宇治拾遺物語:長谷寺参籠の男、利生に預かる事

検非違使忠明 宇治拾遺物語
巻第七
7-5 (96)
長谷寺参籠の男
小野宮大饗

 
 今は昔、父母、主もなく、妻も子もなくて、ただ一人ある青侍ありけり。すべき方もなかりければ、「観音助け給へ」とて長谷に参りて、御前にうつぶし伏して申しけるやう、「この世にかくてあるべくは、やがて、この御前にて干死にに死なん。もしまた、おのづからなる便りもあるべくは、そのよしの夢を見ざらんかぎりは出づまじ」とて、うつぶし臥したりけるを、
 寺の僧見て、「こは、いかなる者の、かくては候ふぞ。物食ふ所も見えず、かくうつぶし臥したれば、寺のため、けがらひ出で来て、大事になりなん。誰を師にはしたるぞ。いづくにてか物は食ふ」など問ひければ、
 「かくたよりなき者は、師もいかでか侍らん。物食ぶる所もなく、あはれと申す人もなければ、仏の給はん物を食べて、仏を師と頼み奉りて候ふなり」と答へければ、
 寺の僧ども集まりて、「この事、いとど不便の事なり。寺のために悪しかりなん。観音をかこち申す人にこそあんなれ。これ集まりて、養ひて候はせん」とて、かはるがはる物を食はせければ、持て来る物を食ひつつ、御前を立去らず候ひけるほどに、三七日になりにけり。
 

 三七日はてて、明けんとする夜の夢に、御帳より人の出でて、「このをのこ、前世の罪の報ひをば知らで、観音をかこち申して、かくて候ふ事、いとあやしき事なり。さはあれども、申すことのいとほしければ、いささかの事、計らひ給はりぬ。まづ、すみやかにまかり出でよ。まかり出でんに、何にてもあれ、手にあたらん物を取りて、捨てずして持ちたれ。とくとくまかり出でよ」と追はるると見て、はひ起きて、約束の僧のがり行きて、物うち食ひてまかり出でけるほどに、大門にてけつまづきて、うつぶしに倒れにけり。
 

 起きあがりたるに、あるにもあらず、手に握られたる物を見れば、藁すべといふ物をただ一筋握られたり。
 「仏の賜ぶ物にてあるにやあらん」と、いとはかなく思へども、仏のはからせ給ふやうあらんと思ひて、これを手まさぐりにしつつ行くほどに、虻一つぶめきて、顔のめぐりにあるを、うるさければ、木の枝を折りて払ひ捨つれども、なほただ同じやうに、うるさくぶめきければ、とらへて腰をこの藁すぢにてひきくくりて、杖の先につけて持たりければ、腰をくくられて、ほかへはえ行かで、ぶめき飛びまはりけるを、
 長谷にまゐりける女車の、前の簾をうちかづきてゐたる児の、いとうつくしげなるが、「あの男の持ちたる物はなにぞ。かれ乞ひて、我に賜べ」と、馬に乗りてともにある侍に言ひければ、その侍、「その持ちたる物、若君の召すに参らせよ」と言ひければ、「仏の賜びたる物に候へど、かく仰せ事候へば、参らせて候はん」とて、取らせたりけば、「この男、いとあはれなる男なり。若君の召す物を、やすく参らせたる事」と言ひて、大柑子を、「これ、喉かはくらん、食べよ」とて、三つ、いとかうばしき陸奥国紙に包みて取らせたりければ、侍、取り伝へて取らす。
 

 藁一筋が、大柑子三になりぬる事、と思ひて、木の枝に結ひ付けて、肩にうちてかけて行くほどに、「故ある人の、忍びて参るよ」と見えて、侍などあまた具して、かちより参る女房の、歩み困じて、ただたりにたりゐたるが、「喉のかはけば、水飲ませよ」とて、消え入るやうにすれば、供の人々、手惑ひをして、「近く水やある」と走り騒ぎ求むれど、水もなし。
 「こはいかがせんずる。御旅籠馬にや、もしある」と問へど、はるかにをくれたりとて見ず。ほとほとしきさまに見ゆれば、まことに騒ぎ惑ひてしあつかふを見て、「喉かはきて騒ぐ人よ」と見ければ、やはら歩み寄りたるに、「ここなる男こそ、水のあり所は知りたるらめ、この辺近く、水の清き所やある」と問ひければ、「この四五町が内には清き水候はじ。いかなる事の候ふにか」と問ひければ、「歩み困ぜさせ給ひて、御喉のかはかせ給ひて、水ほしがらせ給ふに、水のなきが大事なれば、尋ぬるぞ」と言ひければ、「不便に候ふ御事かな。水の所は遠くて、汲みて参らば、ほど経候ひなん。これはいかが」とて、包みたる柑子を、三ながら取らせたりければ、悦び騒ぎて食はせたれば、それを食ひて、やうやう目を見あけて、「こは、いかなりつる事ぞ」と言ふ。
 「御喉かはかせ給ひて、『水飲ませよ』とおほせられつるままに、御殿籠り入らせ給ひつれば、水もとめ候ひつれども、清き水も候はざりつるに、ここに候ふ男の、思ひかけるに、その心を得て、この柑子を三、奉りたりつれば、参らせたるなり」といふに、
 この女房、「我はさは、喉かはきて、絶え入たりけるにこそありけれ。『水飲ませよ』といひつるばかりはおぼゆれど、その後の事はつゆおぼえず。この柑子えざらましかば、この野中にて消え入りなまし。うれしかりける男かな。この男、いまだあるか」と問へば、「かしこに候ふ」と申す。
 「その男、しばしあれといへ。いみじからん事ありとも、絶え入はてなば、かひなくてこそやみなまし。男のうれしと思ふばかりの事は、かかる旅にては、いかがせんずるぞ。食ひ物は持ちて来たるか。食はせてやれ」と言へば、「あの男、しばし候へ。御旅籠馬など参りたらんに、物など食ひてまかれ」と言へば、「うけ給ひぬ」とて、ゐたるほどに、旅籠馬、皮籠馬など「など、かくはるかにをくれては参るぞ。御旅籠馬などは、つねにさきだつこそよけれ。とみの事などもあるに、かくをくるるはよき事かは」など言ひて、やがて幔引き、畳など敷きて、「水遠かんなれど、困ぜさせ給ひたれば、召し物は、ここにて参らすべきなり」とて、夫どもやりなどして、水汲ませ、食物しいだしたれば、この男に、清げにして、食はせたり。
 物を食ふ食ふ、「ありつる柑子、何にかならんずらん。観音はからはせ給ふ事なれば、よもむなしくてはやまじ」と思ひゐたるほどに、白くよき布を三匹取り出でて、「これ、あの男に取らせよ。この柑子の喜びは、言ひつくすべき方もなけれども、かかる旅の道にては、うれしと思ふばかりの事はいかがせん。これはただ、心ざしのはじめを、見するなり。京のおはしまし所は、そこそこになん。必ず参れ。この柑子の喜びをばせんずるぞ」と言ひて、布三匹取らせたれば、悦びて布を取りて、「藁筋一筋が、布三匹になりぬる事」と思ひて、腋にはさみてまかるほどに、その日は暮れにけり。
 

 道づらなる人の家にとどまりて、明けぬれば鳥とともに起きて行くほどに、日さしあがりて辰の時ばかりに、えもいはず良き馬に乗りたる人、この馬を愛しつつ、道も行きやらず、ふるまはするほどに、「まことにえもいはぬ馬かな。これをぞ千貫がけなどはいふにやあらん」と見るほどに、この馬にはかにたうれて、ただ死にに死ぬれば、主、我にもあらぬけしきにて、下りて立ちゐたり。手まどひして、従者どもも、鞍下ろしなどして、「いかがせんずる」といへども、かひなく死に果てぬれば、手を打ち、あさましがり、泣きぬばかりに思ひたれど、すべき方なくて、あやしの馬のあるに乗りぬ。
 

 「かくてここにありとも、すべきやうなし。我等は去なん。これ、ともかくもして引き隠せ」とて、下種男を一人とどめて、去りぬれば、この男見て、「この馬、わが馬にならんとて死ぬるにこそあんめれ。藁一筋柑子三になりぬ。柑子三が布三匹になりたり。この布、馬になるべきなめり」と思ひて、歩み寄りて、この下種男にいふやう、「こは、いかなりつる馬ぞ」と問ひければ、「睦奥国より得させ給へる馬なり。よろづの人のほしがりて、値も限らず買はんと申しつるをも惜しみて、放ち給はずして、今日かく死ぬれば、その値、少分をも取らせ給はずなりぬ。おのれも、皮をだに剥がばやと思へど、旅にてはいかがすべきと思ひて、まもり立ちて侍るなり」と言ひければ、「その事なり。いみじき御馬かなと見侍りつるに、はかなくかく死ぬる事、命ある物はあさましき事なり。まことに、旅にては、皮はぎ給ひたりとも、え干し給はじ。おのれはこの辺に侍れば、皮剥ぎて使ひ侍らん。得させておはしね」とて、この布を一匹取らせたれば、男、思はずなる所得したりと思ひて、思ひもぞかへすとや思ふらん、布をとるままに、見だにもかへらず走り去りぬ。
 

 男、よくやりはてて後、手かき洗ひて、長谷の御方の向かひて、「この馬、生けて給はらん」と念じゐたるほどに、この馬、目を見あくるままに、頭をもたげて、起きんとしければ、やはら手をかけて起こしぬ。うれしき事限りなし。
 「遅れて来る人もぞある。また、ありつる男もぞ来る」など、あやうくおぼえければ、やうやう隠れの方に引き入れて、時移るまで休めて、もとのやうに心地もなりにければ、人のもとに引きもて行きて、その布一匹して、轡やあやしの鞍にかへて馬乗りぬ。
 

 京ざまに上るほどに、宇治わたりにて日暮れにければ、その夜は人のもとに泊とまりて、いま一匹の布して、馬の草、わが食物などにかへて、その夜は泊まりて、つとめていととく、京ざまに上りければ、九条わたりなる人の家に、物へ行かんずるやうにて、立ち騒ぐ所あり。
 「この馬、京に率て行きたらんに、見知りたる人ありて、盗みたるかなどいはれんもよしなし。やはら、これを売りてばや」と思ひて、「かやうの所に、馬など用なるものぞかし」とて下り走りて寄りて、「もし馬などや買はせ給ふ」と問ひければ、
 馬がなと思ひけるほどにて、この馬を見て、「いかがせん」とさわぎて、「ただ今、かはり絹などはなきを、この鳥羽の田や米などにはかへてんや」と言ひければ、
 なかなか、絹よりは第一の事なりと思ひて、「絹や銭などこそ用には侍れ、おのれは旅なれば、田ならば何にかはせんずると思ひ給ふれど、馬の御用あるべくは、ただ仰せにこそしたがはめ」と言へば、この馬に乗りこころみ、馳せなどして、「ただ、思ひつるさまなり」と言ひて、この鳥羽の近き田三町、稲少し、米など取らせて、やがてこの家をあづけて、「おのれ、もし命ありて帰り上りたらば、その時、返し得させ給へ。上らざらん限りは、かくて居給へれ。もしまた、命絶えてなくもなりなば、やがてわが家にして居給へ。子も侍らねば、とかく申す人もよも侍らじ」と言ひて、あづけて、やがて下りにければ、その家に入り居て、みたりける米、稲など取り置きて、ただ一人なりけれど、食物ありければ、かたはら、その辺なりける下種など出で来て、使はれなどして、ただありつきに、ゐつきにけり。
 

 二月ばかりの事なりければ、その得たりける田を、半らは人に作らせ、今半らは我が料に作らせたりけるが、人の方のもよけれども、それは世の常にて、おのれが分とて作たるは、ことのほか多くいできたりければ、稲多く刈り置きて、それよりうち始め、風の吹きつくるやうに徳つきて、いみじき徳人にてぞありける。その家あるじも、音せずなりにければ、その家も我が物にして、子孫などいできて、ことのほかに栄へたりけるとか。
 

検非違使忠明 宇治拾遺物語
巻第七
7-5 (96)
長谷寺参籠の男
小野宮大饗