源氏物語 38帖 鈴虫:あらすじ・目次・原文対訳

横笛 源氏物語
第二部
第38帖
鈴虫
夕霧

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 鈴虫のあらすじ

 光源氏50歳の夏から8月中旬までの話。

 その年の夏、蓮の花の盛りに、女三宮の持仏の開眼供養が営まれた。飾りつけもすっかり整った御堂で、源氏は尼姿の女三宮に後に残された悲しみを訴えるが、宮はつれなく言葉を返すだけだった。朱雀院は、女三宮に譲った三条宮に彼女を移らせることを勧めるが、源氏はまだ若い妻を手放すのが惜しく首を縦に振らない。

 秋には、女三宮の部屋の前庭を野の風情に造りかえて鈴虫などの秋の虫を放した。虫の音の鑑賞を口実に、部屋に来ては未練がましく愛を語る源氏を宮は迷惑に感じるが、はっきりと口に出せずにいる。

 八月の十五夜の頃、源氏が女三宮のところで琴を爪弾いていると、蛍兵部卿宮夕霧がやって来て、そのまま管弦の宴となる。そこへ冷泉院〔源氏と藤壺の子〕から誘いがあり、馳せ参じた源氏ら一同は明け方まで詩歌管弦に興を尽くす。

 翌朝秋好中宮〔前斎宮〕を訪れると、亡き母六条御息所が今も物の怪となり彷徨っていることを嘆き、出家したいと源氏に漏らす。源氏はこれを諌め、追善供養をなさるようにと勧めるのだった。

(以上Wikipedia鈴虫(源氏物語)より。色づけと〔〕は本ページ)

 上記で「未練がましく愛を語る源氏」とあるが、源氏は没落して何の後ろ盾もないしこめ(末摘花)も大人びたといって引き取るハーレムの世話人。
 愛を語る根拠としたであろう描写は「虫の音を聞きたまふやうにて、なほ思ひ離れぬさまを聞こえ悩ましたまへば」だが、これで愛を語ったとするのは無理。
 文脈でも、女三宮は朱雀院の方から託された幼い女子。
 それに朱雀院にこんな三宮でも見放さないでとも言われている(「なほ、思し放つまじく柏木2-4)。
 若くして髪を削ぐという性急な行為を思いとどまって欲しい、しかし柏木の子を宿したこともあり悩んでいる。それが上記の描写。 女三宮が源氏を避けるのは、柏木との密通を知られ、その柏木は死に、とても対面できない。そういう文脈。未練がましく愛を語るとかいう文脈ではないし、三宮を求めた文脈もない。
 
 

目次
和歌抜粋内訳#鈴虫(6首:別ページ)
主要登場人物
 
第38帖 鈴虫
 光る源氏の准太上天皇時代
 五十歳夏から秋までの物語
 
第一章 女三の宮の物語
 持仏開眼供養
 第一段 持仏開眼供養の準備
 第二段 源氏と女三の宮、和歌を詠み交わす
 第三段 持仏開眼供養執り行われる
 第四段 三条宮邸を整備
 
第二章 光る源氏の物語
 六条院と冷泉院の中秋の宴
 第一段 女三の宮の前栽に虫を放つ
 第二段 八月十五夜、秋の虫の論
 第三段 六条院の鈴虫の宴
 第四段 冷泉院より招請の和歌
 第五段 冷泉院の月の宴
 
第三章 秋好中宮の物語
 出家と母の罪を思う
 第一段 秋好中宮、出家を思う
 第二段 母御息所の罪を思う
 第三段 秋好中宮の仏道生活
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
五十歳
呼称:六条の院・院・大殿の君
朱雀院(すざくいん)
源氏の兄
呼称:院の帝・山の帝・院
女三の宮(おんなさんのみや)
源氏の正妻
呼称:入道の姫宮・宮
薫(かおる)
柏木と女三宮の密通の子
呼称:若君
蛍兵部卿宮(ほたるひょうぶきょうのみや)
源氏の弟宮
呼称:兵部卿宮・親王
冷泉院(れいぜいいん)
桐壺院の子、実は源氏の子
呼称:院
夕霧(ゆうぎり)
源氏の長男
呼称:大将の君・大将
秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)
冷泉院の后
呼称:中宮
明石女御(あかしのにょうご)
東宮の母
呼称:春宮の女御

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンクを参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 

原文対訳

和歌 定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  鈴虫
 
 

第一章 女三の宮の物語 持仏開眼供養

 
 

第一段 持仏開眼供養の準備

 
   夏ごろ、蓮の花の盛りに、入道の姫宮の御持仏どもあらはしたまへる、供養ぜさせたまふ。
 
 夏頃、蓮の花の盛りに、入道の姫宮が御持仏の数々をお造りになったのを、開眼供養を催しあそばす。
 
   このたびは、大殿の君の御心ざしにて、御念誦堂の具ども、こまかに調へさせたまへるを、やがてしつらはせたまふ。
 幡のさまなどなつかしう、心ことなる唐の錦を選び縫はせたまへり。
 紫の上ぞ、急ぎせさせたまひける。
 
 今回は、大殿の君のお志で、御念誦堂の道具類も、こまごまとご準備させていたのを、そっくりそのままお飾りあそばす。
 幡の様子など優しい感じで、特別な唐の錦を選んでお縫わせなさった。
 紫の上が、ご準備させなさったのであった。
 
   花机の覆ひなどのをかしき目染もなつかしう、きよらなる匂ひ、染めつけられたる心ばへ、目馴れぬさまなり。
 夜の御帳の帷を、四面ながら上げて、後ろの方に法華の曼陀羅かけたてまつりて、銀の花瓶に、高くことことしき花の色を調へてたてまつり、名香に、唐の百歩の薫衣香を焚きたまへり。
 
 花机の覆いなどの美しい絞り染も優しい感じで、美しい色艶が、染め上げられている趣向など、またとない素晴らしさである。
 夜の御帳台の帷子を、四面とも上げて、後方に法華の曼陀羅をお掛け申して、銀の花瓶に、高々と見事な蓮の花を揃えてお供えになって、名香には、唐の百歩の衣香を焚いていらっしゃる。
 
   阿弥陀仏、脇士の菩薩、おのおの白檀して作りたてまつりたる、こまかにうつくしげなり。
 閼伽の具は、例の、きはやかに小さくて、青き、白き、紫の蓮を調へて、荷葉の方を合はせたる名香、蜜を隠しほほろげて、焚き匂はしたる、一つ薫りに匂ひ合ひて、いとなつかし。
 
 阿彌陀仏、脇士の菩薩、それぞれ白檀でお造り申してあるのが、繊細で美しい感じである。
 閼伽の道具は、例によって、際立って小さくて、青色、白色、紫の蓮の色を揃えて、荷葉香を調合したお香は、蜜を控えてぼろぼろに崩して、焚き匂わしているのが、一緒に匂って、とても優しい感じがする。
 
   経は、六道の衆生のために六部書かせたまひて、みづからの御持経は、院ぞ御手づから書かせたまひける。
 これをだに、この世の結縁にて、かたみに導き交はしたまふべき心を、願文に作らせたまへり。
 
 経は、六道の衆生のために六部お書きあそばして、ご自身の御持経は、院がご自身でお書きあそばしたのであった。
 せめてこれだけでも、この世の結縁として、互いに極楽浄土に導き合いなさるようにとの旨を願文にお作りあそばした。
 
   さては、阿弥陀経、唐の紙はもろくて、朝夕の御手慣らしにもいかがとて、紙屋の人を召して、ことに仰せ言賜ひて、心ことにきよらに漉かせたまへるに、この春のころほひより、御心とどめて急ぎ書かせたまへるかひありて、端を見たまふ人びと、目もかかやき惑ひたまふ。
 
 その他には、阿彌陀経、唐の紙はもろいので、朝夕のご使用にはどのようなものかしらと考えて、紙屋院の官人を召して、特別にご命令を下して、格別美しく漉かせなさった紙に、この春頃から、お心を込めて急いでお書きあそばしたかいがあって、その片端を御覧になった方々、目も眩むほどに驚いていらっしゃる。
 
   罫かけたる金の筋よりも、墨つきの上にかかやくさまなども、いとなむめづらかなりける。
 軸、表紙、筥のさまなど、いへばさらなりかし。
 これはことに沈の花足の机に据ゑて、仏の御同じ帳台の上に飾らせたまへり。
 
 罫に引いた金泥の線よりも、墨の跡の方がさらに輝くように立派な様子などが、まことに見事なものであった。
 軸、表紙、箱の様子など、言うまでもないことである。
 これは特に沈の花足の机の上に置いて、仏と同じ御帳台の上に飾らせなさった。
 
 
 

第二段 源氏と女三の宮、和歌を詠み交わす

 
   堂飾り果てて、講師参う上り、行道の人びと参り集ひたまへば、院もあなたに出でたまふとて、宮のおはします西の廂にのぞきたまへれば、狭き心地する仮の御しつらひに、所狭く暑げなるまで、ことことしく装束きたる女房、五、六十人ばかり集ひたり。
 
 お堂を飾り終わって、講師が壇上して、行道の人々も参集なさったので、院もそちらに出ようとなさって、宮のいらっしゃる西の廂の間にお立ち寄りなさると、狭い感じのする仮の御座所に、窮屈そうに暑苦しいほどに、仰々しく装束をした女房たちが五、六十人ほど集まっていた。
 
   北の廂の簀子まで、童女などはさまよふ。
 火取りどもあまたして、煙たきまで扇ぎ散らせば、さし寄りたまひて、
 北の廂の間の簀子まで、女童などはうろうろしている。
 香炉をたくさん使って、煙いほど扇ぎ散らすので、近づきなさって、
   「空に焚くは、いづくの煙ぞと思ひ分かれぬこそよけれ。
 富士の嶺よりもけに、くゆり満ち出でたるは、本意なきわざなり。
 講説の折は、おほかたの鳴りを静めて、のどかにものの心も聞き分くべきことなれば、憚りなき衣の音なひ、人のけはひ、静めてなむよかるべき」
 「空薫物は、どこで焚いているのか分からないくらいなのがよいのだ。
 富士山の噴煙以上に、煙がたちこめているのは、感心しないことだ。
 お経の御講義の時には、あたり一帯の音は立てないようにして、静かにお説教の意味を理解しなければならないことだから、遠慮のない衣ずれの音、人のいる感じは、出さないのがよいのです」
   など、例の、もの深からぬ若人どもの用意教へたまふ。
 宮は、人気に圧されたまひて、いと小さくをかしげにて、ひれ臥したまへり。
 
 などと、いつものとおり、思慮の足りない若い女房たちの心用意をお教えになる。
 宮は、人気に圧倒されなさって、とても小柄で美しい感じに臥せっていらっしゃった。
 
   「若君、らうがはしからむ。
 抱き隠したてまつれ」
 「若君が、騒がしかろう。
 抱いてあちらへお連れ申せ」
   などのたまふ。
 
 などとおっしゃる。
 
   北の御障子も取り放ちて、御簾かけたり。
 そなたに人びとは入れたまふ。
 静めて、宮にも、ものの心知りたまふべき下形を聞こえ知らせたまふ、いとあはれに見ゆ。
 御座を譲りたまへる仏の御しつらひ、見やりたまふも、さまざまに、
 北の御障子も取り放って、御簾を掛けてある。
 そちらに女房たちをお入れになっている。
 静かにさせて、宮にも、法会の内容がお分かりになるように予備知識をお教え申し上げなさるのも、とても親切に見える。
 御座所をお譲りなさった仏のお飾り付け、御覧になるにつけても、あれこれと感慨無量で、
   「かかる方の御いとなみをも、もろともに急がむものとは思ひ寄らざりしことなり。
 よし、後の世にだに、かの花の中の宿りに、隔てなく、とを思ほせ」
 「このような仏事の御供養を、ご一緒にしようとは思いもしなかったことだ。
 まあ、しかたない。
 せめて来世では、あの蓮の花の中の宿を、一緒に仲好くしよう、と思って下さい」
   とて、うち泣きたまひぬ。
 
 とおっしゃって、お泣きになった。
 
 

520
 「蓮葉を 同じ台と 契りおきて
 露の分かるる 今日ぞ悲しき」
 「来世は同じ蓮の花の中でと約束したが
  その葉に置く露のように別々でいる今日が悲しい」
 
   と、御硯にさし濡らして、香染めなる御扇に書きつけたまへり。
 宮、
 と、御硯に筆を濡らして、香染の御扇にお書き付けになった。
 宮は、
 

521
 「隔てなく 蓮の宿を 契りても
 君が心や 住まじとすらむ」
 「蓮の花の宿を一緒に仲好くしようと約束なさっても
  あなたの本心は悟り澄まして一緒にとは思っていないでしょう」
 
   と書きたまへれば、  とお書きになったので、
   「いふかひなくも思ほし朽たすかな」  「せっかくの申し出をかいなくされるのですね」
   と、うち笑ひながら、なほあはれとものを思ほしたる御けしきなり。
 
 と、苦笑しながらも、やはりしみじみと感に堪えないご様子である。
 
 
 

第三段 持仏開眼供養執り行われる

 
   例の、親王たちなども、いとあまた参りたまへり。
 御方々より、我も我もと営み出でたまへる捧物のありさま、心ことに、所狭きまで見ゆ。
 七僧の法服など、すべておほかたのことどもは、皆紫の上せさせたまへり。
 綾のよそひにて、袈裟の縫目まで、見知る人は、世になべてならずとめでけりとや。
 むつかしうこまかなることどもかな。
 
 例によって、親王たちなども、とても大勢参上なさった。
 御夫人方から、我も我もと作り出した御供物の様子、格別立派で、所狭しと見える。
 七僧の法服など、総じて一通りのことは、皆紫の上がご準備させなさった。
 綾織物で、袈裟の縫目まで、分かる人は、世間にはめったにない立派な物だと誉めたとか。
 うるさく細かい話であるよ。
 
   講師のいと尊く、ことの心を申して、この世にすぐれたまへる盛りを厭ひ離れたまひて、長き世々に絶ゆまじき御契りを、法華経に結びたまふ、尊く深きさまを表はして、ただ今の世の、才もすぐれ、豊けきさきらを、いとど心して言ひ続けたる、いと尊ければ、皆人、しほたれたまふ。
 
 講師が大変に尊く、法要の趣旨を申して、この世でご立派であった盛りのお身の上を厭い離れなさって、未来永劫にわたって絶えることのない夫婦の契りを、法華経に結びなさる、尊く深いお心を表わして、ただ現在、才学も優れ、豊かな弁舌を、ますます心をこめて言い続ける、とても尊いので、参会者全員、涙をお流しなさる。
 
   これは、ただ忍びて、御念誦堂の初めと思したることなれど、内裏にも、山の帝も聞こし召して、皆御使どもあり。
 御誦経の布施など、いと所狭きまで、にはかになむこと広ごりける。
 
 この持仏開眼供養は、ただこっそりと、御念誦堂の開き初めとお考えになったことだが、帝におかせられても、また山の帝もお耳にあそばして、いずれもお使者があった。
 御誦経のお布施など、大変置ききれないほど、急に大げさになったのであった。
 
   院にまうけさせたまへりけることどもも、削ぐと思ししかど、世の常ならざりけるを、まいて、今めかしきことどもの加はりたれば、夕べの寺に置き所なげなるまで、所狭き勢ひになりてなむ、僧どもは帰りける。
 
 院でご準備あそばしたことも、簡略にとはお思いになったが、それでも並々ではなかったのだが、それ以上に、華やかなお布施が加わったので、夕方のお寺に置き場もないほど沢山になって、僧たちは帰って行ったのであった。
 
 
 

第四段 三条宮邸を整備

 
   今しも、心苦しき御心添ひて、はかりもなくかしづききこえたまふ。
 院の帝は、この御処分の宮に住み離れたまひなむも、つひのことにて、目やすかりぬべく聞こえたまへど、
 今となって、おいたわしく思われる気持ちが加わって、この上もなく大切にお世話申し上げなさる。
 院の帝は、御相続なさった宮に離れてお住みになることも、結局のことなのだから、世間体がよいように申し上げなさるが、
   「よそよそにては、おぼつかなかるべし。
 明け暮れ見たてまつり、聞こえ承らむこと怠らむに、本意違ひぬべし。
 げに、あり果てぬ世いくばくあるまじけれど、なほ生ける限りの心ざしをだに失ひ果てじ」
 「離れ離れでいては、気掛かりであろう。
 毎日お世話申し上げて、こちらから申し上げたり用向きを承ることができないようでは、本意に外れることであろう。
 なるほど、いつまでも生きていられない世であるが、やはり生きている限りはお世話したい気持ちだけはなくしたくない」
   と聞こえたまひつつ、この宮をもいとこまかにきよらに造らせたまひ、御封の物ども、国々の御荘、御牧などより奉る物ども、はかばかしきさまのは、皆かの三条の宮の御倉に納めさせたまふ。
 またも、建て添へさせたまひて、さまざまの御宝物ども、院の御処分に数もなく賜はりたまへるなど、あなたざまの物は、皆かの宮に運び渡し、こまかにいかめしうし置かせたまふ。
 
 と申し上げ申し上げなさっては、あちらの宮も大変念入りに美しくご改築させなさって、御封の収入、国々の荘園、牧場などからの献上物で、これはと思われる物は、全てあちらの三条宮の御倉に納めさせなさる。
 さらに又、増築させて、いろいろな御宝物類、院の御遺産相続の時に無数にお譲り受けなさった物など、宮の関係の品物は、全てあちらの宮に運び移して、念を入れて厳重に保管させなさる。
 
   明け暮れの御かしづき、そこらの女房のことども、上下の育みは、おしなべてわが御扱ひにてなど、急ぎ仕うまつらせたまひける。
 
 日常のお世話、大勢の女房の事ども、上下の人々の面倒は、全てご自分の経費のまかないでなどと、急いでお手入れをして差し上げる。
 
 
 

第二章 光る源氏の物語 六条院と冷泉院の中秋の宴

 
 

第一段 女三の宮の前栽に虫を放つ

 
   秋ごろ、西の渡殿の前、中の塀の東の際を、おしなべて野に作らせたまへり。
 閼伽の棚などして、その方にしなさせたまへる御しつらひなど、いとなまめきたり。
 
 秋頃、西の渡殿の前、中の塀の東側を、辺り一帯を野原の感じにお作らせになった。
 閼伽の棚などを作って、その方面の生活にふさわしくお整えになったお道具類など、とても優美な感じである。
 
   御弟子に従ひきこえたる尼ども、御乳母、古人どもは、さるものにて、若き盛りのも、心定まり、さる方にて世を尽くしつべき限りは選りてなむ、なさせたまひける。
 
 お弟子としてお従い申し上げている尼たち、御乳母、老女たちは、それはそれとして、若い盛りの女房でも、決心固く、尼として一生を送れる者だけを選んで、おさせになったのであった。
 
   さるきほひには、我も我もときしろひけれど、大殿の君聞こしめして、  その当座の競争気分の折には、我も我もと競って申し出たが、大殿がお聞きになって、
   「あるまじきことなり。
 心ならぬ人すこしも混じりぬれば、かたへの人苦しう、あはあはしき聞こえ出で来るわざなり」
 「それは良くないことだ。
 本心からでない人が少しでも混じってしまうと、周囲の人が困るし、浮ついた噂が出て来るものだ」
   と諌めたまひて、十余人ばかりのほどぞ、容貌異にてはさぶらふ。
 
 とお諌めになって、十何人かだけが尼姿になってお付きしている。
 
   この野に虫ども放たせたまひて、風すこし涼しくなりゆく夕暮に、渡りたまひつつ、虫の音を聞きたまふやうにて、なほ思ひ離れぬさまを聞こえ悩ましたまへば、  この野原に虫どもを放たせなさって、風が少し涼しくなってきた夕暮に、たびたびお越しになっては、虫の音を聴くふりをなさって、今でも断ちがたい思いのほどを申し上げ悩ましなさるので、
   「例の御心はあるまじきことにこそはあなれ」  「いつものお心癖はとんでもないことになろう」
   と、ひとへにむつかしきことに思ひきこえたまへり。
 
 と、一途に厄介なことにお思い申し上げていらっしゃった。
 
   人目にこそ変はることなくもてなしたまひしか、内には憂きを知りたまふけしきしるく、こよなう変はりにし御心を、いかで見えたてまつらじの御心にて、多うは思ひなりたまひにし御世の背きなれば、今はもて離れて心やすきに、  他人の目には変わったところなくお扱いになっているが、内心では嫌な事件をご存知の様子がはっきり分かり、すっかり変わってしまったお心を、何とかお目に掛からずにいたいお気持ちで、それが主な動機でご決心なさったご出家なので、今は離れて安心していたのに、
   「なほ、かやうに」  「やはり、このように」
   など聞こえたまふぞ苦しうて、「人離れたらむ御住まひにもがな」と思しなれど、およすけてえさも強ひ申したまはず。
 
 などとお耳に入れたりなどなさるのが辛くて、「人里離れた所に住みたい」とお思いになるが、大人ぶってとてもそのように押して申し上げることはおできになれない。
 
 
 

第二段 八月十五夜、秋の虫の論

 
   十五夜の夕暮に、仏の御前に宮おはして、端近う眺めたまひつつ念誦したまふ。
 若き尼君たち二、三人、花奉るとて鳴らす閼伽坏の音、水のけはひなど聞こゆる、さま変はりたるいとなみに、そそきあへる、いとあはれなるに、例の渡りたまひて、
 十五夜の夕暮に、仏の御前に宮はいらっしゃって、端近くに物思いに耽りながら念誦なさる。
 若い尼君たち二、三人が花を奉ろうとして鳴らす閼伽、坏の音、水の感じなどが聞こえるのは、今までとは違った仕事に、忙しく働いているが、まことに感慨無量なので、いつものようにお越しになって、
   「虫の音いとしげう乱るる夕べかな」  「虫の音がとてもうるさく鳴き乱れている夕方ですね」
   とて、われも忍びてうち誦じたまふ阿弥陀の大呪、いと尊くほのぼの聞こゆ。
 げに、声々聞こえたる中に、鈴虫のふり出でたるほど、はなやかにをかし。
 
 と言って、自分もひっそりと朗誦なさる阿彌陀経の大呪が、たいそう尊くかすかに聞こえる。
 いかにも、虫の音がいろいろ聞こえる中で、鈴虫が声を立てているところは、華やかで趣きがある。
 
   「秋の虫の声、いづれとなき中に、松虫なむすぐれたるとて、中宮の、はるけき野辺を分けて、いとわざと尋ね取りつつ放たせたまへる、しるく鳴き伝ふるこそ少なかなれ。
 名には違ひて、命のほどはかなき虫にぞあるべき。
 
 「秋の虫の声は、どれも素晴らしい中で、松虫が特に優れているとおっしゃって、中宮が、遠い野原から、特別に探して来てはお放ちになったが、はっきり鳴き伝えているのは少ないようだ。
 名前とは違って、寿命の短い虫のようである。
 
   心にまかせて、人聞かぬ奥山、はるけき野の松原に、声惜しまぬも、いと隔て心ある虫になむありける。
 鈴虫は、心やすく、今めいたるこそらうたけれ」
 思う存分に、誰も聞かない山奥、遠い野原の松原で、声を惜しまず鳴いているのも、まことに分け隔てしている虫であるよ。
 鈴虫は、親しみやすく、にぎやかに鳴くのがかわいらしい」
   などのたまへば、宮、  などとおっしゃると、宮は、
 

522
 「おほかたの 秋をば憂しと 知りにしを
 ふり捨てがたき 鈴虫の声」
 「秋という季節はつらいものと分かっておりますが
  やはり鈴虫の声だけは飽きずに聴き続けていたいものです」
 
   と忍びやかにのたまふ。
 いとなまめいて、あてにおほどかなり。
 
 とひっそりとおっしゃる。
 とても優雅で、上品でおっとりしていらっしゃる。
 
   「いかにとかや。
 いで、思ひの外なる御ことにこそ」とて、
 「何とおしゃいましたか。
 いやはや、思いがけないお言葉ですね」と言って、
 

523
 「心もて 草の宿りを 厭へども
 なほ鈴虫の 声ぞふりせぬ」
 「ご自分からこの家をお捨てになったのですが
  やはりお声は鈴虫と同じように今も変わりません」
 
   など聞こえたまひて、琴の御琴召して、珍しく弾きたまふ。
 宮の御数珠引き怠りたまひて、御琴になほ心入れたまへり。
 
 などと申し上げなさって、琴の御琴を召して、珍しくお弾きになる。
 宮が御数珠を繰るのを忘れなさって、お琴の音色に依然として聴き入っていらっしゃった。
 
   月さし出でて、いとはなやかなるほどもあはれなるに、空をうち眺めて、世の中さまざまにつけて、はかなく移り変はるありさまも思し続けられて、例よりもあはれなる音に掻き鳴らしたまふ。
 
 月が出て、とても明るくなったのもしみじみと心を打つので、空をちょっと眺めて、人の世のあれこれにつけて、無常に移り変わる有様が次々と思い出されて、いつもよりもしみじみとした音色でお弾きになる。
 
 
 

第三段 六条院の鈴虫の宴

 
   今宵は、例の御遊びにやあらむと推し量りて、兵部卿宮渡りたまへり。
 大将の君、殿上人のさるべきなど具して参りたまへれば、こなたにおはしますと、御琴の音を尋ねて、やがて参りたまふ。
 
 今夜は、いつものとおり管弦のお遊びがあろうかと推量して、兵部卿宮がお越しになった。
 大将の君、殿上人で音楽の素養のある人々を連れていらっしゃっていたので、こちらにいらっしゃると、お琴の音をたよりにして、そのまま参上なさる。
 
   「いとつれづれにて、わざと遊びとはなくとも、久しく絶えにたるめづらしき物の音など、聞かまほしかりつる独り琴を、いとよう尋ねたまひける」  「とても所在ないので、特別の音楽会というのではなくても、長い間弾かないでいた珍しい楽器の音など、聴きたかったので独りで弾いていたのを、たいそうよく聴きつけて来て下さった」
   とて、宮も、こなたに御座よそひて入れたてまつりたまふ。
 内裏の御前に、今宵は月の宴あるべかりつるを、とまりてさうざうしかりつるに、この院に人びと参りたまふと聞き伝へて、これかれ上達部なども参りたまへり。
 虫の音の定めをしたまふ。
 
 とおっしゃって、宮にも、こちらに御座所を設けてお入れ申し上げなさる。
 宮中の御前で、今夜は月の宴が催される予定であったが、中止になって物足りない気がしたので、こちらの院に方々が参上なさると伝え聞いて、誰や彼やと上達部なども参上なさった。
 虫の音の批評をなさる。
 
   御琴どもの声々掻き合はせて、おもしろきほどに、  お琴類を合奏なさって、興が乗ってきたころに、
   「月見る宵の、いつとてもものあはれならぬ折はなきなかに、今宵の新たなる月の色には、げになほ、わが世の外までこそ、よろづ思ひ流さるれ。
 故権大納言、何の折々にも、亡きにつけていとど偲ばるること多く、公、私、ものの折節のにほひ失せたる心地こそすれ。
 花鳥の色にも音にも、思ひわきまへ、いふかひあるかたの、いとうるさかりしものを」
 「月を見る夜は、いつでももののあわれを誘わないことはない中でも、今夜の新しい月の色には、なるほどやはり、この世の後の世界までが、いろいろと想像されるよ。
 故大納言が、いつの折にも、亡くなったことにつけて、一層思い出されることが多く、公、私、共に何かある機会に物の栄えがなくなった感じがする。
 花や鳥の色にも音にも、美をわきまえ、話相手として、大変に優れていたのだったが」
   などのたまひ出でて、みづからも掻き合はせたまふ御琴の音にも、袖濡らしたまひつ。
 御簾の内にも、耳とどめてや聞きたまふらむと、片つ方の御心には思しながら、かかる御遊びのほどには、まづ恋しう、内裏などにも思し出でける。
 
 などとお口に出されて、ご自身でも合奏なさる琴の音につけても、お袖を濡らしなさった。
 御簾の中でも耳を止めてお聴きになって入るだろうと、片一方のお心ではお思いになりながら、このような管弦のお遊びの折には、まずは恋しく、帝におかせられてもお思い出しになられるのであった。
 
   「今宵は鈴虫の宴にて明かしてむ」  「今夜は鈴虫の宴を催して夜を明かそう」
   と思しのたまふ。
 
 とお考えになっておっしゃる。
 
 
 

第四段 冷泉院より招請の和歌

 
   御土器二わたりばかり参るほどに、冷泉院より御消息あり。
 御前の御遊びにはかにとまりぬるを口惜しがりて、左大弁、式部大輔、また人びと率ゐて、さるべき限り参りたれば、大将などは六条の院にさぶらひたまふ、と聞こし召してなりけり。
 
 お杯が二回りほど廻ったころに、冷泉院からお手紙がある。
 宮中の御宴が急に中止になったのを残念に思って、左大弁や、式部大輔らが、また大勢人々を引き連れて、詩文に堪能な人々ばかりが参上したところ、大将などは六条院に伺候していらっしゃる、とお耳にあそばしてなのであった。
 
 

524
 「雲の上を かけ離れたる すみかにも
 もの忘れせぬ 秋の夜の月
 「宮中から遠く離れて住んでいる仙洞御所にも
  忘れもせず秋の月は照っています
 
   同じくは」  同じことならあなたにも」
   と聞こえたまへれば、  とお申し上げなさったので、
   「何ばかり所狭き身のほどにもあらずながら、今はのどやかにおはしますに、参り馴るることもをさをさなきを、本意なきことに思しあまりて、おどろかさせたまへる、かたじけなし」  「どれほどの窮屈な身分ではないのだが、今はのんびりとしてお過ごしになっていらっしゃるところに、親しく参上することもめったにないことを、不本意なことと思し召されるあまりに、お便りをお寄越しあばされている、恐れ多いことだ」
   とて、にはかなるやうなれど、参りたまはむとす。
 
 とおっしゃって、急な事のようだが、参上なさろうとする。
 
 

525
 「月影は 同じ雲居に 見えながら
 わが宿からの 秋ぞ変はれる」
〔源氏〕月の〔影〕は昔と同じく照っていますが〔雲の中に見えながらも〕
わたしの方がすっかり変わってしまいました〔前と同じ光ではない〕
 
   異なることなかめれど、ただ昔今の御ありさまの思し続けられけるままなめり。
 御使に盃賜ひて、禄いと二なし。
 
 特に変わったところはないようであるが、ただ昔と今とのご様子が思い続けられての歌なのであろう。
 お使者にお酒を賜って、禄はまたとなく素晴らしい。
 
 
 

第五段 冷泉院の月の宴

 
   人びとの御車、次第のままに引き直し、御前の人びと立ち混みて、静かなりつる御遊び紛れて、出でたまひぬ。
 院の御車に、親王たてまつり、大将、左衛門督、藤宰相など、おはしける限り皆参りたまふ。
 
 人々のお車を、身分に従って並べ直し、御前駆の人々が大勢集まって来て、しみじみとした合奏もうやむやになって、お出ましになった。
 院のお車に、親王をお乗せ申し、大将、左衛門督、藤宰相など、いらっしゃった方々全員が参上なさる。
 
   直衣にて、軽らかなる御よそひどもなれば、下襲ばかりたてまつり加へて、月ややさし上がり、更けぬる空おもしろきに、若き人びと、笛などわざとなく吹かせたまひなどして、忍びたる御参りのさまなり。
 
 直衣姿で、皆お手軽な装束なので、下襲だけをお召し加えになって、月がやや高くなって、夜が更けた空が美しいので、若い方々に、笛などをさりげなくお吹かせになったりなどして、お忍びでの参上の様子である。
 
   うるはしかるべき折節は、所狭くよだけき儀式を尽くして、かたみに御覧ぜられたまひ、また、いにしへのただ人ざまに思し返りて、今宵は軽々しきやうに、ふとかく参りたまへれば、いたう驚き、待ち喜びきこえたまふ。
 
 改まった公式の儀式の折には、仰々しく厳めしい威儀の限りを尽くして、お互いにご対面なさり、また一方で、昔の臣下時代に戻った気持ちで、今夜は手軽な恰好で、急にこのように参上なさったので、大変にお驚きになり、お喜び申し上げあそばす。
 
   ねびととのひたまへる御容貌、いよいよ異ものならず。
 いみじき御盛りの世を、御心と思し捨てて、静かなる御ありさまに、あはれ少なからず。
 
 御成人あそばした御容貌、ますますそっくりである。
 お盛りの最中であったお位を、御自分から御退位あそばして、静かにお過ごしになられる御様子に、心打たれることが少なくない。
 
   その夜の歌ども、唐のも大和のも、心ばへ深うおもしろくのみなむ。
 例の、言足らぬ片端は、まねぶもかたはらいたくてなむ。
 明け方に文など講じて、とく人びとまかでたまふ。
 
 その夜の詩歌は、漢詩も和歌も共に、趣深く素晴らしいものばかりである。
 例によって、一端を言葉足らずにお伝えするのも気が引けて。
 明け方に漢詩などを披露して、早々に方々はご退出なさる。
 
 
 

第三章 秋好中宮の物語 出家と母の罪を思う

 
 

第一段 秋好中宮、出家を思う

 
   六条院は、中宮の御方に渡りたまひて、御物語など聞こえたまふ。
 
 六条の院は、中宮の御方にお越しになって、お話など申し上げなさる。
 
   「今はかう静かなる御住まひに、しばしばも参りぬべく、何とはなけれど、過ぐる齢に添へて、忘れぬ昔の御物語など、承り聞こえまほしう思ひたまふるに、何にもつかぬ身のありさまにて、さすがにうひうひしく、所狭くもはべりてなむ。
 
 「今はこのように静かなお住まいに、しばしば伺うことができ、特にどうということはないけれども、年をとるにつれて、忘れない昔話など、お聞きしたり申し上げたりしたく存じますが、中途半端な身の有様で、やはり気が引け、窮屈な思いが致しまして。
 
   我より後の人びとに、方々につけて後れゆく心地しはべるも、いと常なき世の心細さの、のどめがたうおぼえはべれば、世離れたる住まひにもやと、やうやう思ひ立ちぬるを、残りの人びとのものはかなからむ、漂はしたまふな、と先々も聞こえつけし心違へず、思しとどめてものせさせたまへ」  わたしより若い方々に、何かにつけて先を越されて行く感じが致しますのも、まことに無常の世の心細さが、のんびり構えていられぬ気持ちがしますので、世を離れた生活をしようかと、だんだん気持ちが進んできましたが、後に残された方々が頼りないでしょうから、おちぶれさせなさらないように、と以前にもお願い申し上げました通り、その気持ちを変えずにお世話してやって下さい」
   など、まめやかなるさまに聞こえさせたまふ。
 
 などと、方々の生活面のことについてお願い申し上げなさる。
 
   例の、いと若うおほどかなる御けはひにて、  例によって、大変に若くおっとりしたご様子で、
   「九重の隔て深うはべりし年ごろよりも、おぼつかなさのまさるやうに思ひたまへらるるありさまを、いと思ひの外に、むつかしうて、皆人の背きゆく世を、厭はしう思ひなることもはべりながら、その心の内を聞こえさせうけたまはらねば、何事もまづ頼もしき蔭には聞こえさせならひて、いぶせくはべる」  「宮中の奥深くに住んでおりましたころよりも、お目に掛かれないことが多くなったように存じられます今の有様が、ほんとうに思いもしなかったことで、面白くなく思われまして、皆が出家して行くこの世を、厭わしく思われることもございますが、その心の中を申し上げてご意向を伺っておりませんので、何事もまずは頼りにしている癖がついていますため、気に致しております」
   と聞こえたまふ。
 
 と申し上げなさる。
 
   「げに、公ざまにては、限りある折節の御里居も、いとよう待ちつけきこえさせしを、今は何事につけてかは、御心にまかせさせたまふ御移ろひもはべらむ。
 定めなき世と言ひながらも、さして厭はしきことなき人の、さはやかに背き離るるもありがたう、心やすかるべきほどにつけてだに、おのづから思ひかかづらふほだしのみはべるを、などか、その人まねにきほふ御道心は、かへりてひがひがしう推し量りきこえさする人もこそはべれ。
 かけてもいとあるまじき御ことになむ」
 「おっしゃる通り、宮中にいらっしゃった時には、決まりに従った折々のお里下がりも、ほんとうにお待ち申し上げておりましたが、今は何を理由として、御自由にお出であそばすことがございましょうか。
 無常な世の習いとは言いながらも、特に世を厭う理由のない人が、きっぱりと出家することも難しいことで、容易に出家できそうな身分の人でさえ、自然とかかわり合う係累ができて世を背くことが出来ませんのに、どうして、そんな人真似をして負けずに出家なさろうとするのは、かえって変なお心掛けとご推量申し上げる者があっては困ります。
 絶対にあってはならない御事でございます」
   と聞こえたまふを、「深うも汲みはかりたまはぬなめりかし」と、つらう思ひきこえたまふ。
 
 と申し上げなさるので、「深くは汲み取っ下さっていないようだ」と、恨めしくお思い申し上げなさる。
 
 
 

第二段 母御息所の罪を思う

 
   御息所の、御身の苦しうなりたまふらむありさま、いかなる煙の中に惑ひたまふらむ、亡き影にても、人に疎まれたてまつりたまふ御名のりなどの出で来けること、かの院にはいみじう隠したまひけるを、おのづから人の口さがなくて、伝へ聞こし召しける後、いと悲しういみじくて、なべての世の厭はしく思しなりて、仮にても、かののたまひけむありさまの詳しう聞かまほしきを、まほにはえうち出で聞こえたまはで、ただ、  母御息所が、ご自身お苦しみになっていらっしゃろう様子、どのような業火の中で迷っていらっしゃるのだろう様子、亡くなった後までも、人から疎まれ申される物の怪となって名乗り出たことは、あちらの院では大変に隠していらっしゃったが、自然と人の口は煩しいもので、伝え聞いた後は、とても悲しく辛くて、何もかもが厭わしくお思いになって、たとい憑坐にのり移った言葉にせよ、そのおっしゃった内容を詳しく聞きたいのだが、まともには申し上げかねなさって、ただ、
   「亡き人の御ありさまの、罪軽からぬさまに、ほの聞くことのはべりしを、さるしるしあらはならでも、推し量り伝へつべきことにはべりけれど、後れしほどのあはればかりを忘れぬことにて、もののあなた思うたまへやらざりけるがものはかなさを、いかでよう言ひ聞かせむ人の勧めをも聞きはべりて、みづからだに、かの炎をも冷ましはべりにしがなと、やうやう積もるになむ、思ひ知らるることもありける」  「亡くなった母上のあの世でのご様子が、罪障の軽くない様子と、かすかに聞くことがございましたので、そのような証拠がはっきりしているのでなくとも、推し量らねばならないことでしたのに、先立たれた時の悲しみばかりを忘れずにおりまして、あの世での苦しみを想像しなかった至らなさを、何とかして、ちゃんと教えてくれる人の勧めを聞きまして、せめてわたしでも、その業火の炎を薄らげて上げたいと、だんだんと年をとるにつれて、考えられるようになったことでございます」
   など、かすめつつぞのたまふ。
 
 などと、それとなしにおっしゃる。
 
   「げに、さも思しぬべきこと」と、あはれに見たてまつりたまうて、  「なるほど、そのようにお考えになるのももっともなことだ」と、お気の毒に拝し上げなさって、
   「その炎なむ、誰も逃るまじきことと知りながら、朝の露のかかれるほどは、思ひ捨てはべらぬになむ。
 目蓮が仏に近き聖の身にて、たちまちに救ひけむ例にも、え継がせたまはざらむものから、玉の簪捨てさせたまはむも、この世には恨み残るやうなるわざなり。
 
 「その業火の炎は、誰も逃れることはできないものだと分かっていながら、朝露のようにはかなく生きている間は、執着を去ることはできないものなのです。
 目蓮が仏に近い聖僧の身で、すぐに救ったという故事にも、真似はお出来になれないでしょうが、玉の簪をお捨てになって出家なさったとしても、この世に悔いを残すようなことになるでしょう。
 
   やうやうさる御心ざしをしめたまひて、かの御煙晴るべきことをせさせたまへ。
 しか思ひたまふることはべりながら、もの騒がしきやうに、静かなる本意もなきやうなるありさまに明け暮らしはべりつつ、みづからの勤めに添へて、今静かにと思ひたまふるも、げにこそ、心幼きことなれ」
 だんだんそのようなお気持ちを強くなさって、あの母君のお苦しみが救われるような供養をなさいませ。
 そのように存じますことお持ちしながら、何か落ち着かないようで、静かな出家の本意もないような有様で毎日を過ごしておりまして、自分自身の勤行に加えて、供養もそのうちゆっくりと存じておりますのも、おしゃるとおり、浅はかなことでした」
   など、世の中なべてはかなく、厭ひ捨てまほしきことを聞こえ交はしたまへど、なほ、やつしにくき御身のありさまどもなり。
 
 などと、世の中の事が何もかも無常であり、出家したいことをお互いに話し合いなさるが、やはり、出家することは難しいお二方の身の上である。
 
 
 

第三段 秋好中宮の仏道生活

 
   昨夜はうち忍びてかやすかりし御歩き、今朝は表はれたまひて、上達部ども、参りたまへる限りは皆御送り仕うまつりたまふ。
 
 昨夜はこっそりとお気軽なお出ましであったが、今朝は世間に知れわたりなさって、上達部なども、参上していた方々は皆お帰りのお供を申し上げなさる。
 
   春宮の女御の御ありさま、並びなく、いつきたてたまへるかひがひしさも、大将のまたいと人に異なる御さまをも、いづれとなくめやすしと思すに、なほ、この冷泉院を思ひきこえたまふ御心ざしは、すぐれて深くあはれにぞおぼえたまふ。
 院も常にいぶかしう思ひきこえたまひしに、御対面のまれにいぶせうのみ思されけるに、急がされたまひて、かく心安きさまにと思しなりけるになむ。
 
 春宮の女御のご様子、他に並ぶ方がなく、大切にお世話申し上げなさっているだけのことは十分あり、大将がまた大変に格別に優れているご様子をも、どちらも安心だとお思いになるが、やはり、この冷泉院をお思い申し上げるお気持ちは、特に深くいとしくお思いなさる。
 院もいつも気に掛けていらっしゃったが、ご対面がめったになく気掛かりにお思いだったため、気がせかれなさって、このように気楽なご境遇にとお考えになったのであった。
 
   中宮ぞ、なかなかまかでたまふこともいと難うなりて、ただ人の仲のやうに並びおはしますに、今めかしう、なかなか昔よりもはなやかに、御遊びをもしたまふ。
 何ごとも御心やれるありさまながら、ただかの御息所の御事を思しやりつつ、行なひの御心進みにたるを、人の許しきこえたまふまじきことなれば、功徳のことを立てて思しいとなみ、いとど心深う、世の中を思し取れるさまになりまさりたまふ。
 
 中宮は、かえって里下がりなさることが大変に難しくなって、臣下の夫婦のようにいつもご一緒にいられて、当世風に、かえって御在位中よりも華やかに、管弦の御遊などもなさる。
 どのようなことにもご満足のゆくご様子であるが、ただあの母御息所の御事をお考えなさっては、勤行のお心が深まって行ったのを、院がお許し申されるはずのないことなので、追善供養をひたすら熱心にお営みになって、ますます道心深く、この世の無常をお悟りになったご様子におなりになって行かれる。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 いつとても月見ぬ秋はなきものをわきて今宵の珍しきかな(後撰集秋中-三二五 藤原雅正)(戻)  
  出典2 三五夜中新月色 二千里外故人心(白氏文集巻十四-七二四)(戻)  
  出典3 あたら夜の月と花とを同じくはあはれ知れらむ人に見せばや(後撰集春下-一〇三 源信明)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 さらなり--さゝ(ゝ/$ら<朱>)なり(戻)  
  校訂2 御同じ--御(御/+お)なを(を/#)し(戻)  
  校訂3 そなたに--それ(れ/#な)たに(戻)  
  校訂4 宿りに--やとり(り/+に)(戻)  
  校訂5 香染めなる--かうそめの(の/$なる)(戻)  
  校訂6 御倉に--みく(く/+ら<朱>)にも(も/$<朱>)(戻)  
  校訂7 育み--はゝ(ゝ/$)くみ(戻)  
  校訂8 さるきほひ--さか(か/$る<朱>)きほひ(戻)  
  校訂9 など--なえ(え/$と<朱>)(戻)  
  校訂10 具して--ゝ(ゝ/$く<朱>)して(戻)  
  校訂11 御遊び--(/+御<朱>)あそひ(戻)  
  校訂12 たまふ、と聞こし--給(給/+ふ<朱>)時(時/とき<朱>)こし(戻)  
  校訂13 足らぬ--たゝ(ゝ/$ら<朱>)ぬ(戻)  
  校訂14 聞こえ--き(き/+こえ<朱>)(戻)  
  校訂15 はべらむ--あ(あ/$侍<朱>)らむ(戻)  
  校訂16 簪--かんか(か/$さ<朱>)し(戻)  
  校訂17 御心ざしは、すぐれて深くあはれにぞおぼえたまふ--(/+御心さしはすくれてふかく哀にそおほえ給<朱>)(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。