おくのほそ道か 奥の細道か+題名の由来

概要 奥の細道
題名論
俳句一覧

 

 『おくのほそ道』が芭蕉による題とされるが、仮名による仮題、真名(=漢字=本題)は『奥の細道』という俳諧の滑稽の心を表したものと解する。
 こうした真名仮名の二重性は、徒然草の題(当初『つれつれ草』)の影響・和漢混交文の流れによるものと考えられる(他作品にこの二重性はない)。
 著者により題が付されたか不明な著名作品はしばしばあり(竹取・伊勢・源氏・平家)、自分で仮題とふざけてつけても不自然ではない。

 

 また全体としては、徒然草の「苔の細道」に由来していると考えられる。
 「はるかなる苔の細道」(徒然草11段・神無月のころ)
 「はかなげなるも、おくのほそ道」(奥の細道・跋文)

 

目次
題名論:おくのほそ道vs奥の細道
奥の細道:仙台の表記(=陸奥+奥州の奥)
おくのほそ道:末尾の跋文
仮名と真名:徒然の先例=和漢混交文=掛詞的
※仮名(かな文字)に対し漢字のことを真名という
すわりの良し悪し:滑稽=俳諧(徘徊)の心
結論:真名が本名:仮名は仮題(芭蕉のいたづら)
→徒然草の滑稽流を継承+芭蕉の暗示的掛詞
苔の細道(徒然草)
奥=陸奥×奥州(作品の中心+涙を落とす=心)

 

題名論

 
 

 「おくのほそ道」は最後の跋文表記、「奥の細道」は仙台・宮城野の表記。
 『おくのほそ道』が芭蕉による表題とされるが、「奥の細道」も仙台・名取川に掛けられている。

 後者を「おくのほそ道」とする本も一部にあるが、題名表記が諸本で二分していることは変わらない。
 一般に「中学校国語の検定済み教科書では、すべて「おくのほそ道」の表記」(Wikipedia)とされるが、高校国語の主要教科書(~2022年)は見る限り全て『奥の細道』表記。この相違は生徒用教科書にとどまらずに大きく二分しており、これをどのように解すべきか問題となる。

 

1仮名と真名:徒然の先例と和漢混交文=掛詞的用例

 

 この点、表題の解釈も、芭蕉自身の諸記述に表される客観的意図に基づいてされるべきことは当然だが、それは和漢混交文である中身の記述と無関係には解せない(そこだけ見て文脈無視で決めるのは解釈ではない)。そもそも作品先頭にある枕詞が漢詩からの引用、本文は古文和歌からの引用。こうした和漢混交調から、「おくのほそ道」は仮名(かな×仮題)、「奥の細道」が真名(漢字×真面目な題)であり、これによって俳諧の滑稽の心を表したと解する。

 

 仮名と真名の混合題は『徒然〳〵草』に前例がある(この表記は以下の①ようになっており一見判然としないが、くり返しの「く」の先端が「然」の右下に微妙に斜めに掛けられて草の頭につなげられており「然」の振り仮名と解される。他方、②のように「然」の直後に配置される主流写本(烏丸本)もあり、これは微妙な振り仮名性・徒(いたずら)の心を解せなかったものと解せられる)。

 

①徒  ②徒

 然〳  然

  〵  〳

 草   〵

     草

 

 この徒然草の表題も原文先頭は『つれつれ草』が多く、しかし本や作品の外題はほぼ全て『徒然草』であり、本作の状況とパラレルの状況になっている。これは私見だが、『徒然(つれづれ)』も『奥の細道(おくのほそ道)』も本作も真名と仮名に応じ多義的な意味がある、つまり掛詞的な題と解せられる。「徒然」は平家物語巻二・徳大寺用例の無力な無職、「つれつれ」は伊勢・源氏以来の無為、この2つの掛詞。

 奥の細道は真名で、おくのほそ道は仮名。これは文字そのままの説明で、そのような意味はないということにはならない。視角を変えて意味を通すのが解釈で読解。

 

2すわりの良し悪し:滑稽=俳諧(徘徊)の心

 

 さらに滑稽というのが俳諧(俳句)の最も伝統的な特徴であるところ(和歌の俳諧歌に由来する、をかしな心)、本作はまさに俳諧の集大成であるから、本作の題もまずこの心に基づき解釈されるべきものである。

 しかしながらこの滑稽という視点が、現状の解釈では完全に欠落している(大真面目さが売りのデスクワークの人達が解釈を担っているため)。例えば、門出の句「行く春や鳥啼き魚の目も涙」の「魚の目」を、通説は涙目を魚の目の潤みに例えたというように解するが、これは舟を降りた芭蕉の足の魚の目が痛む、という詩的冗談でしかありえない、「啼き」を人の泣きと掛けたと暗示しているから、「魚の目」も人の足のイボ=魚の目(うおのめ)に掛けた暗示で、動物の魚という表面的意味しかないとは見れない。まして舟から降りた時の句、文脈は灸を据えた足で歩き始めた所で、枕は「行く」という句である。そこで魚の目が潤んでいるなどナンセンス過ぎるし不気味。文脈の捉え方が一面的で皮相的過ぎる。俳諧の心は滑稽と観念的には説明されるが、現状の解説では、その心がどこにあるか全くわからない。つまり詩歌の心の基本が理解されていない。AをBと掛けてCと解くその心。「魚の目」を「うおの目」を掛けて涙と解く、それが足の痛み。涙が出たのは足が痛むからかな。これが滑稽と余韻の心。

 

 こうした滑稽という心の観点からすると、題としては『奥の細道』が断然すわりがいいが、俳諧(≒徘徊)を旨とする芭蕉翁はすわっていたくなかったので(大垣に着いたと思ったらまたすぐ伊勢への舟に乗る)、あえてすわりを悪くした滑稽の心もあるだろう。しかし読者のためには、いつまでもすわりが悪いより、そろそろ落ち着かせるのが良いと思う。

 

真名が本名:仮名は仮題(芭蕉のいたづら)

 

 以上より、本作の本名(真名)は「奥の細道」で、『おくのほそ道』は芭蕉流の仮題(仮名)。多角的根拠(徒然の先例、及び本作の記述:中核の陸奥・奥州と和漢混交調)をもってそう言える。

 

 なお中学教科書で『おくのほそ道』、高校教科書で『奥の細道』で統一されていたのは、一からげに見ると平易か否かという視点としか思われない。