源氏物語 35帖 若菜下:あらすじ・目次・原文対訳

若菜上 源氏物語
第二部
第35帖
若菜下
柏木

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 若菜下のあらすじ

 光源氏41歳三月から47歳十二月までの話。

 突然冷泉帝が東宮(後の帝)に譲位した。最近病を患った冷泉帝は、「帝である自分には、皇子がいない。もう東宮も成人しているし、問題なかろう」と決意は固く、源氏は(藤壺の宮との密かな愛によって産まれた我が子が、御子の無いまま帝位を去るとは…)と、命を懸けた恋が身を結ばなかった事を密かに嘆く。これと同時に、太政大臣〔かつての頭中将〕が隠居を申し出た。これより、致仕の大臣と呼ばれるようになる。

 ある日源氏は、紫の上から「出家したい」〔〕と切り出されるが、紫の上が去った後の孤独を恐れる源氏は必死に懇願し、考え直すよう説得する。
  後日、源氏一行は明石入道の御願ほどきのため、明石一族を伴い住吉大社へ参詣する。源氏はかつて須磨に蟄居した頃、先の太政大臣〔かつての頭中将〕がはるばる訪ねてきた事を思い出していた。明石尼君にこっそり歌を送り、尼君は源氏の心遣いに感涙する。 参拝を終え、その夜。東遊びが執り行われた。翌朝。明石尼君のいる牛車を見た貴族は幸運をつかんだ一族を褒め称え、「明石尼君にあやかりたい」と噂する。
  それから4年の年月が経ち、冷泉帝から今上帝へ時代は移る。明石の女御腹の第一皇子が東宮に立った。

 翌年の朱雀院の五十の賀に向け、源氏は女三宮に琴を教える。年が明け正月に六条院で華やかな女楽が催され、女三宮、紫の上、明石の女御、明石の御方が揃って見事な演奏を披露したが、その晩に37歳の厄年だった〔?〕紫の上が突然倒れる注2〕。病状は好転せず、源氏は紫の上と共に二条院に移って看病に付き添った。

 一方、柏木は女三宮の姉女二宮(落葉の宮)と結婚するが満足できず、源氏が紫の上につきっきりで手薄になっていた隙をついて、乳母子の小侍従の手引きで女三宮と密通した。その直後、紫の上が一度は絶命したがかろうじて蘇生〔??〕、その際に六条御息所の死霊が現れて源氏を戦慄させた。後日、源氏は御息所の死霊を供養するため、紫の上に正式ではないものの在家で戒を受けさせた。

 後日、女三宮が懐妊。紫の上の病状も小康状態になった夏の末頃、見舞いにやって来た源氏は偶然柏木からの恋文を見つけ、事の真相に気付く。小侍従は女三宮を責め、宮は源氏を前にして生きた心地がしない。源氏もそんな女三宮に皮肉を言い、父院に心配をかけないようにとそれとなく説教する。柏木もそのことを知らされ罪におののき、さらに六条院で行われた試楽の際、源氏に痛烈な皮肉を言われて病に臥した。柏木の容態が「枕も上がらないほどの重態だ」〔?。これは紫の描写で柏木に枕の描写はない〕と使いの者から知らされた、致仕の大臣と北の方は驚愕し、すぐさま実家に引き取る〔?〕事を決断。実家で療養する事になり、女二宮と一条御息所に涙ながらに謝罪し、一条の屋敷を後にした。

 朱雀院の五十の賀は、暮れも押し迫った十二月の二十五日に行われた。

(以上Wikipedia若菜(源氏物語)より。色づけと〔〕は本ページ。住吉参詣までの部分は若菜上に入っていたが移動させた。

 注:原文で「出家」的表現はない。尼君が喜ぶが、直前の致仕大臣の隠居と「のどやかに行なひ」(二章二段)から隠居的意味に見る。
 現代的な意味の出家(尼になる)という時は、女三宮や浮舟のように髪をおろすなど直接的表現になっている。女性にとって剃髪は全くのどやかではない。

 注2:「紫上の死亡騒ぎ」参照。これ以降前代未聞の出家フィーバーが起こる。
 
 

目次
和歌抜粋内訳#若菜下(18首:別ページ)
主要登場人物
出家と隠居(隠れる)の違い(独自)
紫の突然の死亡騒ぎ(独自)
 
第35帖 若菜下
 光る源氏の准太上天皇時代
 四十一歳三月から
 四十七歳十二月までの物語
 
第一章 柏木 女三の宮の結婚後
第二章 光る源氏 住吉参詣
第三章 朱雀院 五十賀の計画
第四章 光る源氏 六条院の女楽
第五章 光る源氏 源氏の音楽論
第六章 紫の上 出家願望と発病
第七章 柏木 女三の宮密通の物語
第八章 紫の上 死と蘇生
第九章 女三の宮 懐妊と密通の露見
第十章 光る源氏 密通露見後
第十一章 朱雀院 五十賀の延引
第十二章 柏木 源氏から睨まれる
 
 
第一章 柏木の物語
 女三の宮の結婚後
 第一段 六条院の競射
 第二段 柏木、女三の宮の猫を預る
 第三段 柏木、真木柱姫君には無関心
 第四段 真木柱、兵部卿宮と結婚
 第五段 兵部卿宮と真木柱の不幸な結婚生活
 
第二章 光る源氏の物語
 住吉参詣
 第一段 冷泉帝の退位
 第二段 六条院の女方の動静
 第三段 源氏、住吉に参詣
 第四段 住吉参詣の一行
 第五段 住吉社頭の東遊び
 第六段 源氏、往時を回想
 第七段 終夜、神楽を奏す
 第八段 明石一族の幸い
 
第三章 朱雀院の物語
 朱雀院の五十賀の計画
 第一段 女三の宮と紫の上
 第二段 花散里と玉鬘
 第三段 朱雀院の五十賀の計画
 第四段 女三の宮に琴を伝授
 第五段 明石女御、懐妊して里下り
 第六段 朱雀院の御賀を二月十日過ぎと決定
 
第四章 光る源氏の物語
 六条院の女楽
 第一段 六条院の女楽
 第二段 孫君たちと夕霧を召す
 第三段 夕霧、箏を調絃す
 第四段 女四人による合奏
 第五段 女四人を花に喩える
 第六段 夕霧の感想
 
第五章 光る源氏の物語
 源氏の音楽論
 第一段 音楽の春秋論
 第二段 琴の論
 第三段 源氏、葛城を謡う
 第四段 女楽終了、禄を賜う
 第五段 夕霧、わが妻を比較して思う
 
第六章 紫の上の物語
 出家願望と発病
 第一段 源氏、紫の上と語る
 第二段 紫の上、三十七歳の厄年
 第三段 源氏、半生を語る
 第四段 源氏、関わった女方を語る
 第五段 紫の上、発病す
 第六段 朱雀院の五十賀、延期される
 第七段 紫の上、二条院に転地療養
 第八段 明石女御、看護のため里下り
 
第七章 柏木の物語
 女三の宮密通の物語
 第一段 柏木、女二の宮と結婚
 第二段 柏木、小侍従を語らう
 第三段 小侍従、手引きを承諾
 第四段 小侍従、柏木を導き入れる
 第五段 柏木、女三の宮をかき抱く
 第六段 柏木、猫の夢を見る
 第七段 きぬぎぬの別れ
 第八段 柏木と女三の宮の罪の恐れ
 第九段 柏木と女二の宮の夫婦仲
 
第八章 紫の上の物語
 死と蘇生
 第一段 紫の上、絶命す
 第二段 六条御息所の死霊出現
 第三段 紫の上、死去の噂流れる
 第四段 紫の上、蘇生後に五戒を受く
 第五段 紫の上、小康を得る
 
第九章 女三の宮の物語
 懐妊と密通の露見
 第一段 女三の宮懐妊す
 第二段 源氏、紫の上と和歌を唱和す
 第三段 源氏、女三の宮を見舞う
 第四段 源氏、女三の宮と和歌を唱和す
 第五段 源氏、柏木の手紙を発見
 第六段 小侍従、女三の宮を責める
 第七段 源氏、手紙を読み返す
 第八段 源氏、妻の密通を思う
 
第十章 光る源氏の物語
 密通露見後
 第一段 紫の上、女三の宮を気づかう
 第二段 柏木と女三の宮、密通露見におののく
 第三段 源氏、女三の宮の幼さを非難
 第四段 源氏、玉鬘の賢さを思う
 第五段 朧月夜、出家す
 第六段 源氏、朧月夜と朝顔を語る
 
第十一章 朱雀院の物語
 五十賀の延引
 第一段 女二の宮、院の五十の賀を祝う
 第二段 朱雀院、女三の宮へ手紙
 第三段 源氏、女三の宮を諭す
 第四段 朱雀院の御賀、十二月に延引
 第五段 源氏、柏木を六条院に召す
 第六段 源氏、柏木と対面す
 第七段 柏木と御賀について打ち合わせる
 
第十二章 柏木の物語
 源氏から睨まれる
 第一段 御賀の試楽の当日
 第二段 源氏、柏木に皮肉を言う
 第三段 柏木、女二の宮邸を出る
 第四段 柏木の病、さらに重くなる
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
四十一歳から四十七歳
呼称:六条院・主人の院・院・大殿・大殿の君
朱雀院(すざくいん)
源氏の兄
呼称:入道の帝・山の帝・院の上・院・帝・上
女三の宮(おんなさんのみや)
源氏の正妻
呼称:六条院の姫宮・姫宮・宮・二品の宮・姫宮の御方・女宮・若君・女
柏木(かしわぎ)
太政大臣の長男
呼称:衛門督・督の君・中納言・君
夕霧(ゆうぎり)
光る源氏の長男
呼称:右大将の君・左大将・大将の君・君
雲居雁(くもいのかり)
夕霧の北の方
呼称:北の方
太政大臣(だじょうだいじん)
呼称:太政大臣・致仕の大殿・父大臣・大殿・大臣
紫の上(むらさきのうえ)
源氏の妻
呼称:対の上・対の方・対・二条の院の上・上の御方・御方・女君・君
花散里(はなちるさと)
呼称:六条の東の君・夏の御方・御方
朧月夜の君(おぼろづきよのきみ)
呼称:二条の尚侍の君・尚侍の君・君
秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)
呼称:冷泉院の后・中宮
冷泉院(れいぜいいん)
呼称:内裏の帝・院の帝・帝の君・内裏・院
明石の尼君(あかしのあまぎみ)
呼称:明石の尼君
明石御方(あかしのおおんかた)
呼称:明石の御方・御方・母君・明石
明石女御(あかしのにょうご)
源氏の娘
呼称:桐壺の御方・内裏の御方・淑景舎・六条の女御・春宮の女御・女御の君・女御殿・女御
今上帝(きんじょうてい)
朱雀帝の御子
呼称:春宮・宮・帝・主上・内裏・内裏の帝・朝廷・国王
玉鬘(たまかずら)
鬚黒の北の方
呼称:左大将殿の北の方・右の大臣の北の方・右大臣殿の北の方・北の方・尚侍の君・継母・君
蛍兵部卿宮(ほたるひょうぶきょうのみや)
呼称:兵部卿宮・親王・宮
落葉宮(おちばのみや)
朱雀院の第二内親王
呼称:二宮・女二宮・女宮・宮

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンクを参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 

出家と隠居(隠れる)の違い

 
 
 上のあらすじで、紫の上が「出家したい」とされているが、そうした直接表現はない。

 「今は、かうおほぞうの住まひならで、のどやかに行なひをも、となむ思ふ。
 この世はかばかりと、見果てつる心地する齢にもなりにけり。さりぬべきさまに思し許してよ」(二章二段
 
 これは直前の太政大臣の引退(籠もりゐたまひぬ)とあいまって、隠居してのんびりして死ぬの意味と見る。
 もうこのうるさくて面倒な世に飽きた。何もしたくないので、のどやかに死ぬ。
 

 次に出家と説明されるのは、以下の文章(六章七段)。
 「かならず世を背く御本意」「わが心とやつし捨てたまはむ御ありさま」「うち捨てたまはむ」
 世を背くを、暗記知識の吐き出しよろしく、出家と反射的に解さないように。だから暗記中心教育は使えない、むしろ弊害なのである。概要を覚えて、細部は問題に応じて参照できればいい。実際の社会で不正確な暗記で対応することはない。状況に応じて考えなければならない。それは答えが一義的・教義的に与えられている冗長な文章読解問題に取り組むということではない。解釈は常に字義と文脈に即さなければならない。ここに至っては出家の含みすらなく、命を終わらせるの意味。

 
 前段の明石入道の山に入る遺書的内容「まかり入りぬる」「命終らむ」ともあいまって、死期を悟った消極自死(入山)と解するのが、文言上自然。
 家を出て山に入ると言っても直ちに尼になる意味ではない。明石入道は既に入道だった。「水草清き山の末」で清水で自死を暗示(ミズからシ)。
 身投げの類ではなく(道に反するので)、猫の最期と同じ行動。隠れる=死。家を出て山に籠り、死にそなえる。源氏も同様。
 
 次巻で、女三宮について端的な描写が繰り返される(「御髪下ろさせたまふ」「いと盛りにきよらなる御髪を削ぎ捨て」)が、彼女は幼い性格とされる。
 

 

紫の上の突然の死亡騒ぎ

 
 

 以上の出家騒動に続いて紫の上が厄年という理由で突然死亡宣告され(八章)、人々に弔問などさせながら、これまた突如生き返るが、これは紫が死にそうということ。
 現代でもそういうバラエティーがあった(キャストの葬儀から始まる)。しかし復活しても悩んでいる(なほ絶えず悩みわたり)。
 つまり物語終わらせたい病。「思ひ起こして、御湯などいささか参る」「時々御頭もたげたまひける」

 
 

原文対訳

和歌 定家本
(明融臨模本
現代語訳
(渋谷栄一)
  若菜下
 
 

第一章 柏木の物語 女三の宮の結婚後

 
 

第一段 六条院の競射

 
   ことわりとは思へども、  もっともだとは思うけれども、
   「うれたくも言へるかな。
 いでや、なぞ、かく異なることなきあへしらひばかりを慰めにては、いかが過ぐさむ。
 かかる人伝てならで、一言をものたまひ聞こゆる世ありなむや」
 「いまいましい言い方だな。
 いや、しかし、なんでこのような通り一遍の返事だけを慰めとしては、どうして過ごせようか。
 このような人を介してではなく、一言でも直接おっしゃってくださり、また申し上げたりする時があるだろうか」
   と思ふにつけて、おほかたにては、惜しくめでたしと思ひきこゆる院の御ため、なまゆがむ心や添ひにたらむ。
 
 と思うにつけても、普通の関係では、もったいなく立派な方だとお思い申し上げる院の御為には、けしからぬ心が生じたのであろうか。
 
   晦日の日は、人びとあまた参りたまへり。
 なまもの憂く、すずろはしけれど、「そのあたりの花の色をも見てや慰む」と思ひて参りたまふ。
 
 晦日には、人々が大勢参上なさった。
 何やら気が進まず、落ち着かないけれども、「あのお方のいらっしゃる辺りの桜の花を見れば気持ちが慰むだろうか」と思って参上なさる。
 
   殿上の賭弓、如月にとありしを過ぎて、三月はた御忌月なれば、口惜しくと人びと思ふに、この院に、かかるまとゐあるべしと聞き伝へて、例の集ひたまふ。
 左右の大将、さる御仲らひにて参りたまへば、次将たちなど挑みかはして、小弓とのたまひしかど、歩弓のすぐれたる上手どもありければ、召し出でて射させたまふ。
 
 殿上の賭弓は、二月とあったが過ぎて、三月もまた御忌月なので、残念に人々は思っているところに、この院で、このような集まりがある予定と伝え聞いて、いつものようにお集まりになる。
 左右の大将は、お身内という間柄で参上なさるので、中将たちなども互いに競争しあって、小弓とおっしゃったが、歩弓の勝れた名人たちもいたので、お呼び出しになって射させなさる。
 
   殿上人どもも、つきづきしき限りは、皆前後の心、こまどりに方分きて、暮れゆくままに、今日にとぢむる霞のけしきもあわたたしく、乱るる夕風に、花の蔭いとど立つことやすからで、人びといたく酔ひ過ぎたまひて、  殿上人たちも、相応しい人は、すべて前方と後方との、交互に組分けをして、日が暮れてゆくにつれて、今日が最後の春の霞の感じも気ぜわしくて、吹き乱れる夕風に、花の蔭はますます立ち去りにくく、人々はひどく酔い過ごしなさって、
   「艶なる賭物ども、こなたかなた人びとの御心見えぬべきを。
 柳の葉を百度当てつべき舎人どもの、うけばりて射取る、無人なりや。
 すこしここしき手つきどもをこそ、挑ませめ」
 「しゃれた賭物の数々は、あちらこちらの御婦人方のご趣味のほどが窺えようというものを。
 柳の葉を百発百中できそうな舎人たちが、わがもの顔をして射取るのは、面白くないことだ。
 少しおっとりした手並みの人たちこそ、競争させよう」
   とて、大将たちよりはじめて、下りたまふに、衛門督、人よりけに眺めをしつつものしたまへば、かの片端心知れる御目には、見つけつつ、  といって、大将たちをはじめとして、お下りになると、衛門督、他の人より目立って物思いに耽っていらっしゃるので、あの少々は事情をご存知の方のお目には止まって、
   「なほ、いとけしき異なり。
 わづらはしきこと出で来べき世にやあらむ」
 「やはり、様子が変だ。
 厄介な事が引き起こるのだろうか」
   と、われさへ思ひつきぬる心地す。
 この君たち、御仲いとよし。
 さる仲らひといふ中にも、心交はしてねむごろなれば、はかなきことにても、もの思はしくうち紛るることあらむを、いとほしくおぼえたまふ。
 
 と、自分までが悩みに取りつかれたような心地がする。
 この君たち、お仲が大変に良い。
 従兄弟同士という中でも、気心が通じ合って親密なので、ちょっとした事でも、物思いに悩んで屈託しているところがあろうものなら、お気の毒にお思いになる。
 
   みづからも、大殿を見たてまつるに、気恐ろしくまばゆく、  自分でも、大殿を拝見すると、何やら恐ろしく目を伏せたくなるようで、
   「かかる心はあるべきものか。
 なのめならむにてだに、けしからず、人に点つかるべき振る舞ひはせじと思ふものを。
 ましておほけなきこと」
 「このような考えを持ってよいものだろうか。
 どうでもよいことでさえ、不行き届きで、人から非難されるような振る舞いはすまいと思うものを。
 まして身のほどを弁えぬ大それたことを」
   と思ひわびては、  と思い悩んだ末に、
   「かのありし猫をだに、得てしがな。
 思ふこと語らふべくはあらねど、かたはら寂しき慰めにも、なつけむ」
 「あの先日の猫でも、せめて手に入れたい。
 思い悩んでいる気持ちを打ち明ける相手にはできないが、独り寝の寂しい慰めを紛らすよすがにも、手なづけてみよう」
   と思ふに、もの狂ほしく、「いかでかは盗み出でむ」と、それさへぞ難きことなりける。
 
 と思うと、気違いじみて、「どうしたら盗み出せようか」と思うが、それさえ難しいことだったのである。
 
 
 

第二段 柏木、女三の宮の猫を預る

 
   女御の御方に参りて、物語など聞こえ紛らはし試みる。
 いと奥深く、心恥づかしき御もてなしにて、まほに見えたまふこともなし。
 かかる御仲らひにだに、気遠くならひたるを、「ゆくりかにあやしくは、ありしわざぞかし」とは、さすがにうちおぼゆれど、おぼろけにしめたるわが心から、浅くも思ひなされず。
 
 弘徽殿女御の御方に参上して、お話などを申し上げて心を紛らわそうとしてみる。
 たいそう嗜み深く、気恥ずかしくなるようなご応対ぶりなので、直にお姿をお見せになることはない。
 このような姉弟の間柄でさえ、隔てを置いてきたのに、「思いがけず垣間見したのは、不思議なことであった」とは、さすがに思われるが、並々ならず思い込んだ気持ちゆえ、軽率だとは思われない。
 
   春宮に参りたまひて、「論なう通ひたまへるところあらむかし」と、目とどめて見たてまつるに、匂ひやかになどはあらぬ御容貌なれど、さばかりの御ありさまはた、いと異にて、あてになまめかしくおはします。
 
 東宮に参上なさって、「当然似ていらっしゃるところがあるだろう」と、目を止めて拝すると、輝くほどのお美しさのご容貌ではないが、これくらいのご身分の方は、また格別で、上品で優雅でいらっしゃる。
 
   内裏の御猫の、あまた引き連れたりけるはらからどもの、所々にあかれて、この宮にも参れるが、いとをかしげにて歩くを見るに、まづ思ひ出でらるれば、  内裏の御猫が、たくさん引き連れていた仔猫たちの兄弟が、あちこちに貰われて行って、こちらの宮にも来ているのが、とてもかわいらしく動き回るのを見ると、何よりも思い出されるので、
   「六条の院の姫宮の御方にはべる猫こそ、いと見えぬやうなる顔して、をかしうはべしか。
 はつかになむ見たまへし」
 「六条院の姫宮の御方におります猫は、たいそう見たこともないような顔をしていて、かわいらしうございました。
 ほんのちょっと拝見しました」
   と啓したまへば、わざとらうたくせさせたまふ御心にて、詳しく問はせたまふ。
 
 と申し上げなさると、猫を特におかわいがりあそばすご性分なので、詳しくお尋ねあそばす。
 
   「唐猫の、ここのに違へるさましてなむはべりし。
 同じやうなるものなれど、心をかしく人馴れたるは、あやしくなつかしきものになむはべる」
 「唐猫で、こちらのとは違った恰好をしてございました。
 同じようなものですが、性質がかわいらしく人なつっこいのは、妙にかわいいものでございます」
   など、ゆかしく思さるばかり、聞こえなしたまふ。
 
 などと、興味をお持ちになるように、特にお話し申し上げなさる。
 
   聞こし召しおきて、桐壺の御方より伝へて聞こえさせたまひければ、参らせたまへり。
 「げに、いとうつくしげなる猫なりけり」と、人びと興ずるを、衛門督は、「尋ねむと思したりき」と、御けしきを見おきて、日ごろ経て参りたまへり。
 
 お耳にお止めあそばして、桐壷の御方を介してご所望なさったので、差し上げなさった。
 「なるほど、たいそうかわいらしげな猫だ」と、人々が面白がるので、衛門督は、「手に入れようとお思いであった」と、お顔色で察していたので、数日して参上なさった。
 
   童なりしより、朱雀院の取り分きて思し使はせたまひしかば、御山住みに後れきこえては、またこの宮にも親しう参り、心寄せきこえたり。
 御琴など教へきこえたまふとて、
 子供であったころから、朱雀院が特別におかわいがりになってお召し使いあそばしていたので、御入山されて後は、やはりこの東宮にも親しく参上し、お心寄せ申し上げていた。
 お琴などをお教え申し上げなさるついでに、
   「御猫どもあまた集ひはべりにけり。
 いづら、この見し人は」
 「御猫たちがたくさん集まっていますね。
 どうしたかな、わたしが見た人は」
   と尋ねて見つけたまへり。
 いとらうたくおぼえて、かき撫でてゐたり。
 宮も、
 と探してお見つけになった。
 とてもかわいらしく思われて、撫でていた。
 東宮も、
   「げに、をかしきさましたりけり。
 心なむ、まだなつきがたきは、見馴れぬ人を知るにやあらむ。
 ここなる猫ども、ことに劣らずかし」
 「なるほど、かわいい恰好をしているね。
 性質が、まだなつかないのは、人見知りをするのだろうか。
 ここにいる猫たちも、大して負けないがね」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「これは、さるわきまへ心も、をさをさはべらぬものなれど、その中にも心かしこきは、おのづから魂はべらむかし」など聞こえて、「まさるどもさぶらふめるを、これはしばし賜はり預からむ」  「猫というものは、そのような人見知りは、普通しないものでございますが、その中でも賢い猫は、自然と性根がございますのでしょう」などとお答え申し上げて、「これより勝れている猫が何匹もございますようですから、これは暫くお預かり申しましょう」
   と申したまふ。
 心のうちに、あながちにをこがましく、かつはおぼゆるに、これを尋ね取りて、夜もあたり近く臥せたまふ。
 
 と申し上げなさる。
 心の中では、何とも馬鹿げた事だと、一方ではお考えになるが、この猫を手に入れて、夜もお側近くにお置きなさる。
 
   明け立てば、猫のかしづきをして、撫で養ひたまふ。
 人気遠かりし心も、いとよく馴れて、ともすれば、衣の裾にまつはれ、寄り臥し睦るるを、まめやかにうつくしと思ふ。
 いといたく眺めて、端近く寄り臥したまへるに、来て、「ねう、ねう」と、いとらうたげに鳴けば、かき撫でて、「うたても、すすむかな」と、ほほ笑まる。
 
 夜が明ければ、猫の世話をして、撫でて食事をさせなさる。
 人になつかなかった性質も、とてもよく馴れて、ともすれば、衣服の裾にまつわりついて、側に寝そべって甘えるのを、心からかわいいと思う。
 とてもひどく物思いに耽って、端近くに寄り臥していらっしゃると、やって来て、「ねよう、ねよう」と、とてもかわいらしげに鳴くので、撫でて、「いやに、積極的だな」と、思わず苦笑される。
 
 

483
 「恋ひわぶる 人のかたみと 手ならせば
 なれよ何とて 鳴く音なるらむ
 「恋いわびている人のよすがと思ってかわいがっていると
  どういうつもりでそんな鳴き声を立てるのか
 
   これも昔の契りにや」  これも前世からの縁であろうか」
   と、顔を見つつのたまへば、いよいよらうたげに鳴くを、懐に入れて眺めゐたまへり。
 御達などは、
 と、顔を見ながらおっしゃると、ますますかわいらしく鳴くので、懐に入れて物思いに耽っていらっしゃる。
 御達などは、
   「あやしく、にはかなる猫のときめくかな。
 かやうなるもの見入れたまはぬ御心に」
 「奇妙に、急に猫を寵愛なさるようになったこと。
 このようなものはお好きでなかったご性分なのに」
   と、とがめけり。
 宮より召すにも参らせず、取りこめて、これを語らひたまふ。
 
 と、不審がるのだった。
 宮から返すようにとご催促があってもお返し申さず、独り占めして、この猫を話相手にしていらっしゃる。
 
 
 

第三段 柏木、真木柱姫君には無関心

 
   左大将殿の北の方は、大殿の君たちよりも、右大将の君をば、なほ昔のままに、疎からず思ひきこえたまへり。
 心ばへのかどかどしく、気近くおはする君にて、対面したまふ時々も、こまやかに隔てたるけしきなくもてなしたまへれば、大将も、淑景舎などの、疎々しく及びがたげなる御心ざまのあまりなるに、さま異なる御睦びにて、思ひ交はしたまへり。
 
 左大将殿の北の方は、大殿の君たちよりも、右大将の君を、やはり昔のままに、親しくお思い申し上げていらっしゃった。
 気立てに才気があって、親しみやすくいらっしゃる方なので、お会いなさる時々にも、親身に他人行儀になるところはなくお振る舞いになるので、右大将も、淑景舎などが、他人行儀で近づきがたいお扱いであるので、一風変わったお親しさで、お付き合いしていらっしゃった。
 
   男君、今はまして、かのはじめの北の方をももて離れ果てて、並びなくもてかしづききこえたまふ。
 この御腹には、男君達の限りなれば、さうざうしとて、かの真木柱の姫君を得て、かしづかまほしくしたまへど、祖父宮など、さらに許したまはず、
 夫君は、今では以前にもまして、あの前の北の方とすっかり縁が切れてしまって、並ぶ者がないほど大切にしていらっしゃる。
 このお方の腹には、男のお子たちばかりなので、物足りないと思って、あの真木柱の姫君を引き取って、大切にお世話申したいとお思いになるが、祖父宮などは、どうしてもお許しにならず、
   「この君をだに、人笑へならぬさまにて見む」  「せめてこの姫君だけでも、物笑いにならないように世話しよう」
   と思し、のたまふ。
 
 とお思いになり、おっしゃりもしている。
 
   親王の御おぼえいとやむごとなく、内裏にも、この宮の御心寄せ、いとこよなくて、このことと奏したまふことをば、え背きたまはず、心苦しきものに思ひきこえたまへり。
 おほかたも今めかしくおはする宮にて、この院、大殿にさしつぎたてまつりては、人も参り仕うまつり、世人も重く思ひきこえけり。
 
 親王のご声望はたいそう高く、帝におかせられても、この宮への御信頼は、並々ならぬものがあって、こうと奏上なさることはお断りになることができず、お気づかい申していらっしゃる。
 だいたいのお人柄も現代的でいらっしゃる宮で、こちらの院、大殿にお次ぎ申して、人々もお仕え申し、世間の人々も重々しく申し上げているのであった。
 
   大将も、さる世の重鎮となりたまふべき下形なれば、姫君の御おぼえ、などてかは軽くはあらむ。
 聞こえ出づる人びと、ことに触れて多かれど、思しも定めず。
 衛門督を、「さも、けしきばまば」と思すべかめれど、猫には思ひ落としたてまつるにや、かけても思ひ寄らぬぞ、口惜しかりける。
 
 左大将も、将来の国家の重鎮とおなりになるはずの有力者であるから、姫君のご評判、どうして軽いことがあろうか。
 求婚する人々、何かにつけて大勢いるが、ご決定なさらない。
 衛門督を、「そのような、態度を見せたら」とお思いのようだが、猫ほどにはお思いにならないのであろうか、まったく考えもしないのは、残念なことであった。
 
   母君の、あやしく、なほひがめる人にて、世の常のありさまにもあらず、もて消ちたまへるを、口惜しきものに思して、継母の御あたりをば、心つけてゆかしく思ひて、今めきたる御心ざまにぞものしたまひける。
 
 母君が、どうしたことか、今だに変な方で、普通のお暮らしぶりでなく、廃人同様になっていらっしゃるのを、残念にお思いになって、継母のお側を、いつも心にかけて憧れて、現代的なご気性でいらっしゃっるのだった。
 
 
 

第四段 真木柱、兵部卿宮と結婚

 
   兵部卿宮、なほ一所のみおはして、御心につきて思しけることどもは、皆違ひて、世の中もすさまじく、人笑へに思さるるに、「さてのみやはあまえて過ぐすべき」と思して、このわたりにけしきばみ寄りたまへれば、大宮、  蛍兵部卿宮は、やはり独身生活でいらっしゃって、熱心にお望みになった方々は、皆うまくいかなくて、世の中が面白くなく、世間の物笑いに思われると、「このまま甘んじていられない」とお思いになって、この宮に気持ちをお漏らしになったところ、式部卿大宮は、
   「何かは。
 かしづかむと思はむ女子をば、宮仕へに次ぎては、親王たちにこそは見せたてまつらめ。
 ただ人の、すくよかに、なほなほしきをのみ、今の世の人のかしこくする、品なきわざなり」
 「いや何。
 大切に世話しようと思う娘なら、帝に差し上げる次には、親王たちにめあわせ申すのがよい。
 臣下の、真面目で、無難な人だけを、今の世の人が有り難がるのは、品のない考え方だ」
   とのたまひて、いたくも悩ましたてまつりたまはず、受け引き申したまひつ。
 
 とおっしゃって、そう大してお焦らし申されることなく、ご承諾なさった。
 
   親王、あまり怨みどころなきを、さうざうしと思せど、おほかたのあなづりにくきあたりなれば、えしも言ひすべしたまはで、おはしましそめぬ。
 いと二なくかしづききこえたまふ。
 
 蛍親王は、あまりに口説きがいのないのを、物足りないとお思いになるが、大体が軽んじ難い家柄なので、言い逃れもおできになれず、お通いになるようになった。
 たいそうまたとなく大事にお世話申し上げなさる。
 
   大宮は、女子あまたものしたまひて、  式部卿大宮は、女の子がたくさんいらっしゃって、
   「さまざまもの嘆かしき折々多かるに、物懲りしぬべけれど、なほこの君のことの思ひ放ちがたくおぼえてなむ。
 母君は、あやしきひがものに、年ごろに添へてなりまさりたまふ。
 大将はた、わがことに従はずとて、おろかに見捨てられためれば、いとなむ心苦しき」
 「いろいろと何かにつけ嘆きの種が多いので、懲り懲りしたと思いたいところだが、やはりこの君のことが放っておけなく思えてね。
 母君は、奇妙な変人に年とともになって行かれる。
 大将は大将で、自分の言う通りにしないからと言って、いい加減に見放ちなされたようだから、まことに気の毒である」
   とて、御しつらひをも、立ちゐ、御手づから御覧じ入れ、よろづにかたじけなく御心に入れたまへり。
 
 と言って、お部屋の飾り付けも、立ったり座ったり、ご自身でお世話なさり、すべてにもったいなくも熱心でいらっしゃった。
 
 
 

第五段 兵部卿宮と真木柱の不幸な結婚生活

 
   宮は、亡せたまひにける北の方を、世とともに恋ひきこえたまひて、「ただ、昔の御ありさまに似たてまつりたらむ人を見む」と思しけるに、「悪しくはあらねど、さま変はりてぞものしたまひける」と思すに、口惜しくやありけむ、通ひたまふさま、いともの憂げなり。
 
 宮は、お亡くなりになった北の方を、それ以来ずっと恋い慕い申し上げなさって、「ただ、亡くなった北の方の面影にお似申し上げたような方と結婚しよう」とお思いになっていたが、「悪くはないが、違った感じでいらっしゃる」とお思いになると、残念であったのか、お通いになる様子は、まこと億劫そうである。
 
   大宮、「いと心づきなきわざかな」と思し嘆きたり。
 母君も、さこそひがみたまへれど、うつし心出で来る時は、「口惜しく憂き世」と、思ひ果てたまふ。
 
 式部卿大宮は、「まったく心外なことだ」とお嘆きになっていた。
 母君も、あれほど変わっていらっしゃったが、正気に返る時は、「口惜しい嫌な世の中だ」と、すっかり思いきりなさる。
 
   大将の君も、「さればよ。
 いたく色めきたまへる親王を」と、はじめよりわが御心に許したまはざりしことなればにや、ものしと思ひたまへり。
 
 左大将の君も、「やはりそうであったか。
 ひどく浮気っぽい親王だから」と、はじめからご自身お認めにならなかったことだからであろうか、面白からぬお思いでいらっしゃった。
 
   尚侍の君も、かく頼もしげなき御さまを、近く聞きたまふには、「さやうなる世の中を見ましかば、こなたかなた、いかに思し見たまはまし」など、なまをかしくも、あはれにも思し出でけり。
 
 尚侍の君も、このように頼りがいのないご様子を、身近にお聞きになるにつけ、「そのような方と結婚をしたのだったら、こちらにもあちらにも、どんなにお思いになり御覧になっただろう」などと、少々おかしくも、また懐かしくもお思い出しになるのだった。
 
   「そのかみも、気近く見聞こえむとは、思ひ寄らざりきかし。
 ただ、情け情けしう、心深きさまにのたまひわたりしを、あへなくあはつけきやうにや、聞き落としたまひけむ」と、いと恥づかしく、年ごろも思しわたることなれば、「かかるあたりにて、聞きたまはむことも、心づかひせらるべく」など思す。
 
 「あの当時も、結婚しようとは、考えてもいなかったのだ。
 ただ、いかにも優しく、情愛深くお言葉をかけ続けてくださったのに、張り合いなく軽率なように、お見下しになったであろうか」と、とても恥ずかしく、今までもお思い続けていらっしゃることなので、「あのような近いところで、わたしの噂をお聞きになることも、気をつかわねばならない」などとお思いになる。
 
   これよりも、さるべきことは扱ひきこえたまふ。
 せうとの君たちなどして、かかる御けしきも知らず顔に、憎からず聞こえまつはしなどするに、心苦しくて、もて離れたる御心はなきに、大北の方といふさがな者ぞ、常に許しなく怨じきこえたまふ。
 
 こちらからも、しかるべき事柄はしてお上げになる。
 兄弟の公達などを差し向けて、このようなご夫婦仲も知らない顔をして、親しげにお側に伺わせたりなどするので、気の毒になって、お見捨てになる気持ちはないが、大北の方という性悪な人が、いつも悪口を申し上げなさる。
 
   「親王たちは、のどかに二心なくて、見たまはむをだにこそ、はなやかならぬ慰めには思ふべけれ」  「親王たちは、おとなしく浮気をせず、せめて愛して下さるのが、華やかさがない代わりには思えるのだが」
   とむつかりたまふを、宮も漏り聞きたまひては、「いと聞きならはぬことかな。
 昔、いとあはれと思ひし人をおきても、なほ、はかなき心のすさびは絶えざりしかど、かう厳しきもの怨じは、ことになかりしものを」、
 とぶつぶつおっしゃるのを、宮も漏れお聞きなさっては、「まったく変な話だ。
 昔、とてもいとしく思っていた人を差し置いても、やはり、ちょっとした浮気はいつもしていたが、こう厳しい恨み言は、なかったものを」
   心づきなく、いとど昔を恋ひきこえたまひつつ、故里にうち眺めがちにのみおはします。
 さ言ひつつも、二年ばかりになりぬれば、かかる方に目馴れて、ただ、さる方の御仲にて過ぐしたまふ。
 
 と、気にくわなく、ますます故人をお慕いなさりながら、自邸に物思いに耽りがちでいらっしゃる。
 そうは言いながらも、二年ほどになったので、こうした事にも馴れて、ただ、そのような夫婦仲としてお過ごしになっていらっしゃる。
 
 
 

第二章 光る源氏の物語 住吉参詣

 
 

第一段 冷泉帝の退位

 
   はかなくて、年月もかさなりて、内裏の帝、御位に即かせたまひて、十八年にならせたまひぬ。
 
 これという事もなくて、年月が過ぎて行き、今上の帝、御即位なさってから十八年におなりあそばした。
 
   「嗣の君とならせたまふべき御子おはしまさず、ものの栄なきに、世の中はかなくおぼゆるを、心やすく、思ふ人びとにも対面し、私ざまに心をやりて、のどかに過ぎまほしくなむ」  「後を嗣いで次の帝におなりになる皇子がいらっしゃらず、物寂しい上に、寿命がいつまで続くか分からない気がするので、気楽に、会いたい人たちと会い、私人として思うままに振る舞って、のんびりと過ごしたい」
   と、年ごろ思しのたまはせつるを、日ごろいと重く悩ませたまふことありて、にはかに下りゐさせたまひぬ。
 世の人、「飽かず盛りの御世を、かく逃れたまふこと」と惜しみ嘆けど、春宮もおとなびさせたまひにたれば、うち嗣ぎて、世の中の政事など、ことに変はるけぢめもなかりけり。
 
 と、長年お思いになりおっしゃりもしていたが、最近たいそう重くお悩みあそばすことがあって、急に御退位あそばした。
 世間の人は、「惜しい盛りのお年を、このようにお退きになること」と、惜しみ嘆いたが、東宮もご成人あそばしているので、お嗣ぎになって、世の中の政治など、特別に変わることもなかった。
 
   太政大臣、致仕の表たてまつりて、籠もりゐたまひぬ。
 
 太政大臣は致仕の表を奉って、ご引退なさった。
 
   「世の中の常なきにより、かしこき帝の君も、位を去りたまひぬるに、年深き身の冠を挂けむ、何か惜しからむ」  「世間の無常によって、恐れ多い帝の君も、御位をお下りになったのに、年老いた自分が冠を掛けるのは、何の惜しいことがあろうか」
   と思しのたまひて、左大将、右大臣になりたまひてぞ、世の中の政事仕うまつりたまひける。
 女御の君は、かかる御世をも待ちつけたまはで、亡せたまひにければ、限りある御位を得たまへれど、ものの後ろの心地して、かひなかりけり。
 
 とお考えになりおっしゃって、左大将が、右大臣におなりになって、政務をお勤めになったのであった。
 承香殿女御の君は、このような御世にお会いにならず、お亡くなりになったので、規定のご称号を奉られたが、光の当たらない感じがして、何にもならなかった。
 
   六条の女御の御腹の一の宮、坊にゐたまひぬ。
 さるべきこととかねて思ひしかど、さしあたりてはなほめでたく、目おどろかるるわざなりけり。
 右大将の君、大納言になりたまひぬ。
 いよいよあらまほしき御仲らひなり。
 
 六条院の女御腹の一の宮、東宮におつきになった。
 当然のこととは以前から思っていたが、実現して見るとやはり素晴らしく、目を見張るようなことであった。
 右大将の君、大納言におなりになった。
 ますます理想的なお間柄である。
 
   六条院は、下りゐたまひぬる冷泉院の、御嗣おはしまさぬを、飽かず御心のうちに思す。
 同じ筋なれど、思ひ悩ましき御ことならで、過ぐしたまへるばかりに、罪は隠れて、末の世まではえ伝ふまじかりける御宿世、口惜しくさうざうしく思せど、人にのたまひあはせぬことなれば、いぶせくなむ。
 
 六条院は、御退位あそばした冷泉院が、御後嗣がいらっしゃらないのを、残念なこととご心中ひそかにお思いになる。
 同じ自分の血統であるが、御煩悶なさることなくて、無事にお過ごしなっただけに、罪は現れなかったが、子孫まで皇位を伝えることができなかった御運命を、口惜しく物足りなくお思いになるが、人と話し合えないことなので、気持ちが晴れない。
 
   春宮の女御は、御子たちあまた数添ひたまひて、いとど御おぼえ並びなし。
 源氏の、うち続き后にゐたまふべきことを、世人飽かず思へるにつけても、冷泉院の后は、ゆゑなくて、あながちにかくしおきたまへる御心を思すに、いよいよ六条院の御ことを、年月に添へて、限りなく思ひきこえたまへり。
 
 東宮の母女御は、御子たちが大勢いらっしゃって、ますます御寵愛は並ぶ者がいない。
 源氏が、引き続いて皇后におなりになることを、世間の人は不満に思っているのにつけても、冷泉院の皇后は、格別の理由もないのに、強引にこのようにして下さったお気持ちをお思いになると、ますます六条院の御事を、年月と共に、この上なく有り難くお思い申し上げになっていらっしゃった。
 
   院の帝、思し召ししやうに、御幸も、所狭からで渡りたまひなどしつつ、かくてしも、げにめでたくあらまほしき御ありさまなり。
 
 院の帝は、お考えになっていたように、御幸も、気軽にお出かけなさったりして、御退位後はかえって、確かに素晴らしく申し分ない御生活である。
 
 
 

第二段 六条院の女方の動静

 
   姫宮の御ことは、帝、御心とどめて思ひきこえたまふ。
 おほかたの世にも、あまねくもてかしづかれたまふを、対の上の御勢ひには、えまさりたまはず。
 年月経るままに、御仲いとうるはしく睦びきこえ交はしたまひて、いささか飽かぬことなく、隔ても見えたまはぬものから、
 姫宮の御事は、帝が、御配慮になってお気をつけて差し上げなさる。
 世間の人々からも、広く重んじられていらっしゃるが、対の上のご威勢には、勝ることがおできになれない。
 年月がたつにつれて、ご夫婦仲は互いにたいそうしっくりと睦まじくいらして、少しも不満なところなく、よそよそしさもお見えでないが、
   「今は、かうおほぞうの住まひならで、のどやかに行なひをも、となむ思ふ。
 この世はかばかりと、見果てつる心地する齢にもなりにけり。
 さりぬべきさまに思し許してよ」
 「今は、このような普通の生活ではなく、のんびりと仏道生活に入りたい、と思います。
 この世はこれまでと、すっかり見終えた気がする年齢にもなってしまいました。
 そのようにお許し下さいませ」
   と、まめやかに聞こえたまふ折々あるを、  と、真剣に申し上げなさることが度々あるが、
   「あるまじく、つらき御ことなり。
 みづから、深き本意あることなれど、とまりてさうざうしくおぼえたまひ、ある世に変はらむ御ありさまの、うしろめたさによりこそ、ながらふれ。
 つひにそのこと遂げなむ後に、ともかくも思しなれ」
 「とんでもない、酷いおっしゃりようです。
 わたし自身、強く希望するところですが、後に残って寂しいお気持ちがなさり、今までと違ったようにおなりになるのが、気がかりなばかりに、生き永らえているのです。
 とうとう出家した後に、どうなりとお考え通りになさるがよい」
   などのみ、妨げきこえたまふ。
 
 などとばかり、ご制止申し上げなさる。
 
   女御の君、ただこなたを、まことの御親にもてなしきこえたまひて、御方は隠れがの御後見にて、卑下しものしたまへるしもぞ、なかなか、行く先頼もしげにめでたかりける。
 
 女御の君、ひたすらこちらを、本当の母親のようにお仕え申し上げなさって、御方は蔭のお世話役として、謙遜していらっしゃるのが、かえって、将来頼もしげで、立派な感じであった。
 
   尼君も、ややもすれば、堪へぬよろこびの涙、ともすれば落ちつつ、目をさへ拭ひただして、命長き、うれしげなる例になりてものしたまふ。
 
 尼君も、ややもすれば感激に堪えない喜びの涙、ともすれば、落とし落としして、目まで拭い爛れさせて、長生きした、幸福者の例になっていらっしゃる。
 
 
 

第三段 源氏、住吉に参詣

 
   住吉の御願、かつがつ果たしたまはむとて、春宮女御の御祈りに詣でたまはむとて、かの箱開けて御覧ずれば、さまざまのいかめしきことども多かり。
 
 住吉の神に懸けた御願、そろそろ果たそうとなさって、春宮の女御の御祈願に参詣なさろうとして、あの箱を開けて御覧になると、いろいろな盛大な願文が多かった。
 
   年ごとの春秋の神楽に、かならず長き世の祈りを加へたる願ども、げに、かかる御勢ひならでは、果たしたまふべきこととも思ひおきてざりけり。
 ただ走り書きたる趣きの、才々しくはかばかしく、仏神も聞き入れたまふべき言の葉明らかなり。
 
 毎年の春秋に奏する神楽に、必ず子孫の永遠の繁栄を祈願した願文類が、なるほど、このようなご威勢でなければ果たすことがおできになれないように考えていたのであった。
 ただ走り書きしたような文面で、学識が見え論旨も通り、仏神もお聞き入れになるはずの文意が明瞭である。
 
   「いかでさる山伏の聖心に、かかることどもを思ひよりけむ」と、あはれにおほけなくも御覧ず。
 「さるべきにて、しばしかりそめに身をやつしける、昔の世の行なひ人にやありけむ」など思しめぐらすに、いとど軽々しくも思されざりけり。
 
 「どうしてあのような山伏の聖心で、このような事柄を思いついたのだろう」と、感服し分を過ぎたことだと御覧になる。
 「前世の因縁で、ほんの少しの間、仮に身を変えた前世の修行者であったのだろうか」などとお考えめぐらすと、ますます軽んじることはできなかった。
 
   このたびは、この心をば表はしたまはず、ただ、院の御物詣でにて出で立ちたまふ。
 浦伝ひのもの騒がしかりしほど、そこらの御願ども、皆果たし尽くしたまへれども、なほ世の中にかくおはしまして、かかるいろいろの栄えを見たまふにつけても、神の御助けは忘れがたくて、対の上も具しきこえさせたまひて、詣でさせたまふ、響き世の常ならず。
 いみじくことども削ぎ捨てて、世の煩ひあるまじく、と省かせたまへど、限りありければ、めづらかによそほしくなむ。
 
 今回は、この趣旨は表にお立てにならず、ただ、院の物詣でとしてご出立なさる。
 浦から浦へと流離した事変の当時の数多くの御願は、すっかりお果たしなさったが、やはりこの世にこうお栄えになっていらっしゃって、このようないろいろな栄華を御覧になるにつけても、神の御加護は忘れることができず、対の上もご一緒申し上げなさって、ご参詣あそばす、その評判、大変なものである。
 たいそう儀式を簡略にして、世間に迷惑があってはならないように、と省略なさるが、仕来りがあることゆえ、またとない立派さであった。
 
 
 

第四段 住吉参詣の一行

 
   上達部も、大臣二所をおきたてまつりては、皆仕うまつりたまふ。
 舞人は、衛府の次将どもの、容貌きよげに、丈だち等しき限りを選らせたまふ。
 この選びに入らぬをば恥に、愁へ嘆きたる好き者どもありけり。
 
 上達部も、大臣お二方をお除き申しては、皆お供奉申し上げなさる。
 舞人は、近衛府の中将たちで器量が良くて、背丈の同じ者ばかりをお選びあそばす。
 この選に漏れたことを恥として、悲しみ嘆いている芸熱心の者たちもいるのだった。
 
   陪従も、石清水、賀茂の臨時の祭などに召す人びとの、道々のことにすぐれたる限りを整へさせたまへり。
 加はりたる二人なむ、近衛府の名高き限りを召したりける。
 
 陪従も、岩清水、賀茂の臨時の祭などに召す人々で、諸道に殊に勝れた者ばかりをお揃えになっていらっしゃった。
 それに加わった二人も、近衛府の世間に名高い者ばかりをお召しになっているのだった。
 
   御神楽の方には、いと多く仕うまつれり。
 内裏、春宮、院の殿上人、方々に分かれて、心寄せ仕うまつる。
 数も知らず、いろいろに尽くしたる上達部の御馬、鞍、馬副、随身、小舎人童、次々の舎人などまで、整へ飾りたる見物、またなきさまなり。
 
 御神楽の方には、たいそう数多くの人々がお供申していた。
 帝、東宮、院の殿上人、それぞれに分かれて、進んで御用をお勤めになる。
 その数も知れず、いろいろと善美を尽くした上達部の御馬、鞍、馬添、随身、小舎人童、それ以下の舎人などまで、飾り揃えた見事さは、またとないほどである。
 
   女御殿、対の上は、一つに奉りたり。
 次の御車には、明石の御方、尼君忍びて乗りたまへり。
 女御の御乳母、心知りにて乗りたり。
 方々のひとだまひ、上の御方の五つ、女御殿の五つ、明石の御あかれの三つ、目もあやに飾りたる装束、ありさま、言へばさらなり。
 さるは、
 女御殿と、対の上は、同じお車にお乗りになっていた。
 次のお車には、明石の御方と、尼君がこっそりと乗っていらっしゃった。
 女御の御乳母、事情を知る者として乗っていた。
 それぞれお供の車は、対の上の御方のが五台、女御殿のが五台、明石のご一族のが三台、目も眩むほど美しく飾り立てた衣装、様子は、言うまでもない。
 一方では、
   「尼君をば、同じくは、老の波の皺延ぶばかりに、人めかしくて詣でさせむ」  「尼君をば、どうせなら、老の波の皺が延びるように、立派に仕立てて参詣させよう」
   と、院はのたまひけれど、  と、院はおっしゃったが、
   「このたびは、かくおほかたの響きに立ち交じらむもかたはらいたし。
 もし思ふやうならむ世の中を待ち出でたらば」
 「今回は、このような世を挙げての参詣に加わるのも憚られます。
 もし希望通りの世まで生き永らえていましたら」
   と、御方はしづめたまひけるを、残りの命うしろめたくて、かつがつものゆかしがりて、慕ひ参りたまふなりけり。
 さるべきにて、もとよりかく匂ひたまふ御身どもよりも、いみじかりける契り、あらはに思ひ知らるる人の御ありさまなり。
 
 と、御方はお抑えなさったが、余命が心配で、もう一方では見たくて、付いていらっしゃったのであった。
 前世からの因縁で、もともとこのようにお栄えになるお身の上の方々よりも、まことに素晴らしい幸運が、はっきり分かるご様子の方である。
 
 
 

第五段 住吉社頭の東遊び

 
   十月中の十日なれば、神の斎垣にはふ葛も色変はりて、松の下紅葉など、音にのみ秋を聞かぬ顔なり。
 ことことしき高麗、唐土の楽よりも、東遊の耳馴れたるは、なつかしくおもしろく、波風の声に響きあひて、さる木高き松風に吹き立てたる笛の音も、ほかにて聞く調べには変はりて身にしみ、御琴に打ち合はせたる拍子も、鼓を離れて調へとりたるかた、おどろおどろしからぬも、なまめかしくすごうおもしろく、所からは、まして聞こえけり。
 
 十月の二十日なので、社の玉垣に這う葛も色が変わって、松の下紅葉などは、風の音にだけ秋を聞き知っているのではないというふうである。
 仰々しい高麗、唐土の楽よりも、東遊の耳馴れているのは、親しみやすく美しく、波風の音に響き合って、あの木高い松風に吹き立てる笛の音も、他で聞く調べに変わって身にしみて感じられ、お琴に合わせた拍子も、鼓を用いないで調子をうまく合わせた趣が、大げさなところがないのも、優美でぞっとするほど面白く、場所が場所だけに、いっそう素晴らしく聞こえるのであった。
 
   山藍に摺れる竹の節は、松の緑に見えまがひ、插頭の色々は、秋の草に異なるけぢめ分かれで、何ごとにも目のみまがひいろふ。
 
 山藍で摺り出した竹の模様の衣装は、松の緑に見間違えて、插頭の色とりどりなのは、秋の草と見境がつかず、どれもこれも目先がちらつくばかりである。
 
   「求子」果つる末に、若やかなる上達部は、肩ぬぎて下りたまふ。
 匂ひもなく黒き袍に、蘇芳襲の、葡萄染の袖を、にはかに引きほころばしたるに、紅深き衵の袂の、うちしぐれたるにけしきばかり濡れたる、松原をば忘れて、紅葉の散るに思ひわたさる。
 
 「求子」が終わった後に、若い上達部は、肩脱ぎしてお下りになる。
 光沢のない黒の袍衣から、蘇芳襲で、葡萄染の袖を急に引き出したところ、紅の濃い袙の袂が、はらはらと降りかかる時雨にちょっとばかり濡れたのは、松原であることを忘れて、紅葉が散ったのかと思われる。
 
   見るかひ多かる姿どもに、いと白く枯れたる荻を、高やかにかざして、ただ一返り舞ひて入りぬるは、いとおもしろく飽かずぞありける。
 
 皆見栄えのする容姿で、たいそう白く枯れた荻を、高々と插頭に挿して、ただ一さし舞って入ってしまったのは、実に面白くもっといつまでも見ていたい気がするのであった。
 
 
 

第六段 源氏、往時を回想

 
   大殿、昔のこと思し出でられ、中ごろ沈みたまひし世のありさまも、目の前のやうに思さるるに、その世のこと、うち乱れ語りたまふべき人もなければ、致仕の大臣をぞ、恋しく思ひきこえたまひける。
 
 大殿、昔の事が思い出されて、ひところご辛労なさった当時の有様も、目の前のように思い出されなさるが、その当時の事、遠慮なく語り合える相手もいないので、致仕の大臣を、恋しくお思い申し上げなさるのであった。
 
   入りたまひて、二の車に忍びて、  お入りになって、二の車に目立たないように、
 

484
 「誰れかまた 心を知りて 住吉の
 神代を経たる 松にこと問ふ」
 「わたしの外に誰がまた昔の事情を知って住吉の
  神代からの松に話しかけたりしましょうか」
 
   御畳紙に書きたまへり。
 尼君うちしほたる。
 かかる世を見るにつけても、かの浦にて、今はと別れたまひしほど、女御の君のおはせしありさまなど思ひ出づるも、いとかたじけなかりける身の宿世のほどを思ふ。
 世を背きたまひし人も恋しく、さまざまにもの悲しきを、かつはゆゆしと言忌して、
 御畳紙にお書きになっていた。
 尼君、感涙にむせぶ。
 このような時世を見るにつけても、あの明石の浦で、これが最後とお別れになった時の事、女御の君が御方のお腹に中にいらっしゃった時の様子などを思い出すにつけても、まことにもったいない運勢の程を思う。
 出家なさった方も恋しく、あれこれと物悲しく思われるので、一方では涙は縁起でもないと思い直して言葉を慎んで、
 

485
 「住の江を いけるかひある 渚とは
 年経る尼も 今日や知るらむ」
 「住吉の浜を生きていた甲斐がある渚だと
  年とった尼も今日知ることでしょう」
 
   遅くは便なからむと、ただうち思ひけるままなりけり。
 
 遅くなっては不都合だろうと、ただ思い浮かんだままにお返ししたのであった。
 
 

486
 「昔こそ まづ忘られね 住吉の
 神のしるしを 見るにつけても」
 「昔の事が何よりも忘れられない
  住吉の神の霊験を目の当たりにするにつけても」
 
   と独りごちけり。
 
 とひとり口ずさむのであった。
 
 
 

第七段 終夜、神楽を奏す

 
   夜一夜遊び明かしたまふ。
 二十日の月はるかに澄みて、海の面おもしろく見えわたるに、霜のいとこちたく置きて、松原も色まがひて、よろづのことそぞろ寒く、おもしろさもあはれさも立ち添ひたり。
 
 一晩中神楽を奏して夜をお明かしなさる。
 二十日の月が遥かかなたに澄み照らして、海面が美しく見えわたっているところに、霜がたいそう白く置いて、松原も同じ色に見えて、何もかもが寒気をおぼえる素晴らしさで、風情や情趣の深さも一入に感じられる。
 
   対の上、常の垣根のうちながら、時々につけてこそ、興ある朝夕の遊びに、耳古り目馴れたまひけれ、御門より外の物見、をさをさしたまはず、ましてかく都のほかのありきは、まだ慣らひたまはねば、珍しくをかしく思さる。
 
 対の上は、いつものお邸の内にいらしたまま、季節季節につけて、興趣ある朝夕の遊びに、耳慣れ目馴れていらっしゃったが、御門から外の見物を、めったになさらず、ましてこのような都の外へお出になることは、まだご経験がないので、物珍しく興味深く思わずにはいらっしゃれない。
 
 

487
 「住の江の 松に夜深く 置く霜は
 神の掛けたる 木綿鬘かも」
 「住吉の浜の松に夜深く置く霜は
  神様が掛けた木綿鬘でしょうか」
 
   篁の朝臣の、「比良の山さへ」と言ひける雪の朝を思しやれば、祭の心うけたまふしるしにやと、いよいよ頼もしくなむ。
 女御の君、
 篁朝臣が、「比良の山さえ」と言った雪の朝をお思いやりになると、ご奉納の志をお受けになった証だろうかと、ますます頼もしかった。
 女御の君、
 

488
 「神人の 手に取りもたる 榊葉に
 木綿かけ添ふる 深き夜の霜」
 「神主が手に持った榊の葉に
  木綿を掛け添えた深い夜の霜ですこと」
 
   中務の君、  中務の君、

489
 「祝子が 木綿うちまがひ 置く霜は
 げにいちじるき 神のしるしか」
 「神に仕える人々の木綿鬘と見間違えるほどに置く霜は
  仰せのとおり神の御霊験の証でございましょう」
 
   次々数知らず多かりけるを、何せむにかは聞きおかむ。
 かかるをりふしの歌は、例の上手めきたまふ男たちも、なかなか出で消えして、松の千歳より離れて、今めかしきことなければ、うるさくてなむ。
 
 次々と数え切れないほど多かったのだが、どうして覚えていられようか。
 このような時の歌は、いつもの上手でいらっしゃるような殿方たちも、かえって出来映えがぱっとしないで、松の千歳を祝う決まり文句以外に、目新しい歌はないので、煩わしくて省略した。
 
 
 

第八段 明石一族の幸い

 
   ほのぼのと明けゆくに、霜はいよいよ深くて、本末もたどたどしきまで、酔ひ過ぎにたる神楽おもてどもの、おのが顔をば知らで、おもしろきことに心はしみて、庭燎も影しめりたるに、なほ、「万歳、万歳」と、榊葉を取り返しつつ、祝ひきこゆる御世の末、思ひやるぞいとどしきや。
 
 夜がほのぼのと明けて行くと、霜はいよいよ深く、本方と末方とがその分担もはっきりしなくなるほど、酔い過ぎた神楽面が、自分の顔がどんなになっているか知らないで、面白いことに夢中になって、庭燎も消えかかっているのに、依然として、「万歳、万歳」と、榊の葉を取り直し取り直して、お祝い申し上げる御末々の栄えを、想像するだけでもいよいよめでたい限りである。
 
   よろづのこと飽かずおもしろきままに、千夜を一夜になさまほしき夜の、何にもあらで明けぬれば、返る波にきほふも口惜しく、若き人びと思ふ。
 
 万事が尽きせず面白いまま、千夜の長さをこの一夜の長さにしたいほどの今夜も、何という事もなく明けてしまったので、返る波と先を争って帰るのも残念なことと、若い人々は思う。
 
   松原に、はるばると立て続けたる御車どもの、風にうちなびく下簾の隙々も、常磐の蔭に、花の錦を引き加へたると見ゆるに、袍の色々けぢめおきて、をかしき懸盤取り続きて、もの参りわたすをぞ、下人などは目につきて、めでたしとは思へる。
 
 松原に、遥か遠くまで立て続けた幾台ものお車が、風に靡く下簾の間々も、常磐の松の蔭に、花の錦を引き並べたように見えるが、袍の色々な色が位階の相違を見せて、趣きのある懸盤を取って、次々と食事を一同に差し上げるのを、下人などは目を見張って、立派だと思っている。
 
   尼君の御前にも、浅香の折敷に、青鈍の表折りて、精進物を参るとて、「めざましき女の宿世かな」と、おのがじしはしりうごちけり。
 
 尼君の御前にも、浅香の折敷に、青鈍の表を付けて、精進料理を差し上げるという事で、「驚くほどの女性のご運勢だ」と、それぞれ陰口を言ったのであった。
 
   詣でたまひし道は、ことことしくて、わづらはしき神宝、さまざまに所狭げなりしを、帰さはよろづの逍遥を尽くしたまふ。
 言ひ続くるもうるさく、むつかしきことどもなれば。
 
 御参詣なさった道中は、ものものしいことで、もてあますほどの奉納品が、いろいろと窮屈げにあったが、帰りはさまざまな物見遊山の限りをお尽くしになる。
 それを語り続けるのも煩わしく、厄介な事柄なので。
 
   かかる御ありさまをも、かの入道の、聞かず見ぬ世にかけ離れたうべるのみなむ、飽かざりける。
 難きことなりかし、交じらはましも見苦しくや。
 世の中の人、これを例にて、心高くなりぬべきころなめり。
 よろづのことにつけて、めであさみ、世の言種にて、「明石の尼君」とぞ、幸ひ人に言ひける。
 
 このようなご様子をも、あの入道が、聞こえないまた見えない山奥に離れ去ってしまわれたことだけが、不満に思われた。
 それも難しいことだろう、出てくるのは見苦しいことであろうよ。
 世の中の人は、これを例として、高望みがはやりそうな時勢のようである。
 万事につけて、誉め驚き、世間話の種として、「明石の尼君」と、幸福な人の例に言ったのであった。
 
   かの致仕の大殿の近江の君は、双六打つ時の言葉にも、「明石の尼君、明石の尼君」とぞ、賽は乞ひける。
 
 あの致仕の大殿の近江の君は、双六を打つ時の言葉にも、「明石の尼君、明石の尼君」と言って賽を祈ったのである。
 
 
 

第三章 朱雀院の物語 朱雀院の五十賀の計画

 
 

第一段 女三の宮と紫の上

 
   入道の帝は、御行なひをいみじくしたまひて、内裏の御ことをも聞き入れたまはず。
 春秋の行幸になむ、昔思ひ出でられたまふこともまじりける。
 姫宮の御ことをのみぞ、なほえ思し放たで、この院をば、なほおほかたの御後見に思ひきこえたまひて、うちうちの御心寄せあるべく奏せさせたまふ。
 二品になりたまひて、御封などまさる。
 いよいよはなやかに御勢ひ添ふ。
 
 入道の帝は、仏道に御専心あそばして、内裏の御政道にはいっさいお口をお出しにならない。
 春秋の朝覲の行幸には、昔の事をお思い出しになることもあった。
 姫宮の御事だけを、今でも御心配でいらして、こちらの六条院を、やはり表向きのお世話役としてお思い申し上げなさって、内々の御配慮を下さるべく帝にもお願い申し上げていらっしゃる。
 二品におなりになって、御封なども増える。
 ますます華やかにご威勢も増す。
 
   対の上、かく年月に添へて、かたがたにまさりたまふ御おぼえに、  対の上は、このように年月とともに何かにつけてまさって行かれるご声望に比べて、
   「わが身はただ一所の御もてなしに、人には劣らねど、あまり年積もりなば、その御心ばへもつひに衰へなむ。
 さらむ世を見果てぬさきに、心と背きにしがな」
 「自分自身はただ一人が大事にして下さるお蔭で、他の人には負けないが、あまりに年を取り過ぎたら、そのご愛情もしまいには衰えよう。
 そのような時にならない前に、自分から世を捨てたい」
   と、たゆみなく思しわたれど、さかしきやうにや思さむとつつまれて、はかばかしくもえ聞こえたまはず。
 内裏の帝さへ、御心寄せことに聞こえたまへば、おろかに聞かれたてまつらむもいとほしくて、渡りたまふこと、やうやう等しきやうになりゆく。
 
 と、ずっと思い続けていらっしゃるが、生意気なようにお思いになるだろうと遠慮されて、はっきりとはお申し上げになることができない。
 今上帝までが、御配慮を特別にして上げていらっしゃるので、疎略なと、お耳にあそばすことがあったらお気の毒なので、お通いになることがだんだんと同等になってなって行く。
 
   さるべきこと、ことわりとは思ひながら、さればよとのみ、やすからず思されけれど、なほつれなく同じさまにて過ぐしたまふ。
 春宮の御さしつぎの女一の宮を、こなたに取り分きてかしづきたてまつりたまふ。
 その御扱ひになむ、つれづれなる御夜がれのほども慰めたまひける。
 いづれも分かず、うつくしくかなしと思ひきこえたまへり。
 
 無理もないこと、当然なこととは思いながらも、やはりそうであったのかとばかり、面白からずお思いになるが、やはり素知らぬふうに同じ様にして過ごしていらっしゃる。
 春宮のすぐお下の女一の宮を、こちらに引き取って大切にお世話申し上げていらっしゃる。
 そのご養育に、所在ない殿のいらっしゃらない夜々を気をお紛らしていらっしゃるのだった。
 どちらの宮も区別せず、かわいくいとしいとお思い申し上げていらっしゃった。
 
 
 

第二段 花散里と玉鬘

 
   夏の御方は、かくとりどりなる御孫扱ひをうらやみて、大将の君の典侍腹の君を、切に迎へてぞかしづきたまふ。
 いとをかしげにて、心ばへも、ほどよりはされおよすけたれば、大殿の君もらうたがりたまふ。
 少なき御嗣と思ししかど、末に広ごりて、こなたかなたいと多くなり添ひたまふを、今はただ、これをうつくしみ扱ひたまひてぞ、つれづれも慰めたまひける。
 
 夏の御方は、このようなあれこれのお孫たちのお世話を羨んで、大将の君の典侍腹のお子を、ぜひにと引き取ってお世話なさる。
 とてもかわいらしげで、気立ても、年のわりには利発でしっかりしているので、大殿の君もおかわいがりになる。
 数少ないお子だとお思いであったが、孫は大勢できて、あちらこちらに数多くおなりになったので、今はただ、これらをかわいがり世話なさることで、退屈さを紛らしていらっしゃるのであった。
 
   右の大殿の参り仕うまつりたまふこと、いにしへよりもまさりて親しく、今は北の方もおとなび果てて、かの昔のかけかけしき筋思ひ離れたまふにや、さるべき折も渡りまうでたまふ。
 対の上にも御対面ありて、あらまほしく聞こえ交はしたまひけり。
 
 右の大殿が参上してお仕えなさることは、昔以上に親密になって、今では北の方もすっかり落ち着いたお年となって、あの昔の色めかしい事は思い諦めたのであろうか、適当な機会にはよくお越しになる。
 対の上ともお会いになって、申し分ない交際をなさっているのであった。
 
   姫宮のみぞ、同じさまに若くおほどきておはします。
 女御の君は、今は公ざまに思ひ放ちきこえたまひて、この宮をばいと心苦しく、幼からむ御女のやうに、思ひはぐくみたてまつりたまふ。
 
 姫宮だけが、同じように若々しくおっとりしていらっしゃる。
 女御の君は、今は主上にすべてお任せ申し上げなさって、この姫宮をたいそう心に懸けて、幼い娘のように思ってお世話申し上げていらっしゃる。
 
 
 

第三段 朱雀院の五十の賀の計画

 
   朱雀院の、  朱雀院が、
   「今はむげに世近くなりぬる心地して、もの心細きを、さらにこの世のこと顧みじと思ひ捨つれど、対面なむ今一度あらまほしきを、もし恨み残りもこそすれ、ことことしきさまならで渡りたまふべく」、  「今はすっかり死期が近づいた心地がして、何やら心細いが、決してこの世のことは気に懸けまいと思い捨てたが、もう一度だけお会いしたく思うが、もし未練でも残ったら大変だから、大げさにではなくお越しになるように」
   聞こえたまひければ、大殿も、  と、お便り申し上げなさったので、大殿も、
   「げに、さるべきことなり。
 かかる御けしきなからむにてだに、進み参りたまふべきを。
 まして、かう待ちきこえたまひけるが、心苦しきこと」
 「なるほど、仰せの通りだ。
 このような御内意が仮になくてさえ、こちらから進んで参上なさるべきことだ。
 なおさらのこと、このようにお待ちになっていらっしゃるとは、おいたわしいことだ」
   と、参りたまふべきこと思しまうく。
 
 と、ご訪問なさるべきことをご準備なさる。
 
   「ついでなく、すさまじきさまにてやは、はひ渡りたまふべき。
 何わざをしてか、御覧ぜさせたまふべき」
 「何のきっかけもなく、取り立てた趣向もなくては、どうして簡単にお出かけになれようか。
 どのようなことをして、御覧に入れたらよかろうか」
   と、思しめぐらす。
 
 と、ご思案なさる。
 
   「このたび足りたまはむ年、若菜など調じてや」と、思して、さまざまの御法服のこと、斎の御まうけのしつらひ、何くれとさまことに変はれることどもなれば、人の御心しつらひども入りつつ、思しめぐらす。
 
 「来年ちょうどにお達しになる年に、若菜などを調進してお祝い申し上げようか」と、お考えになって、いろいろな御法服のこと、精進料理のご準備、何やかやと勝手が違うことなので、ご夫人方のお智恵も取り入れてお考えになる。
 
   いにしへも、遊びの方に御心とどめさせたまへりしかば、舞人、楽人などを、心ことに定め、すぐれたる限りをととのへさせたまふ。
 右の大殿の御子ども二人、大将の御子、典侍の腹の加へて三人、まだ小さき七つより上のは、皆殿上せさせたまふ。
 兵部卿宮の童孫王、すべてさるべき宮たちの御子ども、家の子の君たち、皆選び出でたまふ。
 
 御出家以前にも、音楽の方面には御関心がおありでいらっしゃったので、舞人、楽人などを、特別に選考し、勝れた人たちだけをお揃えあそばす。
 右の大殿のお子たち二人、大将のお子は、典侍腹の子を加えて三人、まだ小さい七歳以上の子は、皆童殿上させなさる。
 兵部卿宮の童孫王、すべてしかるべき宮家のお子たちや、良家のお子たち、皆お選び出しになる。
 
   殿上の君達も、容貌よく、同じき舞の姿も、心ことなるべきを定めて、あまたの舞のまうけをせさせたまふ。
 いみじかるべきたびのこととて、皆人心を尽くしたまひてなむ。
 道々のものの師、上手、暇なきころなり。
 
 殿上の君たちも、器量が良く、同じ舞姿と言っても、また格別な人を選んで、多くの舞の準備をおさせになる。
 大層なこの度の催しとあって、誰も皆懸命に練習に励んでいらっしゃる。
 その道々の師匠、名人が、大忙しのこのごろである。
 
 
 

第四段 女三の宮に琴を伝授

 
   宮は、もとより琴の御琴をなむ習ひたまひけるを、いと若くて院にもひき別れたてまつりたまひしかば、おぼつかなく思して、  姫宮は、もともと琴の御琴をお習いであったが、とても小さい時に父院にお別れ申されたので、気がかりにお思いになって、
   「参りたまはむついでに、かの御琴の音なむ聞かまほしき。
 さりとも琴ばかりは弾き取りたまひつらむ」
 「お越しになる機会に、あの御琴の音をぜひ聞きたいものだ。
 いくら何でも琴だけは物になさったことだろう」
   と、しりうごとに聞こえたまひけるを、内裏にも聞こし召して、  と、陰で申されなさったのを、帝におかせられてもお耳にあそばして、
   「げに、さりとも、けはひことならむかし。
 院の御前にて、手尽くしたまはむついでに、参り来て聞かばや」
 「仰せの通り、何と言っても、格別のご上達でしょう。
 院の御前で、奥義をお弾きなさる機会に、参上して聞きたいものだ」
   などのたまはせけるを、大殿の君は伝へ聞きたまひて、  などと仰せになったのを、大殿の君は伝え聞きなさって、
   「年ごろさりぬべきついでごとには、教へきこゆることもあるを、そのけはひは、げにまさりたまひにたれど、まだ聞こし召しどころあるもの深き手には及ばぬを、何心もなくて参りたまへらむついでに、聞こし召さむとゆるしなくゆかしがらせたまはむは、いとはしたなかるべきことにも」  「今までに適当な機会があるたびに、お教え申したことはあるが、その腕前は、確かに上達なさったが、まだお聞かせできるような深みのある技術には達していないのを、何の準備もなくて参上した機会に、お聞きあそばしたいと強くお望みあそばしたら、とてもきっときまり悪い思いをすることになりはせぬか」
   と、いとほしく思して、このころぞ御心とどめて教へきこえたまふ。
 
 と、気の毒にお思いになって、ここのところご熱心にお教え申し上げなさる。
 
   調べことなる手、二つ三つ、おもしろき大曲どもの、四季につけて変はるべき響き、空の寒さぬるさをととのへ出でて、やむごとなかるべき手の限りを、取り立てて教へきこえたまふに、心もとなくおはするやうなれど、やうやう心得たまふままに、いとよくなりたまふ。
 
 珍しい曲目、二つ三つ、面白い大曲類で、四季につれて変化するはずの響き、空気の寒さ温かさをその音色によって調え出して、高度な技術のいる曲目ばかりを、特別にお教え申し上げになるが、気がかりなようでいらっしゃるが、だんだんと習得なさるにつれて、大変上手におなりになる。
 
   「昼は、いと人しげく、なほ一度も揺し按ずる暇も、心あわたたしければ、夜々なむ、静かにことの心もしめたてまつるべき」  「昼間は、たいそう人の出入りが多く、やはり絃を一度揺すって音をうねらせる間も、気ぜわしいので、夜な夜なに、静かに奏法の勘所をじっくりとお教え申し上げよう」
   とて、対にも、そのころは御暇聞こえたまひて、明け暮れ教へきこえたまふ。
 
 と言って、対の上にも、そのころはお暇申されて、朝から晩までお教え申し上げなさる。
 
 
 

第五段 明石女御、懐妊して里下り

 
   女御の君にも、対の上にも、琴は習はしたてまつりたまはざりければ、この折、をさをさ耳馴れぬ手ども弾きたまふらむを、ゆかしと思して、女御も、わざとありがたき御暇を、ただしばしと聞こえたまひてまかでたまへり。
 
 女御の君にも、対の上にも、琴の琴はお習わせ申されなかったので、この機会に、めったに耳にすることのない曲目をお弾きになっていらっしゃるらしいのを、聞きたいとお思いになって、女御も、特別にめったにないお暇を、ただ少しばかりお願い申し上げなさって御退出なさっていた。
 
   御子二所おはするを、またもけしきばみたまひて、五月ばかりにぞなりたまへれば、神事などにことづけておはしますなりけり。
 十一日過ぐしては、参りたまふべき御消息うちしきりあれど、かかるついでに、かくおもしろき夜々の御遊びをうらやましく、「などて我に伝へたまはざりけむ」と、つらく思ひきこえたまふ。
 
 お子様がお二方いらっしゃるが、再びご懐妊なさって、五か月ほどにおなりだったので、神事にかこつけてお里下がりしていらっしゃるのであった。
 十一日が過ぎたら、参内なさるようにとのお手紙がしきりにあるが、このような機会に、このように面白い毎夜の音楽の遊びが羨ましくて、「どうしてわたしにはご伝授して下さらなかったのだろう」と、恨めしくお思い申し上げなさる。
 
   冬の夜の月は、人に違ひてめでたまふ御心なれば、おもしろき夜の雪の光に、折に合ひたる手ども弾きたまひつつ、さぶらふ人びとも、すこしこの方にほのめきたるに、御琴どもとりどりに弾かせて、遊びなどしたまふ。
 
 冬の夜の月は、人とは違ってご賞美なさるご性分なので、美しい雪の夜の光に、季節に合った曲目類をお弾きになりながら、伺候する女房たちも、少しはこの方面に心得のある者に、お琴類をそれぞれ弾かせて、管弦の遊びをなさる。
 
   年の暮れつ方は、対などにはいそがしく、こなたかなたの御いとなみに、おのづから御覧じ入るることどもあれば、  年の暮れ方は、対の上などは忙しく、あちらこちらのご準備で、自然とお指図なさる事柄があるので、
   「春のうららかならむ夕べなどに、いかでこの御琴の音聞かむ」  「春のうららかな夕方などに、ぜひにこのお琴の音色を聞きたい」
   とのたまひわたるに、年返りぬ。
 
 とおっしゃり続けているうちに、年が改まった。
 
 
 

第六段 朱雀院の御賀を二月十日過ぎと決定

 
   院の御賀、まづ朝廷よりせさせたまふことどもこちたきに、さしあひては便なく思されて、すこしほど過ごしたまふ。
 二月十余日と定めたまひて、楽人、舞人など参りつつ、御遊び絶えず。
 
 朱雀院の五十の御賀は、まず今上の帝のあそばすことがたいそう盛大であろうから、それに重なっては不都合だとお思いになって、少し日を遅らせなさる。
 二月十日過ぎとお決めになって、楽人や、舞人などが参上しては、合奏が続く。
 
   「この対に、常にゆかしくする御琴の音、いかでかの人びとの箏、琵琶の音も合はせて、女楽試みさせむ。
 ただ今のものの上手どもこそ、さらにこのわたりの人びとの御心しらひどもにまさらね。
 
 「こちらの対の上が、いつも聞きたがっているお琴の音色を、ぜひとも他の方々の箏の琴や、琵琶の音色も合わせて、女楽を試みてみたい。
 ただ最近の音楽の名人たちは、この院の御方々のお嗜みのほどにはかないませんね。
 
   はかばかしく伝へ取りたることは、をさをさなけれど、何ごとも、いかで心に知らぬことあらじとなむ、幼きほどに思ひしかば、世にあるものの師といふ限り、また高き家々の、さるべき人の伝へどもをも、残さず試みし中に、いと深く恥づかしきかなとおぼゆる際の人なむなかりし。
 
 きちんと伝授を受けたことは、ほとんどありませんが、どのようなことでも、何とかして知らないことがないようにと、子供の時に思ったので、世間にいる道々の師匠は全部、また高貴な家々の、しかるべき人の伝えをも残さず受けてみた中で、とても造詣が深くてこちらが恥じ入るように思われた人はいませんでした。
 
   そのかみよりも、またこのころの若き人びとの、されよしめき過ぐすに、はた浅くなりにたるべし。
 琴はた、まして、さらにまねぶ人なくなりにたりとか。
 この御琴の音ばかりだに伝へたる人、をさをさあらじ」
 その当時から、また最近の若い人々が、風流で気取り過ぎているので、全く浅薄になったのでしょう。
 琴の琴は、琴の琴で、他の楽器以上に全然稽古する人がなくなってしまったとか。
 あなたの御琴の音色ほどにさえも習い伝えている人は、ほとんどありますまい」
   とのたまへば、何心なくうち笑みて、うれしく、「かくゆるしたまふほどになりにける」と思す。
 
 とおっしゃると、無邪気にほほ笑んで、嬉しくなって、「このようにお認めになるほどになったのか」とお思いになる。
 
   二十一、二ばかりになりたまへど、なほいといみじく片なりに、きびはなる心地して、細くあえかにうつくしくのみ見えたまふ。
 
 二十一、二歳ほどにおなりになりだが、まだとても幼げで、未熟な感じがして、ほっそりと弱々しく、ただかわいらしくばかりお見えになる。
 
   「院にも見えたてまつりたまはで、年経ぬるを、ねびまさりたまひにけりと御覧ずばかり、用意加へて見えたてまつりたまへ」  「院にもお目にかかりなさらないで、何年にもなったが、ご成人なさったと御覧いただけるように、一段と気をつけてお会い申し上げなさい」
   と、ことに触れて教へきこえたまふ。
 
 と、何かの機会につけてお教え申し上げなさる。
 
   「げに、かかる御後見なくては、ましていはけなくおはします御ありさま、隠れなからまし」  「なるほど、このようなご後見役がいなくては、まして幼そうにいらっしゃいますご様子、隠れようもなかろう」
   と、人びとも見たてまつる。
 
 と、女房たちも拝見する。
 
 
 

第四章 光る源氏の物語 六条院の女楽

 
 

第一段 六条院の女楽

 
   正月二十日ばかりになれば、空もをかしきほどに、風ぬるく吹きて、御前の梅も盛りになりゆく。
 おほかたの花の木どもも、皆けしきばみ、霞みわたりにけり。
 
 正月二十日ほどなので、空模様もうららかで、風がなま温かく吹いて、御前の梅の花も盛りになって行く。
 たいていの花の木も、みな蕾がふくらんで、一面に霞んでいた。
 
   「月たたば、御いそぎ近く、もの騒がしからむに、掻き合はせたまはむ御琴の音も、試楽めきて人言ひなさむを、このころ静かなるほどに試みたまへ」  「来月になったら、ご準備が近づいて、何かと騒がしかろうから、合奏なさる琴の音色も、試楽のように人が噂するだろうから、今の静かなころに合奏なさってごらんなさい」
   とて、寝殿に渡したてまつりたまふ。
 
 とおっしゃって、寝殿にお迎え申し上げなさる。
 
   御供に、我も我もと、ものゆかしがりて、参う上らまほしがれど、こなたに遠きをば、選りとどめさせたまひて、すこしねびたれど、よしある限り選りてさぶらはせたまふ。
 
 お供に、わたしもわたしもと、合奏を聞きたく参上したがるが、音楽の方面に疎い者は、残させなさって、すこし年は取っていても、心得のある者だけを選んで伺候させなさる。
 
   童女は、容貌すぐれたる四人、赤色に桜の汗衫、薄色の織物の衵、浮紋の表の袴、紅の擣ちたる、さま、もてなしすぐれたる限りを召したり。
 女御の御方にも、御しつらひなど、いとどあらたまれるころのくもりなきに、おのおの挑ましく、尽くしたるよそほひども、鮮やかに二なし。
 
 女童は、器量の良い四人、赤色の表着に桜襲の汗衫、薄紫色の織紋様の袙、浮紋の上の袴に、紅の打ってある衣装で、容姿、態度などのすぐれている者たちだけをお召しになっていた。
 女御の御方にも、お部屋の飾り付けなど、常より一層に改めたころの明るさなので、それぞれ競争し合って、華美を尽くしている衣装、鮮やかなこと、またとない。
 
   童は、青色に蘇芳の汗衫、唐綾の表の袴、衵は山吹なる唐の綺を、同じさまに調へたり。
 明石の御方のは、ことことしからで、紅梅二人、桜二人、青磁の限りにて、衵濃く薄く、擣目などえならで着せたまへり。
 
 童は、青色の表着に蘇芳の汗衫、唐綾の表袴、袙は山吹色の唐の綺を、お揃いで着ていた。
 明石の御方のは、仰々しくならず、紅梅襲が二人、桜襲が二人、いずれも青磁色ばかりで、袙は濃紫や薄紫、打目の模様が何とも言えず素晴らしいのを着せていらっしゃった。
 
   宮の御方にも、かく集ひたまふべく聞きたまひて、童女の姿ばかりは、ことにつくろはせたまへり。
 青丹に柳の汗衫、葡萄染の衵など、ことに好ましくめづらしきさまにはあらねど、おほかたのけはひの、いかめしく気高きことさへ、いと並びなし。
 
 宮の御方でも、このようにお集まりになるとお聞きになって、女童の容姿だけは特別に整えさせていらっしゃった。
 青丹の表着に柳襲の汗衫、葡萄染の袙など、格別趣向を凝らして目新しい様子ではないが、全体の雰囲気が、立派で気品があることまでが、まことに並ぶものがない。
 
 
 

第二段 孫君たちと夕霧を召す

 
   廂の中の御障子を放ちて、こなたかなた御几帳ばかりをけぢめにて、中の間は、院のおはしますべき御座よそひたり。
 今日の拍子合はせには童べを召さむとて、右の大殿の三郎、尚侍の君の御腹の兄君、笙の笛、左大将の御太郎、横笛と吹かせて、簀子にさぶらはせたまふ。
 
 廂の中の御障子を取り外して、あちらとこちらと御几帳だけを境にして、中の間には、院がお座りになるための御座所を設けてあった。
 今日の拍子合わせの役には、子供を召そうとして、右の大殿の三郎君、尚侍の君の御腹の兄君、笙の笛、左大将の御太郎君、横笛と吹かせて、簀子に伺候させなさる。
 
   内には、御茵ども並べて、御琴ども参り渡す。
 秘したまふ御琴ども、うるはしき紺地の袋どもに入れたる取り出でて、明石の御方に琵琶、紫の上に和琴、女御の君に箏の御琴、宮には、かくことことしき琴はまだえ弾きたまはずやと、あやふくて、例の手馴らしたまへるをぞ、調べてたてまつりたまふ。
 
 内側には御褥をいくつも並べて、お琴を御方々に差し上げる。
 秘蔵の御琴類を、いくつもの立派な紺地の袋に入れてあるのを取り出して、明石の御方に琵琶、紫の上に和琴、女御の君に箏のお琴、宮には、このような仰々しい琴はまだお弾きになれないかと、心配なので、いつもの手馴れていらっしゃる琴を調絃して差し上げなさる。
 
   「箏の御琴は、ゆるぶとなけれど、なほ、かく物に合はする折の調べにつけて、琴柱の立処乱るるものなり。
 よくその心しらひ調ふべきを、女はえ張りしづめじ。
 なほ、大将をこそ召し寄せつべかめれ。
 この笛吹ども、まだいと幼げにて、拍子調へむ頼み強からず」
 「箏のお琴は、弛むというわけではないが、やはり、このように合奏する時の調子によって、琴柱の位置がずれるものだ。
 よくその点を考慮すべきだが、女性の力ではしっかりと張ることはできまい。
 やはり、大将を呼んだ方がよさそうだ。
 この笛吹く人たちも、まだ幼いようで、拍子を合わせるには頼りにならない」
   と笑ひたまひて、  とお笑いになって、
   「大将、こなたに」  「大将、こちらに」
   と召せば、御方々恥づかしく、心づかひしておはす。
 明石の君を放ちては、いづれも皆捨てがたき御弟子どもなれば、御心加へて、大将の聞きたまはむに、難なかるべくと思す。
 
 とお呼びになるので、御方々はきまり悪く思って、緊張していらっしゃる。
 明石の君を除いては、どなたも皆捨てがたいお弟子たちなので、お気を遣われて、大将がお聞きになるので、難点がないようにとお思いになる。
 
   「女御は、常に上の聞こし召すにも、物に合はせつつ弾きならしたまへれば、うしろやすきを、和琴こそ、いくばくならぬ調べなれど、あと定まりたることなくて、なかなか女のたどりぬべけれ。
 春の琴の音は、皆掻き合はするものなるを、乱るるところもや」
 「女御は、ふだん主上がお聞きあそばすにも、楽器に合わせながら弾き馴れていらっしゃるので、安心だが、和琴は、たいして変化のない音色なのだが、奏法に決まった型がなくて、かえって女性は弾き方にまごつくに違いないのだ。
 春の琴の音色は、おおよそ合奏して聞くものであるから、他の楽器と合わないところが出て来ようかしら」
   と、なまいとほしく思す。
 
 と、何となく気がかりにお思いになる。
 
 
 

第三段 夕霧、箏を調絃す

 
   大将、いといたく心懸想して、御前のことことしく、うるはしき御試みあらむよりも、今日の心づかひは、ことにまさりておぼえたまへば、あざやかなる御直衣、香にしみたる御衣ども、袖いたくたきしめて、引きつくろひて参りたまふほど、暮れ果てにけり。
 
 大将は、とてもたいそう緊張して、御前での大がかりな、改まった御試楽以上に、今日の気づかいは、格別に勝って思われなさったので、鮮やかなお直衣に、香のしみたいく重ものお召し物で、袖に特に香をたきしめて、化粧して参上なさるころ、日はすっかり暮れてしまった。
 
   ゆゑあるたそかれ時の空に、花は去年の古雪思ひ出でられて、枝もたわむばかり咲き乱れたり。
 ゆるるかにうち吹く風に、えならず匂ひたる御簾の内の香りも吹き合はせて、鴬誘ふつまにしつべく、いみじき御殿のあたりの匂ひなり。
 御簾の下より、箏の御琴のすそ、すこしさし出でて、
 趣深い夕暮の空に、花は去年の古雪を思い出されて、枝も撓むほどに咲き乱れている。
 緩やかに吹く風に、何とも言えず素晴らしく匂っている御簾の内側の薫りも一緒に漂って、鴬を誘い出すしるべにできそうな、たいそう素晴らしい御殿近辺の匂いである。
 御簾の下から箏のお琴の裾、少しさし出して、
   「軽々しきやうなれど、これが緒調へて、調べ試みたまへ。
 ここにまた疎き人の入るべきやうもなきを」
 「失礼なようですが、この絃を調節して、みてやって下さい。
 ここには他の親しくない人を入れることはできないものですから」
   とのたまへば、うちかしこまりて賜はりたまふほど、用意多くめやすくて、「壱越調」の声に発の緒を立てて、ふとも調べやらでさぶらひたまへば、  とおっしゃると、礼儀正しくお受け取りになる態度、心づかいも行き届いていて立派で、「壱越調」の音に発の緒を合わせて、すぐには弾き始めずに控えていらっしゃるので、
   「なほ、掻き合はせばかりは、手一つ、すさまじからでこそ」  「やはり、調子合わせの曲ぐらいは、一曲、興をそがない程度に」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「さらに、今日の御遊びのさしいらへに、交じらふばかりの手づかひなむ、おぼえずはべりける」  「まったく、今日の演奏会のお相手に、仲間入りできるような腕前では、ございませんから」
   と、けしきばみたまふ。
 
 と、思わせぶりな態度をなさる。
 
   「さもあることなれど、女楽にえことまぜでなむ逃げにけると、伝はらむ名こそ惜しけれ」  「もっともな言い方だが、女楽の相手もできずに逃げ出したと、噂される方が不名誉だぞ」
   とて笑ひたまふ。
 
 と言ってお笑いになる。
 
   調べ果てて、をかしきほどに掻き合はせばかり弾きて、参らせたまひつ。
 この御孫の君達の、いとうつくしき宿直姿どもにて、吹き合はせたる物の音ども、まだ若けれど、生ひ先ありて、いみじくをかしげなり。
 
 調絃を終わって、興をそそる程度に調子合わせだけを弾いて、差し上げなさった。
 このお孫の君たちが、とてもかわいらしい宿直姿で、笛を吹き合わせている音色は、まだ幼い感じだが、将来性があって、素晴らしく聞こえる。
 
 
 

第四段 女四人による合奏

 
   御琴どもの調べども調ひ果てて、掻き合はせたまへるほど、いづれとなき中に、琵琶はすぐれて上手めき、神さびたる手づかひ、澄み果てておもしろく聞こゆ。
 
 それぞれのお琴の調絃が終わって、合奏なさる時、どれも皆優劣つけがたい中で、琵琶は特別上手という感じで、神々しい感じの弾き方、音色が澄みきって美しく聞こえる。
 
   和琴に、大将も耳とどめたまへるに、なつかしく愛敬づきたる御爪音に、掻き返したる音の、めづらしく今めきて、さらにこのわざとある上手どもの、おどろおどろしく掻き立てたる調べ調子に劣らず、にぎははしく、「大和琴にもかかる手ありけり」と聞き驚かる。
 深き御労のほどあらはに聞こえて、おもしろきに、大殿御心落ちゐて、いとありがたく思ひきこえたまふ。
 
 和琴に、大将も耳を留めていらっしゃるが、やさしく魅力的な爪弾きに、掻き返した音色が、珍しく当世風で、まったくこの頃名の通った名人たちが、ものものしく掻き立てた曲や調子に負けず、華やかで、「大和琴にもこのような弾き方があったのか」と感嘆される。
 深いお嗜みのほどがはっきりと分かって、素晴らしいので、大殿はご安心なさって、またとない方だとお思い申し上げなさる。
 
   箏の御琴は、ものの隙々に、心もとなく漏り出づる物の音がらにて、うつくしげになまめかしくのみ聞こゆ。
 
 箏のお琴は、他の楽器の音色の合間合間に、頼りなげに時々聞こえて来るといった性質の音色のものなので、可憐で優美一筋に聞こえる。
 
   琴は、なほ若き方なれど、習ひたまふ盛りなれば、たどたどしからず、いとよくものに響きあひて、「優になりにける御琴の音かな」と、大将聞きたまふ。
 拍子とりて唱歌したまふ。
 院も、時々扇うち鳴らして、加へたまふ御声、昔よりもいみじくおもしろく、すこしふつつかに、ものものしきけ添ひて聞こゆ。
 大将も、声いとすぐれたまへる人にて、夜の静かになりゆくままに、言ふ限りなくなつかしき夜の御遊びなり。
 
 琴の琴は、やはり未熟ではあるが、習っていらっしゃる最中なので、あぶなげなく、たいそう良く他の楽器の音色に響き合って、「随分と上手になったお琴の音色だな」と、大将はお聞きになる。
 拍子をとって唱歌なさる。
 院も、時々扇を打ち鳴らして、一緒に唱歌なさるお声、昔よりもはるかに美しく、少し声が太く堂々とした感じが加わって聞こえる。
 大将も、声はたいそう勝れていらっしゃる方で、夜が静かになって行くにつれて、何とも言いようのない優雅な夜の音楽会である。
 
 
 

第五段 女四人を花に喩える

 
   月心もとなきころなれば、灯籠こなたかなたに懸けて、火よきほどに灯させたまへり。
 
 月の出が遅いころなので、灯籠をあちらこちらに懸けて、明かりを調度良い具合に灯させていらっしゃった。
 
   宮の御方を覗きたまへれば、人よりけに小さくうつくしげにて、ただ御衣のみある心地す。
 匂ひやかなる方は後れて、ただいとあてやかにをかしく、二月の中の十日ばかりの青柳の、わづかに枝垂りはじめたらむ心地して、鴬の羽風にも乱れぬべく、あえかに見えたまふ。
 
 宮の御方をお覗きになると、他の誰よりも一段と小さくかわいらしげで、ただお召し物だけがあるという感じがする。
 つややかな美しさは劣るが、ただとても上品に美しく、二月の二十日頃の青柳が、ようやく枝垂れ始めたような感じがして、鴬の羽風にも乱れてしまいそうなくらい、弱々しい感じにお見えになる。
 
   桜の細長に、御髪は左右よりこぼれかかりて、柳の糸のさましたり。
 
 桜襲の細長に、御髪は左右からこぼれかかって、柳の糸のようであった。
 
   「これこそは、限りなき人の御ありさまなめれ」と見ゆるに、女御の君は、同じやうなる御なまめき姿の、今すこし匂ひ加はりて、もてなしけはひ心にくく、よしあるさましたまひて、よく咲きこぼれたる藤の花の、夏にかかりて、かたはらに並ぶ花なき、朝ぼらけの心地ぞしたまへる。
 
 「この方こそは、この上ないご身分の方のご様子というものだろう」と見えるが、女御の君は、同じような優美なお姿で、もう少し生彩があって、態度や雰囲気が奥ゆかしく、風情のあるご様子でいらっしゃって、美しく咲きこぼれている藤の花が、夏に咲きかかって、他に並ぶ花がない、朝日に輝いているような感じでいらっしゃった。
 
   さるは、いとふくらかなるほどになりたまひて、悩ましくおぼえたまひければ、御琴もおしやりて、脇息におしかかりたまへり。
 ささやかになよびかかりたまへるに、御脇息は例のほどなれば、およびたる心地して、ことさらに小さく作らばやと見ゆるぞ、いとあはれげにおはしける。
 
 とは言え、とてもふっくらとしたころにおなりになって、ご気分もすぐれない時期でいらっしゃったので、お琴も押しやって、脇息に寄りかかっていらっしゃった。
 小柄なお身体でなよなよとしていらっしゃるが、ご脇息は並の大きさなので、無理に背伸びしている感じで、特別に小さく作って上げたいと見えるのが、とてもおかわいらしげにお見えになるのであった。
 
   紅梅の御衣に、御髪のかかりはらはらときよらにて、火影の御姿、世になくうつくしげなるに、紫の上は、葡萄染にやあらむ、色濃き小袿、薄蘇芳の細長に、御髪のたまれるほど、こちたくゆるるかに、大きさなどよきほどに、様体あらまほしく、あたりに匂ひ満ちたる心地して、花といはば桜に喩へても、なほものよりすぐれたるけはひ、ことにものしたまふ。
 
 紅梅襲のお召物に、お髪がかかってさらさらと美しくて、灯台の光に映し出されたお姿、またとなくかわいらしげだが、紫の上は、葡萄染であろうか、色の濃い小袿に、薄蘇芳襲の細長で、お髪がたまっている様子、たっぷりとゆるやかで、背丈などちょうど良いぐらいで、姿形は申し分なく、辺り一面に美しさが満ちあふれている感じがして、花と言ったら桜に喩えても、やはり衆に抜ん出た様子、格別の風情でいらっしゃる。
 
   かかる御あたりに、明石はけ圧さるべきを、いとさしもあらず、もてなしなどけしきばみ恥づかしく、心の底ゆかしきさまして、そこはかとなくあてになまめかしく見ゆ。
 
 このような方々の中で、明石は圧倒されてしまうところだが、まったくそのようなことはなく、態度なども意味ありげにこちらが恥ずかしくなるくらいで、心の底を覗いてみたいほどの深い様子で、どことなく上品で優雅に見える。
 
   柳の織物の細長、萌黄にやあらむ、小袿着て、羅の裳のはかなげなる引きかけて、ことさら卑下したれど、けはひ、思ひなしも、心にくくあなづらはしからず。
 
 柳の織物の細長に、萌黄であろうか、小袿を着て、羅の裳の目立たないのを付けて、特に卑下していたが、その様子、そうと思うせいもあって、立派で軽んじられない。
 
   高麗の青地の錦の端さしたる茵に、まほにもゐで、琵琶をうち置きて、ただけしきばかり弾きかけて、たをやかに使ひなしたる撥のもてなし、音を聞くよりも、またありがたくなつかしくて、五月待つ花橘、花も実も具しておし折れる薫りおぼゆ。
 
 高麗の青地の錦で縁どりした敷物に、まともに座らず、琵琶をちょっと置いて、ほんの心持ばかり弾きかけて、しなやかに使いこなした撥の扱いよう、音色を聞くやいなや、また比類なく親しみやすい感じがして、五月待つ花橘の、花も実もともに折り取った薫りのように思われる。
 
 
 

第六段 夕霧の感想

 
   これもかれも、うちとけぬ御けはひどもを聞き見たまふに、大将も、いと内ゆかしくおぼえたまふ。
 対の上の、見し折よりも、ねびまさりたまへらむありさまゆかしきに、静心もなし。
 
 この方もあの方も、とりすましたご様子を見たり聞いたりなさると、大将も、まことに中を御覧になりたくお思いになる。
 対の上が、昔見た時よりも、ずっと美しくなっていっらっしゃるだろう様子が見たいので、心が落ち着かない。
 
   「宮をば、今すこしの宿世及ばましかば、わがものにても見たてまつりてまし。
 心のいとぬるきぞ悔しきや。
 院は、たびたびさやうにおもむけて、しりう言にものたまはせけるを」と、ねたく思へど、すこし心やすき方に見えたまふ御けはひに、あなづりきこゆとはなけれど、いとしも心は動かざりけり。
 
 「宮を、もう少し運勢があったなら、自分の妻としてお世話申し上げられたであろうに。
 まことにゆったり構えていたのが悔やまれるよ。
 院は、度々そのように水を向けられ、蔭でおっしゃっていられたものを」と、残念に思うが、少し軽率なようにお見えになるご様子に、軽くお思い申すと言うのではないが、それほど心は動かなかったのである。
 
   この御方をば、何ごとも思ひ及ぶべき方なく、気遠くて、年ごろ過ぎぬれば、「いかでか、ただおほかたに、心寄せあるさまをも見えたてまつらむ」とばかりの、口惜しく嘆かしきなりけり。
 あながちに、あるまじくおほけなき心地などは、さらにものしたまはず、いとよくもてをさめたまへり。
 
 こちらの御方を、何事につけても手の届くすべなく、高嶺の花として、長年過ごして来たので、「ただ何とかして、義理の親子の関係として、好意をお寄せ申している気持ちをお見せ申し上げたい」とだけ、残念に嘆かわしいのであった。
 むやみに、あってはならない大それた考えなどは、まったくおありではなく、実に立派に振る舞っていらっしゃった。
 
 
 

第五章 光る源氏の物語 源氏の音楽論

 
 

第一段 音楽の春秋論

 
   夜更けゆくけはひ、冷やかなり。
 臥待の月はつかにさし出でたる、
 夜が更けて行く様子、冷え冷えとした感じがする。
 臥待の月がわずかに顔を出したのを、
   「心もとなしや、春の朧月夜よ。
 秋のあはれ、はた、かうやうなる物の音に、虫の声縒り合はせたる、ただならず、こよなく響き添ふ心地すかし」
 「おぼつかない光だね、春の朧月夜は。
 秋の情趣は、やはりまた、このような楽器の音色に、虫の声を合わせたのが、何とも言えず、この上ない響きが深まるような気がするものだ」
   とのたまへば、大将の君、  とおっしゃると、大将の君、
   「秋の夜の隈なき月には、よろづの物とどこほりなきに、琴笛の音も、あきらかに澄める心地はしはべれど、なほことさらに作り合はせたるやうなる空のけしき、花の露も、いろいろ目移ろひ心散りて、限りこそはべれ。
 
 「秋の夜の曇りない月には、すべてのものがくっきりと見え、琴や笛の音色も、すっきりと澄んだ気は致しますが、やはり特別に作り出したような空模様や、草花の露も、いろいろと目移りし気が散って、限界がございます。
 
   春の空のたどたどしき霞の間より、おぼろなる月影に、静かに吹き合はせたるやうには、いかでか。
 笛の音なども、艶に澄みのぼり果てずなむ。
 
 春の空のたどたどしい霞の間から、朧に霞んだ月の光に、静かに笛を吹き合わせたようなのには、どうして秋が及びましょうか。
 笛の音色なども、優艶に澄みきることはないのです。
 
   女は春をあはれぶと、古き人の言ひ置きはべりける。
 げに、さなむはべりける。
 なつかしく物のととのほることは、春の夕暮こそことにはべりけれ」
 女性は春をあわれぶと、昔の人が言っておりました。
 なるほど、そのようでございます。
 やさしく音色が調和する点では、春の夕暮が格別でございます」
   と申したまへば、  と申し上げなさると、
   「いな、この定めよ。
 いにしへより人の分きかねたることを、末の世に下れる人の、えあきらめ果つまじくこそ。
 物の調べ、曲のものどもはしも、げに律をば次のものにしたるは、さもありかし」
 「いや、この議論だがね。
 昔から皆が判断しかねた事を、末の世の劣った者には、決定しがたいことであろう。
 楽器の調べや、曲目などは、なるほど律を二の次にしているが、そのようなことであろう」
   などのたまひて、  などとおっしゃって、
   「いかに。
 ただ今、有職のおぼえ高き、その人かの人、御前などにて、たびたび試みさせたまふに、すぐれたるは、数少なくなりためるを、そのこのかみと思へる上手ども、いくばくえまねび取らぬにやあらむ。
 このかくほのかなる女たちの御中に弾きまぜたらむに、際離るべくこそおぼえね。
 
 「どんなものであろう。
 現在、演奏上手の評判の高い、その人あの人を、帝の御前などで、度々試みさせあそばすと、勝れた者は、数少なくなったようだが、その一流と思われる名人たちも、どれほども習得し得ていないのではなかろうか。
 このような何でもないご婦人方の中で一緒に弾いたとしても、格別に勝れているようには思われない。
 
   年ごろかく埋れて過ぐすに、耳などもすこしひがひがしくなりにたるにやあらむ、口惜しうなむ。
 あやしく、人の才、はかなくとりすることども、ものの栄ありてまさる所なる。
 その、御前の御遊びなどに、ひときざみに選ばるる人びと、それかれといかにぞ」
 何年もこのように引き籠もって過ごしていると、鑑賞力も少し変になったのだろうか、残念なことだ。
 妙に、人々の才能は、ちょっと習い覚えた芸事でも、見栄えがして他より勝れているところである。
 あの、御前の管弦の御遊などに、一流の名手として選ばれた人々の、誰それと比較したらどうであろうか」
   とのたまへば、大将、  とおっしゃるので、大将は、
   「それをなむ、とり申さむと思ひはべりつれど、あきらかならぬ心のままに、およすけてやはと思ひたまふる。
 上りての世を聞き合はせはべらねばにや、衛門督の和琴、兵部卿宮の御琵琶などをこそ、このころめづらかなる例に引き出ではべめれ。
 
 「その事を、申し上げようと思っておりましたが、よくも弁えぬくせに、偉そうに言うのもどうかと存じまして。
 古い昔の勝れた時代を聞き比べておりませんからでしょうか、衛門督の和琴、兵部卿宮の御琵琶などは、最近の珍しく勝れた例に引くようでございます。
 
   げに、かたはらなきを、今宵うけたまはる物の音どもの、皆ひとしく耳おどろきはべるは。
 なほ、かくわざともあらぬ御遊びと、かねて思うたまへたゆみける心の騒ぐにやはべらむ。
 唱歌など、いと仕うまつりにくくなむ。
 
 なるほど、又とない演奏者ですが、今夜お聞き致しました楽の音色は、皆同じように耳を驚かしました。
 やはり、このように特別のことでもない御催しと、かねがね思って油断しておりました気持ちが不意をつかれて騒ぐのでしょう。
 唱歌など、とてもお付き合いしにくうございました。
 
   和琴は、かの大臣ばかりこそ、かく折につけて、こしらへなびかしたる音など、心にまかせて掻き立てたまへるは、いとことにものしたまへ、をさをさ際離れぬものにはべめるを、いとかしこく整ひてこそはべりつれ」  和琴は、あの太政大臣だけが、このように臨機応変に、巧みに操った音色などを、思いのままに掻き立てていらっしゃるのは、とても格別上手でいらっしゃったが、なかなか飛び抜けて上手には弾けないものでございますのに、まことに勝れて調子が整ってございました」
   と、めできこえたまふ。
 
 と、お誉め申し上げなさる。
 
   「いと、さことことしき際にはあらぬを、わざとうるはしくも取りなさるるかな」  「いや、それほど大した弾き方ではないが、特別に立派なようにお誉めになるね」
   とて、したり顔にほほ笑みたまふ。
 
 とおっしゃって、得意顔に微笑んでいらっしゃる。
 
   「げに、けしうはあらぬ弟子どもなりかし。
 琵琶はしも、ここに口入るべきことまじらぬを、さいへど、物のけはひ異なるべし。
 おぼえぬ所にて聞き始めたりしに、めづらしき物の声かなとなむおぼえしかど、その折よりは、またこよなく優りにたるをや」
 「なるほど、悪くはない弟子たちである。
 琵琶は、わたしが口出しするようなことは何もないが、そうは言っても、どことなく違うはずだ。
 思いがけない所で初めて聞いた時、珍しい楽の音色だと思われたが、その時からは、又格段上達しているからな」
   と、せめて我かしこにかこちなしたまへば、女房などは、すこしつきしろふ。
 
 と、強引に自分の手柄のように自慢なさるので、女房たちは、そっとつつきあう。
 
 
 

第二段 琴の論

 
   「よろづのこと、道々につけて習ひまねばば、才といふもの、いづれも際なくおぼえつつ、わが心地に飽くべき限りなく、習ひ取らむことはいと難けれど、何かは、そのたどり深き人の、今の世にをさをさなければ、片端をなだらかにまねび得たらむ人、さるかたかどに心をやりてもありぬべきを、琴なむ、なほわづらはしく、手触れにくきものはありける。
 
 「何事も、その道その道の稽古をすれば、才能というもの、どれも際限ないとだんだんと思われてくるもので、自分の気持ちに満足する限度はなく、習得することは実に難しいことだが、いや、どうして、その奥義を究めた人が、今の世に少しもいないので、一部分だけでも無難に習得したような人は、その一面で満足してもよいのだが、琴の琴は、やはり面倒で、手の触れにくいものである。
 
   この琴は、まことに跡のままに尋ねとりたる昔の人は、天地をなびかし、鬼神の心をやはらげ、よろづの物の音のうちに従ひて、悲しび深き者も喜びに変はり、賤しく貧しき者も高き世に改まり、宝にあづかり、世にゆるさるるたぐひ多かりけり。
 
 この琴は、ほんとうに奏法どおりに習得した昔の人は、天地を揺るがし、鬼神の心を柔らげ、すべての楽器の音がこれに従って、悲しみの深い者も喜びに変わり、賎しく貧しい者も高貴な身となり、財宝を得て、世に認められるといった人が多かったのであった。
 
   この国に弾き伝ふる初めつ方まで、深くこの事を心得たる人は、多くの年を知らぬ国に過ぐし、身をなきになして、この琴をまねび取らむと惑ひてだに、し得るは難くなむありける。
 げにはた、明らかに空の月星を動かし、時ならぬ霜雪を降らせ、雲雷を騒がしたる例、上りたる世にはありけり。
 
 わが国に弾き伝える初めまで、深くこの事を理解している人は、長年見知らぬ国で過ごし、生命を投げうって、この琴を習得しようとさまよってすら、習得し得るのは難しいことであった。
 なるほど確かに、明らかに空の月や星を動かしたり、時節でない霜や雪を降らせたり、雲や雷を騒がしたりした例は、遠い昔の世にはあったことだ。
 
   かく限りなきものにて、そのままに習ひ取る人のありがたく、世の末なればにや、いづこのそのかみの片端にかはあらむ。
 されど、なほ、かの鬼神の耳とどめ、かたぶきそめにけるものなればにや、なまなまにまねびて、思ひかなはぬたぐひありけるのち、これを弾く人、よからずとかいふ難をつけて、うるさきままに、今はをさをさ伝ふる人なしとか。
 いと口惜しきことにこそあれ。
 
 このように限りない楽器で、その伝法どおりに習得する人がめったになく、末世だからであろうか、どこにその当時の一部分が伝わっているのだろうか。
 けれども、やはり、あの鬼神が耳を止め、傾聴した始まりの事のある琴だからであろうか、なまじ稽古して、思いどおりにならなかったという例があってから後は、これを弾く人、禍があるとか言う難癖をつけて、面倒なままに、今ではめったに弾き伝える人がいないとか。
 実に残念なことである。
 
   琴の音を離れては、何琴をか物を調へ知るしるべとはせむ。
 げに、よろづのこと衰ふるさまは、やすくなりゆく世の中に、一人出で離れて、心を立てて、唐土、高麗と、この世に惑ひありき、親子を離れむことは、世の中にひがめる者になりぬべし。
 
 琴の音以外では、どの絃楽器をもって音律を調える基準とできようか。
 なるほど、すべての事が衰えて行く様子は、たやすくなって行く世の中で、一人故国を離れて、志を立てて、唐土、高麗と、この世をさまよい歩き、親子と別れることは、世の中の変わり者となってしまうことだろう。
 
   などか、なのめにて、なほこの道を通はし知るばかりの端をば、知りおかざらむ。
 調べ一つに手を弾き尽くさむことだに、はかりもなきものななり。
 いはむや、多くの調べ、わづらはしき曲多かるを、心に入りし盛りには、世にありとあり、ここに伝はりたる譜といふものの限りをあまねく見合はせて、のちのちは、師とすべき人もなくてなむ、好み習ひしかど、なほ上りての人には、当たるべくもあらじをや。
 まして、この後といひては、伝はるべき末もなき、いとあはれになむ」
 どうして、それほどまでせずとも、やはりこの道をだいたい知る程度の一端だけでも、知らないでいられようか。
 一つの調べを弾きこなす事さえ、量り知れない難しいものであるという。
 いわんや、多くの調べ、面倒な曲目が多いので、熱中していた盛りには、この世にあらん限りの、わが国に伝わっている楽譜という楽譜のすべてを広く見比べて、しまいには、師匠とすべき人もなくなるまで、好んで習得したが、やはり昔の名人には、かないそうにない。
 まして、これから後というと、伝授すべき子孫がいないのが、何とも心寂しいことだ」
   などのたまへば、大将、げにいと口惜しく恥づかしと思す。
 
 などとおっしゃるので、大将は、なるほどまことに残念にも恥ずかしいとお思いになる。
 
   「この御子たちの御中に、思ふやうに生ひ出でたまふものしたまはば、その世になむ、そもさまでながらへとまるやうあらば、いくばくならぬ手の限りも、とどめたてまつるべき。
 三の宮、今よりけしきありて見えたまふを」
 「この御子たちの中で、望みどおりにご成人なさる方がおいでなら、その方が大きくなった時に、その時まで生きていることがあったら、いかほどでもないわたしの技にしても、すべてご伝授申し上げよう。
 三の宮は、今からその才能がありそうにお見えになるから」
   などのたまへば、明石の君は、いとおもだたしく、涙ぐみて聞きゐたまへり。
 
 などとおっしゃると、明石の君は、たいそう面目に思って、涙ぐんで聞いていらっしゃった。
 
 
 

第三段 源氏、葛城を謡う

 
   女御の君は、箏の御琴をば、上に譲りきこえて、寄り臥したまひぬれば、和琴を大殿の御前に参りて、気近き御遊びになりぬ。
 「葛城」遊びたまふ。
 はなやかにおもしろし。
 大殿折り返し謡ひたまふ御声、たとへむかたなく愛敬づきめでたし。
 
 女御の君は、箏の御琴を、紫の上にお譲り申し上げて、寄りかかりなさったので、和琴を大殿の御前に差し上げて、寛いだ音楽の遊びになった。
 「葛城」を演奏なさる。
 明るくおもしろい。
 大殿が繰り返しお謡いになるお声は、何にも喩えようがなく情がこもっていて素晴らしい。
 
   月やうやうさし上るままに、花の色香ももてはやされて、げにいと心にくきほどなり。
 箏の琴は、女御の御爪音は、いとらうたげになつかしく、母君の御けはひ加はりて、揺の音深く、いみじく澄みて聞こえつるを、この御手づかひは、またさま変はりて、ゆるるかにおもしろく、聞く人ただならず、すずろはしきまで愛敬づきて、輪の手など、すべてさらに、いとかどある御琴の音なり。
 
 月がだんだんと高く上って行くにつれて、花の色も香も一段と引き立てられて、いかにも優雅な趣である。
 箏の琴は、女御のお爪音は、とてもかわいらしげにやさしく、母君のご奏法の感じが加わって、揺の音が深く、たいそう澄んで聞こえたのを、こちらのご奏法は、また様子が違って、緩やかに美しく、聞く人が感に堪えず、気もそぞろになるくらい魅力的で、輪の手など、すべていかにも、たいそう才気あふれたお琴の音色である。
 
   返り声に、皆調べ変はりて、律の掻き合はせども、なつかしく今めきたるに、琴は、五個の調べ、あまたの手の中に、心とどめてかならず弾きたまふべき五、六の発剌を、いとおもしろく澄まして弾きたまふ。
 さらにかたほならず、いとよく澄みて聞こゆ。
 
 返り声に、すべて調子が変わって、律の合奏の数々が、親しみやすく華やかな中にも、琴の琴は、五箇の調べを、たくさんある弾き方の中で、注意して必ずお弾きにならなければならない五、六の発刺を、たいそう見事に澄んでお弾きになる。
 まったくおかしなところはなく、たいそうよく澄んで聞こえる。
 
   春秋よろづの物に通へる調べにて、通はしわたしつつ弾きたまふ。
 心しらひ、教へきこえたまふさま違へず、いとよくわきまへたまへるを、いとうつくしく、おもだたしく思ひきこえたまふ。
 
 春秋どの季節の物にも調和する調べなので、それぞれに相応しくお弾きになる。
 そのお心配りは、お教え申し上げたものと違わず、たいそうよく会得していらっしゃるのを、たいそういじらしく、晴れがましくお思い申し上げになる。
 
 
 

第四段 女楽終了、禄を賜う

 
   この君達の、いとうつくしく吹き立てて、切に心入れたるを、らうたがりたまひて、  この若君たちが、とてもかわいらしく笛を吹き立てて、一生懸命になっているのを、おかわいがりになって、
   「ねぶたくなりにたらむに。
 今宵の遊びは、長くはあらで、はつかなるほどにと思ひつるを。
 とどめがたき物の音どもの、いづれともなきを、聞き分くほどの耳とからぬたどたどしさに、いたく更けにけり。
 心なきわざなりや」
 「眠たくなっているだろうに。
 今夜の音楽の遊びは、長くはしないで、ほんの少しのところでと思っていたが。
 やめるのには惜しい楽の音色が、甲乙をつけがたいのを、聞き分けるほどに耳がよくないので愚図愚図しているうちに、たいそう夜が更けてしまった。
 気のつかないことであった」
   とて、笙の笛吹く君に、土器さしたまひて、御衣脱ぎてかづけたまふ。
 横笛の君には、こなたより、織物の細長に、袴などことことしからぬさまに、けしきばかりにて、大将の君には、宮の御方より、杯さし出でて、宮の御装束一領かづけたてまつりたまふを、大殿、
 と言って、笙の笛を吹く君に、杯をお差しになって、お召物を脱いでお与えになる。
 横笛の君には、こちらから、織物の細長に、袴などの仰々しくないふうに、形ばかりにして、大将の君には、宮の御方から、杯を差し出して、宮のご装束を一領をお与え申し上げなさるのを、大殿は、
   「あやしや。
 物の師をこそ、まづはものめかしたまはめ。
 愁はしきことなり」
 「妙なことだね。
 師匠のわたしにこそ、さっそくご褒美を下さってよいものなのに。
 情ないことだ」
   とのたまふに、宮のおはします御几帳のそばより、御笛をたてまつる。
 うち笑ひたまひて取りたまふ。
 いみじき高麗笛なり。
 すこし吹き鳴らしたまへば、皆立ち出でたまふほどに、大将立ち止まりたまひて、御子の持ちたまへる笛を取りて、いみじくおもしろく吹き立てたまへるが、いとめでたく聞こゆれば、いづれもいづれも、皆御手を離れぬものの伝へ伝へ、いと二なくのみあるにてぞ、わが御才のほど、ありがたく思し知られける。
 
 とおっしゃるので、宮のおいであそばす御几帳の側から、御笛を差し上げる。
 微笑みなさってお取りになる。
 たいそう見事な高麗笛である。
 少し吹き鳴らしなさると、皆お返りになるところであったが、大将が立ち止まりなさって、ご子息の持っておいでの笛を取って、たいそう素晴らしく吹き鳴らしなさったのが、実に見事に聞こえたので、どなたもどなたも、皆ご奏法を受け継がれたお手並みが、実に又となくばかりあるので、ご自分の音楽の才能が、めったにないほどだと思われなさるのであった。
 
 
 

第五段 夕霧、わが妻を比較して思う

 
   大将殿は、君達を御車に乗せて、月の澄めるにまかでたまふ。
 道すがら、箏の琴の変はりていみじかりつる音も、耳につきて恋しくおぼえたまふ。
 
 大将殿は、若君たちをお車に乗せて、月の澄んだ中をご退出なさる。
 道中、箏の琴が普通とは違ってたいそう素晴らしかった音色が、耳について恋しくお思い出されなさる。
 
   わが北の方は、故大宮の教へきこえたまひしかど、心にもしめたまはざりしほどに、別れたてまつりたまひにしかば、ゆるるかにも弾き取りたまはで、男君の御前にては、恥ぢてさらに弾きたまはず。
 何ごともただおいらかに、うちおほどきたるさまして、子ども扱ひを、暇なく次々したまへば、をかしきところもなくおぼゆ。
 さすがに、腹悪しくて、もの妬みうちしたる、愛敬づきてうつくしき人ざまにぞものしたまふめる。
 
 ご自分の北の方は、亡き大宮がお教え申し上げなさったが、熱心にお習いなさらなかったうちに、お引き離されておしまいになったので、ゆっくりとも習得なさらず、夫君の前では、恥ずかしがって全然お弾きにならない。
 何ごともただあっさりと、おっとりとした物腰で、子供の世話に、休む暇もなく次々となさるので、風情もなくお思いになる。
 そうはいっても、機嫌を悪くして、嫉妬するところは、愛嬌があってかわいらしい人柄でいらっしゃるようである。
 
 
 

第六章 紫の上の物語 出家願望と発病

 
 

第一段 源氏、紫の上と語る

 
   院は、対へ渡りたまひぬ。
 上は、止まりたまひて、宮に御物語など聞こえたまひて、暁にぞ渡りたまへる。
 日高うなるまで大殿籠れり。
 
 院は、対へお渡りになった。
 紫の上は、お残りになって、宮にお話など申し上げなさって、暁方にお帰りになった。
 日が高くなるまでお寝みになった。
 
   「宮の御琴の音は、いとうるさくなりにけりな。
 いかが聞きたまひし」
 「宮のお琴の音色は、たいそう上手になったものだな。
 どのようにお聞きなさいましたか」
   と聞こえたまへば、  とお尋ねなさるので、
   「初めつ方、あなたにてほの聞きしは、いかにぞやありしを、いとこよなくなりにけり。
 いかでかは、かく異事なく教へきこえたまはむには」
 「初めの方は、あちらでちらっと聞いた時には、どんなものかしらと思いましたが、とてもこの上なく上手になりましたわ。
 どうして、あのように専心してお教え申し上げになったのですから」
   といらへきこえたまふ。
 
 とお答えなさる。
 
   「さかし。
 手を取る取る、おぼつかなからぬ物の師なりかし。
 これかれにも、うるさくわづらはしくて、暇いるわざなれば、教へたてまつらぬを、院にも内裏にも、琴はさりとも習はしきこゆらむとのたまふと聞くがいとほしく、さりとも、さばかりのことをだに、かく取り分きて御後見にと預けたまへるしるしにはと、思ひ起こしてなむ」
 「そうなのだ。
 手を取り取りの、たいした師匠なんだよ。
 他のどなたにも、厄介で、面倒なことなので、お教え申さないが、院にも帝にも、琴の琴はいくらなんでもお教え申しているだろうとおっしゃると、耳にするのがおいたわしくて、そうは言っても、せめてその程度のことだけはと、このように特別なご後見にとお預けになった甲斐にはと、思い立ってね」
   など聞こえたまふついでにも、  などと申し上げなさるついでにも、
   「昔、世づかぬほどを、扱ひ思ひしさま、その世には暇もありがたくて、心のどかに取りわき教へきこゆることなどもなく、近き世にも、何となく次々、紛れつつ過ぐして、聞き扱はぬ御琴の音の、出で栄えしたりしも、面目ありて、大将の、いたくかたぶきおどろきたりしけしきも、思ふやうにうれしくこそありしか」  「昔、まだ幼かったころ、お世話したものだが、当時は暇がなくて、ゆっくりと特別にお教え申し上げることなどもなく、近頃になっても、何となく次から次へと、とり紛れては日を送り、聞いて上げなかったお琴の音色が、素晴らしい出来映えだったのも、晴れがましいことで、大将が、たいそう耳を傾け感嘆していた様子も、思いどおりで嬉しいことであった」
   など聞こえたまふ。
 
 などと申し上げなさる。
 
 
 

第二段 紫の上、三十七歳の厄年

 
   かやうの筋も、今はまたおとなおとなしく、宮たちの御扱ひなど、取りもちてしたまふさまも、いたらぬことなく、すべて何ごとにつけても、もどかしくたどたどしきこと混じらず、ありがたき人の御ありさまなれば、いとかく具しぬる人は、世に久しからぬ例もあなるをと、ゆゆしきまで思ひきこえたまふ。
 
 こういった音楽の方面のことも、今はまた年輩者らしく、若宮たちのお世話などを、引き受けなさっている様子も、至らないところなく、すべて何事につけても、非難されるような行き届かないところなく、世にもまれなご様子の方なので、まことにこのように何から何までそなわっていらっしゃる方は、長生きしない例もあるというのでと、不吉なまでにお思い申し上げなさる。
 
   さまざまなる人のありさまを見集めたまふままに、取り集め足らひたることは、まことにたぐひあらじとのみ思ひきこえたまへり。
 今年は三十七にぞなりたまふ。
 見たてまつりたまひし年月のことなども、あはれに思し出でたるついでに、
 いろいろな人の有様を多く御覧になっているために、何から何まで揃っている点では、本当に例があるまいと心底からお思い申し上げていらっしゃった。
 今年は、三十七歳におなりである。
 一緒にお暮らし申されてからの年月のことなどを、しみじみとお思い出しなさったついでに、
   「さるべき御祈りなど、常よりも取り分きて、今年はつつしみたまへ。
 もの騒がしくのみありて、思ひいたらぬこともあらむを、なほ、思しめぐらして、大きなることどももしたまはば、おのづからせさせてむ。
 故僧都のものしたまはずなりにたるこそ、いと口惜しけれ。
 おほかたにてうち頼まむにも、いとかしこかりし人を」
 「しかるべきご祈祷など、いつもの年よりも特別にして、今年はご用心なさい。
 何かと忙しくばかりあって、考えつかないことがあるだろうから、やはり、あれこれとお思いめぐらしになって、大がかりな仏事を催しなさるなら、わたしの方でさせていただこう。
 僧都が亡くなってしまわれたことが、たいそう残念なことだ。
 一通りのお願いをするのにつけても、たいそう立派な方であったのに」
   などのたまひ出づ。
 
 などとおっしゃる。
 
 
 

第三段 源氏、半生を語る

 
   「みづからは、幼くより、人に異なるさまにて、ことことしく生ひ出でて、今の世のおぼえありさま、来し方にたぐひ少なくなむありける。
 されど、また、世にすぐれて悲しきめを見る方も、人にはまさりけりかし。
 
 「わたしは、幼い時から、人とは違ったふうに、大層な育ち方をして来て、現在の世の評判や有様、過去にも類例が少ないものであった。
 けれども、また一方で、大変に悲しいめに遭ったことでも、人並み以上であったことです。
 
   まづは、思ふ人にさまざま後れ、残りとまれる齢の末にも、飽かず悲しと思ふこと多く、あぢきなくさるまじきことにつけても、あやしくもの思はしく、心に飽かずおぼゆること添ひたる身にて過ぎぬれば、それに代へてや、思ひしほどよりは、今までもながらふるならむとなむ、思ひ知らるる。
 
 まず第一に、愛する方々に次々と先立たれ、とり残された晩年になっても、意に満たず悲しいと思う事が多く、不本意にも感心しないことにかかわったにつけても、妙に物思いが絶えず、心に満足のゆかず思われる事が身につきまとって過ごして来てしまったので、その代わりとででもいうのか、思っていたわりに、今まで生き永らえているのだろうと、思わずにはいられません。
 
   君の御身には、かの一節の別れより、あなたこなた、もの思ひとて、心乱りたまふばかりのことあらじとなむ思ふ。
 后といひ、ましてそれより次々は、やむごとなき人といへど、皆かならずやすからぬもの思ひ添ふわざなり。
 
 あなたご自身には、あの一件での離別のほかは、その前にも後にも、心配して、心をお痛めになるようなことはあるまいと思う。
 后と言っても、ましてそれより下の方々は、身分が高いからと言っても、皆必ず物思いの種が付き纏うものなのです。
 
   高き交じらひにつけても、心乱れ、人に争ふ思ひの絶えぬも、やすげなきを、親の窓のうちながら過ぐしたまへるやうなる心やすきことはなし。
 そのかた、人にすぐれたりける宿世とは思し知るや。
 
 高いお付き合いをするにつけても、気苦労があり、人と争う思いが絶えないのも、楽なことではないから、親のもとでの深窓生活同然に暮らしていらっしゃるような気楽さはありません。
 その点では、人並み以上の運勢だとお分かりでしょうか。
 
   思ひの外に、この宮のかく渡りものしたまへるこそは、なま苦しかるべけれど、それにつけては、いとど加ふる心ざしのほどを、御みづからの上なれば、思し知らずやあらむ。
 ものの心も深く知りたまふめれば、さりともとなむ思ふ」
 思いもかけず、この宮がこのようにお輿入れなさったのは、何やら辛くお思いでしょうが、それにつけては、いっそう勝る愛情を、ご自分の身の上のことですから、あるいはお気づきでないかも知れません。
 物のわけをよくお分りのようですから、きっとお分りだろうと思います」
   と聞こえたまへば、  と申し上げなさると、
   「のたまふやうに、ものはかなき身には、過ぎにたるよそのおぼえはあらめど、心に堪へぬもの嘆かしさのみうち添ふや、さはみづからの祈りなりける」  「おっしゃるように、ふつつかな身の上には、過ぎた事と世間の目には見えましょうが、心に堪えない物思いばかりがつきまとうのは、それがわたし自身のご祈祷となっているのでした」
   とて、残り多げなるけはひ、恥づかしげなり。
 
 と言って、多く言い残したような様子は、奥ゆかしそうである。
 
   「まめやかには、いと行く先少なき心地するを、今年もかく知らず顔にて過ぐすは、いとうしろめたくこそ。
 さきざきも聞こゆること、いかで御許しあらば」
 「ほんとうのことを申しますと、もうとても先も長くないような心地がするのですが、今年もこのように知らない顔をして過ごすのは、とても不安なことです。
 先々にも申し上げたこと、何とかお許しがあれば」
   と聞こえたまふ。
 
 と申し上げなさる。
 
   「それはしも、あるまじきことになむ。
 さて、かけ離れたまひなむ世に残りては、何のかひかあらむ。
 ただかく何となくて過ぐる年月なれど、明け暮れの隔てなきうれしさのみこそ、ますことなくおぼゆれ。
 なほ思ふさま異なる心のほどを見果てたまへ」
 「それは、とんでもないことだ。
 そうして、離れておしまいになった後に残ったわたしは、何の生き甲斐があろう。
 ただこのように何ということもなく過ぎて行く月日だが、朝に晩に顔を合わせる嬉しさだけで、これ以上の事はないと思われるのです。
 やはりあなたを人とは違って思う気持ちがどれほど深いものであるか最後まで見届けてください」
   とのみ聞こえたまふを、例のことと心やましくて、涙ぐみたまへるけしきを、いとあはれと見たてまつりたまひて、よろづに聞こえ紛らはしたまふ。
 
 とばかり申し上げなさるのを、いつものことと胸が痛んで、涙ぐんでいらっしゃる様子を、たいそういとしいと拝見なさって、いろいろとお慰め申し上げなさる。
 
 
 

第四段 源氏、関わった女方を語る

 
   「多くはあらねど、人のありさまの、とりどりに口惜しくはあらぬを見知りゆくままに、まことの心ばせおいらかに落ちゐたるこそ、いと難きわざなりけれとなむ、思ひ果てにたる。
 
 「多くは知らないが、人柄が、それぞれにとりえのないものはないと分かって行くにつれて、ほんとうの気立てがおおらかで落ち着いているのは、なかなかいないものであると、思うようになりました。
 
   大将の母君を、幼かりしほどに見そめて、やむごとなくえ避らぬ筋には思ひしを、常に仲よからず、隔てある心地して止みにしこそ、今思へば、いとほしく悔しくもあれ。
 
 大将の母君を、若いころにはじめて妻として、大事にしなければならない方とは思ったが、いつも夫婦仲が好くなく、うちとけぬ気持ちのまま終わってしまったのが、今思うと、気の毒で残念である。
 
   また、わが過ちにのみもあらざりけりなど、心ひとつになむ思ひ出づる。
 うるはしく重りかにて、そのことの飽かぬかなとおぼゆることもなかりき。
 ただ、いとあまり乱れたるところなく、すくすくしく、すこしさかしとやいふべかりけむと、思ふには頼もしく、見るにはわづらはしかりし人ざまになむ。
 
 しかしまた、わたし一人の罪ばかりではなかったのだと、自分の胸一つに思い出される。
 きちんとして重々しくて、どの点が不満だと思われることもなかった。
 ただ、あまりにくつろいだところがなく、几帳面すぎて、少しできすぎた人であったと言うべきであろうかと、離れて思うには信頼が置けて、一緒に生活するには面倒な人柄であった。
 
   中宮の御母御息所なむ、さま異に心深くなまめかしき例には、まづ思ひ出でらるれど、人見えにくく、苦しかりしさまになむありし。
 怨むべきふしぞ、げにことわりとおぼゆるふしを、やがて長く思ひつめて、深く怨ぜられしこそ、いと苦しかりしか。
 
 中宮の御母君の御息所は、人並すぐれてたしなみ深く優雅な人の例としては、まず第一に思い出されるが、逢うのに気がおけて、こちらが気苦労するような方でした。
 恨むことも、なるほど無理もないことと思われる点を、そのままいつまでも思い詰めて、深く怨まれたのは、まことに辛いことであった。
 
   心ゆるびなく恥づかしくて、我も人もうちたゆみ、朝夕の睦びを交はさむには、いとつつましきところのありしかば、うちとけては見落とさるることやなど、あまりつくろひしほどに、やがて隔たりし仲ぞかし。
 
 緊張のし通しで気づまりで、自分も相手もゆっくりとして、朝夕睦まじく語らうには、とても気の引けるところがあったので、気を許しては軽蔑されるのではないかなどと、あまりに体裁をつくろっていたうちに、そのまま疎遠になった仲なのです。
 
   いとあるまじき名を立ちて、身のあはあはしくなりぬる嘆きを、いみじく思ひしめたまへりしがいとほしく、げに人がらを思ひしも、我罪ある心地して止みにし慰めに、中宮をかくさるべき御契りとはいひながら、取りたてて、世のそしり、人の恨みをも知らず、心寄せたてまつるを、かの世ながらも見直されぬらむ。
 今も昔も、なほざりなる心のすさびに、いとほしく悔しきことも多くなむ」
 たいそうとんでもない浮名を立て、ご身分に相応しくなくなってしまった嘆きを、たいそう思い詰めていらっしゃったのがお気の毒で、なるほど人柄を考えても、自分に罪がある心地がして終わってしまったその罪滅ぼしに、中宮をこのようにそうなるべき前世からのご因縁とは言いながら、取り立てて、世の非難、人の嫉妬も意に介さず、お世話申し上げているのを、あの世からであっても考え直して下さったろう。
 今も昔も、いいかげんな気まぐれから、気の毒な事や後悔する事が多いのです」
   と、来し方の人の御上、すこしづつのたまひ出でて、  と、亡くなったご夫人方について少しずつおっしゃり出して、
   「内裏の御方の御後見は、何ばかりのほどならずと、あなづりそめて、心やすきものに思ひしを、なほ心の底見えず、際なく深きところある人になむ。
 うはべは人になびき、おいらかに見えながら、うちとけぬけしき下に籠もりて、そこはかとなく恥づかしきところこそあれ」
 「今上の御方のご後見は、大した身分の人でないと、最初から軽く見て、気楽な相手だと思っていたが、やはり心の底が見えず、際限もなく深いところのある人でした。
 表面は従順で、おっとりして見えるながら、しっかりしたところが下にあって、どことなく気の置けるところがある人です」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「異人は見ねば知らぬを、これは、まほならねど、おのづからけしき見る折々もあるに、いとうちとけにくく、心恥づかしきありさましるきを、いとたとしへなきうらなさを、いかに見たまふらむと、つつましけれど、女御は、おのづから思し許すらむとのみ思ひてなむ」  「他の方は会ったことがないので知りませんが、この方は、はっきりとではないが、自然と様子を見る機会も何度かあったので、とても馴れ馴れしくできず、気の置ける嗜みがはっきりと分かりますにつけても、とても途方もない単純なわたしを、どのように御覧になっているだろうと、気の引けるところですが、女御は、自然と大目に見て下さるだろうとばかり思っています」
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
   さばかりめざましと心置きたまへりし人を、今はかく許して見え交はしなどしたまふも、女御の御ための真心なるあまりぞかしと思すに、いとありがたければ、  あれほど目障りな人だと心を置いていらっしゃった人を、今ではこのように顔を合わせたりなどなさるのも、女御の御ためを思う真心の結果なのだとお思いになると、普通にはとても出来ないことなので、
   「君こそは、さすがに隈なきにはあらぬものから、人により、ことに従ひ、いとよく二筋に心づかひはしたまひけれ。
 さらにここら見れど、御ありさまに似たる人はなかりけり。
 いとけしきこそものしたまへ」
 「あなたこそは、それでもやはり心底に思わないこともないではないが、人によって、事によって、とても上手に心を使い分けていらっしゃいますね。
 全く多くの女たちに接して来たが、あなたのご様子に似ている人はいませんでした。
 とても態度は格別でいらっしゃいます」
   と、ほほ笑みて聞こえたまふ。
 
 と、ほほ笑んで申し上げなさる。
 
   「宮に、いとよく弾き取りたまへりしことの喜び聞こえむ」  「宮に、とても琴の琴を上手にお弾きになったお祝いを申し上げよう」
   とて、夕つ方渡りたまひぬ。
 我に心置く人やあらむとも思したらず、いといたく若びて、ひとへに御琴に心入れておはす。
 
 と言って、夕方お渡りになった。
 自分に気兼ねする人があろうかともお考えにもならず、とてもたいそう若々しくて、一途に御琴に熱中していらっしゃる。
 
   「今は、暇許してうち休ませたまへかし。
 物の師は心ゆかせてこそ。
 いと苦しかりつる日ごろのしるしありて、うしろやすくなりたまひにけり」
 「もう、お暇を下さって休ませていただきたいものです。
 師匠は満足させてこそです。
 とても辛かった日頃の成果があって、安心出来るほどお上手になりになりました」
   とて、御琴どもおしやりて、大殿籠もりぬ。
 
 と言って、お琴類は押しやって、お寝みになった。
 
 
 

第五段 紫の上、発病す

 
   対には、例のおはしまさぬ夜は、宵居したまひて、人びとに物語など読ませて聞きたまふ。
 
 対の上のもとでは、いつものようにいらっしゃらない夜は、遅くまで起きていらして、女房たちに物語などを読ませてお聞きになる。
 
   「かく、世のたとひに言ひ集めたる昔語りどもにも、あだなる男、色好み、二心ある人にかかづらひたる女、かやうなることを言ひ集めたるにも、つひに寄る方ありてこそあめれ。
 あやしく、浮きても過ぐしつるありさまかな。
 げに、のたまひつるやうに、人より異なる宿世もありける身ながら、人の忍びがたく飽かぬことにするもの思ひ離れぬ身にてや止みなむとすらむ。
 あぢきなくもあるかな」
 「このように、世間で例に引き集めた昔語りにも、不誠実な男、色好み、二心ある男に関係した女、このようなことを語り集めた中にも、結局は頼る男に落ち着くようだ。
 どうしたことか、浮いたまま過してきたことだわ。
 確かにおっしゃったように、人並み勝れた運勢であったわが身の上だが、世間の人が我慢できず満足ゆかないこととする悩みが身にまといついて終わろうとするのだろうか。
 つまらない事よ」
   など思ひ続けて、夜更けて大殿籠もりぬる、暁方より、御胸を悩みたまふ。
 人びと見たてまつり扱ひて、
 などと思い続けて、夜が更けてお寝みになった、その明け方から、お胸をお病みになる。
 女房たちがご看病申し上げて、
   「御消息聞こえさせむ」  「お知らせ申し上げましょう」
   と聞こゆるを、  と申し上げるが、
   「いと便ないこと」  「とても不都合なことです」
   と制したまひて、堪へがたきを押さへて明かしたまひつ。
 御身もぬるみて、御心地もいと悪しけれど、院もとみに渡りたまはぬほど、かくなむとも聞こえず。
 
 とお制しなさって、苦しいのを我慢して夜を明かしなさった。
 お身体も熱があって、ご気分もとても悪いが、院がすぐにお帰りにならない間、これこれとも申し上げない。
 
 
 

第六段 朱雀院の五十賀、延期される

 
   女御の御方より御消息あるに、  女御の御方からお便りがあったので、
   「かく悩ましくてなむ」  「これこれと気分が悪くていらっしゃいます」
   と聞こえたまへるに、驚きて、そなたより聞こえたまへるに、胸つぶれて、急ぎ渡りたまへるに、いと苦しげにておはす。
 
 と申し上げなさると、びっくりして、そちらから申し上げなさったので、胸がどきりとして、急いでお帰りになると、とても苦しそうにしていらっしゃる。
 
   「いかなる御心地ぞ」  「どのようなご気分ですか」
   とて探りたてまつりたまへば、いと熱くおはすれば、昨日聞こえたまひし御つつしみの筋など思し合はせたまひて、いと恐ろしく思さる。
 
 と手をさし入れなさると、とても熱っぽくいらっしゃるので、昨日申し上げなさったご用心のことなどをお考え合わせになって、とても恐ろしく思わずにはいらっしゃれない。
 
   御粥などこなたに参らせたれど、御覧じも入れず、日一日添ひおはして、よろづに見たてまつり嘆きたまふ。
 はかなき御くだものをだに、いともの憂くしたまひて、起き上がりたまふこと絶えて、日ごろ経ぬ。
 
 御粥などをこちらで差し上げたが、御覧にもならず、一日中付き添っていらして、いろいろと介抱なさりお心を痛めなさる。
 ちょっとしたお果物でさえ、とても億劫になさって、起き上がりなさることはまったくなくなって、数日が過ぎてしまった。
 
   いかならむと思し騒ぎて、御祈りども、数知らず始めさせたまふ。
 僧召して、御加持などせさせたまふ。
 そこところともなく、いみじく苦しくしたまひて、胸は時々おこりつつ患ひたまふさま、堪へがたく苦しげなり。
 
 どうなるのだろうとご心配になって、御祈祷などを、数限りなく始めさせなさる。
 僧侶を召して、御加持などをおさせになる。
 どこということもなく、たいそうお苦しみになって、胸は時々発作が起こってお苦しみになる様子は、我慢できないほど苦しげである。
 
   さまざまの御慎しみ限りなけれど、しるしも見えず。
 重しと見れど、おのづからおこたるけぢめあらば頼もしきを、いみじく心細く悲しと見たてまつりたまふに、異事思されねば、御賀の響きも静まりぬ。
 かの院よりも、かく患ひたまふよし聞こし召して、御訪らひいとねむごろに、たびたび聞こえたまふ。
 
 さまざまのご謹慎は数限りないが、効験も現れない。
 重態と見えても、自然と快方に向かう兆しが見えれば期待できるが、たいそう心細く悲しいと見守っていらっしゃると、他の事はお考えになれないので、御賀の騷ぎも静まってしまった。
 あちらの院からも、このようにご病気である由をお聞きあそばして、お見舞いを非常に御丁重に、度々申し上げなさる。
 
 
 

第七段 紫の上、二条院に転地療養

 
   同じさまにて、二月も過ぎぬ。
 いふ限りなく思し嘆きて、試みに所を変へたまはむとて、二条の院に渡したてまつりたまひつ。
 院の内ゆすり満ちて、思ひ嘆く人多かり。
 
 同じような状態で、二月も過ぎた。
 言いようもない程にお嘆きになって、ためしに場所をお変えなさろうとして、二条院にお移し申し上げなさった。
 院の中は上を下への大騒ぎで、嘆き悲しむ者が多かった。
 
   冷泉院も聞こし召し嘆く。
 この人亡せたまはば、院も、かならず世を背く御本意遂げたまひてむと、大将の君なども、心を尽くして見たてまつり扱ひたまふ。
 
 冷泉院にもお聞きあそばして悲しまれる。
 この方がお亡くなりになったら、院もきっと出家のご素志をお遂げになるだろうと、大将の君なども、真心をこめてお世話申し上げなさる。
 
   御修法などは、おほかたのをばさるものにて、取り分きて仕うまつらせたまふ。
 いささかもの思し分く隙には、
 御修法などは、普通に行うものはもとより、特別に選んでおさせになる。
 少しでも意識がはっきりしている時には、
   「聞こゆることを、さも心憂く」  「お願い申し上げていることを、お許しなく情けなくて」
   とのみ恨みきこえたまへど、限りありて別れ果てたまはむよりも、目の前に、わが心とやつし捨てたまはむ御ありさまを見ては、さらに片時堪ふまじくのみ、惜しく悲しかるべければ、  とだけお恨み申し上げなさるが、寿命が尽きてお別れなさるよりも、目の前でご自分の意志で出家なさるご様子を見ては、まったく少しの間でも耐えられず、惜しく悲しい気がしないではいられないので、
   「昔より、みづからぞかかる本意深きを、とまりてさうざうしく思されむ心苦しさに引かれつつ過ぐすを、さかさまにうち捨てたまはむとや思す」  「昔から、自分自身こそこのような出家の本願は深かったのだが、残されて物寂しくお思いなさる気の毒さに心引かれ引かれして過しているのに、逆にわたしを捨てて出家なさろうとお思いなのですか」
   とのみ、惜しみきこえたまふに、げにいと頼みがたげに弱りつつ、限りのさまに見えたまふ折々多かるを、いかさまにせむと思し惑ひつつ、宮の御方にも、あからさまに渡りたまはず。
 御琴どももすさまじくて、皆引き籠められ、院の内の人びとは、皆ある限り二条の院に集ひ参りて、この院には、火を消ちたるやうにて、ただ女どちおはして、人ひとりの御けはひなりけりと見ゆ。
 
 とばかり、惜しみ申し上げなさるが、本当にとても頼りなさそうに弱々しく、もうこれきりかとお見えになる時々が多かったが、どのようにしようとお迷いになっては、宮のお部屋には、ちょっとの間もお出掛けにならない。
 御琴類にも興が乗らず、みなしまいこまれて、院の内の人々は、すっかりみな二条院にお集まりになって、こちらの院では、火を消したようになって、ただ女君たちばかりがおいでになって、お一方の御威勢であったかと見える。
 
 
 

第八段 明石女御、看護のため里下り

 
   女御の君も渡りたまひて、もろともに見たてまつり扱ひたまふ。
 
 女御の君もお渡りになって、ご一緒にご看病申し上げなさる。
 
   「ただにもおはしまさで、もののけなどいと恐ろしきを、早く参りたまひね」  「普通のお身体でもいらっしゃらないので、物の怪などがとても恐ろしいから、早くお帰りあそばせ」
   と、苦しき御心地にも聞こえたまふ。
 若宮の、いとうつくしうておはしますを見たてまつりたまひても、いみじく泣きたまひて、
 と、苦しいご気分ながらも申し上げなさる。
 若宮が、とてもかわいらしくていらっしゃるのを拝見なさっても、ひどくお泣きになって、
   「おとなびたまはむを、え見たてまつらずなりなむこと。
 忘れたまひなむかし」
 「大きくおなりになるのを、見ることができずになりましょうこと。
 きっとお忘れになってしまうでしょうね」
   とのたまへば、女御、せきあへず悲しと思したり。
 
 とおっしゃるので、女御は、涙を堪えきれず悲しくお思いでいらっしゃった。
 
   「ゆゆしく、かくな思しそ。
 さりともけしうはものしたまはじ。
 心によりなむ、人はともかくもある。
 おきて広きうつはものには、幸ひもそれに従ひ、狭き心ある人は、さるべきにて、高き身となりても、ゆたかにゆるべる方は後れ、急なる人は、久しく常ならず、心ぬるくなだらかなる人は、長き例なむ多かりける」
 「縁起でもない、そのようにお考えなさいますな。
 いくら何でも悪いことにはおなりになるまい。
 気持ちの持ちようで、人はどのようにでもなるものです。
 心の広い人には、幸いもそれに従って多く、狭い心の人には、そうなる運命によって、高貴な身分に生まれても、ゆったりゆとりのある点では劣り、性急な人は、長く持続することはできず、心穏やかでおっとりとした人は、寿命の長い例が多かったものです」
   など、仏神にも、この御心ばせのありがたく、罪軽きさまを申し明らめさせたまふ。
 
 などと、仏神にも、この方のご性質が又とないほど立派で、罪障の軽い事を詳しくご説明申し上げなさる。
 
   御修法の阿闍梨たち、夜居などにても、近くさぶらふ限りのやむごとなき僧などは、いとかく思し惑へる御けはひを聞くに、いといみじく心苦しければ、心を起こして祈りきこゆ。
 すこしよろしきさまに見えたまふ時、五、六日うちまぜつつ、また重りわづらひたまふこと、いつとなくて月日を経たまへば、「なほ、いかにおはすべきにか。
 よかるまじき御心地にや」と、思し嘆く。
 
 御修法の阿闍梨たち、夜居などでも、お側近く伺候する高僧たちは皆、たいそうこんなにまで途方に暮れていらっしゃるご様子を聞くと、何ともおいたわしいので、心を奮い起こしてお祈り申し上げる。
 少しよろしいようにお見えになる日が五、六日続いては、再び重くお悩みになること、いつまでということなく続いて、月日をお過ごしになるので、「やはり、どのようにおなりになるのだろうか。
 治らないご病気なのかしら」と、お悲しみになる。
 
   御もののけなど言ひて出で来るもなし。
 悩みたまふさま、そこはかと見えず、ただ日に添へて、弱りたまふさまにのみ見ゆれば、いともいとも悲しくいみじく思すに、御心の暇もなげなり。
 
 御物の怪などと言って出て来るものもない。
 お悩みになるご様子は、どこということも見えず、ただ日がたつにつれて、お弱りになるようにばかりお見えになるので、とてもとても悲しく辛い事とお思いになると、お心の休まる暇もなさそうである。
 
 
 

第七章 柏木の物語 女三の宮密通の物語

 
 

第一段 柏木、女二の宮と結婚

 
   まことや、衛門督は、中納言になりにきかし。
 今の御世には、いと親しく思されて、いと時の人なり。
 身のおぼえまさるにつけても、思ふことのかなはぬ愁はしさを思ひわびて、この宮の御姉の二の宮をなむ得たてまつりてける。
 下臈の更衣腹におはしましければ、心やすき方まじりて思ひきこえたまへり。
 
 そうであったよ、衛門督は、中納言になったのだ。
 今上の御治世では、たいそう御信任厚くて、今を時めく人である。
 わが身の声望が高まるにつけても、思いが叶わない悲しさを嘆いて、この宮の御姉君の二の宮を御降嫁頂いたのであった。
 身分の低い更衣腹でいらっしゃったので、多少軽んじる気持ちもまじってお思い申し上げていらっしゃった。
 
   人柄も、なべての人に思ひなずらふれば、けはひこよなくおはすれど、もとよりしみにし方こそなほ深かりけれ、慰めがたき姨捨にて、人目に咎めらるまじきばかりに、もてなしきこえたまへり。
 
 人柄も、普通の人に比較すれば、感じはこの上なくよくていらっしゃるが、はじめから思い込んでいた方がやはり深かったのであろう、慰められない姨捨で、人に見咎められない程度に、お世話申し上げていらっしゃった。
 
   なほ、かの下の心忘られず、小侍従といふ語らひ人は、宮の御侍従の乳母の娘なりけり。
 その乳母の姉ぞ、かの督の君の御乳母なりければ、早くより気近く聞きたてまつりて、まだ宮幼くおはしましし時より、いときよらになむおはします、帝のかしづきたてまつりたまふさまなど、聞きおきたてまつりて、かかる思ひもつきそめたるなりけり。
 
 今なお、あの内心の思いを忘れることができず、小侍従という相談相手は、宮の御侍従の乳母の娘だった。
 その乳母の姉があの衛門督の君の御乳母だったので、早くから親しくご様子を伺っていて、まだ宮が幼くいらっしゃった時から、とてもお美しくいらっしゃるとか、帝が大事にしていらっしゃるご様子など、お聞き申していて、このような思いもついたのであった。
 
 
 

第二段 柏木、小侍従を語らう

 
   かくて、院も離れおはしますほど、人目少なくしめやかならむを推し量りて、小侍従を迎へ取りつつ、いみじう語らふ。
 
 こうして、院も離れていらっしゃる時、人目が少なくひっそりした時を推量して、小侍従を度々迎えては、懸命に相談をもちかける。
 
   「昔より、かく命も堪ふまじく思ふことを、かかる親しきよすがありて、御ありさまを聞き伝へ、堪へぬ心のほどをも聞こし召させて、頼もしきに、さらにそのしるしのなければ、いみじくなむつらき。
 
 「昔から、このように寿命も縮むほどに思っていることを、このような親しい手づるがあって、ご様子を伝え聞いて、抑え切れない気持ちをお聞き頂いて、心丈夫にしているのに、全然その甲斐がないので、ひどく辛い。
 
   院の上だに、『かくあまたにかけかけしくて、人に圧されたまふやうにて、一人大殿籠もる夜な夜な多く、つれづれにて過ぐしたまふなり』など、人の奏しけるついでにも、すこし悔い思したる御けしきにて、  院の上でさえ、『あのように大勢の方々と関わっていらっしゃって、他人に負けておいでのようで、独りでお寝みになる夜々が多く、寂しく過ごしていらっしゃるそうです』などと、人が奏上した時にも、少し後悔なさっている御様子で、
   『同じくは、ただ人の心やすき後見を定めむには、まめやかに仕うまつるべき人をこそ、定むべかりけれ』と、のたまはせて、『女二の宮の、なかなかうしろやすく、行く末長きさまにてものしたまふなること』  『同じ降嫁させるなら、臣下で安心な後見を決めるには、誠実にお仕えするような人を決めるべきであった』と、仰せになって、『女二の宮が、かえって安心で、将来長く幸福にお暮らしなさるようだ』
   と、のたまはせけるを伝へ聞きしに。
 いとほしくも、口惜しくも、いかが思ひ乱るる。
 
 と、仰せになったのを伝え聞いたが。
 お気の毒にも、残念にも、どんなに思い悩んだことだろうか。
 
   げに、同じ御筋とは尋ねきこえしかど、それはそれとこそおぼゆるわざなりけれ」  なるほど、同じご姉妹を頂戴したが、それはそれで別のことに思えるのだ」
   と、うちうめきたまへば、小侍従、  と、思わず溜息をお漏らしになるので、小侍従は、
   「いで、あな、おほけな。
 それをそれとさし置きたてまつりたまひて、また、いかやうに限りなき御心ならむ」
 「まあ、何と、大それたことを。
 その方を別事とお置き申し上げなさって、さらにまた、なんと途方もないお考えをお持ちなのでしょう」
   と言へば、うちほほ笑みて、  と言うと、ちょっとほほ笑んで、
   「さこそはありけれ。
 宮にかたじけなく聞こえさせ及びけるさまは、院にも内裏にも聞こし召しけり。
 などてかは、さてもさぶらはざらましとなむ、ことのついでにはのたまはせける。
 いでや、ただ、今すこしの御いたはりあらましかば」
 「そうではあった。
 宮に恐れ多くも求婚申し上げたことは、院にも帝にもお耳にあそばしていらっしゃるのだ。
 どうして、そうとして相応しからぬことがあろうと、何かの機会に仰せになったのだ。
 いやなに、ただ、もう少しご慈悲を掛けて下さったならば」
   など言へば、  などと言うと、
   「いと難き御ことなりや。
 御宿世とかいふことはべなるを、もとにて、かの院の言出でてねむごろに聞こえたまふに、立ち並び妨げきこえさせたまふべき御身のおぼえとや思されし。
 このころこそ、すこしものものしく、御衣の色も深くなりたまへれ」
 「とてもお難しいことですわ。
 ご宿運とか言うことがございますのに、それが本となって、あの院が言葉に出して丁重に求婚申し上げなさったのに、同じように張り合ってお妨げ申し上げることがおできになるほどのご威勢であったとお思いでしたか。
 最近は、少し貫祿もつき、ご衣装の色も濃くおなりになりましたが」
   と言へば、いふかひなくはやりかなる口強さに、え言ひ果てたまはで、  と言うので、言いようもなく遠慮のない口達者さに、最後までおっしゃり切れないで、
   「今はよし。
 過ぎにし方をば聞こえじや。
 ただ、かくありがたきものの隙に、気近きほどにて、この心のうちに思ふことの端、すこし聞こえさせつべくたばかりたまへ。
 おほけなき心は、すべて、よし見たまへ、いと恐ろしければ、思ひ離れてはべり」
 「今はもうよい。
 過ぎたことは申し上げまい。
 ただ、このようにめったにない人目のない機会に、お側近くで、わたしの心の中に思っていることを、少しでも申し上げられるようにとり計らって下さい。
 大それた考えは、まったく、まあ見て下さい、たいそう恐ろしいので、思ってもおりません」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「これよりおほけなき心は、いかがはあらむ。
 いとむくつけきことをも思し寄りけるかな。
 何しに参りつらむ」
 「これ以上大それた考えは、他に考えられますか。
 何とも恐ろしいことをお考えになったことですよ。
 どうして伺ったのでしょう」
   と、はちふく。
 
 と、口を尖らせる。
 
 
 

第三段 小侍従、手引きを承諾

 
   「いで、あな、聞きにく。
 あまりこちたくものをこそ言ひなしたまふべけれ。
 世はいと定めなきものを、女御、后も、あるやうありて、ものしたまふたぐひなくやは。
 まして、その御ありさまよ。
 思へば、いとたぐひなくめでたけれど、うちうちは心やましきことも多かるらむ。
 
 「まあ、何と、聞きにくいことを。
 あまり大げさな物の言い方をなさるというものだ。
 男女の縁は分からないものだから、女御、后と申しても、事情がって、情を交わすことがないわけではあるまい。
 まして、その宮のご様子よ。
 思えば、たいそう又となく立派であるが、内情は面白くないことが多くあることだろう。
 
   院の、あまたの御中に、また並びなきやうにならはしきこえたまひしに、さしもひとしからぬ際の御方々にたち混じり、めざましげなることもありぬべくこそ。
 いとよく聞きはべりや。
 世の中はいと常なきものを、ひときはに思ひ定めて、はしたなく、突き切りなることなのたまひそよ」
 院が、大勢のお子様方の中で、他に肩を並べる者がないほど大切にお育て申し上げておいででしたのに、さほど同列とは思えないご夫人方の中にたち混じって、失礼に思うようなことがあるに違いない。
 何もかも知っておりますよ。
 世の中は無常なものですから、一概に決めつけて、取り付く島もなく、ぶっきらぼうにおっしゃるものではないよ」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「人に落とされたまへる御ありさまとて、めでたき方に改めたまふべきにやははべらむ。
 これは世の常の御ありさまにもはべらざめり。
 ただ、御後見なくて漂はしくおはしまさむよりは、親ざまに、と譲りきこえたまひしかば、かたみにさこそ思ひ交はしきこえさせたまひためれ。
 あいなき御落としめ言になむ」
 「他の人から負かされていらっしゃるご境遇だからと言って、今さら別の結構な縁組をなさるというわけにも行きますまい。
 このご結婚は世間一般の結婚ではございませんでしょう。
 ただ、ご後見がなくて頼りなくお暮らしになるよりは、親代わりになって頂こう、というお譲り申し上げなさったご結婚なので、お互いにそのように思い合っていらっしゃるようです。
 つまらない悪口をおっしゃるものです」
   と、果て果ては腹立つを、よろづに言ひこしらへて、  と、しまいには腹を立てるが、いろいろと言いなだめて、
   「まことは、さばかり世になき御ありさまを見たてまつり馴れたまへる御心に、数にもあらずあやしきなれ姿を、うちとけて御覧ぜられむとは、さらに思ひかけぬことなり。
 ただ一言、物越にて聞こえ知らすばかりは、何ばかりの御身のやつれにかはあらむ。
 神仏にも思ふこと申すは、罪あるわざかは」
 「本当は、そのように世に又とないご様子を日頃拝見していらっしゃるお方に、人数でもない見すぼらしい姿を、気を許して御覧に入れようとは、まったく考えていないことです。
 ただ一言、物越しに申し上げたいだけで、どれほどのご迷惑になることがありましょう。
 神仏にも思っていることを申し上げるのは、罪になることでしょうか」
   と、いみじき誓言をしつつのたまへば、しばしこそ、いとあるまじきことに言ひ返しけれ、もの深からぬ若人は、人のかく身に代へていみじく思ひのたまふを、え否び果てで、  と、大変な誓言を繰り返しおっしゃるので、暫くの間は、まったくとんでもないことだと断っていたが、思慮の足りない若い女は、男がこのように命に代えてたいそう熱心にお頼みになるので、断り切れずに、
   「もし、さりぬべき隙あらば、たばかりはべらむ。
 院のおはしまさぬ夜は、御帳のめぐりに人多くさぶらひて、御座のほとりに、さるべき人かならずさぶらひたまへば、いかなる折をかは、隙を見つけはべるべからむ」
 「もし、適当な機会があったら、手立ていたしましょう。
 院がいらっしゃらない夜は、御帳台の回りに女房が大勢仕えていて、お寝みになる所には、しかるべき人が必ず伺候していらっしゃるので、どのような機会に、隙を見つけたらよいのだろう」
   と、わびつつ参りぬ。
 
 と、困りながら帰参した。
 
 
 

第四段 小侍従、柏木を導き入れる

 
   いかに、いかにと、日々に責められ極じて、さるべき折うかがひつけて、消息しおこせたり。
 喜びながら、いみじくやつれ忍びておはしぬ。
 
 どうなのか、どうなのかと、毎日催促され困って、適当な機会を見つけ出して、手紙をよこした。
 喜びながら、ひどく粗末で目立たない姿でいらっしゃった。
 
   まことに、わが心にもいとけしからぬことなれば、気近く、なかなか思ひ乱るることもまさるべきことまでは、思ひも寄らず、ただ、  本当に、自分ながらまことに善くないことなので、お側近くに参って、かえって煩悶が勝ることまでは、考えもしないで、ただ、
   「いとほのかに御衣のつまばかりを見たてまつりし春の夕の、飽かず世とともに思ひ出でられたまふ御ありさまを、すこし気近くて見たてまつり、思ふことをも聞こえ知らせては、一行の御返りなどもや見せたまふ、あはれとや思し知る」  「ほんの微かにお召し物の端だけを拝見した春の夕方が、いつまでも思い出されなさるご様子を、もう少しお側近くで拝見し、思っている気持ちをもお聞かせ申し上げたら、ほんの一くだりほどのお返事だけでも下さりはしまいか、かわいそういと思っては下さらないだろうか」
   とぞ思ひける。
 
 と思うのであった。
 
   四月十余日ばかりのことなり。
 御禊明日とて、斎院にたてまつりたまふ女房十二人、ことに上臈にはあらぬ若き人、童女など、おのがじしもの縫ひ、化粧などしつつ、物見むと思ひまうくるも、とりどりに暇なげにて、御前の方しめやかにて、人しげからぬ折なりけり。
 
 四月十日過ぎのことである。
 御禊が明日だと言って、斎院に差し上げなさる女房を十二人、特別に上臈ではない若い女房、女の童など、それぞれ裁縫をしたり、化粧などをしいしい、見物をしようと準備するのも、それぞれに忙しそうで、御前の方がひっそりとして、人が多くない時であった。
 
   近くさぶらふ按察使の君も、時々通ふ源中将、責めて呼び出ださせければ、下りたる間に、ただこの侍従ばかり、近くはさぶらふなりけり。
 よき折と思ひて、やをら御帳の東面の御座の端に据ゑつ。
 さまでもあるべきことなりやは。
 
 側近くに仕えている按察の君も、時々通って来る源中将が、無理やり呼び出させたので、下がっている間に、ただこの小侍従だけが、お側近くには伺候しているのであった。
 ちょうど良い機会だと思って、そっと御帳台の東面の御座所の端に座らせた。
 そんなにまですべきことであろうか。
 
 
 

第五段 柏木、女三の宮をかき抱く

 
   宮は、何心もなく大殿籠もりにけるを、近く男のけはひのすれば、院のおはすると思したるに、うちかしこまりたるけしき見せて、床の下に抱き下ろしたてまつるに、物に襲はるるかと、せめて見上げたまへれば、あらぬ人なりけり。
 
 宮は、無心にお寝みになっていらっしゃったが、近くに男性の感じがするので、院がいらっしゃったとお思いになったが、かしこまった態度で、浜床の下に抱いてお下ろし申したので、魔物に襲われたのかと、やっとの思いで目を見開きなさると、違う人なのであった。
 
   あやしく聞きも知らぬことどもをぞ聞こゆるや。
 あさましくむくつけくなりて、人召せど、近くもさぶらはねば、聞きつけて参るもなし。
 わななきたまふさま、水のやうに汗も流れて、ものもおぼえたまはぬけしき、いとあはれにらうたげなり。
 
 妙なわけも分からないことを申し上げるではないか。
 驚いて恐ろしくなって、女房を呼ぶが、近くに控えていないので、聞きつけて参上する者もいない。
 震えていらっしゃる様子、水のように汗が流れて、何もお考えになれない様子、とてもいじらしく可憐な感じである。
 
   「数ならねど、いとかうしも思し召さるべき身とは、思うたまへられずなむ。
 
 「人数の者ではありませんが、まことにこんなにまでも軽蔑されるべき身の上ではないと、存ぜずにはいられません。
 
   昔よりおほけなき心のはべりしを、ひたぶるに籠めて止みはべなましかば、心のうちに朽たして過ぎぬべかりけるを、なかなか、漏らしきこえさせて、院にも聞こし召されにしを、こよなくもて離れてものたまはせざりけるに、頼みをかけそめはべりて、身の数ならぬひときはに、人より深き心ざしを空しくなしはべりぬることと、動かしはべりにし心なむ、よろづ今はかひなきことと思うたまへ返せど、いかばかりしみはべりにけるにか、年月に添へて、口惜しくも、つらくも、むくつけくも、あはれにも、いろいろに深く思うたまへまさるに、せきかねて、かくおほけなきさまを御覧ぜられぬるも、かつは、いと思ひやりなく恥づかしければ、罪重き心もさらにはべるまじ」  昔から身分不相応の思いがございましたが、一途に秘めたままにしておきましたら、心の中に朽ちて過ぎてしまったでしょうが、かえって、少し願いを申し上げさせていただいたところ、院におかせられても御承知おきあそばされましたが、まったく問題にならないように仰せにはならなかったので、望みを繋ぎ始めまして、身分が一段劣っていたがために、誰よりも深くお慕いしていた気持ちを無駄なものにしてしまったことと、残念に思うようになりました気持ちが、すべて今では取り返しのつかないことと思い返しはいたしますが、どれほど深く取りついてしまったことなのか、年月と共に、残念にも、辛いとも、気味悪くも、悲しくも、いろいろと深く思いがつのることに、堪えかねて、このように大それた振る舞いをお目にかけてしまいましたのも、一方では、まことに思慮浅く恥ずかしいので、これ以上大それた罪を重ねようという気持ちはまったくございません」
   と言ひもてゆくに、この人なりけりと思すに、いとめざましく恐ろしくて、つゆいらへもしたまはず。
 
 と言い続けるうちに、この人だったのだとお分りになると、まことに失礼な恐ろしいことに思われて、何もお返事なさらない。
 
   「いとことわりなれど、世に例なきことにもはべらぬを、めづらかに情けなき御心ばへならば、いと心憂くて、なかなかひたぶるなる心もこそつきはべれ、あはれとだにのたまはせば、それをうけたまはりてまかでなむ」  「まことにごもっともなことですが、世間に例のないことではございませんのに、又とないほどな無情なご仕打ちならば、まことに残念で、かえって向こう見ずな気持ちも起こりましょうから、せめて不憫な者よとだけでもおっしゃって下されば、その言葉を承って退出しましょう」
   と、よろづに聞こえたまふ。
 
 と、さまざまに申し上げなさる。
 
 
 

第六段 柏木、猫の夢を見る

 
   よその思ひやりはいつくしく、もの馴れて見えたてまつらむも恥づかしく推し量られたまふに、「ただかばかり思ひつめたる片端聞こえ知らせて、なかなかかけかけしきことはなくて止みなむ」と思ひしかど、いとさばかり気高う恥づかしげにはあらで、なつかしくらうたげに、やはやはとのみ見えたまふ御けはひの、あてにいみじくおぼゆることぞ、人に似させたまはざりける。
 
 はたから想像すると威厳があって、馴れ馴れしくお逢い申し上げるのもこちらが気が引けるように思われるようなお方なので、「ただこのように思い詰めているほんの一部を申し上げて、なまじ色めいた振る舞いはしないでおこう」と思っていたが、実際それほど気品高く恥ずかしくなるような様子ではなくて、やさしくかわいらしくて、どこまでももの柔らかな感じにお見えになるご様子で、上品で素晴らしく思えることは、誰とも違う感じでいらっしゃるのであった。
 
   賢しく思ひ鎮むる心も失せて、「いづちもいづちも率て隠したてまつりて、わが身も世に経るさまならず、跡絶えて止みなばや」とまで思ひ乱れぬ。
 
 賢明に自制していた分別も消えて、「どこへなりとも連れて行ってお隠し申して、自分もこの世を捨てて、姿を隠してしまいたい」とまで思い乱れた。
 
   ただいささかまどろむともなき夢に、この手馴らしし猫の、いとらうたげにうち鳴きて来たるを、この宮に奉らむとて、わが率て来たるとおぼしきを、何しに奉りつらむと思ふほどに、おどろきて、いかに見えつるならむ、と思ふ。
 
 ただちょっとまどろんだとも思われない夢の中に、あの手なずけた猫がとてもかわいらしく鳴いてやって来たのを、この宮にお返し申し上げようとして、自分が連れて来たように思われたが、どうしてお返し申し上げようとしたのだろうと思っているうちに、目が覚めて、どうしてあんな夢を見たのだろう、と思う。
 
   宮は、いとあさましく、うつつともおぼえたまはぬに、胸ふたがりて、思しおぼほるるを、  宮は、あまりにも意外なことで、現実のことともお思いになれないので、胸がふさがる思いで、途方に暮れていらっしゃるのを、
   「なほ、かく逃れぬ御宿世の、浅からざりけると思ほしなせ。
 みづからの心ながらも、うつし心にはあらずなむ、おぼえはべる」
 「やはり、このように逃れられないご宿縁が、浅くなかったのだとお思い下さい。
 自分ながらも、分別心をなくしたように、思われます」
   かのおぼえなかりし御簾のつまを、猫の綱引きたりし夕べのことも聞こえ出でたり。
 
 あの身に覚えのなかった御簾の端を、猫の綱が引いた夕方のこともお話し申し上げた。
 
   「げに、さはたありけむよ」  「なるほど、そうであったことなのか」
   と、口惜しく、契り心憂き御身なりけり。
 「院にも、今はいかでかは見えたてまつらむ」と、悲しく心細くて、いと幼げに泣きたまふを、いとかたじけなく、あはれと見たてまつりて、人の御涙をさへ拭ふ袖は、いとど露けさのみまさる。
 
 と、残念に、前世からの宿縁が辛い御身の上なのであった。
 「院にも、今はどうしてお目にかかることができようか」と、悲しく心細くて、まるで子供のようにお泣きになるのを、まことに恐れ多く、いとしく拝見して、相手のお涙までを拭う袖は、ますます露けさがまさるばかりである。
 
 
 

第七段 きぬぎぬの別れ

 
   明けゆくけしきなるに、出でむ方なく、なかなかなり。
 
 夜が明けてゆく様子であるが、帰って行く気にもなれず、かえって逢わないほうがましであったほどである。
 
   「いかがはしはべるべき。
 いみじく憎ませたまへば、また聞こえさせむこともありがたきを、ただ一言御声を聞かせたまへ」
 「いったい、どうしたらよいのでしょう。
 ひどくお憎みになっていらっしゃるので、再びお話し申し上げることも難しいでしょうが、ただ一言だけでもお声をお聞かせ下さい」
   と、よろづに聞こえ悩ますも、うるさくわびしくて、もののさらに言はれたまはねば、  と、さまざまに申し上げて困らせるのも、煩わしく情けなくて、何もまったくおしゃれないので、
   「果て果ては、むくつけくこそなりはべりぬれ。
 また、かかるやうはあらじ」
 「しまいには、薄気味悪くさえなってしまいました。
 他に、このような例はありますまい」
   と、いと憂しと思ひきこえて、  と、まことに辛いとお思い申し上げて、
   「さらば不用なめり。
 身をいたづらにやはなし果てぬ。
 いと捨てがたきによりてこそ、かくまでもはべれ。
 今宵に限りはべりなむもいみじくなむ。
 つゆにても御心ゆるしたまふさまならば、それに代へつるにても捨てはべりなまし」
 「それでは生きていても無用のようですね。
 いっそ死んでしまいましょう。
 生きていたいからこそ、こうしてお逢いもしたのです。
 今晩限りの命と思うとたいそう辛うございます。
 少しでもお心を開いて下さるならば、それを引き換えにして命を捨てもしましょうが」
   とて、かき抱きて出づるに、果てはいかにしつるぞと、あきれて思さる。
 
 と言って、抱いて外へ出るので、しまいにはどうするのだろうと、呆然としていらっしゃる。
 
   隅の間の屏風をひき広げて、戸を押し開けたれば、渡殿の南の戸の、昨夜入りしがまだ開きながらあるに、まだ明けぐれのほどなるべし、ほのかに見たてまつらむの心あれば、格子をやをら引き上げて、  隅の間の屏風を広げて、妻戸を押し開けると、渡殿の南の戸の、昨夜入った所がまだ開いたままになっているが、まだ夜明け前の暗いころなのであろう、ちらっと拝見しようとの気があるので、格子を静かに引き上げて、
   「かう、いとつらき御心に、うつし心も失せはべりぬ。
 すこし思ひのどめよと思されば、あはれとだにのたまはせよ」
 「このように、まことに辛い無情なお仕打ちなので、正気も消え失せてしまいました。
 少しでも気持ちを落ち着けるようにとお思いならば、せめて一言かわいそうにとおっしゃって下さい」
   と、脅しきこゆるを、いとめづらかなりと思して物も言はむとしたまへど、わななかれて、いと若々しき御さまなり。
 
 と、脅して申し上げると、とんでもないとお思いになって、何かおっしゃろうとなさったが、震えるばかりで、ほんとうに子供っぽいご様子である。
 
   ただ明けに明けゆくに、いと心あわたたしくて、  ただ夜が明けて行くので、とても気が急かれて、
   「あはれなる夢語りも聞こえさすべきを、かく憎ませたまへばこそ。
 さりとも、今思し合はすることもはべりなむ」
 「しみじみとした夢語りも申し上げたいのですが、このようにお憎みになっていらっしゃるので。
 そうは言っても、やがてお思い当たりなさることもございましょう」
   とて、のどかならず立ち出づる明けぐれ、秋の空よりも心尽くしなり。
 
 と言って、気ぜわしく出て行く明けぐれ、秋の空よりも物思いをさせるのである。
 
 

490
 「起きてゆく 空も知られぬ 明けぐれに
 いづくの露の かかる袖なり」
 「起きて帰って行く先も分からない明けぐれに
  どこから露がかかって袖が濡れるのでしょう」
 
   と、ひき出でて愁へきこゆれば、出でなむとするに、すこし慰めたまひて、  と、袖を引き出して訴え申し上げるので、帰って行くのだろうと、少しほっとなさって、
 

491
 「明けぐれの 空に憂き身は 消えななむ
 夢なりけりと 見てもやむべく」
 「明けぐれの空にこの身は消えてしまいたいものです
  夢であったと思って済まされるように」
 
   と、はかなげにのたまふ声の、若くをかしげなるを、聞きさすやうにて出でぬる魂は、まことに身を離れて止まりぬる心地す。
 
 と、力弱くおっしゃる声が、若々しくかわいらしいのを、聞きも果てないようにして出てしまった魂は、ほんとうに身を離れて後に残った気がする。
 
 
 

第八段 柏木と女三の宮の罪の恐れ

 
   女宮の御もとにも参うでたまはで、大殿へぞ忍びておはしぬる。
 うち臥したれど目も合はず、見つる夢のさだかに合はむことも難きをさへ思ふに、かの猫のありしさま、いと恋しく思ひ出でらる。
 
 女宮のお側にもお帰りにならないで、大殿へこっそりとおいでになった。
 横にはなったが目も合わず、あの見た夢が当たるかどうか難しいことを思うと、あの夢の中の猫の様子が、とても恋しく思い出さずにはいられない。
 
   「さてもいみじき過ちしつる身かな。
 世にあらむことこそ、まばゆくなりぬれ」
 「それにしても大変な過ちを犯したものだな。
 この世に生きて行くことさえ、できなくなってしまった」
   と、恐ろしくそら恥づかしき心地して、ありきなどもしたまはず。
 女の御ためはさらにもいはず、わが心地にもいとあるまじきことといふ中にも、むくつけくおぼゆれば、思ひのままにもえ紛れありかず。
 
 と、恐ろしく何となく身もすくむ思いがして、外歩きなどもなさらない。
 女のお身の上は言うまでもなく、自分を考えてもまことにけしからぬ事という中でも、恐ろしく思われるので、気ままに出歩くことはとてもできない。
 
   帝の御妻をも取り過ちて、ことの聞こえあらむに、かばかりおぼえむことゆゑは、身のいたづらにならむ、苦しくおぼゆまじ。
 しか、いちじるき罪にはあたらずとも、この院に目をそばめられたてまつらむことは、いと恐ろしく恥づかしくおぼゆ。
 
 帝のお妃との間に間違いを起こして、それが評判になったような時に、これほど苦しい思いをするなら、そのために死ぬことも、苦しくないことだろう。
 それほど、ひどい罪に当たらなくても、この院に睨まれ申すことは、まことに恐ろしく目も合わせられない気がする。
 
   限りなき女と聞こゆれど、すこし世づきたる心ばへ混じり、上はゆゑあり子めかしきにも、従はぬ下の心添ひたるこそ、とあることかかることにうちなびき、心交はしたまふたぐひもありけれ、これは深き心もおはせねど、ひたおもむきにもの懼ぢしたまへる御心に、ただ今しも、人の見聞きつけたらむやうに、まばゆく、恥づかしく思さるれば、明かき所にだにえゐざり出でたまはず。
 いと口惜しき身なりけりと、みづから思し知るべし。
 
 この上ない高貴な身分の女性とは申し上げても、少し夫婦馴れした所もあって、表面は優雅でおっとりしていても、心中はそうでもない所があるのは、あれやこれやの男の言葉に靡いて、情けをお交わしなさる例もあるのだが、この方は深い思慮もおありでないが、ひたすら恐がりなさるご性質なので、もう今にも誰かが見つけたり聞きつけたりしたかのように、目も上げられず、後ろめたくお思いなさるので、明るい所へいざり出なさることさえおできになれない。
 まことに情けないわが身の上だと、自分自身お分りになるのであろう。
 
   悩ましげになむ、とありければ、大殿聞きたまひて、いみじく御心を尽くしたまふ御事にうち添へて、またいかにと驚かせたまひて、渡りたまへり。
 
 ご気分がすぐれない、とあったので、大殿はお聞きになって、たいそうお心をお尽くしになるご看病に加えて、またどうしたことかとお驚きあそばして、お渡りになった。
 
   そこはかと苦しげなることも見えたまはず、いといたく恥ぢらひしめりて、さやかにも見合はせたてまつりたまはぬを、「久しくなりぬる絶え間を恨めしく思すにや」と、いとほしくて、かの御心地のさまなど聞こえたまひて、  どこそこと苦しそうな事もお見えにならず、とてもひどく恥ずかしがり沈み込んで、まともにお顔をお合わせ申されないのを、「長くなった絶え間を恨めしくお思いになっていらっしゃるのか」と、お気の毒に思って、あちらのご病状などをお話し申し上げなさって、
   「今はのとぢめにもこそあれ。
 今さらにおろかなるさまを見えおかれじとてなむ。
 いはけなかりしほどより扱ひそめて、見放ちがたければ、かう月ごろよろづを知らぬさまに過ぐしはべるぞ。
 おのづから、このほど過ぎば、見直したまひてむ」
 「もう最期かも知れません。
 今になって薄情な態度だと思われまいと思いましてね。
 幼いころからお世話して来て、放って置けないので、このように幾月も何もかもうち忘れて看病して来たのですよ。
 いつか、この時期が過ぎたら、きっとお見直し頂けるでしょう」
   など聞こえたまふ。
 かくけしきも知りたまはぬも、いとほしく心苦しく思されて、宮は人知れず涙ぐましく思さる。
 
 などと申し上げなさる。
 このようにお気づきでないのも、お気の毒にも心苦しくもお思いになって、宮は人知れずつい涙が込み上げてくる。
 
 
 

第九段 柏木と女二の宮の夫婦仲

 
   督の君は、まして、なかなかなる心地のみまさりて、起き臥し明かし暮らしわびたまふ。
 祭の日などは、物見に争ひ行く君達かき連れ来て言ひそそのかせど、悩ましげにもてなして、眺め臥したまへり。
 
 督の君は、宮以上に、かえって苦しさがまさって、寝ても起きても明けても暮れても日を暮らしかねていらっしゃる。
 祭の日などは、見物に先を争って行く公達が連れ立って誘うが、悩ましそうにして物思いに沈んで横になっていらっしゃった。
 
   女宮をば、かしこまりおきたるさまにもてなしきこえて、をさをさうちとけても見えたてまつりたまはず、わが方に離れゐて、いとつれづれに心細く眺めゐたまへるに、童べの持たる葵を見たまひて、  女宮を、丁重にお扱い申しているが、親しくお逢い申されることもほとんどなさらず、ご自分の部屋に離れて、とても所在なさそうに心細く物思いに耽っていらっしゃるところに、女童が持っている葵を御覧になって、
 

492
 「悔しくぞ 摘み犯しける 葵草
 神の許せる かざしならぬに」
 「悔しい事に罪を犯してしまったことよ
  神が許した仲ではないのに」
 
   と思ふも、いとなかなかなり。
 
 と思うにつけても、まことになまじ逢わないほうがましな思いである。
 
   世の中静かならぬ車の音などを、よそのことに聞きて、人やりならぬつれづれに、暮らしがたくおぼゆ。
 
 世間のにぎやかな車の音などを、他人事のように聞いて、我から招いた物思いに、一日が長く思われる。
 
   女宮も、かかるけしきのすさまじげさも見知られたまへば、何事とは知りたまはねど、恥づかしくめざましきに、もの思はしくぞ思されける。
 
 女宮も、このような様子のつまらなさそうなのがお分かりになるので、どのような事情とはお分かりにならないが、気が引け心外なと思われるにつけ、面白くない思いでいられるのであった。
 
   女房など、物見に皆出でて、人少なにのどやかなれば、うち眺めて、箏の琴なつかしく弾きまさぐりておはするけはひも、さすがにあてになまめかしけれど、「同じくは今ひと際及ばざりける宿世よ」と、なほおぼゆ。
 
 女房などは、見物に皆出かけて、人少なでのんびりしているので、物思いに耽って、箏の琴をやさしく弾くともなしに弾いていらっしゃるご様子も、内親王だけあって高貴で優雅であるが、「同じ皇女を頂くなら、もう一段及ばなかった運命よ」と、今なお思われる。
 
 

493
 「もろかづら 落葉を何に 拾ひけむ
 名は睦ましき かざしなれども」
 「劣った落葉のような方をどうして娶ったのだろう
  同じ院のご姉妹ではあるが」
 
   と書きすさびゐたる、いとなめげなるしりう言なりかし。
 
 と遊び半分に書いているのは、まこと失礼な蔭口である。
 
 
 

第八章 紫の上の物語 死と蘇生

 
 

第一段 紫の上、絶命す

 
   大殿の君は、まれまれ渡りたまひて、えふとも立ち帰りたまはず、静心なく思さるるに、  大殿の君は、たまたまお渡りになって、すぐにはお帰りになることもできず、落ち着いていらっしゃれないところに、
   「絶え入りたまひぬ」  「息をお引きとりになりました」
   とて、人参りたれば、さらに何事も思し分かれず、御心も暮れて渡りたまふ。
 道のほどの心もとなきに、げにかの院は、ほとりの大路まで人立ち騒ぎたり。
 殿のうち泣きののしるけはひ、いとまがまがし。
 我にもあらで入りたまへれば、
 と言って、使者が参上したので、まったく何を考えることもおできになれず、お心も真暗になってお帰りになる。
 その道中気が気でないところ、なるほどあちらの院は、周囲の大路まで人が騷ぎ立っていた。
 邸の中の泣きわめいている様子、まことに不吉である。
 無我夢中で中にお入りになると、
   「日ごろは、いささか隙見えたまへるを、にはかになむ、かくおはします」  「ここのところ数日は、少しよろしいようにお見えになったのですが、急に、このようにおなりになりました」
   とて、さぶらふ限りは、我も後れたてまつらじと、惑ふさまども、限りなし。
 御修法どもの檀こぼち、僧なども、さるべき限りこそまかでね、ほろほろと騒ぐを見たまふに、「さらば限りにこそは」と思し果つるあさましさに、何事かはたぐひあらむ。
 
 と言って、控えている女房たちは皆、自分も後を追おうと、うろうろしている者たちが、数限りない。
 いく壇もの御修法の壇を壊して、僧たちも残るべき人は残っているが、ばらばらと立ち騒ぐのを御覧になると、「それではもう最期なのだ」とお思い切りなさるその情けなさに、他にどのような比べるものがあろうか。
 
   「さりとも、もののけのするにこそあらめ。
 いと、かくひたぶるにな騷ぎそ」
 「そうは言っても、物の怪のすることであろう。
 まことに、そんなにむやみに騒ぐな」
   と鎮めたまひて、いよいよいみじき願どもを立て添へさせたまふ。
 すぐれたる験者どもの限り召し集めて、
 と皆をお静めになって、ますます大層ないくつもの願をお立て加えさせなさる。
 すぐれた験者たちをすべて召し集めて、
   「限りある御命にて、この世尽きたまひぬとも、ただ、今しばしのどめたまへ。
 不動尊の御本の誓ひあり。
 その日数をだに、かけ止めたてまつりたまへ」
 「有限なご寿命であるから、この世でのご寿命が終わったとしても、ただ、もう暫く延ばして下さい。
 不動尊の御本の誓いがあります。
 せめてその日数だけでも、この世にお引き止め申して下さい」
   と、頭よりまことに黒煙を立てて、いみじき心を起こして加持したてまつる。
 院も、
 と、頭から本当に黒い煙を立てて、大変な熱心さでご加持申し上げる。
 院も、
   「ただ、今一度目を見合はせたまへ。
 いとあへなく限りなりつらむほどをだに、え見ずなりにけることの、悔しく悲しきを」
 「ただ、もう一度目と目を見合わせて下さい。
 まったくあっけなく臨終の時をさえ、会わずじまいであったことが、悔しく悲しいのですよ」
   と思し惑へるさま、止まりたまふべきにもあらぬを、見たてまつる心地ども、ただ推し量るべし。
 いみじき御心のうちを、仏も見たてまつりたまふにや、月ごろさらに現はれ出で来ぬもののけ、小さき童女に移りて、呼ばひののしるほどに、やうやう生き出でたまふに、うれしくもゆゆしくも思し騒がる。
 
 と取り乱している様子は、生き残っていらっしゃることができそうにないのを、拝見する心地は、ただ想像できよう。
 大変なご悲痛を、仏も御照覧申されたのであろうか、このいく月もまったく現れなかった物の怪が小さい童に乗り移って、大声でわめくうちに、だんだんと生き返っていらっしゃって、嬉しくも不吉にもお心が騒がずにはいらっしゃれない。
 
 
 

第二段 六条御息所の死霊出現

 
   いみじく調ぜられて、  ひどく調伏されて、
   「人は皆去りね。
 院一所の御耳に聞こえむ。
 おのれを月ごろ調じわびさせたまふが、情けなくつらければ、同じくは思し知らせむと思ひつれど、さすがに命も堪ふまじく、身を砕きて思し惑ふを見たてまつれば、今こそ、かくいみじき身を受けたれ、いにしへの心の残りてこそ、かくまでも参り来たるなれば、ものの心苦しさをえ見過ぐさで、つひに現はれぬること。
 さらに知られじと思ひつるものを」
 「他の人は皆去りなさい。
 院お一人方のお耳に申し上げたい。
 自分をこのいく月も調伏し困らせなさるのが薄情で辛いので、同じことならお知らせしようと思ったが、そうは言っても命が耐えられないほど、身を粉にして悲嘆に暮れていらっしゃるご様子を拝見すると、今でこそ、このようなあさましい姿に変わっているが、昔の愛執が残っていればこそ、このように参上したので、お気の毒な様子を放って置くことができなくて、とうとう現れ出てしまったのです。
 決して知られまいと思っていたのに」
   とて、髪を振りかけて泣くけはひ、ただ昔見たまひしもののけのさまと見えたり。
 あさましく、むくつけしと、思ししみにしことの変はらぬもゆゆしければ、この童女の手をとらへて、引き据ゑて、さま悪しくもせさせたまはず。
 
 と言って、髪を振り掛けて泣く様子は、まったく昔御覧になった物の怪の恰好と見えた。
 こんなことがこの世にあろうか、恐ろしいことだと、心底お思い込みになったことが相変わらず忌まわしいことなので、この童女の手を捉えて、じっとさせて、体裁の悪いようにはおさせにならない。
 
   「まことにその人か。
 よからぬ狐などいふなるものの、たぶれたるが、亡き人の面伏なること言ひ出づるもあなるを、たしかなる名のりせよ。
 また人の知らざらむことの、心にしるく思ひ出でられぬべからむを言へ。
 さてなむ、いささかにても信ずべき」
 「本当にあなたか。
 良くない狐などと言うもので、気の狂ったのが、亡くなった人の不名誉になることを言い出すということもあると言うから、はっきりと名乗りをせよ。
 また誰も知らないようなことで、心にはっきりと思い出されるようなことを言いなさい。
 そうすれば、少しは信じもしよう」
   とのたまへば、ほろほろといたく泣きて、  とおっしゃると、ぽろぽろとひどく泣いて、
 

494
 「わが身こそ あらぬさまなれ それながら
 そらおぼれする 君は君なり
 「わたしはこんな変わりはてた身の上となってしまったが
  知らないふりをするあなたは昔のままですね
 
   いとつらし、いとつらし」  とてもひどい方だわ、とてもひどい方だわ」
   と泣き叫ぶものから、さすがにもの恥ぢしたるけはひ、変らず、なかなかいと疎ましく、心憂ければ、もの言はせじと思す。
 
 と泣き叫ぶ一方で、そうはいっても恥ずかしがっている様子、昔に変わらず、かえってまことに疎ましい気がし、情けないので、何も言わせまいとお思いになる。
 
   「中宮の御事にても、いとうれしくかたじけなしとなむ、天翔りても見たてまつれど、道異になりぬれば、子の上までも深くおぼえぬにやあらむ、なほ、みづからつらしと思ひきこえし心の執なむ、止まるものなりける。
 
 「中宮の御事につけても、大変に嬉しく有り難いことだと、魂が天翔りながら拝見していますが、明幽境を異にしてしまったので、子の身の上までも深く思われないのでしょうか、やはり、自分自身がひどい方だとお思い申し上げた方への愛執が残るのでした。
 
   その中にも、生きての世に、人より落として思し捨てしよりも、思ふどちの御物語のついでに、心善からず憎かりしありさまをのたまひ出でたりしなむ、いと恨めしく。
 今はただ亡きに思し許して、異人の言ひ落としめむをだに、はぶき隠したまへとこそ思へ、とうち思ひしばかりに、かくいみじき身のけはひなれば、かく所狭きなり。
 
 その中でも、生きているうちに、人より軽いお扱いをなさってお見捨てになったことよりも、お親しい者どうしのお話の時に、性格が善くない扱いにくい女であったとおっしゃったのが、まことに恨めしくて。
 今はもう亡くなってしまったのだからとお許し下さって、他人が悪口を言うのでさえ、打ち消してかばって戴きたいと思うと、その思っただけで、このように恐ろしい身の上なので、このように大変なことになったのです。
 
   この人を、深く憎しと思ひきこゆることはなけれど、守り強く、いと御あたり遠き心地して、え近づき参らず、御声をだにほのかになむ聞きはべる。
 
 この方を、心底憎いと思い申すことはないが、あなたの神仏の加護が強くて、とてもご身辺は遠い感じがして、近づき参ることができず、お声さえもかすかに聞くだけでおります。
 
   よし、今は、この罪軽むばかりのわざをせさせたまへ。
 修法、読経とののしることも、身には苦しくわびしき炎とのみまつはれて、さらに尊きことも聞こえねば、いと悲しくなむ。
 
 よし、今はもう、この罪障を軽めることをなさって下さい。
 修法や読経の大声を立てることも、わが身には苦しく情けない炎となってまつわりつくばかりで、まったく尊いお経の声も聞こえないので、まことに悲しい気がします。
 
   中宮にも、このよしを伝へ聞こえたまへ。
 ゆめ御宮仕へのほどに、人ときしろひ嫉む心つかひたまふな。
 斎宮におはしまししころほひの御罪軽むべからむ功徳のことを、かならずせさせたまへ。
 いと悔しきことになむありける」
 中宮にも、この旨をお伝え申し上げて下さい。
 決して御宮仕え中に、他人と争ったり嫉妬したりする気をお持ちになってなりません。
 斎宮でいらっしゃったころのご罪障を軽くするような功徳のことを、必ずなさるように。
 ほんとうに残念なことでしたよ」
   など、言ひ続くれど、もののけに向かひて物語したまはむも、かたはらいたければ、封じ込めて、上をば、また異方に、忍びて渡したてまつりたまふ。
 
 などと、言い続けるが、物の怪に向かってお話なさることも、気が引けることなので、物の怪を封じ込めて、紫の上を、別の部屋に、こっそりお移し申し上げなさる。
 
 
 

第三段 紫の上、死去の噂流れる

 
   かく亡せたまひにけりといふこと、世の中に満ちて、御弔らひに聞こえたまふ人びとあるを、いとゆゆしく思す。
 今日の帰さ見に出でたまひける上達部など、帰りたまふ道に、かく人の申せば、
 このようにお亡くなりになったという噂が、世間に広がって、ご弔問に参上なさる方々がいるのを、まことに縁起でもなくお思いになる。
 今日の祭の翌日の行列の見物にお出かけになった上達部などは、お帰りになる道すがら、このように人が申すので、
   「いといみじきことにもあるかな。
 生けるかひありつる幸ひ人の、光失ふ日にて、雨はそほ降るなりけり」
 「大変な事になったな。
 この世の生甲斐を満喫した幸福な方が、光を失う日なので、雨がしょぼしょぼ降るのだな」
   と、うちつけ言したまふ人もあり。
 また、
 と、思いつきの発言をなさる方もいる。
 また、
   「かく足らひぬる人は、かならずえ長からぬことなり。
 『何を桜に』といふ古言もあるは。
 かかる人の、いとど世にながらへて、世の楽しびを尽くさば、かたはらの人苦しからむ。
 今こそ、二品の宮は、もとの御おぼえ現はれたまはめ。
 いとほしげに圧されたりつる御おぼえを」
 「このようにすべてに満ち足りた方は、必ず寿命も長くはないことです。
 『何を桜に』と言う古歌もあることよ。
 このような方が、ますます世に長生きをして、この世の楽しみの限りを尽くしたら、はたの人が迷惑するだろう。
 これでやっと、二品の宮は、本来のご寵愛をお受けになられることだろう。
 お気の毒に圧倒されていたご寵愛であったから」
   など、うちささめきけり。
 
 などと、ひそひそ噂するのであった。
 
   衛門督、昨日暮らしがたかりしを思ひて、今日は、御弟ども、左大弁、藤宰相など、奥の方に乗せて見たまひけり。
 かく言ひあへるを聞くにも、胸うちつぶれて、
 衛門督は、昨日一日とても過ごしにくかったことを思って、今日は、弟の方々の、左大弁、藤宰相など、車の奥の方に乗せて見物なさった。
 このように噂しあっているのを聞くにつけても、胸がどきっとして、
   「何か憂き世に久しかるべき」  「どうして嫌な世の中に長生きしようか」
   と、うち誦じ独りごちて、かの院へ皆参りたまふ。
 たしかならぬことなればゆゆしくや、とて、ただおほかたの御訪らひに参りたまへるに、かく人の泣き騒げば、まことなりけりと、立ち騷ぎたまへり。
 
 と、独り口ずさんで、あちらの院に皆で参上なさる。
 不確かなことなので縁起でもないことを言っては、と思って、ただ普通のお見舞いの形で参上したところ、このように人が泣き叫んでいるので、本当だったのだなと、驚きなさった。
 
   式部卿宮も渡りたまひて、いといたく思しほれたるさまにてぞ入りたまふ。
 人の御消息も、え申し伝へたまはず。
 大将の君、涙を拭ひて立ち出でたまへるに、
 式部卿宮もお越しになって、とてもひどくご悲嘆なさった様子でお入りになる。
 一般の方々のご弔問も、お伝え申し上げることがおできになれない。
 大将の君が、涙を拭って出ていらっしゃったので、
   「いかに、いかに。
 ゆゆしきさまに人の申しつれば、信じがたきことにてなむ。
 ただ久しき御悩みをうけたまはり嘆きて参りつる」
 「いかがですか、いかがですか。
 縁起でもないふうに皆が申しましたので、信じがたいことです。
 ただ長い間のご病気と承って嘆いて参上しました」
   などのたまふ。
 
 などとおっしゃる。
 
   「いと重くなりて、月日経たまへるを、この暁より絶え入りたまへりつるを、もののけのしたるになむありける。
 やうやう生き出でたまふやうに聞きなしはべりて、今なむ皆人心静むめれど、まだいと頼もしげなしや。
 心苦しきことにこそ」
 「大変に重態になって、月日を送っていらっしゃったが、今日の夜明け方から息絶えてしまわれましたが、物の怪の仕業でした。
 だんだんと息を吹き返しなさったふうに聞きまして、今ちょうど皆安心したようですが、まだとても気がかりでなりません。
 おいたわしい限りです」
   とて、まことにいたく泣きたまへるけしきなり。
 目もすこし腫れたり。
 衛門督、わがあやしき心ならひにや、『この君の、いとさしも親しからぬ継母の御ことを、いたく心しめたまへるかな』、と目をとどむ。
 
 と言って、本当にひどくお泣きになるご様子である。
 目も少し腫れている。
 衛門督は、自分のけしからぬ気持ちに照らしてか、この君が、大して親しい関係でもない継母のご病気を、ひどく悲嘆していらっしゃるなと、目を止める。
 
   かく、これかれ参りたまへるよし聞こし召して、  このように、いろいろな方々がお見舞いに参上なさった旨をお聞きになって、
   「重き病者の、にはかにとぢめつるさまなりつるを、女房などは、心もえ収めず、乱りがはしく騷ぎはべりけるに、みづからもえのどめず、心あわたたしきほどにてなむ。
 ことさらになむ、かくものしたまへるよろこびは聞こゆべき」
 「重病人が、急に息を引き取ったふうになったのですが、女房たちは、冷静さを失って、取り乱して騷ぎましたが、自分自身も落ちつきをなくして、取り乱しております。
 後日改めて、このお見舞いにはお礼申し上げます」
   とのたまへり。
 督の君は胸つぶれて、かかる折のらうらうならずはえ参るまじく、けはひ恥づかしく思ふも、心のうちぞ腹ぎたなかりける。
 
 とおっしゃった。
 督の君は胸がどきっとして、このようなのっぴきならぬ事情がなければ参上できそうになく、何がなし恐ろしい気がするのも、心中後ろめたいところがあるからなのであった。
 
 
 

第四段 紫の上、蘇生後に五戒を受く

 
   かく生き出でたまひての後しも、恐ろしく思して、またまた、いみじき法どもを尽くして加へ行なはせたまふ。
 
 このように生き返りなさった後は、恐ろしくお思いになって、再度、大変ないくつもの修法のあらん限りを追加して行わせなさる。
 
   うつし人にてだに、むくつけかりし人の御けはひの、まして世変はり、妖しきもののさまになりたまへらむを思しやるに、いと心憂ければ、中宮を扱ひきこえたまふさへぞ、この折はもの憂く、言ひもてゆけば、女の身は、皆同じ罪深きもとゐぞかしと、なべての世の中厭はしく、かの、また人も聞かざりし御仲の睦物語に、すこし語り出でたまへりしことを言ひ出でたりしに、まことと思し出づるに、いとわづらはしく思さる。
 
 生きていた時の人でさえ、嫌な気がしたご様子の方が、まして死後に、異形のものに姿を変えていらっしゃるのだろうことをご想像なさると、まことに気味が悪いので、中宮をお世話申し上げなさることまでが、この際は億劫になり、せんじつめれば、女性の身は、皆同様に罪障の深いものだと、すべての男女関係が嫌になって、あの、他人は聞かなかったお二人の睦言に、少しお話し出しになったことを言い出したので、確かにそうだとお思い出しになると、まことに厄介なことに思わずにはいらっしゃれない。
 
   御髪下ろしてむと切に思したれば、忌むことの力もやとて、御頂しるしばかり挟みて、五戒ばかり受けさせたてまつりたまふ。
 御戒の師、忌むことのすぐれたるよし、仏に申すにも、あはれに尊きこと混じりて、人悪く御かたはらに添ひゐて、涙おし拭ひたまひつつ、仏を諸心に念じきこえたまふさま、世にかしこくおはする人も、いとかく御心惑ふことにあたりては、え静めたまはぬわざなりけり。
 
 御髪を下ろしたいと切望なさっているので、持戒による功徳もあろうかと考えて、頭の頂を形式的に挟みを入れて、五戒だけをお受けさせ申し上げなさる。
 御戒の師が、持戒のすぐれている旨を仏に申すにつけても、しみじみと尊い文句が混じっていて、体裁が悪いまでお側にお付きなさって、涙をお拭いになりながら、仏を一緒にお念じ申し上げなさる様子は、この世に又となく立派でいらっしゃる方も、まことにこのようにご心痛になる非常時に当たっては、冷静ではいらっしゃれないものなのであった。
 
   いかなるわざをして、これを救ひかけとどめたてまつらむとのみ、夜昼思し嘆くに、ほれぼれしきまで、御顔もすこし面痩せたまひにたり。
 
 どのような手立てをしてでも、この方をお救い申しこの世に引き止めておこうとばかり、昼夜お嘆きになっているので、ぼうっとするほどになって、お顔も少しお痩せになっていた。
 
 
 

第五段 紫の上、小康を得る

 
   五月などは、まして、晴れ晴れしからぬ空のけしきに、えさはやぎたまはねど、ありしよりはすこし良ろしきさまなり。
 されど、なほ絶えず悩みわたりたまふ。
 
 五月などは、これまで以上に、晴々しくない空模様で、すっきりした気分におなりになれないが、以前よりは少し良い状態である。
 けれども、やはりずっと絶えることなくお悩みになっている。
 
   もののけの罪救ふべきわざ、日ごとに法華経一部づつ供養ぜさせたまふ。
 日ごとに何くれと尊きわざせさせたまふ。
 御枕上近くても、不断の御読経、声尊き限りして読ませたまふ。
 現はれそめては、折々悲しげなることどもを言へど、さらにこのもののけ去り果てず。
 
 物の怪の罪障を救えるような仏事として、毎日法華経を一部ずつ供養させなさる。
 毎日何やかやと尊い供養をおさせになる。
 御枕元近くでも、不断の御読経を、声の尊い人だけを選んでおさせになる。
 物の怪が正体を現すようになってからは、時々悲しげなことを言うが、まったくこの物の怪がすっかり消え去ったというわけではない。
 
   いとど暑きほどは、息も絶えつつ、いよいよのみ弱りたまへば、いはむかたなく思し嘆きたり。
 なきやうなる御心地にも、かかる御けしきを心苦しく見たてまつりたまひて、
 ますます暑いころは、息も絶え絶えになって、ますますご衰弱なさるので、何とも言いようがないほどお嘆きになった。
 意識もないようなご病状の中でも、このようなご様子をお気の毒に拝見なさって、
   「世の中に亡くなりなむも、わが身にはさらに口惜しきこと残るまじけれど、かく思し惑ふめるに、空しく見なされたてまつらむが、いと思ひ隈なかるべければ」、  「この世から亡くなっても、わたしには少しも残念だと思われることはないが、これほどご心痛のようなので、自分の亡骸をお目にかけるのも、いかにも思いやりのないことだから」
   思ひ起こして、御湯などいささか参るけにや、六月になりてぞ、時々御頭もたげたまひける。
 めづらしく見たてまつりたまふにも、なほ、いとゆゆしくて、六条の院にはあからさまにもえ渡りたまはず。
 
 と、気力を奮い起こして、お薬湯などを少し召し上がったせいか、六月になってからは、時々頭を枕からお上げになった。
 珍しいことと拝見なさるにつけても、やはり、とても危なそうなので、六条院にはわずかの間でもお出向きになることができない。
 
 
 

第九章 女三の宮の物語 懐妊と密通の露見

 
 

第一段 女三の宮懐妊す

 
   姫宮は、あやしかりしことを思し嘆きしより、やがて例のさまにもおはせず、悩ましくしたまへど、おどろおどろしくはあらず、立ちぬる月より、物きこし召さで、いたく青みそこなはれたまふ。
 
 姫宮は、わけの分からなかった出来事をお嘆きになって以来、そのまま普通のお具合ではいらっしゃらず、苦しそうにしておいでであったが、そうひどい状態でもなく、先月から、食べ物をお召し上がりにならず、ひどく蒼ざめてやつれていらっしゃる。
 
   かの人は、わりなく思ひあまる時々は、夢のやうに見たてまつりけれど、宮、尽きせずわりなきことに思したり。
 院をいみじく懼ぢきこえたまへる御心に、ありさまも人のほども、等しくだにやはある、いたくよしめきなまめきたれば、おほかたの人目にこそ、なべての人には優りてめでらるれ、幼くより、さるたぐひなき御ありさまに馴らひたまへる御心には、めざましくのみ見たまふほどに、かく悩みわたりたまふは、あはれなる御宿世にぞありける。
 
 あの人は、無性に我慢ができない時々には、夢のようにお逢い申し上げたが、宮は、どこまでも無体なことだとお思いになっていた。
 院をひどくお恐がり申されるお気持ちから、態度も人品も、同等に見られようか、たいそう風流っぽく優美にしているので、一般の目には、普通の人以上に誉められるが、幼い時から、そのように類例のないご様子の方に馴れ親しんでいらっしゃるお心にとっては、心外な者とばかり見ていらっしゃるうちに、このようにずっとお悩みになることは、気の毒なご運命であった。
 
   御乳母たち見たてまつりとがめて、院の渡らせたまふこともいとたまさかになるを、つぶやき恨みたてまつる。
 
 御乳母たちは懐妊の様子に気がついて、院がお越しになることも実にたまにでしかないのを、ぶつぶつお恨み申し上げる。
 
   かく悩みたまふと聞こし召してぞ渡りたまふ。
 女君は、暑くむつかしとて、御髪澄まして、すこしさはやかにもてなしたまへり。
 臥しながらうちやりたまへりしかば、とみにも乾かねど、つゆばかりうちふくみ、まよふ筋もなくて、いときよらにゆらゆらとして、青み衰へたまへるしも、色は真青に白くうつくしげに、透きたるやうに見ゆる御肌つきなど、世になくらうたげなり。
 もぬけたる虫の殻などのやうに、まだいとただよはしげにおはす。
 
 このようにお苦しみでいらっしゃるとお聞きになってお出かけになる。
 女君は、暑く苦しいと言って、御髪を洗って、少しさわやかにしていらっしゃった。
 横になりながら髪を投げ出していらっしゃったので、すぐには乾かないが、少しもふくらんだり、乱れたりした毛もなくて、実に清らかにゆらゆらとたっぷりあって、蒼く痩せていらっしゃるのが、かえって青白くかわいらしげに見え、透き透ったように見えるお肌つきなどは、又とないほど可憐な感じである。
 脱皮した虫の脱殻かのように、まだとても頼りない感じでいらっしゃる。
 
   年ごろ住みたまはで、すこし荒れたりつる院の内、たとしへなく狭げにさへ見ゆ。
 昨日今日かくものおぼえたまふ隙にて、心ことにつくろはれたる遣水、前栽の、うちつけに心地よげなるを見出だしたまひても、あはれに、今まで経にけるを思ほす。
 
 長年お住みにならなかったので、多少荒れていた院の内、喩えようもないくらい手狭な感じにさえ見える。
 昨日今日とこのように意識のおありの時に、特別に手入れをさせた遣水、前栽が、急にさわやかに感じられるのを御覧になっても、しみじみと、今まで過ごしてきたことをお思いになる。
 
 
 

第二段 源氏、紫の上と和歌を唱和す

 
   池はいと涼しげにて、蓮の花の咲きわたれるに、葉はいと青やかにて、露きらきらと玉のやうに見えわたるを、  池はとても涼しそうで、蓮の花が一面に咲いているところに、葉はとても青々として、露がきらきらと玉のように一面に見えるのを、
   「かれ見たまへ。
 おのれ一人も涼しげなるかな」
 「あれを御覧なさい。
 自分ひとりだけ涼しそうにしているね」
   とのたまふに、起き上がりて見出だしたまへるも、いとめづらしければ、  とおっしゃると、起き上がって外を御覧になるのも、実に珍しいことなので、
   「かくて見たてまつるこそ、夢の心地すれ。
 いみじく、わが身さへ限りとおぼゆる折々のありしはや」
 「このように拝見するのさえ、夢のような気がします。
 ひどく、自分自身までが終わりかと思われた時がありましたよ」
   と、涙を浮けてのたまへば、みづからもあはれに思して、  と涙を浮かべておっしゃると、自分自身でも胸がいっぱいになって、
 

495
 「消え止まる ほどやは経べき たまさかに
 蓮の露の かかるばかりを」
 「露が消え残っている間だけでも生きられましょうか
  たまたま蓮の露がこうしてあるほどの命ですから」
 
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
 

496
 「契り置かむ この世ならでも 蓮葉に
 玉ゐる露の 心隔つな」
 「お約束して置きましょう、この世ばかりでなく来世に蓮の葉の上に
  玉と置く露のようにいささかも心の隔てを置きなさいますな」
 
   出でたまふ方ざまはもの憂けれど、内裏にも院にも、聞こし召さむところあり、悩みたまふと聞きてもほど経ぬるを、目に近きに心を惑はしつるほど、見たてまつることもをさをさなかりつるに、かかる雲間にさへやは絶え籠もらむと、思し立ちて、渡りたまひぬ。
 
 お出かけになる先は億劫であるが、帝におかれても院おかれても、お耳にあそばすこともあるので、ご病気と聞いてしばらくたっているので、目の前の病人に心を混乱させていた間、お目にかかることもほとんどなかったので、このような雲の晴れ間にまで引き籠もっていては、とお思い立ちになって、お出かけになった。
 
 
 

第三段 源氏、女三の宮を見舞う

 
   宮は、御心の鬼に、見えたてまつらむも恥づかしう、つつましく思すに、物など聞こえたまふ御いらへも、聞こえたまはねば、日ごろの積もりを、さすがにさりげなくてつらしと思しけると、心苦しければ、とかくこしらへきこえたまふ。
 大人びたる人召して、御心地のさまなど問ひたまふ。
 
 宮は、良心の呵責に苛まれて、お会いするのも恥ずかしく、気が引けてお思いになると、何かおっしゃるお言葉にも、お返事申し上げなさらないので、長い間会わずにいたことを、そうと言わないけれど辛くお思いになっているのだと、お気の毒なので、あれやこれやとお慰めになる。
 年輩の女房を召して、ご気分の様子などをお尋ねになる。
 
   「例のさまならぬ御心地になむ」  「普通のお身体ではいらっしゃいません」
   と、わづらひたまふ御ありさまを聞こゆ。
 
 と、ご気分のすぐれないご様子を申し上げる。
 
   「あやしく。
 ほど経てめづらしき御ことにも」
 「妙だな。
 今ごろになってご妊娠だとは」
   とばかりのたまひて、御心のうちには、  とだけおっしゃって、ご心中には、
   「年ごろ経ぬる人びとだにもさることなきを、不定なる御事にもや」 「長年連れ添った妻たちでさえそのようなことはなかったのに、不確かなことなので、どうなのか」
   と思せば、ことにともかくものたまひあへしらひたまはで、ただ、うち悩みたまへるさまのいとらうたげなるを、あはれと見たてまつりたまふ。
 
 とお思いなさるので、特にあれこれとおっしゃらずに、ただ、お苦しみでいらっしゃる様子がとても痛々しげなのを、いたわしく拝見なさる。
 
   からうして思し立ちて渡りたまひしかば、ふともえ帰りたまはで、二、三日おはするほど、「いかに、いかに」とうしろめたく思さるれば、御文をのみ書き尽くしたまふ。
 
 やっとのことでお思い立ちになってお越しになったので、すぐにはお帰りになることはできず、二、三日いらっしゃる間、「どうしているだろうか、どうしているだろうか」と気がかりにお思いになるので、お手紙ばかりをこまごまとお書きになる。
 
   「いつの間に積もる御言の葉にかあらむ。
 いでや、やすからぬ世をも見るかな」
 「いつの間にたくさんお言葉が溜るのでしょう。
 まあ、何と、心配でならないこと」
   と、若君の御過ちを知らぬ人は言ふ。
 侍従ぞ、かかるにつけても胸うち騷ぎける。
 
 と、若君の御過ちを知らない女房は言う。
 侍従だけは、このようなことにつけても胸騷ぎがするのであった。
 
   かの人も、かく渡りたまへりと聞くに、おほけなく心誤りして、いみじきことどもを書き続けて、おこせたまへり。
 対にあからさまに渡りたまへるほどに、人間なりければ、忍びて見せたてまつる。
 
 あの人も、このようにお越しになっていると聞くと、大それた考え違いを起こして、大層な訴え事を書き綴っておよこしになった。
 対の屋にちょっとお渡りになっている間に、人少なであったので、こっそりとお見せ申し上げる。
 
   「むつかしきもの見するこそ、いと心憂けれ。
 心地のいとど悪しきに」
 「厄介な物を見せるのは、とても辛いわ。
 気分がますます悪くなりますから」
   とて臥したまへれば、  と言ってお臥せになっているので、
   「なほ、ただ、この端書きの、いとほしげにはべるぞや」  「でも、ただ、このはしがきが、お気の毒な気がいたしますよ」
   とて広げたれば、人の参るに、いと苦しくて、御几帳引き寄せて去りぬ。
 
 と言って、広げたところへ誰か参ったので、まこと困って、御几帳を引き寄せて出て行った。
 
   いとど胸つぶるるに、院入りたまへば、えよくも隠したまはで、御茵の下にさし挟みたまひつ。
 
 ますます胸がどきどきしているところに、院がお入りになったので、上手にお隠しになることもできず、御褥の下にさし挟みなさった。
 
 
 

第四段 源氏、女三の宮と和歌を唱和す

 
   夜さりつ方、二条の院へ渡りたまはむとて、御暇聞こえたまふ。
 
 夜になってから、二条院にお帰りになろうとして、ご挨拶を申し上げなさる。
 
   「ここには、けしうはあらず見えたまふを、まだいとただよはしげなりしを、見捨てたるやうに思はるるも、今さらにいとほしくてなむ。
 ひがひがしく聞こえなす人ありとも、ゆめ心置きたまふな。
 今見直したまひてむ」
 「こちらには、お具合は悪くないようにお見えですが、まだとても頼りなさそうなのを、放って置くように思われますのも、今さらお気の毒なので。
 悪く申す者がありましても、決してお気になさいますな。
 やがてきっとお分かりになりましょう」
   と語ひたまふ。
 例は、なまいはけなき戯れ言なども、うちとけ聞こえたまふを、いたくしめりて、さやかにも見合はせたてまつりたまはぬを、ただ世の恨めしき御けしきと心得たまふ。
 
 とお慰めになる。
 いつもは、子供っぽい冗談事などを、気楽に申し上げなさるのだが、ひどく沈み込んで、ちゃんと目をお合わせ申すこともなさらないのを、ただ側にいないのを恨んでいらっしゃるのだとお思いなさる。
 
   昼の御座にうち臥したまひて、御物語など聞こえたまふほどに暮れにけり。
 すこし大殿籠もり入りにけるに、ひぐらしのはなやかに鳴くにおどろきたまひて、
 昼の御座所に横におなりになって、お話など申し上げているうちに日が暮れてしまった。
 少しお寝入りになってしまったが、ひぐらしが派手に鳴いたのに目をお覚ましになって、
   「さらば、道たどたどしからぬほどに」  「それでは、道が暗くならない間に」
   とて、御衣などたてまつり直す。
 
 と言って、お召し物などをお召し替えになる。
 
   「月待ちて、とも言ふなるものを」  「月を待って、と言うそうですから」
   と、いと若やかなるさましてのたまふは、憎からずかし。
 「その間にも、とや思す」と、心苦しげに思して、立ち止まりたまふ。
 
 と、若々しい様子でおっしゃるのはとてもいじらしい。
 「その間でも、とお思いなのだろうか」と、いじらしくお思いになって、お立ち止まりになる。
 
 

497
 「夕露に 袖濡らせとや ひぐらしの
 鳴くを聞く聞く 起きて行くらむ」
 「夕露に袖を濡らせというつもりで、ひぐらしが鳴くのを
  聞きながら起きて行かれるのでしょうか」
 
   片なりなる御心にまかせて言ひ出でたまへるもらうたければ、ついゐて、  子供のようなあどけないままにおっしゃったのもかわいらしいので、膝をついて、
   「あな、苦しや」  「ああ、困りましたこと」
   と、うち嘆きたまふ。
 
 と、溜息をおつきになる。
 
 

498
 「待つ里も いかが聞くらむ 方がたに
 心騒がす ひぐらしの声」
 「わたしを待っているほうでもどのように聞いているでしょうか
  それぞれに心を騒がすひぐらしの声ですね」
 
   など思しやすらひて、なほ情けなからむも心苦しければ、止まりたまひぬ。
 静心なく、さすがに眺められたまひて、御くだものばかり参りなどして、大殿籠もりぬ。
 
 などとご躊躇なさって、やはり無情に帰るのもお気の毒なので、お泊まりになった。
 心は落ち着かず、そうは言っても物思いにお耽りになって、果物類だけを召し上がりなどなさって、お寝みになった。
 
 
 

第五段 源氏、柏木の手紙を発見

 
   まだ朝涼みのほどに渡りたまはむとて、とく起きたまふ。
 
 まだ朝の涼しいうちにお帰りになろうとして、早くお起きになる。
 
   「昨夜のかはほりを落として、これは風ぬるくこそありけれ」  「昨夜の扇を落として。
 これでは風がなま温いな」
   とて、御扇置きたまひて、昨日うたた寝したまへりし御座のあたりを、立ち止まりて見たまふに、御茵のすこしまよひたるつまより、浅緑の薄様なる文の、押し巻きたる端見ゆるを、何心もなく引き出でて御覧ずるに、男の手なり。
 紙の香などいと艶に、ことさらめきたる書きざまなり。
 二重ねにこまごまと書きたるを見たまふに、「紛るべき方なく、その人の手なりけり」と見たまひつ。
 
 と言って、御桧扇をお置きになって、昨日うたた寝なさった御座所の近辺を、立ち止まってお探しになると、御褥の少し乱れている端から、浅緑の薄様の手紙で、押し巻いてある端が見えるのを、何気なく引き出して御覧になると、男性の筆跡である。
 紙の香りなどはとても優美で、気取った書きぶりである。
 二枚にこまごまと書いてあるのを御覧になると、「紛れようもなく、あの人の筆跡である」と御覧になった。
 
   御鏡など開けて参らする人は、見たまふ文にこそはと、心も知らぬに、小侍従見つけて、昨日の文の色と見るに、いといみじく、胸つぶつぶと鳴る心地す。
 御粥など参る方に目も見やらず、
 お鏡の蓋を開けて差し上げる女房は、やはり殿が御覧になるはずの手紙であろうと、事情を知らないが、小侍従はそれを見つけて、昨日の手紙と同じ色と見ると、まことにたいそう、胸がどきどき鳴る心地がする。
 お粥などを差し上げる方には見向きもせず、
   「いで、さりとも、それにはあらじ。
 いといみじく、さることはありなむや。
 隠いたまひてけむ」
 「いいえ、いくら何でも、それはあるまい。
 本当に大変で、そのようなことがあろうか。
 きっとお隠しになったことだろう」
   と思ひなす。
 
 としいて思い込む。
 
   宮は、何心もなく、まだ大殿籠もれり。
 
 宮は、無心にまだお寝みになっていらっしゃった。
 
   「あな、いはけな。
 かかる物を散らしたまひて。
 我ならぬ人も見つけたらましかば」
 「何と、幼いのだろう。
 このような物をお散らかしになって。
 自分以外の人が見つけたら」
   と思すも、心劣りして、  とお思いになるにつけても、見下される思いがして、
   「さればよ。
 いとむげに心にくきところなき御ありさまを、うしろめたしとは見るかし」
 「やはりそうであったか。
 本当に奥ゆかしいところがないご様子を、不安であると思っていたのだ」
   と思す。
 
 とお思いになる。
 
 
 

第六段 小侍従、女三の宮を責める

 
   出でたまひぬれば、人びとすこしあかれぬるに、侍従寄りて、  お帰りになったので、女房たちが少しばらばらになったので、侍従がお側に寄って、
   「昨日の物は、いかがせさせたまひてし。
 今朝、院の御覧じつる文の色こそ、似てはべりつれ」
 「昨日のお手紙は、どのようにあそばしましましたか。
 今朝、院が御覧になっていた手紙の色が、似ておりましたが」
   と聞こゆれば、あさましと思して、涙のただ出で来に出で来れば、いとほしきものから、「いふかひなの御さまや」と見たてまつる。
 
 と申し上げると、意外なことと驚きなさって、涙が止めどもなく出て来るので、お気の毒に思う一方で、「何とも言いようのない方だ」と拝し上げる。
 
   「いづくにかは、置かせたまひてし。
 人びとの参りしに、ことあり顔に近くさぶらはじと、さばかりの忌みをだに、心の鬼に避りはべしを。
 入らせたまひしほどは、すこしほど経はべりにしを、隠させたまひつらむとなむ、思うたまへし」
 「どこに、お置きあそばしましたか。
 女房たちが参ったので、子細ありげに近くに控えておりまいと、ちょっとしたぐらいの用心でさえ、気が咎めますので慎重にしておりましたのに。
 お入りあそばしました時には、少し間がございましたが、お隠しあそばただろうと、存じておりました」
   と聞こゆれば、  と申し上げると、
   「いさ、とよ。
 見しほどに入りたまひしかば、ふともえ置きあへで、さし挟みしを、忘れにけり」
 「いいえ、それがね。
 見ていた時にお入りになったので、すぐに起き上がることもできないで、褥に差し挟んで置いたのを、忘れてしまったの」
   とのたまふに、いと聞こえむかたなし。
 寄りて見れば、いづくのかはあらむ。
 
 とおっしゃるので、何ともまったく申し上げる言葉もない。
 近寄って探すが、どこにもあろうはずがない。
 
   「あな、いみじ。
 かの君も、いといたく懼ぢ憚りて、けしきにても漏り聞かせたまふことあらばと、かしこまりきこえたまひしものを。
 ほどだに経ず、かかることの出でまうで来るよ。
 すべて、いはけなき御ありさまにて、人にも見えさせたまひければ、年ごろさばかり忘れがたく、恨み言ひわたりたまひしかど、かくまで思うたまへし御ことかは。
 誰が御ためにも、いとほしくはべるべきこと」
 「まあ、大変。
 かの君も、とてもひどく恐れ憚って、素振りにもお聞かせ申されるようなことがあったら大変と、恐縮申していられたものを。
 まだいくらもたたないのに、もうこのような事になってしまってよ。
 全体、子供っぽいご様子でいらして、人にお姿をお見せあそばしたので、長年あれほどまで忘れることができず、ずっと恨み言を言い続けていらっしゃったが、こうまでなるとは存じませんでした事ですわ。
 どちら様のためにも、お気の毒な事でございますわ」
   と、憚りもなく聞こゆ。
 心やすく若くおはすれば、馴れきこえたるなめり。
 いらへもしたまはで、ただ泣きにのみぞ泣きたまふ。
 いと悩ましげにて、つゆばかりの物もきこしめさねば、
 と、遠慮もなく申し上げる。
 気安く子供っぽくいらっしゃるので、ずけずけと申し上げたのであろう。
 お答えもなさらず、ただ泣いてばかりいらっしゃる。
 とても苦しそうで、まったく何もお召し上がりにならないので、
   「かく悩ましくせさせたまふを、見おきたてまつりたまひて、今はおこたり果てたまひにたる御扱ひに、心を入れたまへること」  「このようにお苦しみでいらっしゃるのを、放っていらっしゃって、今はもうすっかりお治りになったお方のお世話に、熱心でいらっしゃること」
   と、つらく思ひ言ふ。
 
 と、薄情に思って言う。
 
 
 

第七段 源氏、手紙を読み返す

 
   大殿は、この文のなほあやしく思さるれば、人見ぬ方にて、うち返しつつ見たまふ。
 「さぶらふ人びとの中に、かの中納言の手に似たる手して書きたるか」とまで思し寄れど、言葉づかひきらきらと、まがふべくもあらぬことどもあり。
 
 大殿は、この手紙をやはり不審に思わずにはいらっしゃれないので、人の見ていない方で、繰り返し御覧になる。
 「伺候している女房の中で、あの中納言の筆跡に似た書き方で書いたのだろうか」とまでお考えになったが、言葉遣いがはっきりしていて、本人に間違いないことがいろいろと書いてある。
 
   「年を経て思ひわたりけることの、たまさかに本意かなひて、心やすからぬ筋を書き尽くしたる言葉、いと見所ありてあはれなれど、いとかくさやかには書くべしや。
 あたら人の、文をこそ思ひやりなく書きけれ。
 落ち散ることもこそと思ひしかば、昔、かやうにこまかなるべき折ふしにも、ことそぎつつこそ書き紛らはししか。
 人の深き用意は難きわざなりけり」
 「長年慕い続けてきたことが、偶然に念願が叶って、心にかかってならないといった事を書き尽くした言葉は、まことに見所があって感心するが、本当に、こんなにまではっきりと書いてよいものだろうか。
 惜しいことに、あれほどの人が、思慮もなく手紙を書いたものだ。
 人目に触れることがあってはいけないと思ったので、昔、このようにこまごまと書きたい時も、言葉を簡略に簡略にして書き紛らわしたものだ。
 人が用心するということは難しいことなのだ」
   と、かの人の心をさへ見落としたまひつ。
 
 と、その人の心までお見下しなさった。
 
 
 

第八段 源氏、妻の密通を思う

 
   「さても、この人をばいかがもてなしきこゆべき。
 めづらしきさまの御心地も、かかることの紛れにてなりけり。
 いで、あな、心憂や。
 かく、人伝てならず憂きことを知るしる、ありしながら見たてまつらむよ」
 「それにしても、この宮をどのようにお扱いしたら良いものだろうか。
 おめでたいことのご懐妊も、このようなことのせいだったのだ。
 ああ、何と、厭わしいことだ。
 このような、目の当たりに嫌な事を知りながら、今までどおりにお世話申し上げるのだろうか」
   と、わが御心ながらも、え思ひ直すまじくおぼゆるを、  と、自分のお心ながらも、とても思い直すことはできないとお思いになるが、
   「なほざりのすさびと、初めより心をとどめぬ人だに、また異ざまの心分くらむと思ふは、心づきなく思ひ隔てらるるを、ましてこれは、さま異に、おほけなき人の心にもありけるかな。
 
 「浮気の遊び事としても、初めから熱心でない女でさえ、また別の男に心を分けていると思うのは、気にくわなく疎んじられてしまうものなのに、ましてこの宮は、特別な方で、大それた男の考えであることよ。
 
   帝の御妻をも過つたぐひ、昔もありけれど、それはまたいふ方異なり。
 宮仕へといひて、我も人も同じ君に馴れ仕うまつるほどに、おのづから、さるべき方につけても、心を交はしそめ、もののまぎれ多かりぬべきわざなり。
 
 帝のお妃と過ちを生じる例は、昔もあったが、それはまた事情が違うのだ。
 宮仕えと言って、自分も相手も同じ主君に親しくお仕えするうちに、自然と、そのような方面で、好意を持ち合うようになって、みそか事も多くなるというものだ。
 
   女御、更衣といへど、とある筋かかる方につけて、かたほなる人もあり、心ばせかならず重からぬうち混じりて、思はずなることもあれど、おぼろけの定かなる過ち見えぬほどは、さても交じらふやうもあらむに、ふとしもあらはならぬ紛れありぬべし。
 
 女御、更衣と言っても、あれこれいろいろあって、どうかと思われる人もおり、嗜みが必ずしも深いとは言えない人も混じっていて、意外なことも起こるが、重大な確かな過ちと分からないうちは、そのままで宮仕えを続けて行くようなこともあるから、すぐには分からない過ちもきっとあることだろう。
 
   かくばかり、またなきさまにもてなしきこえて、うちうちの心ざし引く方よりも、いつくしくかたじけなきものに思ひはぐくまむ人をおきて、かかることは、さらにたぐひあらじ」  このように、又となく大事にお扱い申し上げて、内心愛情を寄せている人よりも、大切な恐れ多い方と思ってお世話しているような自分をさしおいて、このような事を起こすとは、まったく例がない」
   と、爪弾きせられたまふ。
 
 と、つい非難せずにはいらっしゃれない。
 
   「帝と聞こゆれど、ただ素直に、公ざまの心ばへばかりにて、宮仕へのほどもものすさまじきに、心ざし深き私のねぎ言になびき、おのがじしあはれを尽くし、見過ぐしがたき折のいらへをも言ひそめ、自然に心通ひそむらむ仲らひは、同じけしからぬ筋なれど、寄る方ありや。
 わが身ながらも、さばかりの人に心分けたまふべくはおぼえぬものを」
 「帝とは申し上げても、ただ素直に、お仕えするだけでは面白くもないので、深い私的な思いを訴えかける言葉に引かれて、お互いに愛情を傾け尽くし、放って置けない折節の返事をするようになり、自然と心が通い合うようになった間柄は、同様に良くない事柄だが、まだ理由があろうか。
 自分自身の事ながら、あの程度の男に宮が心をお分けにならねばならないとは思われないのだが」
   と、いと心づきなけれど、また「けしきに出だすべきことにもあらず」など、思し乱るるにつけて、  と、まことに不愉快ではあるが、また「顔色に出すべきことではない」などと、ご煩悶なさるにつけても、
   「故院の上も、かく御心には知ろし召してや、知らず顔を作らせたまひけむ。
 思へば、その世のことこそは、いと恐ろしく、あるまじき過ちなりけれ」
 「故院の上も、このように御心中には御存知でいらして、知らない顔をあそばしていられたのだろうか。
 それを思うと、その当時のことは、本当に恐ろしく、あってはならない過失であったのだ」
   と、近き例を思すにぞ、恋の山路は、えもどくまじき御心まじりける。
 
 と、身近な例をお思いになると、恋の山路は、非難できないというお気持ちもなさるのであった。
 
 
 

第十章 光る源氏の物語 密通露見後

 
 

第一段 紫の上、女三の宮を気づかう

 
   つれなしづくりたまへど、もの思し乱るるさまのしるければ、女君、消え残りたるいとほしみに渡りたまひて、「人やりならず、心苦しう思ひやりきこえたまふにや」と思して、  平静を装っていらっしゃるが、ご煩悶の様子がはっきりと見えるので、女君は、生き返ったのをいじらしそうに思ってこちらにお帰りになって、「ご自身どうにもならず、宮をお気の毒に思っていらっしゃるのだろうか」とお思いになって、
   「心地はよろしくなりにてはべるを、かの宮の悩ましげにおはすらむに、とく渡りたまひにしこそ、いとほしけれ」  「気分は良ろしくなっておりますが、あちらの宮がお悪くいらっしゃいましょうに、早くお帰りになったのが、お気の毒です」
   と聞こえたまへば、  とお申し上げなさるので、
   「さかし。
 例ならず見えたまひしかど、異なる心地にもおはせねば、おのづから心のどかに思ひてなむ。
 内裏よりは、たびたび御使ありけり。
 今日も御文ありつとか。
 院の、いとやむごとなく聞こえつけたまへれば、上もかく思したるなるべし。
 すこしおろかになどもあらむは、こなたかなた思さむことの、いとほしきぞや」
 「そうですね。
 普通のお身体ではないようにお見えになりましたが、別段のご病気というわけでもいらっしゃらないので、何となく安心に思っていましてね。
 宮中からは、何度もお使いがありました。
 今日もお手紙があったとか。
 院が、特別大切になさるようにとお頼み申し上げていらっしゃるので、主上もそのようにお考えなのでしょう。
 少しでも宮を疎かになどあるようであれば、お二方がどうお思いになるかが、心苦しいことです」
   とて、うめきたまへば、  と言って、嘆息なさると、
   「内裏の聞こし召さむよりも、みづから恨めしと思ひきこえたまはむこそ、心苦しからめ。
 我は思し咎めずとも、よからぬさまに聞こえなす人びと、かならずあらむと思へば、いと苦しくなむ」
 「帝がお耳にあそばすことよりも、宮ご自身が恨めしいとお思い申し上げなさることのほうが、お気の毒でしょう。
 ご自分ではお気になさらなくても、良からぬように蔭口を申し上げる女房たちが、きっといるでしょうと思うと、とてもつろう存じます」
   などのたまへば、  などとおっしゃるので、
   「げに、あながちに思ふ人のためには、わづらはしきよすがなけれど、よろづにたどり深きこと、とやかくやと、おほよそ人の思はむ心さへ思ひめぐらさるるを、これはただ、国王の御心やおきたまはむとばかりを憚らむは、浅き心地ぞしける」  「なるほど、おっしゃるとおり、ひたすら愛しく思っているあなたには、厄介な縁者はいないが、いろいろと思慮を廻らすことといったら、あれやこれやと、一般の人が思うような事まで考えを廻らされますが、わたしのただ、国王が御機嫌を損ねないかという事だけを気にしているのは、考えの浅いことだな」
   と、ほほ笑みてのたまひ紛らはす。
 渡りたまはむことは、
 と、苦笑して言い紛らわしなさる。
 お帰りになることは、
   「もろともに帰りてを。
 心のどかにあらむ」
 「一緒に帰ってよ。
 ゆっくりと過すことにしよう」
   とのみ聞こえたまふを、  とだけ申し上げなさるのを、
   「ここには、しばし心やすくてはべらむ。
 まづ渡りたまひて、人の御心も慰みなむほどにを」
 「ここでもう暫くゆっくりしていましょう。
 先にお帰りになって、宮のご気分もよくなったころに」
   と、聞こえ交はしたまふほどに、日ごろ経ぬ。
 
 と、話し合っていらっしゃるうちに、数日が過ぎた。
 
 
 

第二段 柏木と女三の宮、密通露見におののく

 
   姫宮は、かく渡りたまはぬ日ごろの経るも、人の御つらさにのみ思すを、今は、「わが御おこたりうち混ぜてかくなりぬる」と思すに、院も聞こし召しつけて、いかに思し召さむと、世の中つつましくなむ。
 
 姫宮は、このようにお越しにならない日が数日続くのも、相手の薄情とばかりお思いであったが、今では、「自分の過失も加わってこうなったのだ」とお思いになると、院も御存知になって、どのようにお思いだろうかと、身の置き所のない心地である。
 
   かの人も、いみじげにのみ言ひわたれども、小侍従もわづらはしく思ひ嘆きて、「かかることなむ、ありし」と告げてければ、いとあさましく、  かの人も、熱心に手引を頼み続けるが、小侍従も面倒に思い困って、「このような事が、ありました」と知らせてしまったので、まこと驚いて、
   「いつのほどにさること出で来けむ。
 かかることは、あり経れば、おのづからけしきにても漏り出づるやうもや」
 「いつの間にそのような事が起こったのだろうか。
 このような事は、いつまでも続けば、自然と気配だけで感づかれるのではないか」
   と思ひしだに、いとつつましく、空に目つきたるやうにおぼえしを、「ましてさばかり違ふべくもあらざりしことどもを見たまひてけむ」、恥づかしく、かたじけなく、かたはらいたきに、朝夕、涼みもなきころなれど、身もしむる心地して、いはむかたなくおぼゆ。
 
 と思っただけでも、まことに気が引けて、空に目が付いているように思われたが、「ましてあんなに間違いようもない手紙を御覧になったのでは」と、顔向けもできず、恐れ多く、居たたまれない気がして、朝夕の、涼しい時もないころであるが、身も凍りついたような心地がして、何とも言いようもない気がする。
 
   「年ごろ、まめごとにもあだことにも、召しまつはし参り馴れつるものを。
 人よりはこまかに思しとどめたる御けしきの、あはれになつかしきを、あさましくおほけなきものに心おかれたてまつりては、いかでかは目をも見合はせたてまつらむ。
 さりとて、かき絶えほのめき参らざらむも、人目あやしく、かの御心にも思し合はせむことのいみじさ」
 「長年、公事でも遊び事でも、お呼び下さり親しくお伺いしていたものを。
 誰よりもこまごまとお心を懸けて下さったお気持ちが、しみじみと身にしみて思われるので、あきれはてた大それた者と不快の念を抱かれ申したら、どうして目をお合わせ申し上げることができようか。
 そうかと言って、ふっつりと参上しなくなるのも、人が変だと思うだろうし、あちらでもやはりそうであったかと、お思い合わせになろう、それが堪らない」
   など、やすからず思ふに、心地もいと悩ましくて、内裏へも参らず。
 さして重き罪には当たるべきならねど、身のいたづらになりぬる心地すれば、「さればよ」と、かつはわが心も、いとつらくおぼゆ。
 
 などと、気が気でない思いでいるうちに、気分もとても苦しくなって、内裏へも参内なさらない。
 それほど重い罪に当たるはずではないが、身も破滅してしまいそうな気がするので、「やっぱり懸念していたとおりだ」と、一方では自分ながら、まことに辛く思われる。
 
   「いでや、しづやかに心にくきけはひ見えたまはぬわたりぞや。
 まづは、かの御簾のはさまも、さるべきことかは。
 軽々しと、大将の思ひたまへるけしき見えきかし」
 「考えて見れば、落ち着いた嗜み深いご様子がお見えでない方であった。
 まず第一に、あの御簾の隙間の事も、あっていいことだろうか。
 軽率だと、大将が思っていらした様子に見えた事だ」
   など、今ぞ思ひ合はする。
 しひてこのことを思ひさまさむと思ふ方にて、あながちに難つけたてまつらまほしきにやあらむ。
 
 などと、今になって気がつくのである。
 無理してこの思いを冷まそうとするあまり、むやみに非難つけお思い申し上げたいのであろうか。
 
 
 

第三段 源氏、女三の宮の幼さを非難

 
   「良きやうとても、あまりひたおもむきにおほどかにあてなる人は、世のありさまも知らず、かつ、さぶらふ人に心おきたまふこともなくて、かくいとほしき御身のためも、人のためも、いみじきことにもあるかな」  「良いことだからと言って、あまり一途におっとりし過ぎている高貴な人は、世間の事もご存知なく、一方では、伺候している女房に用心なさることもなくて、このようにおいたわしいご自身にとっても、また相手にとっても、大変な事になるのだ」
   と、かの御ことの心苦しさも、え思ひ放たれたまはず。
 
 と、あのお方をお気の毒だと思う気持ちも、お捨てになることができない。
 
   宮は、いとらうたげにて悩みわたりたまふさまの、なほいと心苦しく、かく思ひ放ちたまふにつけては、あやにくに、憂きに紛れぬ恋しさの苦しく思さるれば、渡りたまひて、見たてまつりたまふにつけても、胸いたくいとほしく思さる。
 
 宮はまことに痛々しげにお苦しみ続けなさる様子が、やはりとてもお気の毒で、このようにお見限りになるにつけては、妙に嫌な気持ちに消せない恋しい気持ちが苦しく思われなさるので、お越しになって、お目にかかりなさるにつけても、胸が痛くおいたわしく思わずにはいらっしゃれない。
 
   御祈りなど、さまざまにせさせたまふ。
 おほかたのことは、ありしに変らず、なかなか労しくやむごとなくもてなしきこゆるさまをましたまふ。
 気近くうち語らひきこえたまふさまは、いとこよなく御心隔たりて、かたはらいたければ、人目ばかりをめやすくもてなして、思しのみ乱るるに、この御心のうちしもぞ苦しかりける。
 
 御祈祷などを、いろいろとおさせになる。
 大体のことは、以前と変わらず、かえって労り深く大事にお持てなし申し上げる態度がお加わりさる。
 身近にお話し合いなさる様子は、まことにすっかりお心が離れてしまって、体裁が悪いので、人前だけは体裁をつくろって、苦しみ悩んでばかりなさっているので、ご心中は苦しいのであった。
 
   さること見きとも表はしきこえたまはぬに、みづからいとわりなく思したるさまも、心幼し。
 
 そうした手紙を見たともはっきり申し上げなさらないのに、ご自分でとてもむやみに苦しみ悩んでいらっしゃるのも子供っぽいことである。
 
   「いとかくおはするけぞかし。
 良きやうといひながら、あまり心もとなく後れたる、頼もしげなきわざなり」
 「まことにこんなお人柄である。
 良い事だとは言っても、あまりに気がかりなほどおっとりし過ぎているのは、何とも頼りないことだ」
   と思すに、世の中なべてうしろめたく、  とお思いになると、男女の仲の事がすべて心もとなく、
   「女御の、あまりやはらかにおびれたまへるこそ、かやうに心かけきこえむ人は、まして心乱れなむかし。
 女は、かうはるけどころなくなよびたるを、人もあなづらはしきにや、さるまじきに、ふと目とまり、心強からぬ過ちはし出づるなりけり」
 「女御が、あまりにやさしく穏やかでいらっしゃるのは、このように懸想するような人は、これ以上にきっと心が乱れることであろう。
 女性は、このように内気でなよなよとしているのを、男も甘く見るのだろうか、あってはならぬが、ふと目にとまって、自制心のない過失を犯すことになるのだ」
   と思す。
 
 とお思いになる。
 
 
 

第四段 源氏、玉鬘の賢さを思う

 
   「右の大臣の北の方の、取り立てたる後見もなく、幼くより、ものはかなき世にさすらふるやうにて、生ひ出でたまひけれど、かどかどしく労ありて、我もおほかたには親めきしかど、憎き心の添はぬにしもあらざりしを、なだらかにつれなくもてなして過ぐし、この大臣の、さる無心の女房に心合はせて入り来たりけむにも、けざやかにもて離れたるさまを、人にも見え知られ、ことさらに許されたるありさまにしなして、わが心と罪あるにはなさずなりにしなど、今思へば、いかにかどあることなりけり。
 
 「右大臣の北の方が、特にご後見もなく、幼い時から、頼りない生活を流浪するような有様で、ご成人なさったが、利発で才気があって、自分も表向きは親のようにしていたが、憎からず思う心がないでもなかったが、穏やかにさりげなく受け流して、あの大臣が、あのような心ない女房と心を合わせて入って来たときにも、はっきりと受け付けなかった態度を、周囲の人にも見せて分からせ、改めて許された結婚の形にしてから、自分のほうに落度があったようにはしなかった事など、今から思うと、何とも賢い身の処し方であった。
 
   契り深き仲なりければ、長くかくて保たむことは、とてもかくても、同じごとあらましものから、心もてありしこととも、世人も思ひ出でば、すこし軽々しき思ひ加はりなまし、いといたくもてなしてしわざなり」  宿縁の深い仲であったので、長くこうして連れ添ってゆくことは、その初めがどのような事情からであったにせよ、同じような事であったろうが、自分の意志でしたのだと、世間の人も思い出したら、少しは軽率な感じが加わろうが、本当に上手に身を処したことだ」
   と思し出づ。
 
 とお思い出しになる。
 
 
 

第五段 朧月夜、出家す

 
   二条の尚侍の君をば、なほ絶えず、思ひ出できこえたまへど、かくうしろめたき筋のこと、憂きものに思し知りて、かの御心弱さも、少し軽く思ひなされたまひけり。
 
 二条の尚侍の君を、依然として忘れず、お思い出し申し上げなさるが、このように気がかりな方面の事を、厭わしくお思いになって、あの方のお心弱さも、少しお見下しなさるのだった。
 
   つひに御本意のことしたまひてけりと聞きたまひては、いとあはれに口惜しく、御心動きて、まづ訪らひきこえたまふ。
 今なむとだににほはしたまはざりけるつらさを、浅からず聞こえたまふ。
 
 とうとうご出家の本懐を遂げられたとお聞きになってからは、まことにしみじみと残念に、お心が動いて、さっそくお見舞いを申し上げなさる。
 せめて今出家するとだけでも知らせて下さらなかった冷たさを、心からお恨み申し上げなさる。
 
 

499
 「海人の世を よそに聞かめや 須磨の浦に
 藻塩垂れしも 誰れならなくに
 「出家されたことを他人事して聞き流していられましょうか
  わたしが須磨の浦で涙に沈んでいたのは誰ならぬあなたのせいなのですから
 
   さまざまなる世の定めなさを心に思ひつめて、今まで後れきこえぬる口惜しさを、思し捨てつとも、避りがたき御回向のうちには、まづこそはと、あはれになむ」  いろいろな人生の無常さを心の内に思いながら、今まで出家せずに先を越されて残念ですが、お見捨てになったとしても、避けがたいご回向の中には、まず第一にわたしを入れて下さると、しみじみと思われます」
   など、多く聞こえたまへり。
 
 などと、たくさんお書き申し上げなさった。
 
   とく思し立ちにしことなれど、この御妨げにかかづらひて、人にはしか表はしたまはぬことなれど、心のうちあはれに、昔よりつらき御契りを、さすがに浅くしも思し知られぬなど、かたがたに思し出でらる。
 
 早くからご決意なさった事であるが、この方のご反対に引っ張られて、誰にもそのようにはお表しなさらなかった事だが、心中ではしみじみと昔からの恨めしいご縁を、何と言っても浅くはお思いになれない事など、あれやこれやとお思い出さずにはいらっしゃれない。
 
   御返り、今はかくしも通ふまじき御文のとぢめと思せば、あはれにて、心とどめて書きたまふ、墨つきなど、いとをかし。
 
 お返事は、今となってはもうこのようなお手紙のやりとりをしてはならない最後とお思いになると、感慨無量となって、念入りにお書きになる、その墨の具合などは、実に趣がある。
 
   「常なき世とは身一つにのみ知りはべりにしを、後れぬとのたまはせたるになむ、げに、  「無常の世とはわが身一つだけと思っておりましたが、先を越されてしまったとの仰せを思いますと、おっしゃるとおり、
 

500
 海人舟に いかがは思ひ おくれけむ
 明石の浦に いさりせし君
  尼になったわたしにどうして遅れをおとりになったのでしょう
  明石の浦に海人のようなお暮らしをなさっていたあなたが
 
   回向には、あまねきかどにても、いかがは」  回向は、一切衆生の為のものですから、どうして含まれないことがありましょうか」
   とあり。
 濃き青鈍の紙にて、樒にさしたまへる、例のことなれど、いたく過ぐしたる筆づかひ、なほ古りがたくをかしげなり。
 
 とある。
 濃い青鈍色の紙で、樒に挟んでいらっしゃるのは、通例のことであるが、ひどく洒落た筆跡は、今も変わらず見事である。
 
 
 

第六段 源氏、朧月夜と朝顔を語る

 
   二条院におはしますほどにて、女君にも、今はむげに絶えぬることにて、見せたてまつりたまふ。
 
 二条院にいらっしゃる時なので、女君にも、今ではすっかり関係が切れてしまったこととて、お見せ申し上げなさる。
 
   「いといたくこそ恥づかしめられたれ。
 げに、心づきなしや。
 さまざま心細き世の中のありさまを、よく見過ぐしつるやうなるよ。
 なべての世のことにても、はかなくものを言ひ交はし、時々によせて、あはれをも知り、ゆゑをも過ぐさず、よそながらの睦び交はしつべき人は、斎院とこの君とこそは残りありつるを、かくみな背き果てて、斎院はた、いみじうつとめて、紛れなく行なひにしみたまひにたなり。
 
 「とてもひどくやっつけられたものです。
 本当に、気にくわないよ。
 いろいろと心細い世の中の様子を、よく見過して来たものですよ。
 普通の世間話でも、ちょっと何か言い交わしあい、四季折々に寄せて、情趣をも知り、風情を見逃さず、色恋を離れて付き合いのできる人は、斎院とこの君とが生き残っているが、このように皆出家してしまって、斎院は斎院で、熱心にお勤めして、余念なく勤行に精進していらっしゃるということだ。
 
   なほ、ここらの人のありさまを聞き見る中に、深く思ふさまに、さすがになつかしきことの、かの人の御なずらひにだにもあらざりけるかな。
 女子を生ほし立てむことよ、いと難かるべきわざなりけり。
 
 やはり、大勢の女性の様子を見たり聞いたりした中で、思慮深い人柄で、それでいて心やさしい点では、あの方にご匹敵する人はいなかったなあ。
 女の子を育てることは、まことに難しいことだ。
 
   宿世などいふらむものは、目に見えぬわざにて、親の心に任せがたし。
 生ひ立たむほどの心づかひは、なほ力入るべかめり。
 よくこそ、あまたかたがたに心を乱るまじき契りなりけれ。
 年深くいらざりしほどは、さうざうしのわざや、さまざまに見ましかばとなむ、嘆かしきをりをりありし。
 
 宿世などと言うものは、目に見えないことなので、親の心のままにならない。
 成長して行く際の注意は、やはり力を入れねばならないようです。
 よくぞまあ、大勢の女の子に心配しなくてもよい運命であった。
 まだそれほど年を取らなかったころは、もの足りないことだ、何人もいたらと嘆かわしく思ったことも度々あった。
 
   若宮を、心して生ほし立てたてまつりたまへ。
 女御は、ものの心を深く知りたまふほどならで、かく暇なき交らひをしたまへば、何事も心もとなき方にぞものしたまふらむ。
 御子たちなむ、なほ飽く限り人に点つかるまじくて、世をのどかに過ぐしたまはむに、うしろめたかるまじき心ばせ、つけまほしきわざなりける。
 限りありて、とざまかうざまの後見まうくるただ人は、おのづからそれにも助けられぬるを」
 若宮を、注意してお育て申し上げて下さい。
 女御は、物の分別を十分おわきまえになる年頃でなくて、このようにお暇のない宮仕えをなさっているので、何事につけても頼りないといったふうでいらっしゃるでしょう。
 内親王たちは、やはりどこまでも人に後ろ指をさされるようなことなくして、一生をのんびりとお過ごしなさるように、不安でない心づかいを、付けたいものです。
 身分柄、あれこれと夫をもつ普通の女性であれば、自然と夫に助けられるものですが」
   など聞こえたまへば、  などと申し上げなさると、
   「はかばかしきさまの御後見ならずとも、世にながらへむ限りは、見たてまつらぬやうあらじと思ふを、いかならむ」  「しっかりしたしたご後見はできませんでも、世に生き永らえています限りは、是非ともお世話してさし上げたいと思っておりますが、どうなることでしょう」
   とて、なほものを心細げにて、かく心にまかせて、行なひをもとどこほりなくしたまふ人びとを、うらやましく思ひきこえたまへり。
 
 と言って、やはり何か心細そうで、このように思いどおりに、仏のお勤めを差し障りなくなさっている方々を、羨ましくお思い申し上げていらっしゃった。
 
   「尚侍の君に、さま変はりたまへらむ装束など、まだ裁ち馴れぬほどは訪らふべきを、袈裟などはいかに縫ふものぞ。
 それせさせたまへ。
 一領は、六条の東の君にものしつけむ。
 うるはしき法服だちては、うたて見目もけうとかるべし。
 さすがに、その心ばへ見せてを」
 「尚侍の君に、尼になられた衣装など、まだ裁縫に馴れないうちはお世話すべきであるが、袈裟などはどのように縫うものですか。
 それを作って下さい。
 一領は、六条院の東の君に申し付けよう。
 正式の尼衣のようでは、見た目にも疎ましい感じがしよう。
 そうはいっても、法衣らしいのが分かるのを」
   など聞こえたまふ。
 
 などと申し上げなさる。
 
   青鈍の一領を、ここにはせさせたまふ。
 作物所の人召して、忍びて、尼の御具どものさるべきはじめのたまはす。
 御茵、上席、屏風、几帳などのことも、いと忍びて、わざとがましくいそがせたまひけり。
 
 青鈍の一領を、こちらではお作らせになる。
 宮中の作物所の人を呼んで、内々に、尼のお道具類で、しかるべき物をはじめとしてご下命なさる。
 御褥、上蓆、屏風、几帳などのことも、たいそう目立たないようにして、特別念を入れてご準備なさったのであった。
 
 
 

第十一章 朱雀院の物語 五十賀の延引

 
 

第一段 女二の宮、院の五十の賀を祝う

 
   かくて、山の帝の御賀も延びて、秋とありしを、八月は大将の御忌月にて、楽所のこと行なひたまはむに、便なかるべし。
 九月は、院の大后の崩れたまひにし月なれば、十月にと思しまうくるを、姫宮いたく悩みたまへば、また延びぬ。
 
 こうして、山の帝の御賀も延期になって、秋にとあったが、八月は大将の御忌月で、楽所を取り仕切られるのには、不都合であろう。
 九月は、院の大后がお崩れになった月なので、十月にとご予定を立てたが、姫宮がひどくお悩みになったので、再び延期になった。
 
   衛門督の御預かりの宮なむ、その月には参りたまひける。
 太政大臣居立ちて、いかめしくこまかに、もののきよら、儀式を尽くしたまへりけり。
 督の君も、そのついでにぞ、思ひ起こして出でたまひける。
 なほ、悩ましく、例ならず病づきてのみ過ぐしたまふ。
 
 衛門督がお引き受けになっている宮が、その月には御賀に参上なさったのだった。
 太政大臣が奔走して、盛大にかつこまごまと気を配って、儀式の美々しさ、作法の格式の限りをお尽くしなさっていた。
 督の君も、その機会には、気力を出してご出席なさったのだった。
 やはり、気分がすぐれず、普通と違って病人のように日を送ってばかりいらっしゃる。
 
   宮も、うちはへてものをつつましく、いとほしとのみ思し嘆くけにやあらむ、月多く重なりたまふままに、いと苦しげにおはしませば、院は、心憂しと思ひきこえたまふ方こそあれ、いとらうたげにあえかなるさまして、かく悩みわたりたまふを、いかにおはせむと嘆かしくて、さまざまに思し嘆く。
 御祈りなど、今年は紛れ多くて過ぐしたまふ。
 
 宮も、引き続いて何かと気がめいって、ただつらいとばかりお思い嘆いていられるせいであろうか、懐妊の月数がお重なりになるにつれて、とても苦しそうにいらっしゃるので、院は、情けないとお思い申し上げなさる気持ちはあるが、とても痛々しく弱々しい様子をして、このようにずっとお悩みになっていらっしゃるのを、どのようにおなりになることかと心配で、あれこれとお心をお痛めになられる。
 ご祈祷など、今年は取り込み事が多くてお過ごしになる。
 
 
 

第二段 朱雀院、女三の宮へ手紙

 
   御山にも聞こし召して、らうたく恋しと思ひきこえたまふ。
 月ごろかくほかほかにて、渡りたまふこともをさをさなきやうに、人の奏しければ、いかなるにかと御胸つぶれて、世の中も今さらに恨めしく思して、
 お山におかせられてもお耳にあそばして、いとおしくお会いしたいとお思い申し上げなさる。
 いく月もあのように別居していて、お越しになることもめったにないように、ある人が奏上したので、どうしたことにかとお胸が騒いで、俗世のことも今さらながら恨めしくお思いになって、
   「対の方のわづらひけるころは、なほその扱ひにと聞こし召してだに、なまやすからざりしを、そののち、直りがたくものしたまふらむは、そのころほひ、便なきことや出で来たりけむ。
 みづから知りたまふことならねど、良からぬ御後見どもの心にて、いかなることかありけむ。
 内裏わたりなどの、みやびを交はすべき仲らひなどにも、けしからず憂きこと言ひ出づるたぐひも聞こゆかし」
 「対の方が病気であったころは、やはりその看病でとお聞きになってでさえ、心穏やかではなかったのに、その後も、変わらずにいらっしゃるとは、そのころに、何か不都合なことが起きたのだろうか。
 宮自身に責任がおありのことでなくても、良くないお世話役たちの考えで、どんな失態があったのだろうか。
 宮中あたりなどで、風雅なやりとりをし合う間柄などでも、けしからぬ評判を立てる例も聞こえるものだ」
   とさへ思し寄るも、こまやかなること思し捨ててし世なれど、なほ子の道は離れがたくて、宮に御文こまやかにてありけるを、大殿、おはしますほどにて、見たまふ。
 
 とまでお考えになるのも、肉親の情愛はお捨てになった出家の生活だが、やはり親子の愛情は忘れ去りがたくて、宮にお手紙を心をこめて書いてあったのを、大殿も、いらっしゃった時なので、御覧になる。
 
   「そのこととなくて、しばしばも聞こえぬほどに、おぼつかなくてのみ年月の過ぐるなむ、あはれなりける。
 悩みたまふなるさまは、詳しく聞きしのち、念誦のついでにも思ひやらるるは、いかが。
 世の中寂しく思はずなることありとも、忍び過ぐしたまへ。
 恨めしげなるけしきなど、おぼろけにて、見知り顔にほのめかす、いと品おくれたるわざになむ」
 「特に用件もないので、たびたびはお便りを差し上げなかったうちに、あなたの様子も分からないままに歳月が過ぎるのは、気がかりなことです。
 お具合がよろしくなくいらっしゃるという様子は、詳しく聞いてからは、念仏誦経の時にも気にかかってならないが、いかがいらっしゃいますか。
 ご夫婦仲が寂しくて意に満たないことがあっても、じっと堪えてお過ごしなさい。
 恨めしそうな素振りなどを、いい加減なことで、心得顔にほのめかすのは、まことに品のないことです」
   など、教へきこえたまへり。
 
 などと、お教え申し上げていらっしゃった。
 
   いといとほしく心苦しく、「かかるうちうちのあさましきをば、聞こし召すべきにはあらで、わがおこたりに、本意なくのみ聞き思すらむことを」とばかり思し続けて、  まことにお気の毒で心が痛み、「このような内々の宮の不始末を、お耳にあそばすはずはなく、わたしの怠慢のせいにと、御不満にばかりお思いあそばすことだろう」とばかりにお思い続けて、
   「この御返りをば、いかが聞こえたまふ。
 心苦しき御消息に、まろこそいと苦しけれ。
 思はずに思ひきこゆることありとも、おろかに、人の見咎むばかりはあらじとこそ思ひはべれ。
 誰が聞こえたるにかあらむ」
 「このお返事は、どのようにお書き申し上げなさいますか。
 お気の毒なお手紙で、わたしこそとても辛い思いです。
 たとえ心外にお思い申す事があったとしても、疎略なお扱いをして、人が変に思うような態度はとるまいと思っております。
 誰が申し上げたのでしょうか」
   とのたまふに、恥ぢらひて背きたまへる御姿も、いとらうたげなり。
 いたく面痩せて、もの思ひ屈したまへる、いとどあてにをかし。
 
 とおっしゃると、恥ずかしそうに横を向いていらっしゃるお姿も、まことに痛々しい。
 ひどく面やつれして、物思いに沈んでいらっしゃるのは、ますます上品で美しい。
 
 
 

第三段 源氏、女三の宮を諭す

 
   「いと幼き御心ばへを見おきたまひて、いたくはうしろめたがりきこえたまふなりけりと、思ひあはせたてまつれば、今より後もよろづになむ。
 かうまでもいかで聞こえじと思へど、上の、御心に背くと聞こし召すらむことの、やすからず、いぶせきを、ここにだに聞こえ知らせでやはとてなむ。
 
 「とても幼い御気性を御存知で、たいそう御心配申し上げていらっしゃるのだと、拝察されますので、今後もいろいろと心配でなりません。
 こんなにまでは決して申し上げまいと思いましたが、院の上が、御心中にわたしが背いているとお思いになろうことが、不本意であり、心の晴れない思いであるが、せめてあなたにだけは申し上げておかなくてはと思いまして。
 
   いたり少なく、ただ、人の聞こえなす方にのみ寄るべかめる御心には、ただおろかに浅きとのみ思し、また、今はこよなくさだ過ぎにたるありさまも、あなづらはしく目馴れてのみ見なしたまふらむも、かたがたに口惜しくもうれたくもおぼゆるを、院のおはしまさむほどは、なほ心収めて、かの思しおきてたるやうありけむ、さだ過ぎ人をも、同じくなずらへきこえて、いたくな軽めたまひそ。
 
 思慮が浅く、ただ、人が申し上げるままにばかりお従いになるようなあなたとしては、ただ冷淡で薄情だとばかりお思いで、また、今ではわたしのすっかり年老いた様子も、軽蔑し飽き飽きしてばかりお思いになっていられるらしいのも、それもこれも残念にも忌ま忌ましくも思われますが、院の御存命中は、やはり我慢して、あちらのお考えもあったことでしょうから、この年寄をも、同じようにお考え下さって、ひどく軽蔑なさいますな。
 
   いにしへより本意深き道にも、たどり薄かるべき女方にだに、皆思ひ後れつつ、いとぬるきこと多かるを、みづからの心には、何ばかり思しまよふべきにはあらねど、今はと捨てたまひけむ世の後見に譲りおきたまへる御心ばへの、あはれにうれしかりしを、ひき続き争ひきこゆるやうにて、同じさまに見捨てたてまつらむことの、あへなく思されむにつつみてなむ。
 
 昔からの出家の本願も、考えの不十分なはずのご婦人方にさえ、みな後れを取り後れを取りして、とてものろまなことが多いのですが、自分自身の心には、どれほどの思いを妨げるものはないのですが、院がこれを最後と御出家なさった後のお世話役にわたしをお譲り置きになったお気持ちが、しみじみと嬉しかったが、引き続いて後を追いかけるようにして、同じようにお見捨て申し上げるようなことが、院にはがっかりされるであろうと差し控えているのです。
 
   心苦しと思ひし人びとも、今はかけとどめらるるほだしばかりなるもはべらず。
 女御も、かくて、行く末は知りがたけれど、御子たち数添ひたまふめれば、みづからの世だにのどけくはと見おきつべし。
 その他は、誰れも誰れも、あらむに従ひて、もろともに身を捨てむも、惜しかるまじき齢どもになりにたるを、やうやうすずしく思ひはべる。
 
 気にかかっていた人々も、今では出家の妨げとなるほどの者もおりません。
 女御も、あのようにして、将来の事は分かりませんが、皇子方がいく人もいらっしゃるようなので、わたしの存命中だけでもご無事であればと安心してよいでしょう。
 その他の事は、誰も彼も、状況に従って、一緒に出家するのも、惜しくはない年齢になっているのを、だんだんと気持ちも楽になっております。
 
   院の御世の残り久しくもおはせじ。
 いと篤しくいとどなりまさりたまひて、もの心細げにのみ思したるに、今さらに思はずなる御名の漏り聞こえて、御心乱りたまふな。
 この世はいとやすし。
 ことにもあらず。
 後の世の御道の妨げならむも、罪いと恐ろしからむ」
 院の御寿命もそう長くはいらっしゃらないでしょう。
 とても御病気がちにますますなられて、何となく心細げにばかりお思いでいられるから、今さら感心しないお噂を院のお耳にお入れ申して、お心を乱したりなさらないように。
 現世はまことに気にかけることはありません。
 どうということもありません。
 が、来世の御成仏の妨げになるようなのは、罪障がとても恐ろしいでしょう」
   など、まほにそのこととは明かしたまはねど、つくづくと聞こえ続けたまふに、涙のみ落ちつつ、我にもあらず思ひしみておはすれば、我もうち泣きたまひて、  などと、はっきりとその事とはお明かしにならないが、しみじみとお話し続けなさるので、涙ばかりがこぼれては、正体もない様子で悲しみに沈んでいらっしゃるので、ご自分もお泣きになって、
   「人の上にても、もどかしく聞き思ひし古人のさかしらよ。
 身に代はることにこそ。
 いかにうたての翁やと、むつかしくうるさき御心添ふらむ」
 「他人の身の上でも、嫌なものだと思って聞いていた老人のおせっかいというものを。
 自分がするようになったことよ。
 どんなに嫌な老人かと、不愉快で厄介なと思うお気持ちがつのることでしょう」
   と、恥ぢたまひつつ、御硯引き寄せたまひて、手づから押し磨り、紙取りまかなひ、書かせたてまつりたまへど、御手もわななきて、え書きたまはず。
 
 と、お恥になりながら、御硯を引き寄せなさって、自分で墨を擦り、紙を整えて、お返事をお書かせ申し上げなさるが、お手も震えて、お書きになることができない。
 
   「かのこまかなりし返事は、いとかくしもつつまず通はしたまふらむかし」と思しやるに、いと憎ければ、よろづのあはれも冷めぬべけれど、言葉など教へて書かせたてまつりたまふ。
 
 「あのこまごまと書いてあった手紙のお返事は、とてもこのように遠慮せずやりとりなさっていたのだろう」とご想像なさると、実に癪にさわるので、一切の愛情も冷めてしまいそうであるが、文句などを教えてお書かせ申し上げなさる。
 
 
 

第四段 朱雀院の御賀、十二月に延引

 
   参りたまはむことは、この月かくて過ぎぬ。
 二の宮の御勢ひ殊にて参りたまひけるを、古めかしき御身ざまにて、立ち並び顔ならむも、憚りある心地しけり。
 
 参賀なさることは、この月はこうして過ぎてしまった。
 二の宮が格別のご威勢で参賀なさったのに、身籠もられたお身体で、競うようなのも、遠慮され気が引けるのであった。
 
   「霜月はみづからの忌月なり。
 年の終りはた、いともの騒がし。
 また、いとどこの御姿も見苦しく、待ち見たまはむをと思ひはべれど、さりとて、さのみ延ぶべきことにやは。
 むつかしくもの思し乱れず、あきらかにもてなしたまひて、このいたく面痩せたまへる、つくろひたまへ」
 「十一月はわたしの忌月です。
 年の終わりは歳末で、とても騒々しい。
 また、ますますこのお姿も体裁悪く、お待ち受けあそばす院はいかが御覧になろうと思いますが、そうかと言って、そんなにも延期することはでません。
 くよくよとお思いあそばさず、明るくお振る舞いになって、このひどくやつれていらっしゃるのを、お直しなさい」
   など、いとらうたしと、さすがに見たてまつりたまふ。
 
 などと、とてもおいたわしいと、それでもお思い申し上げていらっしゃる。
 
   衛門督をば、何ざまのことにも、ゆゑあるべきをりふしには、かならずことさらにまつはしたまひつつ、のたまはせ合はせしを、絶えてさる御消息もなし。
 人あやしと思ふらむと思せど、「見むにつけても、いとどほれぼれしきかた恥づかしく、見むにはまたわが心もただならずや」と思し返されつつ、やがて月ごろ参りたまはぬをも咎めなし。
 
 衛門督をどのような事でも、風雅な催しの折には、必ず特別に親しくお召しになっては、ご相談相手になさっていたのが、全然そのようなお便りはない。
 皆が変だと思うだろうとお思いになるが、「顔を見るにつけても、ますます自分の間抜けさが恥ずかしくて、顔を見てはまた自分の気持ちも平静を失うのではないか」と思い返され思い返されて、そのままいく月も参上なさらないのにもお咎めはない。
 
   おほかたの人は、なほ例ならず悩みわたりて、院にはた、御遊びなどなき年なれば、とのみ思ひわたるを、大将の君ぞ、「あるやうあることなるべし。
 好色者は、さだめてわがけしきとりしことには、忍ばぬにやありけむ」と思ひ寄れど、いとかく定かに残りなきさまならむとは、思ひ寄りたまはざりけり。
 
 世間一般の人は、ずっと普通の状態でなく病気でいらっしゃったし、院でもまた、管弦のお遊びなどがない年なので、とばかりずっと思っていたが、大将の君は、「何かきっと事情があることに違いない。
 風流者は、さだめし自分が変だと気がづいたことに、我慢できなかったのだろうか」と考えつくが、ほんとうにこのようにはっきりと何もかも知れるところにまでなっているとは、想像もおつきにならなかったのである。
 
 
 

第五段 源氏、柏木を六条院に召す

 
   十二月になりにけり。
 十余日と定めて、舞ども習らし、殿のうちゆすりてののしる。
 二条の院の上は、まだ渡りたまはざりけるを、この試楽によりてぞ、えしづめ果てで渡りたまへる。
 女御の君も里におはします。
 このたびの御子は、また男にてなむおはしましける。
 すぎすぎいとをかしげにておはするを、明け暮れもて遊びたてまつりたまふになむ、過ぐる齢のしるし、うれしく思されける。
 試楽に、右大臣殿の北の方も渡りたまへり。
 
 十二月になってしまった。
 十何日と決めて、数々の舞を練習し、御邸中大騒ぎしている。
 二条院の上は、まだお移りにならなかったが、この試楽のために、落ち着き払ってもいられずお帰りになった。
 女御の君も里にお下がりになっていらっしゃる。
 今度御誕生の御子は、また男御子でいらっしゃった。
 次々とおかわいらしくていらっしゃるのを、一日中御子のお相手をなさっていらっしゃるので、長生きしたお蔭だと、嬉しく思わずにはいらっしゃれないのだった。
 試楽には、右大臣殿の北の方もお越しになった。
 
   大将の君、丑寅の町にて、まづうちうちに調楽のやうに、明け暮れ遊び習らしたまひければ、かの御方は、御前の物は見たまはず。
 
 大将の君は、丑寅の町で、まず内々に調楽のように、毎日練習なさっていたので、あの御方は、御前での試楽は御覧にならない。
 
   衛門督を、かかることの折も交じらはせざらむは、いと栄なく、さうざうしかるべきうちに、人あやしと傾きぬべきことなれば、参りたまふべきよしありけるを、重くわづらふよし申して参らず。
 
 衛門督を、このような機会に参加させないようなのは、まことに引き立たず、もの足りなく感じられるし、皆が変だと思うに違いないことなので、参上なさるようにお召しがあったが、重病である旨を申し上げて参上しない。
 
   さるは、そこはかと苦しげなる病にもあらざなるを、思ふ心のあるにやと、心苦しく思して、取り分きて御消息つかはす。
 父大臣も、
 しかし、どこがどうと苦しい病気でもないようなのに、自分に遠慮してのことかと、気の毒にお思いになって、特別にお手紙をお遣わしになる。
 父の大臣も、
   「などか返さひ申されける。
 ひがひがしきやうに、院にも聞こし召さむを、おどろおどろしき病にもあらず、助けて参りたまへ」
 「どうしてご辞退申されたのか。
 いかにもすねているように、院におかれてもお思いあそばそうから、大した病気でもない、何とかして参上なさい」
   とそそのかしたまふに、かく重ねてのたまへれば、苦しと思ふ思ふ参りぬ。
 
 とお勧めなさっているところに、このように重ねておっしゃってきたので、苦しいと思いながらも参上した。
 
 
 

第六段 源氏、柏木と対面す

 
   まだ上達部なども集ひたまはぬほどなりけり。
 例の気近き御簾の内に入れたまひて、母屋の御簾下ろしておはします。
 げに、いといたく痩せ痩せに青みて、例も誇りかにはなやぎたる方は、弟の君たちにはもて消たれて、いと用意あり顔にしづめたるさまぞことなるを、いとどしづめてさぶらひたまふさま、「などかは皇女たちの御かたはらにさし並べたらむに、さらに咎あるまじきを、ただことのさまの、誰も誰もいと思ひやりなきこそ、いと罪許しがたけれ」など、御目とまれど、さりげなく、いとなつかしく、
 まだ上達部なども参上なさっていない時分であった。
 いつものようにお側近くの御簾の中に招き入れなさって、母屋の御簾を下ろしていらっしゃる。
 なるほど、実にひどく痩せて蒼い顔をしていて、いつもの陽気で派手な振る舞いは、弟の君たちに気圧されて、いかにも嗜みありげに落ち着いた態度でいるのが格別であるのを、いつもより一層静かに控えていらっしゃる様子は、「どうして内親王たちのお側に夫として並んでも、全然遜色はあるまいが、ただ今度の一件については、どちらもまことに思慮のない点に、ほんとうに罪は許せないのだ」などと、お目が止まりなさるが、平静を装って、とてもやさしく、
   「そのこととなくて、対面もいと久しくなりにけり。
 月ごろは、いろいろの病者を見あつかひ、心の暇なきほどに、院の御賀のため、ここにものしたまふ皇女の、法事仕うまつりたまふべくありしを、次々とどこほることしげくて、かく年もせめつれば、え思ひのごとくしあへで、型のごとくなむ、斎の御鉢参るべきを、御賀などいへば、ことことしきやうなれど、家に生ひ出づる童べの数多くなりにけるを御覧ぜさせむとて、舞など習はしはじめし、そのことをだに果たさむとて。
 拍子調へむこと、また誰れにかはと思ひめぐらしかねてなむ、月ごろ訪ぶらひものしたまはぬ恨みも捨ててける」
 「特別の用件もなくて、お会いすることも久し振りになってしまった。
 ここいく月は、あちこちの病人を看病して、気持ちの余裕もなかった間に、院の御賀のために、こちらにいらっしゃる内親王が、御法事をして差し上げなさる予定になっていたが、次々と支障が続出して、このように年もおし迫ったので、思うとおりにもできず、型通りに精進料理を差し上げる予定だが、御賀などと言うと、仰々しいようだが、わが家に生まれた子供たちの数が多くなったのを御覧に入れようと、舞などを習わせ始めたが、その事だけでも予定どおり執り行おうと思って。
 調子をきちんと合わせることは、誰にお願いできようかと思案に窮していたが、いく月もお顔を見せにならなかった恨みも捨てました」
   とのたまふ御けしきの、うらなきやうなるものから、いといと恥づかしきに、顔の色違ふらむとおぼえて、御いらへもとみに聞こえず。
 
 とおっしゃるご様子が、何のこだわりないような一方で、とてもとても顔も上げられない思いに、顔色も変わるような気がして、お返事もすぐには申し上げられない。
 
 
 

第七段 柏木と御賀について打ち合わせる

 
   「月ごろ、かたがたに思し悩む御こと、承り嘆きはべりながら、春のころほひより、例も患ひはべる乱り脚病といふもの、所狭く起こり患ひはべりて、はかばかしく踏み立つることもはべらず、月ごろに添へて沈みはべりてなむ、内裏などにも参らず、世の中跡絶えたるやうにて籠もりはべる。
 
 「ここいく月、あちらの方こちらの方のご病気にご心配でいらっしゃったお噂を、お聞きいたしてお案じ申し上げておりましたが、春ごろから、普段も病んでおりました脚気という病気が、ひどくなって苦しみまして、ちゃんと立ち歩くこともできませんで、月日が経つにつれて臥せっておりまして、内裏などにも参内せず、世間とすっかり没交渉になったようにして家に籠もっておりました。
 
   院の御齢足りたまふ年なり、人よりさだかに数へたてまつり仕うまつるべきよし、致仕の大臣思ひ及び申されしを、『冠を掛け、車を惜しまず捨ててし身にて、進み仕うまつらむに、つくところなし。
 げに、下臈なりとも、同じごと深きところはべらむ。
 その心御覧ぜられよ』と、催し申さるることのはべしかば、重き病を相助けてなむ、参りてはべし。
 
 院のお年がちょうどにおなりあそばす年であり、誰よりも人一倍しっかりしたお祝いをして差し上げるよう、致仕の大臣も思って申されましたが、『冠を挂け、車を惜しまず捨てて官職を退いた身で、進み出てお祝い申し上げるようなのも身の置き所がない。
 なるほど、そなたは身分が低いと言っても、自分と同じように麓い気持ちは持っていよう。
 その気持ちを御覧に入れなさい』と、催促申されることがございましたので、重病をあれこれ押して、参上いたしました。
 
   今は、いよいよいとかすかなるさまに思し澄まして、いかめしき御よそひを待ちうけたてまつりたまはむこと、願はしくも思すまじく見たてまつりはべしを、事どもをば削がせたまひて、静かなる御物語の深き御願ひ叶はせたまはむなむ、まさりてはべるべき」  このごろは、ますますひっそりとしたご様子で俗世間のことはお考えにならずお過ごしあそばしていらっしゃいまして、盛大なお祝いの儀式をお待ち受け申されることは、お望みではありますまいと拝察いたしましたが、諸事簡略にあそばして、静かなお話し合いを心からお望みであるのを叶えて差し上げるのが、上策かと存じられます」
   と申したまへば、いかめしく聞きし御賀の事を、女二の宮の御方ざまには言ひなさぬも、労ありと思す。
 
 とお申し上げなさったので、盛大であったと聞いた御賀の事を、女二の宮の事とは言わないのは、大したものだとお思いになる。
 
   「ただかくなむ。
 こと削ぎたるさまに世人は浅く見るべきを、さはいへど、心得てものせらるるに、さればよとなむ、いとど思ひなられはべる。
 大将は、公方は、やうやう大人ぶめれど、かうやうに情けびたる方は、もとよりしまぬにやあらむ。
 
 「ただこのとおりだ。
 簡略な様子に世間の人は浅薄に思うに違いないが、さすがに、よく分かってくれるので、思ったとおりで良かったと、ますます安心して来ました。
 大将は、朝廷の方では、だんだん一人前になって来たようだが、このように風流な方面は、もともと性に合わないのであろうか。
 
   かの院、何事も心及びたまはぬことは、をさをさなきうちにも、楽の方のことは御心とどめて、いとかしこく知り調へたまへるを、さこそ思し捨てたるやうなれ、静かに聞こしめし澄まさむこと、今しもなむ心づかひせらるべき。
 かの大将ともろともに見入れて、舞の童べの用意、心ばへ、よく加へたまへ。
 物の師などいふものは、ただわが立てたることこそあれ、いと口惜しきものなり」
 あちらの院は、どのような事でもお心得のないことは、ほとんどない中でも、音楽の方面には御熱心で、まことに御立派に精通していらっしゃるから、そのように世をお捨てになっているようだが、静かにお心を澄まして音楽をお聞きになることは、このような時にこそ気づかいすべきでしょう。
 あの大将と一緒に面倒を見て、舞の子供たちの心構えや、嗜みをよく教えてやって下さい。
 音楽の師匠などというものは、ただ自分の専門についてはともかくも、他はまったくどうしようもないものです」
   など、いとなつかしくのたまひつくるを、うれしきものから、苦しくつつましくて、言少なにて、この御前をとく立ちなむと思へば、例のやうにこまやかにもあらで、やうやうすべり出でぬ。
 
 などと、たいそうやさしくお頼みになるので、嬉しく思う一方で、辛く身の縮む思いがして、口数少なくこの御前を早く去りたいと思うので、いつものようにこまごまと申し上げず、やっとの思いで下がりになった。
 
   東の御殿にて、大将のつくろひ出だしたまふ楽人、舞人の装束のことなど、またまた行なひ加へたまふ。
 あるべき限りいみじく尽くしたまへるに、いとど詳しき心しらひ添ふも、げにこの道は、いと深き人にぞものしたまふめる。
 
 東の御殿で、大将が用意なさった楽人、舞人の装束のことなどを、さらに重ねて指図をお加えになる。
 できるかぎり立派になさっていた上に、ますます細やかな心づかいが加わるのも、なるほどこの道には、まことに深い人でいらっしゃるようである。
 
 
 

第十二章 柏木の物語 源氏から睨まれる

 
 

第一段 御賀の試楽の当日

 
   今日は、かかる試みの日なれど、御方々物見たまはむに、見所なくはあらせじとて、かの御賀の日は、赤き白橡に、葡萄染の下襲を着るべし、今日は、青色に蘇芳襲、楽人三十人、今日は白襲を着たる、辰巳の方の釣殿に続きたる廊を楽所にて、山の南の側より御前に出づるほど、「仙遊霞」といふもの遊びて、雪のただいささか散るに、春のとなり近く、梅のけしき見るかひありてほほ笑みたり。
 
 今日は、このような試楽の日であるが、ご夫人方が見物なさるので、見がいのないようにはしまいと思って、あの御賀の日は、赤い白橡に葡萄染の下襲を着るのであろう、今日は、青色に蘇芳襲の下襲を着て、楽人三十人は、今日は白襲を着ているが、東南の方の釣殿に続いている廊を楽所にして、山の南の側から御前に出る所で、「仙遊霞」という楽を奏して、雪がほんのわずか散らついたので、春の隣に近い、梅の花の様子が見栄えがしてほころびかけていた。
 
   廂の御簾の内におはしませば、式部卿宮、右大臣ばかりさぶらひたまひて、それより下の上達部は簀子に、わざとならぬ日のことにて、御饗応など、気近きほどに仕うまつりなしたり。
 
 廂の御簾の内側にいらっしゃるので、式部卿宮、右大臣ぐらいがお側に伺候していらっしゃるだけで、それ以下の上達部は簀子で、特別の日でないので、御饗応などは、お手軽な物を用意してあった。
 
   右の大殿の四郎君、大将殿の三郎君、兵部卿宮の孫王の君たち二人は、「万歳楽」。
 まだいと小さきほどにて、いとらうたげなり。
 四人ながら、いづれとなく高き家の子にて、容貌をかしげにかしづき出でたる、思ひなしも、やむごとなし。
 
 右の大殿の四郎君、大将殿の三郎君、兵部卿宮の孫王の公達二人は、「万歳楽」。
 まだとても小さい年なので、とてもかわいらしげである。
 四人とも、誰彼となく高貴な家柄のお子なので、器量もかわいらしく装い立てられている姿は、そう思うせいか、気品がある。
 
   また、大将の典侍腹の二郎君、式部卿宮の兵衛督といひし、今は源中納言の御子、「皇じやう」。
 右の大殿の三郎君、「陵王」。
 大将殿の太郎、「落蹲」。
 さては「太平楽」、「喜春楽」などいふ舞どもをなむ、同じ御仲らひの君たち、大人たちなど舞ひける。
 
 また、大将の典侍がお生みになった二郎君と、式部卿宮の兵衛督と言った人で、今では源中納言になっている方の御子は「皇じょう」。
 右の大殿の三郎君は、「陵王」。
 大将殿の太郎は、「落蹲」。
 その他では「太平楽」、「喜春楽」などと言ういくつもの舞を、同じ一族の子供たちや大人たちなどが舞ったのであった。
 
   暮れゆけば、御簾上げさせたまひて、物の興まさるに、いとうつくしき御孫の君たちの容貌、姿にて、舞のさまも、世に見えぬ手を尽くして、御師どもも、おのおの手の限りを教へきこえけるに、深きかどかどしさを加へて、珍らかに舞ひたまふを、いづれをもいとらうたしと思す。
 老いたまへる上達部たちは、皆涙落としたまふ。
 式部卿宮も、御孫を思して、御鼻の色づくまでしほたれたまふ。
 
 日が暮れて来たので、御簾を上げさせなさって、感興が高まっていくにつれて、実にかわいらしいお孫の君たちの器量や、姿で、舞の様子も、又とは見られない妙技を尽くして、お師匠たちも、それぞれ技のすべてをお教え申し上げたうえに、深い才覚をそれに加えて、素晴らしくお舞いになるのを、どの御子もかわいいとお思いになる。
 年老いた上達部たちは、皆涙を落としなさる。
 式部卿宮も、お孫のことをお思いになって、お鼻が赤く色づくほどお泣きになる。
 
 
 

第二段 源氏、柏木に皮肉を言う

 
   主人の院、  ご主人の院は、
   「過ぐる齢に添へては、酔ひ泣きこそとどめがたきわざなりけれ。
 衛門督、心とどめてほほ笑まるる、いと心恥づかしや。
 さりとも、今しばしならむ。
 さかさまに行かぬ年月よ。
 老いはえ逃れぬわざなり」
 「寄る年波とともに、酔泣きの癖は止められないものだな。
 衛門督が目を止めてほほ笑んでいるのは、まことに恥ずかしくなるよ。
 そうは言っても、もう暫くの間だろう。
 さかさまには進まない年月さ。
 老いは逃れることのできないものだよ」
   とて、うち見やりたまふに、人よりけにまめだち屈じて、まことに心地もいと悩ましければ、いみじきことも目もとまらぬ心地する人をしも、さしわきて、空酔ひをしつつかくのたまふ。
 戯れのやうなれど、いとど胸つぶれて、盃のめぐり来るも頭いたくおぼゆれば、けしきばかりにて紛らはすを、御覧じ咎めて、持たせながらたびたび強ひたまへば、はしたなくて、もてわづらふさま、なべての人に似ずをかし。
 
 と言って、ちらっと御覧やりなさると、誰よりも一段とかしこまって塞ぎ込んで、真実に気分もたいそう悪いので、試楽の素晴らしさも目に入らない気分でいる人をつかまえて、わざと名指しで、酔ったふりをしながらこのようにおっしゃる。
 冗談のようであるが、ますます胸が痛くなって、杯が回って来るのも頭が痛く思われるので、真似事だけでごまかすのを、お見咎めなさって、杯をお持ちになりながら何度も無理にお勧めなさるので、いたたまれない思いで、困っている様子、普通の人と違って優雅である。
 
   心地かき乱りて堪へがたければ、まだことも果てぬにまかでたまひぬるままに、いといたく惑ひて、  気分が悪くて我慢できないので、まだ宴も終わらないのにお帰りになったが、そのままひどく苦しくなって、
   「例の、いとおどろおどろしき酔ひにもあらぬを、いかなればかかるならむ。
 つつましとものを思ひつるに、気ののぼりぬるにや。
 いとさいふばかり臆すべき心弱さとはおぼえぬを、言ふかひなくもありけるかな」
 「いつものような、大した深酔いしたのでもないのに、どうしてこんなに苦しいのであろうか。
 何か気が咎めていたためか、上気してしまったのだろうか。
 そんなに怖気づくほどの意気地なしだとは思わなかったが、何とも不甲斐ない有様だった」
   とみづから思ひ知らる。
 
 と自分自身思わずにはいられない。
 
   しばしの酔ひの惑ひにもあらざりけり。
 やがていといたくわづらひたまふ。
 大臣、母北の方思し騷ぎて、よそよそにていとおぼつかなしとて、殿に渡したてまつりたまふを、女宮の思したるさま、またいと心苦し。
 
 一時の酔の苦しみではなかったのであった。
 そのまままことひどくお病みになる。
 大臣、母北の方が心配なさって、別々に住んでいたのでは気がかりであると考えて、邸にお移し申されるのを、女宮がお悲しみになる様子、それはそれでまたお気の毒である。
 
 
 

第三段 柏木、女二の宮邸を出る

 
   ことなくて過ぐす月日は、心のどかにあいな頼みして、いとしもあらぬ御心ざしなれど、今はと別れたてまつるべき門出にやと思ふは、あはれに悲しく、後れて思し嘆かむことのかたじけなきを、いみじと思ふ。
 母御息所も、いといみじく嘆きたまひて、
 特別の事がない月日は、のんびりと当てにならない将来のことを当てにして、格別深い愛情もかけなかったが、今が最後と思ってお別れ申し上げる門出であろうかと思うと、しみじみと悲しく、自分に先立たれてお嘆きになるだろうことの恐れ多さを、とても辛いと思う。
 母御息所も、ひどくお嘆きになって、
   「世のこととして、親をばなほさるものにおきたてまつりて、かかる御仲らひは、とある折もかかる折も、離れたまはぬこそ例のことなれ、かく引き別れて、たひらかにものしたまふまでも過ぐしたまはむが、心尽くしなるべきことを、しばしここにて、かくて試みたまへ」  「世間普通の事として、親は親としてひとまずお立て申しても、このような夫婦のお間柄は、どのような時でも、お離れにならないのが常のことですが、このように離れて、よくお治りになるまであちらでお過ごしになるのが、心配でならないでしょうから、もう暫くこちらで、このままご養生なさって下さい」
   と、御かたはらに御几帳ばかりを隔てて見たてまつりたまふ。
 
 と、お側に御几帳だけを間に置いてご看病なさる。
 
   「ことわりや。
 数ならぬ身にて、及びがたき御仲らひに、なまじひに許されたてまつりて、さぶらふしるしには、長く世にはべりて、かひなき身のほども、すこし人と等しくなるけぢめをもや御覧ぜらるる、とこそ思うたまへつれ、いといみじく、かくさへなりはべれば、深き心ざしをだに御覧じ果てられずやなりはべりなむと思うたまふるになむ、とまりがたき心地にも、え行きやるまじく思ひたまへらるる」
 「ごもっともなことです。
 取るに足りない身の上で、及びもつかないご結婚を、なまじお許し頂きまして、こうしてお側におりますその感謝には、長生きをしまして、つまらない身の上も、もう少し人並みとなるところを御覧に入れたいと存じておりましたが、とてもひどく、このようにまでなってしまいましたので、せめて深い愛情だけでも御覧になって頂けずに終わってしまうのではないか存じられまして、生き永らえられそうにない気がするにつけても、まこと安心してあの世に行けそうにも存じられません」
   など、かたみに泣きたまひて、とみにもえ渡りたまはねば、また母北の方、うしろめたく思して、  などと、お互いにお泣きになって、すぐにもお移りにならないので、再び母北の方が、気がかりにお思いになって、
   「などか、まづ見えむとは思ひたまふまじき。
 われは、心地もすこし例ならず心細き時は、あまたの中に、まづ取り分きてゆかしくも頼もしくもこそおぼえたまへ。
 かくいとおぼつかなきこと」
 「どうして、まずは顔を見せようとはお思いになさらないのだろうか。
 わたしは、少しでも気分のいつもと違って心細い時は、大勢の子らの中で、まず第一に会いたくなり頼りに思っているのです。
 このように大変に気がかりなこと」
   と恨みきこえたまふも、また、いとことわりなり。
 
 とお恨み申し上げなさるのも、これもまた、もっともなことである。
 
   「人より先なりけるけぢめにや、取り分きて思ひならひたるを、今になほかなしくしたまひて、しばしも見えぬをば苦しきものにしたまへば、心地のかく限りにおぼゆる折しも、見えたてまつらざらむ、罪深く、いぶせかるべし。
 
 「他の兄弟より先に生まれたせいでしょうか、特別にかわいがっていたので、今でもやはりいとしくお思いになって、少しの間でも会わないのを辛くお思いになっているので、気分がこのように最期かと思われるような時に、お目にかからないのは、罪障深く、気が塞ぐことでしょう。
 
   今はと頼みなく聞かせたまはば、いと忍びて渡りたまひて御覧ぜよ。
 かならずまた対面賜はらむ。
 あやしくたゆくおろかなる本性にて、ことに触れておろかに思さるることありつらむこそ、悔しくはべれ。
 かかる命のほどを知らで、行く末長くのみ思ひはべりけること」
 今はいよいよ危崙とお聞きあそばしたら、たいそうこっそりお越しになってお会い下さい。
 必ず再びお会いしましょう。
 妙に気がつかないふつつかな性分で、何かにつけて疎略な扱いであったとお思いになることがおありだったでしょうと、後悔されます。
 このような寿命とは知らないで、将来末長くご一緒にとばかり思っておりました」
   と、泣く泣く渡りたまひぬ。
 宮はとまりたまひて、言ふ方なく思しこがれたり。
 
 と言って、泣き泣きお移りになった。
 宮はお残りになって、何とも言いようもなく恋い焦がれなさった。
 
 
 

第四段 柏木の病、さらに重くなる

 
   大殿に待ち受けきこえたまひて、よろづに騷ぎたまふ。
 さるは、たちまちにおどろおどろしき御心地のさまにもあらず、月ごろ物などをさらに参らざりけるに、いとどはかなき柑子などをだに触れたまはず、ただ、やうやうものに引き入るるやうに見えたまふ。
 
 大殿ではお待ち受け申し上げなさって、いろいろと大騒ぎをなさる。
 そうはいえ、急変するようなご病気の様子でもなく、ここいく月も食べ物などをまったくお召し上がりにならなかったが、ますますちょっとした柑子などでさえお手を触れにならず、ただ、冥界に引き込まれていくようにお見えになる。
 
   さる時の有職の、かくものしたまへば、世の中惜しみあたらしがりて、御訪らひに参りたまはぬ人なし。
 内裏よりも院よりも、御訪らひしばしば聞こえつつ、いみじく惜しみ思し召したるにも、いとどしき親たちの御心のみ惑ふ。
 
 このような当代の優れた人物が、こんなでいらっしゃるので、世間中が惜しみ残念がって、お見舞いに上がらない人はいない。
 朝廷からも院の御所からも、お見舞いを度々差し上げては、ひどく惜しんでいらっしゃるのにつけても、ますますご両親のお心は痛むばかりである。
 
   六条院にも、「いと口惜しきわざなり」と思しおどろきて、御訪らひにたびたびねむごろに父大臣にも聞こえたまふ。
 大将は、ましていとよき御仲なれば、気近くものしたまひつつ、いみじく嘆きありきたまふ。
 
 六条院におかれても、「まことに残念なことだ」とお嘆きになって、お見舞いを頻繁に丁重に父大臣にも差し上げなさる。
 大将は、それ以上に仲の好い間柄なので、お側近くに見舞っては、大変にお嘆きになっておろおろしていらっしゃる。
 
   御賀は、二十五日になりにけり。
 かかる時のやむごとなき上達部の重く患ひたまふに、親、兄弟、あまたの人びと、さる高き御仲らひの嘆きしをれたまへるころほひにて、ものすさまじきやうなれど、次々に滞りつることだにあるを、さて止むまじきことなれば、いかでかは思し止まらむ。
 女宮の御心のうちをぞ、いとほしく思ひきこえさせたまふ。
 
 御賀は、二十五日になってしまった。
 このような時に重々しい上達部が重病でいらっしゃるので、親、兄弟たち、大勢の方々、そういう高貴なご縁戚や友人方が嘆き沈んでいらっしゃる折柄なので、何か興の冷めた感じもするが、次々と延期されて来た事情さえあるのに、このまま中止にすることもできないので、どうして断念なされよう。
 女宮のご心中を、おいたわしくお察し上げになる。
 
   例の、五十寺の御誦経、また、かのおはします御寺にも、摩訶毘盧遮那の。
 
 例によって、五十寺の御誦経、それから、あちらのおいでになる御寺でも、摩訶毘廬遮那の御誦経が。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 いかにしてかく思ふてふことをだに人伝てならで君に語らむ(後撰集恋五-九六一 藤原敦忠)(戻)  
  出典2 今日のみと春を思はぬ時だにも立つことやすき花の蔭かは(古今集春下-一三四 凡河内躬恒)(戻)  
  出典3 楚有養由基者 善射者也 去柳葉百歩而射之 百発而百中之 左右観者数千人 皆曰 善射(史記-周本紀)(戻)  
  出典4 逢萌字子康 北海都昌人也 (中略) 即解冠挂東都城門 帰 将家属浮海 客於遼東(後漢書-逢萌伝)(戻)  
  出典5 千早振る神の忌垣に這ふ葛も秋にはあへず移ろひにけり(古今集秋下-二六二 紀貫之)(戻)  
  出典6 紅葉せぬ常盤の山は吹く風の音にや秋を聞きわたるらむ(古今集秋下-二五一 紀淑望)下紅葉するをば知らで松の木の上の緑を頼みけるかな(拾遺集恋三-八四四 読人しらず)(戻)  
  出典7 あはれ ちはやぶる 賀茂の社の 姫小松 あはれ 姫小松 よろづ世経とも 色はかは あはれ 色は変はらじ(求子)(戻)  
  出典8 ひもろぎは神の心にうけつらむ比良の高嶺に木綿鬘せり(袋草子-一四〇)(戻)  
  出典9 (本方)千歳 千歳 千歳や 千年の 千歳や (末方)万歳 万歳 万歳や 万代の 万歳や (本方)なほ千歳 (末方)なほ万歳(神楽歌-千歳法)(戻)  
  出典10 秋の夜の千夜を一夜になせりとも言葉残りて鶏や鳴くらむ(伊勢物語-四六)(戻)  
  出典11 琴書曰師曠晋之楽官也 上於琴能易寒暑占風雨為(琴書-花鳥余情所引)(戻)  
  出典12 花の香を風の便りにたぐへてぞ鴬誘ふしるべにはやる(古今集春上-一三 紀友則)(戻)  
  出典13 鴬の羽風になびく青柳の乱れて物を思ふころかな(具平親王集-河海抄所引)(戻)  
  出典14 春女感陽気而思男 秋士感陰気而思女(毛詩-題七月)(戻)  
  出典15 感天地以致和 *(*=虫+支)行之衆類(文選-五三 琴賦)(戻)  
  出典16 葛城の 寺の前なるや 豊浦の寺の 西なるや 榎の葉井に 白璧沈くや おおしとど おしとど しかしてば 国ぞ栄えむや 我家らぞ 富せむや おおしとど としとんど おおしとど としとんど(催馬楽-葛城)(戻)  
  出典17 寄る方もありといふなるありそ海の立つ白波も同じ心よ(出典未詳-源氏釈所引)大幣と名にこそ立てれ流れてもつひに寄る瀬はありてふものを(古今集恋四-七〇七 在原業平)(戻)  
  出典18 人知れぬ我が思ひに逢はぬ間は身にさへぬるみて思ほゆるかな(小町集-四九)(戻)  
  出典19 我が心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て(古今集雑上-八七八 読人知らず)(戻)  
  出典20 これを見よ人もすさめぬ恋すとて音を泣く虫のなれ姿を(後撰集恋三-七九三 源重光)(戻)  
  出典21 夏虫の身をいたづらになすことも一つ思ひによりてなりけり(古今集恋一-五四四 読人しらず)(戻)  
  出典22 木の間より漏り来る月の影見れば心尽くしの秋は来にけり(古今集秋上-一八四 読人知らず)(戻)  
  出典23 飽かざりし袖の中にや入りにけむ我が魂のなき心地する(古今集雑下-九九二 陸奥)(戻)  
  出典24 むばたまの闇の現はさだかなる夢にいくらもまさらざりけり(古今集恋三-六四七 読人知らず)(戻)  
  出典25 待てといふに散らでし止まる物ならば何を桜に思ひまさまし(古今集春下-七〇 読人しらず)(戻)  
  出典26 残りなく散るぞめでたき桜花ありて世の中果ての憂ければ(古今集春下-七一 読人しらず)散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世に何か久しかるべき(伊勢物語-一四六)(戻)  
  出典27 夕闇は道たどたどし月待ちて帰れ我が背子その間にも見む(古今六帖一-三七一)(戻)  
  出典28 ねぎ事をさのみ聞きけむ社こそ果ては嘆きの杜となるらめ(古今集俳諧-一〇五五 讃岐)(戻)  
  出典29 いかばかり恋てふ山の深ければ入りと入りぬる人惑ふらむ(古今六帖四-一九八〇)(戻)  
  出典30 夏の日も朝夕涼みあるものをなど我が恋のひまなかるらむ(出典未詳-源氏釈所引)(戻)  
  出典31 逢萌字子康 北海都昌人也 (中略) 即解冠挂東都城門 帰 将家属浮海 客於遼東(後漢書-逢萌伝)(戻)  
  出典32 七十老致仕 懸其所仕之車 置諸廟永使子孫監 而則焉立身之終(古文孝経)(戻)  
  出典33 冬ながら春の隣の近ければ中垣よりぞ花は散りける(古今集俳諧-一〇二一 清原深養父)(戻)  
  出典34 匂はねどほほゑむ梅の花をこそ我もをかしと折りてながむれ(好忠集-二六)(戻)  
  出典35 さかさまに年も行かなむとりもあへず過ぐる齢やともに返ると(古今集雑上-八九六 読人知らず)(戻)  
  出典36 かりそめの行き交ひ路とぞ思ひ来し今は限りの門出なりける(古今集哀傷-八六二 在原滋春)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 こそ--*そ(戻)  
  校訂2 削ぎ--そ(そ/+き)(戻)  
  校訂3 御琴--こ(こ/$御)こと(戻)  
  校訂4 何せむに--なにせむ(む/+に)(戻)  
  校訂5 難き--かた(た/+き)(戻)  
  校訂6 思ひ捨つれ--おもひ(ひ/+す)つれ(戻)  
  校訂7 御まうけの--御まうけ(け/+の)(戻)  
  校訂8 なりたまふ--なり(り/+給)(戻)  
  校訂9 御遊び---*あそひ(戻)  
  校訂10 いと--(/+いと)(戻)  
  校訂11 喩へても--たとへて(て/+も)(戻)  
  校訂12 ここに--(/+こゝに)(戻)  
  校訂13 にや--(/+にや)(戻)  
  校訂14 あり--(/+あり)(戻)  
  校訂15 涙ぐみ--な(な/+み)たくみ(戻)  
  校訂16 発刺--*はち(戻)  
  校訂17 御方の--(/+御かたの)(戻)  
  校訂18 ここら--こゝと(と/$ら)(戻)  
  校訂19 聞こえ--き(き/+こ)え(戻)  
  校訂20 日一日--ひゝとひひ(ひ/$<後出>)(戻)  
  校訂21 人ひとりの--人ひとり(り/+の)(戻)  
  校訂22 ゆるべる--ゆ(ゆ/+る)へる(戻)  
  校訂23 ならず--か(か/$な)らす(戻)  
  校訂24 きよらに--きよらぬ(ぬ/$に)(戻)  
  校訂25 さに、え言ひ果てたまはで、「今はよし。
 過ぎにし--(/+さにえいひはてたまはていまはよしすきにし)(戻)
 
  校訂26 心--*ころ(戻)  
  校訂27 聞きにく--きゝにくの(の/$)(戻)  
  校訂28 思ほし--お(お/+も)ほし(戻)  
  校訂29 夕べの--ゆふへ(へ/+の)(戻)  
  校訂30 ならば--なと(と/$ら)は(戻)  
  校訂31 身かな--みかなき(き/$)(戻)  
  校訂32 御ため--*ため(戻)  
  校訂33 御物語の--御もの(の/+かたりの)(戻)  
  校訂34 なむ聞き--(/+なんきゝ)(戻)  
  校訂35 いみじき--いみしくさ(くさ/$き)(戻)  
  校訂36 この--(/+こ)の(戻)  
  校訂37 うちつけに--うちつけ(け/+に)(戻)  
  校訂38 出でたまふ--いてた(た/$)給(戻)  
  校訂39 御ありさま--(/+御)ありさま(戻)  
  校訂40 避り--(/+さ)り(戻)  
  校訂41 置きあへで--をきあから(から/=へ)て(戻)  
  校訂42 かなひ--め(め/$か)なひ(戻)  
  校訂43 さやかには--さやかに(に/+は)(戻)  
  校訂44 ありし--あ(あ/$)ありし(戻)  
  校訂45 とやかくや--ゝやか(か/+く)や(戻)  
  校訂46 かくなりぬる--*なりぬる(戻)  
  校訂47 つけて--け(け/$つ)けて(戻)  
  校訂48 よりは--よか(か/$り)は(戻)  
  校訂49 宮--(/+宮)(戻)  
  校訂50 思ひ--(/+思)(戻)  
  校訂51 など--(/+なと)(戻)  
  校訂52 女方--女(女/+かた)(戻)  
  校訂53 譲り--(/+ゆつり)(戻)  
  校訂54 御名の--御な(な/+の)(戻)  
  校訂55 よりてぞ--より(り/+て)そ(戻)  
  校訂56 そそのかし--そ(そ/+そ)のかし(戻)  
  校訂57 典侍--御(御/$)ないしのすけ(戻)  
  校訂58 月日--*へきひ(戻)  
  校訂59 ことわりなり---ことわり(戻)  
  校訂60 高き--か(か/#)たかき(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)明融臨模本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。
 明融本は、定家自筆本とほぼ同等に扱われているという。