竹取物語~羽衣

 
 「かゝる程に宵うちすぎて」〔1178〕から、「車に乘りて百人許天人具して昇りぬ」〔1213〕まで。
 
 
 目次
 
 ・本文 ・解説
 

本文

       
和歌  文章
 番号
竹取物語
(國民文庫)
竹とりの翁物語
(群書類從)
       
  〔1178〕 天人(あまびと)の中にもたせたる箱あり。 天人のなかにもたせたるはこあり。
  〔1179〕 天(あま)の羽衣入れり。 天の羽衣いれり。
  〔1180〕 又あるは不死の藥入れり。 また有はふしの藥入り。
       
  〔1181〕 ひとりの天人いふ、 ひとりの天人いふ。
  〔1182〕 「壺なる御(み)藥たてまつれ。 つぼなる御藥たてまつれ。
  〔1183〕 きたなき所のもの食(きこ)しめしたれば、
御心地あしからんものぞ。」
とて、持てよりたれば、
きたなき所の物きこしめしたれば
御心ちあしからむ物ぞ
とてもてよりたれば。
       
       
  〔1184〕 聊甞め給ひて、 聊なめ給て。
  〔1185〕 少しかたみとて、
脱ぎおく衣に包まんとすれば、
すこしかたみとて
ぬぎ置給ふきぬにつゝまんとすれば。
  〔1186〕 ある天人つゝませず、 有天人つゝませず。
  〔1187〕 御衣(みぞ)をとり出でてきせんとす。 みぞをとり出てきせんとす。
        
  〔1188〕 その時にかぐや姫 そのときにかぐや姫。
  〔1189〕 「しばし待て。」といひて、 しばしまてと云。
  〔1190〕 「衣着つる人は
心ことになるなり。
きぬきせつる人は
心ことになるなりと云。
  〔1191〕 物一言いひおくべき事あり。」
といひて文かく。
物一こといひをくべきこと有け
といひてふみかく。
       
  〔1192〕 天人「おそし。」と心もとながり給ふ。 天人をそしと心もとながり給ふ。
  〔1193〕 かぐや姫 かぐや姫。
  〔1194〕 「物知らぬことなの給ひそ。」
とて、いみじく靜かに
ものしらぬことなの給そ
とていみじくしづかに。
  〔1195〕 おほやけに御み文奉り給ふ。 おほやけに御文たてまつり給ふ。
  〔1196〕 あわてぬさまなり。 あはてぬさま也。
       
       
  〔1197〕 「かく數多の人をたまひて
留めさせ給へど、
かくあまたの人を給て
とゞめさせ給へど。
  〔1198〕 許さぬ迎まうできて、
とり率て罷りぬれば、
ゆるさぬむかひまふで來て
とり出[ゐてイ]まかりぬれば。
  〔1199〕 口をしく悲しきこと、 くちおしくかなしき事。
  〔1200〕 宮仕つかう奉らずなりぬるも、 宮づかへつかふまつらずなりぬるも。
  〔1201〕 かくわづらはしき身にて侍れば、 かくわづらはしきみにて侍れば。
  〔1202〕 心得ずおぼしめしつらめども、
心強く承らずなりにしこと、
心えずおぼしめされつらめども
心づよく承はらずなりにしこと。
  〔1203〕 なめげなるものに思し召し
止められぬるなん、
なめげなるものにおぼしめし
留られぬるなむ。
  〔1204〕 心にとまり侍りぬる。」とて、 心にとまり侍りぬとて。
       
♪14 〔1205〕 今はとて
天のはごろもきるをりぞ
今はとて
天の羽衣きるおりそ
 君をあはれと
 おもひいでぬる
 君をあはれと
 おもひいてける
       
  〔1206〕 とて、壺の藥そへて、 とてつぼのくすりそへて。
  〔1207〕 頭中將を呼び寄せて
奉らす。
とうのちうじやうをよびよせて
たてまつらす。
       
         
  〔1208〕 中將に天人とりて傳ふ。 中將に天人とりてつたふ。
  〔1209〕 中將とりつれば、 中將とりつれば。
  〔1210〕 頭中將を呼び寄せて奉らす。 ふと天の羽衣打きせ奉りつれば。
  〔1211〕 翁をいとほし悲しと
思しつる事も失せぬ。
翁をいとをしかなしと
おぼしつることもうせぬ。
       
  〔1212〕 この衣着つる人は
物思もなくなりにければ、車に乘りて
此きぬきつる人は
物おもひなくなりにければ車に乘て。
  〔1213〕 百人許天人具して昇りぬ。 百人ばかり天人ぐしてのぼりぬ。
       

 

解説

 
 
 「壺の藥」は、つ○ぼに漬ける薬と掛けている。
 その薬は不死の薬。これは霊魂の不滅という知識。誰も聞く耳をもたない。
 かぐやが帝に襲われた時に影になっていたというのは、この文脈。いわば霊体と肉体の中間の体。それをアストラル体という。
 
 「きたなき所のもの食(きこ)しめしたれば、御心地あしからんものぞ」とは、地上の穢れを強調している。その集大成が帝の蛮行。
 
 「聊(いささか)甞め給ひて」とは、めっちゃバカにしているという、著者の自覚的な表現。
 ナメてるのは、お馴染みのバカにしているという意味。こういう用法は伊勢物語でもある。同じ作者。文屋。竹取物語は同じ縫殿の小町の物語。
 小町針という小町が言い寄る男を悉く拒絶する話がある。この名称に加え、六歌仙とされたのは文屋と一緒だったから。作詞が文屋で歌手が小町。
 「いとなめしと思ひけれど、 こころざしはいやまさりけり」(伊勢105段)。→めっちゃナメとるが志は殊勝だな。そこでナメてたのは伊勢斎宮(女性)。
 

 業平の話? 伊勢読んだことない発言。「在五」「在原なりける男」(63、65)の二段でも原文で読めばそんなことは言えない。
 誰かの訳は全部だめ。非難の言葉が悉く賞賛の言葉にすり変えられる。というより「在五」の時点でおかしいと思えないこと自体がおかしい。
 ここで頭中将が出てくるのもその含みがある。だから出てきた瞬間、すぐ気持ちが冷めている。
 なお、上記伊勢105段の直後106段は、業平を全力で非難する、ちはやぶるの歌(百人一首17)。業平の歌ではない。業平を非難した歌。
 この頭中将の用法は源氏物語でも全く同様。つまり主人公が伊勢の昔男(光る源氏=光るかぐやとセットの男)で、そのライバルが頭中将。
 

 「きこしめし(聞召し)」に食があてられているが、召しを飯に掛けている、という比較的どうでもいい掛かり。
 それと先行の薬と、言いたいことがいえないポイズンと解く。その心は吐き出しなさい。それが君はあはれの歌。
 

 ここでかぐやは羽衣に衣替えをするが、体をとりかえる象徴表現(「衣ほすてふ天の香具山」百人一首2・持統天皇=人麻呂代作という定家認定)。
 かぐやは光を放ったり影になったりするので、この世の体ではないことは明白。いわばアストラル体。その意味で衣は体の意味である。
 この世の重くて苦しい服(カセ)はもう脱いで、本来の軽い服(体)になる。
 
 しかしこれは、一部の学者が想定するような死ぬことの比喩ではない。というより最初から既に肉体ではない。
 穢い世にまみれた衣を脱ぎ捨て(シャワーを浴びて穢れを落とし)より軽い体になるという象徴表現。いわば空蝉。時期的にも丁度いい。
 しかし汚い所にいる時は綺麗な格好はできませんね。すぐ汚れるから。もうそうしなくていいから着替える。
 むしろ地上こそ死の世界。生きるためにしたくないこともしろ、それが普通だと心の死を強要してくる。それが翁の発言でこの世の構図。亡者の世。
 僕にとって生と死は等価値(つまり世の人のため生き死ぬ)というキャラクターも、天から、月から来て光っている。その心は不死。心の光。

 衣を着れば物思いがなくなる(衣着つる人は心ことになるなり)というよりも、歯に衣着せないなら、もう関わらないので配慮する必要がなくなる。
 なので君のあれは憐れだったなあと置手紙を残す。帝の描写にいい意味であはれと言える描写などない。面をふさいできた人さらいまがいのに。
 帝がというより、出てきた男全てがそう。なぜ帝だけ特別で文脈無視で、良い文脈にできるのか? なぜ都合よく無視できるのか。
 地位が高ければ都合よく、都合の悪いことはないことにできる。それどころか美化する。そら空見て泣きたくもなる。泣いて晴れればいいけども。
 

 それで小町も言寄られた。それで秋田に。でないとそんな遠くに行く理由がない。
 もしかするとアゴのせいかもしれない。
 

 だから小町はそとほりひめ(衣通姫)のりうとされる(仮名序)。
 衣通姫は古事記で「其身之光。自衣通出也」(その身の光が衣を通し出た)とされる存在。つまりやはり小町がかぐやのモデル。
 ただし小町針のエピソードだけでもそういえる。これは貫之が、竹取が小町の話ということを確実にしようとした、それを認識していたという表現。
 
 貫之が古今集の仮名序でそう記したのは、明らかに文屋と接触していた。文屋のみ直接観察している表現。でないとここまで読めない。
 だから文屋と小町(と敏行)のみ古今巻先頭連続(秋下・恋二・物名)の配置を当て、別格の配慮をしている。
 そして業平の先頭連続をこの敏行で崩す(恋三)。つまり伊勢の歌が一般に業平と認定されて動かせないことに配置及び詞書で対抗している。
 

 この配置は、文屋と小町のみ特別いう意思表明。この配置でそう見ないのは無理、というか歌の素養がなさすぎる。
 かつ業平はそこに絶対に及ばない(お呼びでない)という絶対の意思表明。