源氏物語 32帖 梅枝:あらすじ・目次・原文対訳

真木柱 源氏物語
第一部
第32帖
梅枝
藤裏葉

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 梅枝(うめがえ)のあらすじ

 光源氏39歳の春の話。

 東宮の元服に合わせ、源氏明石の姫君裳着の支度を急いでいた。源氏は女君たちに薫物の調合を依頼し、自分も寝殿の奥に引きこもって秘伝の香を調合する。雨の少し降った2月10日、蛍兵部卿宮〔源氏の弟〕を迎えて薫物合わせの判者をさせる。どの薫物も皆それぞれに素晴らしく、さすがの蛍宮も優劣を定めかねるほどだった。晩になって管弦が催され、美声の弁少将が「梅枝」を歌った。

 翌日、明石の姫君の裳着が盛大に行われ、秋好中宮〔前斎宮・梅壷女御〕が腰結いをつとめた。姫の美しさに、目を細める中宮。(さすがは大臣の愛娘であること)と感心していた。源氏は本来ならば明石の御方〔姫君の母〕も出席させるべきであったものの、噂になることを考えて、出席させられなかった事を悔やむ。東宮も入内を待ちかねていたが、源氏は他の公卿たちが遠慮して娘を後宮に入れることをためらっていると知り、敢えて入内を遅らせる。局は淑景舎(桐壺)と決め、華麗な調度類に加えて優れた名筆の手本を方々に依頼する源氏だった。

 そんな華やかな噂を聞きながら、内大臣〔かつての頭中将〕は雲居の雁の処遇に相変わらず悩んでいた。源氏も夕霧がなかなか身を固めないことを案じており、親として自らの経験を踏まえつつ訓戒し、それとなく他の縁談を勧める。その噂を父の内大臣から聞かされた雲居の雁は衝撃を受け、あっさり忘れられてしまう自分なのだと悲しむ。久しぶりに人の目を忍んで届いた夕霧からの文に、夕霧の冷淡さを恨む返歌をし、心変わりした覚えのない夕霧はどうして雲居の雁がこんなに怒っているのかと考え込む。

(以上Wikipedia梅枝より。色づけと〔〕は本ページ)

 本巻で姫君の腰結を中宮(梅壺)が務めて桐壺に入ることは、源氏冒頭の桐壺を、伊勢物語末尾121段の梅壷と関連させたことを示し、梅枝という題は梅壺及び、伊勢98段・梅の造り枝を連想させる。
 (秋好)中宮=前伊勢斎宮は、伊勢物語を象徴させた人物。この人物がメインで登場する時は、伊勢の特有の文脈が生じる。
 典型が17絵合の巻。冒頭で前斎宮が梅壺に入り、彼女の陣営に伊勢物語を擁護させ(伊勢の海の深き心)、彼女の陣営に勝利させる。

 本巻の中宮もこのような関係を象徴させていると見る。玉鬘の話に区切りをつけて本筋に戻る。
 

目次
和歌抜粋内訳#梅枝(11首:別ページ)
主要登場人物
 
第32帖 梅枝(うめがえ)
 光る源氏の太政大臣時代
 三十九歳一月から二月までの物語
 
第一章 光る源氏の物語
 薫物合せ
 第一段 六条院の薫物合せの準備
 第二段 二月十日、薫物合せ
 第三段 御方々の薫物
 第四段 薫物合せ後の饗宴
 
第二章 光る源氏の物語
 明石の姫君の裳着
 第一段 明石の姫君の裳着
 第二段 明石の姫君の入内準備
 第三段 源氏の仮名論議
 第四段 草子執筆の依頼
 第五段 兵部卿宮、草子を持参
 第六段 他の人々持参の草子
 第七段 古万葉集と古今和歌集
 
第三章 内大臣家の物語
 夕霧と雲居雁の物語
 第一段 内大臣家の近況
 第二段 源氏、夕霧に結婚の教訓
 第三段 夕霧と雲居の雁の仲
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
三十九歳
呼称:大臣・大殿・殿
夕霧(ゆうぎり)
光る源氏の長男
呼称:宰相中将・宰相の君
内大臣(ないだいじん)
呼称:内の大殿・内の大臣・大臣
柏木(かしわぎ)
呼称:頭中将
紫の上(むらさきのうえ)
呼称:対の上・上
花散里(はなちるさと)
呼称:夏の御方
秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)
呼称:中宮・宮
蛍兵部卿宮(ほたるひょうぶきょうのみや)
呼称:兵部卿宮・宮・親王
明石御方(あかしのおおんかた)
呼称:冬の御方・母君
明石姫君(あかしのひめぎみ)
呼称:御方
東宮(とうぐう)
呼称:春宮・宮
雲居雁(くもいのかり)
夕霧の恋人
呼称:姫君・女、内大臣の娘

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンクを参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 

原文対訳

和歌 定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  梅枝(うめがえ)
 
 

第一章 光る源氏の物語 薫物合せ

 
 

第一段 六条院の薫物合せの準備

 
   御裳着のこと、思しいそぐ御心おきて、世の常ならず。
 春宮も同じ二月に、御かうぶりのことあるべければ、やがて御参りもうち続くべきにや。
 
 御裳着の儀式、ご準備なさるお心づかい、並々ではない。
 春宮も同じ二月に、御元服の儀式がある予定なので、そのまま御入内も続くのであろうか。
 
   正月の晦日なれば、公私のどやかなるころほひに、薫物合はせたまふ。
 大弐の奉れる香ども御覧ずるに、「なほ、いにしへのには劣りてやあらむ」と思して、二条院の御倉開けさせたまひて、唐の物ども取り渡させたまひて、御覧じ比ぶるに、
 正月の月末なので、公私ともにのんびりとした頃に、薫物合わせをなさる。
 大宰大弐が献上したいくつもの香を御覧になると、「やはり、昔の香には劣っていようか」とお思いになって、二条院の御倉を開けさせなさって、唐の品々を取り寄せなさって、ご比較なさると、
   「錦、綾なども、なほ古きものこそなつかしうこまやかにはありけれ」  「錦、綾なども、やはり古い物が好ましく上品であった」
   とて、近き御しつらひの、物の覆ひ、敷物、茵などの端どもに、故院の御世の初めつ方、高麗人のたてまつれりける綾、緋金錦どもなど、今の世のものに似ず、なほさまざま御覧じあてつつせさせたまひて、このたびの綾、羅などは、人びとに賜はす。
 
 とおっしゃって、身近な調度類の、物の覆いや、敷物、座蒲団などの端々に、故院の御代の初め頃、高麗人が献上した綾や、緋金錦類など、今の世の物には比べ物にならず、さらにいろいろとご鑑定なさっては、今回の綾、羅などは、女房たちにご下賜なさる。
 
   香どもは、昔今の、取り並べさせたまひて、御方々に配りたてまつらせたまふ。
 
 数々の香は、昔のと今のを、取り揃えさせなさって、ご夫人方にお配り申し上げさせなさる。
 
   「二種づつ合はせさせたまへ」  「二種類づつ調合なさって下さい」
   と、聞こえさせたまへり。
 贈り物、上達部の禄など、世になきさまに、内にも外にも、ことしげくいとなみたまふに添へて、方々に選りととのへて、鉄臼の音耳かしかましきころなり。
 
 と、お願い申し上げさせなさった。
 贈物や、上達部への禄など、世にまたとないほどに、内にも外にも、お忙しくお作りなさるに加えて、それぞれに材料を選び準備して、鉄臼の音が喧しく聞こえる頃である。
 
   大臣は、寝殿に離れおはしまして、承和の御いましめの二つの方を、いかでか御耳には伝へたまひけむ、心にしめて合はせたまふ。
 
 大臣は、寝殿に離れていらっしゃって、承和の帝の御秘伝の二つの調合法を、どのようにしてお耳にお伝えなさったのであろうか、熱心にお作りになる。
 
   上は、東の中の放出に、御しつらひことに深うしなさせたまひて、八条の式部卿の御方を伝へて、かたみに挑み合はせたまふほど、いみじう秘したまへば、  紫の上は、東の対の中の放出に、御設備を特別に厳重におさせになって、八条の式部卿の御調合法を伝えて、互いに競争して調合なさっている間に、たいそう秘密にしていらっしゃるので、
   「匂ひの深さ浅さも、勝ち負けの定めあるべし」  「匂いの深さ浅さも、勝負けの判定にしよう」
   と大臣のたまふ。
 人の御親げなき御あらそひ心なり。
 
 と大臣がおっしゃる。
 子を持つ親御らしくない競争心である。
 
   いづ方にも、御前にさぶらふ人あまたならず。
 御調度どもも、そこらのきよらを尽くしたまへるなかにも、香壺の御筥どものやう、壺の姿、火取りの心ばへも、目馴れぬさまに、今めかしう、やう変へさせたまへるに、所々の心を尽くしたまへらむ匂ひどもの、すぐれたらむどもを、かぎあはせて入れむと思すなりけり。
 
 どちらにも、御前に伺候する女房は多くいない。
 御調度類も、多く善美を尽くしていらっしゃる中でも、いくつもの香壷の御箱の作り具合、壷の恰好、香炉の意匠も、見慣れない物で、当世風に、趣向を変えさせていらっしゃるのが、あちらこちらで一生懸命にお作りになったような香の中で、優れた幾種かを、匂いを比べた上で入れようとお考えなのである。
 
 
 

第二段 二月十日、薫物合せ

 
   二月の十日、雨すこし降りて、御前近き紅梅盛りに、色も香も似るものなきほどに、兵部卿宮渡りたまへり。
 御いそぎの今日明日になりにけることども、訪らひきこえたまふ。
 昔より取り分きたる御仲なれば、隔てなく、そのことかのこと、と聞こえあはせたまひて、花をめでつつおはするほどに、前斎院よりとて、散りすきたる梅の枝につけたる御文持て参れり。
 宮、聞こしめすこともあれば、
 二月の十日、雨が少し降って、御前近くの紅梅の盛りに、色も香も他に似る物がない頃に、兵部卿宮がお越しになった。
 御裳着の支度が今日明日に迫ってお忙しいことについて、ご訪問なさる。
 昔から特別にお仲が好いので、隠し隔てなく、あの事この事、とご相談なさって、紅梅の花を賞美なさっていらっしゃるところに、前斎院からと言って、散って薄くなった梅の枝に結び付けられているお手紙を持ってまいった。
 宮、お聞きになっていたこともあるので、
   「いかなる御消息のすすみ参れるにか」  「どのようなお手紙があちらから参ったのでしょうか」
   とて、をかしと思したれば、ほほ笑みて、  とおっしゃって、興味をお持ちになっているので、にっこりして、
   「いと馴れ馴れしきこと聞こえつけたりしを、まめやかに急ぎものしたまへるなめり」  「たいそう無遠慮なことをお願い申し上げたところ、几帳面に急いでお作りになったのでしょう」
   とて、御文は引き隠したまひつ。
 
 とおっしゃって、お手紙はお隠しになった。
 
   沈の筥に、瑠璃の坏二つ据ゑて、大きにまろがしつつ入れたまへり。
 心葉、紺瑠璃には五葉の枝、白きには梅を選りて、同じくひき結びたる糸のさまも、なよびやかになまめかしうぞしたまへる。
 
 沈の箱に、瑠璃の香壷を二つ置いて、大きく丸めてお入れになってある。
 心葉は、紺瑠璃のには五葉の枝を、白いのには白梅を彫って、同じように結んである糸の様子も、優美で女性的にお作りになってある。
 
   「艶あるもののさまかな」  「優雅な感じのする出来ばえですね」
   とて、御目止めたまへるに、  とおっしゃって、お目を止めなさると、
 

428
 「花の香は 散りにし枝に とまらねど
 うつらむ袖に 浅くしまめや」
 「花の香りは散ってしまった枝には残っていませんが、
  香を焚きしめた袖には深く残るでしょう」
 
   ほのかなるを御覧じつけて、宮はことことしう誦じたまふ。
 
 薄墨のほんのりとした筆跡を御覧になって、宮は仰々しく口ずさみなさる。
 
   宰相中将、御使尋ねとどめさせたまひて、いたう酔はしたまふ。
 紅梅襲の唐の細長添へたる女の装束かづけたまふ。
 御返りもその色の紙にて、御前の花を折らせてつけさせたまふ。
 
 宰相中将、お使いの者を捜し出して引き止めさせなさって、たいそう酔わせなさる。
 紅梅襲の唐の細長を添えた女装束をお与えになる。
 お返事も同じ紙の色で、御前の花を折らせてお付けになる。
 
   宮、  宮、
   「うちのこと思ひやらるる御文かな。
 何ごとの隠ろへあるにか、深く隠したまふ」
 「どんな内容か気になるお手紙ですね。
 どのような秘密があるのか、深くお隠しになさるな」
   と恨みて、いとゆかしと思したり。
 
 と恨んで、ひどく見たがっていらっしゃった。
 
   「何ごとかはべらむ。
 隈々しく思したるこそ、苦しけれ」
 「何でもありません。
 秘密があるようにお思いになるのが、かえって迷惑です」
   とて、御硯のついでに、  とおっしゃって、御筆のついでに、
 

429
 「花の枝に いとど心を しむるかな
 人のとがめむ 香をばつつめど」
 「花の枝にますます心を惹かれることよ
  人が咎めるだろうと隠しているが」
 
   とやありつらむ。
 
 とでもあったのであろうか。
 
   「まめやかには、好き好きしきやうなれど、またもなかめる人の上にて、これこそはことわりのいとなみなめれと、思ひたまへなしてなむ。
 いと醜ければ、疎き人はかたはらいたさに、中宮まかでさせたてまつりてと思ひたまふる。
 親しきほどに馴れきこえかよへど、恥づかしきところの深うおはする宮なれば、何ごとも世の常にて見せたてまつらむ、かたじけなくてなむ」
 「実のところ、物好きなようですが、二人といない娘のことですから、こうするのが当然の催しであろうと、存じましてね。
 たいそう不器量ですから、疎遠な方にはきまりが悪いので、中宮を御退出おさせ申し上げてと存じております。
 親しい間柄でお慣れ申し上げているが、気の置ける点が深くおありの宮なので、何事も世間一般の有様でお見せ申しては、恐れ多いことですから」
   など、聞こえたまふ。
 
 などと、申し上げなさる。
 
   「あえものも、げに、かならず思し寄るべきことなりけり」  「あやかるためにも、おっしゃるとおり、きっとお考えになるはずのことなのでしたね」
   と、ことわり申したまふ。
 
 と、ご判断申し上げなさる。
 
 
 

第三段 御方々の薫物

 
   このついでに、御方々の合はせたまふども、おのおの御使して、  この機会に、ご夫人方がご調合なさった薫物を、それぞれお使いを出して、
   「この夕暮れのしめりにこころみむ」  「今日の夕方の雨じめりに試してみよう」
   と聞こえたまへれば、さまざまをかしうしなして奉りたまへり。
 
 とお話申し上げなさっていたので、それぞれに趣向を凝らして差し上げなさった。
 
   「これ分かせたまへ。
 誰れにか見せむ」
 「これらをご判定ください。
 あなたでなくて誰に出来ましょう」
   と聞こえたまひて、御火取りども召して、こころみさせたまふ。
 
 と申し上げなさって、いくつもの御香炉を召して、お試しになる。
 
   「知る人にもあらずや」  「知る人というほどの者ではありませんが」
   と卑下したまへど、言ひ知らぬ匂ひどもの、進み遅れたる香一種などが、いささかの咎を分きて、あながちに劣りまさりのけぢめをおきたまふ。
 かのわが御二種のは、今ぞ取う出させたまふ。
 
 と謙遜なさるが、何とも言えない匂いの中で、香りの強い物や弱い物の一つなどが、わずかの欠点を識別して、強いて優劣の区別をお付けになる。
 あのご自分の二種の香は、今お取り出させになる。
 
   右近の陣の御溝水のほとりになずらへて、西の渡殿の下より出づる汀近う埋ませたまへるを、惟光の宰相の子の兵衛尉、堀りて参れり。
 宰相中将、取りて伝へ参らせたまふ。
 宮、
 右近の陣の御溝水の辺に埋める例に倣って、西の渡殿の下から湧き出る遣水の近くに埋めさせなさっていたのを、惟光の宰相の子の兵衛尉が、掘り出して参上した。
 宰相中将が、受け取って差し上げさせなさる。
 宮、
   「いと苦しき判者にも当たりてはべるかな。
 いと煙たしや」
 「とても難しい判者に任命されたものですね。
 とても煙たくて閉口しますよ」
   と、悩みたまふ。
 同じうこそは、いづくにも散りつつ広ごるべかめるを、人びとの心々に合はせたまへる、深さ浅さを、かぎあはせたまへるに、いと興あること多かり。
 
 と、お困りになる。
 同じのは、どこにでも伝わって広がっているようだが、それぞれの好みで調合なさった、深さ浅さを、聞き分けて御覧になると、とても興味深いものが数多かった。
 
   さらにいづれともなき中に、斎院の御黒方、さいへども、心にくくしづやかなる匂ひ、ことなり。
 侍従は、大臣の御は、すぐれてなまめかしうなつかしき香なりと定めたまふ。
 
 まったくどれと言えない香の中で、斎院の御黒方、そうは言っても、奥ゆかしく落ち着いた匂い、格別である。
 侍従の香は、大臣のその御香は、優れて優美でやさしい香りである、とご判定になさる。
 
   対の上の御は、三種ある中に、梅花、はなやかに今めかしう、すこしはやき心しつらひを添へて、めづらしき薫り加はれり。
 
 対の上の御香は、三種ある中で、梅花の香が、ぱっと明るくて当世風で、少し鋭く匂い立つように工夫を加えて、珍しい香りが加わっていた。
 
   「このころの風にたぐへむには、さらにこれにまさる匂ひあらじ」  「今頃の風に薫らせるには、まったくこれに優る匂いはあるまい」
   とめでたまふ。
 
 と賞美なさる。
 
   夏の御方には、人びとの、かう心々に挑みたまふなる中に、数々にも立ち出でずやと、煙をさへ思ひ消えたまへる御心にて、ただ荷葉を一種合はせたまへり。
 さま変はりしめやかなる香して、あはれになつかし。
 
 夏の御方におかれては、このようにご夫人方が思い思いに競争なさっている中で、人並みにもなるまいと、煙にさえお考えにならないご気性で、ただ荷葉の香を一種調合なさった。
 一風変わって、しっとりした香りで、しみじみと心惹かれる。
 
   冬の御方にも、時々によれる匂ひの定まれるに消たれむもあいなしと思して、薫衣香の方のすぐれたるは、前の朱雀院のをうつさせたまひて、公忠朝臣の、ことに選び仕うまつれりし百歩の方など思ひ得て、世に似ずなまめかしさを取り集めたる、心おきてすぐれたりと、いづれをも無徳ならず定めたまふを、  冬の御方におかれても、季節季節に基づいた香が決まっているから、負けるのもつまらないとお考えになって、薫衣香の調合法の素晴らしいのは、前の朱雀院のをお学びなさって、源公忠朝臣が、特別にお選び申した百歩の方などを思いついて、世間にない優美さを調合した、その考えが素晴らしいと、どれも悪い所がないように判定なさるのを、
   「心ぎたなき判者なめり」  「当たりさわりのない判者ですね」
   と聞こえたまふ。
 
 と申し上げなさる。
 
 
 

第四段 薫物合せ後の饗宴

 
   月さし出でぬれば、大御酒など参りて、昔の御物語などしたまふ。
 霞める月の影心にくきを、雨の名残の風すこし吹きて、花の香なつかしきに、御殿のあたり言ひ知らず匂ひ満ちて、人の御心地いと艶あり。
 
 月が出たので、御酒などをお召し上がりになって、昔のお話などをなさる。
 霞んでいる月の光が奥ゆかしいところに、雨上がりの風が少し吹いて、梅の花の香りが優しく薫り、御殿の辺りに何とも言いようもなく匂い満ちて、皆のお気持ちはとてもうっとりしている。
 
   蔵人所の方にも、明日の御遊びのうちならしに、御琴どもの装束などして、殿上人などあまた参りて、をかしき笛の音ども聞こゆ。
 
 蔵人所の方にも、明日の管弦の御遊の試演に、お琴類の準備などをして、殿上人などが大勢参上して、美しい幾種もの笛の音が聞こえて来る。
 
   内の大殿の頭中将、弁少将なども、見参ばかりにてまかづるを、とどめさせたまひて、御琴ども召す。
 
 内の大殿の頭中将、弁少将なども、挨拶だけで退出するのを、お止めさせになって、いくつも御琴をお取り寄せになる。
 
   宮の御前に琵琶、大臣に箏の御琴参りて、頭中将、和琴賜はりて、はなやかに掻きたてたるほど、いとおもしろく聞こゆ。
 宰相中将、横笛吹きたまふ。
 折にあひたる調子、雲居とほるばかり吹きたてたり。
 弁少将、拍子取りて、「梅が枝」出だしたるほど、いとをかし。
 童にて、韻塞ぎの折、「高砂」謡ひし君なり。
 宮も大臣もさしいらへしたまひて、ことことしからぬものから、をかしき夜の御遊びなり。
 
 宮の御前に琵琶、大臣に箏の御琴を差し上げて、頭中将は、和琴を賜って、賑やかに合奏なさっているのは、たいそう興趣深く聞こえる。
 宰相中将、横笛をお吹きになる。
 季節にあった調べを、雲居に響くほど吹き立てた。
 弁少将は拍子を取って、「梅が枝」を謡い出したところ、たいそう興味深い。
 子供の時、韻塞ぎの折に、「高砂」を謡った君である。
 宮も大臣も一緒にお謡いになって、仰々しくはないが、趣のある夜の管弦の催しである。
 
   御土器参るに、宮、  お杯をお勧めになる時に、宮が、
 

430
 「鴬の 声にやいとど あくがれむ
 心しめつる 花のあたりに
 「鴬の声にますます魂が抜け出しそうです
  心を惹かれた花の所では、
   千代も経ぬべし」  千年も過ごしてしまいそうです」
 
   と聞こえたまへば、  とお詠み申し上げなさると、
 

431
 「色も香も うつるばかりに この春は
 花咲く宿を かれずもあらなむ」
 「色艶も香りも移り染まるほどに、今年の春は
  花の咲くわたしの家を絶えず訪れて下さい」
 
   頭中将に賜へば、取りて、宰相中将にさす。
 
 頭中将におさずけになると、受けて、宰相中将に廻す。
 
 

432
 「鴬の ねぐらの枝も なびくまで
 なほ吹きとほせ 夜半の笛竹」
 「鴬のねぐらの枝もたわむほど
  夜通し笛の音を吹き澄まして下さい」
 
   宰相中将、  宰相中将は、

433
 「心ありて 風の避くめる 花の木に
 とりあへぬまで 吹きや寄るべき
 「気づかって風が避けて吹くらしい梅の花の木に
 むやみに近づいて笛を吹いてよいものでしょうか
 
   情けなく」  無風流ですね」
   と、皆うち笑ひたまふ。
 弁少将、
 と言うと、皆お笑いになる。
 弁少将は、
 

434
 「霞だに 月と花とを 隔てずは
 ねぐらの鳥も ほころびなまし」
 「霞でさえ月と花とを隔てなければ
  ねぐらに帰る鳥も鳴き出すことでしょう」
 
   まことに、明け方になりてぞ、宮帰りたまふ。
 御贈り物に、みづからの御料の御直衣の御よそひ一領、手触れたまはぬ薫物二壺添へて、御車にたてまつらせたまふ。
 宮、
 ほんとうに、明け方になって、宮はお帰りになる。
 御贈物に、ご自身の御料の御直衣のご装束一揃い、手をおつけになっていない薫物を二壷添えて、お車までお届けになる。
 宮は、
 

435
 「花の香を えならぬ袖に うつしもて
 ことあやまりと 妹やとがめむ」
 「この花の香りを素晴らしい袖に移して帰ったら
 女と過ちを犯したのではないかと妻が咎めるでしょう」
 
   とあれば、  と言うので、
   「いと屈したりや」  「たいそう弱気ですな」
   と笑ひたまふ。
 御車かくるほどに、追ひて、
 と言ってお笑いになる。
 お車に牛を繋ぐところに、追いついて、
 

436
 「めづらしと 故里人も 待ちぞ見む
 花の錦を 着て帰る君
 「珍しいと家の人も待ち受けて見ましょう
  この花の錦を着て帰るあなたを
 
   またなきことと思さるらむ」  めったにないこととお思いになるでしょう」
   とあれば、いといたうからがりたまふ。
 次々の君達にも、ことことしからぬさまに、細長、小袿などかづけたまふ。
 
 とおっしゃるので、とてもつらがりなさる。
 以下の公達にも、大げさにならないようにして、細長、小袿などをお与えになる。
 
 
 

第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の裳着

 
 

第一段 明石の姫君の裳着

 
   かくて、西の御殿に、戌の時に渡りたまふ。
 宮のおはします西の放出をしつらひて、御髪上の内侍なども、やがてこなたに参れり。
 上も、このついでに、中宮に御対面あり。
 御方々の女房、押しあはせたる、数しらず見えたり。
 
 こうして、西の御殿に、戌の刻にお渡りになる。
 中宮のいらっしゃる西の放出を整備して、御髪上の内侍なども、そのままこちらに参上した。
 紫の上も、この機会に、中宮にご対面なさる。
 お二方の女房たちが、一緒に来合わせているのが、数えきれないほど見えた。
 
   子の時に御裳たてまつる。
 大殿油ほのかなれど、御けはひいとめでたしと、宮は見たてまつれたまふ。
 大臣、
 子の刻に御裳をお召しになる。
 大殿油は微かであるが、御器量がまことに素晴らしいと、中宮はご拝見あそばす。
 大臣は、
   「思し捨つまじきを頼みにて、なめげなる姿を、進み御覧ぜられはべるなり。
 後の世のためしにやと、心狭く忍び思ひたまふる」
 「お見捨てになるまいと期待して、失礼な姿を、進んでお目にかけたのでございます。
 後世の前例になろうかと、狭い料簡から密かに考えております」
   など聞こえたまふ。
 宮、
 などと申し上げなさる。
 中宮、
   「いかなるべきこととも思うたまへ分きはべらざりつるを、かうことことしうとりなさせたまふになむ、なかなか心おかれぬべく」  「どのようなこととも判断せず致したことを、このように大層におっしゃって戴きますと、かえって気が引けてしまいます」
   と、のたまひ消つほどの御けはひ、いと若く愛敬づきたるに、大臣も、思すさまにをかしき御けはひどもの、さし集ひたまへるを、あはひめでたく思さる。
 母君の、かかる折だにえ見たてまつらぬを、いみじと思へりしも心苦しうて、参う上らせやせましと思せど、人のもの言ひをつつみて、過ぐしたまひつ。
 
 と、否定しておっしゃる御様子、とても若々しく愛嬌があるので、大臣も、理想通りに立派なご様子の婦人方が、集まっていらっしゃるのを、お互いの間柄も素晴らしいとお思いになる。
 母君が、このような機会でさえお目にかかれないのを、たいそう辛い事と思っているのも気の毒なので、参列させようかしらと、お考えになるが、世間の悪口を慮って、見送った。
 
   かかる所の儀式は、よろしきにだに、いとこと多くうるさきを、片端ばかり、例のしどけなくまねばむもなかなかにやとて、こまかに書かず。
 
 このような邸での儀式は、まあまあのものでさえ、とても煩雑で面倒なのだが、一部分だけでも、例によってまとまりなくお伝えするのも、かえってどうかと思い、詳細には書かない。
 
 
 

第二段 明石の姫君の入内準備

 
   春宮の御元服は、二十余日のほどになむありける。
 いと大人しくおはしませば、人の女ども競ひ参らすべきことを、心ざし思すなれど、この殿の思しきざすさまの、いとことなれば、なかなかにてや交じらはむと、左の大臣なども、思しとどまるなるを聞こしめして、
 春宮の御元服は、二十日過ぎの頃に行われたのであった。
 たいそう大人でおいであそばすので、人々が娘たちを競争して入内させることを、希望していらっしゃるというが、この殿がご希望していらっしゃる様子が、まことに格別なので、かえって中途半端な宮仕えはしないほうがましだと、左大臣なども、お思い留まりになっているということをお耳になさって、
   「いとたいだいしきことなり。
 宮仕への筋は、あまたあるなかに、すこしのけぢめを挑まむこそ本意ならめ。
 そこらの警策の姫君たち、引き籠められなば、世に映えあらじ」
 「じつにもってのほかのことだ。
 宮仕えの趣旨は、大勢いる中で、僅かの優劣の差を競うのが本当だろう。
 たくさんの優れた姫君たちが、家に引き籠められたならば、何ともおもしろくないだろう」
   とのたまひて、御参り延びぬ。
 次々にもとしづめたまひけるを、かかるよし所々に聞きたまひて、左大臣殿の三の君参りたまひぬ。
 麗景殿と聞こゆ。
 
 とおっしゃって、御入内が延期になった。
 その次々にもと差し控えていらっしゃったが、このようなことをあちこちでお聞きになって、左大臣の三の君がご入内なさった。
 麗景殿女御と申し上げる。
 
   この御方は、昔の御宿直所、淑景舎を改めしつらひて、御参り延びぬるを、宮にも心もとながらせたまへば、四月にと定めさせたまふ。
 御調度どもも、もとあるよりもととのへて、御みづからも、ものの下形、絵様などをも御覧じ入れつつ、すぐれたる道々の上手どもを召し集めて、こまかに磨きととのへさせたまふ。
 
 こちらの御方は、昔の御宿直所の、淑景舎を改装して、ご入内が延期になったのを、春宮におかれても待ち遠しくお思いあそばすので、四月にとお決めあそばす。
 ご調度類も、もとからあったのを整えて、御自身でも、道具類の雛形や図案などを御覧になりながら、優れた諸道の専門家たちを呼び集めて、こまかに磨きお作らせになる。
 
   草子の筥に入るべき草子どもの、やがて本にもしたまふべきを選らせたまふ。
 いにしへの上なき際の御手どもの、世に名を残したまへるたぐひのも、いと多くさぶらふ。
 
 冊子の箱に入れるべき冊子類を、そのまま手本になさることのできるのを選ばせなさる。
 昔のこの上もない名筆家たちが、後世にお残しになった筆跡類も、たいそうたくさんある。
 
 
 

第三段 源氏の仮名論議

 
   「よろづのこと、昔には劣りざまに、浅くなりゆく世の末なれど、仮名のみなむ、今の世はいと際なくなりたる。
 古き跡は、定まれるやうにはあれど、広き心ゆたかならず、一筋に通ひてなむありける。
 
 「すべての事が、昔に比べて劣って、浅くなって行く末世だが、仮名だけは、現代は際限もなく発達したものだ。
 昔の字は、筆跡が定まっているようではあるが、ゆったりした感じがあまりなくて、一様に似通った書法であった。
 
   妙にをかしきことは、外よりてこそ書き出づる人びとありけれど、女手を心に入れて習ひし盛りに、こともなき手本多く集へたりしなかに、中宮の母御息所の、心にも入れず走り書いたまへりし一行ばかり、わざとならぬを得て、際ことにおぼえしはや。
 
 見事で上手なものは、近頃になって書ける人が出て来たが、平仮名を熱心に習っていた最中に、特に難点のない手本を数多く集めていた中で、中宮の母御息所が何気なくさらさらとお書きになった一行ほどの、無造作な筆跡を手に入れて、格段に優れていると感じたものです。
 
   さて、あるまじき御名も立てきこえしぞかし。
 悔しきことに思ひしみたまへりしかど、さしもあらざりけり。
 宮にかく後見仕うまつることを、心深うおはせしかば、亡き御影にも見直したまふらむ。
 
 そういうことで、とんでもない浮名までもお流し申してしまったことよ。
 残念なことと思い込んでいらっしゃったが、それほど薄情ではなかったのだ。
 中宮にこのように御後見申し上げていることを、思慮深くいらっしゃったので、亡くなった後にも見直して下さることだろう。
 
   宮の御手は、こまかにをかしげなれど、かどや後れたらむ」  中宮の御筆跡は、こまやかで趣はあるが、才気は少ないようだ」
   と、うちささめきて聞こえたまふ。
 
 と、ひそひそと申し上げなさる。
 
   「故入道宮の御手は、いとけしき深うなまめきたる筋はありしかど、弱きところありて、にほひぞすくなかりし。
 
 「故入道宮の御筆跡は、たいそう深味もあり優美な手の筋はおありだったが、なよなよした点があって、はなやかさが少なかった。
 
   院の尚侍こそ、今の世の上手におはすれど、あまりそぼれて癖ぞ添ひためる。
 さはありとも、かの君と、前斎院と、ここにとこそは、書きたまはめ」
 朱雀院の尚侍は、当代の名人でいらっしゃるが、あまりにしゃれすぎて欠点があるよだ。
 そうは言っても、あの尚侍君と、前斎院と、あなたは、上手な方だと思う」
   と、聴しきこえたまへば、  と、お認め申し上げなさるので、
   「この数には、まばゆくや」  「この方々に仲間入りするのは、恥ずかしいですわ」
   と聞こえたまへば、  と申し上げなさると、
   「いたうな過ぐしたまひそ。
 にこやかなる方のなつかしさは、ことなるものを。
 真名のすすみたるほどに、仮名はしどけなき文字こそ混じるめれ」
 「ひどく謙遜なさってはいけません。
 柔和という点の好ましさは、格別なものですよ。
 漢字が上手になってくると、仮名は整わない文字が交るようですがね」
   とて、まだ書かぬ草子ども作り加へて、表紙、紐などいみじうせさせたまふ。
 
 とおっしゃって、まだ書写してない冊子類を作り加えて、表紙や、紐など、たいへん立派にお作らせになる。
 
   「兵部卿宮、左衛門督などにものせむ。
 みづから一具は書くべし。
 けしきばみいますがりとも、え書き並べじや」
 「兵部卿宮、左衛門督などに書いてもらおう。
 わたし自身も二帖は書こう。
 いくら自信がおありでも、並ばないことはあるまい」
   と、われぼめをしたまふ。
 
 と、自賛なさる。
 
 
 

第四段 草子執筆の依頼

 
   墨、筆、並びなく選り出でて、例の所々に、ただならぬ御消息あれば、人びと、難きことに思して、返さひ申したまふもあれば、まめやかに聞こえたまふ。
 高麗の紙の薄様だちたるが、せめてなまめかしきを、
 墨、筆、最上の物を選び出して、いつもの方々に、特別のご依頼のお手紙があると、方々は、難しいこととお思いになって、ご辞退申し上げなさる方もあるので、懇ろにご依頼申し上げなさる。
 高麗の紙の薄様風なのが、はなはだ優美なのを、
   「この、もの好みする若き人びと、試みむ」  「あの、風流好みの若い人たちを、試してみよう」
   とて、宰相中将、式部卿宮の兵衛督、内の大殿の頭中将などに、  とおっしゃって、宰相中将、式部卿宮の兵衛督、内の大殿の頭中将などに、
   「葦手、歌絵を、思ひ思ひに書け」  「葦手、歌絵を、各自思い通りに書きなさい」
   とのたまへば、皆心々に挑むべかめり。
 
 とおっしゃると、皆それぞれ工夫して競争しているようである。
 
   例の寝殿に離れおはしまして書きたまふ。
 花ざかり過ぎて、浅緑なる空うららかなるに、古き言どもなど思ひすましたまひて、御心のゆく限り、草のも、ただのも、女手も、いみじう書き尽くしたまふ。
 
 いつもの寝殿に独り離れていらっしゃってお書きになる。
 花盛りは過ぎて、浅緑色の空がうららかなので、いろいろ古歌などを心静かに考えなさって、ご満足のゆくまで、草仮名も、普通の仮名も、女手も、たいそう見事にこの上なくお書きになる。
 
   御前に人しげからず、女房二、三人ばかり、墨など擦らせたまひて、ゆゑある古き集の歌など、いかにぞやなど選り出でたまふに、口惜しからぬ限りさぶらふ。
 
 御前に人は多くいず、女房が二、三人ほどで、墨などをお擦らせになって、由緒ある古い歌集の歌など、どんなものだろうかなどと、選び出しなさるので、相談相手になれる人だけが伺候している。
 
   御簾上げわたして、脇息の上に草子うち置き、端近くうち乱れて、筆の尻くはへて、思ひめぐらしたまへるさま、飽く世なくめでたし。
 白き赤きなど、掲焉なる枚は、筆とり直し、用意したまへるさまさへ、見知らむ人は、げにめでぬべき御ありさまなり。
 
 御簾を上げ渡して、脇息の上に冊子をちょっと置いて、端近くに寛いだ姿で、筆の尻をくわえて、考えめぐらしていらっしゃる様子、いつまでも見飽きない美しさである。
 白や赤などの、はっきりした色の紙は、筆を取り直して、注意してお書きになっていらっしゃる様子までが、情趣を解せる人は、なるほど感心せずにはいられないご様子である。
 
 
 

第五段 兵部卿宮、草子を持参

 
   「兵部卿宮渡りたまふ」と聞こゆれば、おどろきて、御直衣たてまつり、御茵参り添へさせたまひて、やがて待ち取り、入れたてまつりたまふ。
 この宮もいときよげにて、御階さまよく歩み昇りたまふほど、内にも人びとのぞきて見たてまつる。
 うちかしこまりて、かたみにうるはしだちたまへるも、いときよらなり。
 
 「兵部卿宮がお越しになりました」と申し上げたので、驚いて御直衣をお召しになって、御敷物を持って来させなさって、そのまま待ち受けて、お入れ申し上げなさる。
 この宮もたいそう美しくて、御階を体裁よく歩いて上がっていらっしゃるところを、御簾の中からも女房たちが覗いて拝見する。
 丁重に挨拶して、お互いに威儀を正していらっしゃるのも、たいそう美しい。
 
   「つれづれに籠もりはべるも、苦しきまで思うたまへらるる心ののどけさに、折よく渡らせたまへる」  「することもなく邸に籠もっておりますのも、辛く存じられますこの頃ののんびりとした折に、ちょうどよくお越し下さいました」
   と、よろこびきこえたまふ。
 かの御草子待たせて渡りたまへるなりけり。
 やがて御覧ずれば、すぐれてしもあらぬ御手を、ただかたかどに、いといたう筆澄みたるけしきありて書きなしたまへり。
 歌も、ことさらめき、そばみたる古言どもを選りて、ただ三行ばかりに、文字少なに好ましくぞ書きたまへる。
 大臣、御覧じ驚きぬ。
 
 と、歓迎申し上げなさる。
 あの御依頼の冊子を持たせてお越しになったのであった。
 その場で御覧になると、たいして上手でもないご筆跡を、ただ一本調子に、たいそう垢抜けした感じにお書きになってある。
 和歌も、技巧を凝らして、風変わりな古歌を選んで、わずか三行ほどに、文字を少なくして好ましく書いていらっしゃった。
 大臣、御覧になって驚いた。
 
   「かうまでは思ひたまへずこそありつれ。
 さらに筆投げ捨てつべしや」
 「こんなにまで上手にお書きになるとは存じませんでした。
 まったく筆を投げ出してしまいたいほどですね」
   と、ねたがりたまふ。
 
 と、悔しがりなさる。
 
   「かかる御中に面なくくだす筆のほど、さりともとなむ思うたまふる」  「このような名手の中で臆面もなく書く筆跡の具合は、いくら何でもさほどまずくはないと存じます」
   など、戯れたまふ。
 
 などと、冗談をおっしゃる。
 
   書きたまへる草子どもも、隠したまふべきならねば、取う出たまひて、かたみに御覧ず。
 
 お書きになった冊子類を、お隠しすべきものでもないので、お取り出しになって、お互いに御覧になる。
 
   唐の紙の、いとすくみたるに、草書きたまへる、すぐれてめでたしと見たまふに、高麗の紙の、肌こまかに和うなつかしきが、色などははなやかならで、なまめきたるに、おほどかなる女手の、うるはしう心とどめて書きたまへる、たとふべきかたなし。
 
 唐の紙で、たいそう堅い材質に、草仮名をお書きになっている、まことに結構であると、御覧になると、高麗の紙で、きめが細かで柔らかく優しい感じで、色彩などは派手でなく、優美な感じのする紙に、おっとりした女手で、整然と心を配って、お書きになっている、喩えようもない。
 
   見たまふ人の涙さへ、水茎に流れ添ふ心地して、飽く世あるまじきに、また、ここの紙屋の色紙の、色あひはなやかなるに、乱れたる草の歌を、筆にまかせて乱れ書きたまへる、見所限りなし。
 しどろもどろに愛敬づき、見まほしければ、さらに残りどもに目も見やりたまはず。
 
 御覧になる方の涙までが、筆跡に沿って流れるような感じがして、見飽きることのなさそうなところへ、さらに、わが国の紙屋院の色紙の、色合いが派手なのに、乱れ書きの草仮名の和歌を、筆にまかせて散らし書きになさったのは、見るべき点が尽きないほどである。
 型にとらわれず自在に愛嬌があって、ずっと見ていたい気がしたので、他の物にはまったく目もおやりにならない。
 
 
 

第六段 他の人々持参の草子

 
   左衛門督は、ことことしうかしこげなる筋をのみ好みて書きたれど、筆の掟て澄まぬ心地して、いたはり加へたるけしきなり。
 歌なども、ことさらめきて、選り書きたり。
 
 左衛門督は、仰々しくえらそうな書風ばかりを好んで書いているが、筆法の垢抜けしない感じで、技巧を凝らした感じである。
 和歌なども、わざとらしい選び方をして書いていた。
 
   女の御は、まほにも取り出でたまはず。
 斎院のなどは、まして取う出たまはざりけり。
 葦手の草子どもぞ、心々にはかなうをかしき。
 
 女君たちのは、そっくりお見せにならない。
 斎院のなどは、言うまでもなく取り出しなさらないのであった。
 葦手の冊子類が、それぞれに何となく趣があった。
 
   宰相中将のは、水の勢ひ豊に書きなし、そそけたる葦の生ひざまなど、難波の浦に通ひて、こなたかなたいきまじりて、いたう澄みたるところあり。
 また、いといかめしう、ひきかへて、文字やう、石などのたたずまひ、好み書きたまへる枚もあめり。
 
 宰相中将のは、水の勢いを豊富に書いて、乱れ生えている葦の様子など、難波の浦に似ていて、あちこちに入り混じって、たいそうすっきりした所がある。
 また、たいそう大仰に趣を変えて、字体、石などの様子、風流にお書きになった紙もあるようだ。
 
   「目も及ばず。
 これは暇いりぬべきものかな」
 「目も及ばぬ素晴らしさだ。
 これは手間のかかったにちがいない代物だね」
   と、興じめでたまふ。
 何事ももの好みし、艶がりおはする親王にて、いといみじうめできこえたまふ。
 
 と、興味深くお誉めになる。
 どのようなことにも趣味を持って、風流がりなさる親王なので、とてもたいそうお誉め申し上げなさる。
 
 
 

第七段 古万葉集と古今和歌集

 
   今日はまた、手のことどものたまひ暮らし、さまざまの継紙の本ども、選り出でさせたまへるついでに、御子の侍従して、宮にさぶらふ本ども取りに遣はす。
 
 今日はまた、書のことなどを一日中お話しになって、いろいろな継紙をした手本を、何巻かお選び出しになった機会に、御子息の侍従をして、宮邸に所蔵の手本類を取りにおやりになる。
 
   嵯峨の帝の、『古万葉集』を選び書かせたまへる四巻、延喜の帝の、『古今和歌集』を、唐の浅縹の紙を継ぎて、同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、緞の唐組の紐など、なまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじう書き尽くさせたまへる、大殿油短く参りて御覧ずるに、  嵯峨の帝が、『古万葉集』を選んでお書かせあそばした四巻。
 延喜の帝が、『古今和歌集』を、唐の浅縹の紙を継いで、同じ色の濃い紋様の綺の表紙、同じ玉の軸、だんだら染に組んだ唐風の組紐など、優美で、巻ごとに御筆跡の書風を変えながら、あらん限りの書の美をお書き尽くしあそばしたのを、大殿油を低い台に燈して御覧になると、
   「尽きせぬものかな。
 このころの人は、ただかたそばをけしきばむにこそありけれ」
 「いつまで見ていても見飽きないものだ。
 最近の人は、ただ部分的に趣向を凝らしているだけにすぎない」
   など、めでたまふ。
 やがてこれはとどめたてまつりたまふ。
 
 などと、お誉めになる。
 そのままこれらはこちらに献上なさる。
 
   「女子などを持てはべらましにだに、をさをさ見はやすまじきには伝ふまじきを、まして、朽ちぬべきを」  「女の子などを持っていましたにしても、たいして見る目を持たない者には、伝えたくないのですが、まして、埋もれてしまいますから」
   など聞こえてたてまつれたまふ。
 侍従に、唐の本などのいとわざとがましき、沈の筥に入れて、いみじき高麗笛添へて、奉れたまふ。
 
 などと申し上げて差し上げなさる。
 侍従に、唐の手本などの特に念入りに書いてあるのを、沈の箱に入れて、立派な高麗笛を添えて、差し上げなさる。
 
   またこのころは、ただ仮名の定めをしたまひて、世の中に手書くとおぼえたる、上中下の人びとにも、さるべきものども思しはからひて、尋ねつつ書かせたまふ。
 この御筥には、立ち下れるをば混ぜたまはず、わざと、人のほど、品分かせたまひつつ、草子、巻物、皆書かせたてまつりたまふ。
 
 またこの頃は、ひたすら仮名の論評をなさって、世間で能書家だと聞こえた、上中下の人々にも、ふさわしい内容のものを見計らって、探し出してお書かせになる。
 この御箱には、身分の低い者のはお入れにならず、特別に、その人の家柄や、地位を区別なさりなさり、冊子、巻物、すべてお書かせ申し上げなさる。
 
   よろづにめづらかなる御宝物ども、人の朝廷までありがたげなる中に、この本どもなむ、ゆかしと心動きたまふ若人、世に多かりける。
 御絵どもととのへさせたまふ中に、かの『須磨の日記』は、末にも伝へ知らせむと思せど、「今すこし世をも思し知りなむに」と思し返して、まだ取り出でたまはず。
 
 何もかも珍しい御宝物類、外国の朝廷でさえめったにないような物の中で、この何冊かの本を見たいと心を動かしなさる若い人たちが、世間に多いことであった。
 御絵画類をご準備なさる中で、あの『須磨の日記』は、子孫代々に伝えたいとお思いになるが、「もう少し世間がお分りになったら」とお思い返しなさって、まだお取り出しなさらない。
 
 
 

第三章 内大臣家の物語 夕霧と雲居雁の物語

 
 

第一段 内大臣家の近況

 
   内の大臣は、この御いそぎを、人の上にて聞きたまふも、いみじう心もとなく、さうざうしと思す。
 姫君の御ありさま、盛りにととのひて、あたらしううつくしげなり。
 つれづれとうちしめりたまへるほど、いみじき御嘆きぐさなるに、かの人の御けしき、はた、同じやうになだらかなれば、「心弱く進み寄らむも、人笑はれに、人のねむごろなりしきざみに、なびきなましかば」など、人知れず思し嘆きて、一方に罪をもおほせたまはず。
 
 内大臣は、この入内の御準備を、他人事としてお聞きになるが、たいそう気が気でなく、つまらないとお思いになる。
 姫君のご様子、女盛りに成長して、もったいないほどにかわいらしい。
 所在なげに塞ぎ込んでいらっしゃる様子は、たいへんなお嘆きの種であるが、あの方のご様子は、どうかといえば、いつも変わらず平気なので、「弱気になってこちらから歩み寄るようなのも、体裁が悪いし、相手が夢中だった時に、言うことを聞いていたら」などと、一人お嘆きになって、一途に悪いと責めることもおできになれない。
 
   かくすこしたわみたまへる御けしきを、宰相の君は聞きたまへど、しばしつらかりし御心を憂しと思へば、つれなくもてなし、しづめて、さすがに他ざまの心はつくべくもおぼえず、心づから戯れにくき折多かれど、「浅緑」聞こえごちし御乳母どもに、納言に昇りて見えむの御心深かるべし。
 
 このように少し弱気になられたご様子を、宰相の君はお聞きになるが、ひところ冷たかったお心を酷いと思うと、平気を装い、落ち着いた態度で、そうはいっても他の女をという考えお持ちにならず、自分から求めてやるせない思いをする時は多いが、「浅緑の六位」と申して馬鹿にした御乳母どもに、中納言に昇進した姿を見せてやろうとのお気持ちが強いのであろう。
 
 
 

第二段 源氏、夕霧に結婚の教訓

 
   大臣は、「あやしう浮きたるさまかな」と、思し悩みて、  大臣は、「妙に身の固まらないことだ」と、ご心配になって、
   「かのわたりのこと、思ひ絶えにたらば、右大臣、中務宮などの、けしきばみ言はせたまふめるを、いづくも思ひ定められよ」  「あちらの姫君のこと、思い切ってしまったら、右大臣、中務宮などが娘を縁づけたいご意向であるらしいから、どちらなりともお決めなさい」
   とのたまへど、ものも聞こえたまはず、かしこまりたる御さまにてさぶらひたまふ。
 
 とおっしゃるが、何ともお返事申し上げず、恐縮したご様子で伺候していらっしゃる。
 
   「かやうのことは、かしこき御教へにだに従ふべくもおぼえざりしかば、言まぜま憂けれど、今思ひあはするには、かの御教へこそ、長き例にはありけれ。
 
 「このようなことは、恐れ多い父帝の御教訓でさえ従おうという気にもならなかったのだから、口をさしはさみにくいが、今考えてみると、あの御教訓こそは、今にも通じるものであった。
 
   つれづれとものすれば、思ふところあるにやと、世人も推し量るらむを、宿世の引く方にて、なほなほしきことにありありてなびく、いと尻びに、人悪ろきことぞや。
 
 所在なく独身でいると、何か考えがあるのかと、世間の人も推量するであろうから、運命の導くままに、平凡な身分の女との結婚に結局落ち着くことになるのは、たいそう尻すぼまりで、みっともないことだ。
 
   いみじう思ひのぼれど、心にしもかなはず、限りのあるものから、好き好きしき心つかはるな。
 いはけなくより、宮の内に生ひ出でて、身を心にまかせず、所狭く、いささかの事のあやまりもあらば、軽々しきそしりをや負はむと、つつみしだに、なほ好き好きしき咎を負ひて、世にはしたなめられき。
 
 ひどく高望みしても、思うようにならず、限界があることから、浮気心を起こされるな。
 幼い時から宮中で成人して、思い通りに動けず、窮屈に、ちょっとした過ちもあったら、軽率の非難を受けようかと、慎重にしていたのでさえ、それでもやはり好色がましい非難を受けて、世間から非難されたものだ。
 
   位浅く、何となき身のほど、うちとけ、心のままなる振る舞ひなどものせらるな。
 心おのづからおごりぬれば、思ひしづむべきくさはひなき時、女のことにてなむ、かしこき人、昔も乱るる例ありける。
 
 位階が低く、気楽な身分だからと、油断して、思いのままの行動などなさるな。
 心が自然と思い上がってしまうと、好色心を抑えるべき妻子がいない時、女性関係のことで、賢明な人が、昔も失敗した例があったのだ。
 
   さるまじきことに心をつけて、人の名をも立て、みづからも恨みを負ふなむ、つひのほだしとなりける。
 とりあやまりつつ見む人の、わが心にかなはず、忍ばむこと難き節ありとも、なほ思ひ返さむ心をならひて、もしは親の心にゆづり、もしは親なくて世の中かたほにありとも、人柄心苦しうなどあらむ人をば、それを片かどに寄せても見たまへ。
 わがため、人のため、つひによかるべき心ぞ深うあるべき」
 けしからぬことに熱中して、相手の浮名を立て、自分も恨まれるのは、後世の妨げとなるのだ。
 結婚に失敗したと思いながら共に暮らしている相手が、自分の理想通りでなく、我慢することのできない点があっても、やはり思い直す気を持って、もしくは女の親の心に免じて、もしくは親がいなくなって生活が不十分であっても、人柄がいじらしく思われるような人は、その人柄一つを取柄としてお暮らしなさい。
 自分のため、相手のため、末長く添い遂げるような思慮が深くあって欲しいものだ」
   など、のどやかにつれづれなる折は、かかる御心づかひをのみ教へたまふ。
 
 などと、のんびりとした所在のない時は、このような心づかいをしきりにお教えになる。
 
 
 

第三段 夕霧と雲居の雁の仲

 
   かやうなる御諌めにつきて、戯れにても他ざまの心を思ひかかるは、あはれに、人やりならずおぼえたまふ。
 女も、常よりことに、大臣の思ひ嘆きたまへる御けしきに、恥づかしう、憂き身と思し沈めど、上はつれなくおほどかにて、眺め過ぐしたまふ。
 
 このようなご教訓に従って、冗談にも他の女に心を移すようなことは、かわいそうなことだと、自分からお思いになっている。
 女も、いつもより格別に、大臣が思い嘆いていらっしゃるご様子に、顔向けのできない思いで、つらい身の上と悲観していらっしゃるが、表面はさりげなくおっとりとして、物思いに沈んでお過ごしになっている。
 
   御文は、思ひあまりたまふ折々、あはれに心深きさまに聞こえたまふ。
 「誰がまことをか」と思ひながら、世馴れたる人こそ、あながちに人の心をも疑ふなれ、あはれと見たまふふし多かり。
 
 お手紙は、我慢しきれない時々に、しみじみと深い思いをこめて書いて差し上げなさる。
 「誰の誠実を信じたらよいのか」と思いながら、男を知っている女ならば、むやみに男の心を疑うであろうが、しみじみと御覧になる文句が多いのであった。
 
   「中務宮なむ、大殿にも御けしき賜はりて、さもやと、思し交はしたなる」  「中務宮が、大殿のご内意をも伺って、そのようにもと、お約束なさっているそうです」
   と人の聞こえければ、大臣は、ひき返し御胸ふたがるべし。
 忍びて、
 と女房が申し上げたので、大臣は、改めてお胸がつぶれることであろう。
 こっそりと、
   「さることをこそ聞きしか。
 情けなき人の御心にもありけるかな。
 大臣の、口入れたまひしに、執念かりきとて、引き違へたまふなるべし。
 心弱くなびきても、人笑へならましこと」
 「こういうことを聞いた。
 薄情なお心の方であったな。
 大臣が、口添えなさったのに、強情だというので、他へ持って行かれたのだろう。
 気弱になって降参しても、人に笑われることだろうし」
   など、涙を浮けてのたまへば、姫君、いと恥づかしきにも、そこはかとなく涙のこぼるれば、はしたなくて背きたまへる、らうたげさ限りなし。
 
 などと、涙を浮かべておっしゃるので、姫君、とても顔も向けられない思いでいるにも、何とはなしに涙がこぼれるので、体裁悪く思って後ろを向いていらっしゃる、そのかわいらしさ、この上もない。
 
   「いかにせまし。
 なほや進み出でて、けしきをとらまし」
 「どうしよう。
 やはりこちらから申し出て、先方の意向を聞いてみようか」
   など、思し乱れて立ちたまひぬる名残も、やがて端近う眺めたまふ。
 
 などと、お気持ちも迷ってお立ちになった後も、そのまま端近くに物思いに沈んでいらっしゃる。
 
   「あやしく、心おくれても進み出でつる涙かな。
 いかに思しつらむ」
 「妙に、思いがけず流れ出てしまった涙だこと。
 どのようにお思いになったかしら」
   など、よろづに思ひゐたまへるほどに、御文あり。
 さすがにぞ見たまふ。
 こまやかにて、
 などと、あれこれと思案なさっているところに、お手紙がある。
 それでもやはり御覧になる。
 愛情のこもったお手紙で、
 

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 「つれなさは 憂き世の常に なりゆくを
 忘れぬ人や 人にことなる」
 「あなたの冷たいお心は、つらいこの世の習性となって行きますが
  それでも忘れないわたしは世間の人と違っているのでしょうか」
 
   とあり。
 「けしきばかりもかすめぬ、つれなさよ」と、思ひ続けたまふは憂けれど、
 とある。
 「そぶりにも仄めかさない、冷たいお方だわ」と、思い続けなさるのはつらいけれども、
 

438
 「限りとて 忘れがたきを 忘るるも
 こや世になびく 心なるらむ」
 「もうこれまでだと、忘れないとおっしゃるわたしのことを忘れるのは
  あなたのお心もこの世の習性の人心なのでしょう」
 
   とあるを、「あやし」と、うち置かれず、傾きつつ見ゐたまへり。
 
 とあるのを、「妙だな」と、下にも置かれず、首をかしげながらじっと座ったまま手紙を御覧になっていた。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 梅の花立ち寄るばかりありしより人の咎むる香にぞ染みぬる(古今集春上-三五 読人しらず)(戻)  
  出典2 君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る(古今集春上-三八 紀友則)(戻)  
  出典3 花の香を風の便りにたぐへてぞ鴬誘ふしるべにはやる(古今集春上-一三 紀友則)(戻)  
  出典4 梅が枝に 来居る鴬 や 春かけて はれ 春かけて 鳴けどもいまだ や 雪は降りつつ あはれ そこよしや 雪は降りつつ(催馬楽-梅が枝)(戻)  
  出典5 いつまでか野辺に心のあくがれむ花し散らずは千代も経ぬべし(古今集春下-九六 素性法師)(戻)  
  出典6 亡き人の書きとどめけむ水茎はうち見るよりぞ流れそめける(歌仙家集本伊勢集-三八五)亡き人の影だに見えぬ遣水の底は涙に流してぞ来し(後撰集哀傷-一四〇二 伊勢)(戻)  
  出典7 まめなれど良き名も立たず刈萱のいざ乱れなむしどろもどろに(古今六帖六-三七八五)(戻)  
  出典8 ありぬやと心見がてらあひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき(古今集俳諧-一〇二五 読人しらず)(戻)  
  出典9 葦根這ふ憂きは上こそつれなけれ下はえならず思ふ心を(拾遺集恋四-八九三 読人しらず)(戻)  
  出典10 偽りと思ふものから今さらに誰が真をか我は頼まむ(古今集恋四-七一三 読人しらず)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 承和--そうわう(そうわう/$承和)(戻)  
  校訂2 御あらそひ--御あらひ(ひ/$<朱>)そひ(戻)  
  校訂3 かのこと、と--かの(の/+ことゝ<朱>)(戻)  
  校訂4 たまふる--給(給/+る<朱>)頼(頼/$<朱>)(戻)  
  校訂5 埋ませ--うつさ(さ/$ま)せ(戻)  
  校訂6 御は--御(御/+は)(戻)  
  校訂7 箏の--さう(う/+の)(戻)  
  校訂8 いと--(/+いと<朱>)(戻)  
  校訂9 追ひて--せ(せ/$を)いて(戻)  
  校訂10 左大臣殿の--*左大臣殿(戻)  
  校訂11 聞こゆ--*きこゆる(戻)  
  校訂12 兵部卿宮--兵部卿の宮の(の/$)(戻)  
  校訂13 浅緑--あさみとか(か/$り<朱>)(戻)  
  校訂14 げに--(/+けに)(戻)  
  校訂15 たまふる--たも(も/$ま)ふる(戻)  
  校訂16 いと--(/+いと<朱>)(戻)  
  校訂17 心に--(/=心に)(戻)  
  校訂18 ものせ--(/=物)せ(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。