源氏物語 26帖 常夏:あらすじ・目次・原文対訳

源氏物語
第一部
第26帖
常夏
篝火

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 常夏(とこなつ)のあらすじ

 光源氏36歳の夏の話。

 盛夏の六条院で、釣殿で涼んでいた源氏は夕霧【源氏と葵の子】を訪ねてきた内大臣【かつての頭中将】家の子息たちに、最近新しく迎えられた落胤の姫君(近江の君)のことを尋ねる。玉鬘【内大臣の子で、現在源氏の養女】を探していた内大臣だったが、代わりに見つかったという近江の君の芳しからぬ噂を源氏も知っており、夕霧と雲居の雁の仲を許さない不快も手伝って痛烈に皮肉った。二人の不仲を聞いて、いつになったら実父に会えるのか思い悩む板ばさみの玉鬘に、和琴を教えながらますます惹かれる源氏だった。

 一方、源氏の皮肉を聞いた内大臣も激怒。雲居の雁のところへ出向いたが、夏の暑い盛りに単を羽織ってうたた寝していた姿に「はしたない」と説教する。またあまりに姫君らしくない近江の君の処遇に思い悩む。そこで長女弘徽殿女御の元に行儀見習いへ出すことを決めたが、女御へ贈られた文も和歌も支離滅裂な出来で、女房たちの失笑を買うのだった。

(以上Wikipedia常夏より。色づけと【】は本ページ)
 
目次
和歌抜粋内訳#常夏(4首:別ページ)
主要登場人物
 
第26帖 常夏
 光る源氏の太政大臣時代
 三十六歳の盛夏の物語
 
第一章 玉鬘の物語
 養父と養女の禁忌の恋物語
 第一段 六条院釣殿の納涼
 第二段 近江君の噂
 第三段 源氏、玉鬘を訪う
 第四段 源氏、玉鬘と和琴について語る
 第五段 源氏、玉鬘と和歌を唱和
 第六段 源氏、玉鬘への恋慕に苦悩
 第七段 玉鬘の噂
 第八段 内大臣、雲井雁を訪う
 
第二章 近江君の物語
 娘の処遇に苦慮する内大臣の物語
 第一段 内大臣、近江君の処遇に苦慮
 第二段 内大臣、近江君を訪う
 第三段 近江君の性情
 第四段 近江君、血筋を誇りに思う
 第五段 近江君の手紙
 第六段 女御の返事
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
三十六歳
呼称:大臣・太政大臣
夕霧(ゆうぎり)
光る源氏の長男
呼称:中将・中将の君
紫の上(むらさきのうえ)
源氏の正妻
呼称:春の上
玉鬘(たまかづら)
内大臣の娘
呼称:対の姫君・西の対・姫君・撫子・今姫君・君
内大臣(ないだいじん)
呼称:内の大臣・内の大殿・大臣・大臣の君
蛍兵部卿宮(ほたるひょうぶきょうのみや)
呼称:兵部卿宮・宮・親王
柏木(かしわぎ)
呼称:右中将・中将の朝臣・中将
明石御方(あかしのおほんかた)
呼称:明石のおもと
明石姫君(あかしのひめぎみ)
呼称:后がねの姫君・君
鬚黒大将(ひげくろだいしょう)
呼称:大将
近江の君(おうみのきみ)
内大臣の娘
呼称:今の御女・北の対の今姫君・御方・女
弘徽殿女御(こきでんのにょうご)
呼称:女御の御方・女御の君・女御殿・女御・御方

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンクを参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 

原文対訳

和歌 定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  常夏
 
 

第一章 玉鬘の物語 養父と養女の禁忌の恋物語

 
 

第一段 六条院釣殿の納涼

 
   いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。
 中将の君もさぶらひたまふ。
 親しき殿上人あまたさぶらひて、西川よりたてまつれる鮎、近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。
 例の大殿の君達、中将の御あたり尋ねて参りたまへり。
 
 たいそう暑い日、東の釣殿にお出になって涼みなさる。
 中将の君も伺候していらっしゃる。
 親しい殿上人も大勢伺候して、西川から献上した鮎、近い川のいしぶしのような魚、御前で調理して差し上げる。
 いつもの大殿の公達、中将のおいでになる所を尋ねて参上なさった。
 
   「さうざうしくねぶたかりつる、折よくものしたまへるかな」  「退屈で眠たかったところだが、ちょうどよい時にいらっしゃったな」
   とて、大御酒参り、氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ。
 
 とおっしゃって、御酒を召し上がり、氷水をお取り寄せになって、水飯などを、それぞれにぎやかに召し上がる。
 
   風はいとよく吹けども、日のどかに曇りなき空の、西日になるほど、蝉の声などもいと苦しげに聞こゆれば、  風はたいそう気持ちよく吹くが、日は長くて曇りない空が、西日になるころ、蝉の声などもたいそう苦しそうに聞こえるので、
   「水の上無徳なる今日の暑かはしさかな。
 無礼の罪は許されなむや」
 「水のほとりも役に立たない今日の暑さだね。
 失礼は許していただけようか」
   とて、寄り臥したまへり。
 
 とおっしゃって、物に寄りかかって横におなりになった。
 
   「いとかかるころは、遊びなどもすさまじく、さすがに、暮らしがたきこそ苦しけれ。
 宮仕へする若き人びと堪へがたからむな。
 帯も解かぬほどよ。
 ここにてだにうち乱れ、このころ世にあらむことの、すこし珍しく、ねぶたさ覚めぬべからむ、語りて聞かせたまへ。
 何となく翁びたる心地して、世間のこともおぼつかなしや」
 「とてもこんな暑い時は、管弦の遊びなどもおもしろくなく、とはいえ、何もしないのもつらいことだ。
 宮仕えしている若い人々にはつらいことだろうよ。
 帯も解かないではね。
 せめてここではくつろいで、最近世間に起こったことで、少し珍しく、眠気の覚めるようなことを、話してお聞かせください。
 何となく年寄じみた心地がして、世間のことも疎くなったのでね」
   などのたまへど、珍しきこととて、うち出で聞こえむ物語もおぼえねば、かしこまりたるやうにて、皆いと涼しき高欄に、背中押しつつさぶらひたまふ。
 
 などとおっしゃるが、珍しい事と言って、ちょっと申し上げるような話も思いつかないので、恐縮しているようで、皆たいそう涼しい高欄に、背中を寄り掛けながら座っていらっしゃる。
 
 
 

第二段 近江君の噂

 
   「いかで聞きしことぞや、大臣のほか腹の娘尋ね出でて、かしづきたまふなるとまねぶ人ありしかば、まことにや」  「どうして聞いたことか、大臣が外腹の娘を捜し出して、大切になさっていると話してくれた人がいたので、本当ですか」
   と、弁少将に問ひたまへば、  と、弁少将にお尋ねになると、
   「ことことしく、さまで言ひなすべきことにもはべらざりけるを。
 この春のころほひ、夢語りしたまひけるを、ほの聞き伝へはべりける女の、『われなむかこつべきことある』と、名のり出ではべりけるを、中将の朝臣なむ聞きつけて、『まことにさやうに触ればひぬべきしるしやある』と、尋ねとぶらひはべりける。
 詳しきさまは、え知りはべらず。
 げに、このころ珍しき世語りになむ、人びともしはべるなる。
 かやうのことにぞ、人のため、おのづから家損なるわざにはべりけれ」
 「仰々しく、そんなに言うほどのことではございませんでしたが。
 今年の春のころ、夢をお話をなさったところ、ちらっと人伝てに聞いた女が、『自分には聞いてもらうべき子細がある』と、名乗り出ましたのを、中将の朝臣が耳にして、『本当にそのように言ってよい証拠があるのか』と、尋ねてやりました。
 詳しい事情は、知ることができません。
 おっしゃるように、最近珍しい噂話に、世間の人々もしているようでございます。
 このようなことは、父にとって、自然と家の不面目となることでございます」
   と聞こゆ。
 「まことなりけり」と思して、
 と申し上げる。
 「やはり本当だったのだ」とお思いになって、
   「いと多かめる列に、離れたらむ後るる雁を、強ひて尋ねたまふが、ふくつけきぞ。
 いとともしきに、さやうならむもののくさはひ、見出でまほしけれど、名のりももの憂き際とや思ふらむ、さらにこそ聞こえね。
 さても、もて離れたることにはあらじ。
 らうがはしくとかく紛れたまふめりしほどに、底清く澄まぬ水にやどる月は、曇りなきやうのいかでかあらむ」
 「たいそう大勢の子たちなのに、列から離れたような後れた雁を、無理にお捜しになるのが、欲張りなのだ。
 とても子どもが少ないのに、そのようなかしずき種を、見つけ出したいが、名乗り出るのも嫌な所と思っているのでしょう、まったく聞きません。
 それにしても、無関係の娘ではあるまい。
 やたらあちらこちらと忍び歩きをなさっていたらしいうちに、底が清く澄んでいない水に宿る月は、曇らないようなことがどうしてあろうか」
   と、ほほ笑みてのたまふ。
 中将の君も、詳しく聞きたまふことなれば、えしもまめだたず。
 少将と藤侍従とは、いとからしと思ひたり。
 
 と、ほほ笑んでおっしゃる。
 中将君も、詳しくお聞きになっていることなので、とても真面目な顔はできない。
 少将と藤侍従とは、とてもつらいと思っていた。
 
   「朝臣や、さやうの落葉をだに拾へ。
 人悪ろき名の後の世に残らむよりは、同じかざしにて慰めむに、なでふことかあらむ」
 「朝臣よ。
 せめてそのような落し胤でももらったらどうだね。
 体裁の悪い評判を残すよりは、同じ姉妹と結婚して我慢するが、何の悪いことがあろうか」
   と、弄じたまふやうなり。
 かやうのことにてぞ、うはべはいとよき御仲の、昔よりさすがに隙ありける。
 まいて、中将をいたくはしたなめて、わびさせたまふつらさを思しあまりて、「なまねたしとも、漏り聞きたまへかし」と思すなりけり。
 
 と、おからかいになるようである。
 このようなこととなると、表面はたいそう仲の良いお二方が、やはり昔からそれでもしっくりしないところがあるのであった。
 その上、中将をひどく恥ずかしい目にあわせて、嘆かせていらっしゃるつらさを腹に据えかねて、「悔しいとでも、人伝てに聞きなさったらよい」と、お思いになるのだった。
 
   かく聞きたまふにつけても、  このようにお聞きになるにつけても、
   「対の姫君を見せたらむ時、またあなづらはしからぬ方にもてなされなむはや。
 いとものきらきらしく、かひあるところつきたまへる人にて、善し悪しきけぢめも、けざやかにもてはやし、またもて消ち軽むることも、人に異なる大臣なれば、いかにものしと思ふらむ。
 おぼえぬさまにて、この君をさし出でたらむに、え軽くは思さじ。
 いときびしくもてなしてむ」など思す。
 
 「対の姫君を見せたような時、また軽々しく扱われるようなことはあるまい。
 たいそうはっきりとしていて、けじめをつけるところがある人で、善悪の区別も、はっきりと誉めたり、また貶しめ軽んじたりすることも、人一倍の大臣なので、どんなに腹立たしく思うであろう。
 予想もしない形で、この対の姫君を見せたらば、軽く扱うことはできまい。
 まこと油断なくお世話しよう」などとお思いになる。
 
 
 

第三段 源氏、玉鬘を訪う

 
   夕つけゆく風、いと涼しくて、帰り憂く若き人びとは思ひたり。
 
 夕方らしくなって吹く風、たいそう涼しくて、帰るのももの憂く若い人々は思っていた。
 
   「心やすくうち休み涼まむや。
 やうやうかやうの中に、厭はれぬべき齢にもなりにけりや」
 「気楽にくつろいで涼んではどうか。
 だんだんこのような若い人々の中で、嫌われる年になってしまったなあ」
   とて、西の対に渡りたまへば、君達、皆御送りに参りたまふ。
 
 と言って、西の対にお渡りになるので、公達、皆お送りにお供なさる。
 
   たそかれ時のおぼおぼしきに、同じ直衣どもなれば、何ともわきまへられぬに、大臣、姫君を、  黄昏時の薄暗い時に、同じ直衣姿なので、誰とも区別がつかないので、大臣は姫君に、
   「すこし外出でたまへ」  「もう少し外へお出になりなさい」
   とて、忍びて、  と言って、こっそりと、
   「少将、侍従など率てまうで来たり。
 いと翔けり来まほしげに思へるを、中将の、いと実法の人にて率て来ぬ、無心なめりかし。
 
 「少将や、侍従などを連れて参りました。
 ひどく飛んで来たいほどに思っていたのを、中将が、まこと真面目一方の人なので、連れて来なかったのは、思いやりがないようでした。
 
   この人びとは、皆思ふ心なきならじ。
 なほなほしき際をだに、窓の内なるほどは、ほどに従ひて、ゆかしく思ふべかめるわざなれば、この家のおぼえ、うちうちのくだくだしきほどよりは、いと世に過ぎて、ことことしくなむ言ひ思ひなすべかめる。
 かたがたものすめれど、さすがに人の好きごと言ひ寄らむにつきなしかし。
 
 この人々は、皆気がないでもない。
 つまらない身分の女でさえ、深窓に養われている間は、身分相応に気を引かれるものらしいから、わが家の評判は内幕のくだくだしい割には、たいそう実際以上に、大げさに言ったり思ったりしているようです。
 他にも女性方々がいらっしゃるのですが、やはり男性が恋をしかけるには相応しくない。
 
   かくてものしたまふは、いかでさやうならむ人のけしきの、深さ浅さをも見むなど、さうざうしきままに願ひ思ひしを、本意なむ叶ふ心地しける」  こうしていらっしゃるのは、何とかそのような男性の気持ちの、深さ浅さを見たいなどと、退屈のあまり願っていたのだが、望みの叶う気がしました」
   など、ささめきつつ聞こえたまふ。
 
 などと、ひそひそと申し上げなさる。
 
   御前に、乱れがはしき前栽なども植ゑさせたまはず、撫子の色をととのへたる、唐の、大和の、籬いとなつかしく結ひなして、咲き乱れたる夕ばえ、いみじく見ゆ。
 皆、立ち寄りて、心のままにも折り取らぬを、飽かず思ひつつやすらふ。
 
 お庭先には、雑多な前栽などは植えさせなさらず、撫子の花を美しく整えた、唐撫子、大和撫子の、垣をたいそうやさしい感じに造って、その咲き乱れている夕映え、たいそう美しく見える。
 皆、立ち寄って、思いのままに手折ることができないのを、残念に思って佇んでいる。
 
   「有職どもなりな。
 心もちゐなども、とりどりにつけてこそめやすけれ。
 右の中将は、ましてすこし静まりて、心恥づかしき気まさりたり。
 いかにぞや、おとづれ聞こゆや。
 はしたなくも、なさし放ちたまひそ」
 「教養のある人たちだな。
 心づかいなども、それぞれに立派なものだ。
 右の中将は、さらにもう少し落ち着いていて、こちらが恥ずかしくなる感じがします。
 どうですか、お便り申して来ますか。
 体裁悪く、突き放しなさいますな」
   などのたまふ。
 
 などとおっしゃる。
 
   中将の君は、かくよきなかに、すぐれてをかしげになまめきたまへり。
 
 中将君は、この優れた人たちの中でも、際立って優美でいらっしゃった。
 
   「中将を厭ひたまふこそ、大臣は本意なけれ。
 交じりものなく、きらきらしかめるなかに、大君だつ筋にて、かたくななりとにや」
 「中将をお嫌いなさるとは、内大臣は困ったものだ。
 ご一族ばかりで繁栄している中で、皇孫の血筋を引くので、見にくいとでもいうのか」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「来まさば、といふ人もはべりけるを」  「来てくだされば、という人もございましたものを」
   と聞こえたまふ。
 
 と申し上げなさる。
 
   「いで、その御肴もてはやされむさまは願はしからず。
 ただ、幼きどちの結びおきけむ心も解けず、年月、隔てたまふ心むけのつらきなり。
 まだ下臈なり、世の聞き耳軽しと思はれば、知らず顔にて、ここに任せたまへらむに、うしろめたくはありなましや」
 「いや、そんな大事に持てなされることは望んでいません。
 ただ、幼い者同士が契り合った胸の思いが晴れないまま、長い年月、仲を裂いていらっしゃった大臣のやりかたがひどいのです。
 まだ身分が低い、外聞が悪いとお思いならば、知らない顔で、こちらに任せて下されたとしても、何の心配がありましょうか」
   など、うめきたまふ。
 「さは、かかる御心の隔てある御仲なりけり」と聞きたまふにも、親に知られたてまつらむことのいつとなきは、あはれにいぶせく思す。
 
 などと、不平をおっしゃる。
 「では、このようなお心のしっくりいってないお間柄だったのだわ」とお聞きになるにつけても、親に知っていただけるのがいつか分からないのは、しみじみと悲しく胸の塞がる思いがなさる。
 
 
 

第四段 源氏、玉鬘と和琴について語る

 
   月もなきころなれば、燈籠に御殿油参れり。
 
 月もないころなので、燈籠に明りを入れた。
 
   「なほ、気近くて暑かはしや。
 篝火こそよけれ」
 「やはり、近すぎて暑苦しいな。
 篝火がよいなあ」
   とて、人召して、  とおっしゃって、人を呼んで、
   「篝火の台一つ、こなたに」  「篝火の台を一つ、こちらに」
   と召す。
 をかしげなる和琴のある、引き寄せたまひて、掻き鳴らしたまへば、律にいとよく調べられたり。
 音もいとよく鳴れば、すこし弾きたまひて、
 とお取り寄せになる。
 美しい和琴があるのを、引き寄せなさって、掻き鳴らしなさると、律の調子にたいそうよく整えられていた。
 音色もとてもよく出るので、少しお弾きになって、
   「かやうのことは御心に入らぬ筋にやと、月ごろ思ひおとしきこえけるかな。
 秋の夜の月影涼しきほど、いと奥深くはあらで、虫の声に掻き鳴らし合はせたるほど、気近く今めかしきものの音なり。
 ことことしき調べ、もてなししどけなしや。
 
 「このようなことはお好きでない方面かと、今まで大したことはないとお思い申していました。
 秋の夜の、月の光が涼しいころ、奥深い所ではなくて、虫の声に合わせて弾いたりするのには、親しみのあるはなやかな感じのする楽器です。
 改まった演奏は、役割がしっかりと決まりませんね。
 
   このものよ、さながら多くの遊び物の音、拍子を調へとりたるなむいとかしこき。
 大和琴とはかなく見せて、際もなくしおきたることなり。
 広く異国のことを知らぬ女のためとなむおぼゆる。
 
 この楽器は、そのままで多くの楽器の音色や、調子を備えているところが優れた点です。
 大和琴と言って一見大したことのないように見えながら、極めて精巧に作られているものです。
 広く外国の学芸を習わない女性のための楽器と思われます。
 
   同じくは、心とどめて物などに掻き合はせて習ひたまへ。
 深き心とて、何ばかりもあらずながら、またまことに弾き得ることはかたきにやあらむ、ただ今は、この内大臣になずらふ人なしかし。
 
 同じ習うなら、気をつけて他の楽器に合わせてお習いなさい。
 難しい手と言っても、特にあるわけではありませんが、また本当に弾きこなすことは難しいのでしょうか、現在では、あの内大臣に並ぶ人はいません。
 
   ただはかなき同じ菅掻きの音に、よろづのものの音、籠もり通ひて、いふかたもなくこそ、響きのぼれ」  ただちょっとした同じ菅掻き一つの音色に、あらゆる楽器の音色が、含まれていて、何とも形容のしようがないほど、響き渡るのです」
   と語りたまへば、ほのぼの心得て、いかでと思すことなれば、いとどいぶかしくて、  とご説明なさると、多少会得していて、ぜひともさらに上手になりたいとお思いのことなので、もっと聞きたくて、
   「このわたりにて、さりぬべき御遊びの折など、聞きはべりなむや。
 あやしき山賤などのなかにも、まねぶものあまたはべるなることなれば、おしなべて心やすくやとこそ思ひたまへつれ。
 さは、すぐれたるは、さまことにやはべらむ」
 「こちらで、適当な管弦のお遊びがあります折などに、聞くことができましょうか。
 賤しい田舎者の中でも、習う者が大勢おりますと言うことですから、総じて気楽に弾けるものかと存じておりました。
 では、お上手な方は、まるで違っているのでしょうか」
   と、ゆかしげに、切に心に入れて思ひたまへれば、  と、さも聞きたそうに、熱心に気を入れていらっしゃるので、
   「さかし。
 あづまとぞ名も立ち下りたるやうなれど、御前の御遊びにも、まづ書司を召すは、人の国は知らず、ここにはこれをものの親としたるにこそあめれ。
 
 「そうです。
 東琴と言って名前は低そうに聞こえますが、御前での管弦の御遊にも、まず第一に書司をお召しになるのは、異国はいざ知らず、わが国では和琴を楽器の第一としたのでしょう。
 
   そのなかにも、親としつべき御手より弾き取りたまへらむは、心ことなりなむかし。
 ここになども、さるべからむ折にはものしたまひなむを、この琴に、手惜しまずなど、あきらかに掻き鳴らしたまはむことやかたからむ。
 ものの上手は、いづれの道も心やすからずのみぞあめる。
 
 そうした中でも、その第一人者である父親から直接習い取ったら、格別でしょう。
 こちらにも、何かの機会にはおいでになるだろうが、和琴に、秘手を惜しまず、隠さず演奏するようなことはめったにないでしょう。
 物の名人は、どの道の人でも気安くは手の内を見せないもののようです。
 
   さりとも、つひには聞きたまひてむかし」  とは言っても、いずれはお聞きになれることでしょう」
   とて、調べすこし弾きたまふ。
 ことつひいと二なく、今めかしくをかし。
 「これにもまされる音や出づらむ」と、親の御ゆかしさたち添ひて、このことにてさへ、「いかならむ世に、さてうちとけ弾きたまはむを聞かむ」など、思ひゐたまへり。
 
 とおっしゃって、楽曲を少しお弾きになる。
 和琴を弾く姿はとても素晴らしく、はなやかで趣がある。
 「これよりも優れた音色が出るのだろうか」と、親にお会いしたい気持ちが加わって、和琴のことにつけてまでも、「いつになったら、こんなふうにくつろいでお弾きになるところを聞くことができるのだろうか」などと、思っていらっしゃった。
 
   「貫河の瀬々のやはらた」と、いとなつかしく謡ひたまふ。
 「親避くるつま」は、すこしうち笑ひつつ、わざともなく掻きなしたまひたる菅掻きのほど、いひ知らずおもしろく聞こゆ。
 
 「貫河の瀬々の柔らかな手枕」と、たいそう優しくお謡いになる。
 「親が遠ざける夫」というところは、少しお笑いになりながら、ことさらにでもなくお弾きになる菅掻きの音、何とも言いようがなく美しく聞こえる。
 
   「いで、弾きたまへ。
 才は人になむ恥ぢぬ。
 「想夫恋」ばかりこそ、心のうちに思ひて、紛らはす人もありけめ、おもなくて、かれこれに合はせつるなむよき」
 「さあ、お弾きなさい。
 芸事は人前を恥ずかしがっていてはいけません。
 「想夫恋」だけは、心中に秘めて、弾かない人があったようだが、遠慮なく、誰彼となく合奏したほうがよいのです」
   と、切に聞こえたまへど、さる田舎の隈にて、ほのかに京人と名のりける、古大君女教へきこえければ、ひがことにもやとつつましくて、手触れたまはず。
 
 と、しきりにお勧めになるが、あの辺鄙な田舎で、何やら京人と名乗った皇孫筋の老女がお教え申したので、誤りもあろうかと遠慮して、手をお触れにならない。
 
   「しばしも弾きたまはなむ。
 聞き取ることもや」と心もとなきに、この御琴によりぞ、近くゐざり寄りて、
 「少しの間でもお弾きになってほしい。
 覚えることができるかも知れない」と聞きたくてたまらず、この和琴の事のために、お側近くにいざり寄って、
   「いかなる風の吹き添ひて、かくは響きはべるぞとよ」  「どのような風が吹き加わって、このような素晴らしい響きが出るのかしら」
   とて、うち傾きたまへるさま、火影にいとうつくしげなり。
 笑ひたまひて、
 と言って、耳を傾けていらっしゃる様子、燈の光に映えてたいそうかわいらしげである。
 お笑いになって、
   「耳固からぬ人のためには、身にしむ風も吹き添ふかし」  「耳聰いあなたのためには、身にしむ風も吹き加わるのでしょう」
   とて、押しやりたまふ。
 いと心やまし。
 
 と言って、和琴を押しやりなさる。
 何とも迷惑なことである。
 
 
 

第五段 源氏、玉鬘と和歌を唱和

 
   人びと近くさぶらへば、例の戯れごともえ聞こえたまはで、  女房たちが近くに伺候しているので、いつもの冗談も申し上げなさらずに、
   「撫子を飽かでも、この人びとの立ち去りぬるかな。
 いかで、大臣にも、この花園見せたてまつらむ。
 世もいと常なきをと思ふに、いにしへも、もののついでに語り出でたまへりしも、ただ今のこととぞおぼゆる」
 「撫子を十分に鑑賞もせずに、あの人たちは立ち去ってしまったな。
 何とかして、内大臣にも、この花園をお見せ申したいものだ。
 人の命はいつまでも続くものでないと思うと、昔も、何かの時にお話しになったことが、まるで昨日今日のことのように思われます」
   とて、すこしのたまひ出でたるにも、いとあはれなり。
 
 とおっしゃって、少しお口になさったのにつけても、たいそう感慨無量である。
 

380
 「撫子の とこなつかしき 色を見ば
 もとの垣根を 人や尋ねむ
 「撫子の花の色のようにいつ見ても美しいあなたを見ると
  母親の行く方を内大臣は尋ねられることだろうな
 
   このことのわづらはしさにこそ、繭ごもりも心苦しう思ひきこゆれ」  このことが厄介に思われるので、引き籠められているのをお気の毒に思い申しています」
   とのたまふ。
 君、うち泣きて、
 とおっしゃる。
 姫君は、ちょっと涙を流して、
 

381
 「山賤の 垣ほに生ひし 撫子の
 もとの根ざしを 誰れか尋ねむ」
 「山家の賤しい垣根に生えた撫子のような
  わたしの母親など誰が尋ねたりしましょうか」
 
   はかなげに聞こえないたまへるさま、げにいとなつかしく若やかなり。
 
 と人数にも入らないように謙遜してお答え申し上げなさった様子は、なるほどたいそう優しく若々しい感じである。
 
   「来ざらましかば」  「もし来なかったならば」
   とうち誦じたまひて、いとどしき御心は、苦しきまで、なほえ忍び果つまじく思さる。
 
 とお口ずさみになって、ひとしお募るお心は、苦しいまでに、やはり我慢しきれなくお思いになる。
 
 
 

第六段 源氏、玉鬘への恋慕に苦悩

 
   渡りたまふことも、あまりうちしきり、人の見たてまつり咎むべきほどは、心の鬼に思しとどめて、さるべきことをし出でて、御文の通はぬ折なし。
 ただこの御ことのみ、明け暮れ御心にはかかりたり。
 
 お渡りになることも、あまり度重なって、女房が不審にお思い申しそうな時は、気が咎め自制なさって、しかるべきご用を作り出して、お手紙の通わない時はない。
 ただこのお事だけがいつもお心に掛かっていた。
 
   「なぞ、かくあいなきわざをして、やすからぬもの思ひをすらむ。
 さ思はじとて、心のままにもあらば、世の人のそしり言はむことの軽々しさ、わがためをばさるものにて、この人の御ためいとほしかるべし。
 限りなき心ざしといふとも、春の上の御おぼえに並ぶばかりは、わが心ながらえあるまじく」思し知りたり。
 「さて、その劣りの列にては、何ばかりかはあらむ。
 わが身ひとつこそ、人よりは異なれ、見む人のあまたが中に、かかづらはむ末にては、何のおぼえかはたけからむ。
 異なることなき納言の際の、二心なくて思はむには、劣りぬべきことぞ」
 「どうして、このような不相応な恋をして、心の休まらない物思いをするのだろう。
 そんな苦しい物思いはするまいとして、心の赴くままにしたら、世間の人の非難を受ける軽々しさを、自分への悪評はそれはそれとして、この姫君のためにもお気の毒なことだろう。
 際限もなく愛しているからと言っても、春の上のご寵愛に並ぶほどには、わが心ながらありえまい」と思っていらっしゃった。
 「さて、そうしたわけで、それ以下の待遇では、どれほどのことがあろうか。
 自分だけは、誰よりも立派だが、世話する女君が大勢いる中で、あくせくするような末席にいたのでは、何の大したことがあろう。
 格別大したこともない大納言くらいの身分で、ただ姫君一人を妻とするのには、きっと及ばないことだろう」
   と、みづから思し知るに、いといとほしくて、「宮、大将などにや許してまし。
 さてもて離れ、いざなひ取りては、思ひも絶えなむや。
 いふかひなきにて、さもしてむ」と思す折もあり。
 
 と、ご自身お分りなので、たいそうお気の毒で、「いっそ、兵部卿宮か、大将などに許してしまおうか。
 そうして自分も離れ、姫君も連れて行かれたら、諦めもつくだろうか。
 言っても始まらないことだが、そうもしてみようか」とお思いになる時もある。
 
   されど、渡りたまひて、御容貌を見たまひ、今は御琴教へたてまつりたまふにさへことづけて、近やかに馴れ寄りたまふ。
 
 しかし、お渡りになって、ご器量を御覧になり、今ではお琴をお教え申し上げなさることまで口実にして、近くに常に寄り添っていらっしゃる。
 
   姫君も、初めこそむくつけく、うたてとも思ひたまひしか、「かくても、なだらかに、うしろめたき御心はあらざりけり」と、やうやう目馴れて、いとしも疎みきこえたまはず、さるべき御応へも、馴れ馴れしからぬほどに聞こえかはしなどして、見るままにいと愛敬づき、薫りまさりたまへれば、なほさてもえ過ぐしやるまじく思し返す。
 
 姫君も、初めのうちこそ気味悪く嫌だとお思いであったが、「このようになさっても、穏やかなので、心配なお気持ちはないのだ」と、だんだん馴れてきて、そうひどくお嫌い申されず、何かの折のお返事も、親し過ぎない程度に取り交わし申し上げなどして、御覧になるにしたがってとても可愛らしさが増し、はなやかな美しさがお加わりになるので、やはり結婚させてすませられないとお思い返しなさる。
 
   「さはまた、さて、ここながらかしづき据ゑて、さるべき折々に、はかなくうち忍び、ものをも聞こえて慰みなむや。
 かくまだ世馴れぬほどの、わづらはしさにこそ、心苦しくはありけれ、おのづから関守強くとも、ものの心知りそめ、いとほしき思ひなくて、わが心も思ひ入りなば、しげくとも障はらじかし」と思し寄る、いとけしからぬことなりや。
 
 「それならばまた、結婚させて、ここに置いたまま大切にお世話して、適当な折々に、こっそりと会い、お話申して心を慰めることにしようか。
 このようにまだ結婚していないうちに、口説くことは面倒で、お気の毒であるが、自然と夫が手強くとも、男女の情が分るようになり、こちらがかわいそうだと思う気持ちがなくて、熱心に口説いたならば、いくら人目が多くても差し障りはあるまい」とお考えになる、実にけしからぬ考えである。
 
   いよいよ心やすからず、思ひわたらむ苦しからむ。
 なのめに思ひ過ぐさむことの、とざまかくざまにもかたきぞ、世づかずむつかしき御語らひなりける。
 
 ますます気が気でなくなり、なお恋し続けるというのもつらいことであろう。
 ほどほどに思い諦めることが、何かにつけてできそうにないのが、世にも珍しく厄介なお二人の仲なのであった。
 
 
 

第七段 玉鬘の噂

 
   内の大殿は、この今の御女のことを、「殿の人も許さず、軽み言ひ、世にもほきたることと誹りきこゆ」と、聞きたまふに、少将の、ことのついでに、太政大臣の「さることや」ととぶらひたまひしこと、語りきこゆれば、  内の大殿は、この新しい姫君のことを、「お邸の人々も姫として認めず、軽んじた批評をし、世間でも馬鹿げたことと非難申している」と、お聞きになると、少将が、何かの機会に、太政大臣が「本当のことか」とお尋ねになったことを、お話し申し上げると、
   「さかし。
 そこにこそは、年ごろ、音にも聞こえぬ山賤の子迎へ取りて、ものめかしたつれ。
 をさをさ人の上もどきたまはぬ大臣の、このわたりのことは、耳とどめてぞおとしめたまふや。
 これぞ、おぼえある心地しける」
 「いかにも。
 あちらでこそ、長年、噂にも立たなかった賤しい娘を迎え取って、大切にしているのだ。
 めったに人の悪口をおっしゃらない大臣が、わたしの家のことは、聞き耳を立てて悪口をおっしゃるよ。
 それで、面目を施して晴れがましい気がする」
   とのたまふ。
 少将の、
 とおっしゃる。
 少将が、
   「かの西の対に据ゑたまへる人は、いとこともなきけはひ見ゆるわたりになむはべるなる。
 兵部卿宮など、いたう心とどめてのたまひわづらふとか。
 おぼろけにはあらじとなむ、人びと推し量りはべめる」
 「あの西の対にお置きになっていらっしゃる姫君は、たいそう申し分ない方だそうでございます。
 兵部卿宮などが、たいそうご熱心に苦心して求婚なさっていらっしゃるとか。
 けっして並大抵の姫君ではあるまいと、世間の人々が推量しているようでございます」
   と申したまへば、  と、お申し上げになると、
   「いで、それは、かの大臣の御女と思ふばかりのおぼえのいといみじきぞ。
 人の心、皆さこそある世なめれ。
 かならずさしもすぐれじ。
 人びとしきほどならば、年ごろ聞こえなまし。
 
 「さあ、それは、あの大臣の御姫君と思う程度の評判の高さだ。
 人の心は、皆そういうもののようだ。
 必ずしもそんなに優れてはいないだろう。
 人並みの身分であったら、今までに評判になっていよう。
 
   あたら、大臣の、塵もつかず、この世には過ぎたまへる御身のおぼえありさまに、おもだたしき腹に、女かしづきて、げに疵なからむと、思ひやりめでたきがものしたまはぬは。
 
 惜しいことに、大臣が、何一つ欠点もなく、この世では過ぎた方でいらっしゃるご信望やご様子でありながら、れっきとした奥方の腹に、姫君を大切にお世話して、なるほど申し分あるまいと察せられる素晴らしい方がいらっしゃらないとは。
 
   おほかたの、子の少なくて、心もとなきなめりかし。
 劣り腹なれど、明石の御許の産み出でたるはしも、さる世になき宿世にて、あるやうあらむとおぼゆかし。
 
 だいたい子供の数が少なくて、きっと心細いことだろうよ。
 妾腹であるが、明石の御許が生んだ娘は、あの通りまたとない運命に恵まれて、将来にきっと頼もしかろうと思われる。
 
   その今姫君は、ようせずは、実の御子にもあらじかし。
 さすがにいとけしきあるところつきたまへる人にて、もてないたまふならむ」
 あの新しい姫君は、ひょっとしたら、実の姫君ではあるまいよ。
 何といっても一癖も二癖もある方だから、大事にしていらっしゃるのだろう」
   と、言ひおとしたまふ。
 
 と、悪口をおっしゃる。
 
   「さて、いかが定めらるなる。
 親王こそまつはし得たまはむ。
 もとより取り分きて御仲よし、人柄も警策なる御あはひどもならむかし」
 「ところで、どのようにお決めになったのか。
 親王がうまく靡かせて自分のものになさるだろう。
 もともと格別にお仲がよいし、人物もご立派で婿君に相応しい間柄であろうよ」
   などのたまひては、なほ、姫君の御こと、飽かず口惜し。
 「かやうに、心にくくもてなして、いかにしなさむなど、やすからずいぶかしがらせましものを」とねたければ、位さばかりと見ざらむ限りは、許しがたく思すなりけり。
 
 などとおっしゃっては、やはり、姫君のことが、残念でたまらない。
 「あのように、勿体らしく扱って、どういうふうになさる気かなどと、やきもきさせてやりたかったものを」と癪なので、位が相当になったと見えない限りは、結婚を許せないようにお思いになるのであった。
 
   大臣なども、ねむごろに口入れかへさひたまはむにこそは、負くるやうにてもなびかめと思すに、男方は、さらに焦られきこえたまはず、心やましくなむ。
 
 大臣などが、丁重に口添えして覆しなさるなら、それに負けたようにして承認しようと思うが、男君の方は、一向に焦りもなさらないので、おもしろからぬことであった。
 
 
 

第八段 内大臣、雲井雁を訪う

 
   とかく思しめぐらすままに、ゆくりもなく軽らかにはひ渡りたまへり。
 少将も御供に参りたまふ。
 
 あれこれとご思案なさりながら、前ぶれもなく気軽にお渡りになった。
 少将もお供しておいでになる。
 
   姫君は、昼寝したまへるほどなり。
 羅の単衣を着たまひて臥したまへるさま、暑かはしくは見えず、いとらうたげにささやかなり。
 透きたまへる肌つきなど、いとうつくしげなる手つきして、扇を持たまへりけるながら、かひなを枕にて、うちやられたる御髪のほど、いと長くこちたくはあらねど、いとをかしき末つきなり。
 
 姫君は、お昼寝をなさっているところである。
 羅の一重をお召しになって臥せっていらっしゃる様子、暑苦しくは見えず、とてもかわいらしく小柄な身体つきである。
 透けて見える肌つきなどは、とてもかわいらしい手つきして、扇をお持ちになったまま、腕を枕にして、投げ出されたお髪の具合、そう大して長く多いというのではないが、たいそう美しい裾の様子である。
 
   人びとものの後に寄り臥しつつうち休みたれば、ふともおどろいたまはず。
 扇を鳴らしたまへるに、何心もなく見上げたまへるまみ、らうたげにて、つらつき赤めるも、親の御目にはうつくしくのみ見ゆ。
 
 女房たちは物蔭で横になって休んでいたので、すぐにはお目覚めにならない。
 扇をお鳴らしになると、何気なく見上げなさった目つき、かわいらしげで、顔が赤くなっているのも、親の目にはかわいく見えるばかりである。
 
   「うたた寝はいさめきこゆるものを。
 などか、いとものはかなきさまにては大殿籠もりける。
 人びとも近くさぶらはで、あやしや。
 
 「うたた寝はいけないと注意申していたのに。
 どうして、ひどく無用心な恰好で寝ていらっしゃったのか。
 女房たちも近く伺候させないで、どうしたことか。
 
   女は、身を常に心づかひして守りたらむなむよかるべき。
 心やすくうち捨てざまにもてなしたる、品なきことなり。
 
 女性は、身を常に注意して守っているのがよいのです。
 気を許して無造作なふうにしているのは、品のないことです。
 
   さりとて、いとさかしく身かためて、不動の陀羅尼誦みて、印つくりてゐたらむも憎し。
 うつつの人にもあまり気遠く、もの隔てがましきなど、気高きやうとても、人にくく、心うつくしくはあらぬわざなり。
 
 そうかといって、ひどく利口そうに身を堅くして、不動尊の陀羅尼を読んで、印を結んでいるようなのも憎らしい。
 日頃接する人にあまりよそよそしく、遠慮がすぎるのなども、上品なようなこととはいっても、小憎らしくて、かわいらしげのないことです。
 
   太政大臣の、后がねの姫君ならはしたまふなる教へは、よろづのことに通はしなだらめて、かどかどしきゆゑもつけじ、たどたどしくおぼめくこともあらじと、ぬるらかにこそ掟てたまふなれ。
 
 太政大臣が、お后候補の姫君にしつけていらっしゃる教育は、何事でも一通りは心得ていて偏らず、特別目立つ特技もつけず、また不案内でうろうろすることもないようにと、余裕あるふうにとお考え置いていらっしゃるという。
 
   げに、さもあることなれど、人として、心にもするわざにも、立ててなびく方は方とあるものなれば、生ひ出でたまふさまあらむかし。
 この君の人となり、宮仕へに出だし立てたまはむ世のけしきこそ、いとゆかしけれ」
 なるほど、もっともなことですが、人というものは、考えにも行動にも、特に好き好む方面はどうしてもあるものだから、ご成長なさった後に特徴も現れるでしょう。
 あの姫君が一人前になって、入内させなさる時の様子が、とても見たいものだ」
   などのたまひて、  などとおっしゃって、
   「思ふやうに見たてまつらむと思ひし筋は、難うなりにたる御身なれど、いかで人笑はれならずしなしたてまつらむとなむ、人の上のさまざまなるを聞くごとに、思ひ乱れはべる。
 
 「思い通りにお世話申そうと思っていた方面は、難しくなってしまったお身の上だが、何とか世間の物笑いにならないようにして差し上げようと、他人の身の上をあれこれと聞くたびに、心配しております。
 
   試み事にねむごろがらむ人のねぎごとに、なしばしなびきたまひそ。
 思ふさまはべり」
 試しにとばかり熱心なふりをする男の言葉を、ここしばらくはお聞き入れになってはいけません。
 考えていることがございます」
   など、いとらうたしと思ひつつ聞こえたまふ。
 
 などと、たいそうかわいく思いながら申し上げなさる。
 
   「昔は、何ごとも深くも思ひ知らで、なかなか、さしあたりていとほしかりしことの騒ぎにも、おもなくて見えたてまつりけるよ」と、今ぞ思ひ出づるに、胸ふたがりて、いみじく恥づかしき。
 
 「昔は、どのようなことも深くも考えないで、かえって、あの当座のつらい思いをした騒動にも、平気な顔をして父君にお会い申していたことよ」と、今になって思い出すと、胸が塞がってひどく、恥ずかしい。
 
   大宮よりも、常におぼつかなきことを恨みきこえたまへど、かくのたまふるがつつましくて、え渡り見たてまつりたまはず。
 
 大宮からも、いつも会えないことをお恨み申されるが、このようにおっしゃるのに遠慮されて、お出かけになってお目に掛かることがおできになれない。
 
 
 

第二章 近江君の物語 娘の処遇に苦慮する内大臣の物語

 
 

第一段 内大臣、近江君の処遇に苦慮

 
   大臣、この北の対の今姫君を、  大臣は、この北の対の今姫君を、
   「いかにせむ。
 さかしらに迎へ率て来て。
 人かく誹るとて、返し送らむも、いと軽々しく、もの狂ほしきやうなり。
 かくて籠めおきたれば、まことにかしづくべき心あるかと、人の言ひなすなるもねたし。
 女御の御方などに交じらはせて、さるをこのものにしないてむ。
 人のいとかたはなるものに言ひおとすなる容貌、はた、いとさ言ふばかりにやはある」
 「どうしたものか。
 よけいなことをして迎え取って。
 世間の人がこのように悪口を言うからといって、送り返したりするのも、まことに軽率で、気違いじみたことのようだ。
 こうして置いているので、本当に大切にお世話する気があるのかと、他人が噂するのも癪だ。
 女御の御方などに宮仕えさせて、そうした笑い者にしてしまおう。
 女房たちがたいそう不細工だとけなしているらしい容貌も、そんなに言われるほどのものではない」
   など思して、女御の君に、  などとお思いになって、女御の君に、
   「かの人参らせむ。
 見苦しからむことなどは、老いしらへる女房などして、つつまず言ひ教へさせたまひて御覧ぜよ。
 若き人びとの言種には、な笑はせさせたまひそ。
 うたてあはつけきやうなり」
 「あの人を出仕させましょう。
 見ていられないようなことなどは、老いぼれた女房などをして、遠慮なく教えさせなさってお使いなさい。
 若い女房たちの噂の種になるような、笑い者にはなさらないでください。
 それではあまりに軽率のようだ」
   と、笑ひつつ聞こえたまふ。
 
 と、笑いながら申し上げなさる。
 
   「などか、いとさことのほかにははべらむ。
 中将などの、いと二なく思ひはべりけむかね言に足らずといふばかりにこそははべらめ。
 かくのたまひ騒ぐを、はしたなう思はるるにも、かたへはかかやかしきにや」
 「どうして、そんなひどいことがございましょう。
 中将などが、たいそうまたとなく素晴らしいと吹聴したらしい前触れに及ばないというだけございましょう。
 このようにお騒ぎになるので、きまり悪くお思いになるにつけ、一つには気後れしているのでございましょう」
   と、いと恥づかしげにて聞こえさせたまふ。
 この御ありさまは、こまかにをかしげさはなくて、いとあてに澄みたるものの、なつかしきさま添ひて、おもしろき梅の花の開けさしたる朝ぼらけおぼえて、残り多かりげにほほ笑みたまへるぞ、人に異なりける、と見たてまつりたまふ。
 
 と、たいそうこちらが気恥ずかしくなるような面持ちで申し上げなさる。
 この女御のご様子は、何もかも整っていて美しいというのではなくて、たいそう上品で澄ましていらっしゃるが、やさしさがあって、美しい梅の花が咲き初めた朝のような感じがして、おっしゃりたいことも差し控えて微笑んでいらっしゃるのが、人とは違う、と拝見なさる。
 
   「中将の、いとさ言へど、心若きたどり少なさに」  「中将が、何といっても、思慮が足りなく調査が不十分だったので」
   など申したまふも、いとほしげなる人の御おぼえかな。
 
 などと申し上げなさるが、お気の毒なお扱いであることよ。
 
 
 

第二段 内大臣、近江君を訪う

 
   やがて、この御方のたよりに、たたずみおはして、のぞきたまへば、簾高くおし張りて、五節の君とて、されたる若人のあると、双六をぞ打ちたまふ。
 手をいと切におしもみて、
 そのまま、この女御の御方を訪ねたついでに、ぶらぶらお歩きになって、お覗きになると、簾を高く押し出して、五節の君といって、気の利いた若い女房がいるのと、双六を打っていらっしゃる。
 手をしきりに揉んで、
   「せうさい、せうさい」  「小賽、小賽」
   とこふ声ぞ、いと舌疾きや。
 「あな、うたて」と思して、御供の人の前駆追ふをも、手かき制したまうて、なほ、妻戸の細目なるより、障子の開きあひたるを見入れたまふ。
 
 と祈る声は、とても早口であるよ。
 「ああ、情ない」とお思いになって、お供の人が先払いするのをも、手で制しなさって、やはり、妻戸の細い隙間から、襖の開いているところをお覗き込みなさる。
 
   この従姉妹も、はた、けしきはやれる、  この従姉妹も、同じく、興奮していて、
   「御返しや、御返しや」  「お返しよ、お返しよ」
   と、筒をひねりて、とみに打ち出でず。
 中に思ひはありやすらむ、いとあさへたるさまどもしたり。
 
 と、筒をひねり回して、なかなか振り出さない。
 心中に思っていることはあるのかも知れないが、たいそう軽薄な振舞をしている。
 
   容貌はひちちかに、愛敬づきたるさまして、髪うるはしく、罪軽げなるを、額のいと近やかなると、声のあはつけさとにそこなはれたるなめり。
 取りたててよしとはなけれど、異人とあらがふべくもあらず、鏡に思ひあはせられたまふに、いと宿世心づきなし。
 
 器量は親しみやすく、かわいらしい様子をしていて、髪は立派で、欠点はあまりなさそうだが、額がひどく狭いのと、声の上っ調子なのとで台なしになっているようである。
 取り立てて良いというのではないが、他人だと抗弁することもできず、鏡に映る顔が似ていらっしゃるので、まったく運命が恨めしく思われる。
 
   「かくてものしたまふは、つきなくうひうひしくなどやある。
 ことしげくのみありて、訪らひまうでずや」
 「こうしていらっしゃるのは、落ち着かず馴染めないのではありませんか。
 大変に忙しいばかりで、お訪ねできませんが」
   とのたまへば、例の、いと舌疾にて、  とおっしゃると、例によって、とても早口で、
   「かくてさぶらふは、何のもの思ひかはべらむ。
 年ごろ、おぼつかなく、ゆかしく思ひきこえさせし御顔、常にえ見たてまつらぬばかりこそ、手打たぬ心地しはべれ」
「こうして伺候しておりますのは、何の心配がございましょうか。
 長年、どんなお方かとお会いしたいとお思い申し上げておりましたお顔を、常に拝見できないのだけが、よい手を打たぬ時のようなじれったい気が致します」
   と聞こえたまふ。
 
 とお申し上げになさる。
 
   「げに、身に近く使ふ人もをさをさなきに、さやうにても見ならしたてまつらむと、かねては思ひしかど、えさしもあるまじきわざなりけり。
 なべての仕うまつり人こそ、とあるもかかるも、おのづから立ち交らひて、人の耳をも目をも、かならずしもとどめぬものなれば、心やすかべかめれ。
 それだに、その人の女、かの人の子と知らるる際になれば、親兄弟の面伏せなる類ひ多かめり。
 まして」
 「なるほど、身近に使う人もあまりいないので、側に置いていつも拝見していようと、以前は思っていましたが、そうもできかねることでした。
 普通の宮仕人であれば、どうあろうとも、自然と立ち混じって、誰の目にも耳にも、必ずしもつかないものですから、安心していられましょう。
 それであってさえ、誰それの娘、何がしの子と知られる身分となると、親兄弟の面目を潰す例が多いようだ。
 ましてや」
   とのたまひさしつる、御けしきの恥づかしきも知らず、  と言いかけてお止めになった、そのご立派さも分からず、
   「何か、そは、ことことしく思ひたまひて交らひはべらばこそ、所狭からめ。
 大御大壺取りにも、仕うまつりなむ」
 「いえいえ、それは、大層に思いなさって宮仕え致しましたら、窮屈でしょう。
 大御大壷の係なりともお仕え致しましょう」
   と聞こえたまへば、え念じたまはで、うち笑ひたまひて、  とお答え申し上げるので、お堪えになることができず、ついお笑いになって、
   「似つかはしからぬ役ななり。
 かくたまさかに会へる親の孝せむの心あらば、このもののたまふ声を、すこしのどめて聞かせたまへ。
 さらば、命も延びなむかし」
 「似つかわしくない役のようだ。
 このようにたまに会える親に孝行する気持ちがあるならば、その物をおっしゃる声を、少しゆっくりにしてお聞かせ下さい。
 そうすれば、寿命もきっと延びましょう」
   と、をこめいたまへる大臣にて、ほほ笑みてのたまふ。
 
 と、おどけたところのある大臣なので、苦笑しながらおっしゃる。
 
 
 

第三段 近江君の性情

 
   「舌の本性にこそははべらめ。
 幼くはべりし時だに、故母の常に苦しがり教へはべりし。
 妙法寺の別当大徳の、産屋にはべりける、あえものとなむ嘆きはべりたうびし。
 いかでこの舌疾さやめはべらむ」
 「舌の生まれつきなのでございましょう。
 子供でした時でさえ、亡くなった母君がいつも嫌がって注意しておりました。
 妙法寺の別当の大徳が、産屋に詰めておりましたので、それにあやかってしまったと嘆いていらっしゃいました。
 何とかしてこの早口は直しましょう」
   と思ひ騒ぎたるも、いと孝養の心深く、あはれなりと見たまふ。
 
 と大変だと思っているのも、たいそう孝行心が深く、けなげだとお思いになる。
 
   「その、気近く入り立ちたりけむ大徳こそは、あぢきなかりけれ。
 ただその罪の報いななり。
 唖、言吃とぞ、大乗誹りたる罪にも、数へたるかし」
 「その、側近くまで入り込んだ大徳こそ、困ったものです。
 ただその人の前世で犯した罪の報いなのでしょう。
 唖とどもりは、法華経を悪く言った罪の中にも、数えているよ」
   とのたまひて、「子ながら恥づかしくおはする御さまに、見えたてまつらむこそ恥づかしけれ。
 いかに定めて、かくあやしきけはひも尋ねず迎へ寄せけむ」と思し、「人びともあまた見つぎ、言ひ散らさむこと」と、思ひ返したまふものから、
 とおっしゃって、「わが子ながらも気の引けるほどの御方に、お目に掛けるのは気が引ける。
 どのよう考えて、こんな変な人を調べもせずに迎え取ったのだろう」とお思いになって、「女房たちが次々と見ては言い触らすだろう」と、考え直しなさるが、
   「女御里にものしたまふ時々、渡り参りて、人のありさまなども見ならひたまへかし。
 ことなることなき人も、おのづから人に交じらひ、さる方になれば、さてもありぬかし。
 さる心して、見えたてまつりたまひなむや」
 「女御が里下りしていらっしゃる時々には、お伺いして、女房たちの行儀作法を見習いなさい。
 特に優れたところのない人でも、自然と大勢の中に混じって、その立場に立つと、いつか恰好もつくものです。
 そのような心積もりをして、お目通りなさってはいかがですか」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「いとうれしきことにこそはべるなれ。
 ただ、いかでもいかでも、御方々に数まへしろしめされむことをなむ、寝ても覚めても、年ごろ何ごとを思ひたまへつるにもあらず。
 御許しだにはべらば、水を汲みいただきても、仕うまつりなむ」
 「とても嬉しいことでございますわ。
 ただただ、何としてでも、皆様方にお認めいただくことばかりを、寝ても覚めても、長年この願い以外のことは思ってもいませんでした。
 お許しさえあれば、水を汲んで頭上に乗せて運びましても、お仕え致しましょう」
   と、いとよげに、今すこしさへづれば、いふかひなしと思して、  と、たいそういい気になって、一段と早口にしゃべるので、どうしようもないとお思いになって、
   「いとしか、おりたちて薪拾ひたまはずとも、参りたまひなむ。
 ただかのあえものにしけむ法の師だに遠くは」
 「そんなにまで、自分自身で薪をお拾いにならなくても、参上なさればよいでしょう。
 ただあのあやかったという法師さえ離れたならばね」
   と、をこごとにのたまひなすをも知らず、同じき大臣と聞こゆるなかにも、いときよげにものものしく、はなやかなるさまして、おぼろけの人見えにくき御けしきをも見知らず、  と、冗談事に紛らわしておしまいになるのも気づかずに、同じ大臣と申し上げる中でも、たいそう美しく堂々として、きらびやかな感じがして、並々の人では顔を合わせにくい程立派な方とも分からずに、
   「さて、いつか女御殿には参りはべらむずる」  「それでは、いつ女御殿の許に参上するといたしましょう」
   と聞こゆれば、  とお尋ね申すので、
   「よろしき日などやいふべからむ。
 よし、ことことしくは何かは。
 さ思はれば、今日にても」
 「吉日などと言うのが良いでしょう。
 いや何、大げさにすることはない。
 そのようにお思いならば、今日にでも」
   とのたまひ捨てて渡りたまひぬ。
 
 と、お言い捨てになって、お渡りになった。
 
 
 

第四段 近江君、血筋を誇りに思う

 
   よき四位五位たちの、いつききこえて、うち身じろきたまふにも、いといかめしき御勢ひなるを見送りきこえて、  立派な四位五位たちが、うやうやしくお供申し上げて、ちょっとどこかへお出ましになるにも、たいそう堂々とした御威勢なのを、お見送り申し上げて、
   「いで、あな、めでたのわが親や。
 かかりける胤ながら、あやしき小家に生ひ出でけること」
 「何と、まあ、ご立派なお父様ですわ。
 このような方の子供でありながら、賤しい小さい家で育ったこととは」
   とのたまふ。
 五節、
 とおっしゃる。
 五節は、
   「あまりことことしく、恥づかしげにぞおはする。
 よろしき親の、思ひかしづかむにぞ、尋ね出でられたまはまし」
 「あまり立派過ぎて、こちらが恥ずかしくなる方でいらっしゃいますわ。
 相応な親で、大切にしてくれる方に、捜し出しされなさったならよかったのに」
   と言ふも、わりなし。
 
 と言うのも、無理な話である。
 
   「例の、君の、人の言ふこと破りたまひて、めざまし。
 今は、ひとつ口に言葉な交ぜられそ。
 あるやうあるべき身にこそあめれ」
 「いつもの、あなたが、わたしの言うことをぶちこわしなさって、心外だわ。
 今は、友達みたいな口をきかないでよ。
 将来のある身の上なのようですから」
   と、腹立ちたまふ顔やう、気近く、愛敬づきて、うちそぼれたるは、さる方にをかしく罪許されたり。
 
 と、腹をお立てになる顔つきが、親しみがあり、かわいらしくて、ふざけたところは、それなりに美しく大目に見られた。
 
   ただ、いと鄙び、あやしき下人の中に生ひ出でたまへれば、もの言ふさまも知らず。
 ことなるゆゑなき言葉をも、声のどやかに押ししづめて言ひ出だしたるは、打ち聞き、耳異におぼえ、をかしからぬ歌語りをするも、声づかひつきづきしくて、残り思はせ、本末惜しみたるさまにてうち誦じたるは、深き筋思ひ得ぬほどの打ち聞きには、をかしかなりと、耳もとまるかし。
 
 ただひどい田舎で、賤しい下人の中でお育ちになっていたので、物の言い方も知らない。
 大したことのない話でも、声をゆっくりと静かな調子で言い出したのは、ふと聞く耳でも、格別に思われ、おもしろくない歌語りをするのも、声の調子がしっくりしていて、先が聞きたくなり、歌の初めと終わりとをはっきり聞こえないように口ずさむのは、深い内容までは理解しないまでもの、ちょっと聞いたところでは、おもしろそうだと、聞き耳を立てるものである。
 
   いと心深くよしあることを言ひゐたりとも、よろしき心地あらむと聞こゆべくもあらず、あはつけき声ざまにのたまひ出づる言葉こはごはしく、言葉たみて、わがままに誇りならひたる乳母の懐にならひたるさまに、もてなしいとあやしきに、やつるるなりけり。
 
 たとえまことに深い内容の趣向ある話をしたとしても、相当な嗜みがあるとも聞こえるはずもない、うわずった声づかいをしておっしゃる言葉はごつごつして、訛があって、気ままに威張りちらした乳母に今も馴れきっているふうに、態度がたいそう不作法なので、悪く聞こえるのであった。
 
   いといふかひなくはあらず、三十文字あまり、本末あはぬ歌、口疾くうち続けなどしたまふ。
 
 まったくお話にならないというのではないが、三十一文字の、上句と下句との意味が通じない歌を、早口で続けざまに作ったりなさる。
 
 
 

第五段 近江君の手紙

 
   「さて、女御殿に参れとのたまひつるを、しぶしぶなるさまならば、ものしくもこそ思せ。
 夜さりまうでむ。
 大臣の君、天下に思すとも、この御方々のすげなくしたまはむには、殿のうちには立てりなむはや」
 「ところで、女御様に参上せよとおっしゃったのを、しぶるように見えたら、不快にお思いになるでしょう。
 夜になったら参上しましょう。
 大臣の君が、世界一大切に思ってくださっても、ご姉妹の方々が冷たくなさったら、お邸の中には居られましょうか」
   とのたまふ。
 御おぼえのほど、いと軽らかなりや。
 
 とおっしゃる。
 ご声望のほどは、たいそう軽いことであるよ。
 
   まづ御文たてまつりたまふ。
 
 さっそくお手紙を差し上げなさる。
 
   「葦垣のま近きほどにはさぶらひながら、今まで影踏むばかりのしるしもはべらぬは、勿来の関をや据ゑさせたまへらむとなむ。
 知らねども、武蔵野といへばかしこけれども。
 あなかしこや、あなかしこや」
 「お側近くにおりながら、今までお伺いする幸せを得ませんのは、来るなと関所をお設けになったのでしょうか。
 お目にかかってはいませんのに、お血続きの者ですと申し上げるのは、恐れ多いことですが。
 まことに失礼ながら、失礼ながら」
   と、点がちにて、裏には、  と、点ばかり多い書き方で、その裏には、
   「まことや、暮にも参り来むと思うたまへ立つは、厭ふにはゆるにや。
 いでや、いでや、あやしきは水無川にを」
 「実は、今晩にも参上しようと存じますのは、お厭いになるとかえって思いが募るのでしょうか。
 いいえ、いいえ、見苦しい字は大目に見ていただきたく」
   とて、また端に、かくぞ、  とあって、また端の方に、このように、
 

382
 「草若み 常陸の浦の いかが崎
 いかであひ見む 田子の浦波
 「未熟者ですが、いかがでしょうかと
  何とかしてお目にかかりとうございます
 
   大川水の」  並一通りの思いではございません」
   と、青き色紙一重ねに、いと草がちに、いかれる手の、その筋とも見えず、ただよひたる書きざまも下長に、わりなくゆゑばめり。
 行のほど、端ざまに筋交ひて、倒れぬべく見ゆるを、うち笑みつつ見て、さすがにいと細く小さく巻き結びて、撫子の花につけたり。
 
 と、青い色紙一重ねに、たいそう草仮名がちの、角張った筆跡で、誰の書風を継ぐとも分からない、ふらふらした書き方も下長で、むやみに気取っているようである。
 行の具合は、端に行くほど曲がって来て、倒れそうに見えるのを、にっこりしながら見て、それでもたいそう細く小さく巻き結んで、撫子の花に付けてあった。
 
 
 

第六段 女御の返事

 
   樋洗童しも、いと馴れてきよげなる、今参りなりけり。
 女御の御方の台盤所に寄りて、
 樋洗童は、たいそうもの馴れた態度できれいな子で、新参者なのであった。
 女御の御方の台盤所に寄って、
   「これ、参らせたまへ」  「これを差し上げてください」
   と言ふ。
 下仕へ見知りて、
 と言う。
 下仕えが顔を知っていて、
   「北の対にさぶらふ童なりけり」  「北の対に仕えている童だわ」
   とて、御文取り入る。
 大輔の君といふ、持て参りて、引き解きて御覧ぜさす。
 
 と言って、お手紙を受け取る。
 大輔の君というのが、持参して、開いて御覧に入れる。
 
   女御、ほほ笑みてうち置かせたまへるを、中納言の君といふ、近くゐて、そばそば見けり。
 
 女御が、苦笑してお置きあそばしたのを、中納言の君という者が、お近くにいて、横目でちらちらと見た。
 
   「いと今めかしき御文のけしきにもはべめるかな」  「たいそうしゃれたお手紙のようでございますね」
   と、ゆかしげに思ひたれば、  と、見たそうにしているので、
   「草の文字は、え見知らねばにやあらむ、本末なくも見ゆるかな」  「草仮名の文字は、読めないからかしら、歌の意味が続かないように見えます」
   とて、賜へり。
 
 とおっしゃって、お下しになった。
 
   「返りこと、かくゆゑゆゑしく書かずは、悪ろしとや思ひおとされむ。
 やがて書きたまへ」
 「お返事は、このように由緒ありげに書かなかったら、なっていないと軽蔑されましょう。
 そのままお書きなさい」
   と、譲りたまふ。
 もて出でてこそあらね、若き人は、ものをかしくて、皆うち笑ひぬ。
 御返り乞へば、
 と、お任せになる。
 そう露骨に現しはしないが、若い女房たちは、何ともおかしくて、皆笑ってしまった。
 お返事を催促するので、
   「をかしきことの筋にのみまつはれてはべめれば、聞こえさせにくくこそ。
 宣旨書きめきては、いとほしからむ」
 「風流な引歌ばかり使ってございますので、お返事が難しゅうございます。
 代筆めいては、お気の毒でしょう」
   とて、ただ、御文めきて書く。
 
 と言って、まるで、女御のご筆跡のように書く。
 
   「近きしるしなき、おぼつかなさは、恨めしく、  「お近くにいらっしゃるのにその甲斐なく、お目にかかれないのは、恨めしく存じられまして、
 

383
 常陸なる 駿河の海の 須磨の浦に
 波立ち出でよ 筥崎の松」
  常陸にある駿河の海の須磨の浦に
  お出かけくだい、箱崎の松が待っています」
 
   と書きて、読みきこゆれば、  と書いて、読んでお聞かせす申すと、
   「あな、うたて。
 まことにみづからのにもこそ言ひなせ」
 「まあ、困りますわ。
 ほんとうにわたしが書いたのだと言ったらどうしましょう」
   と、かたはらいたげに思したれど、  と、迷惑そうに思っていらっしゃったが、
   「それは聞かむ人わきまへはべりなむ」  「それは聞く人がお分かりでございましょう」
   とて、おし包みて出だしつ。
 
 と言って、紙に包んで使いにやった。
 
   御方見て、  御方が見て、
   「をかしの御口つきや。
 待つとのたまへるを」
 「しゃれたお歌ですこと。
 待っているとおっしゃっているわ」
   とて、いとあまえたる薫物の香を、返す返す薫きしめゐたまへり。
 紅といふもの、いと赤らかにかいつけて、髪けづりつくろひたまへる、さる方ににぎははしく、愛敬づきたり。
 御対面のほど、さし過ぐしたることもあらむかし。
 
 と言って、たいそう甘ったるい薫物の香を、何度も何度も着物にた焚きしめていらっしゃった。
 紅というものを、たいそう赤く付けて、髪を梳いて化粧なさったのは、それなりに派手で愛嬌があった。
 ご対面の時、さぞ出過ぎたこともあったであろう。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 かはむしは声も耐へぬに蝉の羽のいとうすき身も苦しげに鳴く(河海抄所引-花山院集)(戻)  
  出典2 わが宿と頼む吉野に君し入らば同じかざしをさしこそはせめ(後撰集恋四-八〇九 伊勢)(戻)  
  出典3 楊家有女初長成 養在深窓人未識(白氏文集巻十二-八九六 長恨歌)(戻)  
  出典4 我家は 帷帳も 垂れたるを 大君来ませ 聟にせむ 御肴に 何よけむ 鮑さだをか 石陰子よけむ 鮑さだをか 石陰子よけむ(催馬楽-我家)(戻)  
  出典5 貫河の瀬々 のやはら手枕 やはらかに 寝る夜はなくて 親離くる夫 親離くる夫は ましてるはし しかさらば 矢矧の市に 沓買ひにかむ 沓買はば 線鞋の 細底を買へ さし履きて 表裳とり着て 宮路かよはむ(催馬楽-貫河)(戻)  
  出典6 たらちねの親のかふこの繭ごもりいぶせくもあるか妹に逢はずして(拾遺集恋四-八九五 柿本人麿)(戻)  
  出典7 人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ(古今集恋三-六三二 在原業平)(戻)  
  出典8 筑波山葉山繁山し茂けれど思ひ入るには障らざりけり(新古今集恋一-一〇一三 源重之)(戻)  
  出典9 たらちねの親の諌めしうたた寝は物思ふ時のわざにぞありける(拾遺集恋四-八九七 読人しらず)(戻)  
  出典10 匂はねどほほ笑む梅の花をこそ我もをかしと折りて眺むれ(好忠集-二六)(戻)  
  出典11 さざれ石の中の思ひはありながらうち出ることのさもかたくもあるかな(紫明抄所引-出典未詳)(戻)  
  出典12 法華経を我が得しことは薪こり菜摘み水汲み仕へてぞ得し(拾遺集哀傷-一三一四 大僧正行基)(戻)  
  出典13 東にて養はれたる人の子は舌だみてこそ物は言ひけれ(拾遺集物名-四一三 読人しらず)(戻)  
  出典14 人知れぬ思ひやなぞと葦垣の間近けれども逢ふよしのなき(古今集恋一-五〇六 読人知らず)(戻)  
  出典15 立ち寄らば影踏むばかり近けれど誰か勿来の関を据ゑけむ(後撰集恋二-六八二 小八条御息所)(戻)  
  出典16 逢ひ見では面伏せにや思ふらむ勿来の関に生ひよ帚木(源氏釈所引-出典未詳)(戻)  
  出典17 知らねども武蔵野と言へばかこたれぬよしやそこそは紫のゆゑ(古今六帖五-三五〇七)(戻)  
  出典18 あやしくも厭ふにはゆる心かないかにしてかは思ひやむべき(後撰集恋二-六〇八 読人しらず)(戻)  
  出典19 悪しき手をなほ善きさまに水無瀬川底の水屑の数ならずとも(源氏釈所引-出典未詳)(戻)  
  出典20 み吉野の大川野辺の藤浪のなみに思はばわが恋ひめやは(古今集恋四-六九九 読人しらず)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 尋ね出でて--たつね(ね/+い<朱>)てゝ(戻)  
  校訂2 見出で--*みて(戻)  
  校訂3 齢にも--よはひ(ひ/+にも)(戻)  
  校訂4 直衣ども--なをしの(の/$<朱>)とも(戻)  
  校訂5 いかにぞや--いかにそ(そ/+や<朱>)(戻)  
  校訂6 いと二なく--きひう(きひう/$いとになく<朱>)(戻)  
  校訂7 ことや」と--*ことや(戻)  
  校訂8 そこに--(/+そ)こゝ(ゝ/$<朱>)に(戻)  
  校訂9 たまひそ--*給ふそ(戻)  
  校訂10 追ふをも--ほふせ(せ/$を<朱>)も(戻)  
  校訂11 のたまふ--*のまふ(戻)  
  校訂12 例の--れ(れ/+い)の(戻)  
  校訂13 生ひ--おや(や/#)ひ(戻)  
  校訂14 打ち聞き--うちきく(く/=き<朱>)(戻)  
  校訂15 下長--しり(り/$も<朱>)なか(戻)  
  校訂16 樋洗童--ひすましわらはゝ(ゝ/$<朱>)(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。