枕草子120段 正月に寺にこもりたるは

あはれなる 枕草子
上巻下
120段
正月に
いみじう心づきなき

(旧)大系:120段
新大系:115段、新編全集:116段
(以上全て三巻本系列本。しかし後二本の構成は2/3が一致せず、混乱を招くので、三巻本理論の根本たる『(旧)大系』に準拠すべきと思う)
(旧)全集=能因本:124段
 


 
 正月に寺にこもりたるは、いみじう寒く、雪がちに氷りたるこそをかしけれ。
 雨うち降りぬるけしきなるは、いとわろし。清水などにまうでて、局するほど、くれ階のもとに、車ひきよせて立てたるに、帯ばかりうちしたるわかき法師ばらの、足駄といふものをはきて、いささかつつみもなく、下りのぼるとて、なにともなき経の端うち読み、倶舎の頌など誦しつつありくこそ、所につけてはをかしけれ。わがのぼるは、いとあやふくおぼえて、かたはらによりて、勾欄おさへなどしていくものを、ただ板敷などのやうにありきたるもをかし。「御局して侍り。はや」といへば、沓ども持て来ておろす。衣うへざまにひきかへしなどしたるもあり。裳、唐衣など、ことごとしく装束きたるもあり。深履、半靴などはきて、廊のほど、沓すり入るは、内裏わたりめきて、またをかし。
 

 内外許されたるわかき男ども、家の子など、あまた立ちつづきて、「そこもとは、落ちたる所侍り。あがりたり」など教へゆく。なに者にからむ、いと近くさしあゆみ、さいだつ者などを、「しばし。人おはしますに、かくはせぬわざなり」などいふを、げにと、すこし心あるもあり。また、聞きも入れず、まづわれ仏の御前にと思ひていくもあり。局に入るほども、人のゐ並みたる前をとほり入らば、いとうたてあるを、犬防ぎのうち見入れたる心地ぞ、いみじうたふたく、などて、この月頃まうでで過しすらむと、まづ心もおこる。
 

 御あかしの、常灯にはあらで、うちに、また人のたてまつれるが、おそろしきまで燃えたるに、仏のきらきらと見え給へるは、いみじうたふときに、手ごとに文どもをささげて、礼盤にかひろき誓ふも、さばかりゆすり満ちたれば、とりはなちて聞きわくべきにもあらぬに、せめてしぼり出でたる声々の、さすがにまたまぎれずなむ。「千灯の御心ざしはなにがしの御ため」などは、はつかに聞こゆ。帯うちして拝み奉るに、「ここに、つかう候ふ」とて、樒の枝を折りもて来たるに、香などのいとたふときもをかし。
 

 犬防のかたより、法師より来て、「いとよく申し侍りぬ。幾日ばかりこもらせ給ふべきにか。しかじかの人こもり給へり」などいひ聞かせて往ぬる、すなはち、火桶、果物などもてつづかせて、半挿に手水入れて、手もなき盥などあり。
 「御供の人は、かの坊に」などいふ。誦経の鐘の音など、我がななりと聞くも、たのもしうおぼゆ。かたはらに、よろしき男の、いとしのびやかに、額など、立ち居のほども、心あらむと聞こえたるが、いたう思ひ入りたるけしきにて、いも寝ずおこなふこそ、いとあはれなれ。うちやすむほどは、経をたかうは聞こえぬほどに読みたるも、たふとげなり。うち出でさせまほしきに、まいてはななどを、けざやかに聞きにくくはあらで、しのびやかにかみたるは、なにごとを思ふ人ならむと、かれをなさばやとこそおぼゆれ。
 

 日ごろこもりたるに、昼はすこしのどかに、はやくはありし。師の坊に、男ども、女、童などみないきて、つれづれなるに、かたはらに貝をにはかに吹き出でたるこそ、いみじうおどろかるれ。きよげなる立文もたせたる男などの、誦経の物うち置きて、堂童子など呼ぶ声、山彦ひびきあひてきらきらしう聞こゆ。鐘の声ひびきまさりて、いづこのならむと思ふほどに、やんごとなきところの名うちいひて、「御産たひらかに」など、げんげんしげに申したるなど、すずろに、いかならむなど、おぼつかなく念ぜらるかし。これは、ただなるをりのことなめり。正月などはただいとさわがしき、物望みなる人など、ひまなくまうづるを見るほどに、おこなひもしやらず。
 

 日うち暮るるほどまうづるは、こもるなめり。
 小法師ばらの、持ちあるくべうもあらぬに、屏風のたかきを、いとよく進退して、畳などをうち置くと見れば、局に立てて、犬防に簾さらさらとうちかくる、いみじうつきたり、やすげなり。そよそよとあまたおり来て、大人だちたる人の、いやしからぬ声のしのびやかなるけはひして、帰る人にやあらむ、「そのことあやし。火のこと制せよ」などいふもあなり。
 

 七つ八つばかりなる男児の、声愛敬づき、おごりたる声にて、侍の男ども呼びつき、ものなどいひたる、いとをかし。また、三つばかりなるちごの寝おびれてうちしはぶきたるも、いとうつくし。乳母の名、母など、うちいひ出でたるも、誰ならむと知らまほし。
 

 夜一夜のしりおこなひ明かすに、寝も入らざりつるを、後夜などはてて、すこしうちやすみたる寝耳に、その寺の仏の御経を、いとあらあらしう、たふとくうち出で誦みたるにぞ、いとわざとたふとくしもあらず、行者だちたる法師の、蓑うちしきたるなどが誦むななりと、ふとうちおどろかれて、あはれにきこゆ。
 

 また、夜などはこもらで、人々しき人の、青鈍の指貫に綿入りたる、しろき衣どもあまた着て、子供なめりと見ゆる若き男のをかしげなる、装束きたる童べなどして、侍などやうの者、あまたかしこまりゐ念じたるもをかし。かりそめに屏風ばかりを立てて、額などすこしつくめり。顔知らぬは、誰ならむとゆかし、知りたるは、さなめりと見るもをかし。若き者どもは、とかく局どものあたりに立ちさまよひて、仏の御かたに目も見入れ奉らず。別当のなど呼び出で、うちささめき物語して出でぬる、えせ者とは見えず。
 

 二月つごもり、三月一日、花ざかりにこもりたるもをかし。きよげなる若き男どもの、主と見ゆる二三人、桜の襖、柳などいとをかしうて、くくりあげたる指貫の裾も、あてやかにぞ見なさるる。つきづきしき男に装束をかしうしたる餌袋いだかせて、小舎人童ども、紅梅、萌黄の狩衣、いろいろの衣、おしすりもどろかしたる袴など着せたり。花など折らせて、侍めきてほそやかなる者など具して、金鼓うつこそをかしけれ。さぞかしと見ゆる人もあれど、いかでか知らむ。うちすぎて往ぬるもさうざうしければ、「けしきを見せまし」などいふもをかし。
 

 かやうにて、寺にこもり、すべて例ならぬ所に、ただ使ふ人のかぎりしてあるこそ、かひなうおぼゆれ。なほおなじほどにて、ひとつ心に、をかしき事もにくきことも、さまざまにいひあはせつべき人、かならず一人二人、あまたも誘はまほし。そのある人のなかにも、くちをしからぬもあれど、目馴れたるなるべし。男などもさ思ふにこそあらめ、わざとたづね呼びありくは。