平家物語 巻第一 殿上闇討:概要と原文

祇園精舎 平家物語
巻第一
殿上闇討
てんじょうのやみうち

〔概要〕
 
 長承元年 (1132年) 清盛の父平忠盛は昇殿を許された。殿上人たちがねたみ、闇打をたくらんだため、忠盛は短刀をちらつかせながら昇殿した。(しかしこれにはオチがあり)
「其刀を召し出して叡覧あれば、うへは鞘巻の黒くぬりたりけるが、中は木刀に銀薄をぞおしたりける」(以上丸括弧以外Wikipedia平家物語の内容から引用)
 


 
 しかるに忠盛、いまだ備前守たりし時、鳥羽院の御願得長寿院を造進して、三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏を据ゑ奉る。供養は天承元年三月十三日なり。勧賞には闕国を給ふべき由仰せ下されける。折節、但馬国のあきたりけるをぞ賜ひける。上皇なほ御感のあまりに、内の昇殿を許さる。忠盛三十六にて初めて昇殿す。
 

 雲の上人これをそねみ憤り、同じき年の十一月二十三日、五節豊明の節会の夜、忠盛を闇討ちにせんとぞ擬せられける。忠盛、この由を伝へ聞いて、「我、右筆の身にあらず、武勇の家に生まれて、今不慮の恥に逢はん事、家のため、身のため心うかるべし。詮ずる所、身を完うして君に仕へむといふ本文あり」とて、かねて用意をいたす。
 参代の始めより、大きなる鞘巻を用意し、束帯の下にしどけなげに差し、火のほのぐらき方に向かつて、やはらこの刀を抜き出だし、鬢にひき当てられたりけるが、余所よりは、氷などのやうにぞ見えける。諸人目をすましけり。其の上忠盛の郎等、もとは一門たりし平大工助貞光が孫、進の三郎大夫家房が子に、左兵衛尉家貞といふ者あり。薄青の狩衣の下に、萌黄縅の腹巻を着、弦袋つけたる太刀脇挟んで、殿上の小庭にかしこまつてぞ候ひける。
 貫首以下、怪しみをなして、「うつほ柱より家、鈴の綱の辺に、布衣の者の候ふは何者ぞ。狼藉なり。とうとうまかり出でよ」と、六位をもつて言はせければ、家貞かしこまつて申しけるは、「相伝の主備前守殿、今夜闇討ちにせられ給ふべきよし承つて、そのならん様を見んとて、かくて候ふなり。えこそ出づまじう候へ」とて、またかしこまつてぞ候ひける。これらを由なしとや思はれけん、その夜の闇討ちなかりけり。
 

 忠盛また御前の召しに舞はれけるに、人々拍子をかへて、「伊勢へいじはすがめなりけり」とぞ囃されける。かけまくもかたじけなく、この人々は柏原天皇の御末とは申しながら、中頃は都の住まひもうとうとしく、地下にのみ振舞なつて、伊勢国に住国深かりしかば、その国の器物に言寄せて伊勢平氏とぞ囃されける。その上、忠盛の目のすがまれたりけるによつてこそ、かやうには囃されけるなれ。
 忠盛いかにすべきやうもなくして、御遊もいまだ終はらざる先に、ひそかに御前をまかり出でらるるとて、紫宸殿の御後にして、かたへの殿上人の見られける所にて、主殿司を召して、横だへ差されたりける刀を、預けおきてぞ出でられける。
 家貞、待ち奉つて、「さていかが候ひつるやらん」と申しければ、かうとも言はまほしうは思はれけれども、言ひつるほどならば、やがて殿上までも切りのぼらんずるつらだましひにてある間、「別のことなし」とぞ答へられける。
 

 五節には、「白薄様、こぜんじの紙、巻上の筆、巴かいたる筆の管」なんど、様々かやうにおもしろき事をのみこそ歌ひ舞はるるに、中頃太宰権帥季仲卿といふ人ありけり。あまりに色の黒かりしかば、見る人、黒帥とぞ申しける。この人いまだ蔵人頭なりし時、御前の召に舞はれけるに、人々拍子をかへて、「あなくろくろ、黒き頭かな。いかなる人の漆塗りけん」とぞ囃されける。また花山院の前太政大臣忠雅公、いまだ十歳と申しし時、父中納言忠宗卿に後れ給ひて、みなし子にておはしけるを、故中御門藤中納言家成卿、その時はいまだ播磨守にておはしけるが、婿にとつて、はなやかにもてなされしかば、これも五節には、「播磨よねは木賊か、椋の葉か、人の綺羅を磨くは」とぞ囃されける。
 「上古にはかやうの事どもありしかども、事出で来ず。末代いかがあらんずらん、おぼつかなし」とぞ人々申し合はれける。
 

 案のごとく、五節果てにしかば、卿殿上人、一同に訴へ申されけるは、「それ雄剣を帯して公宴に列し、兵仗を賜つて宮中を出入するは、みなこれ格式の礼を守る、綸命よしある先規なり。しかるを忠盛朝臣、或いは相伝の郎従と号して、布衣の兵を殿上の小庭に召し置き、或いは腰の刀を横だへ差いて、節会の座に連なる。両条希代いまだ聞かざる狼藉なり。ことすでに重畳せり。罪科最も逃れがたし。はやく殿上の御札を削つて、闕官停任行はるべき」と、一同に訴へ申されければ、上皇大きに驚かせ給ひて、忠盛を御前へ召して御尋ねあり。
 

 陳じ申されけるは、「まづ郎等小庭に祗候のよし、全く覚悟つかまつらず。ただし近日人々相たくまるる旨、仔細あるかの間、年来の家人、ことを伝へ聞くかによつて、その恥を助けんがために、忠盛には知らせずして、ひそかに参候の条、力及ばざる次第なり。もしその咎あるべくは、かの身を召し進ずべきか。次に刀の事は、主殿司に預け置きをはんぬ。これを召し出だされ、刀の実否によつて、咎の左右あるべきか」と申されたりければ、「この儀もつとも然るべし」とて、この刀を召し出だいて叡覧あるに、上は鞘巻の黒う塗つたりけるが、なかは木刀に銀箔をぞ押したりける。
 「当座の恥辱を逃がれんがために、刀を帯するよ由あらはすといへども、後日の訴訟を存知して、木刀を帯しける用意のほどこそ神妙なれ。弓箭にたづさはらんほどの者のはかりごとには、もつともかうこそあらまほしけれ。かねて又郎等小庭に祗候のこと、且つうは武士の郎等のならひなり。忠盛が咎にはあらず」とて、かへつて叡感にあづかつし上は、あへて罪科の沙汰もなかりけり。
 

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すずき