プロフィール

 

 30代半ば(2019年)まで古文と和歌には一切興味もなく、専門分野も一応法学・法律実務だが、ある時勤めていた会社に小野さんという女性が来た頃、空いた時間に竹取と伊勢を読み(現代では稀有な仕事がこないと自由にして良かった職場)、解説を見なくても意味が解る事が分かり、特に伊勢については現状の業平を一方的に昔男に代入し必死に賛美する解釈が全て失笑噴飯レベルで誤っていることが、それらを見た時点で解った。

 

 六階の六つの席に小野さんが来て、康秀という名前と、物書きの会社で文屋性が発動し、竹取伊勢が判事かつ後宮の縫殿にも勤めて女事情に通じていた文屋の作で(私の部に職場見学で判事が来ていたが、皆さんの職場にそんなことはあるだろうか)、文屋の前身は古事記の安万侶、万侶の字形を崩し人麻呂であることも、万葉集が安万侶集の語呂合わせであることも、その精神的系譜が外国(司馬・子牛・シヴァ8番目・ヤーウェ)にあることも、その名の系譜とヤ・ハ・八が唯一(、)神の枕詞であることも、牛がシヴァ神の乗り物という訳も(霊的には肉体は乗り物という)、後宮的性格、権力者批判性、地方を回る詩人性に照らして分かる。

 

 でなければ、それまで古文と和歌に全く興味もなかった素人が、伊勢を読み始めて1年で伊勢物語全話独自解説と成立論を巷の解説を全く参考にせずに立て、その半年後に米東海岸上位数%の名門大の教授(大学ドメインのアドレス)から「伊勢物語について検索しておりましたら、このサイトに辿り着きました。作品に関する研究に感心しております。論文(英文にて)に引用させていただきたいのですが、この研究者名を教えていただけませんでしょうか」という連絡を頂けることはありえない。

 しかもこのメールがこのサイトにきた最初のメールである(その10日後に日本から「めちゃくちゃだからもっと勉強した方がいい」というメールがきたが、これが日米の知的態度の差を象徴していると思う。その一年に来たメールはこの2通のみであるから象徴の対比性が強まる)。

 自分で発表ではなく引用しかも英文(実際引用されたか不明だが)。その説明として、千年誰も通せなかったことを通した天才というより、本人の生まれ変わりという方がまだ容易だろう。

 

 そもそもこのサイトの世間的な趣旨は、訳の分からない通説を右も左も分からない素人にもっともらしく紹介することではなく、在五の「けぢめ見せぬ心」を分け隔てしない心、「女もしてみん」で貫之が女を装った、紫式部の特徴のぼかし「おぼろけ(なり)」が並大抵でない、など目を覆うばかりの、事実と文言を自在に曲げて悦に浸る既存の通説を改めることにある。目先だけのミクロの語尾や下ばかり見て、主体的知性のレベルは高くなく(これとセットで従属的知性と定義しよう)、向き合うべき最大の・マクロの弱点を認識できず、認識しても号令がないと事の大事さと向き合わない赤信号集団特攻レミングス性が、このような宗教的ドグマを流布させている。認知を病む人が人口あたり群を抜いて世界トップの統計もあるのは象徴的(日本とセットなのはイタリアで、もちろんバチカンという教義を抱える国)。

 

 実際、論理的に難解なのではなく、解釈と称して言葉を曲げるドグマと、その集団的刷込みを盲信する閉鎖社会の常識に囚われているから説明できなかったに過ぎず(そういう偏見に染まらなかったから説明できた)、予断(思い込み)を排除し、謙虚に多角的証拠と向きあったなら文屋が著者という他ない。そういう証拠しかない。

 とはいえそれはそれなりに高度な法的思考に基づくもので、諸々の法理論・解釈理論・事実認定論・特に書証の伝聞法則というマテリア(珠玉の装備)がなければ、そのような認定は絶対不可能だった(学部+1~2年のマスターレベルでは物理的に無理)。有閑時代はそのためにあったと思っている。

 そもそも古典中の古典・創世記から律法書であるから、最古の神代の栄光に通じようとする人は、文学部や神学部より法学部の基本原則・基本思想・リーガルマインドを身に付けたい(日本の神学部は戦前昭和感が漂うが、天賦人権理論の母体となったオックスフォード・ケンブリッジ・ハーバード全てに神学部、のみならず人文系主体のオックスフォードにでなくケンブリッジに古典学部があることに思い致してもらいたい。それは自分達に都合の良いおとぎ話の神ではなく、摂理・普遍性・自分にない考えを重んじるからと思う。いつまでも文理論・機械的理系上位論が幅を利かせるのは、被用工的思考が社会的思考まで担う貧しさ、高次の思考体系理論の欠落による。日本発のメジャーな基礎理論はスシくらいしか思いつかない。技術論ばかりで統治論はない)。

 特に刑事訴訟の予断排除、とりわけ伝聞法則だけでも習得必要。伝聞法則を一般化すると、書面には人の知覚・記憶・表現・叙述の過程で類型的に誤りが混入するから、事実関係に疑義が呈された書面に書いてある内容を真実とする証拠とするには、外部の独立した証拠と多角的照合(特信情況)を必要とし、そのような照合・特信情況・特段の事情ないままに、書いてある内容を事実と認定することはできないという法理・法原則である。勅撰歌集に書いてあるから信頼できるというのは中世以前の理屈だが、日本では通用している。結論にそって事実と論理を曲げるから理屈という。それは自己都合で何でも言う詭弁で背理。真実・摂理(神の目から見た真実・天道)を認めないのは根本的に論理ではない。日本のマクロレベルは感覚論。公邸の階段寝そべり的情緒によるもので、摂理を求めるような理性によるものではない。

 二条の后に近侍した唯一の歌人の証拠を持つ文屋を無視し(それを認めないためにサロンとかいう)、大した根拠もない他の貴族を羅列するのは、当時からの姑息な工作。即ち貴族社会の序列の下で生活する学者達には、文屋の作とは理由問わず認めず、専ら貴族社会のために理論構築する動機がある。そうした論理でミクロの文言に業平に代入し続けるから結論が堂々巡りで、著者複数で段階成立と作品性・著者人格性を自在に破壊する。何も議論は深まってない。その方向の議論を深めるほど混迷が深まる。当初の安易な見立てが破綻し着地点がなくなっても、根本を改める方向の議論自体ないのは、古文というより日本の伝統的日常(自分達が進んできた方向は間違ってない、という願望的な思い込み)。

 

 今回は表面的名前から、文屋が世間の抜けた解釈で受け続ける恥辱と無念を晴らすのが第一(侮蔑的評がある歌人は文屋と業平くらいだが、それは業平の裏返しでしかない)、次にイニシャルから九段の神殿の裏に住んでいる今、旧約聖書にも取り組めればベストだが、国際的にはヒッピー偶像で上書きされ、本邦ではイキった独善的愛国きどりに利用されその望みはない。でもそれは予定されていると思う。

 九段に越してきて、靖国の和風茶店が脇によけ中東風茶店が中心に広く建ち、街宣車や装甲バスが消え、今時の若い女子も来るようになったのは象徴的。敷地も後宮的配置。周囲に女子校と婦人服屋がしばしばある。敷地は総本山としては狭くても(しかし隣接の伊勢分社と比べると土地的に多分相応)大鳥居は大きくて良い。しかしこの鳥居を抜いて軍事転用した国(アクトレイザー風に言うと住人が他所と争い街中心の神殿を解体した)。住所も自室の真下に和装束店の神棚があったが、私が越して来てすぐ立ち退き(元々物置と化していた)、地味な女性向け洋服店になった。ある時一度、夜に坊さんが洋服店というか自室の方に向かって道路から拝んでいたが(帰宅した時に目撃した)、一体何に向かって拝んでいたのかは不気味で聞けなかった(供養系なら必要ない)。

 靖国隣接の武道館が歌ツアーの殿堂というのも面白いが、日本は大体回り、世俗的な名残惜しさや未練はない。しかし最後に大真面目で知的に抜けた解釈から意識で一体をなす古人達の名誉を回復する必要がある。例えば、万葉が家持の編纂だとか、貫之が女を装ったとか、紫が道長と懇意の愛人だとか性的奉仕役だったとか。でなければなお未練を残してしまう。これが100%ノーベル級の歴史的知性に対するリスペクト知らずの恥辱的処遇。自分達と同じでそこまで別次元で特別なはずないと思う。それ自体で(主体的)知性を感じないのは解釈ではない。だから暗記して知ったかしている人や子供は解釈できない。実際の知的実力、即ち革新的実績と無関係に世襲的形骸序列を重んじる国だから、募ったが募集してないとか、賃上げにより実質負担は生じないから増税ではないというのが次々出現する。

 

 

 そんなことより皆さん興味があると思われるのは、小野さんについてと思うが、小野さんが一番似ているのは『BLUE DROP 〜天使達の戯曲〜』というアニメの香月みち子というキャラクター。名前の読みも同じで、見た目もほぼそのままと思う。小町を一文字次にずらしたアナグラム。みち子は有産階級のコロニアル様式のお嬢様学校に無理して紛れ込んだ、地味な地元商店の娘(つまり平安でもそのような身分)。

 みち子は高校生だが、大人の小野さんは眼鏡を基本かけず、その時はセーラームーンの母・月野育子のようになる。月と子が付くのは何なのか。だから小町がかぐやのモデルであることに問題なく、小町は文屋と同じ縫殿であったことは確実に言える。小野さんは服飾の学校の出だが、縫うのは苦手と言っていた。