伊勢物語 88段:月をもめでじ あらすじ・原文・現代語訳

第87段
布引の滝
伊勢物語
第三部
第88段
月をもめでじ
第89段
なき名

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
 
 
 

あらすじ

 
 
 むかし男が、もう若くない友達達で集まり月をみて、一人で(思う)
 
 おほかたは 月をもめでじ これぞこの つもれば人の 老いとなるもの
 

 大方の人は 月も愛でない その心 それが積もって 人の老いとなる 
 つまりそういうこと思うのが老人ね。
 
 ~
 

 月を愛でられない老人とは、竹取と同じ文脈。
 時代や考え方が同じなのではなく、著者が同じ。
 

 それが85段「御ぞぬぎて給へけり」、竹取「御ぞぬぎてかづけ給つ」
 16段「これやこの  天の羽衣…君が御衣と奉りけれ」(有常の歌)
 

 したがって業平とは全く関係ない。古今879は、根拠のない誤認定。当時からの根強い風評に基づき、伊勢を業平の歌集と安易にみなしただけ。
 古今は歌集なのに、業平の原歌集など確認されていないのがその証拠。これにより、伊勢が占奪されている。
 

 男は一貫して匿名・出自を示さないのに、「むかし男」を「在五」「在原なりける男」(63、65)と呼んでいる? どういう発想だよ。ありえない。
 意味わからん知識のつめこみは、ばか鹿馬ないから、物事の見方(前提の意識、事実と評価の区別)とか、単純でいいので、そこから始めたほうがいい。
 読みは、全ての思考の基礎だろうに。基本を疎かにしながら、次々手を広げて自爆するのは、典型的にだめな人の発想。
 

 全て勘違いしながら虚構だなんだ、著者のこじつけだなんだ。文中に一切書いていないのに、ことあるたび業平業平。
 じゃあ業平も虚構でこじつけだろ。それは違うか? 一言でいえば、ばかげている。
 なぜ一般的に流布している支離滅裂な解釈で知ったような顔ができるのか不思議だ。推論は一つの結論を示しているが。
 
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第88段 月をもめでじ 119段(形見こそ)後に挿入
   
   むかし、いと若きにはあらぬ、  むかし、いとわかきにはあらぬ、  むかしいとわかき人にはあらぬ
これかれ友だちども集りて、 これかれともだちどもあつまりて、 これかれともだちどもの
  月を見て、 月を見て、 月を見ける。
  それがなかにひとり、 それがなかにひとり、 それが中にひとり。
       

162
 おほかたは
 月をもめでじこれぞこの
 おほかたは
 月をもめでじこれぞこの
 大かたは
 (あちきなく一本)
 月をもめてし是そ此
  つもれば人の
  老いとなるもの
  つもれば人の
  おいとなるもの
  つもれは人の
  老となるもの
   

現代語訳

 
 

むかし、いと若きにはあらぬ、これかれ友だちども集りて、
月を見て、それがなかにひとり、
 
おほかたは 月をもめでじこれぞこの
 つもれば人の 老いとなるもの

 
 
むかし、いと若きにはあらぬ
 むかし、若くはない
 
 86段を受けた表現(むかし、いと若き男、若き女)。
 これは20-24段の回想。
 

これかれ友だちども集りて、月を見て
 色んな友達が集まって、月を見て
 
 これは前段・布引の滝の話。
 

それがなかにひとり
 その中に一人
 
 このように属性指定がない時は、著者。
 

おほかたは 月をもめでじ これぞこの
 大方は 月を愛でることもしない ここの人達
 

つもれば人の 老いとなるもの
 その心(の貧しさ)積もって 人の老いとなる
 
 これは竹取と同じ文脈。
 このような発想をする人は、まずいまい。
 
 今でも大方の人は日々目先しかみない(歳月を超えてみない)、まして昔。