
♪277
見ずもあらず 見もせぬ人の 恋しきは
あやなく今日や ながめ暮らさむ
とあれば、女、返し、
♪278
見も見ずも たれと知りてか 恋ひらるる
おぼつかなみの 今日のながめや
とぞいへりける。
これらは物語にて世にあることどもなり。
男、女の衣を借り着て、今の妻のがりいきて、さらに見えず。
この衣をみな着破りて、返しおこすとて、それに、雉、雁、鴨をくはへておこす。
人の国にいたづらに見えける物どもなりけり。
さりける時に、女、かくいひやりける。
♪279
いなやきじ 人にならせる かりごろも
わが身にふれば 憂きかもぞつく
深草の帝と申しける御時、良少将といふ人、いみじき時にてありける。
いと色好みになむありける。
しのびてときどきあひける女、おなじ内にありけり。
「今宵かならずあはむ」と契りたりける夜ありけり。
女いたう化粧して待つに、音もせず。
目をさまして、夜や更けぬらむと思ふほどに、時申す音のしければ、聞くに、「丑三つ」と申しけるを聞きて、男のもとに、ふと言ひやりける。
♪280
人心 うしみつ今は 頼まじよ
といひやりけるに、おどろきて、
♪280-2
夢に見ゆやと ねぞすぎにける
とぞつけてやりける。
しばしと思ひて、うちやすみけるほどに、寝過ぎにたるになむありける。
かくて世にも労あるものにおぼえ、つかうまつる帝、かぎりなくおぼされてあるほどに、この帝、うせ給ひぬ。
御葬の夜、御供にみな人つかうまつりけるなかに、その夜より、この少将うせにけり。
友だち、妻も、いかならむとて、しばしはここかしこもとむれども、音耳にも聞こえず。
法師にやなりにけむ。身をや投げてけむ。
法師になりたらば、さてなむあるとも聞こえなむ、なほ身を投げたるなるべしと思ふに、世の中にもいみじうあはれがり、妻子どおはさらにもいはず、夜昼精進潔斎して、世間の仏神に願を立てまどへど、音にも聞こえず。
妻は三人なむありけるを、よろしく思ひけるには、「なほ世に経じとなむ思ふ」と二人には言ひけり。
かぎりなく思ひて子供などあるには、ちりばかりもさるけしきも見せざりけり。このことをかけてもいはば、女も、いみじと思ふべし。
われも、えかくなるまじき心地のしければ、寄りだに来で、にはかになむ失せにける。
ともかくもなれ、「かくなむ思ふ」ともいはざりけることのいみじきことを思ひつつ泣きいられて、初瀬の御寺にこの妻まうでにけり。
この少将は法師になりて、蓑ひとつをうち着て、世間世界を行ひありきて、初瀬の御寺に行ふほどになむありける。
局近うゐて行へば、この女、導師にいふやう、「この人かくなりにたるを、生きてこの世にあるものならば、いまひとたびあひ見せ給へ。身を投げ死にたるものならば、その道なし給へ。さてなむ死にたりとも、この人のあらむやうを、夢にてもうつつにても、聞き見せ給へ」といひて、わが装束、上下、帯、太刀まで、みな誦経にしけり。
みづからも申しもやらず泣きけり。
はじめは、「なに人のまうでたるらむ」と聞きゐたるに、わが上をかく申しつつ、わが装束などをかく誦経するを見るに、心も肝もなく、悲しきこと、ものに似ず。
走りやいでなまし、と千たび思ひけれども、思ひかへし思ひかへしゐて、夜ひと夜泣きあかしけり。
わが妻子どもの泣く泣く申す声どもも聞こゆ。
いといみじき心地しけり。
されど念じて泣きあかして、朝に見れば、蓑もなにも涙のかかりたる所は、血の涙にてなむありける。
「いみじう泣けば、血の涙といふものはるものになむありける」とぞいひける。
「その折なむ走りもいでぬべき心地せし」とぞ、後にいひける。
かかれどなほえ聞かず。
御はてになりて、御ぶくぬぎに、よろづの殿上人川原にいでたるに、童のことやうなるなむ、柏に書きたる文をもて来たる。とりて見れば、
♪281
みな人は 花の衣に なりぬなり
苔のたもとよ かはきだにせよ
とありければ、この良少将の手に見なしつ。
「いづら」といひて、もて来し人を世界にもとむれど、なし。
法師になりたるべしとは、これにてなむみな人知りにける。
されど、いづくにかあらむといふこと、さらにえ知らず。
かくて世の中にありけりといふことを聞こし召して、五条の后の宮より、内舎人を御使にて、山々たづねさせ給ひける。
「ここにあり」と聞きて、いけば失せぬ。「かしこにはあり」と聞きてたづぬれば失せぬ。えあはず。
からうじて、かくれたる所にゆくりもなくいにけり。
えかくれあへであひにけり。
「宮より御使になむまゐり来つる」とて、「おほせごとには、『かう、帝もおはしまさず、むつまじくおぼしめしし人をかたみと思ふべきに、かく世に失せかくれ給ひにたれば、いとなむ悲しき。などか山林に行ひ給ふとも、ここにだに消息も宣はぬ。御里とありし所にも、音もし給はざなれば、いとあはれになむ泣きわぶる。いかなる御心にて、かうはものし給ふらむと聞こえよ』とてなむおほせられつる。ここかしこたづね奉りてなむ、まゐり来つる」といふ。
少将大徳うち泣きて、「おほせごと、かしこまりて承りぬ。帝かくれた舞うて、かしこき御蔭にならひて、おはしまさぬ世に、しばしもありふべき心地もしはべらざりしかば、かかる山の末にこもりはべりて、死なむを期にてと思ひ給ふるを、まだなむかくあやしきことは生きめぐらひはべる。いともかしこくとはせ給へること。わらはべの侍ることは、さらに忘れ侍る時も侍らず」とて、「
♪282
かぎりなき 雲ゐのよそに わかるとも
人を心に おくらさめやは
となむ申しつると啓し給へ」といひける。
この大徳の顔かたち、姿を見るに、悲しきことものにも似ず。
その人にもあらず、影のごとになりて、ただ蓑をのみなむ着たりける。
少将にてありし時のさまの、いと清げなりしを思ひいでて、涙もとどまらざりけり。
悲しとても、かた時のゐるべくもあらぬ山の奥なりければ、泣く泣く、「さらば」といひてかへり来て、この大徳たづねいでて、ありつるよしを、上のくだり啓せさせてけり。
后の宮も、いといたう泣き給ふ。
さぶらふ人々も、いらなくなむ泣きあはれがりける。
宮の御返りも、人々の消息も、いひつけてまたやれりければ、ありし所にもまたなくなりにけり。
小野小町といふ人、正月に清水にまうでにけり。
行ひなどして聞くに、あやしうたうとき法師の声にて読経し陀羅尼経読む。
この小野小町あやしがりて、つれなきやうにて人をやりて見せければ、「蓑ひとつを着たる法師、腰に火打笥など結ひつけたるなむ、隅にゐたる」といひけり。
かくてなほ聞くに、声いとたうとくめでたう聞こゆれば、ただなる人にはよにあらじ。
もし少将大徳にやあらむと思ひにけり。
いかがいふとて、「この御寺になむ侍る。いと寒きに、御衣ひとつしばし貸し給へ」とて、
♪283
岩のうへに 旅寝をすれば いと寒し
苔の衣を われにかさなむ
といひやりける返りごとに、
♪284
世をそむく 苔の衣は ただひとへ
かさねばうとし いざふたり寝む
といひたるに、さらに少将なりけりと思ひて、ただにも語らひし仲なれば、あひてものもいはむと思ひていきたれば、かい消つやうにうせにけり。
ひと寺もとめさすれど、さらに逃げてうせにけり。
かくてうせにける大徳なむ僧正までなりて、花山といふ御寺にすみ給ひける。
俗にいますかりける時の子どもありけり。
太郎、左近将監にて殿上してありける。
かく世にいますかると聞く時だにとて、母もやりければ、いきたりければ、「法師の子は法師なるぞよき」とて、これも法師になしてけり。
かくてなむ、
♪285
折りつれば たぶさにけがる たてながら
三世の仏に 花たまつる
といふも、僧正の御歌になむありける。
この子をおしなしたうびける大徳は、心にもあらでなりたりければ、親にも似ず、京にも通ひてなむしありきける。
この大徳の親族なりける人のむすめの、内に奉らむとてかしづきけるを、みそかに語らひけり。
親聞きつけて、男をも女をもすげなくいみじういひて、この大徳を呼び寄せずなりにければ、山に坊してゐて、言の通ひも、えせざりけり。
いと久しうありて、このさわがれし女の兄どもなどなむ、人のわざしに山にのぼりたりける。
この大徳のすむ所にきて、物語りなどしてうちやすみたりけるに、衣のくびに書き付けける。
♪286
白雲の やどる峰にぞ おくれぬる
思ひのほかに ある世なりけり
と書きたりけるを、この兄の兵衛の尉はえ知らで京へいぬ。
いもうとを見つけて、あはれとや思ひけむ。
これは僧都になりて、京極の僧都といひてなむいますかりける。
むかし、内舎人なりける人、おほうわの御幣使に、大和国に下りけり。
井手といふわたりに、清げなる人の家より、女どもわらはべいで来て、このいく人を見る。
きたなげなき女、いとをかしげなる子を抱きて、門のもとに立てり。
この児の顔のいとをかしげなりければ、目をとどめて、「その子、こち率て来」といひければ、この女寄り来たり。
近くて見るに、いとをかしげなりければ、「ゆめ、こと男したまふな。われにあひたまへ。おほきになりたまはむほどにまゐり来む」といひて、「これをかたみにしたまへ」とて、帯をときてとらせけり。
さて、この子のしたりける帯をときてとりて、もたりける文にひき結ひてもたせていぬ。
この子、とし六、七ばかりありけり。
この男、色好みなりける人なれば、いふになむありける。
これをこの子は忘れず思ひもたりけり。
男ははやう忘れにけり。
かくて七、八年ばかりありて、また、おなじ使にさされて大和へいくとて、井手のわたりに宿りゐて見れば、前に井なむありける。
それに水くむ女どもあるがいふやう、(以降切断)
伊衡の宰相、中将にものし給ひける時、故式部卿の宮の別当し給ひければ、常にまゐりなれば、御たちも語らひ給ひける。
その君、内よりまかで給ひけるままに、風になむあひ給うてわづらひ給ひける。
とぶらひに薬の酒、肴など調じて、兵衛の命婦なむやり給ひける。
その返りごとに、「いとうれしうとひ給へること。あさましう、かかる病もつくものになむありける」とて、
♪287
青柳の 糸ならねども 春風の
吹けばかたよる わが身なりけり
とあれば、兵衛の命婦、返し、
♪288
いささめに 吹く風にやは なびくべき
野分すぐしし 君にやはあらぬ
いまの左大臣、少将にものし給うける時、式部卿の宮につねにまゐり給ひけり。
かの宮に大和といふ人さぶらひけるを、ものなど宣ひければ、いとわりなく色好む人にて、女、いとをかしうめでたしと思ひけり。
されどつねにあふことかたかりけり。大和、
♪289
人知れぬ 心のうちに もゆる火は
煙もたたで くゆりこそすれ
といひやりければ、返し、
♪290
富士の嶺の 絶えぬ思ひも あるものを
くゆるはつらき 心なりけり
とありけり。
かくて久しうまゐり給はざりけるころ、女いといたう待ちわびにけり。
いかなる心地しければかさるわざしけむ、人にも知らせで車に乗りて内にまゐりにけり。
左衛門の陣に車を立てて、わたる人を呼びよせて、「いかで少将の君にもの聞こえむ」といひければ、「あやしきことかな。たれと聞こゆる人の、かかることはし給ふぞ」などいひすさびて入りぬ。
またわたればおなじこといへば、「いま殿上などにやおはしますらむ。いかでか聞こえむ」などいひて入りぬる人あり。
うへのきぬ着たる者の入りけるを、しひて呼びければ、あやしと思ひて来たりけり。
「少将の君やおはします」と問ひけり。
「おはします」といひければ、「いとせちに聞こえさすべきことありて、殿より人なむまゐりたると、聞こえ給へ」とありければ、「いとやすきことなり。そもそもかく聞こえつぎたらむ人をば忘れ給ふまじや。いとあはれに、夜ふけて、人ずくなにてものし給ふかな」といひて入りて、いと久しかりければ、無期に待ち立てりける。
からうじて、「これもいひつがでやいでぬらむ。いかさまにせむ」と思ふほとになむいで来たりける。
さていふやう、「御前に御遊びなどし給へるを、からうじてなむ聞こえつれば、『たがものし給ふならむ。いとあやしきこと。たしかに問ひ奉りて来』となむ宣ひつる」といへば、「しんじちには、下つ方よりなり。みづから聞こえむとを聞こえ給へ」といひければ、「さなむ申す」と聞こえければ、さにやあらむと思ふに、いとあやしうもをかしうもおぼえ給ひけり。
「しばし」といはせて、立ちいでて、広幡の中納言の、侍従にものし給ひける時、「かかることなむあるを、いかがすべき」とたばかり給ひけり。
さて左衛門の陣に、宿直所なる屏風、畳などもていきて、そこになむおろい給ひける。
「いかでかくは」と宣ひければ、「なにかは。いとあさましう、もののおぼゆれば、
(以下切断。【群書類従では(以下欠)で172段に続く。以下の加筆部分はない】)
(細字で加筆「後撰集 あつよしのみこの家にやまとといふ人に、左大臣、
♪
今さらに 思ひいでじと しのぶるを
こひしきにこそ わすれわびぬれ」)
亭子の帝、石山につねにまうで給ひけり。
国の司、「民疲れ、国ほろびぬべし」となむわぶると聞こし召して、こと国々の御庄などにおほせごと給ひければ、もてはこびて、御まうけをつかうまつりて、まうで給ひけり。
近江守、「いかに聞こし召したるにかあらむ」と、嘆きおそれて、また、「むげにさてすぐし奉りてむや」とて、かへらせ給ふ打出の浜に、世のつねならずめでたき仮屋どもを作りて、菊の花のおもしろきを植ゑて御まうけをつかうまつれりけり。
国の守も、おぢおそれて、ほかにかくれをりて、ただ黒主をなむすゑおきたりける。
おはしましすぐるほどに、殿上人、「黒主はなどてさてはさぶらふぞ」と問ひけり。
院も御車おさへさせ給ひて、「なにしにここにはあるぞ」と問はせ給ひければ、人々問ひけるに申しける。
♪291
ささら浪 まもなく岸を 洗ふめり
なぎさ清くは 君とまれとか
とよめりければ、これにめで給うてなむとまりて、人々に物給ひてかへらせ給ひける。
良岑宗貞少将、ものへゆく道に、五条わたりにて、雨いたう降りければ、荒れたる門に立ち隠れて見入るれば、五間ばかりなる檜皮屋のしもに、土屋倉などあれど、ことに人など見えず。
歩み入りて見れば、階の間に梅いとをかしう咲きたり。鴬も鳴く。
人ありとも見えぬ御簾の内より、薄色の衣、濃き衣上に着て、丈だちいとよきほどなる人の、髪、丈ばかりならむと見ゆるが、
♪292
蓬生ひて 荒れたる宿を 鴬の
人来と鳴くや たれとか待たむ
と独りごつ。少将、
♪293
来たれども 言ひしなれねば 鴬の
君に告げよと 教へてぞ鳴く
と、声をかしうて言へば、女おどろきて、人もなしと思ひつるに、ものしきさまを見えぬることと思ひて、ものも言はずなりぬ。
男、縁にのぼりて居ぬ。「などかものも宣はぬ。雨のわりなく侍りつれば、止むまではかくてなむ」と言へば、「大路よりは漏りまさりてなむ。ここはなかなか」といらへけり。
時は正月十日のほどなりけり。
簾の内よりしとねさし出でたり。引き寄せて居ぬ。
簾も、へりは蝙蝠に食はれて、ところどころなし。
内のしつらひ見入るれば、昔おぼえて、畳などよかりけれど、口惜しくなりにけり。
日もやうやう暮れぬれば、やをらすべり入りて、この人を奥にも入れず。
女、くやしと思へど、制すべきやうもなくて、言ふかひもなし。
雨は夜一夜降り明かして、またのつとめてぞ少し空晴れたる。
男は、女の入らむとするを、「ただかくて」とて入れず。
日も高うなれば、この女の親、少将にあるじすべき方のなかりければ、小舎人童ばかりとどめたりけるに、固い塩、肴にして、酒を飲ませて、少将には広き庭に生ひたる菜を摘みて、蒸し物といふものにして、ちやう椀に盛りて、箸には梅の花の盛りなるを折りて、その花びらに、いとをかしげなる女の手にて、かく書けり。
♪294
君がため 衣の裾を ぬらしつつ
春の野に出でて つめる若菜ぞ
男、これを見るにいとあはれにおぼえて、引き寄せて食ふ。
女、わりなう恥づかしと思ひて、臥したり。
少将起きて、小舎人童を走らせて、すなはち、車にて、まめなる物、さまざまに持て来たり。
「迎へに人あれば、今またも参り来む」とて、出でぬ。
それより後、絶えずみづからも来とぶらひけり。
よろづのもの食へども、なほ五条にてありしものは、めづらしうめでたかりき、と思ひ出でける。
年月を経て、つかうまつりし君に、少将おくれ奉りて、かはらむ世を見じと思ひて、法師になりにけり。
もとの人のもとに、袈裟あらひにやるとて、
♪295
霜雪の ふる屋のもとに ひとり寝の
うつぶしぞめの あさのけさなり
となむありける。