平家物語 巻第一 清水炎上:概要と原文

額打論 平家物語
巻第一
清水(寺)炎上
きよみず(でら)えんじょう
東宮立

〔概要〕
 
 延暦寺(京都・滋賀)は興福寺(奈良)の末寺の清水寺(京都)に放火。
「山門の大衆、すずろなる清水寺に押し寄せて、仏閣僧坊一宇も残さず焼き払ふ」(以上丸括弧以外Wikipedia「平家物語の内容」から引用)

 


 
 山門の大衆、狼藉をいたさば手向ひすべき所に、心深う狙ふ方もやありけん、一言も出ださず。帝隠れさせ給ひて後は、心なき草木までも、みな愁へたる色にこそあるべきに、この騒動のあさましさに高きも賤しきも、肝魂を失つて、四方へ皆退散す。
 

 同じき二十九日の午の刻ばかり、山門の大衆おびたたしう下落すと聞こえしかば、武士、検非違使、西坂本に行き向つて防ぎけれども、事ともせず、押し破つて乱入す。また何者の申し出だしたりけるやらん、「一院、山門の大衆に仰せて、平家追討せらるべし」と聞こえしかば、軍兵内裏に参じて四方の陣頭を警護す。平氏の一類、皆六波羅に馳せ参る。一院も急ぎ六波羅へ御幸なる。清盛公その時はいまだ大納言にておはしけるが、大きに恐れ騒がれけり。
 小松殿、「何によつてか、ただ今さる御事候ふべき」と鎮め申されけれども、兵ども騒ぎののしる事おびたたし。山門の大衆六波羅へは寄せずして、そぞろなる清水寺に押し寄せて、仏閣僧房一宇も残さず焼き払ふ。これは去んぬる御葬送の夜の会稽の恥を雪めんがためとぞ聞こえし。清水寺は興福寺の末寺たるによつてなり。
 清水寺焼けたりける朝、「や、観音火坑変成池はいかに」と、札に書いて、大門の前にたてたりけば、次の日また、「歴劫不思議力及ばず」と、返しの札をぞ打つたりける。
 

 衆徒かへり上りければ、一院も急ぎ六波羅より還御なる。重盛卿ばかりぞ、御送りには参られける。父の卿は参られず。なほ用心の為めかとぞ見えし。
 重盛卿、御送りより帰られたりければ、父の大納言宣ひけるは、「さても一院の御幸こそ大きに恐れおぼゆれ。かねても思し召しより、仰せらるる旨のあればこそ、かうは聞こゆらめ。それにも打ち解け給ふまじ」と宣へば、
 重盛卿申されけるは、「この事ゆめゆめ御気色にも、御言葉にも出ださせ給ふべからず。人に心つけ顔に、なかなか悪しき御事なり。これにつけても、よくよく叡慮にそむかせ給はで、人のために御情をほどこさせましまさば、神明三宝加護あるべし。さらんにとつては、御身の恐れ候ふまじ」とて立たれければ、
 「重盛卿はゆゆしうおほやうなるものかな」とぞ、父の卿も宣ひける。
 一院還御の後、御前にうとからぬ近習者達あまた候はれけるに、「さても不思議の事を申し出だしたるものかな。つゆも思し召しよらぬものを」と仰せければ、院中のきり者に西光法師といふ者あり。折節御前近う候ひけるが、進み出でて、「『天に口なし、人をもつて言はせよ』と申す。平家もつてのほかに過分に候ふ間、天の御いましめにや」とぞ申しける。
 人々、「このこと由なし。壁に耳有り。恐ろし恐ろし」とぞ、各申しあはれける。
 

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巻第一
清水(寺)炎上
きよみず(でら)えんじょう
東宮立