源氏物語 若紫:巻別和歌25首・逐語分析

夕顔 源氏物語
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5帖 若紫
末摘花

 
 源氏物語・若紫巻の和歌25首を抜粋一覧化し、現代語訳と歌い手を併記、原文対訳の該当部と通じさせた。

 

 紫の上個人の和歌一覧はリンク先参照。

 

 内訳:12(源氏)、5(尼君=紫祖母:北山の尼君(全集))、2×2(少納言乳母:うち1首北山の尼君の侍女(全集)、僧都=尼君兄)、1×4(聖、藤壺、女、紫上=藤壺姪)※最初最後
 

若紫・和歌の対応の程度と歌数
和歌間の文字数
即答 16首  40字未満
応答 1首  40~100字未満
対応 6首  ~400~1000字+対応関係文言
単体 2首  単一独詠・直近非対応

※分類について和歌一覧・総論部分参照。

 

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 上下の句に分割したバージョン。見やすさに応じて。
 なお、付属の訳はあくまで通説的理解の一例なので、訳が原文から離れたり対応していない場合、より精度の高い訳を検討されたい。
 


  原文
(定家本校訂)
現代語訳
(渋谷栄一)
45
生ひ立たむ
ありかも知らぬ
若草を
おくらす露ぞ
消えむ
そらなき
〔尼君=紫祖母〕 これから
どこでどう育って行くのかも分からない
若草のようなあなたを
残してゆく露のようにはかないわたしは
死ぬに死ねない思いです
46
初草
生ひ行く末も
知らぬまに
いかでか露の
消えむ
とすらむ
〔ゐたる大人=北山の尼君の侍女(全集)or少納言乳母(渋谷)〕
初草のように
若い姫君のご成長も
御覧にならないうちに
どうして尼君様は
先立たれるようなことをお考えになるのでしょう
47
初草
若葉の上を
見つるより
旅寝の袖も
露ぞ乾かぬ
〔源氏〕初草のごとき
うら若き少女を
見てからは
わたしの旅寝の袖は
恋しさの涙の露ですっかり濡れております
48
枕結ふ
今宵ばかりの
露けさを
深山の苔に
比べざらなむ
〔尼君〕 今晩だけの
旅の宿で涙に濡れていらっしゃるからといって
深山に住むわたしたちのことを
引き合いに出さないでくださいまし
49
吹きまよふ
深山おろしに
さめ
涙もよほす
滝の音かな
〔源氏〕 深山おろしの
懺法の声に
煩悩の夢が覚めて
感涙を催す
滝の音であることよ
50
さしぐみに
袖ぬらしける
山水に
澄める心は
騒ぎやはする
〔僧都〕 不意に来られて
お袖を濡らされたという
山の水に
心を澄まして住んでいるわたしは
驚きません
51
宮人に
行きて語らむ
山桜
風よりさきに
来ても見るべく
〔源氏〕大宮人に
帰って話して聞かせましょう、
この山桜の美しいことを
風の吹き散らす前に
来て見るようにと
52
優曇華の
花待ち得たる
心地して
山桜
目こそ移らね
〔僧都〕 三千年に一度咲くという優曇華の
花の咲くのにめぐり逢ったような
気がして、
深山桜には
目も移りません
53
奥山の
松のとぼそを
まれに開けて
まだ見ぬ花の
顔を見るかな
〔聖〕 奥山の
松の扉を
珍しく開けましたところ
まだ見たこともない花のごとく
美しいお顔を拝見致しました
54
夕まぐれ
ほのかに花の
色を見て
今朝は
立ちぞわづらふ
〔源氏〕 昨日の夕暮時に
わずかに美しい花を
見ましたので
今朝は霞の空に
立ち去りがたい気がします
55
まことにや
花のあたりは
立ち憂きと
むる空の
気色をも見む
〔尼君〕 本当に
花の辺りを
立ち去りにくいのでしょうか
そのようなことをおっしゃる
お気持ちを見たいものです
56
面影は
身をも離れず

心の限り
とめて来しかど
〔源氏〕 あなたの山桜のように美しい
面影は
わたしの身から離れません
心のすべてを
そちらに置いて来たのですが
57
嵐吹く
尾の上の
散らぬ間を
心とめける
ほどのはかなさ
〔尼君〕激しい山風が吹いて散ってしまう
峰の桜に
その散る前に
お気持ちを寄せられたような
頼りなさに思われます
58
あさか山
くも人を
思はぬに
など山の井の
かけ
離るらむ
〔源氏〕 浅香山のように
浅い気持ちで
思っているのではないのに
どうして山の井に
影が宿らないようにわたしからかけ離れていらっしゃるのでしょう
59
汲み初めて
くやしと聞きし
山の井の
きながらや
を見るべき
〔尼君〕 うっかり薄情な人と契りを結んで
後悔したと聞きました
浅い山の井のような
浅いお心のままでは
どうして孫娘を差し上げられましょう
60
見てもまた
逢ふ夜まれなる
のうちに
やがて紛るる
我が身ともがな
〔源氏〕 お逢いしても再び
逢うことの難しい
夢のようなこの世なので
夢の中にそのまま消えて
しまいとうございます
61
世語りに
人や伝へむ
たぐひなく
憂き身を覚めぬ
になしても
〔藤壺〕 世間の語り草として
語り伝えるのではないでしょうか
この上なく
辛い身の上を覚めることのない
夢の中のこととしても
62
贈:
いはけなき
鶴の一声
聞きしより
葦間になづむ
舟ぞえならぬ
〔源氏→尼君〕 かわいい
鶴の一声を
聞いてから
葦の間を行き悩む
舟はただならぬ思いをしています
63
手に摘みて
いつしかも見む

根にかよひける
野辺の
〔源氏〕 手に摘んで
早く見たいものだ
紫草に
ゆかりのある
野辺の若草を
64
あしわかの
浦に
みるめは
かたくとも
こは立ちながら
かへるかは
〔源氏〕若君に
お目にかかることは
難しかろうとも
和歌の浦の波のようにこのまま立ち
帰ることはしません
65
寄る
心も知らで
わかの浦に
玉藻なびかむ
ほどぞ浮きたる
〔少納言乳母〕 和歌の浦に
寄せる波に
身を任せる
玉藻のように
相手の気持ちをよく確かめもせずに従うことは頼りないことです
66
朝ぼらけ
霧立つ空の
まよひにも
行き過ぎがたき
妹が門かな
〔源氏〕 曙に
霧が立ちこめた空
模様につけても
素通りし難い
貴女の家の前ですね
67
ちとまり
のまがきの
過ぎうくは
草のとざしに
さはりしもせじ
〔女〕 霧の立ちこめた
家の前を
通り過ぎ難いとおっしゃるならば
生い茂った草が門を閉ざしたことぐらい
何でもないでしょうに
68
ねは見ねど
あはれとぞ思ふ
武蔵野の
露分けわぶる
草のゆかり
〔源氏〕 まだ一緒に寝てはみませんが
愛しく思われます
武蔵野の
露に難儀する
紫のゆかりのあなたを
69
かこつべき
ゆゑを知らねば
おぼつかな
いかなる草の
ゆかり
なるらむ
〔紫上〕 恨み言を
言われる理由が
分かりません
わたしはどのような方の
ゆかりなのでしょう

 

 68の「武蔵野の」は、伊勢41段末尾の「紫の色濃き時はめもはるに野なる草木ぞわかれざりける 武蔵野の心なるべし」に由来。

 69の歌の「いかなる草のゆかり」はこの草。つまり上記の伊勢41段の文脈解釈の問いかけ。

 

 古今の詠み人知らず2首もこれを受けたもの。

 821:秋風のふきとふきぬるむさしのはなへて草はの色かはりけり 

 867:紫のひともとゆゑにむさしのの 草はみなからあはれとそ見る

 

 古今に文脈は基本存在しないし、若紫は伊勢初段最初の歌「若紫のすりごろも」に、紫の上は伊勢41段の紫・上の衣に由来している(よって源氏の話は41巻で終わる)ので、その内容は当然読み込むのが筋。なお、伊勢物語で紫が出てくるのは、この初段と41段のみである(つまり紫式部は伊勢の熱烈な信奉者で、清少納言は在五中将を受けた在中将からとられたと見る他、説明がつかないし、また説明できてもいない)。

 

 伊勢での「武蔵野の心」とは、伊勢12段(武蔵野)の心。女のために体を張る男、女と駆け落ちする男の心。

 これを受けて伊勢41段では、妻の姉妹に値の張る上の衣をあげようという紀有常をはやした表現(義姉妹に旦那の服を買ってあげる話。貧乏でも一緒に苦労しているので。有常は妻の藤原の大臣の家より貧乏なので捨てられた)。

 「紫の色濃き時は」の下の句「野なる草木ぞわかれざりける」は、「あとは野となれ山となれ」をという表現。

 よってこの草は、何かの草ではなく草木。「秋の草木のしをるればむべ山風を」と同じ用法。

 

 69は、直前68の「武蔵野と言へばかこたれぬ(かこつけたる)」を受けて、ちょっと意味わかんない(知らねーよ)となった(かこつべき ゆゑを知らねば おぼつかな いかなる草の ゆかりなるらむ)。