宇治拾遺物語:極楽寺僧、仁王経の験を施す事

土佐判官代通清 宇治拾遺物語
巻第十五
15-6 (191)
極楽寺僧
伊良縁の世恒

 
 これも今は昔、堀川兼道公太政大臣と申す人、世心地大事に煩ひ給ふ。
 御祈りどもさまざまにせらる。世にある僧どもの参らぬはなし。
 参り集ひて御祈どもをす。殿中騒ぐ事限りなし。
 ここに極楽寺は、殿の造り給へる寺なり。
 その寺に住みける僧ども、「御祈りせよ」といふ仰せもなかりければ、人も召さず。
 この時にある僧の思ひけるは、御寺にやすく住む事は、殿の御徳にてこそあれ。
 殿失せ給ひなば、世にあるべきやうなし。
 召さずとも参らんとて、仁王経を持ち奉りて、物騒がしかりければ、中門の北の廊の隅にかがまり居て、つゆ目も見かくる人もなきに、仁王経他念なく読み奉る。
 二時ばかりありて、殿仰せらるるやう、「極楽寺の僧、なにがしの大徳やこれにある」と尋ね給ふに、ある人、「中門の脇の廊に候ふ」と申しければ、「それ、こなたへ呼べ」と仰せらるるに、人々怪しと思ひ、そこばくのやんごとなき僧をば召さずして、かく参りたるをだに、よしなしと見居たるをしも、召しあれば、心も得ず思へども、行きて、召す由をいへば参る。
 高僧どもの着き並びたる後の縁に、かがまり居たり。
 「さて参りたるか」と問はせ給へば、南の簀子に候ふよし申せば、「内へ呼び入れよ」とて、臥し給へる所へ召し入れらる。
 無下に物も仰せられず、重くおはしつるに、この僧召す程の御気色、こよなくよろしく見えければ、人々怪しく思ひけるに、宣ふやう、「寝たりつる夢に、恐ろしげなる鬼どもの、我が身をとりどりに打ちれうじつるに、びんづら結ひたる童子の、楉持ちたるが、中門の方より入り来て、楉してこの鬼どもを打ち払へば、鬼どもみな逃げ散りぬ。『何ぞの童のかくはするぞ』と問ひしかば、『極楽寺のそれがしが、かく煩はせ給ふ事、いみじう歎き申して、年来読み奉る仁王経を、今朝より中門の脇に候ひて、他念なく読み奉りて祈り申し侍る。その聖の護法の、かく病ませ奉る悪鬼どもを、追ひ払ひ侍るなり』と申すと見て、夢覚めてより、心地のかいのごふやうによければ、その悦いはんとて、呼びつるなり」とて、手を摺りて拝ませ給ひて、棹にかかりたる御衣を召して、被け給ふ。
 「寺に帰りてなほなほ御祈よく申せ」と仰せらるれば、悦びてまかり出づるほどに、僧俗の見思へる気色やんごとなし
 。中門の脇に、ひめもすにかがみ居たりつる、おぼえなかりしに、殊の外美々しくてぞまかり出でにける。
 されば人の祈りは、僧の浄不浄にはよらぬ事なり。
 ただ心に入りたるが験あるものなり。
 「母の尼して祈りをばすべし」と、昔より言ひ伝へたるも、この心なり。