平家物語 巻第一 鹿谷:概要と原文

殿下乗合 平家物語
巻第一
鹿谷
ししのたに
俊寛沙汰

〔概要〕
 
 承安元年 (1171年) 清盛の娘、平徳子が高倉天皇に入内。安元3年 (1177年) 平重盛と宗盛が左大将・右大将になった。先をこされた大納言藤原成親は、東山の鹿谷で義弟の西光法師(俗名藤原師光)らと、平家討伐をたくらむ(鹿ケ谷の陰謀)。
「俊寛僧都の山庄あり。かれに常は寄りあひ寄りあひ、平家ほろぼさむずるはかりことをぞ廻しける」(以上Wikipedia『平家物語の内容』から引用)

 


 
 これによつて、主上御元服の御定めはその日は延びさせ給ひて、同じき二十五日、院の殿上にてぞ御元服の御定めはありける。摂政殿さても渡らせ給ふべきならねば、同じき十一月九日、兼宣旨をかうぶり、十四日太政大臣にあがらせ給ふ。やがて同じき十七日、喜び申しありしかども、世間は苦々しうぞ見えし。
 

 さるほどに今年も暮れて、嘉応も三年になりにけり。正月五日、主上御元服あつて、同じき十三日、朝覲のために、院の御所法住寺殿へ行幸なる。法皇、女院待ちうけ参らつさせ給ひて、初冠の御粧ひもいかばかりらうたく思し召されけん。入道相国の御娘、女御に参らせ給ひけり。御歳十五歳、法皇御猶子の儀なり。
 

 その頃妙音院太政のおほい殿、大将を辞し申させ給ふ事ありけり。時に徳大寺大納言実定卿、その仁に当たり給ふ由聞こゆ。また花山院中納言兼雅卿も所望あり。そのほか故中御門藤中納言家成卿の三男、新大納言成親卿もひらに申されけり。
 

 院の御気色よかりければ、様々の祈りを始めらる。八幡に百人の僧を籠めて、信読の大般若を七日読ませられたりける最中に、高良の大明神の御前なる橘の木に、男山の方より、山鳩三つ飛び来たつて、くひあひてぞ死ににける。
 「鳩は八幡大菩薩の第一の使者なり。宮寺にかかる不思議なし」とて、時の検校、匡清法印この由内裏へ奏聞したりければ、神祇官にして御占あり。重き御慎みとうらなひ申す。ただしこれは君の御慎みにはあらず、臣下の慎みとぞ申しける。
 新大納言に恐れをもいたさず、昼は人目のしげければ、夜な夜な歩行にて、中御門烏丸の宿所より、賀茂の上の社へ、七夜続けて参られけり。七夜に満ずる夜、宿所に下向して、苦しさにちとまどろみたりける夢に、賀茂の上の社へ参りたるとおぼしくて、御宝殿の御戸押し開き、ゆゆしう気高げなる御声にて、
 

♪8
 桜花 賀茂の川風 うらむなよ
  ちるをばえこそ とどめざりけれ

 
 新大納言これになほ恐れをもいたされず、賀茂の上の社に、御宝殿の御後ろなる、杉の洞に壇をたて、ある聖をこめて、吒幾爾の法を百日行はせられける最中に、雷おびたたしうなつて、かの大杉に落ちかかり、雷火もえあがつて、宮中すでにあやふく見えければ、宮人ども多く走り集まつてこれをうち消す。
 さてかの外法行ひける聖を追出せんとするに、「我、当社に百日参篭の心ざしあり。今日は七十五日になる。まつたく出づまじ」とてはたらかず。
 この由を社家より内裏へ奏聞しければ、ただ「法にまかせよ」と宣旨を下さる。その時神人白杖をもつてかの聖がうなじをしらげ、一条大路より南へ追つこしてんげり。神は非礼をうけ給はずと申すに、この大納言、非分の大将を祈り申されければにや、かかる不思議も出で来にけり。
 

 その頃の叙位除目と申すは、院、内の御ぱからひにもあらず、摂政関白の御成敗にも及ばず、ただ一向平家のままにてありければ、徳大寺、花山院もなり給はず、入道相国の嫡男小松殿、大納言の右大将にてましましけるが、左に移りて、次男宗盛、中納言にておはせしが、数輩の上﨟を超越して、右に加はられけるこそ、申すはかりもなかりしか。
 

 中にも徳大寺殿は、一の大納言にて、花族英雄、才学雄長、家嫡にてましましけるが、平家の次男宗盛卿に大将を越えられ給ひぬるこそ遺恨の次第なれ。「定めてご出家などもやあらんずらん」と、人々内々ささやきあはれけれども、しばらく世のならんやうを見んとて、大納言を辞して籠居とぞ聞こえし。
 新大納言成親卿宣ひけるは、「徳大寺、花山院に越えられたらんはいかがせん。平家の次男宗盛卿に越えられぬるこそ、遺恨の次第なれ。いかにもして平家を滅ぼし、本望をとげん」と宣ひけるこそ恐ろしけれ。
 父の卿はわづかに中納言までこそ至られしか。その末子にて位正二位、官大納言にあがり、大国あまた賜はつて、子息所従朝恩に誇れり。何の不足にかかかる心つかれけん、ひとへに天魔の所為とぞ見えし。平治には越後中将とて、信頼卿に同心の間、すでに誅せらるべかりしを、小松殿やうやうに申して、首をつぎ給へり。然るにその恩を忘れて、外人もなき所に兵具をととのへ、軍兵を語らひおき、その営みのほかは他事なし。
 

 東山の麓、鹿の谷といふ所は、後ろは三井寺に続いて、ゆゆしき城郭にてぞありける。それに俊寛僧都の山荘あり。かれに常はよりあひよりあひ、平家滅ぼすべき謀をぞめぐらしける。
 

 ある夜、法皇も御幸なる。故少納言入道信西の子息、浄憲法印も御供つかまつり、その夜の酒宴にこのよしを仰せ合はせられたりければ、法印、「あなあさまし。人あまた承り候ひぬ。ただ今もれ聞こえて、天下の御大事に及び候ひなんず」と申しければ、大納言気色かはりて、さつとたたれけるが、御前に候ひける瓶子を狩衣の袖にかけてひきたふされたりけるを、法皇叡覧あつて、「あれはいかに」と仰せければ、大納言たちかへつて、「平氏たふれ候ひぬ」とぞ申されける。
 法皇もゑつぼに入らせおはしまして、「者ども参つて猿楽つかまつれ」と仰せければ、平判官康頼つと参つて、「ああ、あまりに平氏の多う候ふに、もて酔ひて候ふ」と申す。
 俊寛僧都、「さてそれをば、いかがつかまつるべき」と申しければ、西光法師、「首をとるにしかず」とて、瓶子の首をとつてぞ入りにける。浄憲法印、あまりのあさましさにつやつやものも申されず。かへすがへすも恐ろしかりし事どもなり。
 

 与力の輩誰誰ぞ。近江中将入道蓮浄、俗名成正、法勝寺の執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、摂津国の源氏多田蔵人行綱を始めとして、北面の輩多く与力してげり。
 

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