伊勢物語 37段:下紐 あらすじ・原文・現代語訳

第36段
玉葛
伊勢物語
第二部
第37段
下紐
第38段
恋といふ

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文対照
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
 

あらすじ

 
 
 むかし男が、色恋ごとを好む女に会った。
 (25, 28段「色好みなりける女」の符合から小町。多情という意味ではない)
 

 後ろめたく思い(?)、
 「私でないなら下紐とかんといて。朝顔は夕影を待たん花だけど(?)」といえば、
 

 女が返し、
 「二人で結んだ紐だもの。ひとりでにあい見る(会う)までは、あえてとかんとよ」
 

 内容としては以上。
 つまりこの内容は、他人には紐解けない。それが後ろめたくとか、朝顔夕影云々。
 
 朝顔のツルが結びつくことを描写した歌とかは違う。そんな即物的な意味ではない。ツルが結びついて何になんの? あ~だから紐解けない。
 そういう表面的な視点では、この時代以前の歌は全く読めない。なので古事記の解釈とかも即物的(世俗的)でトンチンカンになるわけ。
 そういう表現に示された精神を理解しようとすることが大事。即物的に見ることは悉く誤りと思ってもらっていい。そういうのは時を超えて残らない。
 「二人して結んだ」なら結んだのは約束以外ない。
 
 「朝顔」は牽牛・織姫の象徴花。
 二人で沢山恋歌を作って(ふたりして結びし)、変なのが沢山寄ってきた(小町針≒竹取)。
 それもあって男が後ろめたく思っている。
 
 つまり文屋の歌の歌手が小町。縫殿で一緒。それでなぜか、何の後ろ盾もない小町と文屋がぽっかり浮いて六歌仙。
 それで前に「しずのをだまき(糸巻)」とかの話がある。
 業平は伊勢の歌の作者と目されたから六歌仙になっているだけで実力は何もない。それが77段とか、101段。及び一般の軽薄極まる人物評。
 

 小町が控えめで人格不詳なのに、歌が大量にあるのは、お願いされて歌っていたから。
 だから小町の歌には詞書という説明書きが他に比べ不自然に少ない
 
 伊勢の歌は、誰も自分の口で満足に説明できないでしょう? そういうこと。
 だって他人の作品の解説、なぜできるんですか。まして伊勢ですよ。解説は十分知っているからできるものでしょう。なぜ主人公も著者も怪しいのに?
 紫式部に「伊勢の海(ほど)の深き心」と評された伊勢ですよ(だから業平の作ではありえないし、伊勢自体も業平を拒絶していることは上述)。
 説明できるのは本人しかないでしょう。赤の他人が説明しても筋違いでしょう。最低でも紫以上か、著者と同等以上の実力者でないと。
 
 最後に下紐とは、表面的には襦袢(下着)の紐だが、これは紐帯(みえない所でのつながり・秘めた絆)の暗示。
 紐を花のツルに例えている、というのはナンセンス。それに例える意味はなんですか? 不明ですか? とりあえずの想像ですか?
 ここでの解くは、紐解く(説明する・真意を明らかにする)にかけている。
 我ならで解くな、なので裏返せば、我ならば解いても説いてもいいのです。そうでなければダメなのです。それがここの文意。
 
 

原文対照

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第37段 下紐
   
 むかし、男、  むかし、おとこ、  むかしおとこ。
  色好みなりける女に逢へりけり。 いろごのみなりける女にあへりけり。 いろごのみなりける人をかたらひて。
  うしろめたくや思ひけむ、 うしろめたくやおもひけむ。 うしろめたなしとやおもひけん。
       

71
 我ならで
 下紐解くな朝顔の
 我ならで
 したひもとくなあさがほの
 我ならて
 下紐とくな朝かほの
  夕影待たぬ
  花にはありとも
  ゆふかげまたぬ
  花にはありとも
  夕かけまたぬ
  花には有とも
       
  返し、 返し、 女かへし。
       

72
 ふたりして
 結びし紐をひとりして
 ふたりして
 むすびしひもをひとりして
 ふたりして
 結ひし物を獨して
  あひ見るまでは
  解かじとぞ思ふ
  あひ見るまでは
  とかじとぞ思
  逢みんまては
  とかしとそ思ふ
   

現代語訳

 
 

むかし、男、
色好みなりける女に逢へりけり。
うしろめたくや思ひけむ、
 
我ならで 下紐解くな 朝顔の
 夕影待たぬ 花にはありとも

  
 
むかし、男、
 むかし、男が
 

色好みなりける女に逢へりけり。
 色々わかっている女(小町)に(再び)会った。
 

 色好みなりける女28段・あふご形見。→どこかに出て行った)

 色好みなる女25段・逢はで寝る夜。→自称見る目がない、さすがな女)」
 

※このような抽象的だが特徴ある形容詞は、この物語においては、基本同一人物に用いられる。その典型が「むかし男」。
 常に同一とは限らないが、文脈から判断する。
 ここでは同一の文脈なので小町。
 
 25段の歌が古今で小町と認定されることは一つの根拠だが、内容もそれを裏づける。
 というより文屋の仕込み。手掛かりを残すため。
 

 色好み
 一般には「風流を解する」という意味に解するが抽象的。
 物好きなという意味。つまり文屋の歌を歌っているという面倒なことをしていることが(色は、可愛い人というちょっとした暗示)。
 それで
 

うしろめたくや思ひけむ、
 男が後ろめたく思って、
 

我ならで
 わたし以外に
 

下紐解くな
 下紐とかんといてな

 

 下紐:文字通りの意味では下着の紐。
 しかし和歌においては、見えないつながり・秘められた絆・紐帯のことである。
 つまり公にできない関係。普通にいえば恋愛関係だが、ここではその含みもあるが若干違う。
 

 この歌の解釈には、以下の万葉の歌を見ると分かりやすいと思う。
 

 故もなく 我が下紐を 解けしめて 人にな知らせ 直に逢ふまでに万葉集11/2413

 天の川 相向き立ちて 我が恋ひし 君来ますなり 紐解き設けな万葉集08/1518
 
 

朝顔の 夕影待たぬ
 朝顔は 夕影を待たない
 

花にはありとも
 花ではあるけども
 
 どういうこと?
 こういうことは、この先長くないだろうけども、それでも秘密にしておいてね(だから匿名)
 

 朝顔
 古くは牽牛花。牽牛とは彦星と同義。
 朝顔の花は、彦星と織姫の出会いが具現化された縁起物という。
 
 そして小町は「そとほりひめ」の流とされる(古今集仮名序。これは確実に文屋が貫之に伝えていた。だから六歌仙評がある)。
 だから、二人合わせて恋歌を残した。
 織姫が機を織れず、ちまちま針で縫った。男も手伝った。一緒に仕事をしたら近くにいれるかもって。いれませんでしたね。長くは。すぐ終わった。
 

 朝顔は朝露負ひて咲くといへど 夕影にこそ咲きまさりけれ万葉集10/2104
 

返し、
 
ふたりして 結びし紐を ひとりして
 あひ見るまでは 解かじとぞ思ふ

 
※この歌はより端的に万葉に即す。男にとって古い関係の女性には万葉を用いる。
 女性が歌っているのではもちろんない。それがここでの文脈。
 

 ふたりして 結びし紐を ひとりして 我れは解きみじ 直に逢ふまでは万葉集12/2919

 ふたりして 結びし紐を ひとりして あひ見るまでは 解かじとぞ思ふ(伊勢)
 

 下の句を入替えている。万葉との下句入替えは35段・玉の緒の歌と同様。
 とちらも結局万葉と同じ意味の言い換え。

 
返し、
 

ふたりして 結びし紐を ひとりして
 二人して 結んだ紐を 一人では
 

あひ見るまでは
 また相見るまでは
 
 あひ:強調×会う
 

解かじとぞ思ふ
 解くまいと思う
 
 つまりこれを裏返して言うと、また二人であったら紐解ける。
 
 それでまた会いました。文屋の場所で。
 
 それで紐解条件が成就したわけ。だから確実に小町は歌を作ったのではないと言える。
 
 会った場所、6階の6つの席の仕事場ですからね。それで六歌仙。凄いでしょ。そんな場所あるかって。
 縫うのは苦手だと言っていた小野さん。縫うこと全然関係ない文章扱っていた場所ですからね。
 古典の神髄というのはこういう所にあるのだと。そのために残っていると。