土佐日記「女もしてみむ」の解釈:○女子への啓蒙 ×女を装った

目次 土佐日記
総論
「女もしてみむ」の解釈
上中下

 
 土佐日記の書き出し「男もすなる日記といふものを、 女もしてみむとてするなり」。
 

 この点、通説は貫之が女を装った(仮託した)とし「女の私もしてみよう」と自明のように解するが、これは男もしているから「女もしてみよう」という口語的啓蒙の記述としか解せない。これは本作の文脈、貫之の所々でおどける作風、及び諸記録に照らし、多角的根拠のある解釈である。文法でも「みむ」は勧誘で何の無理もない。「なる」は伝聞、「なり」は断定という一般の説明も、結論ありきの分類でしかなく、その結論(女の私)は文脈と無関係に決めつけているという背理。

 通説の問題は、第一に貫之が男という自明の事実に反した内容を論拠を示さずに補うこと、その根拠とすべき女を装った本作の特有の文脈は皆無であること(つまり事実及び論理に基づいていない)。したがって、貫之はなぜ女を装ったのかと論を立てる説や、貫之も男目線から抜け切れなかったとかいう説があるが、これ自体、貫之が女を装う動機も装っている文脈もないのに、数文字だけで思い込んで見ていることの証拠となる。

 仮名だから女子を装ったとは言えない、つまり元来仮名と文字は男社会のものという根拠は、日本初のかな和歌集・905年の古今集において女子は上位20人中2人のみであること(伊勢・小町。これは全体の男女割合とも符合、実際は女子1割以下)、貫之は古今の仮名序を記したがそこでは女を装ったとされていないこと、935年の土佐日記以前に女流作品は現状認定されていないこと、最初の女流作品とされる蜻蛉日記は954-974年の内容であること。

 以上から、仮名で女を装ったという解釈は、時間軸を本末転倒させた安易な思い込み以外に根拠がない。土佐日記で「男文字」とあるが女文字とはしていない。これは万葉「ますらを」、古今「たをやめ」と同旨の文字の比喩としか解せないし、またそれで通る。むしろ日記という題がこの後女子に続く点でも、土佐の啓蒙効果・貫之の影響力は強かったと言えるし、それは後世の評価と完全に符合するものである。

 女の私もしてみよう、それは「女もしてみむ」という数文字で決める視野の狭い硬直的解釈。珍妙な結論に、真っ当な批判的精神を欠いたドグマ、漫然と追従する知的怠慢、自分達は何事も解明済みと思い込む、はじより我々はという思い上がり。事実に反し具体的文脈を無視した解釈を維持することは学問的態度か。土佐冒頭は些末な問題ではなく、理知さが売りの古文全体の解釈レベルを象徴している(まして伊勢物語に端を発する和歌の理解は目を覆うレベル)。著者の総体的文脈から意味を良く通すのが解釈。良識を問いたい。

 

○女もしてみよう(啓蒙・勧誘) ×女の私もしてみよう

 
 
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむ とてするなり」
 男もしている日記というものを、女もしてみようといってするのである。

 女もしてみん? みむは勧誘でつまり啓蒙。貫之は女ではないので意志ではない。

 

 ところが諸説は、悉く「女にしてみむ」は女を装っているとなぜか当然の前提のドグマにして女(の私)と勝手に補い、「男もすなる」は伝聞とするのが支配的通説(異論はもちろん疑問すら見たことがない異様さ)。しかし貫之は厳然として女ではないし、なぜ女を装ったのかという問題設定されるが、そもそも女は装ったという根拠が文脈上に一切なく、男の文脈しかない。
 直前先頭に貫之の署名があり(だからこの時代珍しく貫之のものと確定されている)、加えて、女を装った文脈は皆無で、むしろ「解由」(辞令)を受け取る文脈があり、「例のこと」なども事務の引継ぎなどと悉く男の文脈で解されており、さらに実名の人物も藤原ときざね・八木の康敎を筆頭に、業平・仲麻呂等10名程度出てくるが、女性は抽象的な母や女以外出てこない。つまり「女もしてみむ」の6文字だけで、女を装ったと思い込んでいる
 読解力が足りず、ミクロの解釈理論を絶対視するために、論理・推論の流れが背理しており、加えて、学問の基礎となる批判的思考力が千年以上欠如してきた(所与の説が矛盾に満ちていても追従する学習レベル。見る限り、字義に即したフラットな検討・理論的再検討は、最低でも博士レベルでないと不可能。諸々の事実に即するポリシー、事実と評価を区別できる力がないと事実上不可能。女を装っているレベルならまだしも、伊勢の昔男の歌の業平認定のように一般の評価が他人により既成事実化され、それらが諸々の記録と全く整合しなくても疑問を抱けない。古今とその不都合を糊塗する御饌の場当たり認定を絶対視し伊勢の記述を悉く曲げ、一貫して日記調で800年代~885年頃までの記述を無視し成立を好き勝手分断して古今後、後撰にまで回す。自分達の認定(歌集の認定)を維持するため。それで一貫して900年代初頭の内容の大和の成立までずらして平安初期の認識が完全に勅撰ありきでおかしくなる、古今で圧倒的に支配的なのは伊勢物語の昔男の歌と、女性では伊勢の御と小町の歌であり、他には貫之を除き、勅撰の個々人が支配的なのでは全くない)。

 結論自体が明らかにおかしいので、そこに至る推論過程も誤り(なるは終止形の「す」に接続しているから伝聞)。
 解釈は接続ではなく文脈で決まる。現に、最もメジャーな四段動詞は終止と連体が同じなため、接続で「なり」は断定か伝聞か区別できない、文脈で判断するとされるのだから、そもそも接続で区別すること自体が本末転倒で不適当。自分では全く判断できない人達向けの手法。接続は主ではなく従。文脈が主。

 

 文脈を無視した文言解釈は誤り。

 文脈を無視したミクロの解釈(局所的接続等)から文脈を決めることを、言葉尻を捉えるとか、本末転倒、群盲象を評すという。群は大勢の有象無象で、盲は見えてないという意味。象の総体的全体像を全く見れず、近視眼的に物事をひたすら断片に分解し、細部に詳しい自分達こそ、誰より全体を理解していると思いこんで評するいう古来の例え話。この群盲理論がこの土佐冒頭の数文字の解釈と作品全体の定義に完全にあてはまる。

 

 通説は、男も「すなる」のなるを伝聞とし、「するなり」の断定と区別するが、それは女を装っているという思い込みありきのこじつけ。「すなる」が伝聞になる文脈上の必然が全くない。これこそが自分達の観念的分類の絶対視・暗記教育の弊害の象徴。加えて自分達の解釈(曲解)を事実と混同する最典型。

 終止形接続だから伝聞、という文脈完全無視の観念的断定は、解釈態度として不適当。してみむを「し(動詞)・て(助詞)・み(動詞)・む(助動詞)」とする位思考回路がずれている。し・て・み・よう? お・も・て・な・しか。ネイティブは伝聞とか断定とか終止形接続とかそんなことは絶対に考えない。すなるはすなる。なる・なりは「である」である。訳す上で「という」「ている」になっても、ぼやけた意味ではない。文脈無視で自分達の分類を優先させ、論理を逆転させない。それを背理という。伝聞というのは辞書都合の分類に過ぎない。そこに分類されても、古典群の文脈が後世の学者の分類で定まるわけではない。著者の意図で決まり、それは文脈全体で示される。

 そして文脈上「女もしてみむ」は、女の私もするではなく、男もしているから女もしてみようという勧誘(啓蒙)以外ありえない。貫之は厳然として男で女ではないし、何より貫之という役職付き書名が冒頭にあり(このような署名は通常では全くない。土佐同等以上の作品で他に類例があるのか)、直後の解由(職務引継ぎ状)を取る文脈も男の文脈。かたや女を装ったという極めて特殊な文脈の根拠は全くない。

 

 古語=文語と定義する思考、よって語り口や冗談、京言葉最大の特徴・皮肉を全く解せない、思い込みで補い正当化する習癖が、女もしてみんが女の私解釈として疑問に思わない通説に結実している。

 同様のものに枕草子と源氏末尾の「とぞ本に(はべめる)」の「本」を写本と解する珍説的通説がある。とほんにあきれたもの、と書けないからそこで止めている。止めなかったのが紫(とぞ本にはべめる=とまあほんにそういうことでございます)。つまりこういう意味の言葉と解説している。

 自分達が満足に意味をとれない文脈無視の場当たり的珍説を、当然のように他作品に導入し、そういう用法だと正当化する(領るよし・とぞ本に)。
 

 男もする日記というものを、女も一緒にしてみよう(ばかな男でもしているから女もしてみよう)。といって女にもわかりやすい仮名で記した。

 これが何の事実にも文脈にも反しないごく自然な解釈。全ての史実に矛盾なく統一的に解釈できる。男女レベルの事実を無視する解釈、文脈を無視する解釈は誤り。貫之は男。それが事実。女を装っているというのは事実ではない。(根拠のない)評価。女を装ったという実質的根拠はあるか。ない。「すなるは終止形接続だから(伝聞)」が根拠か。説明になってない。この文章自体に意味とロジックがない後付けの理屈。どう見ても一貫した男が最初の二言三言で女を装っているというのは、言いがかりのレベルの近視眼的解釈。近視も近視の度が過ぎる。それで進行し続けるガラパゴス化。そのスタイルを叩き込み、試験が終われば何も残らず、教養として大して役立ってこなかったこれまでの通説と、それをさらにいじった選択肢と解答が、わが国独自の文化の理解と言うのだろうか。それは確かにある意味伝統文化ではある。

 

かな文字は女文字?

 
 
 土佐日記で「男文字」とあっても、これは読者に女達を想定している表現と解され、これにより直ちに、かなが女文字だったということにはならない。

 それにかなの始祖・竹取も、伊勢も女の作とは見られていないし、905年の古今の女性の割合は1111首中多く見て70首である(6%、男53%、不知41%)。
 

 ただし竹取伊勢が主な読者に宮中の女性を想定していることは、話題が男女の恋愛であることからも言える。それは土佐日記の内容と比較すれば一層明らかになるだろう。だからといって直ちにそれらの著者が女ということにはならない。
 

 竹取伊勢は、女所(縫殿)に仕えかつ判事として知的素養のあった文屋の作で、大和はその影響を受けた伊勢の御(御息所)の作。
 特に前者は、様々な衣を出すこと(羽衣・狩衣・摺衣・唐衣・上の衣)、在五をけぢめ見せぬ心と非難し、昔男の身は卑し(しかしながら母は宮、父はただの人)とする諸々の文脈から、多角的かつ確実な根拠がある。文屋は東下りの三河行きの記録があり(古今、つまり貫之による詞書)、業平にはそのような東国行の記録がないことが問題とされる。
 

 女流文学がかなにより大成したとしても、それで女の文字ということにはならない。
 確かに1000年頃は女文字の様相を呈したかもしれないが、935年の土佐日記はその時代のものでは全くないし、905年の古今の女性の割合からして、女性は一般的にほとんど文字を用いない。それが土佐のこの時代において客観的に言えること。この時代、女性の多作者は伊勢の御しかいない。それが大和。小町は文屋の歌手であり、作詞はしていない。それが古今の小町のみ有意に少ない詞書と、大和物語での小町のエピソード(苔の衣)から言えること。つまり小町と一緒に行動し、そこに寄って来る男の話を記してゴシップにしたのが文屋。そういう話も書いていいという先例を作った。だから大和も蜻蛉も、男をなじる内容なのである。