伊勢物語 84段:さらぬ別れ あらすじ・原文・現代語訳

第83段
小野
伊勢物語
第三部
第84段
さらぬ別れ
第85段
目離れせぬ

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  母なむ宮 宮仕へ 
 
  とみの事 人の子のため
 
 
 

あらすじ

 
 
 むかし男、その身は賤しかったが、母は宮であった(一度藤原の妻になり、次にただの人の妻になった。10段)。
 その母は長岡京に住んでいたが(58段の宮)、子は京に宮仕えに忙しかったので、行こうと思いつつ行かなかった(つまり行く気はなかった)。
 
 一人っ子だったので、どうやらとても悲しんで憂いたのだろう、そうこうしてある師走の頃、急用といって文が届いた。
 驚いてみれば、歌があった。
 

 老いぬれば さらぬ別れのありといへば いよいよ見まく ほしく君かな
 老いれば 避けれぬ別れがあるというので いよいよあなたが見たくなった
 
 かの子、とても泣いて詠む。
 

 世の中に さらぬ別れのなくもがな 千代もといのる 人の子のため
 世の中に 避けられない別れがなければと 千代も祈のる 人の子のため (歌を返すか、返すまいか)
 
 ~
 

 しかし会いには行ってない。歌を返したかも書いていないから。こういう場合、返してない(86段参照)。返す場合は明示している。
 「人の子」とは、多義的だが、一つには母のこと。いつまでも子に会いたいという親は子供。
 

 このような心理描写が、竹取でかぐやが出て行くとき、すがりつく嫗(女)の描写。
 (嫗抱きて居たるかぐや姫…えとゞむまじければ…たゞさし仰ぎて泣きをり)
 

 ここで会いに行く(塗籠)のは、あまりに安易。しかしそれでは「人の子」を説明できない。
 伊勢はこういう言葉こそ肝心。情況で説明する。つまりベタベタしたのが嫌い。
 
 ~
  

 そして、古今集900は、この親子を業平親子と認定するが違う。
 それは伊勢の男の歌が、業平の歌ということを前提にしているからだが、それに根拠はない。
 伊勢を業平の歌集と安易にみなしているだけ。現状と全く同じ。
 
 なぜみなしたか。二条の噂を盲信したから。それだけ。
 伊勢の絶大な影響は、古今の詞書を見ても明らか。古今で突出して最長の詞書は、筒井筒の歌。二番目は東下りの歌。
 したがって、古今が伊勢を丹念に参照した。詞書の細かい表現は撰者達のセンスで、伊勢の原典性とかかわりはない。
 
 古今と伊勢に共通の、別の出典元は確認されていない。伊勢と無縁の独自の業平歌集なるものもない。
 にもかかわらず、後世に影響を及ぼした伊勢を二番煎じとみたり、伊勢が先と見ようともしないこと自体、著しく不自然。
 
 だから、伊勢それ自体が原典。

 そして、伊勢は業平を一貫して否定している。
 むかし男とは相容れない。その一つの根拠が本段の「身はいやし」。
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第84段 さらぬ別れ
   
 むかし、男ありけり。  むかし、おとこありけり。  昔男有けり。
  身はいやしながら、母なむ宮なりける。 身はいやしながら、はゝなむ宮なりける。 身はいやしながら。はゝみこなりけり。
  その母長岡といふ所に住み給ひけり。 そのはゝ、ながをかといふ所にすみ給けり。 その母なが岡といふ所にすみ給ひけり。
  子は京に宮仕へしければ、 子は京に宮づかへしければ、 子は京に宮づかへしければ。
  まうづとしけれど、しばしばえまうでず。 まうづとしけれど、しばしばえまうでず。 まうづとしけれどしば〴〵もえまうでず。
  ひとつ子さへありければ、 ひとつごにさへありければ、 ひとり子にさへ有ければ。
  いとかなしうし給ひけり。 いとかなしうしたまひけり。 いとかなしうし給けり。
       
  さるに、しはすばかりに、 さるに、しはす許に、 さるほどにしはすばかりに。
  とみの事とて、御ふみあり。 とみの事とて御ふみあり。 とみのこととて御ふみあり。
  おどろきて見れば、うたあり。 おどろきて見れば、うたあり。 驚て見れば。ことことはなくて。
       

153
 老いぬれば
 さらぬ別れのありといへば
 おいぬれば
 さらぬわかれのありといへば
 老ぬれは
 さらぬ別も有といへは
  いよいよ見まく
  ほしく君かな
  いよいよ見まく
  ほしきゝみかな
  いよ〳〵みまく
  ほしき君哉
       
  かの子、いたううちなきてよめる。 かの子、いたうゝちなきてよめる。 となん有ける。
是を見て馬にものりあへずまいるとて。
道すがらおもひける。
       

154
 世の中に
 さらぬ別れのなくもがな
 世中に
 さらぬわかれのなくもがな
 世中に
 さらぬ別のなくもかな
  千代もといのる
  人の子のため
  千世もといのる
  人のこのため
  千世もとたのむ
 (なげく古今、いのる一本)
  人の子のため
   

現代語訳

 
 

母なむ宮

 

むかし、男ありけり。
身はいやしながら、母なむ宮なりける。
その母長岡といふ所に住み給ひけり。

 
 
むかし男ありけり
 むかし男がいた。
 
 この出だしから始まるのは、69段(狩の使)以来。その前は60段(花橘)。
 

身はいやしながら母なむ宮なりける
 身は卑しかったが、母は宮であった。
 

 「いやし」は、地位が低い、貴族ではないこと。

 「」は皇族なので、普通のルートではないことを「ながら」で表わしている。
 

 「むかし男」の属性は基本的に示されないが、10段に「父はなほびとにて、母なむ藤原なりける」がある。
 これを合わせると、宮だった者が藤原に嫁ぎ、後家になって賤しいなほびとの下に下った。という転落人生。
 しかし伊勢を記す息子を産んだのだから十分だろう。
 
 そして、こういう背景があるから、著者は後宮(縫殿)に勤められ、二条の后(藤原)にも、伊勢斎宮(宮)にも、無名なのに対等に接している。
 ただの賤しい(一般人の)役人に、二条の后を「ただ人」であった時(3段)と書く発想は、普通はできないだろう。
 これを対抗意識などと見る人もいるが、そんなセコイ発想ではない。それ以前に親王もぞんざいに扱ってるって(83段。早く宴会から帰ろうとする)。
 

 なお「いやし」とあるから、貴族の業平ではない。
 さらに、63段で「在五」を「けぢめみせぬ心」と非難しているので、業平を気取っているのでもない。
 業平が伊勢の主人公を気取っているだけ。
 

その母長岡といふ所に住み給ひけり
 その母が長岡という所にお住みになっていた。
 

 長岡と宮というセットは、58段(荒れたる宿)で出てくるので、そこ。
 「心つきて色好みなる男、長岡といふ所に家造りてをりけり。そこの隣なりける、宮ばらに」
 なお、この男は「むかし男」ではないことは言うまでもない。このような限定の有無は明確に区別している。
 したがって、「在五」(63段)「在原なりける男」(65段)は、「むかし男」ではない。
 
 

宮仕へ

 

子は京に宮仕へしければ、
まうづとしけれど、しばしばえまうでず。
ひとつ子さへありければ、いとかなしうし給ひけり。

 
 
子は京に宮仕へしければ
 子は京に宮仕えしていたので
 
 この表現は、24段(梓弓)に見られるように、「むかし、男かた田舎に住みけり。 男宮仕へしにとて」という著者を表わす顕著な表現。
 

まうづとしけれどしばしばえまうでず
 (母の元に)参ろうとはしたが、その度参ることができず
 
 つまり行きたくない。
 

 しばしば:たびたび。何度も。
 

ひとつ子(▲に)さへありければ
 そのうえ一人っ子でもあったので、
 

 ひとつご 【一つ子】
 :一人っ子。
 

 さへ:そのうえ…まで。
 

いとかなしうし給ひけり
 とても悲しく憂いていたのであった。
 
 

とみの事

 

さるに、しはすばかりに、とみの事とて、御ふみあり。
おどろきて見れば、うたあり。
 
老いぬれば さらぬ別れのありといへば
 いよいよ見まく ほしく君かな

 
 
さるにしはすばかりに
 そうこうしているうちに師走の頃に
 

 さるに 【然るに】
 :すると。そうこうしているうちに。
 

とみの事とて御ふみあり
 急用といって文が届いた。
 

 とみなり【頓なり】
 :急だ。
 

 とみ【跡見】
 :狩猟のとき、鳥や獣の通った跡を見つけて、その行方を推しはかること。
 10段のたのむの雁の話にかけている。一途に会ってくれと頼んでいるのに雁がいなくなるという話。
 つまりこの母はしつこいのです。
 

おどろきて見ればうたあり
 驚いてみれば歌があった。
 

老いぬれば
 老いたらば
 

さらぬ別れのありといへば
 避けられない別れがあるというし
 

 さらぬ【避らぬ】
 :避けられない。
 

いよいよ見まく ほしく君かな
 いよいよ見たくなったあなたかな
 

 みまく【見まく】
 :見るだろうこと。見ること。
 

 みまくほしく:みまほし

 まほし:…たい。
 
 つまりたどたどしい表現を表わしている。母の直接の文章ではなく、著者の翻案と見るべき。
 
 

人の子のため

 

かの子、いたううちなきてよめる。
 
世の中に さらぬ別れのなくもがな
 千代もといのる 人の子のため

 
 
かの子いたううちなきてよめる
 この子は、とても涙して詠んだ。
 

 いたう【甚う】
 :はなはだしく。ひどく。
 

 うちなく 【打ち泣く】
 :ふっと涙をこぼす。泣く。
 
 ああ、子どもに会いたい、何とも寂しいのな、そういう同情の涙。
 幸せな気分じゃないのよ。この母は。さみしいさみしい。そういう人。
 まー男に恵まれなかったのね。そんなだから「むかし男」はドライなのよ。
 だからこそ女の子には思い入れがあって優しくあげたいんだけど。
 母親はそういう対象じゃないからね。
 

 △是を見て馬にものりあへずまいるとて。道すがらおもひける。
 いや塗籠なにこれ。これ書いた人、さぞかしママと仲良いんだわな。
 
 しかしそんな記述はないからな。
 しかも詠んだだけで、返してはいない。こういう記述はしっかり区別しているので。
 つまり心の声。
 

世の中に さらぬ別れのなくもがな
 世の中に 避けられない別れがない、…とでも?
 

 がな
 :〔例示〕…でも。…かなにか。
 

 もがな →×
 :…があったらなあ。…があればいいなあ。
 

 著者は子供じみた夢想はしない。みやびと夢想は違う。
 そんな安易な概念じゃない。辛い現実をも受け止め、昇華させたその先にある。
 

千代もといのる 人の子のため
 千代もと祈っている、人の子のため(に、そう教えてやらんと)
 
 だからそんなに続くわけない。関係は移り変わっていく。それが千代も続くってこと。
 親の愛ってのは、子が離れていくことを喜ぶことなの。わかります? それが親の愛。
 
 さみしいさみしいってどっちが子供? だから「人の子」ってそういう意味。
 でなければおかしいでしょ、この言葉。あなたの子じゃないからね。
 
 厳しいようだけど、母なら大人になって。寂しいなら夢中になれる自分の相手みつけて。
 千代も一緒とかコワイって。フユヒコかよ。そんな長生きを祈ってる、なわけない。
 
 竹取でもそうだけど、別に親だからといって特別思い入れあるわけじゃない。まあ、普通ではないですか。
 だから翁に幼いっつっているじゃないの。それをあーだこーだと理解できない学者もいたみたいだけど。頭カタすぎ。
 生きているうちは、世のためやることがある。例えば、この物語を記すこと。
 男の母親ならそれを喜んでくれよ。まあ厳しいですか。