竹取物語~全体構造・作者

    竹取物語
全体構造
和歌一覧

 
 800年代後半の作者不詳の物語(880年頃で文屋と解する)。物語の祖(おや)、古典の双璧とも。
 かぐやは小町。小町針(男を拒絶)、名づけが秋田、光を放つ衣通姫のりう、

 

 竹取翁は万葉16巻に出てくる長歌の翁、加えて小町針という男を断固拒絶する逸話を素材にしている。905年の貫之の古今仮名序で小町を「をのゝこまちは、いにしへのそとほりひめのりうなり。あはれなるやうにてつよからず」とする。後段は「なよ竹」の形容。衣通姫は光を放つ古事記の姫。かぐや最大の特徴は、男達を断固拒絶することと、光を放つこと、そしてなぜか世界的美女。この世界は日本基準の世界で、つきつめれば竹取に由来すると見る(世界の男、貴なるも賤しきも、いかでこのかぐや姫を得てしがな見てしがなと音に聞きめでて惑ふ)。小町は世界的には全く有名ではないだろうし、クレオパトラ・楊貴妃、いずれも皇帝を惑わす文脈。それに比して和歌の名手だから世界的美女というのは不釣り合いだろう。三大というあたり枕草子あたりからの着想で、紫も楊貴妃にまつわる歌を源氏冒頭桐壺に入れている。この頃、小町は今以上に伝説だった。どこの馬とも知れないのに古今に燦然と輝いていた女性。その歌が今でも特別に取り立てられるぐらい洗練されていても、それをどういう背景で詠んで残せて選ばれたのか謎だった。

 著者は文屋。小町針というように縫殿の同僚。小町の歌の作詞者(古今の詞書の分析参照)。貫之が文屋を立てたセットで小町の歌がある。それは古今の配置から揺らがない(文屋小町敏行のみ巻先頭連続:秋下・恋二・物名、業平を敏行で崩す恋三。古今最初の厚い詞書は8の文屋。9の貫之=下に立たむこと堅く=守る)。

 小町は美人というより可愛い。弥生顔ではなく秋田顔。現に竹取の美しうは可愛いと解されている。生まれたまま・普通にしてると可愛い(天然=おばか)。大人しくすると美人(きよらか)。大体全体のかぐやの描写に合っていると思う。きよらでないとただのばか話になるのがツボ。秋田的な美人にはそういう因果があるのかもしれない。

 
 

 目次
 

 ・全体構造
 

 ・作者(文屋)
 

 ・成立(880年頃)
  
 

全体構造

 
 
 文中の「ばか」と、「(を)ば。か(ぐや)」等の個数を計測。
 

    和歌 ばか
今は昔   2
夜這い   6
無理難題    
石作皇子 3 4
車持皇子 4 8
阿倍御主人 2 4
大伴御行 祝詞 5
石上麻呂 2 6
2 9
10 月見   3
11 徒労    
12 降臨    
13 汝幼き人   1
14 羽衣 1  
15 不死の薬 1  
  15 48

作者

 
 
 竹取物語の著者は定説がないが文屋。それを仮説レベルではなく証明する。成立時期にもかかわるがそれは後述。
 

 文屋の象徴的な職は、最後の縫殿=後宮の女所のナンバー2(現場職)。他には判事=裁判官の経歴がある。だからその物語は、女性を多く語り、衣のの歌が象徴的。
 皮衣・羽衣(竹取)。
 すりごろも・狩衣・唐衣(伊勢)。
 小町の逸話をいう大和物語の苔の衣も、話の展開の仕方から、小町の背後にいた文屋が残した話と見る他ない(竹取と同旨)。
 様々な衣を歌う男が、当時から一般だったという根拠は何もなく、竹取と伊勢は特別扱いをされる作品で、特に伊勢は和歌史上別格で、その「唐衣」「花橘」という女性的歌詞は後世に極めて強い影響を及ぼした(「唐衣また唐衣唐衣かへすがへすも唐衣なる」(源氏行幸))。また業平の一般的な人格評(無責任な淫奔)に比して、絶大な影響力と、歌の時だけ掛かりを多用して理知的になるという根拠が全くない。

 

 文屋は小町が唯一受け入れた記録を持つ男(古今938)。古今8・9で文屋・貫之の配置で、文屋に8に当てて立て貫之が下を固める。貴族社会の序列に属していないので、帝を含めた上層部を徹底的に滑稽に描く。
 徹底して滑稽で権力的な貴公子達の言動は、後宮の女達にからむ様子と見れる。
 

 宮中にあまたさぶらひける女官に有名な「更衣」があり、字義上どうみても縫殿の管轄、かつ更衣を象徴する桐壺は縫殿直下の建物。
 卑官にもかかわらず和歌最高峰の称号(実力しか後ろ盾にならない)・作品のネームバリュー・匿名性・知的素養の裏付け・各種の衣を和歌の歌詞として持ち出す内容・女性の面倒事にからむ男性から、竹取と伊勢の著者は文屋しかない。そう見れば全部通る。
 しかしそう見られない(無視されている)のは、源氏冒頭の貴族社会の文脈と紫は解釈した。
 

 現に日本の古典文学は貴族社会のものと解釈されているが、貴族社会は話題にこそすれ、根拠をもって貴族が残したといえる別格の作品は存在しない。それらは鑑賞するだけで基本担わない。竹取も伊勢も、それら(特にその妻達、つまり女御以上)を飽きさせないためのもの。そういう裏付けは山ほどある、というかそれしかない。竹取伊勢大和蜻蛉全てその文脈。貴族皇族男に対する不満。これが古文の源流。
 

 それを男目線で押し切ってきたのは、上述した貴族社会の文脈で、社会の果実はそれらのものという自他の思い込み。だから万葉も正体不明の実力者人麻呂・赤人、無名と民を重んじるシンプルな歌風をさしおいて、分不相応に末尾について、冗長な詞書と自分と貴族の名前を羅列する、軍人貴族の編纂とされている。家持自身がその詞書で「山柿の門」は辿らなかったとしてすらいるのに。昔男の物語が在五日記とみなされる構図と全く同じ。
 

 竹取がなぜか源順の作とか宙に浮いて言い出されるが、文脈でも歌風でも年代でも、全く根拠がない。紫に重んじられた貫之より一世代後で、歌人100選外で論外ですらある。しかしそれが男目線の社会には都合が良い。そうでなければ、あらゆる要素で際立った特徴を持つ、後宮の女達に近い仕事で、その和歌文学創出を担ったに足りる、特別な知的実力を裏付ける、極めて特異な多角的記録をもつ文屋が、貴族社会(男達)を痛烈に皮肉る著者候補として完全に無視される説明ができない。貫之ならまだしも、「源順、源融、遍昭、紀長谷雄、菅原道真」には、それを表現するどのような動機があるのか。きまぐれにしては危うすぎる内容だろう。ひたすら男と超上流貴族をクサし続け、帝を無礼に描き、女(かぐや)の「かぐや姫答ふるやう、帝の召しての給はんことしこしとも思はず。といひて」を含め、まず人格を疑われる。今ですらそう思われるだろう。まして当時は。
 このような突き抜けた記述が、大和初段の宇多帝への不満を弘徽殿(後宮中枢)の壁に大に落書きする伊勢の御を初めとする、女性達の基本不遜な表現の解放の嚆矢・のろしとなった、と見るのは実に自然だろう。何の無理もない。男貴族にはそういうのは基本迷惑。

 女目線の男を引き継いだのが貫之の土佐だが、男もしているから女もしてみようと言っただけで、貫之が女を装っているわけではない。控え目にいってどれだけ頓珍漢な解釈なのか。それで筋が通っていると思えるのだろうか。文脈無視で語尾だけ見てするドグマ的解釈がはびこっている(群盲象を評す)。付属語はそれ自体では文として意味をなせない。基本を無視することを応用がきかないという(情況に応じ柔軟に用いれない。文脈に即し語義を解釈せず、文脈無視のドグマ的解釈を古来の用法とみなす)。文脈をほぼ全く考慮しないから上記の著者の認定のように何でもありになる。竹取はそこまでごろごろしているレベルの作品ではないのに。

 作品はその実績相応・記述内容・思想相応の人物が作者と見るべきだろう。
 

 人を超越した天の視点は、法の根本概念(天道+摂理=道理)。

 解釈は根本的に法概念。法は法律ではなく法理(普遍の法則)。理の理論体系(統一理論)は文学にはなく、あるのはローカルでミクロな文法理論。肝心の法を知らないと背理する。背理とは、例えば文脈無視で付属語だけで正解とか間違いとかいう本末転倒。些末を重視し、大意や一貫性は無視する。だから翁の勢猛が、天人への翁の猛き心を無視して、富豪や長者などとされる。
 
 

成立

 
 
 成立は、880年頃(文屋が最後の職の記録として縫殿に入った年)と解する。

 一般には、源氏絵合で竹取の写本を貫之(870頃~945頃)が書いたと言及されているので「9世紀後半から」「遅くとも10世紀半ばまでに成立したと考えられている」とされる。

 

 名づけが秋田で本文は小町針の内容というのは上述した通りで、貫之が書いた905年成立の古今仮名序の小町の記述が、衣通姫となよ竹を意識しているので、905年より前の9世紀後半(800年代後半)。

 

 さらに文屋の没年は885年頃とされており、880年からその頃までに、一貫して様々な衣の歌を詠む竹取と伊勢を残したと見れる。二つの著者を文屋と見れば全ての文意と思想哲学が一貫して通り、他の候補者のような矛盾や根拠の薄さは何もない。

 

 貫之の仮名序で、衣は文屋の歌の象徴とされている(ふんやのやすひでは、ことばゝたくみにてそのさまみにおはず、いはゞあき人のよきゝぬをきたらむがごとし)。このきぬ(衣)にかかる小町の「そとほりひめ(衣通姫)」。そして「ふくからに」。

 
 伊勢16段(紀有常)では、著者(文中で「友だち」)が、妻に逃げられた紀有常に天の羽衣を送ったと出てくる。

 「これやこの天の羽衣むべしこそ君が御衣と奉りけれ」

 これは竹取を象徴させた言葉で、その心は、嫌なことも全部忘れる。有常の「友だち」は一般に業平とみなされているが、それは伊勢物語が在五日記と丸ごとみなされたことによる誤解で、義理の息子(業平)から義理の父(有常)を「友だち」と呼称することは事実上ありえない。ありえないが、それを全部無視して伊勢の不手際だと押し切ってきたのが業平説。だったので最近は業平著者説がひっこめられ揺らぎ始めている。

 伊勢の昔男の一般の認定と「在五」を非難の矛盾、それを糊塗する源順らの認定を維持するために、一貫して800年代までの登場人物の話を、950年頃までの段階増補とし、その影響を受けた一貫して900年代前半の宇多帝をいう大和物語も直後の950年以後とする場当たり認定。つまり、かな和歌と古文の解釈認定が最初から男貴族社会の都合でズレまくってきたが、ここにきてそれが揺らぎ始めている。それは