源氏物語 49帖 宿木:あらすじ・目次・原文対訳

早蕨 源氏物語
第三部
第49帖
宿木
東屋

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 宿木(やどりぎ)のあらすじ

 薫25歳の春から26歳の夏にかけての話。

 今の帝〔源氏の異母兄(朱雀帝)の子〕は、裳着の式を控えていたが直前に母女御を亡くし、後見人もいない女二宮を託したい旨を薫〔源氏の妻から生まれた柏木の子〕に告げるが、亡き大君を忘れかねる薫は気が進まないながら承諾する。彼は女二宮の暮らす藤壺へと婿として通うようになるも、渋々通う様子に周囲はどうしたのかと訝しがる。薫は帝に「宮様を私の三条の屋敷にお迎えしたいのですが…」と切り出す。 これを知った夕霧〔源氏と葵の子〕は、娘の六の君匂宮〔今上帝の三宮〕と縁組ませることにした。

 八月十六日が婚儀の日と決まった。このことは、匂宮に迎えられ今は京の二条院に住む中君〔大君の妹〕にとって大変な衝撃だった。五月頃に懐妊し体調の悪い状態が続くが、経験に乏しい匂宮はそれに気づかず、中君は心さびしい日々が続く。訪れた後見人の薫に宇治に帰りたいと心内を漏らすが、諌められる。

 気のすすまぬまま夕霧の婿となった匂宮だが、六の君の美しさのとりこになり、中君には次第に夜離れ(よがれ)が多くなる。こんなときには何かと相談相手になり慰めてくれるのは薫だったが、その同情はしだいに中君への慕情に変わっていった。ついにある夜、薫は思いを打ち明けて近づくが、懐妊の身の中君がいとおしくなり自制した。帰邸した匂宮は、中君に薫の移り香がするのを怪しみ、中君を問い詰めようとする。中君は薫の気持ちをそらそうとして、亡き大君に似た異母妹の浮舟〔読者による通称〕がいることを薫に教えた。匂宮は次第に中君のもとにいることが多くなった。

 翌年二月、中君は無事男児を出産、薫は権大納言兼右大将に昇進し女二宮と結婚した。女二宮は三条宮で暮らすようになる。四月下旬、宇治を訪ねた薫は偶然、初瀬詣で(長谷寺参詣)の帰路に宇治の邸に立ち寄った浮舟一行と出会い、垣間見た浮舟が亡き大君に似ていることに驚き、弁の尼に仲立ちを願い出た。

(以上Wikipedia宿木より。色づけと下線と〔〕は本ページ)
 
目次
和歌抜粋内訳#宿木(24首:別ページ)
主要登場人物
 
第49帖 宿木(やどりぎ)
 薫君の中、大納言時代
 二十四歳夏から
 二十六歳夏四月頃までの物語
 
第一章 薫と匂宮 女二の宮や六の君との結婚話
第二章 中君 不安な思いと薫の同情
第三章 中君 匂宮と六の君の婚儀
第四章 薫 中君に同情しながら恋慕の情高まる
第五章 中君 薫の後見に感謝しつつも苦悩す
第六章 薫 中君から異母妹の浮舟の存在を聞く
第七章 薫 宇治を訪問し弁の尼から浮舟の詳細について聞く
第八章 薫 女二の宮、薫の三条宮邸に降嫁
第九章 薫 宇治で浮舟に出逢う
 
 
第一章 薫と匂宮の物語
 女二の宮や六の君との結婚話
 第一段 藤壺女御と女二の宮
 第二段 藤壺女御の死去と女二の宮の将来
 第三段 帝、女二の宮を薫に降嫁させようと考える
 第四段 帝、女二の宮や薫と碁を打つ
 第五段 夕霧、匂宮を六の君の婿にと願う
 
第二章 中君の物語
 中君の不安な思いと薫の同情
 第一段 匂宮の婚約と中君の不安な心境
 第二段 中君、匂宮の子を懐妊
 第三段 薫、中君に同情しつつ恋慕す
 第四段 薫、亡き大君を追憶す
 第五段 薫、二条院の中君を訪問
 第六段 薫、中君と語らう
 第七段 薫、源氏の死を語り、亡き大君を追憶
 第八段 薫と中君の故里の宇治を思う
 第九段 薫、二条院を退出して帰宅
 
第三章 中君の物語
 匂宮と六の君の婚儀
 第一段 匂宮と六の君の婚儀
 第二段 中君の不安な心境
 第三段 匂宮、六の君に後朝の文を書く
 第四段 匂宮、中君を慰める
 第五段 後朝の使者と中君の諦観
 第六段 匂宮と六の君の結婚第二夜
 第七段 匂宮と六の君の結婚第三夜の宴
 
第四章 薫の物語
 中君に同情しながら恋慕の情高まる
 第一段 薫、匂宮の結婚につけわが身を顧みる
 第二段 薫と按察使の君、匂宮と六の君
 第三段 中君と薫、手紙を書き交す
 第四段 薫、中君を訪問して慰める
 第五段 中君、薫に宇治への同行を願う
 第六段 薫、中君に迫る
 第七段 薫、自制して退出する
 
第五章 中君の物語
 中君、薫の後見に感謝しつつも苦悩す
 第一段 翌朝、薫、中君に手紙を書く
 第二段 匂宮、帰邸して薫の移り香に不審を抱く
 第三段 匂宮、中君の素晴しさを改めて認識
 第四段 薫、中君に衣料を贈る
 第五段 薫、中君をよく後見す
 第六段 薫と中君の、それぞれの苦悩
 
第六章 薫の物語
 中君から異母妹の浮舟の存在を聞く
 第一段 薫、二条院の中君を訪問
 第二段 薫、亡き大君追慕の情を訴える
 第三段 薫、故大君に似た人形を望む
 第四段 中君、異母妹の浮舟を語る
 第五段 薫、なお中君を恋慕す
 
第七章 薫の物語
 宇治を訪問し弁の尼から浮舟の詳細について聞く
 第一段 九月二十日過ぎ、薫、宇治を訪れる
 第二段 薫、宇治の阿闍梨と面談す
 第三段 薫、弁の尼と語る
 第四段 薫、浮舟の件を弁の尼に尋ねる
 第五段 薫、二条院の中君に宇治訪問の報告
 第六段 匂宮、中君の前で琵琶を弾く
 第七段 夕霧、匂宮を強引に六条院へ迎え取る
 
第八章 薫の物語
 女二の宮、薫の三条宮邸に降嫁
 第一段 新年、薫権大納言兼右大将に昇進
 第二段 中君に男子誕生
 第三段 二月二十日過ぎ、女二の宮、薫に降嫁す
 第四段 中君の男御子、五十日の祝い
 第五段 薫、中君の若君を見る
 第六段 藤壺にて藤の花の宴催される
 第七段 女二の宮、三条宮邸に渡御す
 
第九章 薫の物語
 宇治で浮舟に出逢う
 第一段 四月二十日過ぎ、薫、宇治で浮舟に邂逅
 第二段 薫、浮舟を垣間見る
 第三段 浮舟、弁の尼と対面
 第四段 薫、弁の尼に仲立を依頼
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

薫(かおる)
源氏の子〔と一般にみなされる柏木の子、頭中将の孫〕
呼称:中納言源朝臣・中納言朝臣・源中納言・中納言・中納言の君・権大納言・右大将・大将殿・大将の君
匂宮(におうのみや)
今上帝の第三親王
呼称:兵部卿宮・宮・三の宮
今上帝(きんじょうてい)
朱雀院の第一親王
呼称:帝・内裏・主上
明石中宮(あかしのちゅうぐう)
源氏の娘
呼称:中宮・后・后の宮
夕霧(ゆうぎり)
源氏の長男
呼称:右大臣・右大臣殿・右の大殿・大臣
紅梅大納言(こうばいのだいなごん)
致仕大臣の二男
呼称:按察使大納言・大納言・按察使
女三の宮(おんなさんのみや)
薫の母
呼称:母宮・尼宮・入道の宮
麗景殿女御(れいけいでんのにょうご)
今上帝の女御
呼称:藤壺・故左大臣殿の女御・女御・母女御
女二の宮(おんなにのみや)
今上帝の第二内親王
呼称:女宮・藤壺の宮
六の君(ろくのきみ)
夕霧の娘
呼称:六の君・女君
中君(なかのきみ)
八の宮の二女
呼称:二条院の対の御方・兵部卿宮の北の方・宮の御方・対の御方・宮
浮舟(うきふね)
呼称:常陸前司殿の姫君
弁尼君(べんのあまぎみ)
〔八の宮の義理の従姉妹、柏木の乳母子〕
呼称:尼君・弁・老い人・朽木

 
 以上の内容は〔〕以外、以下の原文のリンクから参照。
 
 
 

原文対訳

和歌 定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  宿木(やどりぎ)
 
 

第一章 薫と匂宮の物語 女二の宮や六の君との結婚話

 
 

第一段 藤壺女御と女二の宮

 
   そのころ、藤壺と聞こゆるは、故左大臣殿の女御になむおはしける。
 まだ春宮と聞こえさせし時、人より先に参りたまひにしかば、睦ましくあはれなる方の御思ひは、ことにものしたまふめれど、そのしるしと見ゆるふしもなくて年経たまふに、中宮には、宮たちさへあまた、ここら大人びたまふめるに、さやうのこともすくなくて、ただ女宮一所をぞ持ちたてまつりたまへりける。
 
 その当時、藤壷と申し上げた方は、故左大臣殿の女御でいらっしゃった。
 が、まだ東宮と申し上げあそばしたとき、誰よりも先に入内なさっていたので、親しく情け深い御愛情は、格別でいらっしゃったらしいが、その甲斐があったと見えることもなくて長年お過ぎになるうちに、中宮におかれては、宮たちまでが大勢、成長なさっているらしいのに、そのようなことも少なくて、ただ女宮をお一方お持ち申し上げていらっしゃるのだった。
 
   わがいと口惜しく、人におされたてまつりぬる宿世、嘆かしくおぼゆる代はりに、「この宮をだに、いかで行く末の心も慰むばかりにて見たてまつらむ」と、かしづききこえたまふことおろかならず。
 御容貌もいとをかしくおはすれば、帝もらうたきものに思ひきこえさせたまへり。
 
 自分の実に無念に、他人に圧倒され申した運命、嘆かしく思っている代わりに、「せめてこの宮だけでも、何とか将来に心も慰められるようにして差し上げたい」と、大切にお世話申し上げること並々でない。
 ご器量もとても美しくおいでなので、帝もかわいいとお思い申し上げあそばしていらした。
 
   女一の宮を、世にたぐひなきものにかしづききこえさせたまふに、おほかたの世のおぼえこそ及ぶべうもあらね、うちうちの御ありさまは、をさをさ劣らず。
 父大臣の御勢ひ、厳しかりし名残、いたく衰へねば、ことに心もとなきことなどなくて、さぶらふ人びとのなり姿よりはじめ、たゆみなく、時々につけつつ、調へ好み、今めかしくゆゑゆゑしきさまにもてなしたまへり。
 
 女一の宮を、世に類のないほど大切にお世話申し上げあそばすので、世間一般の評判こそ及ぶべくもないが、内々の御待遇は、少しも劣らない。
 父大臣のご威勢が、盛んであったころの名残が、たいして衰えてはいないので、特に心細いことなどはなくて、伺候する女房たちの服装や姿をはじめとして、気を抜くことなく、季節季節に応じて、仕立て好み、はなやかで趣味豊かにお暮らしになっていた。
 
 
 

第二段 藤壺女御の死去と女二の宮の将来

 
   十四になりたまふ年、御裳着せたてまつりたまはむとて、春よりうち始めて、異事なく思し急ぎて、何事もなべてならぬさまにと思しまうく。
 
 十四歳におなりになる年、御裳着の式をして差し上げようとして、春から準備して、余念なく御準備して、何事も普通でない様子にとお考えになる。
 
   いにしへより伝はりたりける宝物ども、この折にこそはと、探し出でつつ、いみじく営みたまふに、女御、夏ごろ、もののけにわづらひたまひて、いとはかなく亡せたまひぬ。
 言ふかひなく口惜しきことを、内裏にも思し嘆く。
 
 昔から伝わっていた宝物類、この機会にと、探し出しては探し出しては、大変な準備をなさっていらっしゃったが、女御が、夏頃に、物の怪に患いなさって、まことにあっけなくお亡くなりになってしまった。
 言いようもなく残念なことと、帝におかせられてもお嘆きになる。
 
   心ばへ情け情けしく、なつかしきところおはしつる御方なれば、殿上人どもも、「こよなくさうざうしかるべきわざかな」と、惜しみきこゆ。
 おほかたさるまじき際の女官などまで、しのびきこえぬはなし。
 
 お心も情け深く、やさしいところがおありだった御方なので、殿上人たちも、「この上なく寂しくなってしまうことだなあ」と、惜しみ申し上げる。
 一般の特に関係ない身分の女官などまでが、お偲び申し上げない者はいない。
 
   宮は、まして若き御心地に、心細く悲しく思し入りたるを、聞こし召して、心苦しくあはれに思し召さるれば、御四十九日過ぐるままに、忍びて参らせたてまつらせたまへり。
 日々に、渡らせたまひつつ見たてまつらせたまふ。
 
 宮は、それ以上に若いお気持ちとて、心細く悲しみに沈んでいらっしゃるのを、お耳にあそばして、おいたわしくかわいそうにお思いあそばすので、御四十九日忌が過ぎると、早速に人目につかぬよう参内させなさった。
 毎日、お渡りあそばしてお会い申し上げなさる。
 
   黒き御衣にやつれておはするさま、いとどらうたげにあてなるけしきまさりたまへり。
 心ざまもいとよく大人びたまひて、母女御よりも今すこしづしやかに、重りかなるところはまさりたまへるを、うしろやすくは見たてまつらせたまへど、まことには、御母方とても、後見と頼ませたまふべき、叔父などやうのはかばかしき人もなし。
 わづかに大蔵卿、修理大夫などいふは、女御にも異腹なりける。
 
 黒い御喪服で質素にしていらっしゃる様子は、ますますかわいらしく上品な感じがまさっていらっしゃった。
 お考えもすっかり一人前におなりになって、母女御よりも少し落ち着いて、重々しいところはまさっていらっしゃるのを、危なげのないお方だと御拝見あそばすが、実質的方面では、御母方といっても、後見役をお頼みなさるはずの叔父などといったようなしっかりとした人がいない。
 わずかに大蔵卿、修理大夫などという人びとは、女御にとっても異母兄弟なのであった。
 
   ことに世のおぼえ重りかにもあらず、やむごとなからぬ人びとを頼もし人にておはせむに、「女は心苦しきこと多かりぬべきこそいとほしけれ」など、御心一つなるやうに思し扱ふも、やすからざりけり。
 
 特に世間の声望も重くなく、高貴な身分でもない人びとを後見人にしていらっしゃるので、「女性はつらいことが多くあるだろうことがお気の毒である」などと、お一人で御心配なさっているのも、大変なことであった。
 
 
 

第三段 帝、女二の宮を薫に降嫁させようと考える

 
   御前の菊移ろひ果てて盛りなるころ、空のけしきのあはれにうちしぐるるにも、まづこの御方に渡らせたまひて、昔のことなど聞こえさせたまふに、御いらへなども、おほどかなるものから、いはけなからずうち聞こえさせたまふを、うつくしく思ひきこえさせたまふ。
 
 お庭先の菊がすっかり変色して盛んなころ、空模様が胸打つようにちょっと時雨するにつけても、まずこの御方にお渡りあそばして、故人のことなどをお話し申し上げあそばすと、お返事なども、おっとりしたものの、幼くはなく少しお答え申し上げるなさるのを、かわいらしいとお思い申し上げあそばす。
 
   かやうなる御さまを見知りぬべからむ人の、もてはやしきこえむも、などかはあらむ、朱雀院の姫宮を、六条の院に譲りきこえたまひし折の定めどもなど、思し召し出づるに、  このようなご様子が分かるような人が、慈しみ申し上げるというのも、何の不都合があろうかと、朱雀院の姫宮を、六条院にお譲り申し上げなさった時の御評定などをお思い出しあそばすと、
   「しばしは、いでや、飽かずもあるかな。
 さらでもおはしなまし、と聞こゆることどもありしかど、源中納言の、人よりことなるありさまにて、かくよろづを後見たてまつるにこそ、そのかみの御おぼえ衰へず、やむごとなきさまにてはながらへたまふめれ。
 さらずは、御心より外なる事どもも出で来て、おのづから人に軽められたまふこともやあらまし」
 「暫くの間は、どんなものかしら、物足りないことだ。
 降嫁などなさらなくてもよかったろうに、と申し上げる意見もあったが、源中納言が、誰よりも孝養ある様子で、いろいろとご後見申し上げているから、その当時のご威勢も衰えず、高貴な身分の生活でいらっしゃるのだ。
 そうでなかったら、ご心外なことがらが出てきて、自然と人から軽んじられなさることもあったろうに」
   など思し続けて、「ともかくも、御覧ずる世にや思ひ定めまし」と思し寄るには、やがて、そのついでのままに、この中納言より他に、よろしかるべき人、またなかりけり。
 
 などと、お思い続けて、「いずれにせよ、在位中に決定しようかしら」とお考えになると、そのまま、順序に従って、この中納言より他に、適当な人は、またいないのであった。
 
   「宮たちの御かたはらにさし並べたらむに、何事もめざましくはあらじを。
 もとより思ふ人持たりて、聞きにくきことうちまずまじくはた、あめるを、つひにはさやうのことなくてしもえあらじ。
 さらぬ先に、さもやほのめかしてまし」
 「宮たちの伴侶となったとして、何につけても目障りなことはあるまいよ。
 もともと心寄せる人があっても、聞き苦しい噂は聞くこともなさそうだし、また、もしいても、結局は結婚しないこともあるまい。
 本妻を持つ前に、それとなく当たってみよう」
   など、折々思し召しけり。
 
 などと、時々お考えになっているのであった。
 
 
 

第四段 帝、女二の宮や薫と碁を打つ

 
   御碁など打たせたまふ。
 暮れゆくままに、時雨をかしきほどに、花の色も夕映えしたるを御覧じて、人召して、
 御碁などをお打ちあそばす。
 暮れて行くにしたがって、時雨が趣きあって、花の色も夕日に映えて美しいのを御覧になって、人を召して、
   「ただ今、殿上には誰れ誰れか」  「ただ今、殿上間には誰々がいるか」
   と問はせたまふに、  とお問いあそばすと、
   「中務親王、上野親王、中納言源朝臣さぶらふ」  「中務親王、上野親王、中納言源朝臣が伺候しております」
   と奏す。
 
 と奏上する。
 
   「中納言朝臣こなたへ」  「中納言の朝臣こちらへ」
   と仰せ言ありて参りたまへり。
 げに、かく取り分きて召し出づるもかひありて、遠くより薫れる匂ひよりはじめ、人に異なるさましたまへり。
 
 と仰せ言があって参上なさった。
 なるほど、このように特別に召し出すかいもあって、遠くから薫ってくる匂いをはじめとして、人と違った様子をしていらっしゃった。
 
   「今日の時雨、常よりことにのどかなるを、遊びなどすさまじき方にて、いとつれづれなるを、いたづらに日を送る戯れにて、これなむよかるべき」  「今日の時雨は、いつもより格別にのんびりとしているが、音楽などは具合が悪い所なので、まことに所在ないが、何となく日を送る遊び事として、これがよいだろう」
   とて、碁盤召し出でて、御碁の敵に召し寄す。
 いつもかやうに、気近くならしまつはしたまふにならひにたれば、「さにこそは」と思ふに、
 と仰せになって、碁盤を召し出して、御碁の相手に召し寄せる。
 いつもこのように、お身近に親しくお召しになるのが習慣になっているので、「今日もそうだろう」と思うと、
   「好き賭物はありぬべけれど、軽々しくはえ渡すまじきを、何をかは」  「ちょうどよい賭物はありそうだが、軽々しくは与えることができないので、何がよかろう」
   などのたまはする御けしき、いかが見ゆらむ、いとど心づかひしてさぶらひたまふ。
 
 などと仰せになるご様子は、どのように見えたのであろう、ますます緊張して控えていらっしゃる。
 
   さて、打たせたまふに、三番に数一つ負けさせたまひぬ。
 
 そうして、お打ちあそばすうちに、三番勝負に一つお負け越しあそばした。
 
   「ねたきわざかな」とて、「まづ、今日は、この花一枝許す」  「悔しいことだ」とおっしゃって、「まず、今日は、この花一枝を許す」
   とのたまはすれば、御いらへ聞こえさせで、下りておもしろき枝を折りて参りたまへり。
 
 と仰せになったので、お返事を申し上げずに、降りて美しい枝を手折って持って昇がった。
 
 

699
 「世の常の 垣根に匂ふ 花ならば
 心のままに 折りて見ましを」
 「世間一般の家の垣根に咲いている花ならば
  思いのままに手折って賞美すことができましょうものを」
 
   と奏したまへる、用意あさからず見ゆ。
 
 と奏上なさる、心づかいは浅くなく見える。
 
 

700
 「霜にあへず 枯れにし園の 菊なれど
 残りの色は あせずもあるかな」
 「霜に堪えかねて枯れてしまった園の菊であるが
  残りの色は褪せていないな」
 
   とのたまはす。
 
 と仰せになる。
 
   かやうに、折々ほのめかさせたまふ御けしきを、人伝てならず承りながら、例の心の癖なれば、急がしくしもおぼえず。
 
 このように、ときどき結婚をおほのめかしあそばす御様子を、人伝てでなく承りながら、例の性癖なので、急ごうとは思わない。
 
   「いでや、本意にもあらず。
 さまざまにいとほしき人びとの御ことどもをも、よく聞き過ぐしつつ年経ぬるを、今さらに聖のものの、世に帰り出でむ心地すべきこと」
 「いや、本意ではない。
 いろいろと心苦しい人びとのご縁談を、うまく聞き流して年を過ごしてきたのに、今さら出家僧が、還俗したような気がするだろう」
   と思ふも、かつはあやしや。
 
 と思うのも、また妙なものだ。
 
   「ことさらに心を尽くす人だにこそあなれ」とは思ひながら、「后腹におはせばしも」とおぼゆる心の内ぞ、あまりおほけなかりける。
 
 「特別に恋い焦がれている人さえあるというのに」とは思う一方で、「后腹の姫宮でいらっしゃったら」と思う心の中は、あまりに大それた考えであった。
 
 
 

第五段 夕霧、匂宮を六の君の婿にと願う

 
   かかることを、右の大殿ほの聞きたまひて、  このようなことを、右大殿がちらっとお聞きになって、
   「六の君は、さりともこの君にこそは。
 しぶしぶなりとも、まめやかに恨み寄らば、つひには、えいなび果てじ」
 「六の君は、そうはいってもこの君にこそ縁づけたいものだ。
 しぶしぶであっても、一生懸命に頼みこめば、結局は、断ることはできまい」
   と思しつるを、「思ひの外のこと出で来ぬべかなり」と、ねたく思されければ、兵部卿宮はた、わざとにはあらねど、折々につけつつ、をかしきさまに聞こえたまふことなど絶えざりければ、  とお思いになったが、「意外なことが出てきたようだ」と、悔しくお思いになったので、兵部卿宮が、わざわざではないが、何かの時にそれに応じて、風流なお手紙を差し上げなさることが続いているので、
   「さはれ、なほざりの好きにはありとも、さるべきにて、御心とまるやうもなどかなからむ。
 水漏るまじく思ひ定めむとても、なほなほしき際に下らむはた、いと人悪ろく、飽かぬ心地すべし」
 「ままよ、いい加減な浮気心であっても、何かの縁で、お心が止まるようなことがどうしてないことがあろうか。
 水も漏らさない男性を思い定めていても、並の身分の男に縁づけるのは、また体裁が悪く、不満な気がするだろう」
   など思しなりにたり。
 
 などとお考えになっていた。
 
   「女子うしろめたげなる世の末にて、帝だに婿求めたまふ世に、まして、ただ人の盛り過ぎむもあいなし」  「女の子が心配に思われる末世なので、帝でさえ婿をお探しになる世で、まして、臣下の娘が盛りを過ぎては困ったものだ」
   など、誹らはしげにのたまひて、中宮をもまめやかに恨み申したまふこと、たび重なれば、聞こし召しわづらひて、  などと、陰口を申すようにおっしゃって、中宮をも本気になってお恨み申し上げなさることが、度重なったので、お聞きあそばしになり困って、
   「いとほしく、かくおほなおほな思ひ心ざして年経たまひぬるを、あやにくに逃れきこえたまはむも、情けなきやうならむ。
 親王たちは、御後見からこそ、ともかくもあれ。
 
 「お気の毒にも、このように一生懸命にお思いなさってから何年にもおなりになったので、不義理なまでにお断り申し上げなさるのも、薄情なようでしょう。
 親王たちは、ご後見によって、ともかくもなるものです。
 
   主上の、御代も末になり行くとのみ思しのたまふめるを、ただ人こそ、ひと事に定まりぬれば、また心を分けむことも難げなめれ。
 それだに、かの大臣のまめだちながら、こなたかなた羨みなくもてなしてものしたまはずやはある。
 まして、これは、思ひおきてきこゆることも叶はば、あまたもさぶらはむになどかあらむ」
 主上が、御在位も終わりに近いとばかりお思いになりおっしゃっていますようなので、臣下の者は、本妻がお決まりになると、他に心を分けることは難しいようです。
 それでさえ、あの大臣が誠実に、こちらの本妻とあちらの宮とに恨まれないように待遇していらっしゃるではありませんか。
 まして、あなたは、お考え申していることが叶ったら、大勢伺候させても構わないのですよ」
   など、例ならず言続けて、あるべかしく聞こえさせたまふを、  などと、いつもと違って言葉数多く話して、道理をお説き申し上げなさるのを、
   「わが御心にも、もとよりもて離れて、はた、思さぬことなれば、あながちには、などてかはあるまじきさまにも聞こえさせたまはむ。
 ただ、いとことうるはしげなるあたりにとり籠められて、心やすくならひたまへるありさまの所狭からむことを、なま苦しく思すにもの憂きなれど、げに、この大臣に、あまり怨ぜられ果てむもあいなからむ」
 「ご自身でも、もともとまったく嫌とは、お思いにならないことなので、無理やりに、どうしてとんでもないこととお思い申し上げなさろう。
 ただ、万事格式ばった邸に閉じ籠められて、自由気ままになさっていらした状態が窮屈になることを、何となく苦しくお思いになるのが嫌なのだが、なるほど、この大臣から、あまり恨まれてしまうのも困ったことだろう」
   など、やうやう思し弱りにたるべし。
 あだなる御心なれば、かの按察使大納言の、紅梅の御方をも、なほ思し絶えず、花紅葉につけてもののたまひわたりつつ、いづれをもゆかしくは思しけり。
 されど、その年は変はりぬ。
 
 などと、だんだんお弱りになったのであろう。
 浮気なお心癖なので、あの按察大納言の、紅梅の御方をも、依然としてお思い捨てにならず、花や紅葉につけてはお歌をお贈りなさって、どちらの方にもご関心がおありであった。
 けれども、その年は過ぎた。
 
 
 

第二章 中君の物語 中君の不安な思いと薫の同情

 
 

第一段 匂宮の婚約と中君の不安な心境

 
   女二の宮も、御服果てぬれば、「いとど何事にか憚りたまはむ。
 さも聞こえ出でば」と思し召したる御けしきなど、告げきこゆる人びともあるを、「あまり知らず顔ならむも、ひがひがしうなめげなり」と思し起こして、ほのめかしまゐらせたまふ折々もあるに、「はしたなきやうは、などてかはあらむ。
 そのほどに思し定めたなり」と伝てにも聞く、みづから御けしきをも見れど、心の内には、なほ飽かず過ぎたまひにし人の悲しさのみ、忘るべき世なくおぼゆれば、「うたて、かく契り深くものしたまひける人の、などてかは、さすがに疎くては過ぎにけむ」と心得がたく思ひ出でらる。
 
 女二の宮も、御服喪が終わったので、「ますます何事を遠慮なさろう。
 そのようにお願い申し出るならば」とお考えあそばしている御様子などを、お告げ申し上げる人びともいるが、「あまり知らない顔をしているのもひねくれているようで悪いことだ」などとご決心して、結婚をほのめかし申しあそばす時々があるので、「体裁悪いようには、どうしてあしらうことがあろうか。
 婚儀を何日にとお定めになった」と伝え聞く、自分自身でも御内意を承ったが、心の中では、やはり惜しくも亡くなっ方の悲しみばかりが、忘れる時もなく思われるので、「嫌な、このような宿縁が深くおありであった方が、どうしてか、それでもやはり他人のまま亡くなってしまったのか」と理解しがたく思い出される。
 
   「口惜しき品なりとも、かの御ありさまにすこしもおぼえたらむ人は、心もとまりなむかし。
 昔ありけむ香の煙につけてだに、今一度見たてまつるものにもがな」とのみおぼえて、やむごとなき方ざまに、いつしかなど急ぐ心もなし。
 
 「卑しい身分であるとも、あのご様子に少しでも似ているような人なら、きっと心も引かれるだろう。
 昔あったという反魂香の煙によってでも、もう一度お会いしたものだな」とばかり思われて、高貴な方と、早く婚儀を上げたいなどと急ぐ気もしない。
 
   右の大殿には急ぎたちて、「八月ばかりに」と聞こえたまひけり。
 二条院の対の御方には、聞きたまふに、
 右大殿ではお急ぎになって、「八月頃に」と申し上げなさったのであった。
 二条院の対の御方では、お聞きになると、
   「さればよ。
 いかでかは、数ならぬありさまなめれば、かならず人笑へに憂きこと出で来むものぞ、とは思ふ思ふ過ごしつる世ぞかし。
 あだなる御心と聞きわたりしを、頼もしげなく思ひながら、目に近くては、ことにつらげなること見えず、あはれに深き契りをのみしたまへるを、にはかに変はりたまはむほど、いかがはやすき心地はすべからむ。
 ただ人の仲らひなどのやうに、いとしも名残なくなどはあらずとも、いかにやすげなきこと多からむ。
 なほ、いと憂き身なめれば、つひには、山住みに帰るべきなめり」
 「やはりそうであったか。
 どうしてか、一人前でもない様子のようなので、必ず物笑いになる嫌な事が出て来るだろうことは、思いながら過ごしてきたことだ。
 浮気なお心癖とずっと聞いていたが、頼りがいなく思いながらも、面と向かっては、特につらそうなことも見えず、愛情深い約束ばかりなさっていらっしゃるので、急にお変わりになるのは、どうして平気でいられようか。
 臣下の夫婦仲のように、すっかり縁が切れてしまうことなどはなくても、どんなにか安からぬことが多いだろう。
 やはり、まことに情けない身の上のようなので、結局は、山里へ帰ったほうがよいようだ」
   と思すにも、「やがて跡絶えなましよりは、山賤の待ち思はむも人笑へなりかし。
 返す返すも、宮ののたまひおきしことに違ひて、草のもとを離れにける心軽さ」を、恥づかしくもつらくも思ひ知りたまふ。
 
 とお思いになるにつけても、「このまま姿を隠すよりは、山里の人が待ち迎え思うことも物笑いになる。
 返す返すも、父宮が遺言なさっていたことに背いて、山荘を出てしまった軽率さ」を、恥ずかしくもつらくもお思い知りになる。
 
   「故姫君の、いとしどけなげに、ものはかなきさまにのみ、何事も思しのたまひしかど、心の底のづしやかなるところは、こよなくもおはしけるかな。
 中納言の君の、今に忘るべき世なく嘆きわたりたまふめれど、もし世におはせましかば、またかやうに思すことはありもやせまし。
 
 「亡き姉君が、たいそうとりとめもなく、頼りなさそうにばかり、何事もお考えになりおっしゃっていたが、心の底が慎重であったところは、この上なくいらしたことだ。
 中納言の君が、今でも忘れることなくお悲しみになっていらっしゃるようだが、もし生きていらっしゃったら、またこのようにお悩みになることがあったかも知れない。
 
   それを、いと深く、いかでさはあらじ、と思ひ入りたまひて、とざまかうざまに、もて離れむことを思して、容貌をも変へてむとしたまひしぞかし。
 かならずさるさまにてぞおはせまし。
 
 それを、たいそう深く、どうしてそんなことはあるまい、と深くお思いになって、あれやこれやと、離れることをお考えになって、出家してしまいたいとなさったのだ。
 きっとそうなさったにちがいないだろう。
 
   今思ふに、いかに重りかなる御心おきてならまし。
 亡き御影どもも、我をばいかにこよなきあはつけさと見たまふらむ」
 今思うと、どんなに重々しいお考えだったことだろう。
 亡き父宮や姉君も、わたしをどんなにかこの上ない軽率者と御覧になることだろう」
   と恥づかしく悲しく思せど、「何かは、かひなきものから、かかるけしきをも見えたてまつらむ」と忍び返して、聞きも入れぬさまにて過ぐしたまふ。
 
 と恥ずかしく悲しくお思いになるが、「どうしても、仕方のないことだから、このような様子をお見せ申し上げようか」と我慢して、聞かないふりをしてお過ごしになる。
 
 
 

第二段 中君、匂宮の子を懐妊

 
   宮は、常よりもあはれになつかしく、起き臥し語らひ契りつつ、この世ならず、長きことをのみぞ頼みきこえたまふ。
 
 宮は、いつもよりしみじみとやさしく、起きても臥せっても語らいながら、この世だけでなく、長い将来のことをお約束申し上げなさる。
 
   さるは、この五月ばかりより、例ならぬさまに悩ましくしたまふこともありけり。
 こちたく苦しがりなどはしたまはねど、常よりももの参ることいとどなく、臥してのみおはするを、まださやうなる人のありさま、よくも見知りたまはねば、「ただ暑きころなれば、かくおはするなめり」とぞ思したる。
 
 一方では、今年の五月頃から、普段と違ってお苦しみになることがあるのだった。
 ひどくお苦しみにはならないが、いつもより食事を上がることことがますますなく、臥せってばかりいらっしゃるので、まだそのような人の様子を、よくご存知ないので、「ただ暑いころなので、こうしていらっしゃるのだろう」とお思いになっていた。
 
   さすがにあやしと思しとがむることもありて、「もし、いかなるぞ。
 さる人こそ、かやうには悩むなれ」など、のたまふ折もあれど、いと恥づかしくしたまひて、さりげなくのみもてなしたまへるを、さし過ぎ聞こえ出づる人もなければ、たしかにもえ知りたまはず。
 
 そうはいっても変だとお気づきになることがあって、「もしや、なにしたのではないか。
 そうした人はこのように苦しむというが」などと、おっしゃる時もあるが、とても恥ずかしがりなさって、さりげなくばかり振る舞っていらっしゃるのを、差し出て申し上げる女房もいないので、はっきりとはご存知になれない。
 
   八月になりぬれば、その日など、他よりぞ伝へ聞きたまふ。
 宮は、隔てむとにはあらねど、言ひ出でむほど心苦しくいとほしく思されて、さものたまはぬを、女君は、それさへ心憂くおぼえたまふ。
 忍びたることにもあらず、世の中なべて知りたることを、そのほどなどだにのたまはぬことと、いかが恨めしからざらむ。
 
 八月になったので、何日などと、外からお伝え聞きになる。
 宮は、隠しだてをしようというのではないのだが、言い出すことがお気の毒でおいたわしくお思いになって、そうとおっしゃらないのを、女君は、それさえつらくお思いになる。
 隠れたことでもなく、世間の人がみな知っていることを、何日などとさえおっしゃらないことだと思うと、どんなにか恨めしくないことがあろうか。
 
   かく渡りたまひにし後は、ことなることなければ、内裏に参りたまひても、夜泊ることはことにしたまはず、ここかしこの御夜離れなどもなかりつるを、にはかにいかに思ひたまはむと、心苦しき紛らはしに、このころは、時々御宿直とて参りなどしたまひつつ、かねてよりならはしきこえたまふをも、ただつらき方にのみぞ思ひおかれたまふべき。
 
 このようにお移りになってから後は、特別の事がないと、宮中に参内なさっても、夜泊まることは特になさらず、あちらこちらに外泊することなどもなかったが、急にどのようにお悲しみだろうと、お気の毒なことにしないために、最近は、時々御宿直といって参内などなさっては、前もって独り寝をお馴らし申し上げなさるのをも、ただつらいことにばかりお思いになるのだろう。
 
 
 

第三段 薫、中君に同情しつつ恋慕す

 
   中納言殿も、「いといとほしきわざかな」と聞きたまふ。
 「花心におはする宮なれば、あはれとは思すとも、今めかしき方にかならず御心移ろひなむかし。
 女方も、いとしたたかなるわたりにて、ゆるびなく聞こえまつはしたまはば、月ごろも、さもならひたまはで、待つ夜多く過ごしたまはむこそ、あはれなるべけれ」
 中納言殿も、「まことにお気の毒なことだな」とお聞きになる。
 「花心でいらっしゃる宮なので、いとしいとお思いになっても、新しい方にきっとお心移りしてしまうだろう。
 女方も、とてもしっかりした家の方で、お放しなくお付きまといなさったら、この幾月、夜離れにお馴れにならないで、待っている夜を多くお過ごしになることは、おいたわしいことだ」
   など思ひ寄るにつけても、  などとお思いよりになるにつけても、
   「あいなしや、わが心よ。
 何しに譲りきこえけむ。
 昔の人に心をしめてし後、おほかたの世をも思ひ離れて澄み果てたりし方の心も濁りそめにしかば、ただかの御ことをのみ、とざまかうざまには思ひながら、さすがに人の心許されであらむことは、初めより思ひし本意なかるべし」
 「つまらないことをした、自分だな。
 どうしてお譲り申し上げたのだろう。
 亡き姫君に思いを寄せてから後は、世間一般から思い捨てて悟りきっていた心も濁りはじめてしまったので、ただあの方の御事ばかりがあれやこれやと思いながら、やはり相手が許さないのに無理を通すことは、初めから思っていた本心に背くだろう」
   と憚りつつ、「ただいかにして、すこしもあはれと思はれて、うちとけたまへらむけしきをも見む」と、行く先のあらましごとのみ思ひ続けしに、人は同じ心にもあらずもてなして、さすがに、一方にもえさし放つまじく思ひたまへる慰めに、同じ身ぞと言ひなして、本意ならぬ方におもむけたまひしが、ねたく恨めしかりしかば、「まづ、その心おきてを違へむとて、急ぎせしわざぞかし」など、あながちに女々しくものぐるほしく率て歩き、たばかりきこえしほど思ひ出づるも、「いとけしからざりける心かな」と、返す返すぞ悔しき。
 
 と遠慮しながら、「ただ何とかして、少しでも好意を寄せてもらって、うちとけなさった様子を見よう」と、将来の心づもりばかりを思い続けていたが、相手は同じ考えではないなさり方で、とはいえ、むげに突き放すことはできまいとお思いになる気休めから、同じ姉妹だといって、望んでいない方をお勧めになったのが悔しく恨めしかったので、「まず、その考えを変えさせようと、急いでやったことなのだ」などと、やむにやまれず男らしくもなく気違いじみて宮をお連れして、おだまし申し上げた時のことを思い出すにつけても、「まことにけしからぬ心であったよ」と、返す返す悔しい。
 
   「宮も、さりとも、そのほどのありさま思ひ出でたまはば、わが聞かむところをもすこしは憚りたまはじや」と思ふに、「いでや、今は、その折のことなど、かけてものたまひ出でざめりかし。
 なほ、あだなる方に進み、移りやすなる人は、女のためのみにもあらず、頼もしげなく軽々しき事もありぬべきなめりかし」
 「宮も、そうはいっても、その当時の様子をお思い出しになったら、わたしの聞くところも少しはご遠慮なさらないはずもあるまい」と思うが、「さあ、今は、その当時のことなど、少しもお口に出さないようだ。
 やはり、浮気な方面に進んで、移り気な人は、女のためのみならず、頼りなく軽々しいことがきっと出てくるにちがいない」
   など、憎く思ひきこえたまふ。
 わがまことにあまり一方にしみたる心ならひに、人はいとこよなくもどかしく見ゆるなるべし。
 
 などと、憎くお思い申し上げなさる。
 自分のほんとうにお一方にばかり執着した経験から、他人がまことにこの上もなくはがゆく思われるのであろう。
 
 
 

第四段 薫、亡き大君を追憶す

 
   「かの人をむなしく見なしきこえたまうてし後、思ふには、帝の御女を賜はむと思ほしおきつるも、うれしくもあらず、この君を見ましかばとおぼゆる心の、月日に添へてまさるも、ただ、かの御ゆかりと思ふに、思ひ離れがたきぞかし。
 
 「あの方をお亡くし申しなさってから後、思うことには、帝が皇女を下さるとお考えおいていることも、嬉しくなく、この君を得たならばと思われる心が、月日とともにつのるのも、ただ、あの方のご血縁と思うと、思い離れがたいのである。
 
   はらからといふ中にも、限りなく思ひ交はしたまへりしものを、今はとなりたまひにし果てにも、『とまらむ人を同じごとと思へ』とて、『よろづは思はずなることもなし。
 ただかの思ひおきてしさまを違へたまへるのみなむ、口惜しう恨めしきふしにて、この世には残るべき』とのたまひしものを、天翔りても、かやうなるにつけては、いとどつらしとや見たまふらむ」
 姉妹という間でも、この上なく睦み合っていらしたものを、ご臨終となった最期にも、『遺る人を私と同じように思って下さい』と言って、『何もかも不満に思うこともありません。
 ただ、あの考えていたこととをお違いになった点が残念で恨めしいこととして、この世に残るでしょう』とおっしゃったが、魂が天翔っても、このようなことにつけて、ますますつらいと御覧になるだろう」
   など、つくづくと人やりならぬ独り寝したまふ夜な夜なは、はかなき風の音にも目のみ覚めつつ、来し方行く先、人の上さへ、あぢきなき世を思ひめぐらしたまふ。
 
 などと、つくづくと他人のせいでない独り寝をなさる夜々は、ちょっとした風の音にも目ばかり覚ましては、過ぎ去ったことこれからのこと、人の身の上まで、無常な世をいろいろとお考えになる。
 
   なげのすさびにものをも言ひ触れ、気近く使ひならしたまふ人びとの中には、おのづから憎からず思さるるもありぬべけれど、まことには心とまるもなきこそ、さはやかなれ。
 
 一時の慰めとして情けもかけ、身近に使い馴れていらっしゃる女房の中には、自然と憎からずお思いになる者もいるはずだが、真実に心をおとめにならないのは、さっぱりしたものだ。
 
   さるは、かの君たちのほどに劣るまじき際の人びとも、時世にしたがひつつ衰へて、心細げなる住まひするなどを、尋ね取りつつあらせなど、いと多かれど、「今はと世を逃れ背き離れむ時、この人こそと、取り立てて、心とまるほだしになるばかりなることはなくて過ぐしてむ」と思ふ心深かりしを、「いと、さも悪ろく、わが心ながら、ねぢけてもあるかな」  その一方では、あの姫君たちの身分に劣らない身分の人びとも、時勢にしたがって衰えて、心細そうな生活をしているのなどを、探し求めては邸においていらっしゃる人などが、たいそう多いが、「今は世を捨てて出家しようとするとき、この人だけはと、特別に心とまる妨げになる程度のことはなくて過ごそう」と思う考えが深かったが、「さあ、さも体裁悪く、自分ながら、ひねくれていることだな」
   など、常よりも、やがてまどろまず明かしたまへる朝に、霧の籬より、花の色々おもしろく見えわたれる中に、朝顔のはかなげにて混じりたるを、なほことに目とまる心地したまふ。
 「明くる間咲きて」とか、常なき世にもなずらふるが、心苦しきなめりかし。
 
 などと、いつもよりも、そのまま眠らず夜を明かしなさった朝に、霧の立ちこめた籬から、花が色とりどりに美しく一面に見える中で、朝顔の花が頼りなさそうに混じって咲いているのを、やはり特に目がとまる気がなさる。
 「朝の間咲いて」とか、無常の世に似ているのが、身につまされるのだろう。
 
   格子も上げながら、いとかりそめにうち臥しつつのみ明かしたまへば、この花の開くるほどをも、ただ一人のみ見たまひける。
 
 格子も上げたまま、ほんのかりそめに横になって夜をお明かしになったので、この花が咲く間を、ただ独りで御覧になったのであった。
 
 
 

第五段 薫、二条院の中君を訪問

 
   人召して、  人を呼んで、
   「北の院に参らむに、ことことしからぬ車さし出でさせよ」  「北の院に参ろうと思うが、仰々しくない車を出しなさい」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「宮は、昨日より内裏になむおはしますなる。
 昨夜、御車率て帰りはべりにき」
 「宮は、昨日から宮中においでになると言います。
 昨夜、お車を引いて帰って来ました」
   と申す。
 
 と申し上げる。
 
   「さはれ、かの対の御方の悩みたまふなる、訪らひきこえむ。
 今日は内裏に参るべき日なれば、日たけぬさきに」
 「それはそれでよい、あの対の御方がお苦しみであるという、お見舞い申そう。
 今日は宮中に参内しなければならない日なので、日が高くならない前に」
   とのたまひて、御装束したまふ。
 出でたまふままに、降りて花の中に混じりたまへるさま、ことさらに艶だち色めきてももてなしたまはねど、あやしく、ただうち見るになまめかしく恥づかしげにて、いみじくけしきだつ色好みどもになずらふべくもあらず、おのづからをかしくぞ見えたまひける。
 朝顔引き寄せたまへる、露いたくこぼる。
 
 とおっしゃって、お召し替えなさる。
 お出かけになるとき、降りて花の中に入っていらっしゃる姿、格別に艶やかに風流っぽくお振る舞いにはならないが、不思議と、ただちょっと見ただけで優美で気恥ずかしい感じがして、ひどく気取った好色連中などととても比較することができない、自然と身にそなわった美しさがおありになるのだった。
 朝顔を引き寄せなさると、露がたいそうこぼれる。
 
 

701
 「今朝の間の 色にや賞でむ 置く露の
 消えぬにかかる 花と見る見る
 「今朝の間の色を賞美しようか、置いた露が
  消えずに残っているわずかの間に咲く花と思いながら
 
   はかな」  はかないな」
   と独りごちて、折りて持たまへり。
 女郎花をば、見過ぎてぞ出でたまひぬる。
 
 と独り言をいって、折ってお持ちになった。
 女郎花には、目もくれずにお出になった。
 
   明け離るるままに、霧立ち乱る空をかしきに、  明るくなるにしたがって、霧が立ちこめこめている空が美しいので、
   「女どちは、しどけなく朝寝したまへらむかし。
 格子妻戸うちたたき声づくらむこそ、うひうひしかるべけれ。
 朝まだきまだき来にけり」
 「女たちは、しどけなく朝寝していらっしゃるだろう。
 格子や妻戸などを叩き咳払いするのは、不慣れな感じがする。
 朝早いのにもう来てしまった」
   と思ひながら、人召して、中門の開きたるより見せたまへば、  と思いながら、人を召して、中門の開いている所から覗き見させなさると、
   「御格子ども参りてはべるべし。
 女房の御けはひもしはべりつ」
 「御格子は上げてあるらしい。
 女房のいる様子もしていました」
   と申せば、下りて、霧の紛れにさまよく歩み入りたまへるを、「宮の忍びたる所より帰りたまへるにや」と見るに、露にうちしめりたまへる香り、例の、いとさまことに匂ひ来れば、  と申すので、下りて、霧の紛れに体裁よくお歩みになっているのを、「宮が隠れて通う所からお帰りになったのか」と見ると、露に湿っていらっしゃる香りが、例によって、格別に匂って来るので、
   「なほ、めざましくはおはすかし。
 心をあまりをさめたまへるぞ憎き」
 「やはり、目が覚める思いがする方ですこと。
 控え目でいらっしゃることが憎らしいこと」
   など、あいなく、若き人びとは、聞こえあへり。
 
 などと、勝手に、若い女房たちは、お噂申し上げていた。
 
   おどろき顔にはあらず、よきほどにうちそよめきて、御茵さし出でなどするさまも、いとめやすし。
 
 驚いたふうでもなく、体裁よく衣ずれの音をさせて、お敷物を差し出す態度も、まことに無難である。
 
   「これにさぶらへと許させたまふほどは、人びとしき心地すれど、なほかかる御簾の前にさし放たせたまへるうれはしさになむ、しばしばもえさぶらはぬ」  「ここに控えよとお許しいただけることは、一人前扱いの気がしますが、やはりこのような御簾の前に放っておいでになるのは情けない気がし、頻繁にお伺いできません」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「さらば、いかがはべるべからむ」  「それでは、どう致しましょう」
   など聞こゆ。
 
 などと申し上げる。
 
   「北面などやうの隠れぞかし。
 かかる古人などのさぶらはむにことわりなる休み所は。
 それも、また、ただ御心なれば、愁へきこゆべきにもあらず」
 「北面などの目立たない所ですね。
 このような古なじみなどが控えているのに適当な休憩場所は。
 それも、また、お気持ち次第なので、不満を申し上げるべきことでもない」
   とて、長押に寄りかかりておはすれば、例の、人びと、  と言って、長押に寄り掛かっていらっしゃると、例によって、女房たちが、
   「なほ、あしこもとに」  「やはり、あそこまで」
   など、そそのかしきこゆ。
 
 などと、お促し申し上げる。
 
 
 

第六段 薫、中君と語らう

 
   もとよりも、けはひはやりかに男々しくなどはものしたまはぬ人柄なるを、いよいよしめやかにもてなしをさめたまへれば、今は、みづから聞こえたまふことも、やうやううたてつつましかりし方、すこしづつ薄らぎて、面馴れたまひにたり。
 
 もともと、感じがてきぱきと男らしくはいらっしゃらないご性格であるが、ますますしっとりと静かにしていらっしゃるので、今は、自分からお話し申し上げなさることも、だんだんと嫌で遠慮された気持ちも、少しずつ薄らいでお馴れになっていった。
 
   悩ましく思さるらむさまも、「いかなれば」など問ひきこえたまへど、はかばかしくもいらへきこえたまはず、常よりもしめりたまへるけしきの心苦しきも、あはれにおぼえたまひて、こまやかに、世の中のあるべきやうなどを、はらからやうの者のあらましやうに、教へ慰めきこえたまふ。
 
 つらそうにしていらっしゃる様子も、「どうしたのですか」などとお尋ね申し上げなさったが、はっきりともお答え申し上げず、いつもよりも沈んでいらっしゃる様子がおいたわしいのが、お気の毒に思われなさって、情愛こまやかに、夫婦仲のあるべき様子などを、兄妹である者のように、お教え慰め申し上げなさる。
 
   声なども、わざと似たまへりともおぼえざりしかど、あやしきまでただそれとのみおぼゆるに、人目見苦しかるまじくは、簾もひき上げてさし向かひきこえまほしく、うち悩みたまへらむ容貌ゆかしくおぼえたまふも、「なほ、世の中にもの思はぬ人は、えあるまじきわざにやあらむ」とぞ思ひ知られたまふ。
 
 声なども、特に似ていらっしゃるとは思われなかったが、不思議なまでにあの方そっくりに思われるので、人目が見苦しくないならば、簾を引き上げて差し向かいでお話し申し上げたく、苦しくしていらっしゃる容貌が見たく思われなさるのも、「やはり、恋の物思いに悩まない人は、いないのではないか」と自然と思い知られなさる。
 
   「人びとしくきらきらしき方にははべらずとも、心に思ふことあり、嘆かしく身をもて悩むさまになどはなくて過ぐしつべきこの世と、みづから思ひたまへし、心から、悲しきことも、をこがましく悔しきもの思ひをも、かたがたにやすからず思ひはべるこそ、いとあいなけれ。
 官位などいひて、大事にすめる、ことわりの愁へにつけて嘆き思ふ人よりも、これや、今すこし罪の深さはまさるらむ」
 「人並に出世して派手な方面はございませんが、心に思うことがあり、嘆かわしく身を悩ますことはなくて過ごせるはずの現世だと、自分自身思っておりましたが、心の底から、悲しいことも、馬鹿らしく悔しい物思いをも、それぞれに休まる時もなく思い悩んでいますことは、つまらないことです。
 官位などといって、大事にしているらしい、もっともな愁えにつけて嘆き思う人よりも、自分の場合は、もう少し罪の深さが勝るだろう」
   など言ひつつ、折りたまへる花を、扇にうち置きて見ゐたまへるに、やうやう赤みもて行くも、なかなか色のあはひをかしく見ゆれば、やをらさし入れて、  などと言いながら、手折りなさった花を、扇に置いてじっと見ていらっしゃったが、だんだんと赤く変色してゆくのが、かえって色のあわいが風情深く見えるので、そっと差し入れて、
 

702
 「よそへてぞ 見るべかりける 白露の
 契りかおきし 朝顔の花」
 「あなたを姉君と思って自分のものにしておくべきでした
  白露が約束しておいた朝顔の花ですから」
 
   ことさらびてしももてなさぬに、「露落とさで持たまへりけるよ」と、をかしく見ゆるに、置きながら枯るるけしきなれば、  ことさらそうしたのではなかったが、「露を落とさないで持ってきたことよ」と、興趣深く思えたが、露の置いたまま枯れてゆく様子なので、
 

703
 「消えぬまに 枯れぬる花の はかなさに
 おくるる露は なほぞまされる
 「露の消えない間に枯れてしまう花のはかなさよりも
  後に残る露はもっとはかないことです
 
   何にかかれる」  何にすがって生きてゆけばよいのでしょう」
   と、いと忍びて言も続かず、つつましげに言ひ消ちたまへるほど、「なほ、いとよく似たまへるものかな」と思ふにも、まづぞ悲しき。
 
 と、たいそう低い声で言葉も途切れがちに、慎ましく否定なさったところは、「やはり、とてもよく似ていらっしゃるなあ」と思うと、何につけ悲しい。
 
 
 

第七段 薫、源氏の死を語り、亡き大君を追憶

 
   「秋の空は、今すこし眺めのみまさりはべり。
 つれづれの紛らはしにもと思ひて、先つころ、宇治にものしてはべりき。
 庭も籬もまことにいとど荒れ果ててはべりしに、堪へがたきこと多くなむ。
 
 「秋の空は、いま一つ物思いばかりまさります。
 所在ない紛らしにと思って、最近、宇治へ行きました。
 庭も籬もほんとうにますます荒れはてましたので、堪えがたいことが多くございました。
 
   故院の亡せたまひて後、二、三年ばかりの末に、世を背きたまひし嵯峨の院にも、六条の院にも、さしのぞく人の、心をさめむ方なくなむはべりける。
 木草の色につけても、涙にくれてのみなむ帰りはべりける。
 かの御あたりの人は、上下心浅き人なくこそはべりけれ。
 
 故院がお亡くなりになって後、二、三年ほど前に、出家なさった嵯峨院でも、六条院でも、ちょっと立ち寄る人は、感慨に咽ばない者はございませんでした。
 木や草の色につけても、涙にくれてばかり帰ったものでございました。
 あちらの殿にお仕えしていた人たちは、身分の上下を問わず心の浅い人はございませんでした。
 
   方々集ひものせられける人びとも、皆所々あかれ散りつつ、おのおの思ひ離るる住まひをしたまふめりしに、はかなきほどの女房などはた、まして心をさめむ方なくおぼえけるままに、ものおぼえぬ心にまかせつつ、山林に入り混じり、すずろなる田舎人になりなど、あはれに惑ひ散るこそ多くはべりけれ。
 
 あちこちに集まっていられた方々も、みなそれぞれに退出してゆき、おのおのこの世を捨てた生活をしていらしたようですが、しがない身分の女房などは、それ以上に悲しい思いを収めることもないままに、わけも分からない考えにまかせて、山林に入って、つまらない田舎人になりさがったりなどして、かわいそうにうろうろと散ってゆく者が多うございました。
 
   さて、なかなか皆荒らし果て、忘れ草生ほして後なむ、この右の大臣も渡り住み、宮たちなども方々ものしたまへば、昔に返りたるやうにはべめる。
 さる世に、たぐひなき悲しさと見たまへしことも、年月経れば、思ひ覚ます折の出で来るにこそは、と見はべるに、げに、限りあるわざなりけり、となむ見えはべる。
 
 そうして、かえってすっかり荒らしはて、忘れ草が生えて後、この右大臣も移り住み、宮たちなども何方もおいでになったので、昔に返ったようでございます。
 その当時、世に類のない悲しみと拝見しましたことも、年月がたてば、悲しみの冷める時も出てくるものだ、と経験しましたが、なるほど、物には限りがあるものだった、と思われます。
 
   かくは聞こえさせながらも、かのいにしへの悲しさは、まだいはけなくもはべりけるほどにて、いとさしもしまぬにやはべりけむ。
 なほ、この近き夢こそ、覚ますべき方なく思ひたまへらるるは、同じこと、世の常なき悲しびなれど、罪深き方はまさりてはべるにやと、それさへなむ心憂くはべる」
 このように申し上げさせていただきながらも、あの昔の悲しみは、まだ幼かった時のことで、とてもそんなに深く感じなかったのでございましょう。
 やはり、この最近の夢こそ、覚ますことができなく存じられますのは、同じように、世の無常の悲しみであるが、罪深いほうでは勝っていましょうかと、そのことまでがつろうございます」
   とて、泣きたまへるほど、いと心深げなり。
 
 と言って、お泣きになるところ、まことに心深そうである。
 
   昔の人を、いとしも思ひきこえざらむ人だに、この人の思ひたまへるけしきを見むには、すずろにただにもあるまじきを、まして、我もものを心細く思ひ乱れたまふにつけては、いとど常よりも、面影に恋しく悲しく思ひきこえたまふ心なれば、今すこしもよほされて、ものもえ聞こえたまはず、ためらひかねたまへるけはひを、かたみにいとあはれと思ひ交はしたまふ。
 
 亡くなった方を、たいしてお思い申し上げない人でさえ、この方が悲しんでいらっしゃる様子を見ると、つい同情してもらい泣きしないではいられないが、それ以上に、自分も何となく心細くお思い乱れなさるにつけては、ますますいつもよりも、面影に浮かんで恋しく悲しくお思い申し上げなさる気分なので、いまいちだんと涙があふれて、何も申し上げることがおできになれず、躊躇なさっている様子を、お互いにまことに悲しいと思い交わしなさる。
 
 
 

第八段 薫と中君の故里の宇治を思う

 
   「世の憂きよりはなど、人は言ひしをも、さやうに思ひ比ぶる心もことになくて、年ごろは過ぐしはべりしを、今なむ、なほいかで静かなるさまにても過ぐさまほしく思うたまふるを、さすがに心にもかなはざめれば、弁の尼こそうらやましくはべれ。
 
 「世の中のつらさよりはなどと、昔の人は言ったが、そのように比較する考えも特になくて、何年も過ごしてきましたが、今やっと、やはり何とか静かな所で過ごしたく存じますが、何といっても思い通りにならないようなので、弁の尼が羨ましうございます。
 
   この二十日あまりのほどは、かの近き寺の鐘の声も聞きわたさまほしくおぼえはべるを、忍びて渡させたまひてむや、と聞こえさせばやとなむ思ひはべりつる」  今月の二十日過ぎには、あの山荘に近いお寺の鐘の音も耳にしたく思われますので、こっそりと宇治へ連れて行ってくださいませんか、と申し上げたく思っておりました」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「荒らさじと思すとも、いかでかは。
 心やすき男だに、往き来のほど荒ましき山道にはべれば、思ひつつなむ月日も隔たりはべる。
 故宮の御忌日は、かの阿闍梨に、さるべきことども皆言ひおきはべりにき。
 かしこは、なほ尊き方に思し譲りてよ。
 時々見たまふるにつけては、心惑ひの絶えせぬもあいなきに、罪失ふさまになしてばや、となむ思ひたまふるを、またいかが思しおきつらむ。
 
 「荒らすまいとお考えになっても、どうしてそのようなことができましょう。
 気軽な男でさえ、往復の道が荒々しい山道でございますので、思いながら幾月もご無沙汰しています。
 故宮のご命日には、あの阿闍梨に、しかるべき事柄をみな言いつけておきました。
 あちらは、やはり仏にお譲りなさいませ。
 時々御覧になるにつけても、迷いが生じるのも困ったことですから、罪を滅したい、と存じますが、他にどのようにお考えでしょうか。
 
   ともかくも定めさせたまはむに従ひてこそは、とてなむ。
 あるべからむやうにのたまはせよかし。
 何事も疎からず承らむのみこそ、本意のかなふにてははべらめ」
 どのようにお考えなさることにも従おう、と存じております。
 ご希望どおりにおっしゃいませ。
 どのようなことも親しく承るのが、望むところでございます」
   など、まめだちたることどもを聞こえたまふ。
 経仏など、この上も供養じたまふべきなめり。
 かやうなるついでにことづけて、やをら籠もりゐなばや、などおもむけたまへるけしきなれば、
 などと、実務面のことをも申し上げなさる。
 経や仏など、この上さらに御供養なさるようである。
 このような機会にかこつけて、そっと籠もりたい、などとお思いになっている様子なので、
   「いとあるまじきことなり。
 なほ、何事も心のどかに思しなせ」
 「実にとんでもないことです。
 やはり、どのようなことでもゆったりとお考えなさいませ」
   と教へきこえたまふ。
 
 とお諭し申し上げなさる。
 
 
 

第九段 薫、二条院を退出して帰宅

 
   日さし上がりて、人びと参り集まりなどすれば、あまり長居もことあり顔ならむによりて、出でたまひなむとて、  日が昇って、人びとが参集して来るので、あまり長居するのも何かわけがありそうにとられるので、お出になろうとして、
   「いづこにても、御簾の外にはならひはべらねば、はしたなき心地しはべりてなむ。
 今また、かやうにもさぶらはむ」
 「どこでも、御簾の外は馴れておりませんので、体裁の悪い気がしました。
 いずれまた、このようにお伺いしましょう」
   とて立ちたまひぬ。
 「宮の、などかなき折には来つらむ」と思ひたまひぬべき御心なるもわづらはしくて、侍の別当なる、右京大夫召して、
 と言ってお立ちになった。
 「宮が、どうして不在の折に来たのだろう」ときっと想像するにちがいないご性質なのもやっかいなので、侍所の別当である右京大夫を呼んで、
   「昨夜まかでさせたまひぬと承りて参りつるを、まだしかりければ口惜しきを。
 内裏にや参るべき」
 「昨夜退出あそばしたと承って参上したが、まだであったので残念であった。
 内裏に参ったほうがよかったろうか」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「今日は、まかでさせたまひなむ」  「今日は、退出あそばしましょう」
   と申せば、  と申し上げるので、
   「さらば、夕つ方も」  「それでは、夕方にでも」
   とて、出でたまひぬ。
 
 と言って、お出になった。
 
   なほ、この御けはひありさまを聞きたまふたびごとに、などて昔の人の御心おきてをもて違へて、思ひ隈なかりけむと、悔ゆる心のみまさりて、心にかかりたるもむつかしく、「なぞや、人やりならぬ心ならむ」と思ひ返したまふ。
 そのままにまだ精進にて、いとどただ行なひをのみしたまひつつ、明かし暮らしたまふ。
 
 やはり、この方のお感じやご様子をお聞きになるたびごとに、どうして亡くなった姫君のお考えに背いて、考えもなく譲ってしまったのだろうと、後悔する気持ちばかりがつのって、忘れられないのもうっとうしいので、「どうして、自ら求めて悩まねばならない性格なのだろう」と反省なさる。
 そのまままだ精進生活で、ますますただひたすら勤行ばかりなさっては、日をお過ごしになる。
 
   母宮の、なほいとも若くおほどきて、しどけなき御心にも、かかる御けしきを、いとあやふくゆゆしと思して、  母宮が、依然としてとても若くおっとりして、はきはきしないお方でも、このようなご様子を、まことに危なく不吉であるとお思いになって、
   「幾世しもあらじを、見たてまつらむほどは、なほかひあるさまにて見えたまへ。
 世の中を思ひ捨てたまはむをも、かかる容貌にては、さまたげきこゆべきにもあらぬを、この世の言ふかひなき心地すべき心惑ひに、いとど罪や得むとおぼゆる」
 「もう先が長くないので、お目にかかっている間は、やはり嬉しい姿を見せてください。
 世の中をお捨てになるのも、このような出家の身では、反対申し上げるべきことではないが、この世が話にもならない気がしましょう、その心迷いに、ますます罪を得ようかと思われます」
   とのたまふが、かたじけなくいとほしくて、よろづを思ひ消ちつつ、御前にてはもの思ひなきさまを作りたまふ。
 
 とおっしゃるのが、もったいなくおいたわしいので、何もかも思いを忘れては、御前では物思いのない態度を作りなさる。
 
 
 

第三章 中君の物語 匂宮と六の君の婚儀

 
 

第一段 匂宮と六の君の婚儀

 
   右の大殿には、六条院の東の御殿磨きしつらひて、限りなくよろづを整へて待ちきこえたまふに、十六日の月やうやうさし上がるまで心もとなければ、いとしも御心に入らぬことにて、いかならむと、やすからず思ほして、案内したまへば、  右の大殿邸では、六条院の東の御殿を磨き飾って、この上なく万事を整えてお待ち申し上げなさるが、十六日の月がだんだん高く昇るまで見えないので、たいしてお気に入りでもない結婚なので、どうなのだろうと、ご心配になって、様子を探って御覧になると、
   「この夕つ方、内裏より出でたまひて、二条院になむおはしますなる」  「この夕方、宮中から退出なさって、二条院にいらっしゃるという」
   と、人申す。
 思す人持たまへればと、心やましけれど、今宵過ぎむも人笑へなるべければ、御子の頭中将して聞こえたまへり。
 
 と、人が申す。
 お気に入りの人がおありなのでと、おもしろくないけれども、今夜が過ぎてしまうのも物笑いになるだろうから、ご子息の頭中将を使いとして申し上げなさった。
 
 

704
 「大空の 月だに宿る わが宿に
 待つ宵過ぎて 見えぬ君かな」
 「大空の月でさえ宿るわたしの邸にお待ちする
  宵が過ぎてもまだお見えにならないあなたですね」
 
   宮は、「なかなか今なむとも見えじ、心苦し」と思して、内裏におはしけるを、御文聞こえたまへりけり。
 御返りやいかがありけむ、なほいとあはれに思されければ、忍びて渡りたまへりけるなりけり。
 らうたげなるありさまを、見捨てて出づべき心地もせず、いとほしければ、よろづに契り慰めて、もろともに月を眺めておはするほどなりけり。
 
 宮は、「かえって今日が結婚式だと知らせまい、お気の毒だ」とお思いになって、内裏にいらっしゃった。
 お手紙を差し上げたお返事はどうあったのだろうか、やはりとてもかわいそうに思われなさったので、こっそりとお渡りになったのであった。
 かわいらしい様子を、見捨ててお出かけになる気もせず、いとおしいので、いろいろと将来を約束し慰めて、ご一緒に月を眺めていらっしゃるところであった。
 
   女君は、日ごろもよろづに思ふこと多かれど、いかでけしきに出ださじと念じ返しつつ、つれなく覚ましたまふことなれば、ことに聞きもとどめぬさまに、おほどかにもてなしておはするけしき、いとあはれなり。
 
 女君は、日頃もいろいろとお悩みになることが多かったが、何とかして表情に表すまいと我慢なさっては、さりげなく心静めていらっしゃることなので、特にお耳に入れないふうに、おっとりと振る舞っていらっしゃる様子は、まことにおいたわしい。
 
   中将の参りたまへるを聞きたまひて、さすがにかれもいとほしければ、出でたまはむとて、  中将が参上なさったのをお聞きになって、そうはいってもあちらもお気の毒なので、お出かけになろうとして、
   「今、いと疾く参り来む。
 一人月な見たまひそ。
 心そらなればいと苦しき」
 「今、直ぐに帰って来ます。
 独りで月を御覧なさいますな。
 上の空の思いでとても辛い」
   と聞こえおきたまひて、なほかたはらいたければ、隠れの方より寝殿へ渡りたまふ、御うしろでを見送るに、ともかくも思はねど、ただ枕の浮きぬべき心地すれば、「心憂きものは人の心なりけり」と、我ながら思ひ知らる。
 
 と申し上げおきなさって、やはり見ていられないので、物蔭を通って寝殿へお渡りになる、その後ろ姿を見送るにつけ、あれこれ思わないが、ただ枕が浮いてしまいそうな気がするので、「嫌なものは人の心であった」と、自分のことながら思い知られる。
 
 
 

第二段 中君の不安な心境

 
   「幼きほどより心細くあはれなる身どもにて、世の中を思ひとどめたるさまにもおはせざりし人一所を頼みきこえさせて、さる山里に年経しかど、いつとなくつれづれにすごくありながら、いとかく心にしみて世を憂きものとも思はざりしに、うち続きあさましき御ことどもを思ひしほどは、世にまたとまりて片時経べくもおぼえず、恋しく悲しきことのたぐひあらじと思ひしを、命長くて今までもながらふれば、人の思ひたりしほどよりは、人にもなるやうなるありさまを、長かるべきこととは思はねど、見る限りは憎げなき御心ばへもてなしなるに、やうやう思ふこと薄らぎてありつるを、この折ふしの身の憂さはた、言はむ方なく、限りとおぼゆるわざなりけり。
 
 「幼いころから心細く哀れな姉妹で、世の中に執着などお持ちでなかった父宮お一方をお頼り申し上げて、あのような山里に何年も過ごしてきたが、いつとなく所在なく寂しい生活ではあったが、とてもこのように心にしみてこの世が嫌なものだと思わなかったが、引き続いて思いがけない肉親の死に遭って悲しんだ時は、この世にまた生き遺って片時も生き続けようとは思えず、悲しく恋しいことの例はあるまいと思ったが、命長く今まで生き永らえていたので、皆が思っていたほどよりは、人並みになったような有様が、長く続くこととは思わないが、一緒にいる限りは憎めないご愛情やお扱いであるが、だんだんと悩むことが薄らいできていたが、この度の身のつらさは、言いようもなく、最後だと思われることであった。
 
   ひたすら世になくなりたまひにし人びとよりは、さりともこれは、時々もなどかは、とも思ふべきを、今宵かく見捨てて出でたまふつらさ、来し方行く先、皆かき乱り心細くいみじきが、わが心ながら思ひやる方なく、心憂くもあるかな。
 おのづからながらへば」
 跡形もなくすっかりお亡くなりになってしまった方々よりは、いくらなんでも、宮とは時々でも何でお会いできないことがないだろうかと思ってもよいのだが、今夜このように見捨ててお出かけになるつらさが、過去も未来も、すべて分からなくなって、心細く悲しいのが、自分の心ながらも晴らしようもなく、嫌なことだわ。
 自然と生き永らえていればまた」
   など慰めむことを思ふに、さらに姨捨山の月澄み昇りて、夜更くるままによろづ思ひ乱れたまふ。
 松風の吹き来る音も、荒ましかりし山おろしに思ひ比ぶれば、いとのどかになつかしく、めやすき御住まひなれど、今宵はさもおぼえず、椎の葉の音には劣りて思ほゆ。
 
 などと慰めることを思うと、さらに姨捨山の月が澄み昇って、夜が更けて行くにつれて千々に心が乱れなさる。
 松風が吹いて来る音も、荒々しかった山下ろしに思い比べると、とてものんびりとやさしく、感じのよいお住まいであるが、今夜はそのようには思われず、椎の葉の音には劣った感じがする。
 
 

705
 「山里の 松の蔭にも かくばかり
 身にしむ秋の 風はなかりき」
 「山里の松の蔭でもこれほどに
  身にこたえる秋の風は経験しなかった」
 
   来し方忘れにけるにやあらむ。
 
 過去のつらかったことを忘れたのであろうか。
 
   老い人どもなど、  老女連中などは、
   「今は、入らせたまひね。
 月見るは忌みはべるものを。
 あさましく、はかなき御くだものをだに御覧じ入れねば、いかにならせたまはむ」と。
 「あな、見苦しや。
 ゆゆしう思ひ出でらるることもはべるを、いとこそわりなく」
 「もう、お入りなさいませ。
 月を見ることは忌むと言いますから。
 あきれてまあ、ちょっとした果物でさえお見向きもなさらないので、どのようにおなりあそばすのでしょう」と。
 「ああ、見苦しいこと。
 不吉にも思い出されることがございますが、まことに困ったこと」
   とうち嘆きて、  と溜息をついて、
   「いで、この御ことよ。
 さりとも、かうておろかには、よもなり果てさせたまはじ。
 さいへど、もとの心ざし深く思ひそめつる仲は、名残なからぬものぞ」
 「いえね、今度の殿の事ですよ。
 いくらなんでも、このままいい加減なお扱いで終わることはなされますまい。
 そうは言っても、もともと深い愛情で結ばれた仲は、すっかり切れてしまうものでございません」
   など言ひあへるも、さまざまに聞きにくく、「今は、いかにもいかにもかけて言はざらなむ、ただにこそ見め」と思さるるは、人には言はせじ、我一人怨みきこえむとにやあらむ。
 「いでや、中納言殿の、さばかりあはれなる御心深さを」など、そのかみの人びとは言ひあはせて、「人の御宿世のあやしかりけることよ」と言ひあへり。
 
 などと言い合っているのも、あれこれと聞きにくくて、「今はもう、どうあろうとも口に出して言うまい、ただ黙って見ていよう」とお思いなさるのは、人には言わせないで、自分独りお恨み申そうというのであろうか。
 「いえね、中納言殿が、あれほど親身なご親切でしたのに」などと、その当時からの女房たちは言い合って、「人のご運命のあやにくなことよ」と言い合っていた。
 
 
 

第三段 匂宮、六の君に後朝の文を書く

 
   宮は、いと心苦しく思しながら、今めかしき御心は、いかでめでたきさまに待ち思はれむと、心懸想して、えならず薫きしめたまへる御けはひ、言はむ方なし。
 待ちつけきこえたまへる所のありさまも、いとをかしかりけり。
 人のほど、ささやかにあえかになどはあらで、よきほどになりあひたる心地したまへるを、
 宮は、たいそうお気の毒にお思いになりながら、派手好きなご性格は、何とか立派な婿殿と期待されようと、気取って、何ともいえず素晴らしい香をたきしめなさったご様子は、申し分がない。
 お待ち申し上げていらっしゃるところの様子も、まことに素晴らしかった。
 身体つきは、小柄で華奢といったふうではなく、ちょうどよいほどに成人していらっしゃるのを、
   「いかならむ。
 ものものしくあざやぎて、心ばへもたをやかなる方はなく、ものほこりかになどやあらむ。
 さらばこそ、うたてあるべけれ」
 「どんなものかしら。
 もったいぶって気が強くて、気立ても柔らかいところがなく、何となく高慢な感じであろうか。
 それであったら、嫌な感じがするだろう」
   などは思せど、さやなる御けはひにはあらぬにや、御心ざしおろかなるべくも思されざりけり。
 秋の夜なれど、更けにしかばにや、ほどなく明けぬ。
 
 などとお思いになるが、そのようなご様子ではないのであろうか、ご執心はいい加減にはお思いなされなかった。
 秋の夜だが、更けてから行かれたからであろうか、まもなく明けてしまった。
 
   帰りたまひても、対へはふともえ渡りたまはず、しばし大殿籠もりて、起きてぞ御文書きたまふ。
 
 お帰りになっても、対の屋へはすぐにはお渡りなることができず、しばらくお寝みになって、起きてからお手紙をお書きになる。
 
   「御けしきけしうはあらぬなめり」  「ご様子は悪くはないようだわ」
   と、御前なる人びとつきじろふ。
 
 と御前の人びとがつつき合う。
 
   「対の御方こそ心苦しけれ。
 天下にあまねき御心なりとも、おのづからけおさるることもありなむかし」
 「対の御方はお気の毒だわ。
 どんなに広いお心であっても、自然と圧倒されることがきっとあるでしょう」
   など、ただにしもあらず、皆馴れ仕うまつりたる人びとなれば、やすからずうち言ふどももありて、すべて、なほねたげなるわざにぞありける。
 「御返りも、こなたにてこそは」と思せど、「夜のほどおぼつかなさも、常の隔てよりはいかが」と、心苦しければ、急ぎ渡りたまふ。
 
 などと、平気でいられず、みな親しくお仕えしている人びとなので、穏やかならず言う者もいて、総じて、やはり妬ましいことであった。
 「お返事も、こちらで」とお思いになったが、「夜の間の気がかりさも、いつものご無沙汰よりもどんなものか」と、気にかかるので、急いでお渡りになる。
 
   寝くたれの御容貌、いとめでたく見所ありて、入りたまへるに、臥したるもうたてあれば、すこし起き上がりておはするに、うち赤みたまへる顔の匂ひなど、今朝しもことにをかしげさまさりて見えたまふに、あいなく涙ぐまれて、しばしうちまもりきこえたまふを、恥づかしく思してうつ臥したまへる、髪のかかり、髪ざしなど、なほいとありがたげなり。
 
 寝起き姿のご容貌が、たいそう立派で見所があって、お入りになったので、臥せっているのも嫌なので、少し起き上がっていらっしゃると、ちょっと赤らんでいらっしゃる顔の美しさなどが、今朝は特にいつもより格別に美しさが増してお見えになるので、無性に涙ぐまれて、暫くの間じっとお見つめ申していらっしゃると、恥ずかしくお思いになってうつ伏せなさっている、髪のかかり具合、かっこうなどが、やはりまことに見事である。
 
   宮も、なまはしたなきに、こまやかなることなどは、ふともえ言ひ出でたまはぬ面隠しにや、  宮も、何か体裁悪いので、こまごまとしたことなどは、ちっともおっしゃらない照れ隠しであろうか、
   「などかくのみ悩ましげなる御けしきならむ。
 暑きほどのこととか、のたまひしかば、いつしかと涼しきほど待ち出でたるも、なほはればれしからぬは、見苦しきわざかな。
 さまざまにせさすることも、あやしく験なき心地こそすれ。
 さはありとも、修法はまた延べてこそはよからめ。
 験あらむ僧もがな。
 なにがし僧都をぞ、夜居にさぶらはすべかりける」
 「どうしてこうしてばかり苦しそうなご様子なのでしょう。
 暑いころのゆえとか、おっしゃっていたので、早く涼しいころになればと待っていたのに、依然として気分が良くならないのは、困ったことですわ。
 いろいろとさせていたことも、不思議に効果がない気がする。
 そうはいっても、修法はまた延長してよいだろう。
 効験のある僧はいないだろうか。
 何某僧都を、夜居に伺候させればよかった」
   など、やうなるまめごとをのたまへば、かかる方にも言よきは、心づきなくおぼえたまへど、むげにいらへきこえざらむも例ならねば、  など、といったような実際的なことをおっしゃるので、このような方面でも調子のよい話は、気にくわなく思われなさるが、全然お返事申し上げないのもいつもと違うので、
   「昔も、人に似ぬありさまにて、かやうなる折はありしかど、おのづからいとよくおこたるものを」  「昔も、人と違った体質で、このようなことはありましたが、自然と良くなったものです」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「いとよくこそ、さはやかなれ」  「とてもよくまあ、さっぱりしたものですね」
   とうち笑ひて、「なつかしく愛敬づきたる方は、これに並ぶ人はあらじかし」とは思ひながら、なほまた、とくゆかしき方の心焦られも立ち添ひたまへるは、御心ざしおろかにもあらぬなめりかし。
 
 とにっこりして、「やさしくかわいらしい点ではこ、の人に並ぶ者はいない」とは思いながら、やはりまた、早く逢いたい方への焦りの気持ちもお加わりになっているのは、ご愛情も並々ではないのであろうよ。
 
 
 

第四段 匂宮、中君を慰める

 
   されど、見たまふほどは変はるけぢめもなきにや、後の世まで誓ひ頼めたまふことどもの尽きせぬを聞くにつけても、げに、この世は短かめる命待つ間も、つらき御心に見えぬべければ、「後の契りや違はぬこともあらむ」と思ふにこそ、なほこりずまに、またも頼まれぬべけれとて、いみじく念ずべかめれど、え忍びあへぬにや、今日は泣きたまひぬ。
 
 けれど、向き合っていらっしゃる間は変わった変化もないのであろうか、来世まで誓いなさることの尽きないのを聞くにつけても、なるほど、この世は短い寿命を待つ間も、つらいお気持ちは表れるにきまっているので、「来世の約束も違わないことがあろうか」と思うと、やはり性懲りもなく、また頼らずにはいられないと思って、ひどく祈るようであるが、我慢することができなかったのか、今日は泣いておしまいになった。
 
   日ごろも、「いかでかう思ひけりと見えたてまつらじ」と、よろづに紛らはしつるを、さまざまに思ひ集むることし多かれば、さのみもえもて隠されぬにや、こぼれそめては、えとみにもためらはぬを、いと恥づかしくわびしと思ひて、いたく背きたまへば、しひてひき向けたまひつつ、  日頃も、「何とかこう悩んでいたと見られ申すまい」と、いろいろと紛らわしていたが、あれやこれやと思うことが多いので、そうばかりも隠していられなかったのか、涙がこぼれ出しては、すぐには止められないのを、とても恥ずかしくわびしいと思って、かたくなに横を向いていらっしゃるので、無理に前にお向けになって、
   「聞こゆるままに、あはれなる御ありさまと見つるを、なほ隔てたる御心こそありけれな。
 さらずは、夜のほどに思し変はりにたるか」
 「申し上げるままに、いとしいお方と思っていたのに、やはりよそよそしいお心がおありなのですね。
 そうでなければ、夜の間にお変わりになったのですか」
   とて、わが御袖して涙を拭ひたまへば、  と言って、ご自分のお袖で涙をお拭いになると、
   「夜の間の心変はりこそ、のたまふにつけて、推し量られはべりぬれ」  「夜の間の心変わりとは、そうおっしゃることによって、想像されました」
   とて、すこしほほ笑みぬ。
 
 と言って、少しにっこりした。
 
   「げに、あが君や、幼なの御もの言ひやな。
 されどまことには、心に隈のなければ、いと心やすし。
 いみじくことわりして聞こゆとも、いとしるかるべきわざぞ。
 むげに世のことわりを知りたまはぬこそ、らうたきものからわりなけれ。
 よし、わが身になしても思ひめぐらしたまへ。
 身を心ともせぬありさまなり。
 もし、思ふやうなる世もあらば、人にまさりける心ざしのほど、知らせたてまつるべきひとふしなむある。
 たはやすく言出づべきことにもあらねば、命のみこそ」
 「なるほど、あなたは、子供っぽいおっしゃりようですよ。
 けれどほんとうのところは、心に隠し隔てがないので、とても気楽だ。
 ひどくもっともらしく申し上げたところで、とてもはっきりと分かってしまうものです。
 まるきり夫婦の仲というものをご存知ないのは、かわいらしいものの困ったものです。
 よし、自分の身になって考えてください。
 この身を思うにまかせない状態です。
 もし、思うとおりにできる時がきたら、誰にもまさる愛情のほどを、お知らせ申し上げることが一つあるのです。
 簡単に口に出すべきことでないので、寿命があったら」
   などのたまふほどに、かしこにたてまつれたまへる御使、いたく酔ひ過ぎにければ、すこし憚るべきことども忘れて、けざやかにこの南面に参れり。
 
 などとおっしゃるうちに、あちらに差し上げなさったお使いが、ひどく酔い過ぎたので、少し遠慮すべきことも忘れて、おおっぴらにこの対の南面に参上した。
 
 
 

第五段 後朝の使者と中君の諦観

 
   海人の刈るめづらしき玉藻にかづき埋もれたるを、「さなめり」と、人びと見る。
 いつのほどに急ぎ書きたまへらむと見るも、やすからずはありけむかし。
 宮も、あながちに隠すべきにはあらねど、さしぐみはなほいとほしきを、すこしの用意はあれかしと、かたはらいたけれど、今はかひなければ、女房して御文とり入れさせたまふ。
 
 素晴らしく衣装を肩に被いて埋もれているのを、「そうらしい」と、女房たちは見る。
 いつの間に急いでお書きになったのだろうと見るのも、おもしろくなかったであろうよ。
 宮も、無理に隠すべきことでもないが、いきなり見せるのはやはりお気の毒なので、少しは気をつけてほしかったと、はらはらしたが、もうしかたがないので、女房をしてお手紙を受け取らせなさる。
 
   「同じくは、隔てなきさまにもてなし果ててむ」と思ほして、ひき開けたまへるに、「継母の宮の御手なめり」と見ゆれば、今すこし心やすくて、うち置きたまへり。
 宣旨書きにても、うしろめたのわざや。
 
 「同じことなら、すべて隠し隔てないようにしよう」とお思いになって、お開きになると、「継母の宮のご筆跡のようだ」と見えるので、少しは安心してお置きになった。
 代筆でも、気がかりなことであるよ。
 
   「さかしらは、かたはらいたさに、そそのかしはべれど、いと悩ましげにてなむ。
 
 「さし出でますことは、きまりが悪いので、お勧めしましたが、とても悩ましそうでしたので。
 
 

706
 女郎花 しをれぞまさる 朝露の
 いかに置きける 名残なるらむ」
  女郎花が一段と萎れています
  朝露がどのように置いていったせいなのでしょうか」
 
   あてやかにをかしく書きたまへり。
 
 上品で美しくお書きになっていた。
 
   「かことがましげなるもわづらはしや。
 まことは、心やすくてしばしはあらむと思ふ世を、思ひの外にもあるかな」
 「恨みがましい歌なのも厄介だね。
 ほんとうは、気楽に当分暮らしていようと思っていたのに、意外なことになったものだ」
   などはのたまへど、  などとはおっしゃるが、
   「また二つとなくて、さるべきものに思ひならひたるただ人の仲こそ、かやうなることの恨めしさなども、見る人苦しくはあれ、思へばこれはいと難し。
 つひにかかるべき御ことなり。
 宮たちと聞こゆるなかにも、筋ことに世人思ひきこえたれば、幾人も幾人も得たまはむことも、もどきあるまじければ、人も、この御方いとほしなども思ひたらぬなるべし。
 かばかりものものしくかしづき据ゑたまひて、心苦しき方、おろかならず思したるをぞ、幸ひおはしける」
 「また他に二人となくて、そのような仲に馴れている臣下の夫婦仲は、このようなことの恨めしさなども、見る人は気の毒にも思うが、思えばこの宮はとても難しい。
 結局はこのようになることである。
 宮様方と申し上げる中でも、将来を特に世間の人がお思い申し上げているので、幾人も幾人もお持ちになることも、非難されるべきことでないので、誰も、この方をお気の毒だなどと思わないのであろう。
 これほど重々しく大切にお住まわせになって、おいたわしくお思いになること、並々でなくお思いでいるのを、幸いでいらっしゃった」
   と聞こゆめる。
 みづからの心にも、あまりにならはしたまうて、にはかにはしたなかるべきが嘆かしきなめり。
 
 とお噂申し上げるようだ。
 自分自身の気持ちでも、あまり大事にしていてくださって、急に具合が悪くなるのが嘆かわしいのだろう。
 
   「かかる道を、いかなれば浅からず人の思ふらむと、昔物語などを見るにも、人の上にても、あやしく聞き思ひしは、げにおろかなるまじきわざなりけり」  「このような夫婦の問題を、どうして大問題扱いを人はするのだろうと、昔物語などを見るにつけても、人の身の上でも、不思議に聞いて思っていたのは、なるほど大変なことなのであった」
   と、わが身になりてぞ、何ごとも思ひ知られたまひける。
 
 と、自分の身になって、何事も理解されるのであった。
 
 
 

第六段 匂宮と六の君の結婚第二夜

 
   宮は、常よりもあはれに、うちとけたるさまにもてなしたまひて、  宮は、いつもよりも愛情深く、心を許した様子にお扱いをなさって、
   「むげにもの参らざなるこそ、いと悪しけれ」  「まったく食事をなさらないのは、とてもよくないことです」
   とて、よしある御くだもの召し寄せ、また、さるべき人召して、ことさらに調ぜさせなどしつつ、そそのかしきこえたまへど、いとはるかにのみ思したれば、「見苦しきわざかな」と嘆ききこえたまふに、暮れぬれば、夕つ方、寝殿へ渡りたまひぬ。
 
 と言って、結構な果物を持って来させて、また、しかるべき料理人を召して、特別に料理させなどして、お勧め申し上げなさるが、まるで手をお出しにならないので、「見ていられないことだ」とご心配申し上げなさっているうちに、日が暮れたので、夕方、寝殿へお渡りになった。
 
   風涼しく、おほかたの空をかしきころなるに、今めかしきにすすみたまへる御心なれば、いとどしく艶なるに、もの思はしき人の御心のうちは、よろづに忍びがたきことのみぞ多かりける。
 ひぐらしの鳴く声に、山の蔭のみ恋しくて、
 風が涼しく、いったいの空も趣きのあるころなので、派手好みでいらっしゃるご性分なので、ますます浮き浮きした気になって、物思いをしている方のご心中は、何事につけ堪え難いことばかりが多かったのである。
 蜩のなく声に、山里ばかりが恋しくて、
 

707
 「おほかたに 聞かましものを ひぐらしの
 声恨めしき 秋の暮かな」
 「宇治にいたら何気なく聞いただろうに
  蜩の声が恨めしい秋の暮だこと」
 
   今宵はまだ更けぬに出でたまふなり。
 御前駆の声の遠くなるままに、海人も釣すばかりになるも、「我ながら憎き心かな」と、思ふ思ふ聞き臥したまへり。
 はじめよりもの思はせたまひしありさまなどを思ひ出づるも、疎ましきまでおぼゆ。
 
 今夜はまだ更けないうちにお出かけになるようである。
 御前駆の声が遠くなるにつれて、海人が釣するくらいなるのも、「自分ながら憎い心だわ」と、思いながら聞き臥せっていらっしゃった。
 はじめから物思いをおさせになった頃のことなどを思い出すにつけても、疎ましいまでに思われる。
 
   「この悩ましきことも、いかならむとすらむ。
 いみじく命短き族なれば、かやうならむついでにもやと、はかなくなりなむとすらむ」
 「この悩ましいことも、どのようになるのであろう。
 たいそう短命な一族なので、このような折にでもと、亡くなってしまうのであろうか」
   と思ふには、「惜しからねど、悲しくもあり、またいと罪深くもあなるものを」など、まどろまれぬままに思ひ明かしたまふ。
 
 と思うと、「惜しくはないが、悲しくもあり、またとても罪深いことであるというが」などと、眠れないままに夜を明かしなさる。
 
 
 

第七段 匂宮と六の君の結婚第三夜の宴

 
   その日は、后の宮悩ましげにおはしますとて、誰も誰も、参りたまへれど、御風邪におはしましければ、ことなることもおはしまさずとて、大臣は昼まかでたまひにけり。
 中納言の君誘ひきこえたまひて、一つ御車にてぞ出でたまひにける。
 
 その日は、后の宮が悩ましそうでいらっしゃると聞いて、皆が皆、参内なさったが、お風邪でいらっしゃったので、格別のことはおありでないと聞いて、大臣は昼に退出なさったのであった。
 中納言の君をお誘い申されて、一台に相乗りしてお下がりになった。
 
   「今宵の儀式、いかならむ。
 きよらを尽くさむ」と思すべかめれど、限りあらむかし。
 この君も、心恥づかしけれど、親しき方のおぼえは、わが方ざまにまたさるべき人もおはせず、ものの栄にせむに、心ことにおはする人なればなめりかし。
 例ならずいそがしく参でたまひて、人の上に見なしたるを口惜しとも思ひたらず、何やかやともろ心に扱ひたまへるを、大臣は、人知れずなまねたしと思しけり。
 
 「今夜の儀式を、どのようにしよう。
 善美を尽くそう」と思っていらっしゃるらしいが、限度があるだろうよ。
 この君も、気が置ける方であるが、親しい人と思われる点では、自分の一族にまたそのような人もいらっしゃらず、祝宴の引き立て役にするには、また心格別でいらっしゃる方だからであろう。
 いつもと違って急いで参上なさって、人の身の上のことを残念だとも思わずに、何やかやと心を合わせてご協力なさるのを、大臣は、人には知られず憎らしいとお思いになるのであった。
 
   宵すこし過ぐるほどにおはしましたり。
 寝殿の南の廂、東に寄りて御座参れり。
 御台八つ、例の御皿など、うるはしげにきよらにて、また、小さき台二つに、花足の御皿なども、今めかしくせさせたまひて、餅参らせたまへり。
 めづらしからぬこと書きおくこそ憎けれ。
 
 宵が少し過ぎたころにおいでになった。
 寝殿の南の廂間の、東に寄った所にご座所を差し上げた。
 御台八つ、通例のお皿など、きちんと美しくて、また、小さい台二つに、華足の皿の類を、新しく準備させなさって、餅を差し上げなさった。
 珍しくもないことを書き置くのも気が利かないこと。
 
   大臣渡りたまひて、「夜いたう更けぬ」と、女房してそそのかし申したまへど、いとあざれて、とみにも出でたまはず。
 北の方の御はらからの左衛門督、藤宰相などばかりものしたまふ。
 
 大臣がお渡りになって、「夜がたいそう更けてしまった」と、女房を介して祝宴につくことをお促し申し上げなさるが、まことにしどけないお振る舞いで、すぐには出ていらっしゃらない。
 北の方のご兄弟の左衛門督や、藤宰相などばかりが伺候なさる。
 
   からうして出でたまへる御さま、いと見るかひある心地す。
 主人の頭中将、盃ささげて御台参る。
 次々の御土器、二度、三度参りたまふ。
 中納言のいたく勧めたまへるに、宮すこしほほ笑みたまへり。
 
 やっとお出になったご様子は、まことに見る効のある気がする。
 主人の頭中将が、盃をささげてお膳をお勧めする。
 次々にお盃を、二度、三度とお召し上がりになる。
 中納言がたいそうお勧めになるので、宮は少し苦笑なさった。
 
   「わづらはしきわたりを」  「やっかいな所だ」
   と、ふさはしからず思ひて言ひしを、思し出づるなめり。
 されど、見知らぬやうにて、いとまめなり。
 
 と、自分には不適当な所だと思って言ったのを、お思い出しになったようである。
 けれど、知らないふりして、たいそうまじめくさっている。
 
   東の対に出でたまひて、御供の人びともてはやしたまふ。
 おぼえある殿上人どもいと多かり。
 
 東の対にお出になって、お供の人々を歓待なさる。
 評判のよい殿上人連中もたいそう多かった。
 
   四位六人は、女の装束に細長添へて、五位十人は、三重襲の唐衣、裳の腰も皆けぢめあるべし。
 六位四人は、綾の細長、袴など。
 かつは、限りあることを飽かず思しければ、ものの色、しざまなどをぞ、きよらを尽くしたまへりける。
 
 四位の六人には、女の装束に細長を添えて、五位の十人には、三重襲の唐衣、裳の腰もすべて差異があるようである。
 六位の四人には、綾の細長、袴など。
 一方では、限度のあることを物足りなくお思いになったので、色合いや、仕立てなどに、善美をお尽くしになったのであった。
 
   召次、舎人などの中には、乱りがはしきまでいかめしくなむありける。
 げに、かくにぎははしくはなやかなることは、見るかひあれば、物語などに、まづ言ひたてたるにやあらむ。
 されど、詳しくはえぞ数へ立てざりけるとや。
 
 召次や、舎人などの中には、度を越すと思うほど立派であった。
 なるほど、このように派手で華美なことは、見る効あるので、物語などにも、さっそく言い立てたのであろうか。
 けれど、詳しくはとても数え上げられなかったとか。
 
 
 

第四章 薫の物語 中君に同情しながら恋慕の情高まる

 
 

第一段 薫、匂宮の結婚につけわが身を顧みる

 
   中納言殿の御前の中に、なまおぼえあざやかならぬや、暗き紛れに立ちまじりたりけむ、帰りてうち嘆きて、  中納言殿の御前駆の中に、あまり待遇がよくなかったのか、暗い物蔭に立ち交じっていたのだろうか、帰って来て嘆いて、
   「わが殿の、などかおいらかに、この殿の御婿にうちならせたまふまじき。
 あぢきなき御独り住みなりや」
 「わが殿は、どうしておとなしくて、この殿の婿におなりあそばさないのだろう。
 つまらない独身生活だよ」
   と、中門のもとにてつぶやきけるを聞きつけたまひて、をかしとなむ思しける。
 夜の更けてねぶたきに、かのもてかしづかれつる人びとは、心地よげに酔ひ乱れて寄り臥しぬらむかしと、うらやましきなめりかし。
 
 と、中門の側でぶつぶつ言っていたのをお聞きつけになって、おかしくお思いになるのであった。
 夜が更けて眠たいのに、あの歓待されている人びとは、気持ちよさそうに酔い乱れて寄り臥せってしまったのだろうと、羨ましいようである。
 
   君は、入りて臥したまひて、  君は、部屋に入ってお臥せりになって、
   「はしたなげなるわざかな。
 ことことしげなるさましたる親の出でゐて、離れぬなからひなれど、これかれ、火明くかかげて、勧めきこゆる盃などを、いとめやすくもてなしたまふめりつるかな」
 「きまりの悪いことだなあ。
 仰々しい父親が出て来て座って、縁遠くはない仲だが、あちこちに、火を明るく掲げて、お勧め申した盃事などを、とても体裁よくお振る舞いになったな」
   と、宮の御ありさまを、めやすく思ひ出でたてまつりたまふ。
 
 と、宮のお振舞を、無難であったとお思い出し申し上げなさる。
 
   「げに、我にても、よしと思ふ女子持たらましかば、この宮をおきたてまつりて、内裏にだにえ参らせざらまし」と思ふに、「誰れも誰れも、宮にたてまつらむと心ざしたまへる女は、なほ源中納言にこそと、とりどりに言ひならふなるこそ、わがおぼえの口惜しくはあらぬなめりな。
 さるは、いとあまり世づかず、古めきたるものを」など、心おごりせらる。
 
 「なるほど、自分でも、良いと思う女の子を持っていたら、この宮をお措き申しては、宮中にさえ入内させないだろう」と思うと、「誰も彼もが、宮に差し上げたいと志していらっしゃる娘は、やはり源中納言にこそと、それぞれ言っているらしいことは、自分の評判がつまらないものではないのだな。
 実のところは、あまり結婚に関心もなく、ぱっとしないのに」などと、大きな気持ちにおなりになる。
 
   「内裏の御けしきあること、まことに思したたむに、かくのみもの憂くおぼえば、いかがすべからむ。
 おもだたしきことにはありとも、いかがはあらむ。
 いかにぞ、故君にいとよく似たまへらむ時に、うれしからむかし」と思ひ寄らるるは、さすがにもて離るまじき心なめりかし。
 
 「帝の御内意のあることが、本当に御決意なさったら、このようにばかり何となく億劫にばかり思っていたら、どうしたものだろう。
 面目がましいことではあるが、どんなものだろうか。
 どうかな、亡くなった姫君にとてもよく似ていらっしゃったら、嬉しいことだろう」と自然と思い寄るのは、やはりまったく関心がないではないのであろうよ。
 
 
 

第二段 薫と按察使の君、匂宮と六の君

 
   例の、寝覚がちなるつれづれなれば、按察使の君とて、人よりはすこし思ひましたまへるが局におはして、その夜は明かしたまひつ。
 明け過ぎたらむを、人の咎むべきにもあらぬに、苦しげに急ぎ起きたまふを、ただならず思ふべかめり。
 
 いつものように、寝覚めがちな何もすることのないころなので、按察使の君といって、他の女房よりは少し気に入っていらっしゃる者の部屋にいらして、その夜は明かしなさった。
 夜の明け過ぎても、誰も非難するはずもないのに、つらそうに急いで起きなさるので、平気ではいられないようである。
 
 

708
 「うち渡し 世に許しなき 関川を
 みなれそめけむ 名こそ惜しけれ」
 「いったいに世間から認められない仲なのに
  お逢いし続けているという評判が立つのが辛うございます」
 
   いとほしければ、  気の毒なので、
 

709
 「深からず 上は見ゆれど 関川の
 下の通ひは 絶ゆるものかは」
 「深くないように表面は見えますが
  心の底では愛情の絶えることはありません」
 
   深しと、のたまはむにてだに頼もしげなきを、この上の浅さは、いとど心やましくおぼゆらむかし。
 妻戸押し開けて、
 深いと、おっしゃるだけでも頼りないのを、これ以上の浅さは、ますますつらく嫌に思われるであろうよ。
 妻戸を押し開けて、
   「まことは、この空見たまへ。
 いかでかこれを知らず顔にては明かさむとよ。
 艶なる人まねにてはあらで、いとど明かしがたくなり行く、夜な夜なの寝覚には、この世かの世までなむ思ひやられて、あはれなる」
 「ほんとうは、この空を御覧なさい。
 どうしてこれを知らない顔で夜を明かそうかよ。
 風流人を気取るのではないが、ますます明かしがたくなってゆく、夜々の寝覚めには、この世やあの世まで思い馳せられて、しんみりする」
   など、言ひ紛らはしてぞ出でたまふ。
 ことにをかしきことの数を尽くさねど、さまのなまめかしき見なしにやあらむ、情けなくなどは人に思はれたまはず。
 かりそめの戯れ言をも言ひそめたまへる人の、気近くて見たてまつらばや、とのみ思ひきこゆるにや、あながちに、世を背きたまへる宮の御方に、縁を尋ねつつ参り集まりてさぶらふも、あはれなること、ほどほどにつけつつ多かるべし。
 
 などと、言い紛らわしてお出になる。
 特に趣きのある言葉の数々は尽くさないが、態度が優美に見えるせいであろうか、情けのない人のようには誰からも思われなさらない。
 ちょっとした冗談を言いかけなさった女房で、お側近くに拝見したい、とばかりお思い申しているのか、強引に、出家なさった宮の御方に、縁故を頼っては頼って参集して仕えているのも、気の毒なことが、身分に応じて多いのであろう。
 
   宮は、女君の御ありさま、昼見きこえたまふに、いとど御心ざしまさりけり。
 おほきさよきほどなる人の、様体いときよげにて、髪のさがりば、頭つきなどぞ、ものよりことに、あなめでた、と見えたまひける。
 色あひあまりなるまで匂ひて、ものものしく気高き顔の、まみいと恥づかしげにらうらうじく、すべて何ごとも足らひて、容貌よき人と言はむに、飽かぬところなし。
 
 宮は、女君のご様子、昼間に拝見なさると、ますますお気持ちが深くなるのであった。
 背恰好も程よい人で、姿態はたいそう美しくて、髪のさがり具合、頭の恰好などは、人より格別にすぐれて、まあ素晴らしい、とお見えになるのであった。
 色艶があまりにもつやつやとして、堂々とした気品のある顔で、目もとがとてもこちらが恥ずかしくなるほど美しくかわいらしく、何から何まで揃っていて、器量のよい人というのに、足りないところがない。
 
   二十に一つ二つぞ余りたまへりける。
 いはけなきほどならねば、片なりに飽かぬところなく、あざやかに、盛りの花と見えたまへり。
 限りなくもてかしづきたまへるに、かたほならず。
 げに、親にては、心も惑はしたまひつべかりけり。
 
 二十歳を一、二歳越えていらっしゃった。
 幼い年ではないので、不十分で足りないところはなく、華やかで、花盛りのようにお見えになっていた。
 この上なく大事にお世話なさっていたので、不十分なところがない。
 なるほど、親としては、夢中になるのも無理からぬことであった。
 
   ただ、やはらかに愛敬づきらうたきことぞ、かの対の御方はまづ思ほし出でられける。
 もののたまふいらへなども、恥ぢらひたれど、また、あまりおぼつかなくはあらず、すべていと見所多く、かどかどしげなり。
 
 ただ、もの柔らかで魅力的でかわいらしい点では、あの対の御方がまっさきにお心に浮かぶのであった。
 何かおっしゃるお返事なども、恥じらっていらっしゃるが、また、あまりにはっきりしないことはなく、総じて実にとりえが多くて、才気がありそうである。
 
   よき若人ども三十人ばかり、童六人、かたほなるなく、装束なども、例のうるはしきことは、目馴れて思さるべかめれば、引き違へ、心得ぬまでぞ好みそしたまへる。
 三条殿腹の大君を、春宮に参らせたまへるよりも、この御ことをば、ことに思ひおきてきこえたまへるも、宮の御おぼえありさまからなめり。
 
 器量のよい若い女房連中を三十人ほど、童女を六人、整っていないのはなく、装束なども、例によって格式ばったことは、目馴れてお思いになるだろうから、変わって、いかがと思われるまで趣向をお凝らしになっていた。
 三条殿腹の大君を、東宮に参内させなさった時よりも、この儀式を、特別にお考えおきなさっていたのも、宮のご評判や様子からのようである。
 
 
 

第三段 中君と薫、手紙を書き交す

 
   かくて後、二条院に、え心やすく渡りたまはず。
 軽らかなる御身ならねば、思すままに、昼のほどなどもえ出でたまはねば、やがて同じ南の町に、年ごろありしやうにおはしまして、暮るれば、また、え引き避きても渡りたまはずなどして、待ち遠なる折々あるを、
 こうして後は、二条院に、気安くお渡りになれない。
 軽々しいご身分でないので、お考えのままに、昼間の時間もお出になることができないので、そのまま同じ六条院の南の町に、以前に住んでいたようにおいでになって、暮れると、再び、この君を避けてあちらへお渡りになることもできないなどして、待ち遠しい時々があるが、
   「かからむとすることとは思ひしかど、さしあたりては、いとかくやは名残なかるべき。
 げに、心あらむ人は、数ならぬ身を知らで、交じらふべき世にもあらざりけり」
 「このようなことになるとは思っていたが、当面すると、まるっきり変わってしまうものであろうか。
 なるほど、思慮深い人は、物の数にも入らない身分で、結婚すべきではなかった」
   と、返す返すも山路分け出でけむほど、うつつともおぼえず悔しく悲しければ、  と、繰り返し山里を出て来た当座のことを、現実とも思われず悔しく悲しいので、
   「なほ、いかで忍びて渡りなむ。
 むげに背くさまにはあらずとも、しばし心をも慰めばや。
 憎げにもてなしなどせばこそ、うたてもあらめ」
 「やはり、何とかしてこっそりと帰りたい。
 まるっきり縁が切れるというのでなくとも、暫く気を休めたいものだ。
 憎らしそうに振る舞ったら、嫌なことであろう」
   など、心一つに思ひあまりて、恥づかしけれど、中納言殿に文たてまつれたまふ。
 
 などと、胸一つに思いあまって、恥ずかしいが、中納言殿に手紙を差し上げなさる。
 
   「一日の御ことをば、阿闍梨の伝へたりしに、詳しく聞きはべりにき。
 かかる御心の名残なからましかば、いかにいとほしくと思ひたまへらるるにも、おろかならずのみなむ。
 さりぬべくは、みづからも」
 「先日の御事は、阿闍梨が伝えてくれたので、詳しくお聞きしました。
 このようなご親切がなかったら、どんなにかおいたわしいことかと存じられますにつけても、深く感謝申し上げております。
 できますことなら、親しくお礼を」
   と聞こえたまへり。
 
 と申し上げなさった。
 
   陸奥紙に、ひきつくろはずまめだち書きたまへるしも、いとをかしげなり。
 宮の御忌日に、例のことどもいと尊くせさせたまへりけるを、喜びたまへるさまの、おどろおどろしくはあらねど、げに、思ひ知りたまへるなめりかし。
 例は、これよりたてまつる御返りをだに、つつましげに思ほして、はかばかしくも続けたまはぬを、「みづから」とさへのたまへるが、めづらしくうれしきに、心ときめきもしぬべし。
 
 陸奥紙に、しゃれないできちんとお書きになっているのが、実に美しい。
 宮のご命日に、例の法事をとても尊くおさせになったのを、喜んでいらっしゃる様子が、仰々しくはないが、なるほど、お分かりになったようである。
 いつもは、こちらから差し上げるお返事でさえ、遠慮深そうにお思いになって、てきぱきともお書きにならないのに、「親しくお礼を」とまでおっしゃったのが、珍しく嬉しいので、心ときめきするにちがいない。
 
   宮の今めかしく好みたちたまへるほどにて、思しおこたりけるも、げに心苦しく推し量らるれば、いとあはれにて、をかしやかなることもなき御文を、うちも置かず、ひき返しひき返し見ゐたまへり。
 御返りは、
 宮が新しい女性に関心を寄せていらっしゃる時なので、疎かにお扱いになっていたのも、なるほどおいたわしく推察されるので、たいそう気の毒になって、風流なこともないお手紙を、下にも置かず、繰り返し繰り返し御覧になっていた。
 お返事は、
   「承りぬ。
 一日は、聖だちたるさまにて、ことさらに忍びはべしも、さ思ひたまふるやうはべるころほひにてなむ。
 名残とのたまはせたるこそ、すこし浅くなりにたるやうにと、恨めしく思うたまへらるれ。
 よろづはさぶらひてなむ。
 あなかしこ」
 「承知いたしました。
 先日は、修行者のような恰好で、わざとこっそり参りましたが、そのように考えますような事情がございましたときですので。
 引き続いてとおっしゃってくださるのは、わたしの気持ちが少し薄くなったようだからかと、恨めしく存じられます。
 何もかも伺いましてから。
 恐惶謹言」
   と、すくよかに、白き色紙のこはごはしきにてあり。
 
 と、きまじめに、白い色紙でごわごわとしたのに書いてある。
 
 
 

第四段 薫、中君を訪問して慰める

 
   さて、またの日の夕つ方ぞ渡りたまへる。
 人知れず思ふ心し添ひたれば、あいなく心づかひいたくせられて、なよよかなる御衣どもを、いとど匂はし添へたまへるは、あまりおどろおどろしきまであるに、丁子染の扇の、もてならしたまへる移り香などさへ、喩へむ方なくめでたし。
 
 そうして、翌日の夕方にお渡りになった。
 人知れず思う気持ちがあるので、無性に気づかいがされて、柔らかなお召し物類を、ますます匂わしなさっているのは、あまりに大げさなまでにあるので、丁子染の扇の、お持ちつけになっている移り香などまでが、譬えようもなく素晴らしい。
 
   女君も、あやしかりし夜のことなど、思ひ出でたまふ折々なきにしもあらねば、まめやかにあはれなる御心ばへの、人に似ずものしたまふを見るにつけても、「さてあらましを」とばかりは思ひやしたまふらむ。
 
 女君も、不思議な事であった夜のことなどを、お思い出しになる折々がないではないので、誠実で情け深いお気持ちが、誰とも違っていらっしゃるのを見るにつけても、「この人と一緒になればよかった」とお思いになるのだろう。
 
   いはけなきほどにしおはせねば、恨めしき人の御ありさまを思ひ比ぶるには、何事もいとどこよなく思ひ知られたまふにや、常に隔て多かるもいとほしく、「もの思ひ知らぬさまに思ひたまふらむ」など思ひたまひて、今日は、御簾の内に入れたてまつりたまひて、母屋の簾に几帳添へて、我はすこしひき入りて対面したまへり。
 
 幼いお年でもいらっしゃらないので、恨めしい方のご様子を比較すると、何事もますますこの上なく思い知られなさるのか、いつも隔てが多いのもお気の毒で、「物の道理を弁えないとお思いなさるだろう」などとお思いになって、今日は、御簾の内側にお入れ申し上げなさって、母屋の御簾に几帳を添えて、自分は少し奥に入ってお会いなさった。
 
   「わざと召しとはべらざりしかど、例ならず許させたまへりし喜びに、すなはちも参らまほしくはべりしを、宮渡らせたまふと承りしかば、折悪しくやはとて、今日になしはべりにける。
 さるは、年ごろの心のしるしもやうやうあらはれはべるにや、隔てすこし薄らぎはべりにける御簾の内よ。
 めづらしくはべるわざかな」
 「特にお呼びということではございませんでしたが、いつもと違ってお許しあそばしたお礼に、すぐにも参上したく思いましたが、宮がお渡りあそばすとお聞きいたしましたので、折が悪くてはと思って、今日にいたしました。
 一方では、長年の誠意もだんだん分かっていただけましたのか、隔てが少し薄らぎました御簾の内ですね。
 珍しいことですね」
   とのたまふに、なほいと恥づかしく、言ひ出でむ言葉もなき心地すれど、  とおっしゃるが、やはりとても恥ずかしくて、言い出す言葉もない気がするが、
   「一日、うれしく聞きはべりし心の内を、例の、ただ結ぼほれながら過ぐしはべりなば、思ひ知る片端をだに、いかでかはと、口惜しさに」  「先日、嬉しく聞きました心の中を、いつものように、ただ仕舞い込んだまま過ごしてしまったら、感謝の気持ちの一部分だけでも、何とかして知ってもらえようかと、口惜しいので」
   と、いとつつましげにのたまふが、いたくしぞきて、絶え絶えほのかに聞こゆれば、心もとなくて、  と、いかにも慎ましそうにおっしゃるのが、たいそう奥の方に身を引いて、途切れ途切れにかすかに申し上げるので、もどかしく思って、
   「いと遠くもはべるかな。
 まめやかに聞こえさせ、承らまほしき世の御物語もはべるものを」
 「とても遠くでございますね。
 心からお話し申し上げ、またお聞き致したい世間話もございますので」
   とのたまへば、げに、と思して、すこしみじろき寄りたまふけはひを聞きたまふにも、ふと胸うちつぶるれど、さりげなくいとど静めたるさまして、宮の御心ばへ、思はずに浅うおはしけりとおぼしく、かつは言ひも疎め、また慰めも、かたがたにしづしづと聞こえたまひつつおはす。
 
 とおっしゃると、なるほど、とお思いになって、少しいざり出てお近寄りになる様子をお聞きなさるにつけても、胸がどきりとするが、平静を装いますます冷静な態度をして、宮のご愛情が、意外にも浅くおいでであったとお思いで、一方では批判したり、また一方では慰めたりして、それぞれについて落ち着いて申し上げていらっしゃる。
 
 
 

第五段 中君、薫に宇治への同行を願う

 
   女君は、人の御恨めしさなどは、うち出で語らひきこえたまふべきことにもあらねば、ただ、世やは憂きなどやうに思はせて、言少なに紛らはしつつ、山里にあからさまに渡したまへとおぼしく、いとねむごろに思ひてのたまふ。
 
 女君は、宮の恨めしさなどは、口に出して申し上げなさるようなことでもないので、ただ、自分だけがつらいように思わせて、言葉少なに紛らわしては、山里にこっそりとお連れくださいとのお思いで、たいそう熱心に申し上げなさる。
 
   「それはしも、心一つにまかせては、え仕うまつるまじきことにはべり。
 なほ、宮にただ心うつくしく聞こえさせたまひて、かの御けしきに従ひてなむよくはべるべき。
 さらずは、すこしも違ひ目ありて、心軽くもなど思しものせむに、いと悪しくはべりなむ。
 さだにあるまじくは、道のほども御送り迎へも、おりたちて仕うまつらむに、何の憚りかははべらむ。
 うしろやすく人に似ぬ心のほどは、宮も皆知らせたまへり」
 「そのことは、わたしの一存では、お世話できないことです。
 やはり、宮にただ素直にお話し申し上げなさって、あの方のご様子に従うのがよいことです。
 そうでなかったら、少しでも行き違いが生じて、軽率だなどとお考えになるだろうから、大変悪いことになりましょう。
 そういう心配さえなければ、道中のお送りや迎えも、自らお世話申しても、何の遠慮がございましょう。
 安心で人と違った性分は、宮もみなご存知でいらっしゃいました」
   などは言ひながら、折々は、過ぎにし方の悔しさを忘るる折なく、ものにもがなやと、取り返さまほしきと、ほのめかしつつ、やうやう暗くなりゆくまでおはするに、いとうるさくおぼえて、  などと言いながら、時々は、過ぎ去った昔の悔しさが忘れる折もなく、できることなら昔を今に取り戻したいと、ほのめかしながら、だんだん暗くなって行くまでおいでになるので、とてもわずらわしくなって、
   「さらば、心地も悩ましくのみはべるを、また、よろしく思ひたまへられむほどに、何事も」  「それでは、気分も悪くなるばかりですので、また、よおろしくなった折に、どのような事でも」
   とて、入りたまひぬるけしきなるが、いと口惜しければ、  と言って、お入りになってしまった様子なのが、とても残念なので、
   「さても、いつばかり思し立つべきにか。
 いとしげくはべし道の草も、すこしうち払はせはべらむかし」
 「それでは、いつごろにお立ちになるつもりですか。
 たいそう茂っていた道の草も、少し刈り払わせましょう」
   と、心とりに聞こえたまへば、しばし入りさして、  と機嫌を取って申し上げなさると、少し奥に入りかけて、
   「この月は過ぎぬめれば、朔日のほどにも、とこそは思ひはべれ。
 ただ、いと忍びてこそよからめ。
 何か、世の許しなどことことしく」
 「今月は終わってしまいそうなので、来月の朔日頃にも、と思っております。
 ただ、とても人目に立たないのがよいでしょう。
 どうして、夫の許可など仰々しく必要でしょう」
   とのたまふ声の、「いみじくらうたげなるかな」と、常よりも昔思ひ出でらるるに、えつつみあへで、寄りゐたまへる柱もとの簾の下より、やをらおよびて、御袖をとらへつ。
 
 とおっしゃる声が、「何ともかわいらしいな」と、いつもより亡き大君が思い出されるので、堪えきれないで、寄り掛かっていらっしゃった柱の側の簾の下から、そっと手を伸ばして、お袖を捉えた。
 
 
 

第六段 薫、中君に迫る

 
   女、「さりや、あな心憂」と思ふに、何事かは言はれむ、ものも言はで、いとど引き入りたまへば、それにつきていと馴れ顔に、半らは内に入りて添ひ臥したまへり。
 
 女は、「やはり、そうだった、ああ嫌な」と思うが、何を言うことができようか、何も言わないで、ますます奥にお入りになるので、その後についてとても物馴れた態度で、半分は御簾の内に入って添い臥せりなさった。
 
   「あらずや。
 忍びてはよかるべく思すこともありけるがうれしきは、ひが耳か、聞こえさせむとぞ。
 疎々しく思すべきにもあらぬを、心憂のけしきや」
 「そうではありません。
 人目に立たないようにとはよいことをお考えになったことが嬉しく思えたのは、聞き違いでしょうか、それを伺おうと思いまして。
 よそよそしくお思いになるべき問題でもないのでに、情けない待遇ですね」
   と怨みたまへば、いらへすべき心地もせず、思はずに憎く思ひなりぬるを、せめて思ひしづめて、  とお恨みになると、お返事できる気もなくて、意外にも憎く思う気になるのを、無理に落ち着いて、
   「思ひの外なりける御心のほどかな。
 人の思ふらむことよ。
 あさまし」
 「意外なお気持ちですね。
 女房たちがどう思いましょう。
 あきれたこと」
   とあはめて、泣きぬべきけしきなる、すこしはことわりなれば、いとほしけれど、  と軽蔑して、泣いてしまいそうな様子なのは、少しは無理もないことなので、お気の毒とは思うが、
   「これは咎あるばかりのことかは。
 かばかりの対面は、いにしへをも思し出でよかし。
 過ぎにし人の御許しもありしものを。
 いとこよなく思しけるこそ、なかなかうたてあれ。
 好き好きしくめざましき心はあらじと、心やすく思ほせ」
 「これは非難されるほどのことでしょうか。
 この程度の面会は、昔を思い出してくださいな。
 亡くなった姉君のお許しもあったのに。
 とても疎々しくお思いになっていらっしゃるとは、かえって嫌な気がします。
 好色がましい目障りな気持ちはないと、安心してください」
   とて、いとのどやかにはもてなしたまへれど、月ごろ悔しと思ひわたる心のうちの、苦しきまでなりゆくさまを、つくづくと言ひ続けたまひて、許すべきけしきにもあらぬに、せむかたなく、いみじとも世の常なり。
 なかなか、むげに心知らざらむ人よりも、恥づかしく心づきなくて、泣きたまひぬるを、
 と言って、たいそう穏やかに振る舞っていらっしゃるが、幾月もずっと後悔していた心中が、堪え難く苦しいまでになって行く様子を、つくづくと話し続けなさって、袖を放しそうな様子もないので、どうしようもなく、大変だと言ったのでは月並な表現である。
 かえって、まったく気持ちを知らない人よりも、恥ずかしく気にくわなくて、泣いてしまわれたのを、
   「こは、なぞ。
 あな、若々し」
 「これは、どうしましたか。
 何とも、幼げない」
   とは言ひながら、言ひ知らずらうたげに、心苦しきものから、用意深く恥づかしげなるけはひなどの、見しほどよりも、こよなくねびまさりたまひにけるなどを見るに、「心からよそ人にしなして、かくやすからずものを思ふこと」と悔しきにも、またげに音は泣かれけり。
 
 とは言いながらも、何とも言えずかわいらしく、お気の毒に思う一方で、心配りが深くこちらが恥ずかしくなるような態度などが、以前に一夜を共にした当時よりも、すっかり成人なさったのを見ると、「自分から他人に譲って、このようにつらい思いをすることよ」と悔しいのにつけても、また自然泣かれるのであった。
 
 
 

第七段 薫、自制して退出する

 
   近くさぶらふ女房二人ばかりあれど、すずろなる男のうち入り来たるならばこそは、こはいかなることぞとも、参り寄らめ、疎からず聞こえ交はしたまふ御仲らひなめれば、さるやうこそはあらめと思ふに、かたはらいたければ、知らず顔にてやをらしぞきぬるに、いとほしきや。
 
 近くに伺候している女房が二人ほどいるが、何の関係のない男が入って来たのならば、これはどうしたことかと、近寄り集まろうが、親しくご相談し合っている仲のようなので、何か子細があるのだろうと思うと、側にいずらいので、知らない顔をしてそっと離れて行ったのは、お気の毒なことだ。
 
   男君は、いにしへを悔ゆる心の忍びがたさなども、いと静めがたかりぬべかめれど、昔だにありがたかりし心の用意なれば、なほいと思ひのままにももてなしきこえたまはざりけり。
 かやうの筋は、こまかにもえなむまねび続けざりける。
 かひなきものから、人目のあいなきを思へば、よろづに思ひ返して出でたまひぬ。
 
 男君は、昔を後悔する心の堪えがたさなども、とても静め難いようであるが、昔でさえめったになかったお心配りなので、やはりとても思いのままにも無体な振る舞いはなさらないのだった。
 このような場面は、詳細に語り続けることはできないのであった。
 不本意ながら、人目の悪いことを思うと、あれやこれやと思い返してお出になった。
 
   まだ宵と思ひつれど、暁近うなりにけるを、見とがむる人もやあらむと、わづらはしきも、女の御ためのいとほしきぞかし。
 
 まだ宵とは思っていたが、暁近くになったのを、見咎める人もあろうかと、厄介なのも、女方の御ためにはお気の毒である。
 
   「悩ましげに聞きわたる御心地は、ことわりなりけり。
 いと恥づかしと思したりつる腰のしるしに、多くは心苦しくおぼえてやみぬるかな。
 例のをこがましの心や」と思へど、「情けなからむことは、なほいと本意なかるべし。
 また、たちまちのわが心の乱れにまかせて、あながちなる心をつかひて後、心やすくしもはあらざらむものから、わりなく忍びありかむほども心尽くしに、女のかたがた思し乱れむことよ」
 「身体が悪そうだと聞いていたご気分は、もっともなことであった。
 とても恥ずかしいとお思いでいらした腰の帯を見て、大部分はお気の毒に思われてやめてしまったなあ。
 いつもの馬鹿らしい心だ」と思うが、「情けのない振る舞いは、やはり不本意なことだろう。
 また、一時の自分の心の乱れにまかせて、むやみな考えをしでかして後、気安くなくなってしまうものの、無理をして忍びを重ねるのも苦労が多いし、女方があれこれ思い悩まれることであろう」
   など、さかしく思ふにせかれず、今の間も恋しきぞわりなかりける。
 さらに見ではえあるまじくおぼえたまふも、返す返すあやにくなる心なりや。
 
 などと、冷静に考えても抑えきれず、今の間も恋しいのは困ったことであった。
 ぜひとも会わなくては生きていられないように思われなさるのも、重ね重ねどうにもならない恋心であるよ。
 
 
 

第五章 中君の物語 中君、薫の後見に感謝しつつも苦悩す

 
 

第一段 翌朝、薫、中君に手紙を書く

 
   昔よりはすこし細やぎて、あてにらうたかりつるけはひなどは、立ち離れたりともおぼえず、身に添ひたる心地して、さらに異事もおぼえずなりにたり。
 
 昔よりは少し痩せ細って、上品でかわいらしかった様子などは、今離れている気もせず、わが身に添っている感じがして、まったく他の事は考えられなくなっていた。
 
   「宇治にいと渡らまほしげに思いためるを、さもや、渡しきこえてまし」など思へど、「まさに宮は許したまひてむや。
 さりとて、忍びてはた、いと便なからむ。
 いかさまにしてかは、人目見苦しからで、思ふ心のゆくべき」と、心もあくがれて眺め臥したまへり。
 
 「宇治にたいそう行きたくお思いであったようなのを、そのように、行かせてあげようか」などと思うが、「どうして宮がお許しになろうか。
 そうかといって、こっそりとお連れしたのでは、また不都合があろう。
 どのようにして、人目にも見苦しくなく、思い通りにゆくだろう」と、気も茫然として物思いに耽っていらっしゃった。
 
   まだいと深き朝に御文あり。
 例の、うはべはけざやかなる立文にて、
 まだたいそう朝早くにお手紙がある。
 いつものように、表面はきっぱりした立文で、
 

710
 「いたづらに 分けつる道の 露しげみ
 昔おぼゆる 秋の空かな
 「無駄に歩きました道の露が多いので
  昔が思い出されます秋の空模様ですね
 
   御けしきの心憂さは、ことわり知らぬつらさのみなむ。
 聞こえさせむ方なく」
 お振る舞いの情けないことは、わけの分からないつらさです。
 申し上げようもありません」
   とあり。
 御返しなからむも、人の、例ならずと見とがむべきを、いと苦しければ、
 とある。
 お返事がないのも、女房が、いつもと違うと注意するだろうから、とても苦しいので、
   「承りぬ。
 いと悩ましくて、え聞こえさせず」
 「拝見しました。
 とても気分が悪くて、お返事申し上げられません」
   とばかり書きつけたまへるを、「あまり言少ななるかな」とさうざうしくて、をかしかりつる御けはひのみ恋しく思ひ出でらる。
 
 とだけお書きつけになっているのを、「あまりに言葉が少ないな」と物足りなく思って、美しかったご様子ばかりが恋しく思い出される。
 
   すこし世の中をも知りたまへるけにや、さばかりあさましくわりなしとは思ひたまへりつるものから、ひたぶるにいぶせくなどはあらで、いとらうらうじく恥づかしげなるけしきも添ひて、さすがになつかしく言ひこしらへなどして、出だしたまへるほどの心ばへなどを思ひ出づるも、ねたく悲しく、さまざまに心にかかりて、わびしくおぼゆ。
 何事も、いにしへにはいと多くまさりて思ひ出でらる。
 
 少しは男女の仲をご存知になったのだろうか、あれほどあきれてひどいとお思いになっていたが、一途に厭わしくはなく、たいそう立派にこちらが恥ずかしくなるような感じも加わって、はやり何といってもやさしく言いなだめなどして、お帰りになったときの心づかいを思い出すと、悔しく悲しく、いろいろと心にかかって、侘しく思われる。
 何事も、昔よりもたいそうたくさん立派になったと思い出される。
 
   「何かは。
 この宮離れ果てたまひなば、我を頼もし人にしたまふべきにこそはあめれ。
 さても、あらはれて心やすきさまにえあらじを、忍びつつまた思ひます人なき、心のとまりにてこそはあらめ」
 「何かまうものか。
 この宮が離れておしまいになったならば、わたしを頼りとする人になさるにちがいなかろう。
 そうなったとしても、公然と気安く会うことはできないだろうが、忍ぶ仲ながらまたこの人以上の人はいない、最後の人となるであろう」
   など、ただこの事のみ、つとおぼゆるぞ、けしからぬ心なるや。
 さばかり心深げにさかしがりたまへど、男といふものの心憂かりけることよ。
 亡き人の御悲しさは、言ふかひなきことにて、いとかく苦しきまではなかりけり。
 これは、よろづにぞ思ひめぐらされたまひける。
 
 などと、ただこのことばかりを、じっと考え続けていらっしゃるのは、よくない心であるよ。
 あれほど思慮深そうに賢人ぶっていらっしゃるが、男性というものは嫌なものであることよ。
 亡くなった人のお悲しみは、言ってもはじまらないことで、とてもこうまで苦しいことではなかった。
 今度のことは、あれこれと思案なさるのであった。
 
   「今日は、宮渡らせたまひぬ」  「今日は、宮がお渡りあそばしました」
   など、人の言ふを聞くにも、後見の心は失せて、胸うちつぶれて、いとうらやましくおぼゆ。
 
 などと、人が言うのを聞くにつけても、後見人の考えは消えて、胸のつぶれる思いで、羨ましく思われる。
 
 
 

第二段 匂宮、帰邸して、薫の移り香に不審を抱く

 
   宮は、日ごろになりにけるは、わが心さへ恨めしく思されて、にはかに渡りたまへるなりけり。
 
 宮は、何日もご無沙汰しているのは、自分自身でさえ恨めしく思われなさって、急にお渡りになったのであった。
 
   「何かは、心隔てたるさまにも見えたてまつらじ。
 山里にと思ひ立つにも、頼もし人に思ふ人も、疎ましき心添ひたまへりけり」
 「何とか、心に隔てをおいているようにはお見せ申すまい。
 山里にと思い立つにつけても、頼りにしている人も、嫌な心がおありだったのだわ」
   と見たまふに、世の中いと所狭く思ひなられて、「なほいと憂き身なりけり」と、「ただ消えせぬほどは、あるにまかせて、おいらかならむ」と思ひ果てて、いとらうたげに、うつくしきさまにもてなしてゐたまへれば、いとどあはれにうれしく思されて、日ごろのおこたりなど、限りなくのたまふ。
 
 とお思いになると、世の中がとても身の置き所なく思わずにはいられなくなって、「やはり嫌な身の上であった」と、「ただ死なない間は、生きているのにまかせて、おおらかにしていよう」と思いあきらめて、とてもかわいらしそうに美しく振る舞っていらっしゃるので、ますますいとしく嬉しくお思いになって、何日ものご無沙汰など、この上なくおっしゃる。
 
   御腹もすこしふくらかになりにたるに、かの恥ぢたまふしるしの帯の引き結はれたるほどなど、いとあはれに、まだかかる人を近くても見たまはざりければ、めづらしくさへ思したり。
 うちとけぬ所にならひたまひて、よろづのこと、心やすくなつかしく思さるるままに、おろかならぬ事どもを、尽きせず契りのたまふを聞くにつけても、かくのみ言よきわざにやあらむと、あながちなりつる人の御けしきも思ひ出でられて、年ごろあはれなる心ばへなどは思ひわたりつれど、かかる方ざまにては、あれをもあるまじきことと思ふにぞ、この御行く先の頼めは、いでや、と思ひながらも、すこし耳とまりける。
 
 お腹も少しふっくらとなっていたので、あのお恥じらいになるしるしの腹帯が結ばれているところなど、たいそういじらしく、まだこのような人を近くに御覧になったことがないので、珍しくまでお思いになっていた。
 気の置けるところに居続けなさって、万事が、気安く懐かしくお思いになるままに、並々ならぬことを、尽きせず約束なさるのを聞くにつけても、こうして口先ばかり上手なのではないかと、無理なことを迫った方のご様子も思い出されて、長年親切な気持ちと思い続けていたが、このようなことでは、あの方も許せないと思うと、この方の将来の約束は、どうかしら、と思いながらも、少しは耳がとまるのであった。
 
   「さても、あさましくたゆめたゆめて、入り来たりしほどよ。
 昔の人に疎くて過ぎにしことなど語りたまひし心ばへは、げにありがたかりけりと、なほうちとくべくはた、あらざりけりかし」
 「それにしても、あきれるくらいに油断させておいて、入って来たことよ。
 亡くなった姉君と関係なく終わってしまったことなどお話になった気持ちは、なるほど立派であったと、やはり気を許すことはあってはならないのだった」
   など、いよいよ心づかひせらるるにも、久しくとだえたまはむことは、いともの恐ろしかるべくおぼえたまへば、言に出でては言はねど、過ぎぬる方よりは、すこしまつはしざまにもてなしたまへるを、宮はいとど限りなくあはれと思ほしたるに、かの人の御移り香の、いと深くしみたまへるが、世の常の香の香に入れ薫きしめたるにも似ず、しるき匂ひなるを、その道の人にしおはすれば、あやしととがめ出でたまひて、いかなりしことぞと、けしきとりたまふに、ことのほかにもて離れぬことにしあれば、言はむ方なくわりなくて、いと苦しと思したるを、  などと、ますます心配りがされるにつけても、久しくご無沙汰が続きなさることは、とても何となく恐ろしいように思われなさるので、口に出して言わないが、今までよりは、少し引きつけるように振る舞っていらっしゃるのを、宮はますますこの上なくいとしいとお思いになっていらっしゃると、あの方の御移り香が、たいそう深く染みていらっしゃるのが、世の常の香をたきしめたのと違って、はっきりとした薫りなのを、その道の達人でいらっしゃるので、妙だと不審をいだきなさって、どうしたことかと、様子を伺いなさるので、見当外れのことでもないので、言いようもなく困って、ほんとうにつらいとお思いになっていらっしゃるのを、
   「さればよ。
 かならずさることはありなむ。
 よも、ただには思はじ、と思ひわたることぞかし」
 「そうであったか。
 きっとそのようなことはあるにちがいない。
 よもや、平気でいられるはずがない、とずっと思っていたことだ」
   と御心騷ぎけり。
 さるは、単衣の御衣なども、脱ぎ替へたまひてけれど、あやしく心より外にぞ身にしみにける。
 
 とお心が騒ぐのだった。
 その実、単衣のお召し物類は、脱ぎ替えなさっていたが、不思議と意外にも身にしみついていたのであった。
 
   「かばかりにては、残りありてしもあらじ」  「こんなに薫っていては、何もかも許したのであろう」
   と、よろづに聞きにくくのたまひ続くるに、心憂くて、身ぞ置き所なき。
 
 と、すべてに聞きにくくおっしゃり続けるので、情けなくて、身の置き所もない。
 
   「思ひきこゆるさまことなるものを、我こそ先になど、かやうにうち背く際はことにこそあれ。
 また御心おきたまふばかりのほどやは経ぬる。
 思ひの外に憂かりける御心かな」
 「お愛し申し上げているのは格別なのに、捨てられるなら自分から先になどと、このように裏切るのは身分の低い者のすることです。
 また隔て心をお置きになるほどご無沙汰をしたでしょうか。
 意外にもつらいお心ですね」
   と、すべてまねぶべくもあらず、いとほしげに聞こえたまへど、ともかくもいらへたまはぬさへ、いとねたくて、  と、何から何まで語り伝えることができないくらい、とてもお気の毒な申し上げようをなさるが、何ともお返事申し上げなさらないのまでが、まことに憎らしくて、
 

711
 「また人に 馴れける袖の 移り香を
 わが身にしめて 恨みつるかな」
 「他の人に親しんだ袖の移り香か
  わが身にとって深く恨めしいことだ」
 
   女は、あさましくのたまひ続くるに、言ふべき方もなきを、いかがは、とて、  女方は、ひどいおっしゃりようが続くので、何ともお返事できないでいるが、黙っているのもどうかしら、と思って、
 

712
 「みなれぬる 中の衣と 頼めしを
 かばかりにてや かけ離れなむ」
 「親しみ信頼してきた夫婦の仲も
  この程度の薫りで切れてしまうのでしょうか」
 
   とて、うち泣きたまへるけしきの、限りなくあはれなるを見るにも、「かかればぞかし」と、いと心やましくて、我もほろほろとこぼしたまふぞ、色めかしき御心なるや。
 まことにいみじき過ちありとも、ひたぶるにはえぞ疎み果つまじく、らうたげに心苦しきさまのしたまへれば、えも怨み果てたまはず、のたまひさしつつ、かつはこしらへきこえたまふ。
 
 と言って、お泣きになる様子が、この上なくかわいそうなのを見るにつけても、「これだからこそ」と、ますますいらいらして、自分もぽろぽろと涙を流しなさるのは、色っぽいお心だこと。
 ほんとうに大変な過ちがあったとしても、一途には疎みきれない、かわいらしくおいたわしい様子をしていらっしゃるので、最後まで恨むこともおできになれず、途中で言いさしなさっては、その一方ではお宥めすかしなさる。
 
 
 

第三段 匂宮、中君の素晴しさを改めて認識

 
   またの日も、心のどかに大殿籠もり起きて、御手水、御粥などもこなたに参らす。
 御しつらひなども、さばかりかかやくばかり、高麗、唐土の錦綾を裁ち重ねたる目移しには、世の常にうち馴れたる心地して、人びとの姿も、萎えばみたるうち混じりなどして、いと静かに見まはさる。
 
 翌日も、ゆっくりとお起きになって、御手水や、お粥などをこちらの部屋で召し上がる。
 お部屋飾りなども、あれほど輝くほどの、高麗や、唐土の錦綾を何枚も重ねているのを見た目には、世間普通の気がして、女房たちの姿も、糊気のとれたのが混じったりなどして、たいそうひっそりとした感じに見回される。
 
   君は、なよよかなる薄色どもに、撫子の細長重ねて、うち乱れたまへる御さまの、何事もいとうるはしく、ことことしきまで盛りなる人の御匂ひ、何くれに思ひ比ぶれど、気劣りてもおぼえず、なつかしくをかしきも、心ざしのおろかならぬに恥なきなめりかし。
 まろにうつくしく肥えたりし人の、すこし細やぎたるに、色はいよいよ白くなりて、あてにをかしげなり。
 
 女君は、柔らかな薄紫の袿に、撫子の細長を襲着して、寛いでいらっしゃるご様子が、何事もたいそう凛々しく、仰々しいまでに盛りの方の装いが、何かと比較されるが、劣っているようにも思われず、親しみがあり美しいのも、愛情が並々でないために劣るところがないのであろう。
 まるまるとかわいらしく太った方が、少し細やかになっているが、肌色はますます白くなって、上品で魅力的である。
 
   かかる御移り香などのいちじるからぬ折だに、愛敬づきらうたきところなどの、なほ人には多くまさりて思さるるままには、  このような移り香などがはっきりしない時でさえ、愛嬌があってかわいらしいところなどが、やはり誰よりも多くまさってお思いになるので、
   「これをはらからなどにはあらぬ人の、気近く言ひかよひて、事に触れつつ、おのづから声けはひをも聞き見馴れむは、いかでかただにも思はむ。
 かならずしか思しぬべきことなるを」
 「この人を兄弟などでない人が、身近で話を交わして、何かにつけて、自然と声や気配を聞いたり見たりしつけると、どうして平気でいられよう。
 きっと心を動かすことであろうよ」
   と、わがいと隈なき御心ならひに思し知らるれば、常に心をかけて、「しるきさまなる文などやある」と、近き御厨子、小唐櫃などやうのものをも、さりげなくて探したまへど、さるものもなし。
 ただ、いとすくよかに言少なにて、なほなほしきなどぞ、わざともなけれど、ものにとりまぜなどしてもあるを、「あやし。
 なほ、いとかうのみはあらじかし」と疑はるるに、いとど今日はやすからず思さるる、ことわりなりかし。
 
 と、自分のたいそう気の回るご性分からお思い知られるので、常に気をつけて、「はっきりと分かるような手紙などがあるか」と、近くの御厨子や、唐櫃などのような物までを、さりげない様子をしてお探しになるが、そのような物はない。
 ただ、たいそうきっぱりした言葉少なで、平凡な手紙などが、わざわざというのではないが、何かと一緒になってあるのを、「妙だ。
 やはり、とてもこれだけではあるまい」と疑われるので、ますます今日は平気でいられないのも、もっともなことである。
 
   「かの人のけしきも、心あらむ女の、あはれと思ひぬべきを、などてかは、ことの他にはさし放たむ。
 いとよきあはひなれば、かたみにぞ思ひ交はすらむかし」
 「あの人の様子も、情趣を解する女が、素晴らしいと思うにちがいないので、どうしてか、心外な人と思って放っておこう。
 ちょうど似合いの二人なので、お互いに思いを交わし合うことだろう」
   と思ひやるぞ、わびしく腹立たしくねたかりける。
 なほ、いとやすからざりければ、その日もえ出でたまはず。
 六条院には、御文をぞ二度三度たてまつりたまふを、
 と想像すると、侘しく腹立たしく悔しいのであった。
 やはり、とても安心していられなかったので、その日もお出かけになることができない。
 六条院には、お手紙を二度三度差し上げなさるが、
   「いつのほどに積もる御言の葉ならむ」  「いつのまに積もるお言葉なのだろう」
   とつぶやく老い人どもあり。
 
 とぶつぶつ言う老女連中もいる。
 
 
 

第四段 薫、中君に衣料を贈る

 
   中納言の君は、かく宮の籠もりおはするを聞くにしも、心やましくおぼゆれど、  中納言の君は、このように宮が籠もっておいでになるのを聞くにも、癪に思われるが、
   「わりなしや。
 これはわが心のをこがましく悪しきぞかし。
 うしろやすくと思ひそめてしあたりのことを、かくは思ふべしや」
 「しかたのないことだ。
 これは自分の心が馬鹿らしく悪いことだ。
 安心な後見人としてお世話し始めた方のことを、このように思ってよいことだろうか」
   と、しひてぞ思ひ返して、「さはいへど、え思し捨てざめりかし」と、うれしくもあり、「人びとのけはひなどの、なつかしきほどに萎えばみためりしを」と思ひやりたまひて、母宮の御方に参りたまひて、  と無理に反省して、「そうは言ってもお捨てにはならないようだ」と、嬉しくもあり、「女房たちの様子などが、やさしい感じに着古した感じのようだ」と思いやりなさって、母宮の御方にお渡りになって、
   「よろしきまうけのものどもやさぶらふ。
 使ふべきこと」
 「適当な出来合いの衣類はございませんか。
 使いたいことが」
   など申したまへば、  などと申し上げなさると、
   「例の、立たむ月の法事の料に、白きものどもやあらむ。
 染めたるなどは、今はわざともしおかぬを、急ぎてこそせさせめ」
 「例の、来月の御法事の布施に、白い物はありましょう。
 染めた物などは、今は特別に置いておかないので、急いで作らせましょう」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「何か。
 ことことしき用にもはべらず。
 さぶらはむにしたがひて」
 「構いません。
 仰々しい用事でもございません。
 ありあわせで結構です」
   とて、御匣殿などに問はせたまひて、女の装束どもあまた領に、細長どもも、ただあるにしたがひて、ただなる絹綾などとり具したまふ。
 みづからの御料と思しきには、わが御料にありける紅の擣目なべてならぬに、白き綾どもなど、あまた重ねたまへるに、袴の具はなかりけるに、いかにしたりけるにか、腰の一つあるを、引き結び加へて、
 と言って、御匣殿などにお問い合わせになって、女の装束類を何領もに、細長類も、ありあわせで、染色してない絹や綾などをお揃えになる。
 ご本人のお召し物と思われるのは、自分のお召し物にあった紅の砧の擣目の美しいものに、幾重もの白い綾など、たくさんお重ねになったが、袴の付属品はなかったので、どういうふうにしたのか、腰紐が一本あったのを、結びつけなさって、
 

713
 「結びける 契りことなる 下紐を
 ただ一筋に 恨みやはする」
 「結んだ契りの相手が違うので
  今さらどうして一途に恨んだりしようか」
 
   大輔の君とて、大人しき人の、睦ましげなるにつかはす。
 
 大輔の君といって、年配の者で、親しそうな者におやりになる。
 
   「とりあへぬさまの見苦しきを、つきづきしくもて隠して」  「とりあえず見苦しい点を、適当にお隠しください」
   などのたまひて、御料のは、しのびやかなれど、筥にて包みも異なり。
 御覧ぜさせねど、さきざきも、かやうなる御心しらひは、常のことにて目馴れにたれば、けしきばみ返しなど、ひこしろふべきにもあらねば、いかがとも思ひわづらはで、人びとにとり散らしなどしたれば、おのおのさし縫ひなどす。
 
 などとおっしゃって、主人のお召し物は、こっそりとではあるが、箱に入れて包みも格別である。
 御覧にならないが、以前からも、このようなお心配りは、いつものことで見慣れているので、わざとらしくお返ししたりなど、固辞すべきことでないので、どうしたものかと思案せず、女房たちに配り分けなどしたので、それぞれ縫い物などする。
 
   若き人びとの、御前近く仕うまつるなどをぞ、取り分きては繕ひたつべき。
 下仕へどもの、いたく萎えばみたりつる姿どもなどに、白き袷などにて、掲焉ならぬぞなかなかめやすかりける。
 
 若い女房たちで、御前近くにお仕えする者などは、特別に着飾らせるつもりなのであろう。
 下仕え連中が、ひどくよれよれになった姿などに、白い袷などを着て、派手でないのがかえって無難であった。
 
 
 

第五段 薫、中君をよく後見す

 
   誰かは、何事をも後見かしづききこゆる人のあらむ。
 宮は、おろかならぬ御心ざしのほどにて、「よろづをいかで」と思しおきてたれど、こまかなるうちうちのことまでは、いかがは思し寄らむ。
 限りもなく人にのみかしづかれてならはせたまへれば、世の中うちあはずさびしきこと、いかなるものとも知りたまはぬ、ことわりなり。
 
 誰が、何事をも後見申し上げる人があるだろうか。
 宮は、並々でない愛情で、「万事不自由がないように」とお考えおきになっているが、こまごまとした内々の事までは、どうしてお考え及ぼう。
 この上もなく大切にされてこられたのに馴れていらっしゃるので、生活が思うにまかせず心細いことは、どのようなものかともご存知ないのは、もっともなことである。
 
   艶にそぞろ寒く、花の露をもてあそびて世は過ぐすべきものと思したるほどよりは、思す人のためなれば、おのづから折節につけつつ、まめやかなることまでも扱ひ知らせたまふこそ、ありがたくめづらかなることなめれば、「いでや」など、誹らはしげに聞こゆる御乳母などもありけり。
 
 風流を好みぞくぞくと、心にしみる花の露を賞美して世の中は送るべきものとお考えのこと以外は、愛する人のためなら、自然と季節季節に応じて、実際的なことまでお世話なさるのは、もったいなくもめったにないことなので、「どんなものかしら」などと、非難がましく申し上げる御乳母などもいるのであった。
 
   童べなどの、なりあざやかならぬ、折々うち混じりなどしたるをも、女君は、いと恥づかしく、「なかなかなる住まひにもあるかな」など、人知れずは思すことなきにしもあらぬに、ましてこのころは、世に響きたる御ありさまのはなやかさに、かつは、「宮のうちの人の見思はむことも、人げなきこと」と、思し乱るることも添ひて嘆かしきを、中納言の君は、いとよく推し量りきこえたまへば、疎からむあたりには、見苦しくくだくだしかりぬべき心しらひのさまも、あなづるとはなけれど、「何かは、ことことしくしたて顔ならむも、なかなかおぼえなく見とがむる人やあらむ」と、思すなりけり。
 
 童女などの、身なりのぱっとしないのが、時々混じったりしているのを、女君は、たいそう恥ずかしく、「かえって立派過ぎて困ったお邸だ」などと、人知れずお思いになることがないわけでないが、まして最近は、世に鳴り響いた方のご様子の華やかさに、一方では、「宮付きの女房が見たり思ったりすることも、見すぼらしいこと」と、お悩みになることも加わって嘆かわしいのを、中納言の君は、実によくご推察申し上げなさるので、親しくない相手だったら、見苦しくごたごたするにちがいない心配りの様子も、軽蔑するというのではないが、「どうして、大げさにいかにも目につくようなのも、かえって疑う人があろうか」と、お思いになるのであった。
 
   今ぞまた、例のめやすきさまなるものどもなどせさせたまひて、御小袿織らせ、綾の料賜はせなどしたまひける。
 この君しもぞ、宮に劣りきこえたまはず、さま異にかしづきたてられて、かたはなるまで心おごりもし、世を思ひ澄まして、あてなる心ばへはこよなけれど、故親王の御山住みを見そめたまひしよりぞ、「さびしき所のあはれさはさま異なりけり」と、心苦しく思されて、なべての世をも思ひめぐらし、深き情けをもならひたまひにける。
 いとほしの人ならはしや、とぞ。
 
 今はまた、いつもの無難な贈り物などお整えさせなさって、御小袿を織らせ、綾の素材を下さったりなさった。
 この君は、宮にもお負けになさらず、特に大事に育てられて、不体裁なまでに気位高くもあり、世の中を悟り澄まして、上品な気持ちはこの上ないけれど、故親王の奥山生活を御覧になって以来、「寂しい所のお気の毒さは格別であった」と、おいたわしく思われなさって、世間一般のこともいろいろと考えるようになり、深い同情を持つようになったのであった。
 おかわいそうな方の影響だ、とのことである。
 
 
 

第六段 薫と中君の、それぞれの苦悩

 
   「かくて、なほ、いかでうしろやすく大人しき人にてやみなむ」と思ふにも、したがはず、心にかかりて苦しければ、御文などを、ありしよりはこまやかにて、ともすれば、忍びあまりたるけしき見せつつ聞こえたまふを、女君、いとわびしきこと添ひたる身と思し嘆かる。
 
 「こうして、やはり、何とか安心で分別のある後見人として終えよう」と思うにつけても、意志とは逆に、心にかかって苦しいので、お手紙などを、以前よりはこまやかに書いて、ともすれば、抑えきれない気持ちを見せながら申し上げなさるのを、女君は、たいそうつらいことが加わった身だとお嘆きになる。
 
   「ひとへに知らぬ人なれば、あなものぐるほしと、はしたなめさし放たむにもやすかるべきを、昔よりさま異なる頼もし人にならひ来て、今さらに仲悪しくならむも、なかなか人目悪しかるべし。
 さすがに、あさはかにもあらぬ御心ばへありさまの、あはれを知らぬにはあらず。
 さりとて、心交はし顔にあひしらはむもいとつつましく、いかがはすべからむ」
 「まったく知らない人なら、何と気違いじみていると、体裁の悪い思いをさせ放っておくのも気楽なことだが、昔から特別に信頼して来た人として、今さら仲悪くするのも、かえって人目に変だろう。
 そうはいってもやはり、浅くはないお気持ちやご好意の、ありがたさを分からないわけでない。
 そうかといって、相手の気持ちを受け入れたように振る舞うのも、まことに慎まれることだし、どうしたらよいだろう」
   と、よろづに思ひ乱れたまふ。
 
 と、あれこれとお悩みになる。
 
   さぶらふ人びとも、すこしものの言ふかひありぬべく若やかなるは、皆あたらし、見馴れたるとては、かの山里の古女ばらなり。
 思ふ心をも、同じ心になつかしく言ひあはすべき人のなきままには、故姫君を思ひ出できこえたまはぬ折なし。
 
 伺候する女房たちも、少し相談のしがいのあるはずの若い女房は、みな新しく、見慣れている者としては、あの山里の老女連中である。
 悩んでいる気持ちを、同じ立場で親しく相談できる人がいないままに、故姫君をお思い出し申し上げない時はない。
 
   「おはせましかば、この人もかかる心を添へたまはましや」  「生きていらっしゃったら、この人もこのようなお悩みをお持ちになったろうか」
   と、いと悲しく、宮のつらくなりたまはむ嘆きよりも、このこといと苦しくおぼゆ。
 
 と、とても悲しく、宮が冷淡におなりになる嘆きよりも、このことがたいそう苦しく思われる。
 
 
 

第六章 薫の物語 中君から異母妹の浮舟の存在を聞く

 
 

第一段 薫、二条院の中君を訪問

 
   男君も、しひて思ひわびて、例の、しめやかなる夕つ方おはしたり。
 やがて端に御茵さし出でさせたまひて、「いと悩ましきほどにてなむ、え聞こえさせぬ」と、人して聞こえ出だしたまへるを聞くに、いみじくつらくて、涙落ちぬべきを、人目につつめば、しひて紛らはして、
 男君も、無理をして困って、いつものように、しっとりした夕方おいでになった。
 そのまま端にお褥を差し出させなさって、「とても苦しい時でして、お相手申し上げることができません」と、女房を介して申し上げさせなさったのを聞くと、ひどくつらくて、涙が落ちてしまいそうなのを、人目にかくして、無理に紛らわして、
   「悩ませたまふ折は、知らぬ僧なども近く参り寄るを。
 医師などの列にても、御簾の内にはさぶらふまじくやは。
 かく人伝てなる御消息なむ、かひなき心地する」
 「お悩みでいらっしゃる時は、知らない僧なども近くに参り寄るものですよ。
 医師などと同じように、御簾の内に伺候することはできませんか。
 このような人を介してのご挨拶は、効のない気がします」
   とのたまひて、いとものしげなる御けしきなるを、一夜もののけしき見し人びと、  とおっしゃって、とても不愉快なご様子なのを、先夜お二人の様子を見ていた女房たちは、
   「げに、いと見苦しくはべるめり」  「なるほど、とても見苦しくございますようです」
   とて、母屋の御簾うち下ろして、夜居の僧の座に入れたてまつるを、女君、まことに心地もいと苦しけれど、人のかく言ふに、掲焉にならむも、またいかが、とつつましければ、もの憂ながらすこしゐざり出でて、対面したまへり。
 
 と言って、母屋の御簾を下ろして、夜居の僧の座所にお入れ申すのを、女君は、ほんとうに気分も実に苦しいが、女房がこのように言うので、はっきり拒むのも、またどんなものかしら、と遠慮されるので、嫌な気分ながら少しいざり出て、お会いなさった。
 
   いとほのかに、時々もののたまふ御けはひの、昔人の悩みそめたまへりしころ、まづ思ひ出でらるるも、ゆゆしく悲しくて、かきくらす心地したまへば、とみにものも言はれず、ためらひてぞ聞こえたまふ。
 
 とてもかすかに、時々何かおっしゃるご様子が、亡くなった姫君が病気におなり始めになったころが、まずは思い出されるのも、不吉で悲しくて、まっくらな気持ちにおなりになると、すぐには何も言うことができず、躊躇して申し上げなさる。
 
   こよなく奥まりたまへるもいとつらくて、簾の下より几帳をすこしおし入れて、例の、なれなれしげに近づき寄りたまふが、いと苦しければ、わりなしと思して、少将といひし人を近く呼び寄せて、  この上なく奥のほうにいらっしゃるのがとてもつらくて、御簾の下から几帳を少し押し入れて、いつものように、馴れ馴れしくお近づき寄りなさるのが、とても苦しいので、困ったことだとお思いになって、少将と言った女房を近くに呼び寄せて、
   「胸なむ痛き。
 しばしおさへて」
 「胸が痛い。
 暫く押さえていてほしい」
   とのたまふを聞きて、  とおっしゃるのを聞いて、
   「胸はおさへたるは、いと苦しくはべるものを」  「胸を押さえたら、とても苦しくなるものです」
   とうち嘆きて、ゐ直りたまふほども、げにぞ下やすからぬ。
 
 と溜息をついて、居ずまいを直しなさる時も、なるほど内心穏やかならない気がする。
 
   「いかなれば、かくしも常に悩ましくは思さるらむ。
 人に問ひはべりしかば、しばしこそ心地は悪しかなれ、さてまた、よろしき折あり、などこそ教へはべしか。
 あまり若々しくもてなさせたまふなめり」
 「どうして、このようにいつもお苦しみでいらっしゃるのだろう。
 人に尋ねましたら、暫くの間は気分が悪いが、そうしてまた、良くなる時がある、などと教えました。
 あまりに子供っぽくお振る舞いになっていらっしゃるようです」
   とのたまふに、いと恥づかしくて、  とおっしゃると、とても恥ずかしくて、
   「胸は、いつともなくかくこそははべれ。
 昔の人もさこそはものしたまひしか。
 長かるまじき人のするわざとか、人も言ひはべるめる」
 「胸は、いつとなくこのようでございます。
 故人もこのようなふうでいらっしゃいました。
 長生きできない人がかかる病気とか、人も言っているようでございます」
   とぞのたまふ。
 「げに、誰も千年の松ならぬ世を」と思ふには、いと心苦しくあはれなれば、この召し寄せたる人の聞かむもつつまれず、かたはらいたき筋のことをこそ選りとどむれ、昔より思ひきこえしさまなどを、かの御耳一つには心得させながら、人はかたはにも聞くまじきさまに、さまよくめやすくぞ言ひなしたまふを、「げに、ありがたき御心ばへにも」と聞きゐたりけり。
 
 とおっしゃる。
 「なるほど、誰も千年も生きる松ではないこの世を」と思うと、まことにお気の毒でかわいそうなので、この召し寄せた人が聞くだろうことも憚らず、側で聞くとはらはらするようなことは言わないが、昔からお思い申し上げていた様子などを、あの方一人だけには分かるようにしながら、少将には変に聞こえないように、体裁よくおっしゃるのを、「なるほど、世に稀なお気持ちだ」と聞いているのであった。
 
 
 

第二段 薫、亡き大君追慕の情を訴える

 
   何事につけても、故君の御事をぞ尽きせず思ひたまへる。
 
 どのような事柄につけても、故君の御事をどこまでも思っていらっしゃった。
 
   「いはけなかりしほどより、世の中を思ひ離れてやみぬべき心づかひをのみならひはべしに、さるべきにやはべりけむ、疎きものからおろかならず思ひそめきこえはべりしひとふしに、かの本意の聖心は、さすがに違ひやしにけむ。
 
 「幼かったころから、世の中を捨てて一生を終わりたい気持ちばかりを持ち続けていましたが、その結果であったのでしょうか、親密な関係ではないながら並々でない思いをおかけ申すようになった一事で、あの本来の念願は、そうはいっても背いてしまったのだろうか。
 
   慰めばかりに、ここにもかしこにも行きかかづらひて、人のありさまを見むにつけて、紛るることもやあらむなど、思ひ寄る折々はべれど、さらに他ざまにはなびくべくもはべらざりけり。
 
 慰め程度に、あちらこちらと行きかかずらって、他人の様子を見るにつけても、紛れることがあろうかなど、と思い寄る時々はございましたが、まったく他の女性には気持ちを向けることもございませんでした。
 
   よろづに思ひたまへわびては、心の引く方の強からぬわざなりければ、好きがましきやうに思さるらむと、恥づかしけれど、あるまじき心の、かけてもあるべくはこそめざましからめ、ただかばかりのほどにて、時々思ふことをも聞こえさせ承りなどして、隔てなくのたまひかよはむを、誰れかはとがめ出づべき。
 世の人に似ぬ心のほどは、皆人にもどかるまじくはべるを、なほうしろやすく思したれ」
 万事困りまして、心惹かれる方も特にいなかったので、好色がましいようにお思いであろうと、恥ずかしいけれど、とんでもない心が、万が一あっては目障りなことでしょうが、ただこの程度のことで、時々思っていることを申し上げたり承ったりなどして、隔意なくお話し交わしなさるのを、誰が咎め立てしましょうか。
 世間の人と違った心のほどは、みな誰からも非難さるはずはないのでございすから、やはりご安心なさいませ」
   など、怨み泣きみ聞こえたまふ。
 
 などと、恨んだり泣いたりしながら申し上げなさる。
 
   「うしろめたく思ひきこえば、かくあやしと人も見思ひぬべきまでは聞こえはべるべくや。
 年ごろ、こなたかなたにつけつつ、見知ることどものはべりしかばこそ、さま異なる頼もし人にて、今はこれよりなどおどろかしきこゆれ」
 「気がかりにお思い申し上げたら、このように変だと人が見たり思ったりするにちがいないまで申し上げましょうか。
 長年、あれこれのことにつけて、分かってまいりましたことがございましたので、血縁者でもない後見人に、今ではわたしのほうからお願い申し上げておりますのです」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「さやうなる折もおぼえはべらぬものを、いとかしこきことに思しおきてのたまはするや。
 この御山里出で立ち急ぎに、からうして召し使はせたまふべき。
 それもげに、御覧じ知る方ありてこそはと、おろかにやは思ひはべる」
 「そのような時があったとも覚えておりませんので、まことに利口なこととお考えおいておっしゃるのでしょうか。
 この山里へのご出立の準備には、かろうじてお召し使わせていただきましょう。
 それも仰せのように、見込んでくれてこそだと、いい加減には思いません」
   などのたまひて、なほいともの恨めしげなれど、聞く人あれば、思ふままにもいかでかは続けたまはむ。
 
 などとおっしゃって、やはりたいそうどことなく恨めしそうであるが、聞いている人がいるので、思うままにどうしてお話し続けられようか。
 
 
 

第三段 薫、故大君に似た人形を望む

 
   外の方を眺め出だしたれば、やうやう暗くなりにたるに、虫の声ばかり紛れなくて、山の方小暗く、何のあやめも見えぬに、いとしめやかなるさまして寄りゐたまへるも、わづらはしとのみ内には思さる。
 
 外の方を眺めていると、だんだんと暗くなっていったので、虫の声だけが紛れなくて、築山の方は小暗く、何の区別も見えないので、とてもひっそりとして寄りかかっていらっしゃるのも、厄介だとばかり心の中にはお思いなさる。
 
   「限りだにある」  「恋しさにも限りがあるので」
   など、忍びやかにうち誦じて、  などと、こっそりと口ずさんで、
   「思うたまへわびにてはべり。
 音無の里求めまほしきを、かの山里のわたりに、わざと寺などはなくとも、昔おぼゆる人形をも作り、絵にも描きとりて、行なひはべらむとなむ、思うたまへなりにたる」
 「困り果てております。
 音無の里を尋ねて行きたいが、あの山里の辺りに、特に寺などはなくても、故人が偲ばれる人形を作ったり、絵にも描いたりして、勤行いたしたいと、存じるようになりました」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「あはれなる御願ひに、またうたて御手洗川近き心地する人形こそ、思ひやりいとほしくはべれ。
 黄金求むる絵師もこそなど、うしろめたくぞはべるや」
 「しみじみとした御本願に、また嫌な御手洗川に近い気がする人形は、想像するとお気の毒でございます。
 黄金を求める絵師がいたらなどと、気がかりでございませんか」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「そよ。
 その工も絵師も、いかでか心には叶ふべきわざならむ。
 近き世に花降らせたる工もはべりけるを、さやうならむ変化の人もがな」
 「そうですよ。
 その彫刻師も絵師も、どうして心に叶う物ができましょうか。
 最近に蓮華を降らせた彫刻師もございましたが、そのような変化の人もいてくれたらなあ」
   と、とざまかうざまに忘れむ方なきよしを、嘆きたまふけしきの、心深げなるもいとほしくて、今すこし近くすべり寄りて、  と、あれやこれやと忘れることのない旨を、お嘆きになる様子が、深く思いつめているようなのもお気の毒で、もう少し近くにいざり寄って、
   「人形のついでに、いとあやしく思ひ寄るまじきことをこそ、思ひ出ではべれ」  「人形のついでに、とても不思議と思いもつかないことを、思い出しました」
   とのたまふけはひの、すこしなつかしきも、いとうれしくあはれにて、  とおっしゃる感じが、少しやさしいのもとても、嬉しくありがたくて、
   「何ごとにか」  「どのようなことですか」
   と言ふままに、几帳の下より手を捉ふれば、いとうるさく思ひならるれど、「いかさまにして、かかる心をやめて、なだらかにあらむ」と思へば、この近き人の思はむことのあいなくて、さりげなくもてなしたまへり。
 
 と言いながら、几帳の下から手をお掴みになると、とてもわずらわしく思われるが、「何とかして、このような心をやめさせて、穏やかな交際をしたい」と思うので、この近くにいる少将の君の思うことも困るので、さりげなく振る舞っていらっしゃった。
 
 
 

第四段 中君、異母妹の浮舟を語る

 
   「年ごろは、世にやあらむとも知らざりつる人の、この夏ごろ、遠き所よりものして尋ね出でたりしを、疎くは思ふまじけれど、またうちつけに、さしも何かは睦び思はむ、と思ひはべりしを、さいつころ来たりしこそ、あやしきまで、昔人の御けはひにかよひたりしかば、あはれにおぼえなりにしか。
 
 「今までは、この世にいるとも知らなかった人が、今年の夏頃、遠い所から出てきて尋ねて来たのですが、よそよそしくは思うことのできない人ですが、また急に、そのようにどうして親しくすることもあるまい、と思っておりましたが、最近来た時は、不思議なまでに、故人のご様子に似ていたので、しみじみと胸を打たれました。
 
   形見など、かう思しのたまふめるは、なかなか何事も、あさましくもて離れたりとなむ、見る人びとも言ひはべりしを、いとさしもあるまじき人の、いかでかは、さはありけむ」  形見などと、あのようにお考えになりおっしゃるようなのは、かえって何もかも、あきれるくらい似ていないようだと、知っている女房たちは言っておりましたが、とてもそうでもないはずの人が、どうして、そんなに似ているのでしょう」
   とのたまふを、夢語りか、とまで聞く。
 
 とおっしゃるのを、夢語りか、とまで聞く。
 
   「さるべきゆゑあればこそは、さやうにも睦びきこえらるらめ。
 などか今まで、かくもかすめさせたまはざらむ」
 「そのような因縁があればこそ、そのようにもお親しみ申すのでしょう。
 どうして今まで、少しも話してくださらなかったのですか」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「いさや、そのゆゑも、いかなりけむこととも思ひ分かれはべらず。
 ものはかなきありさまどもにて、世に落ちとまりさすらへむとすらむこと、とのみ、うしろめたげに思したりしことどもを、ただ一人かき集めて思ひ知られはべるに、またあいなきことをさへうち添へて、人も聞き伝へむこそ、いといとほしかるべけれ」
 「さあ、その理由も、どのようなことであったかも分かりません。
 頼りなさそうな状態で、この世に落ちぶれさすらうことだろうこと、とばかり、不安そうにお思いであったことを、ただ一人で何から何まで経験させられますので、またつまらないことまでが加わって、人が聞き伝えることも、とてもお気の毒なことでしょう」
   とのたまふけしき見るに、「宮の忍びてものなどのたまひけむ人の、忍草摘みおきたりけるなるべし」と見知りぬ。
 
 とおっしゃる様子を見ると、「宮が密かに情けをおかけになった女が、子を生んでおいたのだろう」と理解した。
 
   似たりとのたまふゆかりに耳とまりて、  似ているとおっしゃる縁者に耳がとまって、
   「かばかりにては。
 同じくは言ひ果てさせたまうてよ」
 「それだけでは。
 同じことなら最後までおっしゃってください」
   と、いぶかしがりたまへど、さすがにかたはらいたくて、えこまかにも聞こえたまはず。
 
 と、聞きたがりなさるが、やはり何といっても憚られて、詳細を申し上げることはおできになれない。
 
   「尋ねむと思す心あらば、そのわたりとは聞こえつべけれど、詳しくしもえ知らずや。
 また、あまり言はば、心劣りもしぬべきことになむ」
 「尋ねたいと思いなさるお気持ちでしたら、どこそこと申し上げましょうが、詳しいことは分かりませんよ。
 また、あまり言ったら、期待外れもしましょうから」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「世を、海中にも、魂のありか尋ねには、心の限り進みぬべきを、いとさまで思ふべきにはあらざなれど、いとかく慰めむ方なきよりはと、思ひ寄りはべる人形の願ひばかりには、などかは、山里の本尊にも思ひはべらざらむ。
 なほ、確かにのたまはせよ」
 「男女の仲を、海の中までも、魂のありかを求めては、思う存分進んで行きましょうが、とてもそこまでは思うことはないが、とてもこのように慰めようのないのよりは、と存じます人形の願いぐらいには、どうして、山里の本尊に対しても思ってはいけないのでしょうか。
 やはり、はっきりおっしゃってください」
   と、うちつけに責めきこえたまふ。
 
 と、急にお責め申し上げなさる。
 
   「いさや、いにしへの御ゆるしもなかりしことを、かくまで漏らしきこゆるも、いと口軽けれど、変化の工求めたまふいとほしさにこそ、かくも」とて、「いと遠き所に年ごろ経にけるを、母なる人のうれはしきことに思ひて、あながちに尋ね寄りしを、はしたなくもえいらへではべりしに、ものしたりしなり。
 ほのかなりしかばにや、何事も思ひしほどよりは見苦しからずなむ見えし。
 これをいかさまにもてなさむ、と嘆くめりしに、仏にならむは、いとこよなきことにこそはあらめ、さまではいかでかは」
 「さあ、父宮のお許しもなかったことを、こんなにまでお洩らし申し上げるのも、とても口が軽いが、変化の彫刻師をお探しになるお気の毒さに、こんなにまで」と言って、「とても遠い所に長年過ごしていたが、母である人が遺憾に思って、無理に尋ねて来たのですが、体裁悪くもお返事できずにおりましたところ、参ったのです。
 ちらっと会ったためにか、何事も想像していたよりは見苦しくなく見えました。
 この娘をどのように扱おうかと困っていたようでしたが、仏になるのは、まことにこの上ないことでありましょうが、そこまではどうかしら」
   など聞こえたまふ。
 
 などと申し上げなさる。
 
 
 

第五段 薫、なお中君を恋慕す

 
   「さりげなくて、かくうるさき心をいかで言ひ放つわざもがな、と思ひたまへる」と見るはつらけれど、さすがにあはれなり。
 「あるまじきこととは深く思ひたまへるものから、顕証にはしたなきさまには、えもてなしたまはぬも、見知りたまへるにこそは」と思ふ心ときめきに、夜もいたく更けゆくを、内には人目いとかたはらいたくおぼえたまひて、うちたゆめて入りたまひぬれば、男君、ことわりとは返す返す思へど、なほいと恨めしく口惜しきに、思ひ静めむ方もなき心地して、涙のこぼるるも人悪ろければ、よろづに思ひ乱るれど、ひたぶるにあさはかならむもてなしはた、なほいとうたて、わがためもあいなかるべければ、念じ返して、常よりも嘆きがちにて出でたまひぬ。
 
 「何気なくて、このようにうるさい心を何とか言ってやめさせる方法もないものか、と思っていらっしゃる」と見るのはつらいけれど、やはり心動かされる。
 「あってはならないこととは深く思っていらしゃるものの、あからさまに体裁の悪い扱いは、おできになれないのを、ご存知でいらっしゃるのだ」と思うと胸がどきどきして、夜もたいそう更けてゆくのを、御簾の内側では人目がたいそう具合が悪く思われなさって、すきを見て、奥にお入りになってしまったので、男君は、道理とは繰り返し思うが、やはりまことに恨めしく口惜しいので、思い静める方もない気がして、涙がこぼれるのも体裁が悪いので、あれこれと思い乱れるが、一途に軽率な振る舞いをしたら、またやはりとても嫌な、自分にとってもよくないことなので、思い返して、いつもより嘆きがちにお出になった。
 
   「かくのみ思ひては、いかがすべからむ。
 苦しくもあるべきかな。
 いかにしてかは、おほかたの世にはもどきあるまじきさまにて、さすがに思ふ心の叶ふわざをすべからむ」
 「こうばかり思っていては、どうしたらよいだろう。
 苦しいことだろうなあ。
 何とかして、世間一般からは非難されないようにして、しかも思う気持ちが叶うことができようか」
   など、おりたちて練じたる心ならねばにや、わがため人のためも、心やすかるまじきことを、わりなく思し明かすに、「似たりとのたまひつる人も、いかでかは真かとは見るべき。
 さばかりの際なれば、思ひ寄らむに、難くはあらずとも、人の本意にもあらずは、うるさくこそあるべけれ」など、なほそなたざまには心も立たず。
 
 などと、自ら経験していない人柄からであろうか、自分のためにも相手のためにも、心穏やかでないことを、むやみに悩み明かすと、「似ているとおっしゃった人も、どうして本当かどうか見ることができよう。
 その程度の身分なので、思いよるに難しくはないが、相手が願いどおりでなかったら、やっかいなことであろう」などと、やはりそちらの方には気が向かない。
 
 
 

第七章 薫の物語 宇治を訪問して弁の尼から浮舟の詳細について聞く

 
 

第一段 九月二十日過ぎ、薫、宇治を訪れる

 
   宇治の宮を久しく見たまはぬ時は、いとど昔遠くなる心地して、すずろに心細ければ、九月二十余日ばかりにおはしたり。
 
 宇治の宮邸を久しく訪問なさらないころは、ますます故人の面影が遠くなった気がして、何となく心細いので、九月二十日過ぎ頃にいらっしゃった。
 
   いとどしく風のみ吹き払ひて、心すごく荒ましげなる水の音のみ宿守にて、人影もことに見えず。
 見るには、まづかきくらし、悲しきことぞ限りなき。
 弁の尼召し出でたれば、障子口に、青鈍の几帳さし出でて参れり。
 
 ますます風が吹き払って、ぞっとするほど荒々しい水の音ばかりが宿守で、人影も特に見えない。
 見ると、まっさきに真暗になり、悲しいことばかりが限りない。
 弁の尼を呼び出すと、襖障子の口に、青鈍の几帳をさし出して参った。
 
   「いとかしこけれど、ましていと恐ろしげにはべれば、つつましくてなむ」  「とても恐れ多いことが、以前以上にとても醜くございますので、憚られまして」
   と、まほには出で来ず。
 
 と、直接には出てこない。
 
   「いかに眺めたまふらむと思ひやるに、同じ心なる人もなき物語も聞こえむとてなむ。
 はかなくも積もる年月かな」
 「どのように物思いされていることだろうと想像すると、同じ気持ちの人もいない話を申し上げようと思って来ました。
 とりとめもなく過ぎ去ってゆく歳月ですね」
   とて、涙を一目浮けておはするに、老い人はいとどさらにせきあへず。
 
 と言って、涙を目にいっぱい浮かべていらっしゃると、老女はますますそれ以上に涙をとどめることができない。
 
   「人の上にて、あいなくものを思すめりしころの空ぞかし、と思ひたまへ出づるに、いつとはべらぬなるにも、秋の風は身にしみてつらくおぼえはべりて、げにかの嘆かせたまふめりしもしるき世の中の御ありさまを、ほのかに承るも、さまざまになむ」  「妹宮の事で、なさらなくてもよいご心配をなさったころと同じ季節だ、と思い出しますと、常に悲しい季節の中でも、秋の風は身にしみてつらく思われまして、なるほどあの方がご心配になったとおりの夫婦仲のご様子を、ちらっと耳にいたしますのも、それぞれにお気の毒で」
   と聞こゆれば、  と申し上げると、
   「とあることもかかることも、ながらふれば、直るやうもあるを、あぢきなく思ししみけむこそ、わが過ちのやうに、なほ悲しけれ。
 このころの御ありさまは、何か、それこそ世の常なれ。
 されど、うしろめたげには見えきこえざめり。
 言ひても言ひても、むなしき空に昇りぬる煙のみこそ、誰も逃れぬことながら、後れ先だつほどは、なほいと言ふかひなかりけり」
 「ああなったこともこうなったことも、長生きをすると、良くなるようなこともあるので、つまらないことと思いつめていらしたのは、自分の過失であったように、やはり悲しい。
 最近のご様子は、どうして、それこそ世の常のことです。
 けれど、不安そうにはお見え申さないようだ。
 言っても言っても効ない、むなしい空に昇ってしまった煙だけは、誰も逃れることはできない運命ながらも、後になったり先立ったりする間は、やはり何とも言いようのないことです」
   とても、また泣きたまひぬ。
 
 と言って、またお泣きになる。
 
 
 

第二段 薫、宇治の阿闍梨と面談す

 
   阿闍梨召して、例の、かの忌日の経仏などのことのたまふ。
 
 阿闍梨を呼んで、いつものように、故姫君の御命日のお経や仏像のことなどをおっしゃる。
 
   「さて、ここに時々ものするにつけても、かひなきことのやすからずおぼゆるが、いと益なきを、この寝殿こぼちて、かの山寺のかたはらに堂建てむ、となむ思ふを、同じくは疾く始めてむ」  「ところで、ここに時々参るにつけても、しかたのないことがいつまでも思い出されるのが、とてもつまらないことなので、この寝殿を壊して、あの山寺の傍らにお堂を建てよう、と思うが、同じことなら早く始めたい」
   とのたまひて、堂いくつ、廊ども、僧房など、あるべきことども、書き出でのたまはせさせたまふを、  とおっしゃって、お堂を幾塔、渡廊の類や、僧坊などを、必要なことを書き出したりおっしゃったりおさせになるので、
   「いと尊きこと」  「まことにご立派な功徳だ」
   と聞こえ知らす。
 
 とお教え申す。
 
   「昔の人の、ゆゑある御住まひに占め造りたまひけむ所を、ひきこぼたむ、情けなきやうなれど、その御心ざしも功徳の方には進みぬべく思しけむを、とまりたまはむ人びと思しやりて、えさはおきてたまはざりけるにや。
 
 「故人が、風流なお住まいとしてお造りになった所を、取り壊すのは、薄情なようだが、宮のお気持ちも功徳を積むことを望んでいらっしゃったようだが、後にお残りになる姫君たちをお思いやって、そのようにはおできになれなかったのではなかろうか。
 
   今は、兵部卿宮の北の方こそは、知りたまふべければ、かの宮の御料とも言ひつべくなりにたり。
 されば、ここながら寺になさむことは、便なかるべし。
 心にまかせてさもえせじ。
 所のさまもあまり川づら近く、顕証にもあれば、なほ寝殿を失ひて、異ざまにも造り変へむの心にてなむ」
 今は、兵部卿宮の北の方が、所有していらっしゃるはずですから、あの宮のご料地と言ってもよいようになっている。
 だから、ここをそのまま寺にすることは、不都合であろう。
 思いどおりにすることはできない。
 場所柄もあまりに川岸に近くて、人目にもつくので、やはり寝殿を壊して、別の所に造り変える考えです」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「とざまかうざまに、いともかしこく尊き御心なり。
 昔、別れを悲しびて、屍を包みてあまたの年首に掛けてはべりける人も、仏の御方便にてなむ、かの屍の袋を捨てて、つひに聖の道にも入りはべりにける。
 この寝殿を御覧ずるにつけて、御心動きおはしますらむ、一つにはたいだいしきことなり。
 また、後の世の勧めともなるべきことにはべりけり。
 急ぎ仕うまつるべし。
 暦の博士はからひ申してはべらむ日を承りて、もののゆゑ知りたらむ工、二、三人を賜はりて、こまかなることどもは、仏の御教へのままに仕うまつらせはべらむ」
 「あれやこれやと、まことに立派な尊いお心です。
 昔、別れを悲しんで、骨を包んで幾年も頚に懸けておりました人も、仏の方便で、あの骨の袋を捨てて、とうとう仏の道に入ったのでした。
 この寝殿を御覧になるにつけても、お心がお動きになりますのは、一つには良くないことです。
 また、来世への勧めともなるものでございます。
 急いでお仕え申しましょう。
 暦の博士に相談申して吉日を承って、建築に詳しい工匠を二、三人賜って、こまごまとしたことは、仏のお教えに従ってお仕えさせ申しましょう」
   と申す。
 とかくのたまひ定めて、御荘の人ども召して、このほどのことども、阿闍梨の言はむままにすべきよしなど仰せたまふ。
 はかなく暮れぬれば、その夜はとどまりたまひぬ。
 
 と申す。
 あれこれとおっしゃり決めて、ご荘園の人びとを呼んで、この度のことや、阿闍梨の言うとおりにするべきことなどをお命じになる。
 いつの間にか日が暮れたので、その夜はお泊まりになった。
 
 
 

第三段 薫、弁の尼と語る

 
   「このたびばかりこそ見め」と思して、立ちめぐりつつ見たまへば、仏も皆かの寺に移してければ、尼君の行なひの具のみあり。
 いとはかなげに住まひたるを、あはれに、「いかにして過ぐすらむ」と見たまふ。
 
 「今回こそは見よう」とお思いになって、立ってぐるりと御覧になると、仏像もすべてあのお寺に移してしまったので、尼君の勤行の道具だけがある。
 たいそう頼りなさそうに住んでいるのを、しみじみと、「どのようにして暮らしているのだろう」と御覧になる。
 
   「この寝殿は、変へて造るべきやうあり。
 造り出でむほどは、かの廊にものしたまへ。
 京の宮にとり渡さるべきものなどあらば、荘の人召して、あるべからむやうにものしたまへ」
 「この寝殿は、造り変えることになりました。
 完成するまで、あちらの渡廊に住まいなさい。
 京の宮邸にお移ししたらよい物があったら、荘園の人を呼んで、適当にはからってください」
   など、まめやかなることどもを語らひたまふ。
 他にては、かばかりにさだ過ぎなむ人を、何かと見入れたまふべきにもあらねど、夜も近く臥せて、昔物語などせさせたまふ。
 故権大納言の君の御ありさまも、聞く人なきに心やすくて、いとこまやかに聞こゆ。
 
 などと、事務的なことを相談なさる。
 他では、これほど年とった者を、何かとお世話なさるはずもないが、夜も近くに寝させて、昔話などをおさせになる。
 故大納言の君のご様子を、聞く人もないので気安くて、たいそう詳細に申し上げる。
 
   「今はとなりたまひしほどに、めづらしくおはしますらむ御ありさまを、いぶかしきものに思ひきこえさせたまふめりし御けしきなどの思ひたまへ出でらるるに、かく思ひかけはべらぬ世の末に、かくて見たてまつりはべるなむ、かの御世に睦ましく仕うまつりおきし験のおのづからはべりけると、うれしくも悲しくも思ひたまへられはべる。
 心憂き命のほどにて、さまざまのことを見たまへ過ぐし、思ひたまへ知りはべるなむ、いと恥づかしく心憂くはべる。
 
 「ご臨終となった時に、お生まれになったばかりのご様子を、御覧になりたくお思いになっていたご様子などが思い出されると、このように思いもかけませんでした晩年に、こうしてお目にかかれますのは、ご生前に親しくお仕え申した効が自然と現れたのでしょうと、嬉しくも悲しくも存じられます。
 情けない長生きで、さまざまなことを拝見してき、理解してまいりましたが、とても恥ずかしくつらく思っております。
 
   宮よりも、時々は参りて見たてまつれ、おぼつかなく絶え籠もり果てぬるは、こよなく思ひ隔てけるなめりなど、のたまはする折々はべれど、ゆゆしき身にてなむ、阿弥陀仏より他には、見たてまつらまほしき人もなくなりてはべる」  宮からも、時々は参上してお会い申せ、すっかりご無沙汰しているのは、まるきり他人のようだなどと、おっしゃっる時々がございますが、忌まわしい身の上で、阿彌陀仏の以外には、お目にかかりたい人はなくなっております」
   など聞こゆ。
 故姫君の御ことども、はた尽きせず、年ごろの御ありさまなど語りて、何の折何とのたまひし、花紅葉の色を見ても、はかなく詠みたまひける歌語りなどを、つきなからず、うちわななきたれど、こめかしく言少ななるものから、をかしかりける人の御心ばへかなとのみ、いとど聞き添へたまふ。
 
 などと申し上げる。
 故姫君の御事を、尽きせず、長年のご様子などを話して、何の時に何とおっしゃり、桜や紅葉の美しさを見ても、ちょっとお詠みになった歌の話などを、この場にふさわしく、震え声であったが、おっとりして言葉数少なかったが、風雅であった姫君のご性質であったなあとばかり、ますますお聞きしてお思いになる。
 
   「宮の御方は、今すこし今めかしきものから、心許さざらむ人のためには、はしたなくもてなしたまひつべくこそものしたまふめるを、我にはいと心深く情け情けしとは見えて、いかで過ごしてむ、とこそ思ひたまへれ」  「宮の御方は、もう少し華やかだが、心を許さない男性に対しては、体裁の悪い思いをさせなさるようであったが、わたしにはとても思慮深く情愛があるように見えて、何とかこのまま付き合って行きたい、とお思いのようであった」
   など、心のうちに思ひ比べたまふ。
 
 などと、心の中で比較なさる。
 
 
 

第四段 薫、浮舟の件を弁の尼に尋ねる

 
   さて、もののついでに、かの形代のことを言ひ出でたまへり。
 
 そうして、何かのきっかけで、あの形代のことを言い出しなさった。
 
   「京に、このころ、はべらむとはえ知りはべらず。
 人伝てに承りしことの筋ななり。
 故宮の、まだかかる山里住みもしたまはず、故北の方の亡せたまへりけるほど近かりけるころ、中将の君とてさぶらひける上臈の、心ばせなどもけしうはあらざりけるを、いと忍びて、はかなきほどにもののたまはせける、知る人もはべらざりけるに、女子をなむ産みてはべりけるを、さもやあらむ、と思すことのありけるからに、あいなくわづらはしくものしきやうに思しなりて、またとも御覧じ入るることもなかりけり。
 
 「京に、近ごろ、おりますかどうかは存じません。
 人づてにお聞きしたことの話でしょう。
 故宮が、まだこのような山里生活もなさらず、故北の方がお亡くなりになって間近かったころ、中将の君と言ってお仕えしていた上臈で、気立てなども悪くはなかったが、たいそうこっそりと、ちょっと情けをお交わしになったが、知る人もございませんでしたが、女の子を産みましたのを、あるいはご自分のお子であろうか、とお思いになることがありましたので、つまらなく厄介で嫌なようにお思いになって、二度とお逢いになることもありませんでした。
 
   あいなくそのことに思し懲りて、やがておほかた聖にならせたまひにけるを、はしたなく思ひて、えさぶらはずなりにけるが、陸奥国の守の妻になりたりけるを、一年上りて、その君平らかにものしたまふよし、このわたりにもほのめかし申したりけるを、聞こしめしつけて、さらにかかる消息あるべきことにもあらずと、のたまはせ放ちければ、かひなくてなむ嘆きはべりける。
 
 つまらなくそのことにお懲りになって、そのままだいたい聖におなりあそばしたので、とりつくしまもなく思って、宮仕えをやめてしまったが、陸奥国の守の妻となったところ、先年上京して、その姫君も無事でいらっしゃる旨を、ここにもちらっと申して来ましたが、お聞きつけになって、全然そのような挨拶は無関係であると無視なさったので、その効なく嘆いていました。
 
   さてまた、常陸になりて下りはべりにけるが、この年ごろ、音にも聞こえたまはざりつるが、この春上りて、かの宮には尋ね参りたりけるとなむ、ほのかに聞きはべりし。
 
 そうして再び、常陸の国司になって下りましたが、ここ数年、何ともおっしゃってきませんでしたが、この春上京して、あちらの宮には尋ねて参ったと、かすかに聞きました。
 
   かの君の年は、二十ばかりになりたまひぬらむかし。
 いとうつくしく生ひ出でたまふがかなしきなどこそ、中ごろは、文にさへ書き続けてはべめりしか」
 あの君の年齢は、二十歳くらいにおなりになったでしょう。
 とてもかわいらしくお育ちになったのがいとおしいなどと、近頃は、手紙にまで書き綴ってございましたとか」
   と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
   詳しく聞きあきらめたまひて、「さらば、まことにてもあらむかし。
 見ばや」と思ふ心出で来ぬ。
 
 詳しく聞き知りなさって、「それでは、ほんとうであったのだ。
 会ってみたいものだ」と思う気持ちが出てきた。
 
   「昔の御けはひに、かけても触れたらむ人は、知らぬ国までも尋ね知らまほしき心あるを、数まへたまはざりけれど、近き人にこそはあなれ。
 わざとはなくとも、このわたりにおとなふ折あらむついでに、かくなむ言ひし、と伝へたまへ」
 「故姫君のご様子に、少しでも似ているような人は、知らない国までも探し求めたい気持ちであるが、お子とお認めにならなかったが、姉妹であるのだ。
 わざわざというのでなくても、この近辺に便りを寄せる機会があった時には、こう言っていた、とお伝えください」
   などばかりのたまひおく。
 
 などとだけおっしゃっておく。
 
   「母君は、故北の方の御姪なり。
 弁も離れぬ仲らひにはべるべきを、そのかみは他々にはべりて、詳しくも見たまへ馴れざりき。
 
 「母君は、故北の方の姪です。
 弁も縁続きの間柄でございますが、その当時は別の所におりまして、詳しくは存じませんでした。
 
   さいつころ、京より、大輔がもとより申したりしは、かの君なむ、いかでかの御墓にだに参らむと、のたまふなる、さる心せよ、などはべりしかど、まだここに、さしはへてはおとなはずはべめり。
 今、さらば、さやのついでに、かかる仰せなど伝へはべらむ」
 最近、京から、大輔のもとから申してよこしたことには、あの姫君が、何とか父宮のお墓にだけでも詣でたいと、おっしゃっているという、そのようなおつもりでいなさい、などとございましたが、まだここには、特に便りはないようです。
 今、そうなったら、そのような機会に、この仰せ言を伝えましょう」
   と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
 
 

第五段 薫、二条院の中君に宇治訪問の報告

 
   明けぬれば帰りたまはむとて、昨夜、後れて持て参れる絹綿などやうのもの、阿闍梨に贈らせたまふ。
 尼君にも賜ふ。
 法師ばら、尼君の下衆どもの料にとて、布などいふものをさへ、召して賜ぶ。
 心細き住まひなれど、かかる御訪らひたゆまざりければ、身のほどにはめやすく、しめやかにてなむ行なひける。
 
 夜が明けたのでお帰りになろうとして、昨夜、供人が後れて持ってまいった絹や綿などのような物を、阿闍梨に贈らせなさる。
 尼君にもお与えになる。
 法師たちや、尼君の下仕え連中の料として、布などという物までを、呼んでお与えになる。
 心細い生活であるが、このようなお見舞いが引き続きあるので、身分に比較してたいそう無難で、ひっそりと勤行しているのであった。
 
   木枯しの堪へがたきまで吹きとほしたるに、残る梢もなく散り敷きたる紅葉を、踏み分けける跡も見えぬを見渡して、とみにもえ出でたまはず。
 いとけしきある深山木に宿りたる蔦の色ぞまだ残りたる。
 こだになどすこし引き取らせたまひて、宮へと思しくて、持たせたまふ。
 
 木枯しが堪え難いまでに吹き抜けるので、梢の葉も残らず散って敷きつめた紅葉を、踏み分けた跡も見えないのを見渡して、すぐにはお出になれない。
 たいそう風情ある深山木にからみついている蔦の色がまだ残っていた。
 せめてこの蔦だけでもと少し引き取らせなさって、宮へとお思いらしく、持たせなさる。
 
 

714
 「宿り木と 思ひ出でずは 木のもとの
 旅寝もいかに さびしからまし」
 「宿木の昔泊まった家と思い出さなかったら
  木の下の旅寝もどんなにか寂しかったことでしょう」
 
   と独りごちたまふを聞きて、尼君、  と独り言をおっしゃるのを聞いて、尼君、
 

715
 「荒れ果つる 朽木のもとを 宿りきと
 思ひおきける ほどの悲しさ」
 「荒れ果てた朽木のもとを昔の泊まった家と
  思っていてくださるのが悲しいことです」
 
   あくまで古めきたれど、ゆゑなくはあらぬをぞ、いささかの慰めには思しける。
 
 どこまでも古風であるが、教養がなくはないのを、わずかの慰めとお思いになった。
 
   宮に紅葉たてまつれたまへれば、男宮おはしましけるほどなりけり。
 
 宮に紅葉を差し上げなさると、夫宮がいらっしゃるところだった。
 
   「南の宮より」  「南の宮邸から」
   とて、何心もなく持て参りたるを、女君、「例のむつかしきこともこそ」と苦しく思せど、取り隠さむやは。
 宮、
 と言って、何の気なしに持って参ったのを、女君は、「いつものようにうるさいことを言ってきたらどうしようか」と苦しくお思いになるが、どうして隠すことができようか。
 宮は、
   「をかしき蔦かな」  「美しい蔦ですね」
   と、ただならずのたまひて、召し寄せて見たまふ。
 御文には、
 と、穏やかならずおっしゃって、呼び寄せて御覧になる。
 お手紙には、
   「日ごろ、何事かおはしますらむ。
 山里にものしはべりて、いとど峰の朝霧に惑ひはべりつる御物語も、みづからなむ。
 かしこの寝殿、堂になすべきこと、阿闍梨に言ひつけはべりにき。
 御許しはべりてこそは、他に移すこともものしはべらめ。
 弁の尼に、さるべき仰せ言はつかはせ」
 「このごろは、いかがお過ごしでしょうか。
 山里に参りまして、ますます峰の朝霧に迷いましたお話も、お目にかかって。
 あちらの寝殿を、お堂に造ることを、阿闍梨に命じました。
 お許しを得てから、他の場所に移すこともいたしましょう。
 弁の尼に、しかるべきお指図をなさってください」
   などぞある。
 
 などとある。
 
   「よくも、つれなく書きたまへる文かな。
 まろありとぞ聞きつらむ」
 「よくもまあ、平静をよそおってお書きになった手紙だな。
 自分がいると聞いたのだろう」
   とのたまふも、すこしは、げにさやありつらむ。
 女君は、ことなきをうれしと思ひたまふに、あながちにかくのたまふを、わりなしと思して、うち怨じてゐたまへる御さま、よろづの罪許しつべくをかし。
 
 とおっしゃるのも、少しは、なるほどそうであったであろう。
 女君は、特別に何も書いてないのを嬉しいとお思いになるが、むやみにこのようにおっしゃるのを、困ったことだとお思いになって、恨んでいらっしゃるご様子は、すべての欠点も許したくなるような美しさである。
 
   「返り事書きたまへ。
 見じや」
 「お返事をお書きなさい。
 見ないでいますよ」
   とて、他ざまに向きたまへり。
 あまえて書かざらむもあやしければ、
 と、よそをお向きになった。
 甘えて書かないのも変なので、
   「山里の御ありきのうらやましくもはべるかな。
 かしこは、げにさやにてこそよく、と思ひたまへしを、ことさらにまた巌の中求めむよりは、荒らし果つまじく思ひはべるを、いかにもさるべきさまになさせたまはば、おろかならずなむ」
 「山里へのご外出が羨ましゅうございます。
 あちらでは、おっしゃるとおりにするのがよい、と存じておりましたが、特別にまた山奥に住処を求めるよりは、荒らしきってしまいたくなく思っておりますので、どのようにでも適当な状態になさってくれたら、ありがたく存じます」
   と聞こえたまふ。
 「かく憎きけしきもなき御睦びなめり」と見たまひながら、わが御心ならひに、ただならじと思すが、やすからぬなるべし。
 
 と申し上げなさる。
 「このように憎い様子もないご交際のようだ」と御覧になる一方で、自分のご性質から、ただではあるまいとお思いになるのが、落ち着いてもいられないのであろう。
 
 
 

第六段 匂宮、中君の前で琵琶を弾く

 
   枯れ枯れなる前栽の中に、尾花の、ものよりことにて手をさし出で招くがをかしく見ゆるに、まだ穂に出でさしたるも、露を貫きとむる玉の緒、はかなげにうちなびきたるなど、例のことなれど、夕風なほあはれなるころなりかし。
 
 枯れ枯れになった前栽の中に、尾花が、他の草とは違って手を差し出して招いているのが面白く見えるので、まだ穂に出かかったのも、露を貫き止める玉の緒は、頼りなさそうに靡いているのなど、普通のことであるが、夕方の風がやはりしみじみと感じられるころなのであろう。
 
 

716
 「穂に出でぬ もの思ふらし 篠薄
 招く袂の 露しげくして」
 「外に現さないないが、物思いをしているらしいですね
  篠薄が招くので、袂の露がいっぱいですね」
 
   なつかしきほどの御衣どもに、直衣ばかり着たまひて、琵琶を弾きゐたまへり。
 黄鐘調の掻き合はせを、いとあはれに弾きなしたまへば、女君も心に入りたまへることにて、もの怨じもえし果てたまはず、小さき御几帳のつまより、脇息に寄りかかりて、ほのかにさし出でたまへる、いと見まほしくらうたげなり。
 
 着なれたお召し物類に、お直衣だけをお召しになって、琵琶を弾いていらっしゃった。
 黄鐘調の合奏を、たいそうしみじみとお弾きになるので、女君も嗜んでいらっしゃるので、物恨みもなさらずに、小さい御几帳の端から、脇息に寄り掛かって、わずかにお出しになった顔は、まことにもっと見たいほどかわいらしい。
 
 

717
 「秋果つる 野辺のけしきも 篠薄
 ほのめく風に つけてこそ知れ
 「秋が終わる野辺の景色も
  篠薄がわずかに揺れている風によって知られます
 
   わが身一つの」  自分一人の秋ではありませんが」
   とて涙ぐまるるが、さすがに恥づかしければ、扇を紛らはしておはする御心の内も、らうたく推し量らるれど、「かかるにこそ、人もえ思ひ放たざらめ」と、疑はしきがただならで、恨めしきなめり。
 
 と言って自然と涙ぐまれるが、そうはいっても恥ずかしいので、扇で隠していらっしゃる心中も、かわいらしく想像されるが、「こうだからこそ、相手も諦められないのだろう」と、疑わしいのが普通でなく、恨めしいようである。
 
   菊の、まだよく移ろひ果てで、わざとつくろひたてさせたまへるは、なかなか遅きに、いかなる一本にかあらむ、いと見所ありて移ろひたるを、取り分きて折らせたまひて、  菊が、まだすっかり変色もしないで、特につくろわせなさっているのは、かえって遅いのに、どのような一本であろうか、たいそう見所があって変色しているのを、特別に折らせなさって、
   「花の中に偏に」  「花の中で特別に」
   と誦じたまひて、  と口ずさみなさって、
   「なにがしの皇子の、花めでたる夕べぞかし。
 いにしへ、天人の翔りて、琵琶の手教へけるは。
 何事も浅くなりにたる世は、もの憂しや」
 「何某の親王が、この花を賞美した夕方です。
 昔、天人が飛翔して、琵琶の曲を教えたのは。
 何事も浅薄になった世の中は、嫌なことだ」
   とて、御琴さし置きたまふを、口惜しと思して、  と言って、お琴をお置きになるのを、残念だとお思いになって、
   「心こそ浅くもあらめ、昔を伝へたらむことさへは、などてかさしも」  「心は浅くなったでしょうが、昔から伝えられたことまでは、どうしてそのようなことがありましょうか」
   とて、おぼつかなき手などをゆかしげに思したれば、  と言って、まだよく知らない曲などを聞きたくお思いになっているので、
   「さらば、独り琴はさうざうしきに、さしいらへしたまへかし」  「それならば、一人で弾く琴は寂しいから、お相手なさい」
   とて、人召して、箏の御琴とり寄せさせて、弾かせたてまつりたまへど、  と言って、女房を呼んで、箏の琴を取り寄せさせて、お弾かせ申し上げなさるが、
   「昔こそ、まねぶ人もものしたまひしか、はかばかしく弾きもとめずなりにしものを」  「昔なら、習う人もいらっしゃったが、ちゃんと習得もせずになってしまいましたものを」
   と、つつましげにて手も触れたまはねば、  と、遠慮深そうにして手もお触れにならないので、
   「かばかりのことも、隔てたまへるこそ心憂けれ。
 このころ、見るわたり、まだいと心解くべきほどにもあらねど、かたなりなる初事をも隠さずこそあれ。
 すべて女は、やはらかに心うつくしきなむよきこととこそ、その中納言も定むめりしか。
 かの君に、はた、かくもつつみたまはじ。
 こよなき御仲なめれば」
 「これくらいのことも、心置いていらっしゃるのが情けない。
 近頃、結婚した人は、まだたいして心打ち解けるようになっていませんが、まだ未熟な習い事をも隠さずにいます。
 総じて女性というものは、柔らかで心が素直なのが良いことだと、あの中納言も決めているようです。
 あの君には、また、このようにはお隠しになるまい。
 この上なく親密な仲のようなので」
   など、まめやかに怨みられてぞ、うち嘆きてすこし調べたまふ。
 ゆるびたりければ、盤渉調に合はせたまふ。
 掻き合はせなど、爪音けをかしげに聞こゆ。
 「伊勢の海」謡ひたまふ御声のあてにをかしきを、女房も、物のうしろに近づき参りて、笑み広ごりてゐたり。
 
 などと、本気になって恨み事を言われたので、溜息をついて少しお弾きになる。
 絃が緩めてあったので、盤渉調に合わせなさなさる。
 合奏などの、爪音が美しく聞こえる。
 「伊勢の海」をお謡いになるお声が上品で美しいのを、女房たちが、物の背後に近寄って、にっこりして座っていた。
 
   「二心おはしますはつらけれど、それもことわりなれば、なほわが御前をば、幸ひ人とこそは申さめ。
 かかる御ありさまに交じらひたまふべくもあらざりし所の御住まひを、また帰りなまほしげに思して、のたまはするこそ、いと心憂けれ」
 「二心がおありなのはつらいけれども、それも仕方のないことなので、やはりわたしのご主人を、幸福人と申し上げましょう。
 このようなご様子でお付き合いなされそうにもなかった所のご生活を、また宇治に帰りたそうにお思いになって、おっしゃるのは、とても情けない」
   など、ただ言ひに言へば、若き人びとは、  などと、ずけずけと言うので、若い女房たちは、
   「あなかまや」  「おだまり」
   など制す。
 
 などと止める。
 
 
 

第七段 夕霧、匂宮を強引に六条院へ迎え取る

 
   御琴ども教へたてまつりなどして、三、四日籠もりおはして、御物忌などことつけたまふを、かの殿には恨めしく思して、大臣、内裏より出でたまひけるままに、ここに参りたまへれば、宮、  いろいろのお琴をお教え申し上げなどして、三、四日籠もっておいでになって、御物忌などにかこつけなさるのを、あちらの殿におかれては恨めしくお思いになって、大臣は、宮中からお出になってそのまま、こちらに参上なさったので、宮は、
   「ことことしげなるさまして、何しにいましつるぞとよ」  「仰々しい様子をして、何のためにいらっしゃったのだろう」
   と、むつかりたまへど、あなたに渡りたまひて、対面したまふ。
 
 と、不快にお思いになるが、寝殿にお渡りになって、お会いなさる。
 
   「ことなることなきほどは、この院を見で久しくなりはべるも、あはれにこそ」  「特別なことがない間は、この院を見ないで長くなりましたのも、しみじみと感慨深い」
   など、昔の御物語どもすこし聞こえたまひて、やがて引き連れきこえたまひて出でたまひぬ。
 御子どもの殿ばら、さらぬ上達部、殿上人なども、いと多くひき続きたまへる勢ひ、こちたきを見るに、並ぶべくもあらぬぞ、屈しいたかりける。
 人びと覗きて見たてまつりて、
 などと、昔のいろいろなお話を少し申し上げなさって、そのままお連れ申し上げなさってお出になった。
 ご子息の殿方や、その他の上達部、殿上人なども、たいそう大勢引き連れていらっしゃる威勢が、大変なのを見ると、並びようもないのが、がっかりした。
 女房たちが覗いて拝見して、
   「さも、きよらにおはしける大臣かな。
 さばかり、いづれとなく、若く盛りにてきよげにおはさうずる御子どもの、似たまふべきもなかりけり。
 あな、めでたや」
 「まあ、美しくいらっしゃる大臣ですこと。
 あれほど、どなたも皆、若く男盛りで美しくいらっしゃるご子息たちで、似ていらっしゃる方もありませんね。
 何と、立派なこと」
   と言ふもあり。
 また、
 という者もいる。
 また、
   「さばかりやむごとなげなる御さまにて、わざと迎へに参りたまへるこそ憎けれ。
 やすげなの世の中や」
 「あれほど重々しいご様子で、わざわざお迎えに参上なさるのは憎らしい。
 安心できないご夫婦仲ですこと」
   など、うち嘆くもあるべし。
 御みづからも、来し方を思ひ出づるよりはじめ、かのはなやかなる御仲らひに立ちまじるべくもあらず、かすかなる身のおぼえをと、いよいよ心細ければ、「なほ心やすく籠もりゐなむのみこそ目やすからめ」など、いとどおぼえたまふ。
 はかなくて年も暮れぬ。
 
 などと、嘆息する者もいるようだ。
 ご自身も、過去を思い出すのをはじめとして、あのはなやかなご夫婦の生活に肩を並べやってゆけそうにもなく、存在感の薄い身の上をと、ますます心細いので、「やはり気楽に山里に籠もっているのが無難であろう」などと、ますます思われなさる。
 とりとめもなく年が暮れた。
 
 
 

第八章 薫の物語 女二の宮、薫の三条宮邸に降嫁

 
 

第一段 新年、薫権大納言兼右大将に昇進

 
   正月晦日方より、例ならぬさまに悩みたまふを、宮、まだ御覧じ知らぬことにて、いかならむと、思し嘆きて、御修法など、所々にてあまたせさせたまふに、またまた始め添へさせたまふ。
 いといたくわづらひたまへば、后の宮よりも御訪らひあり。
 
 正月晦日方から、ふだんと違ってお苦しみになるのを、宮は、まだご経験のないことなので、どうなることだろうと、お嘆きになって、御修法などを、あちこちの寺にたくさんおさせになるが、またまたお加え始めさせなさる。
 たいそうひどく患いなさるので、后の宮からもお見舞いがある。
 
   かくて三年になりぬれど、一所の御心ざしこそおろかならね、おほかたの世には、ものものしくももてなしきこえたまはざりつるを、この折ぞ、いづこにもいづこにも聞こしめしおどろきて、御訪ぶらひども聞こえたまひける。
 
 結婚して三年になったが、お一方のお気持ちは並々でないが、世間一般に対しては、重々しくおもてなし申し上げなさらなかったので、この時に、どこもかしこもお聞きになって驚いて、お見舞い申し上げになるのであった。
 
   中納言の君は、宮の思し騒ぐに劣らず、いかにおはせむと嘆きて、心苦しくうしろめたく思さるれど、限りある御訪らひばかりこそあれ、あまりもえ参うでたまはで、忍びてぞ御祈りなどもせさせたまひける。
 
 中納言の君は、宮がお騷ぎになるのに負けず、どうおなりになることだろうかとご心配になって、お気の毒に気がかりにお思いになるが、一通りのお見舞いはするが、あまり参上することはできないので、こっそりとご祈祷などをおさせになるのだった。
 
   さるは、女二の宮の御裳着、ただこのころになりて、世の中響きいとなみののしる。
 よろづのこと、帝の御心一つなるやうに思し急げば、御後見なきしもぞ、なかなかめでたげに見えける。
 
 その一方では、女二の宮の御裳着が、ちょうどこのころとなって、世間で大評判となっている。
 万事が、帝のお心一つみたいに御準備なさるので、御後見がいないのも、かえって立派に見えるのであった。
 
   女御のしおきたまへることをばさるものにて、作物所、さるべき受領どもなど、とりどりに仕うまつることども、いと限りなしや。
 
 女御が生前に準備しておかれたことはいうまでもなく、作物所や、しかるべき受領連中などが、それぞれにお仕え申し上げることは、とても際限がない。
 
   やがてそのほどに、参りそめたまふべきやうにありければ、男方も心づかひしたまふころなれど、例のことなれば、そなたざまには心も入らで、この御事のみいとほしく嘆かる。
 
 そのままその時から、通い始めさせなさることになっていたので、男の方も気をおつかいになるころであるが、例の性格なので、その方面には気が進まず、このご懐妊のことばかりお気の毒に嘆かずにいられない。
 
   如月の朔日ごろに、直物とかいふことに、権大納言になりたまひて、右大将かけたまひつ。
 右の大殿、左にておはしけるが、辞したまへる所なりけり。
 
 二月の初めころに、直物とかいうことで、権大納言におなりになって、右大将を兼官なさった。
 右の大殿が、左大将でいらっしゃったが、お辞めになったものであった。
 
   喜びに所々ありきたまひて、この宮にも参りたまへり。
 いと苦しくしたまへば、こなたにおはしますほどなりければ、やがて参りたまへり。
 僧などさぶらひて便なき方に、とおどろきたまひて、あざやかなる御直衣、御下襲などたてまつり、ひきつくろひたまひて、下りて答の拝したまふ御さまどもとりどりにいとめでたく、
 お礼言上に諸所をお回りになって、こちらの宮にも参上なさった。
 たいそう苦しそうでいらっしゃるので、こちらにいらっしゃるときであったので、そのまま参上なさった。
 僧などが伺候していて不都合なところで、と驚きなさって、派手なお直衣に、御下襲などをお召し替えになって、身づくろいなさって、下りて拝舞の礼をなさるお二方のお姿は、それぞれに立派で、
   「やがて、官の禄賜ふ饗の所に」  「このまま今晩、近衛府の人に禄を与える宴会の所にどうぞ」
   と、請じたてまつりたまふを、悩みたまふ人によりてぞ、思したゆたひたまふめる。
 右大臣殿のしたまひけるままにとて、六条の院にてなむありける。
 
 と、お招き申し上げなさるが、お具合の悪い人のために、躊躇なさっているようである。
 右大臣殿がなさった例に従ってと、六条院で催されるのであった。
 
   垣下の親王たち上達部、大饗に劣らず、あまり騒がしきまでなむ集ひたまひける。
 この宮も渡りたまひて、静心なければ、まだ事果てぬに急ぎ帰りたまひぬるを、大殿の御方には、
 お相伴の親王方や上達部たちは、大饗に負けないほど、あまり騒がし過ぎるほど参集なさった。
 この宮もお渡りになって、落ち着いていられないので、まだ宴会が終わらないうちに急いでお帰りになったのを、大殿の御方では、
   「いと飽かずめざまし」  「とても物足りなく癪にさわる」
   とのたまふ。
 劣るべくもあらぬ御ほどなるを、ただ今のおぼえのはなやかさに思しおごりて、おしたちもてなしたまへるなめりかし。
 
 とおっしゃる。
 負けるほどでもないご身分なのを、ただ今の威勢が立派なのにおごって、いばっていらっしゃるのであろうよ。
 
 
 

第二段 中君に男子誕生

 
   からうして、その暁、男にて生まれたまへるを、宮もいとかひありてうれしく思したり。
 大将殿も、喜びに添へて、うれしく思す。
 昨夜おはしましたりしかしこまりに、やがて、この御喜びもうち添へて、立ちながら参りたまへり。
 かく籠もりおはしませば、参りたまはぬ人なし。
 
 やっとのこと、その早朝に、男の子でお生まれになったのを、宮もたいそうその効あって嬉しくお思いになった。
 大将殿も、昇進の喜びに加えて、嬉しくお思いになる。
 昨夜おいでになったお礼言上に、そのまま、このお祝いを合わせて、立ったままで参上なさった。
 こうして籠もっていらっしゃるので、お祝いに参上しない人はいない。
 
   御産養、三日は、例のただ宮の御私事にて、五日の夜、大将殿より屯食五十具、碁手の銭、椀飯などは、世の常のやうにて、子持ちの御前の衝重三十、稚児の御衣五重襲にて、御襁褓などぞ、ことことしからず、忍びやかにしなしたまへれど、こまかに見れば、わざと目馴れぬ心ばへなど見えける。
 
 御産養は、三日は、例によってただ宮の私的祝い事として、五日の夜は、大将殿から屯食五十具、碁手の銭、椀飯などは、普通通りにして、子持ちの御前の衝重三十、稚児の御産着五重襲に、御襁褓などは、仰々しくないようにこっそりとなさったが、詳細に見ると、特別に珍しい趣向が凝らしてあったのであった。
 
   宮の御前にも浅香の折敷、高坏どもにて、粉熟参らせたまへり。
 女房の御前には、衝重をばさるものにて、桧破籠三十、さまざまし尽くしたることどもあり。
 人目にことことしくは、ことさらにしなしたまはず。
 
 宮の御前にも浅香の折敷や、高坏類に、粉熟を差し上げなさった。
 女房の御前には、衝重はもちろんのこと、桧破子三十、いろいろと手を尽くしたご馳走類がある。
 人目につくような大げさには、わざとなさらない。
 
   七日の夜は、后の宮の御産養なれば、参りたまふ人びといと多かり。
 宮の大夫をはじめて、殿上人、上達部、数知らず参りたまへり。
 内裏にも聞こし召して、
 七日の夜は、后の宮の御産養なので、参上なさる人びとが多い。
 中宮大夫をはじめとして、殿上人、上達部が、数知れず参上なさった。
 主上におかれてもお耳にあそばして、
   「宮のはじめて大人びたまふなるには、いかでか」  「宮がはじめて一人前におなりになったというのに、どうして放っておけようか」
   とのたまはせて、御佩刀奉らせたまへり。
 
 と仰せになって、御佩刀を差し上げなさった。
 
   九日も、大殿より仕うまつらせたまへり。
 よろしからず思すあたりなれど、宮の思さむところあれば、御子の公達など参りたまひて、すべていと思ふことなげにめでたければ、御みづからも、月ごろもの思はしく心地の悩ましきにつけても、心細く思したりつるに、かくおもだたしく今めかしきことどもの多かれば、すこし慰みもやしたまふらむ。
 
 九日も、大殿からお世話申し上げなさった。
 おもしろくなくお思いになるところだが、宮がお思いになることもあるので、ご子息の公達が参上なさって、万事につけたいそう心配事もなさそうにおめでたいので、ご自身でも、ここ幾月も物思いによって気分が悪いのにつけても、心細くお思い続けていたが、このように面目がましいはなやかな事が多いので、少し慰みなさったことであろうか。
 
   大将殿は、「かくさへ大人び果てたまふめれば、いとどわが方ざまは気遠くやならむ。
 また、宮の御心ざしもいとおろかならじ」と思ふは口惜しけれど、また、初めよりの心おきてを思ふには、いとうれしくもあり。
 
 大将殿は、「このようにすっかり大人になってしまわれたので、ますます自分のほうには縁遠くなってしまうだろう。
 また、宮のお気持ちもけっして並々ではあるまい」と思うのは残念であるが、また、初めからの心づもりを考えてみると、たいそう嬉しくもある。
 
 
 

第三段 二月二十日過ぎ、女二の宮、薫に降嫁す

 
   かくて、その月の二十日あまりにぞ、藤壺の宮の御裳着の事ありて、またの日なむ、大将参りたまひける。
 夜のことは忍びたるさまなり。
 天の下響きていつくしう見えつる御かしづきに、ただ人の具したてまつりたまふぞ、なほ飽かず心苦しく見ゆる。
 
 こうして、その月の二十日過ぎに、藤壷の宮の御裳着の儀式があって、翌日、大将が参上なさった。
 その夜のことは内々のことである。
 世間に評判なほど大切にかしずかれた姫宮なのに、臣下がご結婚申し上げなさるのは、やはり物足りなくお気の毒に見える。
 
   「さる御許しはありながらも、ただ今、かく急がせたまふまじきことぞかし」  「そのようなお許しはあったとしても、ただ今、このようにお急ぎあそばすことでもあるまい」
   と、そしらはしげに思ひのたまふ人もありけれど、思し立ちぬること、すがすがしくおはします御心にて、来し方ためしなきまで、同じくはもてなさむと、思しおきつるなめり。
 帝の御婿になる人は、昔も今も多かれど、かく盛りの御世に、ただ人のやうに、婿取り急がせたまへるたぐひは、すくなくやありけむ。
 右の大臣も、
 と、非難がましく思いおっしゃる人もいるのだったが、ご決意なさったことを、すらすらとなさるご性格なので、過去に例がないほど同じことならお扱いなさろうと、お考えおいたようである。
 帝の御婿になる人は、昔も今も多いが、このように全盛の御世に、臣下のように、婿を急いでお迎えなさる例は少なかったのではなかろうか。
 右大臣も、
   「めづらしかりける人の御おぼえ、宿世なり。
 故院だに、朱雀院の御末にならせたまひて、今はとやつしたまひし際にこそ、かの母宮を得たてまつりたまひしか。
 我はまして、人も許さぬものを拾ひたりしや」
 「珍しいご信任、運勢だ。
 故院でさえ、朱雀院の晩年におなりあそばして、今は出家されようとなさった時に、あの母宮を頂戴なさったのだ。
 自分はまして、誰も許さなかったのを拾ったものだ」
   とのたまひ出づれば、宮は、げにと思すに、恥づかしくて御いらへもえしたまはず。
 
 とおっしゃり出すので、宮は、その通りとお思いになると、恥ずかしくてお返事もおできになれない。
 
   三日の夜は、大蔵卿よりはじめて、かの御方の心寄せになさせたまへる人びと、家司に仰せ言賜ひて、忍びやかなれど、かの御前、随身、車副、舎人まで禄賜はす。
 そのほどの事どもは、私事のやうにぞありける。
 
 三日の夜は、大蔵卿をはじめとして、あの御方のお世話役をなさっていた人びとや、家司にご命令なさって、人目に立たないようにではあるが、婿殿の御前駆や随身、車副、舎人まで禄をお与えになる。
 その時の事柄は、私事のようであった。
 
   かくて後は、忍び忍びに参りたまふ。
 心の内には、なほ忘れがたきいにしへざまのみおぼえて、昼は里に起き臥し眺め暮らして、暮るれば心より外に急ぎ参りたまふをも、ならはぬ心地に、いともの憂く苦しくて、「まかでさせたてまつらむ」とぞ思しおきてける。
 
 こうして後は、忍び忍びに参上なさる。
 心の中では、やはり忘れることのできない故人のことばかりが思われて、昼は実邸に起き臥し物思いの生活をして、暮れると気の進まないままに急いで参内なさるのを、なれない気持ちには億劫で苦しくて、「ご退出させ申し上げよう」とお考えになったのであった。
 
   母宮は、いとうれしきことに思したり。
 おはします寝殿譲りきこゆべくのたまへど、
 母宮は、とても嬉しいこととお思いになっていらっしゃった。
 お住まいになっている寝殿をお譲り申し上げようとおっしゃるが、
   「いとかたじけなからむ」  「まことに恐れ多いことです」
   とて、御念誦堂のあはひに、廊を続けて造らせたまふ。
 西面に移ろひたまふべきなめり。
 東の対どもなども、焼けて後、うるはしく新しくあらまほしきを、いよいよ磨き添へつつ、こまかにしつらはせたまふ。
 
 と言って、御念誦堂との間に、渡廊を続けてお造らせになる。
 西面にお移りになるようである。
 東の対なども、焼失して後は、立派に新しく理想的なのを、ますます磨き加え加えして、こまごまとしつらわせなさる。
 
   かかる御心づかひを、内裏にも聞かせたまひて、ほどなくうちとけ移ろひたまはむを、いかがと思したり。
 帝と聞こゆれど、心の闇は同じごとなむおはしましける。
 
 このようなお心づかいを、帝におかせられてもお耳にあそばして、月日も経ずに気安く引き取られなさるのを、どんなものかとお思いであった。
 帝と申し上げても、子を思う心の闇は同じことでおありだった。
 
   母宮の御もとに、御使ありける御文にも、ただこのことをなむ聞こえさせたまひける。
 故朱雀院の、取り分きて、この尼宮の御事をば聞こえ置かせたまひしかば、かく世を背きたまへれど、衰へず、何事も元のままにて、奏せさせたまふことなどは、かならず聞こしめし入れ、御用意深かりけり。
 
 母宮の御もとに、お使いがあったお手紙にも、ただこのことばかりを申し上げなさった。
 故朱雀院が、特別に、この尼宮の御事をお頼み申し上げていたので、このように出家なさっているが、衰えず、何事も昔通りで、奏上させなさることなどは、必ずお聞き入れなさって、お心配りが深いのであった。
 
   かく、やむごとなき御心どもに、かたみに限りもなくもてかしづき騒がれたまふおもだたしさも、いかなるにかあらむ、心の内にはことにうれしくもおぼえず、なほ、ともすればうち眺めつつ、宇治の寺造ることを急がせたまふ。
 
 このように、重々しいお二方に、互いにこの上なく大切にされていらっしゃる面目も、どのようなものであろうか、心中では特に嬉しくも思われず、やはり、ともすれば物思いに耽りながら、宇治の寺の造営を急がせなさる。
 
 
 

第四段 中君の男御子、五十日の祝い

 
   宮の若君の五十日になりたまふ日数へ取りて、その餅の急ぎを心に入れて、籠物、桧破籠などまで見入れたまひつつ、世の常のなべてにはあらずと思し心ざして、沈、紫檀、銀、黄金など、道々の細工どもいと多く召しさぶらはせたまへば、我劣らじと、さまざまのことどもをし出づめり。
 
 宮の若君が五十日におなりになる日を数えて、その餅の準備を熱心にして、籠物や桧破子などまで御覧になりながら、世間一般の平凡なものにはしまいとお考え向きになって、沈、紫檀、銀、黄金など、それぞれの専門の工匠をたいそう大勢呼び集めさせなさるので、自分こそは負けまいと、いろいろのものを作り出すようである。
 
   みづからも、例の、宮のおはしまさぬ隙におはしたり。
 心のなしにやあらむ、今すこし重々しくやむごとなげなるけしきさへ添ひにけりと見ゆ。
 「今は、さりとも、むつかしかりしすずろごとなどは紛れたまひにたらむ」と思ふに、心やすくて、対面したまへり。
 されど、ありしながらのけしきに、まづ涙ぐみて、
 ご自身も、いつものように、宮がいらっしゃらない間においでになった。
 気のせいであろうか、もう一段と重々しく立派な感じが加わったと見える。
 「今は、そうはいっても、わずらわしかった懸想事などは忘れなさったろう」と思うと、安心なので、お会いなさった。
 けれど、以前のままの様子で、まっさきに涙ぐんで、
   「心にもあらぬまじらひ、いと思ひの外なるものにこそと、世を思ひたまへ乱るることなむ、まさりにたる」  「気の進まない結婚は、たいそう心外なものだと、世の中を思い悩みますことは、今まで以上です」
   と、あいだちなくぞ愁へたまふ。
 
 と、何の遠慮もなく訴えなさる。
 
   「いとあさましき御ことかな。
 人もこそおのづからほのかにも漏り聞きはべれ」
 「まあ何というお事を。
 他人が自然と漏れ聞いたら大変ですよ」
   などはのたまへど、かばかりめでたげなることどもにも慰まず、「忘れがたく思ひたまふらむ心深さよ」とあはれに思ひきこえたまふに、おろかにもあらず思ひ知られたまふ。
 「おはせましかば」と、口惜しく思ひ出できこえたまへど、「それも、わがありさまのやうに、うらやみなく身を恨むべかりけるかし。
 何事も数ならでは、世の人めかしきこともあるまじかりけり」とおぼゆるにぞ、いとど、かの、うちとけ果てでやみなむと思ひたまへりし心おきては、なほ、いと重々しく思ひ出でられたまふ。
 
 などとおっしゃるが、これほどめでたい幾つものことにも心が晴れず、「忘れがたく思っていらっしゃるのだろう愛情の深さは」としみじみお察し申し上げなさると、並々でない愛情だとお分かりになる。
 「生きていらっしゃったら」と、残念にお思い出し申し上げなさるが、「そうしても、自分と同じようになって、姉妹で恨みっこなしに恨むのがおちであろう。
 何事も、落ちぶれた身の上では、一人前らしいこともありえないのだ」と思われると、ますます、姉君の結婚しないで通そうと思っていらっしゃった考えは、やはり、とても重々しく思い出されなさる。
 
 
 

第五段 薫、中君の若君を見る

 
   若君を切にゆかしがりきこえたまへば、恥づかしけれど、「何かは隔て顔にもあらむ、わりなきこと一つにつけて恨みらるるよりほかには、いかでこの人の御心に違はじ」と思へば、みづからはともかくもいらへきこえたまはで、乳母してさし出でさせたまへり。
 
 若君を切に拝見したがりなさるので、恥ずかしいけれど、「どうしてよそよそしくしていられよう、無理なこと一つで恨まれるより以外には、何とかこの人のお心に背くまい」と思うので、ご自身はあれこれお答え申し上げなさらないで、乳母を介して差し出させなさった。
 
   さらなることなれば、憎げならむやは。
 ゆゆしきまで白くうつくしくて、たかやかに物語し、うち笑ひなどしたまふ顔を見るに、わがものにて見まほしくうらやましきも、世の思ひ離れがたくなりぬるにやあらむ。
 されど、「言ふかひなくなりたまひにし人の、世の常のありさまにて、かやうならむ人をもとどめ置きたまへらましかば」とのみおぼえて、このころおもだたしげなる御あたりに、いつしかなどは思ひ寄られぬこそ、あまりすべなき君の御心なめれ。
 かく女々しくねぢけて、まねびなすこそいとほしけれ。
 
 当然のことながら、どうして憎らしいところがあろう。
 不吉なまでに白くかわいらしくて、大きい声で何か言っており、にっこりなどなさる顔を見ると、自分の子として見ていたく羨ましいのも、この世を離れにくくなったのであろうか。
 けれど、「亡くなってしまった方が、普通に結婚して、このようなお子を残しておいて下さったら」とばかり思われて、最近面目をほどこすあたりには、はやく子ができないかなどとは考えもつかないのは、あまり仕方のないこの君のお心のようだ。
 このように女々しくひねくれて、語り伝えるのもお気の毒である。
 
   しか悪ろびかたほならむ人を、帝の取り分き切に近づけて、睦びたまふべきにもあらじものを、「まことしき方ざまの御心おきてなどこそは、めやすくものしたまひけめ」とぞ推し量るべき。
 
 そんなによくない方を、帝が特別お側にお置きになって、親しみなさることもあるまいに、「生活面でのご思慮などは、無難でいらっしゃったのだろう」と推量すべきであろう。
 
   げに、いとかく幼きほどを見せたまへるもあはれなれば、例よりは物語などこまやかに聞こえたまふほどに、暮れぬれば、心やすく夜をだに更かすまじきを、苦しうおぼゆれば、嘆く嘆く出でたまひぬ。
 
 なるほど、まことにこのように幼い子をお見せなさるのもありがたいことなので、いつもよりはお話などをこまやかに申し上げなさるうちに、日も暮れたので、気楽に夜を更かすわけにもゆかないのを、つらく思われるので、嘆息しながらお出になった。
 
   「をかしの人の御匂ひや。
 折りつれば、とかや言ふやうに、鴬も尋ね来ぬべかめり」
 「結構なお匂いの方ですこと。
 梅を折ったなら、とか言うように、鴬も求めて来ましょうね」
   など、わづらはしがる若き人もあり。
 
 などと、やっかいがる若い女房もいる。
 
 
 

第六段 藤壺にて藤の花の宴催される

 
   「夏にならば、三条の宮塞がる方になりぬべし」と定めて、四月朔日ごろ、節分とかいふこと、まだしき先に渡したてまつりたまふ。
 
 「夏になったら、三条宮邸は宮中から塞がった方角になろう」と判定して、四月初めころの、節分とかいうことは、まだのうちにお移し申し上げなさる。
 
   明日とての日、藤壺に主上渡らせたまひて、藤の花の宴せさせたまふ。
 南の廂の御簾上げて、椅子立てたり。
 公わざにて、主人の宮の仕うまつりたまふにはあらず。
 上達部、殿上人の饗など、内蔵寮より仕うまつれり。
 
 明日引っ越しという日に、藤壷に主上がお渡りあそばして、藤の花の宴をお催しあそばす。
 南の廂の御簾を上げて、椅子を立ててある。
 公の催事で、主人の宮がお催しなさることではない。
 上達部や、殿上人の饗応などは、内蔵寮からご奉仕した。
 
   右の大臣、按察使大納言、藤中納言、左兵衛督。
 親王たちは、三の宮、常陸宮などさぶらひたまふ。
 南の庭の藤の花のもとに、殿上人の座はしたり。
 後涼殿の東に、楽所の人びと召して、暮れ行くほどに、双調に吹きて、上の御遊びに、宮の御方より、御琴ども笛など出ださせたまへば、大臣をはじめたてまつりて、御前に取りつつ参りたまふ。
 
 右大臣や、按察大納言、藤中納言、左兵衛督。
 親王方では、三の宮、常陸宮などが伺候なさる。
 南の庭の藤の花の下に、殿上人の座席は設けた。
 後涼殿の東に、楽所の人びとを召して、暮れ行くころに、双調に吹いて、主上の御遊に、宮の御方から、絃楽器や管楽器などをお出させなさったので、大臣をおはじめ申して、御前に取り次いで差し上げなさる。
 
   故六条の院の御手づから書きたまひて、入道の宮にたてまつらせたまひし琴の譜二巻、五葉の枝に付けたるを、大臣取りたまひて奏したまふ。
 
 故六条院がご自身でお書きになって、入道の宮に差し上げなさった琴の譜二巻、五葉の枝に付けたのを、大臣がお取りになって奏上なさる。
 
   次々に、箏の御琴、琵琶、和琴など、朱雀院の物どもなりけり。
 笛は、かの夢に伝へしいにしへの形見のを、「またなき物の音なり」と賞でさせたまひければ、「この折のきよらより、またはいつかは映え映えしきついでのあらむ」と思して、取う出でたまへるなめり。
 
 次々に、箏のお琴、琵琶、和琴など、朱雀院の物であった。
 笛は、あの夢で伝えた故人の形見のを、「二つとない素晴らしい音色だ」とお誉めあそばしたので、「今回の善美を尽くした宴の他に、再びいつ名誉なことがあろうか」とお思いになって、取り出しなさったようだ。
 
   大臣和琴、三の宮琵琶など、とりどりに賜ふ。
 大将の御笛は、今日ぞ、世になき音の限りは吹き立てたまひける。
 殿上人の中にも、唱歌につきなからぬどもは、召し出でて、おもしろく遊ぶ。
 
 大臣に和琴、三の宮に琵琶など、それぞれにお与えになる。
 大将のお笛は、今日は、またとない音色の限りをお立てになったのだった。
 殿上人の中にも、唱歌に堪能な人たちは、召し出して、風雅に合奏する。
 
   宮の御方より、粉熟参らせたまへり。
 沈の折敷四つ、紫檀の高坏、藤の村濃の打敷に、折枝縫ひたり。
 銀の様器、瑠璃の御盃、瓶子は紺瑠璃なり。
 兵衛督、御まかなひ仕うまつりたまふ。
 
 宮の御方から、粉熟を差し上げなさった。
 沈の折敷四つ、紫檀の高坏、藤の村濃の打敷に、折枝を縫ってある。
 銀の容器、瑠璃のお盃、瓶子は紺瑠璃である。
 兵衛督が、お給仕をお勤めなさる。
 
   御盃参りたまふに、大臣、しきりては便なかるべし、宮たちの御中にはた、さるべきもおはせねば、大将に譲りきこえたまふを、憚り申したまへど、御けしきもいかがありけむ、御盃ささげて、「をし」とのたまへる声づかひもてなしさへ、例の公事なれど、人に似ず見ゆるも、今日はいとど見なしさへ添ふにやあらむ。
 さし返し賜はりて、下りて舞踏したまへるほど、いとたぐひなし。
 
 お盃をいただきなさる時に、大臣は、自分だけしきりにいただくのは不都合であろう、宮様方の中には、またそのような方もいらっしゃらないので、大将にお譲り申し上げなさるのを、遠慮してご辞退申し上げなさるが、帝の御意向もどうあったのだろうか、お盃を捧げて、「おし」とおっしゃる声や態度までが、いつもの公事であるが、他の人と違って見えるのも、今日はますます帝の婿君と思って見るせいであろうか。
 さし返しの盃にいただいて、庭に下りて拝舞なさるところは、実にまたとない。
 
   上臈の親王たち、大臣などの賜はりたまふだにめでたきことなるを、これはまして御婿にてもてはやされたてまつりたまへる、御おぼえ、おろかならずめづらしきに、限りあれば、下りたる座に帰り着きたまへるほど、心苦しきまでぞ見えける。
 
 上席の親王方や、大臣などが戴きなさるのでさえめでたいことなのに、これはそれ以上に帝の婿君としてもてはやされ申されていらっしゃる、その御信任が、並々でなく例のないことだが、身分に限度があるので、下の座席にお帰りになってお座りになるところは、お気の毒なまでに見えた。
 
 
 

第七段 女二の宮、三条宮邸に渡御す

 
   按察使大納言は、「我こそかかる目も見むと思ひしか、ねたのわざや」と思ひたまへり。
 この宮の御母女御をぞ、昔、心かけきこえたまへりけるを、参りたまひて後も、なほ思ひ離れぬさまに聞こえ通ひたまひて、果ては宮を得たてまつらむの心つきたりければ、御後見望むけしきも漏らし申しけれど、聞こし召しだに伝へずなりにければ、いと心やましと思ひて、
 按察使大納言は、「自分こそはこのような目に会いたい思ったが、妬ましいことだ」と思っていらっしゃった。
 この宮の御母女御を、昔、思いをお懸け申し上げていらっしゃったが、入内なさった後も、やはり思いが離れないふうにお手紙を差し上げたりなさって、終いには宮を得たいとの考えがあったので、ご後見を希望する様子をお漏らし申し上げたが、お聞き入れさえなさらなかったので、たいそう悔しく思って、
   「人柄は、げに契りことなめれど、なぞ、時の帝のことことしきまで婿かしづきたまふべき。
 またあらじかし。
 九重のうちに、おはします殿近きほどにて、ただ人のうちとけ訪らひて、果ては宴や何やともて騒がるることは」
 「人柄は、なるほど前世の因縁による格別の生まれであろうが、どうして、時の帝が大仰なまでに婿を大切になさることだろう。
 他に例はないだろう。
 宮中の内で、お常御殿に近い所に、臣下が寛いで出入りして、最後は宴や何やとちやほやされることよ」
   など、いみじく誹りつぶやき申したまひけれど、さすがゆかしければ、参りて、心の内にぞ腹立ちゐたまへりける。
 
 などと、ひどく悪口をぶつぶつ申し上げなさったが、やはり盛儀を見たかったので、参内して、心中では腹を立てていらっしゃるのだった。
 
   紙燭さして歌どもたてまつる。
 文台のもとに寄りつつ置くほどのけしきは、おのおのしたり顔なりけれど、例の、「いかにあやしげに古めきたりけむ」と思ひやれば、あながちに皆もたづね書かず。
 上の町も、上臈とて、御口つきどもは、異なること見えざめれど、しるしばかりとて、一つ、二つぞ問ひ聞きたりし。
 これは、大将の君の、下りて御かざし折りて参りたまへりけるとか。
 
 紙燭を灯して何首もの和歌を献上する。
 文台のもとに寄りながら置く時の態度は、それぞれ得意顔であったが、例によって、「どんなにかおかしげで古めかしかったろう」と想像されるので、むやみに全部は探して書かない。
 上等の部も、身分が高いからといって、詠みぶりは、格別なことは見えないようだが、しるしばかりにと思って、一、二首聞いておいた。
 この歌は、大将の君が、庭に下りて帝の冠に挿す藤の花を折って参上なさった時のものとか。
 
 

718
 「すべらきの かざしに折ると 藤の花
 及ばぬ枝に 袖かけてけり」
 「帝の插頭に折ろうとして藤の花を
  わたしの及ばない袖にかけてしまいました」
 
   うけばりたるぞ、憎きや。
 
 いい気になっているのが、憎らしいこと。
 
 

719
 「よろづ世を かけて匂はむ 花なれば
 今日をも飽かぬ 色とこそ見れ」
 「万世を変わらず咲き匂う花であるから
  今日も見飽きない花の色として見ます」
 

720
 「君がため 折れるかざしは 紫の
 雲に劣らぬ 花のけしきか」
 「主君のため折った插頭の花は
  紫の雲にも劣らない花の様子です」
 

721
 「世の常の 色とも見えず 雲居まで
 たち昇りたる 藤波の花」
 「世間一般の花の色とも見えません
  宮中まで立ち上った藤の花は」
 
   「これやこの腹立つ大納言のなりけむ」と見ゆれ。
 かたへは、ひがことにもやありけむ。
 かやうに、ことなるをかしきふしもなくのみぞあなりし。
 
 「これがこの腹を立てた大納言のであった」と見える。
 一部は、聞き違いであったかも知れない。
 このように、格別に風雅な点もない歌ばかりであった。
 
   夜更くるままに、御遊びいとおもしろし。
 大将の君、「安名尊」謡ひたまへる声ぞ、限りなくめでたかりける。
 按察使も、昔すぐれたまへりし御声の名残なれば、今もいとものものしくて、うち合はせたまへり。
 右の大殿の御七郎、童にて笙の笛吹く。
 いとうつくしかりければ、御衣賜はす。
 大臣下りて舞踏したまふ。
 
 夜の更けるにしたがって、管弦の御遊はたいそう興趣深い。
 大将の君が、「安名尊」を謡いなさった声は、この上なく素晴しかった。
 按察使大納言も、若い時にすぐれていらっしゃったお声が残っていて、今でもたいそう堂々としていて、合唱なさった。
 右の大殿の七郎君が、子供で笙の笛を吹く。
 たいそうかわいらしかったので、御衣を御下賜になる。
 大臣が庭に下りて拝舞なさる。
 
   暁近うなりてぞ帰らせたまひける。
 禄ども、上達部、親王たちには、主上より賜はす。
 殿上人、楽所の人びとには、宮の御方より品々に賜ひけり。
 
 暁が近くなってお帰りあそばした。
 禄などを、上達部や、親王方には、主上から御下賜になる。
 殿上人や、楽所の人びとには、宮の御方から身分に応じてお与えになった。
 
   その夜ふさりなむ、宮まかでさせたてまつりたまひける。
 儀式いと心ことなり。
 主上の女房さながら御送り仕うまつらせたまひける。
 庇の御車にて、庇なき糸毛三つ、黄金づくり六つ、ただの檳榔毛二十、網代二つ、童、下仕へ八人づつさぶらふに、また御迎への出車どもに、本所の人びと乗せてなむありける。
 御送りの上達部、殿上人、六位など、言ふ限りなききよらを尽くさせたまへり。
 
 その夜に、宮をご退出させなさった。
 その儀式はまことに格別である。
 主上つきの女房全員にお供をおさせになった。
 廂のお車で、廂のない糸毛車三台、黄金造りの車六台、普通の檳榔毛の車二十台、網代車二台、童女と、下仕人を八人ずつ伺候させたが、一方お迎えの出車に、本邸の女房たちを乗せてあった。
 お送りの上達部、殿上人、六位など、何ともいいようなく善美を尽くさせていらっしゃった。
 
   かくて、心やすくうちとけて見たてまつりたまふに、いとをかしげにおはす。
 ささやかにしめやかにて、ここはと見ゆるところなくおはすれば、「宿世のほど口惜しからざりけり」と、心おごりせらるるものから、過ぎにし方の忘らればこそはあらめ、なほ紛るる折なく、もののみ恋しくおぼゆれば、
 こうして、寛いで拝見なさると、まことに立派でいらっしゃる。
 小柄で上品でしっとりとして、ここがいけないと見えるところもなくいらっしゃるので、「運命も悪くはなかった」と、心中得意にならずにいらないが、亡くなった姫君が忘れられればよいのだが、やはり気持ちの紛れる時なく、そればかりが恋しく思い出されるので、
   「この世にては慰めかねつべきわざなめり。
 仏になりてこそは、あやしくつらかりける契りのほどを、何の報いと諦めて思ひ離れめ」
 「この世では慰めきれないことのようである。
 仏の悟りを得てこそ、不思議でつらかった二人の運命を、何の報いであったのかとはっきり知って諦めよう」
   と思ひつつ、寺の急ぎにのみ心を入れたまへり。
 
 と思いながら、寺の造営にばかり心を注いでいらっしゃった。
 
 
 

第九章 薫の物語 宇治で浮舟に出逢う

 
 

第一段 四月二十日過ぎ、薫、宇治で浮舟に邂逅

 
   賀茂の祭など、騒がしきほど過ぐして、二十日あまりのほどに、例の、宇治へおはしたり。
 
 賀茂の祭などの、忙しいころを過ごして、二十日過ぎに、いつものように、宇治へお出かけになった。
 
   造らせたまふ御堂見たまひて、すべきことどもおきてのたまひ、さて、例の、朽木のもとを見たまへ過ぎむが、なほあはれなれば、そなたざまにおはするに、女車のことことしきさまにはあらぬ一つ、荒らましき東男の、腰に物負へる、あまた具して、下人も数多く頼もしげなるけしきにて、橋より今渡り来る見ゆ。
 
 造らせなさっている御堂を御覧になって、なすべき事などをお命じになって、そうして、いつものように、弁のもとを素通りいたすのも、やはり気の毒なので、そちらにお出でになると、女車が仰々しい様子ではないのが一台、荒々しい東男が腰に刀を付けた者を、大勢従えて、下人も数多く頼もしそうな様子で、橋を今渡って来るのが見える。
 
   「田舎びたる者かな」と見たまひつつ、殿はまづ入りたまひて、御前どもは、まだ立ち騷ぎたるほどに、「この車もこの宮をさして来るなりけり」と見ゆ。
 御随身どもも、かやかやと言ふを制したまひて、
 「田舎者だなあ」と御覧になりながら、殿は先にお入りになって、お供の連中は、まだ立ち騒いでいるところに、「この車もこの宮を目指して来るのだ」と分かる。
 御随身たちも、がやがやと言うのを制止なさって、
   「何人ぞ」  「誰であろうか」
   と問はせたまへば、声うちゆがみたる者、  と尋ねさせなさると、言葉の訛った者が、
   「常陸の前司殿の姫君の、初瀬の御寺に詣でて戻りたまへるなり。
 初めもここになむ宿りたまへし」
 「常陸前司殿の姫君が、初瀬のお寺に参詣してお帰りになったのです。
 最初もここにお泊まりになりました」
   と申すに、  と申すので、
   「おいや、聞きし人ななり」  「おや、そうだ、聞いたことのある人だ」
   と思し出でて、人びとを異方に隠したまひて、  とお思い出しになって、供人たちを別の場所にお隠しになって、
   「はや、御車入れよ。
 ここに、また 人宿りたまへど、北面になむ」
 「早く、お車を入れなさい。
 ここには、別に泊まっている人がいらっしゃるが、北面のほうにおいでです」
   と言はせたまふ。
 
 と言わせなさる。
 
   御供の人も、皆狩衣姿にて、ことことしからぬ姿どもなれど、なほけはひやしるからむ、わづらはしげに思ひて、馬ども引きさけなどしつつ、かしこまりつつぞをる。
 車は入れて、廊の西のつまにぞ寄する。
 この寝殿はまだあらはにて、簾もかけず。
 下ろし籠めたる中の二間に立て隔てたる障子の穴より覗きたまふ。
 
 お供の人も、みな狩衣姿で、大げさでない姿ではあるが、やはり高貴な感じがはっきりしているのであろう、わずらわしそうに思って、馬どもを遠ざけて、控えていた。
 車は入れて、渡廊の西の端に寄せる。
 この寝殿はまだ人目を遮る調度類が入れてなくて、簾も掛けていない。
 格子を下ろしこめた中の二間に立てて仕切ってある襖障子の穴から覗きなさる。
 
   御衣の鳴れば、脱ぎおきて、直衣指貫の限りを着てぞおはする。
 とみにも降りで、尼君に消息して、かくやむごとなげなる人のおはするを、「誰れぞ」など案内するなるべし。
 君は、車をそれと聞きたまひつるより、
 お召し物の音がするので、脱ぎ置いて、直衣に指貫だけを着ていらっしゃる。
 すぐには下りないで、尼君に挨拶をして、このように高貴そうな方がいらっしゃるのを、「どなたですか」などと尋ねているのであろう。
 君は、車をその人とお聞きになってから、
   「ゆめ、その人にまろありとのたまふな」  「けっして、その人にわたしがいるとおっしゃるな」
   と、まづ口かためさせたまひてければ、皆さ心得て、  と、まっさきに口止めなさっていたので、みなそのように心得て、
   「早う降りさせたまへ。
 客人はものしたまへど、異方になむ」
 「早くお降りなさい。
 客人はいらしゃるが、別の部屋です」
   と言ひ出だしたり。
 
 と言い出した。
 
 
 

第二段 薫、浮舟を垣間見る

 
   若き人のある、まづ降りて、簾うち上ぐめり。
 御前のさまよりは、このおもと馴れてめやすし。
 また、大人びたる人いま一人降りて、「早う」と言ふに、
 若い女房がいるが、まず降りて、簾を上げるようである。
 御前駆の様子よりは、この女房は物馴れていて見苦しくない。
 また、年とった女房がもう一人降りて、「早く」と言うと、
   「あやしくあらはなる心地こそすれ」  「妙に丸見えのような気がします」
   と言ふ声、ほのかなれどあてやかに聞こゆ。
 
 という声は、かすかではあるが上品に聞こえる。
 
   「例の御事。
 こなたは、さきざきも下ろし籠めてのみこそははべれ。
 さては、またいづこのあらはなるべきぞ」
 「いつものおことです。
 こちらは、以前にも格子を下ろしきってございました。
 それでは、どこがまた丸見えでしょうか」
   と、心をやりて言ふ。
 つつましげに降るるを見れば、まづ、頭つき、様体、細やかにあてなるほどは、いとよくもの思ひ出でられぬべし。
 扇子をつとさし隠したれば、顔は見えぬほど心もとなくて、胸うちつぶれつつ見たまふ。
 
 と、安心しきって言う。
 遠慮深そうに降りるのを見ると、まず、頭の恰好、身体つき、細くて上品な感じは、たいそうよく亡き姫君を思い出されよう。
 扇でぴったりと顔を隠しているので、顔の見えないところは見たくて、胸をどきどきさせながら御覧になる。
 
   車は高く、降るる所は下りたるを、この人びとはやすらかに降りなしつれど、いと苦しげにややみて、ひさしく降りて、ゐざり入る。
 濃き袿に、撫子とおぼしき細長、若苗色の小袿着たり。
 
 車は高くて、降りる所が低くなっていたが、この女房たちは楽々と降りたが、たいそうつらそうに困りきって、長いことかかって降りて、お部屋にいざって入る。
 濃い紅の袿に、撫子襲と思われる細長、若苗色の小袿を着ていた。
 
   四尺の屏風を、この障子に添へて立てたるが、上より見ゆる穴なれば、残るところなし。
 こなたをばうしろめたげに思ひて、あなたざまに向きてぞ、添ひ臥しぬる。
 
 四尺の屏風を、この襖障子に添えて立ててあるが、上から見える穴なので、丸見えである。
 こちらを不安そうに思って、あちらを向いて物に寄り臥した。
 
   「さも、苦しげに思したりつるかな。
 泉川の舟渡りも、まことに、今日はいと恐ろしくこそありつれ。
 この如月には、水のすくなかりしかばよかりしなりけり」
 「何とも、お疲れのようですね。
 泉川の舟渡りも、ほんとうに、今日はとても恐ろしかったわ。
 この二月には、水が浅かったのでよかったのですが」
   「いでや、歩くは、東路思へば、いづこか恐ろしからむ」  「いやなに、出歩くことは、東国の旅を思えば、どこが恐ろしいことがありましょう」
   など、二人して苦しとも思ひたらず言ひゐたるに、主は音もせでひれ臥したり。
 腕をさし出でたるが、まろらかにをかしげなるほども、常陸殿などいふべくは見えず、まことにあてなり。
 
 などと、二人でつらいとも思わず言っているのに、主人は音も立てずに臥せっていた。
 腕をさし出しているのが、まるまるとかわいらしいのを、常陸殿の娘とも思えない、まことに上品である。
 
   やうやう腰痛きまで立ちすくみたまへど、人のけはひせじとて、なほ動かで見たまふに、若き人、  だんだんと腰が痛くなるまで腰をかがめていらっしゃったが、人の来る感じがしないと思って、依然として動かずに御覧になると、若い女房が、
   「あな、香ばしや。
 いみじき香の香こそすれ。
 尼君の焚きたまふにやあらむ」
 「まあ、いい香りのすること。
 たいそうな香の匂いがしますわ。
 尼君が焚いていらっしゃるのかしら」
   老い人、  老女房は、
   「まことにあなめでたの物の香や。
 京人は、なほいとこそ雅びかに今めかしけれ。
 天下にいみじきことと思したりしかど、東にてかかる薫物の香は、え合はせ出でたまはざりきかし。
 この尼君は、住まひかくかすかにおはすれど、装束のあらまほしく、鈍色青色といへど、いときよらにぞあるや」
 「ほんとうに何とも素晴らしい香でしょう。
 京の人は、やはりとても優雅で華やかでいらっしゃる。
 北の方さまが当地で一番だと自惚れていらしたが、東国ではこのような薫物の香は、とても合わせることができなかった。
 この尼君は、住まいはこのようにひっそりしていらっしゃるが、衣装が素晴らしく、鈍色や青鈍と言っても、とても美しいですね」
   など、ほめゐたり。
 あなたの簀子より童来て、
 などと、誉めていた。
 あちらの簀子から童女が来て、
   「御湯など参らせたまへ」  「お薬湯などお召し上がりなさいませ」
   とて、折敷どもも取り続きてさし入る。
 果物取り寄せなどして、
 と言って、いくつもの折敷に次から次へとさし入れる。
 果物を取り寄せなどして、
   「ものけたまはる。
 これ」
 「もしもし、これを」
   など起こせど、起きねば、二人して、栗やなどやうのものにや、ほろほろと食ふも、聞き知らぬ心地には、かたはらいたくてしぞきたまへど、またゆかしくなりつつ、なほ立ち寄り立ち寄り見たまふ。
 
 などと言って起こすが、起きないので、二人して、栗などのようなものか、ほろほろと音を立てて食べるのも、聞いたこともない感じなので、見ていられなくて退きなさったが、再び見たくなっては、やはり立ち寄り立ち寄り御覧になる。
 
   これよりまさる際の人びとを、后の宮をはじめて、ここかしこに、容貌よきも心あてなるも、ここら飽くまで見集めたまへど、おぼろけならでは、目も心もとまらず、あまり人にもどかるるまでものしたまふ心地に、ただ今は、何ばかりすぐれて見ゆることもなき人なれど、かく立ち去りがたく、あながちにゆかしきも、いとあやしき心なり。
 
 この人より上の身分の人びとを、后宮をはじめとして、あちらこちらに、器量のよい人や気立てが上品な人をも、大勢飽きるほど御覧になったが、いいかげんな女では、目も心も止まらず、あまり人から非難されるまでまじめでいらっしゃるお気持ちには、ただ今のようなのは、どれほども素晴らしく見えることもない女であるが、このように立ち去りにくく、むやみに見ていたいのも、実に妙な心である。
 
 
 

第三段 浮舟、弁の尼と対面

 
   尼君は、この殿の御方にも、御消息聞こえ出だしたりけれど、  尼君は、この殿の御方にも、ご挨拶申し上げ出したが、
   「御心地悩ましとて、今のほどうちやすませたまへるなり」  「ご気分が悪いと言って、今休んでいらっしゃるのです」
   と、御供の人びと心しらひて言ひたりければ、「この君を尋ねまほしげにのたまひしかば、かかるついでにもの言ひ触れむと思ほすによりて、日暮らしたまふにや」と思ひて、かく覗きたまふらむとは知らず。
 
 と、お供の人びとが心づかいして言ったので、「この君を探し出したくおっしゃっていたので、このような機会に話し出そうとお思いになって、日暮れを待っていらっしゃったのか」と思って、このように覗いているとは知らない。
 
   例の、御荘の預りどもの参れる、破籠や何やと、こなたにも入れたるを、東人どもにも食はせなど、事ども行なひおきて、うち化粧じて、客人の方に来たり。
 ほめつる装束、げにいとかはらかにて、みめもなほよしよししくきよげにぞある。
 
 いつものように、御荘園の管理人連中が参上しているが、破子や何やかやと、こちらにも差し入れているのを、東国の連中にも食べさせたりなど、いろいろ済ませて、身づくろいして、客人の方に来た。
 誉めていた衣装は、なるほどとてもこざっぱりとしていて、顔つきもやはり上品で美しかった。
 
   「昨日おはし着きなむと待ちきこえさせしを、などか、今日も日たけては」  「昨日お着きになるとお待ち申し上げていましたが、どうして、今日もこんなに日が高くなってから」
   と言ふめれば、この老い人、  と言うようなので、この老女房は、
   「いとあやしく苦しげにのみせさせたまへば、昨日はこの泉川のわたりにて、今朝も無期に御心地ためらひてなむ」  「とても妙につらそうにばかりなさっているので、昨日はこの泉川のあたりで、今朝もずうっとご気分が悪かったものですから」
   といらひて、起こせば、今ぞ起きゐたる。
 尼君を恥ぢらひて、そばみたるかたはらめ、これよりはいとよく見ゆ。
 まことにいとよしあるまみのほど、髪ざしのわたり、かれをも、詳しくつくづくとしも見たまはざりし御顔なれど、これを見るにつけて、ただそれと思ひ出でらるるに、例の、涙落ちぬ。
 
 と答えて、起こすと、今ようやく起きて座った。
 尼君に恥ずかしがって、横から見た姿は、こちらからは実によく見える。
 ほんとうにたいそう気品のある目もとや、髪の生え際のあたりが、亡くなった姫君を、詳細につくづくとは御覧にならなかったお顔であるが、この人を見るにつけて、まるでその人と思い出されるので、例によって、涙が落ちた。
 
   尼君のいらへうちする声、けはひ、宮の御方にもいとよく似たりと聞こゆ。
 
 尼君への応対する声、感じは、宮の御方にもとてもよく似ているような聞こえる。
 
   「あはれなりける人かな。
 かかりけるものを、今まで尋ねも知らで過ぐしけることよ。
 これより口惜しからむ際の品ならむゆかりなどにてだに、かばかりかよひきこえたらむ人を得ては、おろかに思ふまじき心地するに、まして、これは、知られたてまつらざりけれど、まことに故宮の御子にこそはありけれ」
 「何というなつかしい人であろう。
 このような人を、今まで探し出しもしないで過ごして来たとは。
 この人よりつまらないような身分の故姫宮に縁のある女でさえあったならば、これほど似通い申している人を手に入れてはいいかげんに思わない気がするが、まして、この人は、父宮に認知していただかなかったが、ほんとうに故宮のご息女だったのだ」
   と見なしたまひては、限りなくあはれにうれしくおぼえたまふ。
 「ただ今も、はひ寄りて、世の中におはしけるものを」と言ひ慰めまほし。
 蓬莱まで尋ねて、釵の限りを伝へて見たまひけむ帝は、なほ、いぶせかりけむ。
 「これは異人なれど、慰め所ありぬべきさまなり」とおぼゆるは、この人に契りのおはしけるにやあらむ。
 
 とお分かりになっては、この上なく嬉しく思われなさる。
 「ただ今にでも、側に這い寄って、この世にいらっしゃったのですね」と言って慰めたい。
 蓬莱山まで探し求めて、釵だけを手に入れて御覧になったという帝は、やはり、物足りない気がしたろう。
 「この人は別の人であるが、慰められるところがありそうな様子だ」と思われるのは、この人と前世からの縁があったのであろうか。
 
   尼君は、物語すこしして、とく入りぬ。
 人のとがめつる薫りを、「近く覗きたまふなめり」と心得てければ、うちとけごとも語らはずなりぬるなるべし。
 
 尼君は、お話を少しして、すぐに中に入ってしまった。
 女房たちが気がついた香りを、「近くから覗いていらっしゃるらしい」と分かったので、寛いだ話も話さずになったのであろう。
 
 
 

第四段 薫、弁の尼に仲立を依頼

 
   日暮れもていけば、君もやをら出でて、御衣など着たまひてぞ、例召し出づる障子の口に、尼君呼びて、ありさまなど問ひたまふ。
 
 日が暮れてゆくので、君もそっと出て、ご衣装などをお召しになって、いつも呼び出す襖障子口に、尼君を呼んで、様子などをお尋ねなさる。
 
   「折しもうれしく参で逢ひたるを。
 いかにぞ、かの聞こえしことは」
 「ちょうどよい時に来合わせたものだな。
 どうでしたか、あの申し上げておいたことは」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「しか、仰せ言はべりし後は、さるべきついではべらば、と待ちはべりしに、去年は過ぎて、この二月になむ、初瀬詣でのたよりに対面してはべりし。
 
 「そのように、仰せ言がございました後は、適当な機会がありましたら、と待っておりましたが、去年は過ぎて、今年の二月に、初瀬に参詣する機会に初めて対面しました。
 
   かの母君に、思し召したるさまは、ほのめかしはべりしかば、いとかたはらいたく、かたじけなき御よそへにこそははべるなれ、などなむはべりしかど、そのころほひは、のどやかにもおはしまさずと承りし、折便なく思ひたまへつつみて、かくなむ、とも聞こえさせはべらざりしを、またこの月にも詣でて、今日帰りたまふなめり。
 
 あの母君に、お考えの向きは、ちらっとお話しておきましたので、とても身の置き所もなく、もったいないお話でございます、などと申しておりましたが、その当時は、お忙しいころと承っておりましたので、機会がなく不都合に思って遠慮して、これこれです、とも申し上げませんでしたが、また今月にも参詣して、今日お帰りになったような次第です。
 
   行き帰りの中宿りには、かく睦びらるるも、ただ過ぎにし御けはひを尋ねきこゆるゆゑになむはべめる。
 かの母君も、障ることありて、このたびは、独りものしたまふめれば、かくおはしますとも、何かは、ものしはべらむとて」
 行き帰りの宿泊所として、このように親しくされるのも、ただお亡くなりになった父君の跡をお尋ね申し上げる理由からでございましょう。
 あの母君は、支障があって、今回は、お独りで参詣なさるようなので、このようにいらっしゃっても、特に、申し上げることもないと思いまして」
   と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
   「田舎びたる人どもに、忍びやつれたるありきも見えじとて、口固めつれど、いかがあらむ。
 下衆どもは隠れあらじかし。
 さて、いかがすべき。
 独りものすらむこそ、なかなか心やすかなれ。
 かく契り深くてなむ、参り来あひたる、と伝へたまへかし」
 「田舎者めいた連中に、人目につかないようにやつしている姿を見られまいと、口固めしているが、どんなものであろう。
 下衆連中は隠すことはできまい。
 さて、どうしたものだろうか。
 独り身でいらっしゃるのは、かえって気楽だ。
 このように前世からの約束があって、巡り合わせたのだ、とお伝えください」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「うちつけに、いつのほどなる御契りにかは」  「急に、いつの間にできたお約束ですか」
   と、うち笑ひて、  と、苦笑して、
   「さらば、しか伝へはべらむ」  「それでは、そのようにお伝えしましょう」
   とて、入るに、  と言って、中に入るときに、
 

722
 「貌鳥の 声も聞きしに かよふやと
 茂みを分けて 今日ぞ尋ぬる」
 「かお鳥の声も昔聞いた声に似ているかしらと
  草の茂みを分け入って今日尋ねてきたのだ」
 
   ただ口ずさみのやうにのたまふを、入りて語りけり。
 
 ただ口ずさみのようにおっしゃるのを、中に入って語るのであった。
 
 
  【出典】  
  出典1 送春唯有酒 銷日不過棋<春を送るには唯酒有り 日を銷するには棋に過ぎず>(白氏文集巻十六-九二〇 官舎閑題)(戻)  
  出典2 聞得園中花養艶 請君許折一枝春<聞き得たり園の中に花の艶を養ふことを 君に請ふ一枝の春を折らむことを許せ>(和漢朗詠集下恋-七八四 無名)(戻)  
  出典3 などてかく逢ふごかたみになりにけむ水漏らさじと結びしものを(伊勢物語-六一)(戻)  
  出典4 散りぬべき花心ぞとかつ見つつ頼みそめけむ我やなになる(元良親王集-九四)(戻)  
  出典5 世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ(古今集雑下-九五五 物部吉名)(戻)  
  出典6 朝顔は常なき花の色なれや明くる間咲きて移ろひにけり(花鳥余情所引-出典未詳)(戻)  
  出典7 朝顔を何は悲しと思ひけむ人をも花はさこそ見るらめ(拾遺集哀傷-一二八三 藤原道信)(戻)  
  出典8 女郎花憂しと見つつぞ行き過ぐる男山にしたてりと思へば(古今集秋上-二二七 布留今道)(戻)  
  出典9 出典未詳、参考 頼めおく言の葉だにもなきものを何にかかれる露の命ぞ(金葉集恋上-四二〇 皇后宮女別当)(戻)  
  出典10 大底四時心惣苦 就中腸断是秋天<大底四時心惣て苦し 就中腸の断ゆることは是れ秋の天>(白氏文集巻十四-七九〇 暮立)(戻)  
  出典11 里は荒れて人は古りにし宿なれや籬も秋の野良なる(古今集秋上-二四八 僧正遍昭)(戻)  
  出典12 山里は物ぞわびしきことこそあれ世の憂きよりは住みよかりけり(古今集雑下-九四四 読人しらず)(戻)  
  出典13 幾世しもあらじ我が身をな款もかく海人の刈る藻に思ひ乱るる(古今集雑下-九三四 読人しらず)(戻)  
  出典14 大空の月だに宿は入るものを雲のよそにも過ぐる君かな(元良親王集-一五〇)(戻)  
  出典15 涙川水増さればやしきたへの枕の浮きて止まらざるらむ(拾遺集雑恋-一二五八 読人しらず)(戻)  
  出典16 我が心慰めかねつ更級や姥捨山に照る月を見て(古今集雑上-八七八院読人しらず)(戻)  
  出典17 優婆塞が行ふ山の椎本あなそばそばし床にしあらねば(宇津保物語-二一二)(戻)  
  出典18 独り寝の侘しきままに起きゐつつ月をあはれと忌みぞかねつる(後撰集恋二-六八四 読人しらず)(戻)  
  出典19 長しとも思ひぞはてぬ昔より逢ふ人からの秋の夜なれば(古今集恋三-六三六 凡河内躬恒)(戻)  
  出典20 有りはてぬ命待つ間のほどばかり憂きことしげく思はずもがな(古今集雑下-九六五 平貞文)(戻)  
  出典21 こりずまに又もなき名は立ちぬべし人憎からぬ世にしすまへば(古今集恋三-六三一 読人しらず)(戻)  
  出典22 いなせとも言ひはなたれず憂きものは身を心ともせぬ世なりけり(後撰集恋五-九三七 伊勢)(戻)  
  出典23 ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと思ふは山の蔭にぞありける(古今集秋上-二〇四 読人しらず)(戻)  
  出典24 恋をしてねをのみ泣けばしきたへの枕の下に海人ぞ釣する(源氏釈所引-出典未詳)(戻)  
  出典25 浅くこそ人は見るらめ関川の絶ゆる心はあらじとぞ思ふ 関川の岩間を潜る水浅み絶えぬべくのみ見ゆる心を(大和物語-一六一、一六二)(戻)  
  出典26 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔)(戻)  
  出典27 世やは憂き人のつらき海人の刈る藻に棲む虫のわれからぞ憂き(紫明抄所引-出典未詳)(戻)  
  出典28 取り返す物にもがなや世の中をありしながらのわが身と思はむ(源氏釈所引-出典未詳)(戻)  
  出典29 逢はざりし時いかなりしものとてかただ今の間も見ねば恋しき(後撰集恋一-五六三 読人しらず)(戻)  
  出典30 身を知れば恨みぬものをなぞもかくことわり知らぬ涙なるらむ(源氏釈所引-出典未詳)(戻)  
  出典31 憂きながら消えせぬ舉は身なりけりうらやましきは水の泡かな(拾遺集哀傷-一三一三 中務)(戻)  
  出典32 憂くも世に思ふ心にかなはぬか誰も千歳の松ならなくに(古今六帖四-二〇九六)(戻)  
  出典33 恋しさの限りだにある世なりせば年経て物は思はざらまし(古今六帖五-二五七一)(戻)  
  出典34 恋ひ侘びぬねをだに泣かむ声立てていづこなるらむ音無の里(拾遺集恋二-七四九 読人しらず)(戻)  
  出典35 結びおきし形見の子だになかりせば何に忍ぶの草を摘ままし(後撰集雑二-一一八七 藤原兼忠)(戻)  
  出典36 いつとても恋しからずはあらねども秋の夕べは恋しかりけり(古今集恋一-五四六 読人しらず)(戻)  
  出典37 秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ(和泉式部集-一三二)(戻)  
  出典38 末の露本の雫や世の中の後れ先立つためしなるらむ(古今六帖一-五九三)(戻)  
  出典39 秋は来ぬ紅葉は宿に降りしきぬ道踏み分けて訪ふ人はなし(古今集秋下-二八七 読人しらず)(戻)  
  出典40 形こそ深山隠れの朽木なれ心は花になさばなりなむ(古今集雑上-八七五 兼芸法師)(戻)  
  出典41 雁の来る峰の朝霧晴れずのみ思ひつきせぬ世の中の憂さ(古今集雑下-九三五 読人しらず)(戻)  
  出典42 いかならむ巌の中に住まばかは世の憂きことの聞こえ来ざらむ(古今集雑下-九五二 読人しらず)(戻)  
  出典43 秋の野の袂か花薄穂に出でて招く袖と見ゆらむ(古今集秋上-二四三 在原棟梁)(戻)  
  出典44 置きもあへずはかなき露をいかにして貫き留めむ玉の緒もがな(小大君集-五〇)(戻)  
  出典45 我ぎ妹子に逢坂山の篠薄穂には出でずも恋ひわたるかな(古今集墨滅歌-一一〇七 読人しらず)(戻)  
  出典46 おほかたのわが身一つの憂きからになべての世をも恨みつるかな(拾遺集恋五-九五三 紀貫之)(戻)  
  出典47 不是花中偏愛菊 此花開後更無花<是れ花の中に偏へに菊を愛するにはあらず 此の花開けて後更に花の無ければなり>(和漢朗詠集上-二六七 元*、*=禾+真)(戻)  
  出典48 伊勢の海の 清き渚に しほがひに なのりそや摘まむ 貝拾はむや 玉や拾はむ(催馬楽-伊勢の海)(戻)  
  出典49 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔)(戻)  
  出典50 折りつれば袖こそ匂へ梅の花有りとやここに鴬の鳴く(古今集春上-三二 読人しらず)(戻)  
  出典51 かくてこそ見まくほしけれ万世をかけて匂へる藤波の花(新古今集春下-一六三 延喜御歌)(戻)  
  出典52 藤の花宮の内には紫の雲かとのみぞあやまたれる(拾遺集雑春-一〇六八 皇太后宮権大夫国章)(戻)  
  出典53 あな尊 今日の尊さ や いにしへも かくやありけむ や今日の尊さ あはれ そこよしや 今日の尊さ(催馬楽-あな尊)(戻)  
 
  【校訂】  
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 たてまつらせ--たてまつり(り/#)らせ(戻)  
  校訂2 頼もし人--たのもしき(き/#)人(戻)  
  校訂3 人--人/\(/\/#)(戻)  
  校訂4 数--(/+数<朱>)(戻)  
  校訂5 おはせば--おはせし(し/#)は(戻)  
  校訂6 右の大殿--右大臣(臣/#)殿(戻)  
  校訂7 思ひ--思(/+ひ)(戻)  
  校訂8 例ならず--例の(の/$)ならす(戻)  
  校訂9 右の大殿--右大臣(臣/#)殿(戻)  
  校訂10 思ふ思ふ--思(/+ふ)/\(戻)  
  校訂11 したがひつつ--したかひて(て/$<朱>)つゝ(戻)  
  校訂12 まどろまず--まとろむ(む/$)ます(戻)  
  校訂13 見過ぎて--見すく(く/#)きて(戻)  
  校訂14 きこゆべき--*きこえへき(戻)  
  校訂15 心苦しき--心くるし(し/+き)(戻)  
  校訂16 はべりしに--侍へ(へ/#)しに(戻)  
  校訂17 のたまはせよ--の給(給/+は)せよ(戻)  
  校訂18 ゐなばや、など--ゐなはやと(と/#)なと(戻)  
  校訂19 おきたまひて--をきて(て/#)給て(戻)  
  校訂20 折ふし--(/+おり)ふし(戻)  
  校訂21 のたまへば--(/+の給へは)(戻)  
  校訂22 べけれとて--へき(き/#)けれとて(戻)  
  校訂23 ためらはぬ--え(え/#)ためらはぬ(戻)  
  校訂24 されど--*さりと(戻)  
  校訂25 たまひし--給う(う/#)し(戻)  
  校訂26 宮をおきたてまつりて--宮をゝきて(て/#)たてまつりて(戻)  
  校訂27 さまの--さま/\(/\/$<朱>)の(戻)  
  校訂28 縁を--えん(ん/+を)(戻)  
  校訂29 渡りなむ--わたりなむと(と/#)(戻)  
  校訂30 いとほしくと--いとほし(し/+く<朱>)と(戻)  
  校訂31 さりぬべく--さりぬへき(き/#)く(戻)  
  校訂32 御心ばへ--御こゝろはへも(も/$<朱>)(戻)  
  校訂33 浅う--あさまし(まし/$)う(戻)  
  校訂34 聞こえさせたまひて--きこえさせて(て/#)給て(戻)  
  校訂35 柱もとの--はしらの(の/$)もとの(戻)  
  校訂36 かく--かく(かく/$<朱>)かく(戻)  
  校訂37 いかさまにして--いかさまし(し/$)にして(戻)  
  校訂38 うちつぶれて--(/+うち<朱>)つふれて(戻)  
  校訂39 渡りたまへる--わたりぬ(ぬ/#)給へる(戻)  
  校訂40 契りのたまふ--ちきり給(給/$)のたまふ(戻)  
  校訂41 たまへど--給へとも(も/#<朱>)(戻)  
  校訂42 御匂ひ--御(御/&御)にほ(にほ/#にほ<朱>)ひ(戻)  
  校訂43 思ひ比ぶれど--思くらふれは(は/#<朱>)と(戻)  
  校訂44 見馴れむ--見なん(ん/#)れん(戻)  
  校訂45 など--なん(ん/$)と(戻)  
  校訂46 ならぬ--ならす(す/#<朱>)ぬ(戻)  
  校訂47 なきにしも--なきに(に/#<朱>)にしも(戻)  
  校訂48 わびては--わひてはの(の/#<朱>)(戻)  
  校訂49 かよはむを--かよはさ(さ/#<朱>)むを(戻)  
  校訂50 怨み--うらみゝ(ゝ/#)(戻)  
  校訂51 きこゆれ」と--きこゆれは(は/$<朱>)と(戻)  
  校訂52 山里--(/+山)さと(戻)  
  校訂53 見知りぬ--見知(知/#<朱>)しりぬ(戻)  
  校訂54 遠き--とを/\(/\/#<朱>)き(戻)  
  校訂55 嘆くめりしに--なけくめりしを(を/#<朱>)に(戻)  
  校訂56 明かすに--あかす(す/+に)(戻)  
  校訂57 思しけむを--おほしけん(ん/+を)(戻)  
  校訂58 屍の--かはねを(を/#)の(戻)  
  校訂59 いぶかしき--いふかしく(く/#<朱>)き(戻)  
  校訂60 恥づかしく--はつかく(く/#<朱>)しく(戻)  
  校訂61 いと忍びて、はかなきほどにもののたまはせける--(/+いと忍ひてはかなき程に物の給はせける<朱>)(戻)  
  校訂62 などこそ--*なとゝそ(戻)  
  校訂63 触れたらむ人は--*ふれたらんは人は(戻)  
  校訂64 心せよ--*心よせ(戻)  
  校訂65 琵琶を--ひは(は/#<朱>)わを(戻)  
  校訂66 あらむ--あらむは(は/#)(戻)  
  校訂67 あらねど--な(な/#あ)らねと(戻)  
  校訂68 昔の御物語--むかし(し/+の御<朱>)ものかたり(戻)  
  校訂69 ものものしくも--もの/\しく(く/+も<朱>)(戻)  
  校訂70 聞こしめしおどろきて、御訪ぶらひども--*他本により補入(戻)  
  校訂71 参うで--*まかて(戻)  
  校訂72 ひきつくろひたまひて--ひきつくろひて(て/#<朱>)給て(戻)  
  校訂73 右の大臣--ひたり(ひたり/$右)のおとゝ(戻)  
  校訂74 深かりけり--ふかく(く/#<朱>)かりけり(戻)  
  校訂75 漏り聞き--と(と/$も<朱>)りきゝ(戻)  
  校訂76 見せたまへる--みせはや(はや/$)給へる(戻)  
  校訂77 出でたまひぬ--いてぬ(ぬ/#<朱>)給ぬ(戻)  
  校訂78 鴬も--うくひも(も/$)すも(戻)  
  校訂79 宮の--宮(宮/+の<朱>)(戻)  
  校訂80 右の大臣--ひたり(ひたり/#みき)のおとゝ(戻)  
  校訂81 たまへるなめり--給へり(り/#)るなめり(戻)  
  校訂82 右の大殿--ひたり(ひたり/#みき)のおとゝ(戻)  
  校訂83 人--(/+人<朱>)(戻)  
  校訂84 姿ども--すかたとん(ん/$も<朱>)(戻)  
  校訂85 ゆめ--ゆめの(の/$)(戻)  
  校訂86 入るに--弁のあま(弁のあま/$)いるに(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。