源氏物語 39帖 夕霧:あらすじ・目次・原文対訳

鈴虫 源氏物語
第二部
第39帖
夕霧
御法

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 夕霧のあらすじ

 光源氏50歳、夕霧29歳の八月中旬から冬にかけての話。

 柏木〔かつての頭中将の子。源氏の妻・女三宮と密通し薫を生ませ源氏の不興をかい、心痛で死亡〕の未亡人落葉の宮は、母一条御息所の病気加持のために小野の山荘に移っていた。宮に恋心を募らせていた夕霧〔源氏と葵の子〕は、八月の中ごろに御息所の見舞いを口実に小野を訪れる。折からの霧にかこつけて宮に宿を求めた夕霧は、拒み続ける宮の傍らで積年の思いを訴え続けるが、思いはかなわぬままに夜は明ける。

 祈祷の律師から夕霧が宮の元で一夜を明かし朝帰りしたと聞き驚いた御息所は、真情を確かめるべく病をおして夕霧に文を認める。

 女郎花しをるる野辺をいずことて 一夜ばかりの宿をかりけむ

 文を書き終えた直後、御息所は危篤状態に陥ってしまう。

 御息所からの文が夕霧の元へ届いたが、それを北の方の雲居の雁が取り上げ隠してしまう。

 翌朝。ようやく文を見つけたが、夕霧は文に認められた歌を見て「宮を弄んだ」と誤解された事を悟る。夕霧の返事は遅れに遅れ、御息所は心労のあまり急死してしまう。突然の訃報を受け夕霧は葬儀全般の世話をするが、落葉の宮は母の死は彼のせいと恨み心を開こうとはしなかった。

 落葉の宮はこのまま山荘に残り出家したいと思ったが、父朱雀院から「女三宮も出家したばかり。姫宮たちが競うように出家するのは…」と窘められる内容の文が届き、落ち込む。夕霧によって強引に本邸の一条宮に連れ戻された。世間では二人の仲は既に公然のものとなっており、その状況に宮は戸惑う。

 夕霧は養母の花散里から事情を聞かれるが、帰宅後嫉妬に狂った雲居の雁と夫婦喧嘩をしてしまう。何とか雲居の雁をなだめて落葉の宮の邸へ通っても、宮は塗籠(ぬりごめ=土壁に囲まれた寝所)に閉じこもって出てこようとしない。結局強引に逢瀬を遂げて既成事実を作ってしまう。

 翌朝夕霧が邸に帰ると、雲居の雁は主に娘と幼い子数人を連れて実家の致仕大臣〔かつての頭中将〕邸に帰ってしまっていて、連れ戻しに行っても取り合おうとしない。そればかりか夕霧に対し、「あなたの名声はさぞや、広がるでしょうね。さすがは名だたる光源氏の息子だと」と嫌味を言い、対する夕霧も「そういう底意地の悪さは、父君瓜二つだ」と売り言葉に買い言葉。ついに二人は決裂してしまった。

 一方落葉の宮は亡き夫の父致仕大臣〔かつての頭中将〕に文で責められ、夕霧の妾の藤典侍も雲居の雁の味方で、一人途方にくれるのだった。

(以上Wikipedia夕霧(源氏物語)より。色づけと〔〕は本ページ)
 
目次
和歌抜粋内訳#夕霧(26首:別ページ)
主要登場人物
 
第39帖 夕霧
 光る源氏の准太上天皇時代
 五十歳秋から冬までの物語
 
第一章 夕霧 小野山荘訪問
第二章 落葉宮 律師の告げ口
第三章 一条御息所 行き違いの不幸
第四章 夕霧 落葉宮に心あくがれる夕霧
第五章 落葉宮 夕霧執拗に迫る
第六章 夕霧 雲居雁と落葉宮の間に苦慮
第七章 雲居雁 夕霧の妻たちの物語
 
 
第一章 夕霧の物語
 小野山荘訪問
 第一段 一条御息所と落葉宮、小野山荘に移る
 第二段 八月二十日頃、夕霧、小野山荘を訪問
 第三段 夕霧、落葉宮に面談を申し入れる
 第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意
 第五段 夕霧、落葉宮の部屋に忍び込む
 第六段 夕霧、落葉宮をかき口説く
 第七段 迫りながらも明け方近くなる
 第八段 夕霧、和歌を詠み交わして帰る
 
第二章 落葉宮の物語
 律師の告げ口
 第一段 夕霧の後朝の文
 第二段 律師、御息所に告げ口
 第三段 御息所、小少将君に問い質す
 第四段 落葉宮、母御息所のもとに参る
 第五段 御息所の嘆き
 
第三章 一条御息所の物語
 行き違いの不幸
 第一段 御息所、夕霧に返書
 第二段 雲居雁、手紙を奪う
 第三段 手紙を見ぬまま朝になる
 第四段 夕霧、手紙を見る
 第五段 御息所の嘆き
 第六段 御息所死去す
 第七段 朱雀院の弔問の手紙
 第八段 夕霧の弔問
 第九段 御息所の葬儀
 
第四章 夕霧の物語
 落葉宮に心あくがれる夕霧
 第一段 夕霧、返事を得られず
 第二段 雲居雁の嘆きの歌
 第三段 九月十日過ぎ、小野山荘を訪問
 第四段 板ばさみの小少将君
 第五段 夕霧、一条宮邸の側を通って帰宅
 第六段 落葉宮の返歌が届く
 
第五章 落葉宮の物語
 夕霧執拗に迫る
 第一段 源氏や紫の上らの心配
 第二段 夕霧、源氏に対面
 第三段 父朱雀院、出家希望を諌める
 第四段 夕霧、宮の帰邸を差配
 第五段 落葉宮、自邸へ向かう
 第六段 夕霧、主人顔して待ち構える
 第七段 落葉宮、塗籠に籠る
 
第六章 夕霧の物語
 雲居雁と落葉宮の間に苦慮
 第一段 夕霧、花散里へ弁明
 第二段 雲居雁、嫉妬に荒れ狂う
 第三段 雲居雁、夕霧と和歌を詠み交す
 第四段 塗籠の落葉宮を口説く
 第五段 夕霧、塗籠に入って行く
 第六段 夕霧と落葉宮、遂に契りを結ぶ
 
第七章 雲居雁の物語
 夕霧の妻たちの物語
 第一段 雲居雁、実家へ帰る
 第二段 夕霧、雲居雁の実家へ行く
 第三段 蔵人少将、落葉宮邸へ使者
 第四段 藤典侍、雲居雁を慰める
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
五十歳
呼称:六条の院・院
朱雀院(すざくいん)
源氏の兄
呼称:山の帝・院
女三の宮(おんなさんのみや)
源氏の正妻
呼称:入道の宮・三の宮
夕霧(ゆうぎり)
源氏の長男
呼称:大将殿・大将の君・大将・殿・男・男君
雲居雁(くもいのかり)
夕霧大将の北の方
呼称:北の方・三条殿・三条の姫君・三条の君・大殿の君・女君・母君・上
落葉宮(おちばのみや)
朱雀院の女二の宮
呼称:一条の宮・宮・女
一条御息所(いちじょうのみやすどころ)
朱雀院更衣、落葉宮の母
呼称:御息所・上・故御息所・故上・亡き人

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンクを参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 

原文対訳

和歌 定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  夕霧
 
 

第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問

 
 

第一段 一条御息所と落葉宮、小野山荘に移る

 
   まめ人の名をとりて、さかしがりたまふ大将、この一条の宮の御ありさまを、なほあらまほしと心にとどめて、おほかたの人目には、昔を忘れぬ用意に見せつつ、いとねむごろにとぶらひきこえたまふ。
 下の心には、かくては止むまじくなむ、月日に添へて思ひまさりたまひける。
 
 堅物との評判を取って、こざかしそうにしていらっしゃる大将、この一条宮のご様子を、やはり理想的だと心に止めて、世間の人目には、昔の友情を忘れていない心遣いを見せながら、とても懇切にお見舞い申し上げなさる。
 内心では、このままではやめられそうになく、月日を経るに従って思いが募って行かれるのであった。
 
   御息所も、「あはれにありがたき御心ばへにもあるかな」と、今はいよいよもの寂しき御つれづれを、絶えず訪づれたまふに、慰めたまふことども多かり。
 
 御息所も、「大変にもったいないご親切であることよ」と、今ではますます寂しく所在ないお暮らしを、絶えず訪れなさるので、お慰めになることがいろいろと多かった。
 
   初めより懸想びても聞こえたまはざりしに、  初めから色めいたことを申し上げたりなさらなかったのだが、
   「ひき返し懸想ばみなまめかむもまばゆし。
 ただ深き心ざしを見えたてまつりて、うちとけたまふ折もあらじやは」
 「打って変わって色めかしく艶めいた振る舞いをするのも気恥ずかしい。
 ただ深い愛情をお見せ申せば、心を許してくれる時がなくはないだろう」
   と思ひつつ、さるべきことにつけても、宮の御けはひありさまを見たまふ。
 みづからなど聞こえたまふことはさらになし。
 
 と思いながら、何かの用事にかこつけても、宮のご様子や態度をお伺いなさる。
 ご自身がお応え申し上げなさることはまったくない。
 
   「いかならむついでに、思ふことをもまほに聞こえ知らせて、人の御けはひを見む」  「どのような機会に、思っていることをまっすぐに申し上げて、相手のご様子を見ようか」
   と思しわたるに、御息所、もののけにいたう患ひたまひて、小野といふわたりに、山里持たまへるに渡りたまへり。
 早うより御祈りの師に、もののけなど祓ひ捨てける律師、山籠もりして里に出でじと誓ひたるを、麓近くて、請じ下ろしたまふゆゑなりけり。
 
 と、お考えになっていたところ、御息所が、物の怪にひどくお患いになって、小野という辺りに、山里を持っていらっしゃった所にお移りになった。
 早くから御祈祷師として、物の怪などを追い払っていた律師が、山籠もりして里には出まいと誓願を立てていたのを、麓近くなので、下山して頂くためなのであった。
 
   御車よりはじめて、御前など、大将殿よりぞたてまつれたまへるを、なかなか昔の近きゆかりの君たちは、ことわざしげきおのがじしの世のいとなみに紛れつつ、えしも思ひ出できこえたまはず。
 
 お車をはじめとして、御前駆など、大将殿から差し向けなさったのであるが、かえって故人の親しい弟君たちは、仕事が忙しく自分の事にかまけて、お思い出し申し上げることができなかった。
 
   弁の君、はた、思ふ心なきにしもあらで、けしきばみけるに、ことの外なる御もてなしなりけるには、しひてえ参でとぶらひたまはずなりにたり。
 
 弁の君、彼は彼で、気がないわけでもなくて、素振りを匂わせたのだが、思ってもみない程のおあしらいだったので、無理に参上してお世話なさることもできなくなっていた。
 
   この君は、いとかしこう、さりげなくて聞こえ馴れたまひにためり。
 修法などせさせたまふと聞きて、僧の布施、浄衣などやうの、こまかなるものをさへたてまつれたまふ。
 悩みたまふ人は、え聞こえたまはず。
 
 この君は、とても賢く、何とはない様子で自然と馴れ親しみなさったようである。
 修法などをおさせになると聞いて、僧の布施、浄衣などのような、こまごまとした物まで差し上げなさる。
 病気でいらっしゃる方は、お書きになるとができない。
 
   「なべての宣旨書きは、ものしと思しぬべく、ことことしき御さまなり」  「通り一遍の代筆は、けしからぬとお思いでしょう、重々しい身分のお方です」
   と、人びと聞こゆれば、宮ぞ御返り聞こえたまふ。
 
 と、女房たちが申し上げるので、宮がお返事をさし上げなさる。
 
   いとをかしげにて、ただ一行りなど、おほどかなる書きざま、言葉もなつかしきところ書き添へたまへるを、いよいよ見まほしう目とまりて、しげう聞こえ通ひたまふ。
 
 とても美しく、ただ一くだりほど、おっとりとした筆づかいに、言葉も優しい感じを書き添えなさっているので、ますます見たく目がとまって、頻繁に手紙を差し上げなさる。
 
   「なほ、つひにあるやうあるべきやう御仲らひなめり」  「やはり、いつかは事の起こるに違いないご関係のようだ」
   と、北の方けしきとりたまへれば、わづらはしくて、参うでまほしう思せど、とみにえ出で立ちたまはず。
 
 と、北の方は様子を察していられたので、めんどうに思って、訪問したいとはお思いになるが、すぐにはお出かけになることができない。
 
 
 

第二段 八月二十日頃、夕霧、小野山荘を訪問

 
   八月中の十日ばかりなれば、野辺のけしきもをかしきころなるに、山里のありさまのいとゆかしければ、  八月二十日のころなので、野辺の様子も美しい時期だし、山里の様子もとても気になるので、
   「なにがし律師のめづらしう下りたなるに、せちに語らふべきことあり。
 御息所の患ひたまふなるもとぶらひがてら、参うでむ」
 「何某律師が珍しく下山していると言うので、是非に相談したいことがある。
 御息所が病気でいらっしゃると言うのもお見舞いがてら、お伺いしよう」
   と、おほかたにぞ聞こえて出でたまふ。
 御前、ことことしからで、親しき限り五、六人ばかり、狩衣にてさぶらふ。
 ことに深き道ならねど、松が崎の小山の色なども、さる巌ならねど、秋のけしきつきて、都に二なくと尽くしたる家居には、なほ、あはれも興もまさりてぞ見ゆるや。
 
 と、さりげない用件のように申し上げてお出かけになる。
 御前駆、大げさにせず、親しい者だけ五、六人ほどが、狩衣姿で従う。
 特別深い山道ではないが、松が崎の小山の色なども、それほどの岩山ではないが、秋らしい様子になって、都で又となく善美を尽くした住居より、やはり、情趣も風情も立ち勝って見えることであるよ。
 
   はかなき小柴垣もゆゑあるさまにしなして、かりそめなれどあてはかに住まひなしたまへり。
 寝殿とおぼしき東の放出に、修法の檀塗りて、北の廂におはすれば、西面に宮はおはします。
 
 ちょっとした小柴垣も風流な様に作ってあって、仮のお住まいだが品よくお暮らしになっていらっしゃった。
 寝殿と思われる東の放出に、修法の壇を塗り上げて、北の廂の間にいらっしゃるので、西表の間に宮はいらっしゃる。
 
   御もののけむつかしとて、とどめたてまつりたまひけれど、いかでか離れたてまつらむと、慕ひわたりたまへるを、人に移り散るを懼ぢて、すこしの隔てばかりに、あなたには渡したてまつりたまはず。
 
 御物の怪が厄介だからと言って、お止め申し上げなさったが、どうしてお側を離れ申そうと、慕ってお移りになったのだが、物の怪が他の人に乗り移るのを恐れて、わずかの隔てを置く程度にして、そちらにはお入れ申し上げなさらない。
 
   客人のゐたまふべき所のなければ、宮の御方の御簾の前に入れたてまつりて、上臈だつ人びと、御消息聞こえ伝ふ。
 
 客人のお座りになる所がないので、宮の御方の簾の前にお入れ申して、上臈のような女房たちが、ご挨拶をお伝え申し上げる。
 
   「いとかたじけなく、かうまでのたまはせ渡らせたまへるをなむ。
 もしかひなくなり果てはべりなば、このかしこまりをだに聞こえさせでやと、思ひたまふるをなむ、今しばしかけとどめまほしき心つきはべりぬる」
 「まことにもったいなく、こんなにまで遠路はるばるお見舞いにお越し下さいまして。
 もしこのままはかなくなってしまいましたならば、このお礼をさえ申し上げることができないのではないかと、存じておりましたが、もう暫く生きていたいという気持ちになりました」
   と、聞こえ出だしたまへり。
 
 と、奥から申し上げなさった。
 
   「渡らせたまひし御送りにもと思うたまへしを、六条院に承りさしたることはべりしほどにてなむ。
 日ごろも、そこはかとなく紛るることはべりて、思ひたまふる心のほどよりは、こよなくおろかに御覧ぜらるることの、苦しうはべる」
 「お移りあそばした時のお供を致そうと存じておりましたが、六条院から仰せつけられていた事が中途になっていまして。
 このところも、何かと忙しい雑事がございまして、案じておりました気持ちよりも、ずっと誠意がない者のように御覧になられますのが、辛うございます」
   など、聞こえたまふ。
 
 などと、申し上げなさる。
 
 
 

第三段 夕霧、落葉宮に面談を申し入れる

 
   宮は、奥の方にいと忍びておはしませど、ことことしからぬ旅の御しつらひ、浅きやうなる御座のほどにて、人の御けはひおのづからしるし。
 いとやはらかにうちみじろきなどしたまふ御衣の音なひ、さばかりななりと、聞きゐたまへり。
 
 宮は、奥の方にとてもひっそりとしていらっしゃるが、おおげさでない仮住まいのお設備で、端近な感じのご座所なので、宮のご様子も自然とはっきり伝わる。
 とても物静かに身じろぎなさる時の衣ずれの音、あれがそうなのだろうと、聞いていらっしゃった。
 
   心も空におぼえて、あなたの御消息通ふほど、すこし遠う隔たる隙に、例の少将の君など、さぶらふ人びとに物語などしたまひて、  心も上の空になって、あちらへのご挨拶を伝えている間、少し長く手間取っているうちに、例の少将の君などの、伺候している女房たちにお話などなさって、
   「かう参り来馴れ承ることの、年ごろといふばかりになりにけるを、こよなうもの遠うもてなさせたまへる恨めしさなむ。
 かかる御簾の前にて、人伝ての御消息などの、ほのかに聞こえ伝ふることよ。
 まだこそならはね。
 いかに古めかしきさまに、人びとほほ笑みたまふらむと、はしたなくなむ。
 
 「このように参上して親しくお話を伺うことが、何年という程になったが、まったく他人行儀にお扱いなさる恨めしさよ。
 このような御簾の前で、人伝てのご挨拶などを、ほのかにお伝え申し上げるとはね。
 いまだ経験したことがないね。
 どんなにか古くさい人間かと、宮様方は笑っていらっしゃるだろうと、きまりの悪い思いがする。
 
   齢積もらず軽らかなりしほどに、ほの好きたる方に面馴れなましかば、かううひうひしうもおぼえざらまし。
 さらに、かばかりすくすくしう、おれて年経る人は、たぐひあらじかし」
 年齢も若く身分も低かったころに、多少とも色めいたことに経験が豊かであったら、こんな恥ずかしい思いはしなかったろうに。
 まったく、このように生真面目で、愚かしく年を過ごして来た人は、他にいないだろう」
   とのたまふ。
 げに、いとあなづりにくげなるさましたまひつれば、さればよと、
 とおっしゃる。
 なるほど、まことに軽々しくお扱いできないご様子でいらっしゃるので、やはりそうであったかと、
   「なかなかなる御いらへ聞こえ出でむは、恥づかしう」  「中途半端なお返事を申し上げるのは、気が引けます」
   などつきしろひて、  などとつっ突き合って、
   「かかる御愁へ聞こしめし知らぬやうなり」  「このようなご不満に対し情趣を解さないように思われます」
   と、宮に聞こゆれば、  と、宮に申し上げると、
   「みづから聞こえたまはざめるかたはらいたさに、代はりはべるべきを、いと恐ろしきまでものしたまふめりしを、見あつかひはべりしほどに、いとどあるかなきかの心地になりてなむ、え聞こえぬ」  「ご自身で直接申し上げなさらないようなご無礼につき、代わって致さねばならないところですが、大変に恐いほどのご病気でいらっしゃったようなのを、看病致しておりましたうちに、ますます生きているのかどうなのか分からない気分になって、お返事申し上げることができません」
   とあれば、  とおっしゃるので、
   「こは、宮の御消息か」とゐ直りて、「心苦しき御悩みを、身に代ふばかり嘆ききこえさせはべるも、何のゆゑにか。
 かたじけなけれど、ものを思し知る御ありさまなど、はればれしき方にも見たてまつり直したまふまでは、平らかに過ぐしたまはむこそ、誰が御ためにも頼もしきことにははべらめと、推し量りきこえさするによりなむ。
 ただあなたざまに思し譲りて、積もりはべりぬる心ざしをも知ろしめされぬは、本意なき心地なむ」
 「これは、宮のお返事ですか」と居ずまいを正して、「お気の毒なご病気を、わが身に代えてもとご心配申し上げておりましたのも、他ならぬあなたのためです。
 恐れ多いことですが、物事のご判断がお出来になるご様子などを、ご快復を御覧になられるまでは、平穏にお過ごしになられるのが、どなたにとっても心強いことでございましょうと、ご推察申し上げるのです。
 ただ母上様へのご心配ばかりとお考えになって、積もる思いをご理解下さらないのは、不本意でございます」
   と聞こえたまふ。
 「げに」と、人びとも聞こゆ。
 
 と申し上げなさる。
 「おっしゃる通りだ」と、女房たちも申し上げる。
 
 
 

第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意

 
   日入り方になり行くに、空のけしきもあはれに霧りわたりて、山の蔭は小暗き心地するに、ひぐらしの鳴きしきりて、垣ほに生ふる撫子の、うちなびける色もをかしう見ゆ。
 
 日も入り方になるにつれて、空の様子もしんみりと霧が立ち籠めて、山の蔭は薄暗い感じがするところに、蜩がしきりに鳴いて、垣根に生えている撫子が、風になびいている色も美しく見える。
 
   前の前栽の花どもは、心にまかせて乱れあひたるに、水の音いと涼しげにて、山おろし心すごく、松の響き木深く聞こえわたされなどして、不断の経読む、時変はりて、鐘うち鳴らすに、立つ声もゐ変はるも、一つにあひて、いと尊く聞こゆ。
 
 前の前栽の花々が、思い思いに咲き乱れているところに、水の音がとても涼しそうに聞こえて、山下ろしの風がぞっとするように、松風の響きが奥にこもってそこらじゅう聞こえたりなどして、不断の経を読むのが、交替の時刻になって、鐘を打ち鳴らすと、立つ僧の声も変って座る僧の声も、一緒になって、まことに尊く聞こえる。
 
   所から、よろづのこと心細う見なさるるも、あはれにもの思ひ続けらる。
 出でたまはむ心地もなし。
 律師も、加持する音して、陀羅尼いと尊く読むなり。
 
 場所柄ゆえ、あらゆる事が心細く思われるのも、しみじみと感慨が湧き起こる。
 お帰りなる気持ちも起こらない。
 律師の加持する声がして、陀羅尼を大変に尊く読んでいる様子である。
 
   いと苦しげにしたまふなりとて、人びともそなたに集ひて、おほかたも、かかる旅所にあまた参らざりけるに、いとど人少なにて、宮は眺めたまへり。
 しめやかにて、「思ふこともうち出でつべき折かな」と思ひゐたまへるに、霧のただこの軒のもとまで立ちわたれば、
 たいそうお苦しそうでいらっしゃるということで、女房たちもそちらの方に集まって、大体が、このような仮住まいに大勢はお供しなかったので、ますます人少なで、宮は物思いに耽っていらっしゃった。
 ひっそりしていて、「思っていることも話し出すによい機会かな」と思って座っていらっしゃると、霧がすぐこの軒の所まで立ち籠めたので、
   「まかでむ方も見えずなり行くは、いかがすべき」とて、  「帰って行く方角も分からなくなって行くのは、どうしたらよいでしょうか」と言って、
 

526
 「山里の あはれを添ふる 夕霧に
 立ち出でむ空も なき心地して」
 「山里の物寂しい気持ちを添える夕霧のために
  帰って行く気持ちにもなれずおります」
 
   と聞こえたまへば、  と申し上げなさると、
 

527
 「山賤の 籬をこめて 立つ霧も
 心そらなる 人はとどめず」
 「山里の垣根に立ち籠めた霧も
  気持ちのない人は引き止めません」
 
   ほのかに聞こゆる御けはひに慰めつつ、まことに帰るさ忘れ果てぬ。
 
 かすかに申し上げるご様子に慰めながら、ほんとうに帰るのを忘れてしまった。
 
   「中空なるわざかな。
 家路は見えず、霧の籬は、立ち止るべうもあらず遣らはせたまふ。
 つきなき人は、かかることこそ」
 「どうしてよいか分からない気持ちです。
 家路は見えないし、霧の立ち籠めたこの家には、立ち止まることもできないようにせき立てなさる。
 物馴れない男は、こうした目に遭うのですね」
   などやすらひて、忍びあまりぬる筋もほのめかし聞こえたまふに、年ごろもむげに見知りたまはぬにはあらねど、知らぬ顔にのみもてなしたまへるを、かく言に出でて怨みきこえたまふを、わづらはしうて、いとど御いらへもなければ、いたう嘆きつつ、心のうちに、「また、かかる折ありなむや」と、思ひめぐらしたまふ。
 
 などとためらって、これ以上堪えられない思いをほのめかして申し上げなさると、今までも全然ご存知でなかったわけではないが、知らない顔でばかり通して来なさったので、このように言葉に出されてお恨み申し上げなさるのを、面倒に思って、ますますお返事もないので、たいそう嘆きながら、心の中で、「再び、このような機会があるだろうか」と、思案をめぐらしなさる。
 
   「情けなうあはつけきものには思はれたてまつるとも、いかがはせむ。
 思ひわたるさまをだに知らせたてまつらむ」
 「薄情で軽薄な者と思われ申そうとも、どうすることもできない。
 せめて思い続けて来たことだけでもお打ち明け申そう」
   と思ひて、人を召せば、御司の将監よりかうぶり得たる、睦ましき人ぞ参れる。
 忍びやかに召し寄せて、
 と思って、供人をお呼びになると、近衛府の将監から五位になった、腹心の家来が参った。
 人目に立たないように呼び寄せなさって、
   「この律師にかならず言ふべきことのあるを。
 護身などに暇なげなめる、ただ今はうち休むらむ。
 今宵このわたりに泊りて、初夜の時果てむほどに、かのゐたる方にものせむ。
 これかれ、さぶらはせよ。
 随身などの男どもは、栗栖野の荘近からむ、秣などとり飼はせて、ここに人あまた声なせそ。
 かやうの旅寝は、軽々しきやうに人もとりなすべし」
 「この律師に是非とも話したいことがあるのだが。
 護身などに忙しいようだが、ちょうど今は休んでいるだろう。
 今夜はこの近辺に泊まって、初夜の時刻が終わるころに、あの控えている所に参ろう。
 誰と誰とを、控えさせておけ。
 随身などの男たちは、栗栖野の荘園が近いから、秣などを馬に食わせて、ここでは大勢の声を立てるではない。
 このような旅寝は、軽率なように人が取り沙汰しようから」
   とのたまふ。
 あるやうあるべしと心得て、承りて立ちぬ。
 
 とお命じになる。
 何かきっと子細があるのだろうと理解して、仰せを承って立った。
 
 
 

第五段 夕霧、落葉宮の部屋に忍び込む

 
   さて、  そうしてから、
   「道いとたどたどしければ、このわたりに宿借りはべる。
 同じうは、この御簾のもとに許されあらなむ。
 阿闍梨の下るるほどまで」
 「帰り道が霧でまことにはっきりしないので、この近辺に宿をお借りしましょう。
 同じことなら、この御簾の側をお許し下さい。
 阿闍梨が下がって来るまでは」
   など、つれなくのたまふ。
 例は、かやうに長居して、あざればみたるけしきも見えたまはぬを、「うたてもあるかな」と、宮思せど、ことさらめきて、軽らかにあなたにはひ渡りたまふは、人もさま悪しき心地して、ただ音せでおはしますに、とかく聞こえ寄りて、御消息聞こえ伝へにゐざり入る人の影につきて、入りたまひぬ。
 
 などと、さりげなくおっしゃる。
 いつもは、このように長居して、くだけた態度もお見せなさらないのに、「嫌なことだわ」と、宮はお思いになるが、わざとらしくして、さっさとあちらにお移りになるのは、人の体裁の悪い気がなさって、ただ音を立てずにいらっしゃると、何かと申し上げて、お言葉をお伝えに入って行く女房の後ろに付いて、御簾の中に入っておしまいになった。
 
   まだ夕暮の、霧に閉ぢられて、内は暗くなりにたるほどなり。
 あさましうて見返りたるに、宮はいとむくつけうなりたまうて、北の御障子の外にゐざり出でさせたまふを、いとようたどりて、ひきとどめたてまつりつ。
 
 まだ夕暮のころで、霧に閉じ籠められて、家の内は暗くなった時分である。
 驚いて振り返ると、宮はとても気味悪くおなりになって、北の御障子の外にいざってお出あそばすが、実によく探し当てて、お引き止め申した。
 
   御身は入り果てたまへれど、御衣の裾の残りて、障子は、あなたより鎖すべき方なかりければ、引きたてさして、水のやうにわななきおはす。
 
 お身体はお入りになったが、お召し物の裾が残って、襖障子は、向側から鍵を掛けるすべもなかったので、閉めきれないまま、総身びっしょりに汗を流して震えていらっしゃる。
 
   人びともあきれて、いかにすべきことともえ思ひえず。
 こなたよりこそ鎖す錠などもあれ、いとわりなくて、荒々しくは、え引きかなぐるべくはたものしたまはねば、
 女房たちも驚きあきれて、どうしたらよいかとも考えがつかない。
 こちら側からは懸金もあるが、困りきって、手荒くは、引き離すことのできるご身分の方ではないので、
   「いとあさましう。
 思たまへ寄らざりける御心のほどになむ」
 「何ともひどいことを。
 思いも寄りませんでしたお心ですこと」
   と、泣きぬばかりに聞こゆれど、  と、今にも泣き出しそうに申し上げるが、
   「かばかりにてさぶらはむが、人よりけに疎ましう、めざましう思さるべきにやは。
 数ならずとも、御耳馴れぬる年月も重なりぬらむ」
 「この程度にお側近くに控えているのが、誰にもまして疎ましく、目障りな者とお考えになるのでしょうか。
 人数にも入らないわが身ですが、お耳馴れになった年月も長くなったでしょう」
   とて、いとのどやかにさまよくもてしづめて、思ふことを聞こえ知らせたまふ。
 
 とおっしゃって、とても静かに体裁よく落ち着いた態度で、心の中をお話し申し上げなさる。
 
 
 

第六段 夕霧、落葉宮をかき口説く

 
   聞き入れたまふべくもあらず、悔しう、かくまでと思すことのみ、やる方なければ、のたまはむことはたましておぼえたまはず。
 
 お聞き入れになるはずもなく、悔しい、こんな事にまでと、お思いになることばかりが、心を去らないので、返事のお言葉はまったく思い浮かびなさらない。
 
   「いと心憂く、若々しき御さまかな。
 人知れぬ心にあまりぬる好き好きしき罪ばかりこそはべらめ、これより馴れ過ぎたることは、さらに御心許されでは御覧ぜられじ。
 いかばかり、千々に砕けはべる思ひに堪へぬぞや。
 
 「まことに情けなく、子供みたいなお振る舞いですね。
 人知れない胸の中に思いあまった色めいた罪ぐらいはございましょうが、これ以上馴れ馴れし過ぎる態度は、まったくお許しがなければ致しません。
 どんなにか、千々に乱れて悲しみに堪え兼ねていますことか。
 
   さりともおのづから御覧じ知るふしもはべらむものを、しひておぼめかしう、け疎うもてなさせたまふめれば、聞こえさせむ方なさに、いかがはせむ、心地なく憎しと思さるとも、かうながら朽ちぬべき愁へを、さだかに聞こえ知らせはべらむとばかりなり。
 言ひ知らぬ御けしきの辛きものから、いとかたじけなければ」
 いくらなんでも自然とご存知になる事もございましょうに、無理に知らぬふりに、よそよそしくお扱いなさるようなので、申し上げるすべもないので、しかたがない、わきまえもなくけしからぬとお思いなさっても、このままでは朽ちはててしまいかねない訴えを、はっきりと申し上げて置きたいと思っただけです。
 言いようもないつれないおあしらいが辛く思われますが、まことに恐れ多いことですから」
   とて、あながちに情け深う、用意したまへり。
 
 と言って、努めて思いやり深く、気をつかっていらっしゃった。
 
   障子を押さへたまへるは、いとものはかなき固めなれど、引きも開けず。
 
 襖を押さえていらっしゃるのは、頼りにならない守りであるが、あえて引き開けず、
   「かばかりのけぢめをと、しひて思さるらむこそあはれなれ」  「この程度の隔てをと、無理にお思いになるのがお気の毒です」
   と、うち笑ひて、うたて心のままなるさまにもあらず。
 人の御ありさまの、なつかしうあてになまめいたまへること、さはいへどことに見ゆ。
 世とともにものを思ひたまふけにや、痩せ痩せにあえかなる心地して、うちとけたまへるままの御袖のあたりもなよびかに、気近うしみたる匂ひなど、取り集めてらうたげに、やはらかなる心地したまへり。
 
 と、ついお笑いになって、思いやりのない振る舞いはしない。
 宮のご様子の、優しく上品で優美でいらっしゃること、何と言っても格別に思える。
 ずっと物思いに沈んでいらっしゃったせいか、痩せてか細い感じがして、普段着のままでいらっしゃるお袖の辺りもしなやかで、親しみやすく焚き込めた香の匂いなども、何もかもがかわいらしく、なよなよとした感じがしていらっしゃった。
 
 
 

第七段 迫りながらも明け方近くなる

 
   風いと心細う、更けゆく夜のけしき、虫の音も、鹿の鳴く音も、滝の音も、一つに乱れて、艶あるほどなれど、ただありのあはつけ人だに、寝覚めしぬべき空のけしきを、格子もさながら、入り方の月の山の端近きほど、とどめがたう、ものあはれなり。
 
 風がとても心細い感じで、更けて行く夜の様子、虫の音も、鹿の声も、滝の音も、一つに入り乱れて、風情をそそるころなので、まるで情趣など解さない軽薄な人でさえ、寝覚めするに違いない空の様子を、格子もそのまま、入方の月が山の端に近くなったころ、涙を堪え切れないほど、ものあわれである。
 
   「なほ、かう思し知らぬ御ありさまこそ、かへりては浅う御心のほど知らるれ。
 かう世づかぬまでしれじれしきうしろやすさなども、たぐひあらじとおぼえはべるを、何事にもかやすきほどの人こそ、かかるをば痴者などうち笑ひて、つれなき心もつかふなれ。
 
 「やはり、このようにお分かりになって頂けないご様子は、かえって浅薄なお心底と思われます。
 このような世間知らずなまで愚かしく心配のいらないところなども、他にいないだろうと思われますが、どのようなことでも手軽にできる身分の人は、このような振る舞いを愚か者だと笑って、同情のない心をするものです。
 
   あまりこよなく思し貶したるに、えなむ静め果つまじき心地しはべる。
 世の中をむげに思し知らぬにしもあらじを」
 あまりにひどくお蔑みなさるので、もう抑えてはいられないような気が致します。
 男女の仲というものを全くご存知ないわけではありますまいに」
   と、よろづに聞こえせめられたまひて、いかが言ふべきと、わびしう思しめぐらす。
 
 と、いろいろと言い迫られなさって、どのようにお答えしたらよいものかと、困り切って思案なさる。
 
   世を知りたる方の心やすきやうに、折々ほのめかすも、めざましう、「げに、たぐひなき身の憂さなりや」と、思し続けたまふに、死ぬべくおぼえたまうて、  結婚した経験があるから気安いように、時々口にされるのも、不愉快で、「なるほど、又とない身の不運だわ」と、お思い続けていらっしゃると、死んでしまいそうに思われなさって、
   「憂きみづからの罪を思ひ知るとても、いとかうあさましきを、いかやうに思ひなすべきにかはあらむ」  「情けない我が身の過ちを知ったとしても、とてもこのようなひどい有様を、どのように考えたらよいものでしょうか」
   と、いとほのかに、あはれげに泣いたまうて、  と、とてもかすかに、悲しそうにお泣きになって、
 

528
 「我のみや 憂き世を知れる ためしにて
 濡れそふ袖の 名を朽たすべき」
 「わたしだけが不幸な結婚をした女の例として
  さらに涙の袖を濡らして悪い評判を受けなければならないのでしょうか」
 
   とのたまふともなきを、わが心に続けて、忍びやかにうち誦じたまへるも、かたはらいたく、いかに言ひつることぞと、思さるるに、  とおっしゃるともないのに、わが気持ちのままに、ひっそりとお口ずさみなさるのも、いたたまれない思いで、どうして歌など詠んだのだろうと、悔やまずいらっしゃれないでいると、
   「げに、悪しう聞こえつかし」  「おっしゃるとおり、悪い事を申しましたね」
   など、ほほ笑みたまへるけしきにて、  などと、微笑んでいらっしゃるご様子で、
 

529
 「おほかたは 我濡衣を 着せずとも
 朽ちにし袖の 名やは隠るる
 「だいたいがわたしがあなたに悲しい思いをさせなくても
  既に立ってしまった悪い評判はもう隠れるものではありません
 
   ひたぶるに思しなりねかし」  一途にお心向け下さい」
   とて、月明き方に誘ひきこゆるも、あさまし、と思す。
 心強うもてなしたまへど、はかなう引き寄せたてまつりて、
 と言って、月の明るい方にお誘い申し上げるのも、心外な、とお思いになる。
 気強く応対なさるが、たやすくお引き寄せ申して、
   「かばかりたぐひなき心ざしを御覧じ知りて、心やすうもてなしたまへ。
 御許しあらでは、さらに、さらに」
 「これほど例のない厚い愛情をお分かり下さって、お気を楽になさって下さい。
 お許しがなくては、けっして、けっして」
   と、いとけざやかに聞こえたまふほど、明け方近うなりにけり。
 
 と、たいそうはっきりと申し上げなさっているうちに、明け方近くなってしまった。
 
 
 

第八段 夕霧、和歌を詠み交わして帰る

 
   月隈なう澄みわたりて、霧にも紛れずさし入りたり。
 浅はかなる廂の軒は、ほどもなき心地すれば、月の顔に向かひたるやうなる、あやしうはしたなくて、紛らはしたまへるもてなしなど、いはむかたなくなまめきたまへり。
 
 月は曇りなく澄みわたって、霧にも遮られず光が差し込んでいる。
 浅い造りの廂の軒は、奥行きもない感じがするので、月の顔と向かい合っているようで、妙にきまり悪くて、顔を隠していらっしゃる振る舞いなど、言いようもなく優美でいらっしゃった。
 
   故君の御こともすこし聞こえ出でて、さまようのどやかなる物語をぞ聞こえたまふ。
 さすがになほ、かの過ぎにし方に思し貶すをば、恨めしげに怨みきこえたまふ。
 御心の内にも、
 亡き君のお話も少し申し上げて、当たり障りのない穏やかな話を申し上げなさる。
 それでもやはり、あの故人ほどに思って下さらないのを、恨めしそうにお恨み申し上げなさる。
 お心の中でも、
   「かれは、位などもまだ及ばざりけるほどながら、誰れ誰れも御許しありけるに、おのづからもてなされて、見馴れたまひにしを、それだにいとめざましき心のなりにしさま、ましてかうあるまじきことに、よそに聞くあたりにだにあらず、大殿などの聞き思ひたまはむことよ。
 なべての世のそしりをばさらにもいはず、院にもいかに聞こし召し思ほされむ」
 「かの亡き君は、位などもまだ十分ではなかったのに、誰も彼もがお許しになったので、自然と成り行きに従って、結婚なさったのだが、それでさえ冷淡になって行ったお心の有様は、ましてこのようなとんでもないことに、まったくの他人というわけでさえないが、大殿などがお聞きになってどうお思いになることか。
 世間一般の非難は言うまでもなく、父の院におかれてもどのようにお聞きあそばしお思いあそばされることだろうか」
   など、離れぬここかしこの御心を思しめぐらすに、いと口惜しう、わが心一つに、  などと、ご縁者のあちらこちらの方々のお心をお考えなさると、とても残念で、自分の考え一つに、
   「かう強う思ふとも、人のもの言ひいかならむ。
 御息所の知りたまはざらむも、罪得がましう、かく聞きたまひて、心幼く、と思しのたまはむ」もわびしければ、
 「このように強く思っても、世間の人の噂はどうだろうか。
 母御息所がご存知でないのも、罪深い気がするし、このようにお聞きになって、考えのないことだと、お思いになりおっしゃろうこと」が辛いので、
   「明かさでだに出でたまへ」  「せめて夜を明かさずにお帰り下さい」
   と、やらひきこえたまふより外の言なし。
 
 と、せき立て申し上げなさるより他ない。
 
   「あさましや。
 ことあり顔に分けはべらむ朝露の思はむところよ。
 なほ、さらば思し知れよ。
 をこがましきさまを見えたてまつりて、賢うすかしやりつと思し離れむこそ、その際は心もえ収めあふまじう、知らぬことと、けしからぬ心づかひもならひはじむべう思ひたまへらるれ」
 「驚いたことですね。
 意味ありげに踏み分けて帰る朝露が変に思うでしょうよ。
 やはり、それならばお考え下さい。
 愚かな姿をお見せ申して、うまく言いくるめて帰したとお見限り考えなさるようなら、その時はこの心もおとなしくしていられない、今までに致した事もない、不埒な事どもを仕出かすようなことになりそうに存じられます」
   とて、いとうしろめたく、なかなかなれど、ゆくりかにあざれたることの、まことにならはぬ御心地なれば、「いとほしう、わが御みづからも心劣りやせむ」など思いて、誰が御ためにも、あらはなるまじきほどの霧に立ち隠れて出でたまふ、心地そらなり。
 
 と言って、とても後が気がかりで、中途半端な逢瀬であったが、いきなり色めいた態度に出ることが、ほんとうに馴れていないお人柄なので、「お気の毒で、ご自身でも見下げたくならないか」などとお思いになって、どちらにとっても、人目につきにくい時分の霧に紛れてお帰りになるのは、心も上の空である。
 
 

530
 「荻原や 軒端の露に そぼちつつ
 八重立つ霧を 分けぞ行くべき
 「荻原の軒葉の荻の露に濡れながら幾重にも
  立ち籠めた霧の中を帰って行かねばならないのでしょう
 
   濡衣はなほえ干させたまはじ。
 かうわりなうやらはせたまふ御心づからこそは」
 濡れ衣はやはりお免れになることはできますまい。
 このように無理にせき立てなさるあなたのせいですよ」
   と聞こえたまふ。
 げに、この御名のたけからず漏りぬべきを、「心の問はむにだに、口ぎよう答へむ」と思せば、いみじうもて離れたまふ。
 
 と申し上げなさる。
 なるほど、ご自分の評判が聞きにくく伝わるに違いないが、「せめて自分の心に問われた時だけでも、潔白だと答えよう」とお思いになると、ひどくよそよそしいお返事をなさる。
 
 

531
 「分け行かむ 草葉の露を かことにて
 なほ濡衣を かけむとや思ふ
 「帰って行かれる草葉の露に濡れるのを言いがかりにして
  わたしに濡れ衣を着せようとお思いなのですか
 
   めづらかなることかな」  心外なことですわ」
   と、あはめたまへるさま、いとをかしう恥づかしげなり。
 年ごろ、人に違へる心ばせ人になりて、さまざまに情けを見えたてまつる、名残なく、うちたゆめ、好き好きしきやうなるが、いとほしう、心恥づかしげなれば、おろかならず思ひ返しつつ、「かうあながちに従ひきこえても、後をこがましくや」と、さまざまに思ひ乱れつつ出でたまふ。
 道の露けさも、いと所狭し。
 
 と、お咎めになるご様子、とても風情があり気品がある。
 長年、人とは違った人情家になって、いろいろと思いやりのあるところをお見せ申していたのに、それとうって変わって、油断させ、好色がましいのが、おいたわしく、気恥ずかしいので、少なからず反省し反省しては、「このように無理をしてお従い申したとしても、後になって馬鹿らしく思われないか」と、あれこれと思い乱れながらお帰りになる。
 帰り道の露っぽさも、まことにいっぱいある。
 
 
 

第二章 落葉宮の物語 律師の告げ口

 
 

第一段 夕霧の後朝の文

 
   かやうの歩き、慣らひたまはぬ心地に、をかしうも心尽くしにもおぼえつつ、殿におはせば、女君の、かかる濡れをあやしと咎めたまひぬべければ、六条院の東の御殿に参うでたまひぬ。
 まだ朝霧も晴れず、ましてかしこにはいかに、と思しやる。
 
 このような出歩き、馴れていらっしゃらないお人柄なので、興をそそられまた気のもめることだとも思われながら、三条殿にお帰りになると、女君が、このような露に濡れているのを変だとお疑いになるに違いないので、六条院の東の御殿に参上なさった。
 まだ朝霧も晴れず、それ以上にあちらではどうであろうか、とお思いやりになる。
 
   「例ならぬ御歩きありけり」  「いつにないお忍び歩きだったのですわ」
   と、人びとはささめく。
 しばしうち休みたまひて、御衣脱ぎ替へたまふ。
 常に夏冬といときよらにしおきたまへれば、香の御唐櫃より取う出て奉りたまふ。
 御粥など参りて、御前に参りたまふ。
 
 と、女房たちはささやき合う。
 暫くお休みになってから、お召し物を着替えなさる。
 いつでも夏服冬服と大変きれいに用意していらっしゃるので、香を入れた御唐櫃から取り出して差し上げなさる。
 お粥など召し上がって、院の御前に参上なさる。
 
   かしこに御文たてまつりたまへれど、御覧じも入れず。
 にはかにあさましかりしありさま、めざましうも恥づかしうも思すに、心づきなくて、御息所の漏り聞きたまはむことも、いと恥づかしう、また、かかることやとかけて知りたまはざらむに、ただならぬふしにても見つけたまひ、人のもの言ひ隠れなき世なれば、おのづから聞きあはせて、隔てけると思さむがいと苦しければ、
 あちらにお手紙を差し上げなさったが、御覧になろうともなさらない。
 唐突にも心外であった有様、腹だたしくも恥ずかしくもお思いなさると、不愉快で、母御息所がお聞き知りになることもまことに恥ずかしく、また一方、こんなことがあったとは全然御存知でないのに、普段と変わった態度にお気づきになり、人の噂もすぐに広まる世の中だから、自然と聞き合わせて、隠していたとお思いになるのがとても辛いので、
   「人びとありしままに聞こえ漏らさなむ。
 憂しと思すともいかがはせむ」と思す。
 
 「女房たちがありのままに申し上げて欲しい。
 困ったことだとお思いになってもしかたがない」とお思いになる。
 
   親子の御仲と聞こゆる中にも、つゆ隔てずぞ思ひ交はしたまへる。
 よその人は漏り聞けども、親に隠すたぐひこそは、昔の物語にもあめれど、さはた思されず。
 人びとは、
 母子の御仲と申す中でも、少しも互いに隠さず打ち明けていらっしゃる。
 他人は漏れ聞いても、親には隠している例は、昔の物語にもあるようだが、そのようにはお思いなさらない。
 女房たちは、
   「何かは、ほのかに聞きたまひて、ことしもあり顔に、とかく思し乱れむ。
 まだきに、心苦し」
 「何の、少しばかりお聞きになって、子細ありそうに、あれこれと御心配なさることがありましょうか。
 まだ何事もないのに、おいたわしい」
   など言ひあはせて、いかならむと思ふどち、この御消息のゆかしきを、ひきも開けさせたまはねば、心もとなくて、  などと言い合わせて、この御仲がどうなるのだろうと思っている女房どうしは、このお手紙が見たいと思うが、すこしも開かせなさらないので、じれったくて、
   「なほ、むげに聞こえさせたまはざらむも、おぼつかなく、若々しきやうにぞはべらむ」  「やはり、全然お返事をなさらないのも、不安だし、子供っぽいようでございましょう」
   など聞こえて、広げたれば、  などと申し上げて、広げたので、
   「あやしう、何心もなきさまにて、人にかばかりにても見ゆるあはつけさの、みづからの過ちに思ひなせど、思ひやりなかりしあさましさも、慰めがたくなむ。
 え見ずとを言へ」
 「見苦しく、呆然としていて、相手にあの程度でお会いした至らなさを、わが身の過ちと思ってみるが、遠慮のなかったあまりの態度を、情けなく思われるのです。
 拝見できませんと言いなさい」
   と、ことのほかにて、寄り臥させたまひぬ。
 
 と、もってのほかだと、横におなりあそばした。
 
   さるは、憎げもなく、いと心深う書いたまうて、  実のところは、憎い様子もなく、とても心をこめてお書きになって、
 

532
 「魂を つれなき袖に 留めおきて
 わが心から 惑はるるかな
 「魂をつれないあなたの所に置いてきて
  自分ながらどうしてよいか分かりません
 
   ほかなるものはとか、昔もたぐひありけりと思たまへなすにも、さらに行く方知らずのみなむ」  思うにまかせないものは心であるとか、昔も同じような人があったのだと存じてみますにも、まったくどうしてよいものか分かりません」
   など、いと多かめれど、人はえまほにも見ず。
 例のけしきなる今朝の御文にもあらざめれど、なほえ思ひはるけず。
 人びとは、御けしきもいとほしきを、嘆かしう見たてまつりつつ、
 などと、とても多く書いてあるようだが、女房はよく見ることができない。
 通常の後朝の手紙ではないようであるが、やはりすっきりとしない。
 女房たちは、ご様子もお気の毒なので、心を痛めて拝見しながら、
   「いかなる御ことにかはあらむ。
 何ごとにつけても、ありがたうあはれなる御心ざまはほど経ぬれど」
 「どのような御事なのでしょう。
 どのような事につけても、素晴らしく思いやりのあるお気持ちは長年続いているけれども」
   「かかる方に頼みきこえては、見劣りやしたまはむ、と思ふも危ふく」  「ご結婚相手としてお頼み申しては、がっかりなさるのではないか、と思うのも不安で」
   など、睦ましうさぶらふ限りは、おのがどち思ひ乱る。
 御息所もかけて知りたまはず。
 
 などと、親しく伺候している者だけは、皆それぞれ心配している。
 御息所もまったく御存知でない。
 
 
 

第二段 律師、御息所に告げ口

 
   もののけにわづらひたまふ人は、重しと見れど、さはやぎたまふ隙もありてなむ、ものおぼえたまふ。
 日中の御加持果てて、阿闍梨一人とどまりて、なほ陀羅尼読みたまふ。
 よろしうおはします、喜びて、
 物の怪にお悩みになっていらっしゃる方は、重病と見えるが、爽やかな気分になられる合間もあって、正気にお戻りになる。
 昼日中のご加持が終わって、阿闍梨一人が残って、なおも陀羅尼を読んでいらっしゃる。
 好くおなりあそばしたのを、喜んで、
   「大日如来虚言したまはずは。
 などてか、かくなにがしが心を致して仕うまつる御修法、験なきやうはあらむ。
 悪霊は執念きやうなれど、業障にまとはれたるはかなものなり」
 「大日如来は嘘をおっしゃいません。
 どうして、このような拙僧が心をこめて奉仕するご修法に、験のないことがありましょうか。
 悪霊は執念深いようですが、業障につきまとわれた弱いものである」
   と、声はかれて怒りたまふ。
 いと聖だち、すくすくしき律師にて、ゆくりもなく、
 と、声はしわがれて荒々しくいらっしゃる。
 たいそう俗世離れした一本気な律師なので、だしぬけに、
   「そよや。
 この大将は、いつよりここには参り通ひたまふぞ」
 「そうでした。
 あの大将は、いつからここにお通い申すようになられましたか」
   と問ひ申したまふ。
 御息所、
 とお尋ねになる。
 御息所は、
   「さることもはべらず。
 故大納言のいとよき仲にて、語らひつけたまへる心違へじと、この年ごろ、さるべきことにつけて、いとあやしくなむ語らひものしたまふも、かくふりはへ、わづらふを訪らひにとて、立ち寄りたまへりければ、かたじけなく聞きはべりし」
 「そのようなことはございません。
 亡くなった大納言と大変仲が好くて、お約束なさったことを裏切るまいと、ここ数年来、何かの機会につけて、不思議なほど親しくお出入りなさっているのですが、このようにわざわざ、患っていますのをお見舞いにと言って、立ち寄って下さったので、もったいないことと聞いておりました」
   と聞こえたまふ。
 
 と申し上げなさる。
 
   「いで、あなかたは。
 なにがしに隠さるべきにもあらず。
 今朝、後夜に参う上りつるに、かの西の妻戸より、いとうるはしき男の出でたまへるを、霧深くて、なにがしはえ見分いたてまつらざりつるを、この法師ばらなむ、『大将殿の出でたまふなりけり』と、『昨夜も御車も返して泊りたまひにける』と、口々申しつる。
 
 「いや、何とおかしい。
 拙僧にお隠しになることもありますまい。
 今朝、後夜の勤めに参上した時に、あの西の妻戸から、たいそう立派な男性がお出になったのを、霧が深くて、拙僧にはお見分け申すことができませんでしたが、この法師どもが、『大将殿がお出なさるのだ』と、『昨夜もお車を帰してお泊りになったのだ』と、口々に申していた。
 
   げに、いと香うばしき香の満ちて、頭痛きまでありつれば、げにさなりけりと、思ひあはせはべりぬる。
 常にいと香うばしうものしたまふ君なり。
 このこと、いと切にもあらぬことなり。
 人はいと有職にものしたまふ。
 
 なるほど、まことに香ばしい薫りが満ちていて、頭が痛くなるほどであったので、なるほどそうであったのかと、合点がいったのでござった。
 いつもまことに香ばしくいらっしゃる君である。
 このことは、決して望ましいことではあるまい。
 相手はまことに立派な方でいらっしゃる。
 
   なにがしらも、童にものしたまうし時より、かの君の御ためのことは、修法をなむ、故大宮ののたまひつけたりしかば、一向にさるべきこと、今に承るところなれど、いと益なし。
 本妻強くものしたまふ。
 さる、時にあへる族類にて、いとやむごとなし。
 若君たちは、七、八人になりたまひぬ。
 
 拙僧らも、子供でいらっしゃったころから、あの君の御為の事には、修法を、亡くなられた大宮が仰せつけになったので、もっぱらしかるべき事は、今でも承っているところであるが、まことに無益である。
 本妻は勢いが強くていらっしゃる。
 ああした、今を時めく一族の方で、まことに重々しい。
 若君たちは七、八人におなりになった。
 
   え皇女の君圧したまはじ。
 また、女人の悪しき身をうけ、長夜の闇に惑ふは、ただかやうの罪によりなむ、さるいみじき報いをも受くるものなる。
 人の御怒り出で来なば、長きほだしとなりなむ。
 もはら受けひかず」
 皇女の君とて圧倒できまい。
 また、女人という罪障深い身を受け、無明長夜の闇に迷うのは、ただこのような罪によって、そのようなひどい報いを受けるものである。
 本妻のお怒りが生じたら、長く成仏の障りとなろう。
 全く賛成できぬ」
   と、頭振りて、ただ言ひに言ひ放てば、  と、頭を振って、ずけずけと思い通りに言うので、
   「いとあやしきことなり。
 さらにさるけしきにも見えたまはぬ人なり。
 よろづ心地の惑ひにしかば、うち休みて対面せむとてなむ、しばし立ち止まりたまへると、ここなる御達言ひしを、さやうにて泊りたまへるにやあらむ。
 おほかたいとまめやかに、すくよかにものしたまふ人を」
 「何とも妙な話です。
 まったくそのようにはお見えにならない方です。
 いろいろと気分が悪かったので、一休みしてお目にかかろうとおっしゃって、暫くの間立ち止まっていらっしゃると、ここの女房たちが言っていたが、そのように言ってお泊まりになったのでしょうか。
 だいたいが誠実で、実直でいらっしゃる方ですが」
   と、おぼめいたまひながら、心のうちに、  と、不審がりなさりながら、心の中では、
   「さることもやありけむ。
 ただならぬ御けしきは、折々見ゆれど、人の御さまのいとかどかどしう、あながちに人の誹りあらむことははぶき捨て、うるはしだちたまへるに、たはやすく心許されぬことはあらじと、うちとけたるぞかし。
 人少なにておはするけしきを見て、はひ入りもやしたまへりけむ」と思す。
 
 「そのような事があったのだろうか。
 普通でないご様子は、時々見えたが、お人柄がたいそうしっかりしていて、努めて人の非難を受けるようなことは避けて、真面目に振る舞っていらっしゃったのに、たやすく納得できないことはなさるまいと、安心していたのだ。
 人少なでいらっしゃる様子を見て、忍び込みなさったのであろうか」とお思いになる。
 
 
 

第三段 御息所、小少将君に問い質す

 
   律師立ちぬる後に、小少将の君を召して、  律師が立ち去った後に、小少将の君を呼んで、
   「かかることなむ聞きつる。
 いかなりしことぞ。
 などかおのれには、さなむ、かくなむとは聞かせたまはざりける。
 さしもあらじと思ひながら」
 「これこれの事を聞きました。
 どうした事ですか。
 どうしてわたしには、これこれ、しかじかの事があったとお聞かせ下さらなかったのですか。
 そんな事はあるまいと思いますが」
   とのたまへば、いとほしけれど、初めよりありしやうを、詳しう聞こゆ。
 今朝の御文のけしき、宮もほのかにのたまはせつるやうなど聞こえ、
 とおっしゃると、お気の毒であるが、最初からのいきさつを、詳しく申し上げる。
 今朝のお手紙の様子、宮もかすかに仰せになった事などを申し上げ、
   「年ごろ、忍びわたりたまひける心の内を、聞こえ知らせむとばかりにやはべりけむ。
 ありがたう用意ありてなむ、明かしも果てで出でたまひぬるを、人はいかに聞こえはべるにか」。
 
 「長年、秘めていらしたお胸の中を、お耳に入れようというほどでございましたでしょうか。
 めったにないお心づかいで、夜も明けきらないうちにお帰りになりましたが、人はどのようなふうに申し上げたのでございましょうか」
   律師とは思ひも寄らで、忍びて人の聞こえけると思ふ。
 ものものたまはで、いと憂く口惜しと思すに、涙ほろほろとこぼれたまひぬ。
 見たてまつるも、いといとほしう、「何に、ありのままに聞こえつらむ。
 苦しき御心地を、いとど思し乱るらむ」と悔しう思ひゐたり。
 
 律師とは思いもよらず、こっそりと女房が申し上げたものと思っている。
 何もおっしゃらず、とても残念だとお思いになると、涙がぽろぽろとこぼれなさった。
 拝見するのも、まことにお気の毒で、「どうして、ありのままを申し上げてしまったのだろう。
 苦しいご気分を、ますますお胸を痛めていらっしゃるだろう」と後悔していた。
 
   「障子は鎖してなむ」と、よろづによろしきやうに聞こえなせど、  「襖は懸金が懸けてありました」と、いろいろと適当に言いつくろって申し上げるが、
   「とてもかくても、さばかりに、何の用意もなく、軽らかに人に見えたまひけむこそ、いといみじけれ。
 うちうちの御心きようおはすとも、かくまで言ひつる法師ばら、よからぬ童べなどは、まさに言ひ残してむや。
 人には、いかに言ひあらがひ、さもあらぬことと言ふべきにかあらむ。
 すべて、心幼き限りしも、ここにさぶらひて」
 「どうあったにせよ、そのように近々と、何の用心もなく、軽々しく人とお会いになったことが、とんでもないのです。
 内心のお気持ちが潔白でいらっしゃっても、こうまで言った法師たちや、口さがない童などは、まさに言いふらさずには置くまい。
 世間の人には、どのように抗弁をし、何もなかった事と言うことができましょうか。
 皆、思慮の足りない者ばかりがここにお仕えしていて」
   とも、えのたまひやらず。
 いと苦しげなる御心地に、ものを思しおどろきたれば、いといとほしげなり。
 気高うもてなしきこえむとおぼいたるに、世づかはしう、軽々しき名の立ちたまふべきを、おろかならず思し嘆かる。
 
 と、最後までおっしゃれない。
 とても苦しそうなご容態の上に、心を痛めてびっくりなさったので、まことにお気の毒である。
 品高くお扱い申そうとお思いになっていたのに、色恋事の、軽々しい浮名がお立ちになるに違いないのを、並々ならずお嘆きにならずにはいられない。
 
   「かうすこしものおぼゆる隙に、渡らせたまうべう聞こえよ。
 そなたへ参り来べけれど、動きすべうもあらでなむ。
 見たてまつらで、久しうなりぬる心地すや」
 「このように少しはっきりしている間に、お越しになるよう申し上げなさい。
 あちらへお伺いすべきですが、動けそうにありません。
 お会いしないで、長くなってしまった気がしますわ」
   と、涙を浮けてのたまふ。
 参りて、
 と、涙を浮かべておっしゃる。
 参上して、
   「しかなむ聞こえさせたまふ」  「しかじかと申されていらっしゃいます」
   とばかり聞こゆ。
 
 とだけ申し上げる。
 
 
 

第四段 落葉宮、母御息所のもとに参る

 
   渡りたまはむとて、御額髪の濡れまろがれたる、ひきつくろひ、単衣の御衣ほころびたる、着替へなどしたまひても、とみにもえ動いたまはず。
 
 お越しになろうとして、額髪が濡れて固まっている、繕い直し、単重のお召し物が綻びているが、着替えなどなさっても、すぐにはお動きになれない。
 
   「この人びともいかに思ふらむ。
 まだえ知りたまはで、後にいささかも聞きたまふことあらむに、つれなくてありしよ」
 「この女房たちもどのように思っているだろう。
 まだご存知なくて、後に少しでもお聞きになることがあったとき、素知らぬ顔をしていたよ」
   と思しあはせむも、いみじう恥づかしければ、また臥したまひぬ。
 
 とお思い当たられるのも、ひどく恥ずかしいので、再び臥せっておしまいになった。
 
   「心地のいみじう悩ましきかな。
 やがて直らぬさまにもありなむ、いとめやすかりぬべくこそ。
 脚の気の上りたる心地す」
 「気分がひどく悩ましいわ。
 このまま治らなくなったら、とてもいい都合だろう。
 脚の気が上がった気がする」
   と、押し下させたまふ。
 ものをいと苦しう、さまざまに思すには、気ぞ上がりける。
 
 と、脚を指圧させなさる。
 心配事をとてもつらく、あれこれ気にしていらっしゃる時には、気が上がるのであった。
 
   少将、  小少将の君は、
   「上に、この御ことほのめかし聞こえける人こそはべけれ。
 いかなりしことぞ、と問はせたまひつれば、ありのままに聞こえさせて、御障子の固めばかりをなむ、すこしこと添へて、けざやかに聞こえさせつる。
 もし、さやうにかすめきこえさせたまはば、同じさまに聞こえさせたまへ」
 「母上に、あの御事をそれとなく申し上げた人がいたようでございます。
 どのような事であったのかと、お尋ねあそばしたので、ありのままに申し上げて、御襖障子の掛金の点だけを、少し誇張して、はっきりと申し上げました。
 もし、そのように何かお尋ねなさいましたら、同じように申し上げなさいまし」
   と申す。
 
 と申し上げる。
 
   嘆いたまへるけしきは聞こえ出でず。
 「さればよ」と、いとわびしくて、ものものたまはぬ御枕より、雫ぞ落つる。
 
 お嘆きでいらっしゃる様子は申し上げない。
 「やはりそうであったか」と、とても悲しくて、何もおっしゃらない御枕もとから涙の雫がこぼれる。
 
   「このことにのみもあらず、身の思はずになりそめしより、いみじうものをのみ思はせたてまつること」  「このことだけでない、不本意な結婚をして以来、ひどくご心配をお掛け申していることよ」
   と、生けるかひなく思ひ続けたまひて、「この人は、かうても止まで、とかく言ひかかづらひ出でむも、わづらはしう、聞き苦しかるべう」、よろづに思す。
 「まいて、いふかひなく、人の言によりて、いかなる名を朽たさまし」
 と、生きている甲斐もなくお思い続けなさって、「この方は、このまま引き下がることはなく、何かと言い寄ってくることも、厄介で聞き苦しいだろう」と、いろいろとお悩みになる。
 「まして、言いようもなく、相手の言葉に従ったらどんなに評判を落とすことになるだろう」
   など、すこし思し慰むる方はあれど、「かばかりになりぬる高き人の、かくまでも、すずろに人に見ゆるやうはあらじかし」と、宿世憂く思し屈して、夕つ方ぞ、  などと、多少はお気持ちの慰められる面もあるが、「内親王ほどにもなった高貴な人が、こんなにまでも、うかうかと男と会ってよいものであろうか」と、わが身の不運を悲しんで、夕方に、
   「なほ、渡らせたまへ」  「やはり、お出で下さい」
   とあれば、中の塗籠の戸開けあはせて、渡りたまへる。
 
 とあるので、中の塗籠の戸を両方を開けて、お越しになった。
 
 
 

第五段 御息所の嘆き

 
   苦しき御心地にも、なのめならずかしこまりかしづききこえたまふ。
 常の御作法あやまたず、起き上がりたまうて、
 苦しいご気分ながら、並々ならずかしこまって丁重にご応対申し上げなさる。
 いつものご作法と違わず、起き上がりなさって、
   「いと乱りがはしげにはべれば、渡らせたまふも心苦しうてなむ。
 この二、三日ばかり見たてまつらざりけるほどの、年月の心地するも、かつはいとはかなくなむ。
 後、かならずしも、対面のはべるべきにもはべらざめり。
 まためぐり参るとも、かひやははべるべき。
 
 「とても見苦しい有様でおりますので、お越し頂くにもお気の毒に存じます。
 ここ二、三日ほど、拝見しませんでした期間が、年月がたったような気がし、また一方では心細い気がします。
 後の世で、必ずしもお会いできるとも限らないもののようでございます。
 再びこの世に生まれて参っても、何にもならないことでございましょう。
 
   思へば、ただ時の間に隔たりぬべき世の中を、あながちにならひはべりにけるも、悔しきまでなむ」  考えてみれば、ただ一瞬一瞬の間に別れ別れにならねばならない世の中を、無理に馴れ親しんでまいりましたのも、悔しい気がします」
   など泣きたまふ。
 
 などとお泣きになる。
 
   宮も、もののみ悲しう取り集め思さるれば、聞こえたまふこともなくて見たてまつりたまふ。
 ものづつみをいたうしたまふ本性に、際々しうのたまひさはやぐべきにもあらねば、恥づかしとのみ思すに、いといとほしうて、いかなりしなども、問ひきこえたまはず。
 
 宮も、物悲しい思いばかりがせられて、申し上げる言葉もなくてただ拝見なさっている。
 ひどく内気なご性格で、はきはきと弁明をなさるような方ではないから、恥ずかしいとばかりお思いなので、とてもお気の毒になって、どのような事であったのですかなどと、お尋ね申し上げなさらない。
 
   大殿油など急ぎ参らせて、御台など、こなたにて参らせたまふ。
 もの聞こし召さずと聞きたまひて、とかう手づからまかなひ直しなどしたまへど、触れたまふべくもあらず。
 ただ御心地のよろしう見えたまふぞ、胸すこしあけたまふ。
 
 大殿油などを急いで灯させて、お膳など、こちらで差し上げなさる。
 何も召し上がらないとお聞きになって、あれこれと自分自身で食事を整え直しなさるが、箸もおつけにならない。
 ただご気分がよろしくお見えなので、少し胸がほっとなさる。
 
 
 

第三章 一条御息所の物語 行き違いの不幸

 
 

第一段 御息所、夕霧に返書

 
   かしこよりまた御文あり。
 心知らぬ人しも取り入れて、
 あちらからまたお手紙がある。
 事情を知らない女房が受け取って、
   「大将殿より、少将の君にとて、御使ひあり」  「大将殿から、少将の君にと言って、お使者があります」
   と言ふぞ、またわびしきや。
 少将、御文は取りつ。
 御息所、
 と言うのが、また辛いことであるよ。
 少将の君は、お手紙は受け取った。
 母御息所が、
   「いかなる御文にか」  「どのようなお手紙ですか」
   と、さすがに問ひたまふ。
 人知れず思し弱る心も添ひて、下に待ちきこえたまひけるに、さもあらぬなめりと思ほすも、心騷ぎして、
 と、やはりお尋ねになる。
 人知れず弱気な考えも起こって、内心はお待ち申し上げていらしたのに、いらっしゃらないようだとお思いになると、胸騷ぎがして、
   「いで、その御文、なほ聞こえたまへ。
 あいなし。
 人の御名を善さまに言ひ直す人は難きものなり。
 そこに心きよう思すとも、しか用ゐる人は少なくこそあらめ。
 心うつくしきやうに聞こえ通ひたまひて、なほありしままならむこそ良からめ。
 あいなき甘えたるさまなるべし」
 「さあ、そのお手紙には、やはりお返事をなさい。
 失礼ですよ。
 一度立った噂を良いほうに言い直してくれる人はいないものです。
 あなただけ潔白だとお思いになっても、そのまま信用してくれる人は少ないものです。
 素直にお手紙のやりとりをなさって、やはり以前と同様なのが良いことでしょう。
 いいかげんな馴れ過ぎた態度というものでしょう」
   とて、召し寄す。
 苦しけれどたてまつりつ。
 
 とおっしゃって、取り寄せなさる。
 辛いけれども差し上げた。
 
   「あさましき御心のほどを見たてまつり表いてこそ、なかなか心やすく、ひたぶる心もつきはべりぬべけれ。
 
 「驚くほど冷淡なお心をはっきり拝見しては、かえって気楽になって、一途な気持ちになってしまいそうです。
 
 

533
 せくからに 浅さぞ見えむ 山川の
 流れての名を つつみ果てずは」
 拒むゆえに浅いお心が見えましょう
 山川の流れのように浮名は包みきれませんから」
 
   と言葉も多かれど、見も果てたまはず。
 
 と言葉も多いが、最後まで御覧にならない。
 
   この御文も、けざやかなるけしきにもあらで、めざましげに心地よ顔に、今宵つれなきを、いといみじと思す。
 
 このお手紙も、はっきりした態度でもなく、いかにも癪に障るようないい気な調子で、今夜訪れないのを、とてもひどいとお思いになる。
 
   「故督の君の御心ざまの思はずなりし時、いと憂しと思ひしかど、おほかたのもてなしは、また並ぶ人なかりしかば、こなたに力ある心地して慰めしだに、世には心もゆかざりしを。
 あな、いみじや。
 大殿のわたりに思ひのたまはむこと」
 「故衛門督君が心外に思われた時、とても情けないと思ったが、表向きの待遇は、またとなく大事に扱われたので、こちらに権威のある気がして慰めていたのでさえ、満足ではなかったのに。
 ああ、何ということであろう。
 大殿のあたりでどうお思いになりおっしゃっていることだろうか」
   と思ひしみたまふ。
 
 と心をお痛めになる。
 
   「なほ、いかがのたまふと、けしきをだに見む」と、心地のかき乱りくるるやうにしたまふ目、おし絞りて、あやしき鳥の跡のやうに書きたまふ。
 
 「やはり、どのようにおっしゃるかと、せめて様子を窺ってみよう」と、気分がひどく悪く涙でかき曇ったような目、おし開けて、見にくい鳥の足跡のような字でお書きになる。
 
   「頼もしげなくなりにてはべる、訪らひに渡りたまへる折にて、そそのかしきこゆれど、いとはればれしからぬさまにものしたまふめれば、見たまへわづらひてなむ。
 
 「すっかり弱ってしまった、お見舞いにお越しになった折なので、お勧め申したのですが、まことに沈んだような様子でいらっしゃるようなので、見兼ねまして。
 
 

534
 女郎花 萎るる野辺を いづことて
 一夜ばかりの 宿を借りけむ」
 女郎花が萎れている野辺をどういうおつもりで
 一夜だけの宿をお借りになったのでしょう」
 
   と、ただ書きさして、おしひねりて出だしたまひて、臥したまひぬるままに、いといたく苦しがりたまふ。
 御もののけのたゆめけるにやと、人びと言ひ騒ぐ。
 
 と、ただ途中まで書いて、捻り文にしてお出しなさって、臥せっておしまいになったまま、とてもお苦しがりなさる。
 御物の怪が油断させていたのかと、女房たちは騒ぐ。
 
   例の、験ある限り、いと騒がしうののしる。
 宮をば、
 いつもの、効験のある僧すべてが、とても大声を出して祈祷する。
 宮に、
   「なほ、渡らせたまひね」  「やはり、あちらにお移りあそばせ」
   と、人びと聞こゆれど、御身の憂きままに、後れきこえじと思せば、つと添ひたまへり。
 
 と、女房たちが申し上げるが、ご自身が辛く思うと同時に、後れ申すまいとお思いなので、ぴったりと付き添っていらっしゃった。
 
 
 

第二段 雲居雁、手紙を奪う

 
   大将殿は、この昼つ方、三条殿におはしにける、今宵立ち返り参でたまはむに、「ことしもあり顔に、まだきに聞き苦しかるべし」など念じたまひて、いとなかなか年ごろの心もとなさよりも、千重にもの思ひ重ねて嘆きたまふ。
 
 大将殿は、この昼頃に、三条殿にいらっしゃったが、今晩再び小野にお伺いなさるのに、「何かわけがありそうで、まだ何もないのに外聞が悪かろう」などと気持ちをお抑えになって、ほんとにかえって今までの気がかりさよりも、幾重にも物思いを重ねて嘆息していらっしゃる。
 
   北の方は、かかる御ありきのけしきほの聞きて、心やましと聞きゐたまへるに、知らぬやうにて、君達もて遊び紛らはしつつ、わが昼の御座に臥したまへり。
 
 北の方は、このようなお忍び歩きの様子をちらっと聞いて、面白くなく思っていらっしゃるので、知らないふりをして、若君たちをあやして気を紛らしながら、ご自分の昼のご座所で臥していらっしゃった。
 
   宵過ぐるほどにぞ、この御返り持て参れるを、かく例にもあらぬ鳥の跡のやうなれば、とみにも見解きたまはで、大殿油近う取り寄せて見たまふ。
 女君、もの隔てたるやうなれど、いと疾く見つけたまうて、はひ寄りて、御後ろより取りたまうつ。
 
 ちょうど宵過ぎるころに、このお返事を持って参ったが、このようにいつもと違った鳥の足跡のような筆跡なので、直ぐにはご判読できないで、大殿油を近くに取り寄せて御覧になる。
 女君、物を隔てていたようであるが、とてもすばやくお見つけになって、這い寄って、殿の後ろから取り上げなさなった。
 
   「あさましう。
 こは、いかにしたまふぞ。
 あな、けしからず。
 六条の東の上の御文なり。
 今朝、風邪おこりて悩ましげにしたまへるを、院の御前にはべりて、出でつるほど、またも参うでずなりぬれば、いとほしさに、今の間いかにと、聞こえたりつるなり。
 見たまへよ、懸想びたる文のさまか。
 さても、なほなほしの御さまや。
 年月に添へて、いたうあなづりたまふこそうれたけれ。
 思はむところを、むげに恥ぢたまはぬよ」
 「あきれたことを。
 これは、何をなさるのですか。
 何と、けしからん。
 六条の東の上様のお手紙です。
 今朝、風邪をひいて苦しそうでいらっしゃったが、院の御前におりまして、帰る時に、もう一度伺わないままになってしまったので、お気の毒に思って、ただ今の加減はいかかがですかと、申し上げたのです。
 御覧なさい。
 恋文めいた手紙の様子ですか。
 それにしても、はしたないなさりようです。
 年月とともに、ひどく馬鹿になさるのが情けないことです。
 どう思うか、全く気になさらないのですね」
   とうちうめきて、惜しみ顔にもひこしろひたまはねば、さすがに、ふとも見で持たまへり。
 
 と慨嘆して、大切そうに無理に取り返そうとなさらないので、それでもやはり、すぐには見ずに持ったままでいらっしゃった。
 
   「年月に添ふるあなづらはしさは、御心ならひなべかめり」  「年月につれて馬鹿になさるのは、あなたのほうこそそうでございますわ」
   とばかり、かくうるはしだちたまへるに憚りて、若やかにをかしきさましてのたまへば、うち笑ひて、  とだけ、このように泰然としていらっしゃる態度に気後れして、若々しくかわいらしい顔つきでおっしゃるので、ふとお笑いになって、
   「そは、ともかくもあらむ。
 世の常のことなり。
 またあらじかし、よろしうなりぬる男の、かく紛ふ方なく、一つ所を守らへて、もの懼ぢしたる鳥の兄鷹やうのもののやうなるは。
 いかに人笑ふらむ。
 さるかたくなしき者に守られたまふは、御ためにもたけからずや。
 
 「それは、どちらでも良いことでしょう。
 夫婦とはそのようなものです。
 二人といないでしょうね、相当な地位に上った男が、このように気を紛らすことなく、一人の妻を守り続けて、びくびくしている雄鷹のような者はね。
 どんなに人が笑っているでしょう。
 そのような愚か者に守られていらっしゃるのは、あなたにとっても名誉なことではありますまい。
 
   あまたが中に、なほ際まさり、ことなるけぢめ見えたるこそ、よそのおぼえも心にくく、わが心地もなほ古りがたく、をかしきこともあはれなるすぢも絶えざらめ。
 かく翁のなにがし守りけむやうに、おれ惑ひたれば、いとぞ口惜しき。
 いづこの栄えかあらむ」
 大勢の妻妾の中で、それでも一段と際立って、格別に重んじられていることが、世間の見る目も奥ゆかしく、わが気持ちとしてもいつまでも新鮮な感じがして、興をそそることもしみじみとしたことも続くでしょう。
 このように翁が何かを守ったように、愚かしく迷っているので、大変に残念なことです。
 どこに見栄えがありましょうか」
   と、さすがに、この文のけしきなくをこつり取らむの心にて、欺き申したまへば、いとにほひやかにうち笑ひて、  と、そうはいっても、この手紙を欲しそうな態度を見せずにだまし取ろうとのつもりで、嘘を申し上げると、とても高かにお笑いになって、
   「ものの映え映えしさ作り出でたまふほど、古りぬる人苦しや。
 いと今めかしくなり変はれる御けしきのすさまじさも、見ならはずなりにける事なれば、いとなむ苦しき。
 かねてよりならはしたまはで」
 「見栄えのある事をお作りになるので、年取ったわたしは辛いのです。
 とても若々しくなられたご様子がぞっとしてなりませんことも、今まで経験したことのない事なので、とても辛いのです。
 以前から馴れさせてお置きにならないで」
   とかこちたまふも、憎くもあらず。
 
 と文句をおっしゃるのも、憎くはない。
 
   「にはかにと思すばかりには、何ごとか見ゆらむ。
 いとうたてある御心の隈かな。
 よからずもの聞こえ知らする人ぞあるべき。
 あやしう、もとよりまろをば許さぬぞかし。
 なほ、かの緑の袖の名残、あなづらはしきにことづけて、もてなしたてまつらむと思ふやうあるにや。
 いろいろ聞きにくきことどもほのめくめり。
 あいなき人の御ためにも、いとほしう」
 「急にとお考えになる程に、どこが変わって見えるのでしょう。
 とても嫌なお心の隔てですね。
 良くないことを申し上げる女房がいるのでしょう。
 不思議と、昔からわたしのことを良く思っていないのです。
 依然として、あの緑の六位の袍の名残で、軽蔑しやすいことにつけて、あなたをうまく操ろうと思っているのではないでしょうか。
 いろいろと聞きにくいことをほのめかしているらしい。
 関わりのない方にとっても、お気の毒です」
   などのたまへど、つひにあるべきことと思せば、ことにあらがはず。
 大輔の乳母、いと苦しと聞きて、ものも聞こえず。
 
 などとおっしゃるが、結局はそうなることだとお考えなので、特に言い争いはしない。
 大輔の乳母は、とても辛いと聞いて、何も申し上げない。
 
 
 

第三段 手紙を見ぬまま朝になる

 
   とかく言ひしろひて、この御文はひき隠したまひつれば、せめても漁り取らで、つれなく大殿籠もりぬれば、胸はしりて、「いかで取りてしがな」と、「御息所の御文なめり。
 何ごとありつらむ」と、目も合はず思ひ臥したまへり。
 
 あれこれと言い合いをして、このお手紙はお隠しになってしまったので、無理しても探し出さず、さりげない顔してお寝みになったので、胸騷ぎがして、「何とかして奪い返したいものだ」と、「御息所のお手紙のようだ。
 何事があったのだろう」と、目も合わず考えながら臥せっていらっしゃった。
 
   女君の寝たまへるに、昨夜の御座の下などに、さりげなくて探りたまへど、なし。
 隠したまへらむほどもなければ、いと心やましくて、明けぬれど、とみにも起きたまはず。
 
 女君が眠っていらっしゃる間に、昨夜のご座所の下などを、何げなくお探しになるが、ない。
 お隠しなさる場所もないのに、とても悔しい思いで、夜も明けてしまったが、すぐにはお起きにならない。
 
   女君は、君達におどろかされて、ゐざり出でたまふにぞ、われも今起きたまふやうにて、よろづにうかがひたまへど、え見つけたまはず。
 女は、かく求めむとも思ひたまへらぬをぞ、「げに、懸想なき御文なりけり」と、心にも入れねば、君達のあわて遊びあひて、雛作り、拾ひ据ゑて遊びたまふ、書読み、手習ひなど、さまざまにいとあわたたし、小さき稚児這ひかかり引きしろへば、取りし文のことも思ひ出でたまはず。
 
 女君は、若君たちに起こされて、いざり出ていらっしゃったので、自分も今お起きになったようにして、あちこちとお探しになるが、見つけることがおできになれない。
 妻は、このように探そうとお思いなさらないので、「なるほど、恋文ではないお手紙であったのだ」と、気にもかけていないので、若君たちが騒がしく遊びあって、人形を作って、立て並べて遊んでいらっしゃり、漢籍を読んだり、習字をしたりなど、いろいろと雑然としていて、小さい稚児が這ってきて裾を引っ張るので、奪い取った手紙のこともお思い出しにならない。
 
   男は、異事もおぼえたまはず、かしこに疾く聞こえむと思すに、昨夜の御文のさまも、えたしかに見ずなりにしかば、「見ぬさまならむも、散らしてけると推し量りたまふべし」など、思ひ乱れたまふ。
 
 夫は、他の事もお考えにならず、あちらに早く返事を差し出そうとお思いになると、昨夜の手紙の内容も、よく読まないままになってしまったので、「見ないで書いたというようなのも、なくしたのだとお察しになるだろう」などと、お思い乱れなさる。
 
   誰れも誰れも御台参りなどして、のどかになりぬる昼つ方、思ひわづらひて、  どなたもどなたもお食事などを召し上がったりして、のんびりとなった昼ころに、困りきって、
   「昨夜の御文は、何ごとかありし。
 あやしう見せたまはで。
 今日も訪らひ聞こゆべし。
 悩ましうて、六条にもえ参るまじければ、文をこそはたてまつらめ。
 何ごとかありけむ」
 「昨夜のお手紙には、何が書いてありましたか。
 けしからん事にお見せにならないで。
 今日もお見舞い申そう。
 気分が悪くて、六条院にも参上することができないようなので、手紙を差し上げたい。
 何が書いてあったのだろうか」
   とのたまふが、いとさりげなければ、「文は、をこがましう取りてけり」とすさまじうて、そのことをばかけたまはず、  とおっしゃるのが、とてもさりげないので、「手紙を、愚かにも奪い取ってしまった」と興醒めがして、そのことはおっしゃらずに、
   「一夜の深山風に、あやまりたまへる悩ましさななりと、をかしきやうにかこちきこえたまへかし」  「昨夜の深山風に当たって、具合を悪くされたらしいと、風流気取りで訴えられたらよいでしょう」
   と聞こえたまふ。
 
 と申し上げなさる。
 
   「いで、このひがこと、な常にのたまひそ。
 何のをかしきやうかある。
 世人になずらへたまふこそ、なかなか恥づかしけれ。
 この女房たちも、かつはあやしきまめざまを、かくのたまふと、ほほ笑むらむものを」
 「さあ、そんな冗談、いつまでもおっしゃいませんな。
 何の風流なことがあろうか。
 世間の人と一緒になさるのは、かえって気が引けます。
 ここの女房たちも、一方では不思議なほどの堅物を、このようにおっしゃると、笑っていることでしょうよ」
   と、戯れ言に言ひなして、  と、冗談に言いなして、
   「その文よ。
 いづら」
 「その手紙ですよ。
 どこですか」
   とのたまへど、とみにも引き出でたまはぬほどに、なほ物語など聞こえて、しばし臥したまへるほどに、暮れにけり。
 
 とお尋ねになるが、すぐにはお出しにならないままに、またお話などを申し上げて、暫く横になっていらっしゃるうちに、日が暮れてしまった。
 
 
 

第四段 夕霧、手紙を見る

 
   ひぐらしの声におどろきて、「山の蔭いかに霧りふたがりぬらむ。
 あさましや。
 今日この御返事をだに」と、いとほしうて、ただ知らず顔に硯おしすりて、「いかになしてしにかとりなさむ」と、眺めおはする。
 
 蜩の鳴き声に目が覚めて、「小野の麓ではどんなに霧が立ち籠めているだろう。
 何ということか。
 せめて今日中にお返事をしよう」と、お気の毒になって、ただ知らない顔をして硯を擦って、「どのように取り繕って書こうか」と、物思いに耽っていらっしゃる。
 
   御座の奥のすこし上がりたる所を、試みにひき上げたまへれば、「これにさし挟みたまへるなりけり」と、うれしうもをこがましうもおぼゆるに、うち笑みて見たまふに、かう心苦しきことなむありける。
 胸つぶれて、「一夜のことを、心ありて聞きたまうける」と思すに、いとほしう心苦し。
 
 ご座所の奥の少し盛り上がった所を、試しにお引き上げなさったところ、「ここに差し挟みなさったのだ」と、嬉しくもまた馬鹿らしくも思えるので、にっこりして御覧になると、あのようなおいたわしいことが書いてあったのであった。
 胸がどきりとして、「先夜の出来事を、何かあったようにお聞きになったのだ」とお思いになると、おいたわしくて胸が痛む。
 
   「昨夜だに、いかに思ひ明かしたまうけむ。
 今日も、今まで文をだに」
 「昨夜でさえ、どれほどの思いで夜をお明かしになったことだろう。
 今日も、今まで手紙さえ上げずに」
   と、言はむ方なくおぼゆ。
 いと苦しげに、言ふかひなく、書き紛らはしたまへるさまにて、
 と、何とも言いようなく思われる。
 とても苦しそうに、言いようもなく、書き紛らしていらっしゃる様子で、
   「おぼろけに思ひあまりてやは、かく書きたまうつらむ。
 つれなくて今宵の明けつらむ」
 「よほど思案にあまって、このようにお書きになったのだろう。
 返事のないまま、夜が明けていくのだろう」
   と、言ふべき方のなければ、女君ぞ、いとつらう心憂き。
 
 と、申し上げる言葉もないので、女君が、まことに辛く恨めしい。
 
   「すずろに、かく、あだへ隠して。
 いでや、わがならはしぞや」と、さまざまに身もつらく、すべて泣きぬべき心地したまふ。
 
 「いいかげんな、あなようなことをして、悪ふざけに隠すとは。
 いやはや、自分がこのようにしつけたのだ」と、あれこれとわが身が情けなくなって、全く泣き出したい気がなさる。
 
   やがて出で立ちたまはむとするを、  そのままお出かけなさろうとするが、
   「心やすく対面もあらざらむものから、人もかくのたまふ、いかならむ。
 坎日にもありけるを、もしたまさかに思ひ許したまはば、悪しからむ。
 なほ吉からむことをこそ」
 「気安く対面することもできないだろうから、御息所もあのようにおっしゃっているし、どうであろうか。
 坎日でもあったが、もし万が一にお許し下さっても、日が悪かろう。
 やはり縁起の良いように」
   と、うるはしき心に思して、まづ、この御返りを聞こえたまふ。
 
 と、几帳面な性格から判断なさって、まずは、このお返事を差し上げなさる。
 
   「いとめづらしき御文を、かたがたうれしう見たまふるに、この御咎めをなむ。
 いかに聞こし召したることにか。
 
 「とても珍しいお手紙を、何かと嬉しく拝見しましたが、このお叱りは。
 どのようにお聞きあそばしたのですか。
 
 

535
 秋の野の 草の茂みは 分けしかど
 仮寝の枕 結びやはせし
  秋の野の草の茂みを踏み分けてお伺い致しましたが
  仮初の夜の枕に契りを結ぶようなことを致しましょうか
 
   明らめきこえさするもあやなけれど、昨夜の罪は、ひたやごもりにや」  言い訳を申すのも筋違いですが、昨夜の罪は、一方的過ぎませんでしょうか」
   とあり。
 宮には、いと多く聞こえたまて、御厩に足疾き御馬に移し置きて、一夜の大夫をぞたてまつれたまふ。
 
 とある。
 宮には、たいそう多くお書き申し上げなさって、御厩にいる足の速いお馬に移し鞍を置いて、先夜の大夫を差し向けなさる。
 
   「昨夜より、六条の院にさぶらひて、ただ今なむまかでつると言へ」  「昨夜から、六条院に伺候していて、たった今退出してきたところだと言え」
   とて、言ふべきやう、ささめき教へたまふ。
 
 と言って、言うべきさま、ひそひそとお教えになる。
 
 
 

第五段 御息所の嘆き

 
   かしこには、昨夜もつれなく見えたまひし御けしきを、忍びあへで、後の聞こえをもつつみあへず恨みきこえたまうしを、その御返りだに見えず、今日の暮れ果てぬるを、いかばかりの御心にかはと、もて離れてあさましう、心もくだけて、よろしかりつる御心地、またいといたう悩みたまふ。
 
 あちらでは、昨夜も薄情なとお見えになったご様子を、我慢することができないで、後のちの評判をもはばからず恨み申し上げなさったが、そのお返事さえ来ずに、今日がすっかり暮れてしまったのを、どれ程のお気持ちかと、愛想が尽きて、驚きあきれて、心も千々に乱れて、すこしは好ろしかったご気分も、再びたいそうひどくお苦しみになる。
 
   なかなか正身の御心のうちは、このふしをことに憂しとも思し、驚くべきことしなければ、ただおぼえぬ人に、うちとけたりしありさまを見えしことばかりこそ口惜しけれ、いとしも思ししまぬを、かくいみじうおぼいたるを、あさましう恥づかしう、明らめきこえたまふ方なくて、例よりももの恥ぢしたまへるけしき見えたまふを、「いと心苦しう、ものをのみ思ほし添ふべかりける」と見たてまつるも、胸つとふたがりて悲しければ、  かえってご本人のお気持ちは、このことを特に辛いこととお思いになり、心を動かすほどのことではないので、ただ思いも寄らない方に、気を許した態度で会ったことだけが残念であったが、たいしてお心にかけていなかったのに、このようにひどくお悩みになっているのを、言いようもなく恥ずかしく、弁解申し上げるすべもなくて、いつもよりも恥ずかしがっていらっしゃる様子にお見えになるのを、「とてもお気の毒で、ご心労ばかりがお加わりになって」と拝するにつけても、胸が締めつけられて悲しいので、
   「今さらにむつかしきことをば聞こえじと思へど、なほ、御宿世とはいひながら、思はずに心幼くて、人のもどきを負ひたまふべきことを。
 取り返すべきことにはあらねど、今よりは、なほさる心したまへ。
 
 「今さら厄介なことは申し上げまいと思いますが、やはり、ご運命とは言いながらも、案外に思慮が甘くて、人から非難されなさることでしょうが。
 それを元に戻れるものではありませんが、今からは、やはり慎重になさいませ。
 
   数ならぬ身ながらも、よろづに育みきこえつるを、今は何事をも思し知り、世の中のとざまかうざまのありさまをも、思したどりぬべきほどに、見たてまつりおきつることと、そなたざまはうしろやすくこそ見たてまつりつれ、なほいといはけて、強き御心おきてのなかりけることと、思ひ乱れはべるに、今しばしの命もとどめまほしうなむ。
 
 物の数に入るわが身ではありませんが、いろいろとお世話申し上げてきましたが、今ではどのようなことでもお分かりになり、世の中のあれやこれやの有様も、お分かりになるほどに、お世話申してきたことと、そうした方面は安心だと拝見していましたが、やはりとても幼くて、しっかりしたお心構えがなかったことと、思い乱れておりますので、もう暫く長生きしたく思います。
 
   ただ人だに、すこしよろしくなりぬる女の、人二人と見るためしは、心憂くあはつけきわざなるを、ましてかかる御身には、さばかりおぼろけにて、人の近づききこゆべきにもあらぬを、思ひのほかに心にもつかぬ御ありさまと、年ごろも見たてまつり悩みしかど、さるべき御宿世にこそは。
 
 普通の人でさえ、多少とも人並みの身分に育った女性で、二人の男性に嫁ぐ例は、感心しない軽薄なことですのに、ましてこのようなご身分では、そのようないい加減なことで、男性がお近づき申してよいことでもないのに、思ってもいませんでした心外なご結婚と、長年来心を痛めてまいりましたが、そのようなご運命であったのでしょう。
 
   院より始めたてまつりて、思しなびき、この父大臣にも許いたまふべき御けしきありしに、おのれ一人しも心をたてても、いかがはと思ひ寄りはべりしことなれば、末の世までものしき御ありさまを、わが御過ちならぬに、大空をかこちて見たてまつり過ぐすを、いとかう人のためわがための、よろづに聞きにくかりぬべきことの出で来添ひぬべきが、さても、よその御名をば知らぬ顔にて、世の常の御ありさまにだにあらば、おのづからあり経むにつけても、慰むこともやと、思ひなしはべるを、こよなう情けなき人の御心にもはべりけるかな」  院をお始め申して、御賛成なさり、この父大臣にもお許しなさろうとの御内意があったのに、わたし一人が反対を申し上げても、どんなものかと思いよりましたことですが、のちのちまで面白からぬお身の上を、あなたご自身の過ちではないので、天命を恨んでお世話してまいりましたが、とてもこのような相手にとってもあなたにとっても、いろいろと聞きにくい噂が加わって来ましょうが、そうなっても、世間の噂を知らない顔をして、せめて世間並のご夫婦としてお暮らしになれるのでしたら、自然と月日が過ぎて行くうちに、心の安まる時が来ようかと、思う気持ちにもなりましたが、この上ない薄情なお心の方でございますね」
   と、つぶつぶと泣きたまふ。
 
 と、ほろほろとお泣きになる。
 
 
 

第六段 御息所死去す

 
   いとわりなくおしこめてのたまふを、あらがひはるけむ言の葉もなくて、ただうち泣きたまへるさま、おほどかにらうたげなり。
 うちまもりつつ、
 ほんとうにどうしようもなく独りぎめにしておっしゃるので、抗弁して申し開きをする言葉もなくて、ただ泣いていらっしゃる様子、おっとりとしていじらしい。
 じっと見つめながら、
   「あはれ、何ごとかは、人に劣りたまへる。
 いかなる御宿世にて、やすからず、ものを深く思すべき契り深かりけむ」
「ああ、どこが、人に劣っていらっしゃろうか。
 どのようなご運命で、心も安まらず、物思いなさらなければならない因縁が深かったのでしょう」
   などのたまふままに、いみじう苦しうしたまふ。
 もののけなども、かかる弱目に所得るものなりければ、にはかに消え入りて、ただ冷えに冷え入りたまふ。
 律師も騷ぎたちたまうて、願など立てののしりたまふ。
 
 などとおっしゃるうちに、ひどくお苦しみになる。
 物の怪などが、このような弱り目につけ込んで勢いづくものだから、急に息も途絶えて、見る見るうちに冷たくなっていかれる。
 律師も騷ぎ出しなさって、願などを立てて大声でお祈りなさる。
 
   深き誓ひにて、今は命を限りける山籠もりを、かくまでおぼろけならず出で立ちて、壇こぼちて帰り入らむことの、面目なく、仏もつらくおぼえたまふべきことを、心を起こして祈り申したまふ。
 宮の泣き惑ひたまふこと、いとことわりなりかし。
 
 深い誓いを立てて、命果てるまでと決心した山籠もりを、こんなにまで並々の思いでなく出てきて、壇を壊して退出することが、面目なくて、仏も恨めしく思わずいはいらっしゃれない趣旨を、一心不乱にお祈り申し上げなさる。
 宮が泣き取り乱していらっしゃること、まことに無理もないことではある。
 
   かく騒ぐほどに、大将殿より御文取り入れたる、ほのかに聞きたまひて、今宵もおはすまじきなめり、とうち聞きたまふ。
 
 このように騒いでいる最中に、大将殿からお手紙を受け取ったと、かすかにお聞きになって、今夜もいらっしゃらないらしい、とお聞きになる。
 
   「心憂く。
 世のためしにも引かれたまふべきなめり。
 何に我さへさる言の葉を残しけむ」
 「情けない。
 世間の話の種にも引かれるに違いない。
 どうして自分まであのような和歌を残したのだろう」
   と、さまざま思し出づるに、やがて絶え入りたまひぬ。
 あへなくいみじと言へばおろかなり。
 昔より、もののけには時々患ひたまふ。
 限りと見ゆる折々もあれば、「例のごと取り入れたるなめり」とて、加持参り騒げど、今はのさま、しるかりけり。
 
 と、あれこれとお思い出しなさると、そのまま息絶えてしまわれた。
 あっけなく情けないことだと言っても言い足りない。
 昔から、物の怪には時々お患いになさる。
 最期と見えた時々もあったので、「いつものように物の怪が取り入ったのだろう」と考えて、加持をして大声で祈ったが、臨終の様子は、明らかであったのだ。
 
   宮は、後れじと思し入りて、つと添ひ臥したまへり。
 人びと参りて、
 宮は、一緒に死にたいとお悲しみに沈んで、ぴったりと添い臥していらっしゃった。
 女房たちが参って、
   「今は、いふかひなし。
 いとかう思すとも、限りある道は、帰りおはすべきことにもあらず。
 慕ひきこえたまふとも、いかでか御心にはかなふべき」
 「もう、何ともしかたありません。
 まことこのようにお悲しみになっても、定められた運命の道は、引き返すことはできるものでありません。
 お慕い申されようとも、どうしてお思いどおりになりましょう」
   と、さらなることわりを聞こえて、  と、言うまでもない道理を申し上げて、
   「いとゆゆしう。
 亡き御ためにも、罪深きわざなり。
 今は去らせたまへ」
 「とても不吉です。
 亡くなったお方にとっても、罪深いことです。
 もうお離れなさいまし」
   と、引き動かいたてまつれど、すくみたるやうにて、ものもおぼえたまはず。
 
 と、引き動かし申し上げるが、身体もこわばったようで、何もお分かりにならない。
 
   修法の壇こぼちて、ほろほろと出づるに、さるべき限り、片へこそ立ちとまれ、今は限りのさま、いと悲しう心細し。
 
 修法の壇を壊して、ばらばらと出て行くので、しかるべき僧たちだけ、一部の者が残ったが、今は全てが終わった様子、まことに悲しく心細い。
 
 
 

第七段 朱雀院の弔問の手紙

 
   所々の御弔ひ、いつの間にかと見ゆ。
 大将殿も、限りなく聞き驚きたまうて、まづ聞こえたまへり。
 六条の院よりも、致仕の大殿よりも、すべていとしげう聞こえたまふ。
 山の帝も聞こし召して、いとあはれに御文書いたまへり。
 宮は、この御消息にぞ、御ぐしもたげたまふ。
 
 あちこちからのご弔問、いつの間に知れたのかと見える。
 大将殿も、限りなく驚きなさって、さっそくご弔問申し上げなさった。
 六条院からも、致仕の大臣からも、皆々頻繁にご弔問申し上げなさる。
 山の帝もお聞きあそばして、まことにしみじみとしたお手紙をお書きなさっていた。
 宮は、このお手紙には、おぐしをお上げなさる。
 
   「日ごろ重く悩みたまふと聞きわたりつれど、例も篤しうのみ聞きはべりつるならひに、うちたゆみてなむ。
 かひなきことをばさるものにて、思ひ嘆いたまふらむありさま推し量るなむ、あはれに心苦しき。
 なべての世のことわりに思し慰めたまへ」
 「長らく重く患っていらっしゃるとずっと聞いていましたが、いつも病気がちとばかり聞き馴れておりましたので、つい油断しておりました。
 言ってもしかたのないことはそれとして、お悲しみ嘆いていらっしゃるだろう有様、想像するのがお気の毒でおいたわしい。
 すべて世の中の定めとお諦めになって慰めなさい」
   とあり。
 目も見えたまはねど、御返り聞こえたまふ。
 
 とある。
 目もお見えにならないが、お返事は申し上げなさる。
 
   常にさこそあらめとのたまひけることとて、今日やがてをさめたてまつるとて、御甥の大和守にてありけるぞ、よろづに扱ひきこえける。
 
 普段からそうして欲しいとおっしゃっていたことなので、今日直ちに葬儀を執り行い申すことになって、御甥の大和守であった者が、万事お世話申し上げたのであった。
 
   骸をだにしばし見たてまつらむとて、宮は惜しみきこえたまひけれど、さてもかひあるべきならねば、皆いそぎたちて、ゆゆしげなるほどにぞ、大将おはしたる。
 
 せめて亡骸だけでも暫くの間拝していたいと思って、宮は惜しみ申し上げなさったが、いくら別れを惜しんでもきりがないので、皆準備にとりかかって、忌中の最中に、大将がいらっしゃった。
 
   「今日より後、日ついで悪しかりけり」  「今日から後は、日柄が悪いのだ」
   など、人聞きにはのたまひて、いとも悲しうあはれに、宮の思し嘆くらむことを推し量りきこえたまうて、  などと、人前ではおっしゃって、とても悲しくしみじみと、宮がお悲しみであろうことをご推察申し上げなさって、
   「かくしも急ぎわたりたまふべきことならず」  「こんなに急いでお出掛けになる必要はありません」
   と、人びといさめきこゆれど、しひておはしましぬ。
 
 と、女房たちがお引き止め申したが、無理にいらっしゃった。
 
 
 

第八段 夕霧の弔問

 
   ほどさへ遠くて、入りたまふほど、いと心すごし。
 ゆゆしげに引き隔てめぐらしたる儀式の方は隠して、この西面に入れたてまつる。
 大和守出で来て、泣く泣くかしこまりきこゆ。
 妻戸の簀子におし掛かりたまうて、女房呼び出でさせたまふに、ある限り、心も収まらず、物おぼえぬほどなり。
 
 道のりまでも遠くて、山麓にお入りになるころ、じつにぞっとした気がする。
 不吉そうに幕を引き廻らした葬儀の方は目につかないようにして、この西面にお入れ申し上げる。
 大和守が出て来て、泣きながら挨拶を申し上げる。
 妻戸の前の簀子に寄り掛かりなさって、女房をお呼び出しなさるが、伺候する者みな、悲しみも収まらず、何も考えられない状態である。
 
   かく渡りたまへるにぞ、いささか慰めて、少将の君は参る。
 物もえのたまひやらず。
 涙もろにおはせぬ心強さなれど、所のさま、人のけはひなどを思しやるも、いみじうて、常なき世のありさまの、人の上ならぬも、いと悲しきなりけり。
 ややためらひて、
 このようにお越しになったので、すこし気持ちもほっとして、小少将の君は参った。
 何もおっしゃることができない。
 涙もろくはいらっしゃらない気丈な方であるが、場所柄、人の様子などをお思いやりになると、ひどく悲しくて、無常の世の有様が、他人事でもないのも、まことに悲しいのであった。
 少し気を落ち着けてから、
   「よろしうおこたりたまふさまに承りしかば、思うたまへたゆみたりしほどに。
 夢も覚むるほどはべなるを、いとあさましうなむ」
 「好くおなりになったように承っておりましたので、油断しておりました時に。
 夢でも醒める時がございますというのに、何とも思いがけないことで」
   と聞こえたまへり。
 「思したりしさま、これに多くは御心も乱れにしぞかし」と思すに、さるべきとは言ひながらも、いとつらき人の御契りなれば、いらへをだにしたまはず。
 
 と申し上げなさった。
 「ご心痛であったご様子、この方のために多くはお心も乱れになったのだ」とお思いになると、そうなる運命とはいっても、まことに恨めしい人とのご因縁なので、お返事さえなさらない。
 
   「いかに聞こえさせたまふとか、聞こえはべるべき」  「どのように申し上げあそばしたかと、申し上げましょうか」
   「いと軽らかならぬ御さまにて、かくふりはへ急ぎ渡らせたまへる御心ばへを、思し分かぬやうならむも、あまりにはべりぬべし」  「とても重々しいご身分で、このように遠路急いでお越しになったご厚志を、お分かりにならないようなのも、あまりというものでございましょう」
   と、口々聞こゆれば、  と、口々に申し上げるので、
   「ただ、推し量りて。
 我は言ふべきこともおぼえず」
 「ただ、よいように返事せよ。
 わたしはどう言ってよいか分かりません」
   とて、臥したまへるもことわりにて、  とおっしゃって、臥せっていらっしゃるのも道理なので、
   「ただ今は、亡き人と異ならぬ御ありさまにてなむ。
 渡らせたまへるよしは、聞こえさせはべりぬ」
 「ただ今は、亡き人と同然のご様子でありまして。
 お出あそばしました旨は、お耳に入れ申し上げました」
   と聞こゆ。
 この人びともむせかへるさまなれば、
 と申し上げる。
 この女房たちも涙にむせんでいる様子なので、
   「聞こえやるべき方もなきを。
 今すこしみづからも思ひのどめ、また静まりたまひなむに、参り来む。
 いかにしてかくにはかにと、その御ありさまなむゆかしき」
 「お慰め申し上げようもありませんが。
 もう少し、私自身も気が静まって、またお静まりになったころに、参りましょう。
 どうしてこのように急にと、そのご様子が知りたい」
   とのたまへば、まほにはあらねど、かの思ほし嘆きしありさまを、片端づつ聞こえて、  とおっしゃると、すっかりではないが、あのお悩みになり嘆いていた様子を、少しずつお話し申し上げて、
   「かこちきこえさするさまになむ、なりはべりぬべき。
 今日は、いとど乱りがはしき心地どもの惑ひに、聞こえさせ違ふることどももはべりなむ。
 さらば、かく思し惑へる御心地も、限りあることにて、すこし静まらせたまひなむほどに、聞こえさせ承らむ」
 「恨み言を申し上げるようなことに、きっとなりましょう。
 今日は、いっそう取り乱したみなの気持ちのせいで、間違ったことを申し上げることもございましょう。
 それゆえ、このようにお悲しみに暮れていらっしゃるご気分も、きりのあるはずのことで、少しお静まりあそばしたころに、お話を申し上げ承りましょう」
   とて、我にもあらぬさまなれば、のたまひ出づることも口ふたがりて、  と言って、正気もない様子なので、おっしゃる言葉も口に出ず、
   「げにこそ、闇に惑へる心地すれ。
 なほ、聞こえ慰めたまひて、いささかの御返りもあらばなむ」
 「なるほど、闇に迷った気がします。
 やはり、お慰め申し上げなさって、わずかのお返事でもありましたら」
   などのたまひおきて、立ちわづらひたまふも、軽々しう、さすがに人騒がしければ、帰りたまひぬ。
 
 などと言い残しなさって、ぐずぐずしていらっしゃるのも、身分柄軽々しく思われ、そうはいっても人目が多いので、お帰りになった。
 
 
 

第九段 御息所の葬儀

 
   今宵しもあらじと思ひつる事どものしたため、いとほどなく際々しきを、いとあへなしと思いて、近き御荘の人びと召し仰せて、さるべき事ども仕うまつるべく、おきて定めて出でたまひぬ。
 事のにはかなれば、削ぐやうなりつることども、いかめしう、人数なども添ひてなむ。
 大和守も、
 まさか今夜ではあるまいと思っていた葬儀の準備が、実に短時間にてきぱきと整えられたのを、いかにもあっけないとお思いになって、近くの御荘園の人々をお呼びになりお命じになって、しかるべき事どもをお仕えするように、指図してお帰りになった。
 事が急なので、簡略になりがちであったのが、盛大になり、人数も多くなった。
 大和守も、
   「ありがたき殿の御心おきて」  「有り難い殿のお心づかいだ」
   など、喜びかしこまりきこゆ。
 「名残だになくあさましきこと」と、宮は臥しまろびたまへど、かひなし。
 親と聞こゆとも、いとかくはならはすまじきものなりけり。
 見たてまつる人びとも、この御事を、またゆゆしう嘆ききこゆ。
 大和守、残りのことどもしたためて、
 などと、喜んでお礼申し上げる。
 「跡形もなくあっけないこと」と、宮は身をよじってお悲しみになるが、どうすることもできない。
 親と申し上げても、まことにこのように仲睦まじくするものではないのだった。
 拝見する女房たちも、このご悲嘆を、また不吉だと嘆き申し上げる。
 大和守は、後始末をして、
   「かく心細くては、えおはしまさじ。
 いと御心の隙あらじ」
 「このように心細い状態では、いらっしゃれまい。
 とてもお心の紛れることはありますまい」
   など聞こゆれど、なほ、峰の煙をだに、気近くて思ひ出できこえむと、この山里に住み果てなむと思いたり。
 
 などと申し上げるが、やはり、せめて峰の煙だけでも、側近くお思い出し申そうと、この山里で一生を終わろうとお考えになっていた。
 
   御忌に籠もれる僧は、東面、そなたの渡殿、下屋などに、はかなき隔てしつつ、かすかにゐたり。
 西の廂をやつして、宮はおはします。
 明け暮るるも思し分かねど、月ごろ経ければ、九月になりぬ。
 
 御忌中に籠もっていた僧は、東面や、そちらの渡殿、下屋などに、仮の仕切りを立てて、ひっそりとしていた。
 西の廂の間の飾りを取って、宮はお住まいになる。
 日の明け暮れもお分かりにならないが、いく月かが過ぎて、九月になった。
 
 
 

第四章 夕霧の物語 落葉宮に心あくがれる夕霧

 
 

第一段 夕霧、返事を得られず

 
   山下ろしいとはげしう、木の葉の隠ろへなくなりて、よろづの事いといみじきほどなれば、おほかたの空にもよほされて、干る間もなく思し嘆き、「命さへ心にかなはず」と、厭はしういみじう思す。
 さぶらふ人びとも、よろづにもの悲しう思ひ惑へり。
 
 山下ろしがたいそう烈しく、木の葉の影もなくなって、何もかもがとても悲しく寂しいころなので、だいたいがもの悲しい秋の空に催されて、涙の乾く間もなくお嘆きになり、「命までが思いどおりにならなかった」と、厭わしくひどくお悲しみになる。
 伺候する女房たちも、何かにつけ悲しみに暮れていた。
 
   大将殿は、日々に訪らひきこえたまふ。
 寂しげなる念仏の僧など、慰むばかり、よろづの物を遣はし訪らはせたまひ、宮の御前には、あはれに心深き言の葉を尽くして怨みきこえ、かつは、尽きもせぬ御訪らひを聞こえたまへど、取りてだに御覧ぜず、すずろにあさましきことを、弱れる御心地に、疑ひなく思ししみて、消え失せたまひにしことを思し出づるに、「後の世の御罪にさへやなるらむ」と、胸に満つ心地して、この人の御ことをだにかけて聞きたまふは、いとどつらく心憂き涙のもよほしに思さる。
 人びとも聞こえわづらひぬ。
 
 大将殿は、毎日お見舞いの手紙を差し上げなさる。
 心細げな念仏の僧などが、気の紛れるように、いろいろな物をお与えになりお見舞いなさり、宮の御前には、しみじみと心をこめた言葉の限りを尽くしてお恨み申し上げ、一方では、限りなくお慰め申し上げなさるが、手に取って御覧になることさえなく、思いもしなかったあきれた事を、弱っていらしたご病状に、疑う余地なく信じこんで、お亡くなりになったことをお思い出しになると、「ご成仏の妨げになりはしまいか」と、胸が一杯になる心地がして、この方のお噂だけでもお耳になさるのは、ますます恨めしく情けない涙が込み上げてくる思いが自然となさる。
 女房たちもお困り申し上げていた。
 
   一行の御返りをだにもなきを、「しばしは心惑ひしたまへる」など思しけるに、あまりにほど経ぬれば、  ほんの一行ほどのお返事もないのを、「暫くの間は気が転倒していらっしゃるのだ」などとお考えになっていたが、あまりに月日も過ぎたので、
   「悲しきことも限りあるを。
 などか、かく、あまり見知りたまはずはあるべき。
 いふかひなく若々しきやうに」と恨めしう、「異事の筋に、花や蝶やと書けばこそあらめ、わが心にあはれと思ひ、もの嘆かしき方ざまのことを、いかにと問ふ人は、睦ましうあはれにこそおぼゆれ。
 
 「悲しい事でも限度があるのに。
 どうして、こんなに、あまりにお分かりにならないことがあろうか。
 言いようもなく子供のようで」と恨めしく、「これとは筋違いに、花や蝶だのと書いたのならともかく、自分の気持ちに同情してくれ、悲しんでいる状態を、いかがですかと尋ねる人は、親しみを感じうれしく思うものだ。
 
   大宮の亡せたまへりしを、いと悲しと思ひしに、致仕の大臣のさしも思ひたまへらず、ことわりの世の別れに、公々しき作法ばかりのことを孝じたまひしに、つらく心づきなかりしに、六条院の、なかなかねむごろに、後の御事をも営みたまうしが、わが方ざまといふ中にも、うれしう見たてまつりしその折に、故衛門督をば、取り分きて思ひつきにしぞかし。
 
 大宮がお亡くなりになったのを、実に悲しいと思ったが、致仕の大臣がそれほどにもお悲しみにならず、当然の死別として、世間向けの盛大な儀式だけを供養なさったので、恨めしく情けなかったが、六条院が、かえって心をこめて、後のご法事をもお営みになったのが、自分の父親ということを超えて、嬉しく拝見したその時に、故衛門督を、特別に好ましく思うようになったのだった。
 
   人柄のいたう静まりて、物をいたう思ひとどめたりし心に、あはれもまさりて、人より深かりしが、なつかしうおぼえし」  人柄がたいそう冷静で、何事にも心を深く止めていた性格で、悲しみも深くまさって、誰よりも深かったのが、慕わしく思われたのだ」
   など、つれづれとものをのみ思し続けて、明かし暮らしたまふ。
 
 などと、所在なく物思いに耽るばかりで、毎日をお過ごしになる。
 
 
 

第二段 雲居雁の嘆きの歌

 
   女君、なほこの御仲のけしきを、  女君、やはりこのお二人のご様子を、
   「いかなるにかありけむ。
 御息所とこそ、文通はしも、こまやかにしたまふめりしか」
 「どのような関係だったのだろうか。
 御息所と、手紙を遣り取りしていたのも、親密なようになさっていたようだが」
   など思ひ得がたくて、夕暮の空を眺め入りて臥したまへるところに、若君してたてまつれたまへる。
 はかなき紙の端に、
 などと納得がゆきがたいので、夕暮の空を眺め入って臥せっていらっしゃるところに、若君を使いにして差し上げなさった。
 ちょっとした紙の端に、
 

536
 「あはれをも いかに知りてか 慰めむ
 あるや恋しき 亡きや悲しき
 「お悲しみを何が原因と知ってお慰めしたらよいものか
  生きている方が恋しいのか、亡くなった方が悲しいのか
 
   おぼつかなきこそ心憂けれ」  はっきりしないのが情けないのです」
   とあれば、ほほ笑みて、  とあるので、にっこりとして、
   「先ざきも、かく思ひ寄りてのたまふ、似げなの、亡きがよそへや」  「以前にも、このような想像をしておっしゃる、見当違いな、故人などを持ち出して」
   と思す。
 いとどしく、ことなしびに、
 とお思いになる。
 ますます、何気ないふうに、
 

537
 「いづれとか 分きて眺めむ 消えかへる
 露も草葉の うへと見ぬ世を
 「特に何がといって悲しんでいるのではありません
  消えてしまう露も草葉の上だけでないこの世ですから
 
   おほかたにこそ悲しけれ」  世間一般の無常が悲しいのです」
   と書いたまへり。
 「なほ、かく隔てたまへること」と、露のあはれをばさしおきて、ただならず嘆きつつおはす。
 
 とお書きになっていた。
 「やはり、このように隔て心を持っていらっしゃること」と、露の世の悲しさは二の次のこととして、並々ならず胸を痛めていらっしゃる。
 
   なほ、かくおぼつかなく思しわびて、また渡りたまへり。
 「御忌など過ぐしてのどやかに」と思し静めけれど、さまでもえ忍びたまはず、
 やはり、このように気がかりでたまらなくなって、改めてお越しになった。
 「御忌中などが明けてからゆっくり訪ねよう」と、気持ちを抑えていらっしゃったが、そこまでは我慢がおできになれず、
   「今はこの御なき名の、何かはあながちにもつつまむ。
 ただ世づきて、つひの思ひかなふべきにこそは」
 「今はもうこのおん浮名を、どうして無理に隠していようか。
 ただ世間一般の男性と同様に、目的を遂げるまでのことだ」
   と、思したばかりにければ、北の方の御思ひやりを、あながちにもあらがひきこえたまはず。
 
 と、ご計画なさったので、北の方のご想像を、無理に打ち消そうとなさらない。
 
   正身は強う思し離るとも、かの一夜ばかりの御恨み文をとらへどころにかこちて、「えしも、すすぎ果てたまはじ」と、頼もしかりけり。
 
 ご本人はきっぱりとお気持ちがなくても、あの「一夜ばかりの宿を」といった恨みのお手紙を理由に訴えて、「潔白を言い張ることは、おできになれまい」と、心強くお思いになるのであった。
 
 
 

第三段 九月十日過ぎ、小野山荘を訪問

 
   九月十余日、野山のけしきは、深く見知らぬ人だに、ただにやはおぼゆる。
 山風に堪へぬ木々の梢も、峰の葛葉も、心あわたたしう争ひ散る紛れに、尊き読経の声かすかに、念仏などの声ばかりして、人のけはひいと少なう、木枯の吹き払ひたるに、鹿はただ籬のもとにたたずみつつ、山田の引板にもおどろかず、色濃き稲どもの中に混じりてうち鳴くも、愁へ顔なり。
 
 九月十余日、野山の様子は、十分に分からない人でさえ、何とも思わずにはいられない。
 山風に堪えきれない木々の梢も、峰の葛の葉も、気ぜわしく先を争って散り乱れているところに、尊い読経の声がかすかに、念仏などの声ばかりして、人の気配がほとんどせず、木枯らしが吹き払ったところに、鹿は籬のすぐそばにたたずんでは、山田の引板にも驚かず、色の濃くなった稲の中に入って鳴いているのも、もの悲しそうである。
 
   滝の声は、いとどもの思ふ人をおどろかし顔に、耳かしかましうとどろき響く。
 草むらの虫のみぞ、よりどころなげに鳴き弱りて、枯れたる草の下より、龍胆の、われひとりのみ心長うはひ出でて、露けく見ゆるなど、皆例のこのころのことなれど、折から所からにや、いと堪へがたきほどの、もの悲しさなり。
 
 滝の音は、ますます物思いをする人をはっとさせるように、耳にうるさく響く。
 叢の虫だけが、頼りなさそうに鳴き弱って、枯れた草の下から、龍胆が、自分だけ茎を長く延ばして、露に濡れて見えるなど、みないつもの時節のことであるが、折柄か場所柄か、実に我慢できないほどの、もの悲しさである。
 
   例の妻戸のもとに立ち寄りたまて、やがて眺め出だして立ちたまへり。
 なつかしきほどの直衣に、色こまやかなる御衣の擣目、いとけうらに透きて、影弱りたる夕日の、さすがに何心もなうさし来たるに、まばゆげに、わざとなく扇をさし隠したまへる手つき、「女こそかうはあらまほしけれ、それだにえあらぬを」と、見たてまつる。
 
 いつもの妻戸のもとに立ち寄りなさって、そのまま物思いに耽りながら立っていらっしゃった。
 やさしい感じの直衣に、紅の濃い下襲の艶が、とても美しく透けて見えて、光の弱くなった夕日が、それでも遠慮なく差し込んできたので、眩しそうに、さりげなく扇をかざしていらっしゃる手つきは、「女こそこうありたいものだが、それでさえできないものを」と、拝見している。
 
   もの思ひの慰めにしつべく、笑ましき顔の匂ひにて、少将の君を、取り分きて召し寄す。
 簀子のほどもなけれど、奥に人や添ひゐたらむとうしろめたくて、えこまやかにも語らひたまはず。
 
 物思いの時の慰めにしたいほどの、笑顔の美しさで、小少将の君を、特別にお呼びよせになる。
 簀子はさほどの広さもないが、奥に人が一緒にいるだろうかと不安で、打ち解けたお話はおできになれない。
 
   「なほ近くて。
 な放ちたまひそ。
 かく山深く分け入る心ざしは、隔て残るべくやは。
 霧もいと深しや」
 「もっと近くに。
 放っておかないでください。
 このように山の奥にやって来た気持ちは、他人行儀でよいものでしょうか。
 霧もとても深いのですよ」
   とて、わざとも見入れぬさまに、山の方を眺めて、「なほ、なほ」と切にのたまへば、鈍色の几帳を、簾のつまよりすこしおし出でて、裾をひきそばめつつゐたり。
 大和守の妹なれば、離れたてまつらぬうちに、幼くより生ほし立てたまうければ、衣の色いと濃くて、橡の衣一襲、小袿着たり。
 
 と言って、特に見るでもないふりをして、山の方を眺めて、「もっと近く、もっと近く」としきりにおっしゃるので、鈍色の几帳を、簾の端から少し外に押し出して、裾を引き繕って横向きに座わっている。
 大和守の妹なので、お近い血縁の上に、幼い時からお育てになったので、着物の色がとても濃い鈍色で、橡の喪服一襲に、小袿を着ていた。
 
   「かく尽きせぬ御ことは、さるものにて、聞こえなむ方なき御心のつらさを思ひ添ふるに、心魂もあくがれ果てて、見る人ごとに咎められはべれば、今はさらに忍ぶべき方なし」  「このようにいくら悲しんでもきりのない方のことは、それはそれとして、申し上げようもないお気持ちの冷たさをそれに加えて思うと、魂も抜け出てしまって、会う人ごとに怪しまれますので、今はまったく抑えることができません」
   と、いと多く恨み続けたまふ。
 かの今はの御文のさまものたまひ出でて、いみじう泣きたまふ。
 
 と、とても多く恨み続けなさる。
 あの最期の折のお手紙の様子もお口にされて、ひどくお泣きになる。
 
 
 

第四段 板ばさみの小少将君

 
   この人も、ましていみじう泣き入りつつ、  この人も、それ以上にひどく泣き入りながら、
   「その夜の御返りさへ見えはべらずなりにしを、今は限りの御心に、やがて思し入りて、暗うなりにしほどの空のけしきに、御心地惑ひにけるを、さる弱目に、例の御もののけの引き入れたてまつる、となむ見たまへし。
 
 「その夜のお返事さえ拝見せずじまいでしたが、もう最期という時のお心に、そのままお思いつめなさって、暗くなってしまいましたころの空模様に、ご気分が悪くなってしまいましたが、そのような弱目に、例の物の怪が取りつき申したのだ、と拝見しました。
 
   過ぎにし御ことにも、ほとほと御心惑ひぬべかりし折々多くはべりしを、宮の同じさまに沈みたまうしを、こしらへきこえむの御心強さになむ、やうやうものおぼえたまうし。
 この御嘆きをば、御前には、ただわれかの御けしきにて、あきれて暮らさせたまうし」
 以前の御事でも、ほとんど人心地をお失いになったような時々が多くございましたが、宮が同じように沈んでいらっしゃったのを、お慰め申そうとのお気を強くお持ちになって、だんだんとお気をしっかりなさいました。
 このお嘆きを、宮におかれては、まるで正体のないようなご様子で、ぼんやりとしていらっしゃるのでした」
   など、とめがたげにうち嘆きつつ、はかばかしうもあらず聞こゆ。
 
 などと、涙を止めがたそうに悲しみながら、はきはきとせず申し上げる。
 
   「そよや。
 そもあまりにおぼめかしう、いふかひなき御心なり。
 今は、かたじけなくとも、誰をかはよるべに思ひきこえたまはむ。
 御山住みも、いと深き峰に、世の中を思し絶えたる雲の中なめれば、聞こえ通ひたまはむこと難し。
 
 「そうですね。
 それもあまりに頼りなく、情けないお心です。
 今は、恐れ多いことですが、誰を頼りにお思い申し上げなさるのでしょう。
 御山暮らしの父院も、たいそう深い山の中で、世の中を思い捨てなさった雲の中のようなので、お手紙のやりとりをなさるにも難しい。
 
   いとかく心憂き御けしき、聞こえ知らせたまへ。
 よろづのこと、さるべきにこそ。
 世にあり経じと思すとも、従はぬ世なり。
 まづは、かかる御別れの、御心にかなはば、あるべきことかは」
 ほんとうにこのような冷たいお心を、あなたからよく申し上げてください。
 万事が、前世からの定めなのです。
 この世に生きていたくないとお思いになっても、そうはいかない世の中です。
 第一、このような死別がお心のままになるなら、この死別もあるはずがありません」
   など、よろづに多くのたまへど、聞こゆべきこともなくて、うち嘆きつつゐたり。
 鹿のいといたく鳴くを、「われ劣らめや」とて、
 などと、いろいろと多くおっしゃるが、お返事申し上げる言葉もなくて、ただ溜息をつきながら座っていた。
 鹿がとても悲しそうに鳴くのを、「自分も鹿に劣ろうか」と思って、
 

538
 「里遠み 小野の篠原 わけて来て
 我も鹿こそ 声も惜しまね」
 「人里が遠いので小野の篠原を踏み分けて来たが
  わたしも鹿のように声も惜しまず泣いています」
 
   とのたまへば、  とおっしゃると、
 

539
 「藤衣 露けき秋の 山人は
 鹿の鳴く音に 音をぞ添へつる」
 「喪服も涙でしめっぽい秋の山里人は
  鹿の鳴く音に声を添えて泣いています」
 
   よからねど、折からに、忍びやかなる声づかひなどを、よろしう聞きなしたまへり。
 
 上手な歌ではないが、時が時とて、ひっそりとした声の調子などを、けっこうにお聞きになった。
 
   御消息とかう聞こえたまへど、  ご挨拶をあれこれ申し上げなさるが、
   「今は、かくあさましき夢の世を、すこしも思ひ覚ます折あらばなむ、絶えぬ御とぶらひも聞こえやるべき」  「今は、このように思いがけない夢のような世の中を、少しでも落ち着きを取り戻す時がございましたら、たびたびのお見舞いにもお礼申し上げましょう」
   とのみ、すくよかに言はせたまふ。
 「いみじういふかひなき御心なりけり」と、嘆きつつ帰りたまふ。
 
 とだけ、素っ気なく言わせなさる。
 「ひどく何とも言いようのないお心だ」と、嘆きながらお帰りになる。
 
 
 

第五段 夕霧、一条宮邸の側を通って帰宅

 
   道すがらも、あはれなる空を眺めて、十三日の月のいとはなやかにさし出でぬれば、小倉の山もたどるまじうおはするに、一条の宮は道なりけり。
 
 道すがら、しみじみとした空模様を眺めて、十三日の月がたいそう明るく照り出したので、薄暗い小倉の山も難なく通れそうに思っているうちに、一条の宮邸はその途中であった。
 
   いとどうちあばれて、未申の方の崩れたるを見入るれば、はるばると下ろし籠めて、人影も見えず。
 月のみ遣水の面をあらはに澄みましたるに、大納言、ここにて遊びなどしたまうし折々を、思ひ出でたまふ。
 
 以前にもまして荒れて、南西の方角の築地の崩れている所から覗き込むと、ずっと一面に格子を下ろして、人影も見えない。
 月だけが遣水の表面をはっきりと照らしているので、大納言が、ここで管弦の遊びなどをなさった時々のことを、お思い出しになる。
 
 

540
 「見し人の 影澄み果てぬ 池水に
 ひとり宿守る 秋の夜の月」
 「あの人がもう住んでいないこの邸の池の水に
  独り宿守りしている秋の夜の月よ」
 
   と独りごちつつ、殿におはしても、月を見つつ、心は空にあくがれたまへり。
 
 と独言を言いながら、お邸にお帰りになっても、月を見ながら、心はここにない思いでいらっしゃった。
 
   「さも見苦しう。
 あらざりし御癖かな」
 「何ともみっもない。
 今までになかったお振る舞いですこと」
   と、御達も憎みあへり。
 上は、まめやかに心憂く、
 と、おもだった女房たちも憎らしがっていた。
 北の方は、真実嫌な気がして、
   「あくがれたちぬる御心なめり。
 もとよりさる方にならひたまへる六条の院の人びとを、ともすればめでたきためしにひき出でつつ、心よからずあいだちなきものに思ひたまへる、わりなしや。
 我も、昔よりしかならひなましかば、人目も馴れて、なかなか過ごしてまし。
 世のためしにしつべき御心ばへと、親兄弟よりはじめたてまつり、めやすきあえものにしたまへるを、ありありては、末に恥がましきことやあらむ」
 「魂が抜け出たお方のようだ。
 もともと何人もの夫人たちがいっしょに住んでいらっしゃる六条院の方々を、ともすれば素晴らしい例として引き出し引き出しては、性根の悪い無愛想な女だと思っていらっしゃる、やりきれないわ。
 わたしも昔からそのように住むことに馴れていたならば、人目にも無難に、かえってうまくいったでしょうが。
 世の男性の模範にしてもよいご性質と、親兄弟をはじめ申して、けっこうなあやかりたい者となさっていたのに、このままいったら、あげくの果ては恥をかくことがあるだろう」
   など、いといたう嘆いたまへり。
 
 などと、とてもひどく嘆いていらっしゃった。
 
   夜明け方近く、かたみにうち出でたまふことなくて、背き背きに嘆き明かして、朝霧の晴れ間も待たず、例の、文をぞ急ぎ書きたまふ。
 いと心づきなしと思せど、ありしやうにも奪ひたまはず。
 いとこまやかに書きて、うち置きてうそぶきたまふ。
 忍びたまへど、漏りて聞きつけらる。
 
 夜明け方近く、お互いに口に出すこともなくて、背き合いながら夜を明かして、朝霧の晴れる間も待たず、いつものように、手紙を急いでお書きになる。
 とても気にくわないとお思いになるが、以前のようには奪い取りなさらない。
 たいそう情愛をこめて書いて、ちょっと下に置いて歌を口ずさみなさる。
 声をひそめていらっしゃったが、漏れて聞きつけられる。
 
 

541
 「いつとかは おどろかすべき 明けぬ夜の
 夢覚めてとか 言ひしひとこと
 「いつになったらお訪ねしたらよいのでしょうか
  明けない夜の夢が覚めたらとおっしゃったことは
 
   上より落つる」  お返事がありません」
   とや書いたまひつらむ、おし包みて、名残も、「いかでよからむ」など口ずさびたまへり。
 人召して賜ひつ。
 「御返り事をだに見つけてしがな。
 なほ、いかなることぞ」と、けしき見まほしう思す。
 
 とでもお書きになったのであろうか、手紙を包んで、その後も、「どうしたらよかろう」などと口ずさんでいらっしゃった。
 人を召してお渡しになった。
 「せめてお返事だけでも見たいものだわ。
 やはり、本当はどうなのかしら」と、様子を窺いたくお思いになっている。
 
 
 

第六段 落葉宮の返歌が届く

 
   日たけてぞ持て参れる。
 紫のこまやかなる紙すくよかにて、小少将ぞ、例の聞こえたる。
 ただ同じさまに、かひなきよしを書きて、
 日が高くなってから返事を持って参った。
 紫の濃い紙が素っ気ない感じで、小少将の君が、いつものようにお返事申し上げた。
 いつもと同じで、何の甲斐もないことを書いて、
   「いとほしさに、かのありつる御文に、手習ひすさびたまへるを盗みたる」  「お気の毒なので、あの頂戴したお手紙に、手習いをしていらしたのをこっそり盗みました」
   とて、中にひき破りて入れたる、「目には見たまうてけり」と、思すばかりのうれしさぞ、いと人悪ろかりける。
 そこはかとなく書きたまへるを、見続けたまへれば、
 とあって、中に破いて入っていたが、「御覧になったのだ」と、お思いになるだけで嬉しいとは、とても体裁の悪い話である。
 とりとめもなくお書きになっているのを、見続けていらっしゃると、
 

542
 「朝夕に 泣く音を立つる 小野山は
 絶えぬ涙や 音無の滝」
 「朝な夕なに声を立てて泣いている小野山では
  ひっきりなしに流れる涙は音無の滝になるのだろうか」
 
   とや、とりなすべからむ、古言など、もの思はしげに書き乱りたまへる、御手なども見所あり。
 
 とか、読むのであろうか、古歌などを、悩ましそうに書き乱れていらっしゃる、ご筆跡なども見所がある。
 
   「人の上などにて、かやうの好き心思ひ焦らるるは、もどかしう、うつし心ならぬことに見聞きしかど、身のことにては、げにいと堪へがたかるべきわざなりけり。
 あやしや。
 など、かうしも思ふべき心焦られぞ」
 「他人の事などで、このような浮気沙汰に心焦がれているのは、はがゆくもあり、正気の沙汰でもないように見たり聞いたりしていたが、自分の事となると、なるほどまことに我慢できないものであるなあ。
 不思議だ。
 どうして、こんなにもいらいらするのだろう」
   と思ひ返したまへど、えしもかなはず。
 
 と反省なさるが、思うにまかせない。
 
 
 

第五章 落葉宮の物語 夕霧執拗に迫る

 
 

第一段 源氏や紫の上らの心配

 
   六条院にも聞こし召して、いとおとなしうよろづを思ひしづめ、人のそしりどころなく、めやすくて過ぐしたまふを、おもだたしう、わがいにしへ、すこしあざればみ、あだなる名を取りたまうし面起こしに、うれしう思しわたるを、  六条院にもお聞きあそばして、とても落ち着いていて何につけ冷静で、人の非難もなく、無難に過ごしていらっしゃるのを、誇りに思い、自分の若いころ、少し風流すぎて、好色家だという評判をおとりになった名誉回復に、嬉しくお思い続けていらしたが、
   「いとほしう、いづ方にも心苦しきことのあるべきこと。
 さし離れたる仲らひにてだにあらで、大臣なども、いかに思ひたまはむ。
 さばかりのこと、たどらぬにはあらじ。
 宿世といふもの、逃れわびぬることなり。
 ともかくも口入るべきことならず」
 「かわいそうに、どちらにとってもお気の毒なことがきっとあるだろうことよ。
 赤の他人の間でさえなく、大臣なども、どのようにお思いになろうか。
 それくらいのこと、分からないではないだろう。
 宿世というものからは、逃れられないのだ。
 とやかく口を出すべきことではない」
   と思す。
 女のためのみにこそ、いづ方にもいとほしけれと、あいなく聞こしめし嘆く。
 
 とお思いになる。
 女の身にとっては、どちらに対してもお気の毒だと、困った事にお聞きあそばしてお心をお痛めになる。
 
   紫の上にも、来し方行く先のこと思し出でつつ、かうやうのためしを聞くにつけても、亡からむ後、うしろめたう思ひきこゆるさまをのたまへば、御顔うち赤めて、「心憂く、さまで後らかしたまふべきにや」と思したり。
 
 紫の上に対しても、今までのことや将来のことをお考えになりながら、このような噂を聞くにつけても、亡くなった後、不安にお思い申し上げる様子をおっしゃると、お顔をぽっと赤らめて、「情けないこと。
 そんなに長く後にお残しなさるおつもりか」とお思いになっていた。
 
   「女ばかり、身をもてなすさまも所狭う、あはれなるべきものはなし。
 もののあはれ、折をかしきことをも、見知らぬさまに引き入り沈みなどすれば、何につけてか、世に経る映えばえしさも、常なき世のつれづれをも慰むべきぞは。
 
 「女ほど、身の処し方も窮屈で、痛ましいものはない。
 ものの情趣も、折にふれた興趣深いことも、見知らないふうに身を引いて黙ってなどいては、いったい何によって、この世に生きている晴れがましさを味わい、無常なこの世の所在なさをも慰めることができよう。
 
   おほかた、ものの心を知らず、いふかひなきものにならひたらむも、生ほしたてけむ親も、いと口惜しかるべきものにはあらずや。
 
 だいたい、ものの道理も弁えないで、つまらない者のようになってしまったのでは、育てた親も、とても残念に思うはずではないか。
 
   心にのみ籠めて、無言太子とか、小法師ばらの悲しきことにする昔のたとひのやうに、悪しきこと善きことを思ひ知りながら、埋もれなむも、いふかひなし。
 わが心ながらも、良きほどには、いかで保つべきぞ」
 心の中にばかり思いをこめて、無言太子とか言って、小法師たちが辛い修行の例とする昔の喩えのように、悪い事良い事を弁えながら、口に出さずにいるのは、つまらない。
 自分ながらも、ほど好い身の処し方をするには、どのようにしたらよいものか」
   と思しめぐらすも、今はただ女一の宮の御ためなり。
 
 とご思案なさるのも、今はただ女一の宮の御身のためを思ってのことである。
 
 
 

第二段 夕霧、源氏に対面

 
   大将の君、参りたまへるついでありて、思ひたまへらむけしきもゆかしければ、  大将の君が、参上なさった機会があって、悩んでいらっしゃる様子も知りたいので、
   「御息所の忌果てぬらむな。
 昨日今日と思ふほどに、三年よりあなたのことになる世にこそあれ。
 あはれに、あぢきなしや。
 夕べの露かかるほどのむさぼりよ。
 いかでかこの髪剃りて、よろづ背き捨てむと思ふを、さものどやかなるやうにても過ぐすかな。
 いと悪ろきわざなりや」
 「御息所の忌中は明けたのだろうね。
 昨日今日と思っているうちに、三年以上の昔になる世の中なのだ。
 ああ、悲しく味気ないものだ。
 夕方の露がかかっている間の寿命を貪っているとは。
 何とかこの髪を剃って、何もかも捨て去ろうと思うが、なんといつまでものんびりと過ごしていることか。
 まことに悪いことだ」
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
   「まことに惜しげなき人だにこそ、はべめれ」など聞こえて、「御息所の四十九日のわざなど、大和守なにがしの朝臣、一人扱ひはべる、いとあはれなるわざなりや。
 はかばかしきよすがなき人は、生ける世の限りにて、かかる世の果てこそ、悲しうはべりけれ」
 「ほんとうに、惜しくない人でさえ、めいめい離れがたく思っている人の世でございましょう」などと申し上げて、「御息所の四十九日の法事など、大和守某朝臣が、独りでお世話致しますのは、とてもお気の毒なことです。
 しっかりした縁者がいない方は、生きている間だけのことで、このような死後は、悲しゅうございます」
   と、聞こえたまふ。
 
 と、お申し上げになる。
 
   「院よりも弔らはせたまふらむ。
 かの皇女、いかに思ひ嘆きたまふらむ。
 はやう聞きしよりは、この近き年ごろ、ことに触れて聞き見るに、この更衣こそ、口惜しからずめやすき人のうちなりけれ。
 おほかたの世につけて、惜しきわざなりや。
 さてもありぬべき人の、かう亡せゆくよ。
 
 「朱雀院からも御弔問があるだろう。
 あの内親王、どんなにお嘆きでいらっしゃるだろう。
 昔聞いていた時よりは、つい最近、何かにつけ聞いたり見たりするに、この更衣は、しっかりした無難な人の中に入っていた。
 世間一般のことにつけて、惜しいことをしたものだ。
 生きていてもよいと思う方が、このように亡くなってゆくことよ。
 
   院も、いみじう驚き思したりけり。
 かの皇女こそは、ここにものしたまふ入道の宮よりさしつぎには、らうたうしたまひけれ。
 人ざまもよくおはすべし」
 朱雀院も、ひどく驚きお悲しみになっていた。
 あの内親王は、ここにいらっしゃる入道の宮の次には、かわいがっていらっしゃった。
 人柄も良くいらっしゃるのだろう」
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
   「御心はいかがものしたまふらむ。
 御息所は、こともなかりし人のけはひ、心ばせになむ。
 親しううちとけたまはざりしかど、はかなきことのついでに、おのづから人の用意はあらはなるものになむはべる」
 「お気立てはどのようでいらっしゃいましょう。
 御息所は、申し分のない人柄や、気立てでいらっしゃいました。
 親しく気をお許して接したわけではありませんでしたが、ちょっとした事の機会に、自然と人の心配りというものがよく分かるものでございます」
   と聞こえたまひて、宮の御こともかけず、いとつれなし。
 
 とお申し上げになって、宮の御事は口にかけず、まったく素知らぬふりをしている。
 
   「かばかりのすくよけ心に思ひそめてむこと、諌めむにかなはじ。
 用ゐざらむものから、我賢しに言出でむもあいなし」
 「これほどの一本気の性格の者が思い染めたことは、忠告しても聞き入れないだろう。
 聞き入れもしないだろうことを分かっていながら、自分が分別くさく口を出してもしようがない」
   と思して止みぬ。
 
 とお思いになっておやめになった。
 
 
 

第三段 父朱雀院、出家希望を諌める

 
   かくて御法事に、よろづとりもちてせさせたまふ。
 事の聞こえ、おのづから隠れなければ、大殿などにも聞きたまひて、「さやはあるべき」など、女方の心浅きやうに思しなすぞ、わりなきや。
 かの昔の御心あれば、君達、参で訪らひたまふ。
 
 こうしてご法事に、万端を取り仕切っておさせなさる。
 その評判は、自然に知れることなので、大殿などにおかれてもお聞きになって、「そんなことがあって良いことか」などと、妻方が思慮が浅いようにお考えになるのは、困ったことである。
 あの故人とのご縁もあるので、ご子息たちも。
 ご法要に参集なさる。
 
   誦経など、殿よりもいかめしうせさせたまふ。
 これかれも、さまざま劣らずしたまへれば、時の人のかやうのわざに劣らずなむありける。
 
 読経など、大殿からも盛大におさせになる。
 誰も彼も、いろいろ負けず劣らずなさったので、時めく人のこのような法事に負けないほどであった。
 
   宮は、かくて住み果てなむと思し立つことありけれど、院に、人の漏らし奏しければ、  宮は、このまま小野で一生を送ろうとご決心なさったことがあったが、朱雀院に、誰かがそっとお告げ申し上げたので、
   「いとあるまじきことなり。
 げに、あまた、とざまかうざまに身をもてなしたまふべきことにもあらねど、後見なき人なむ、なかなかさるさまにて、あるまじき名を立ち、罪得がましき時、この世後の世、中空にもどかしき咎負ふわざなる。
 
 「それはとんでもないことです。
 なるほど、何人とも、あれこれと身の関わりをお持ちになることは良いことではないが、後見のない人は、なまじ尼姿になってから、けしからぬ噂がたち、罪を得るような時、現世も来世も、どっちつかずの非難されるというものです。
 
   ここにかく世を捨てたるに、三の宮の同じごと身をやつしたまへる、すべなきやうに人の思ひ言ふも、捨てたる身には、思ひ悩むべきにはあらねど、かならずさしも、やうのことと争ひたまはむも、うたてあるべし。
 
 自分がこのように世を捨てているのに、三の宮が同じように出家なさったのを、何ともなす手がないように人が思ったり言ったりするのも、世を捨てた身には、思い悩むべきことではないが、必ずそんなにも、同じように競って出家なさるのも、感心しないことでしょう。
 
   世の憂きにつけて厭ふは、なかなか人悪ろきわざなり。
 心と思ひ取る方ありて、今すこし思ひ静め、心澄ましてこそ、ともかうも」
 世の辛さに負けて世を厭うのは、かえって体裁の悪いことです。
 自分でしっかり考えて、もう少し冷静になって、心を澄ましてから、どうなりとも」
   とたびたび聞こえたまうけり。
 この浮きたる御名をぞ聞こし召したるべき。
 「さやうのことの思はずなるにつけて倦じたまへる」と言はれたまはむことを思すなりけり。
 さりとて、また、「表はれてものしたまはむもあはあはしう、心づきなきこと」と、思しながら、恥づかしと思さむもいとほしきを、「何かは、我さへ聞き扱はむ」と思してなむ、この筋は、かけても聞こえたまはざりける。
 
 と度々申し上げなさった。
 この浮いたお噂をお耳にあそばしたのであろう。
 「噂のようなことが思うとおりに行かないので世をお厭いになった」と言われなさることを御心配なさったのであった。
 そうかといって、また、「公然と再婚なさるのも軽薄で、感心しないこと」と、お思いになりながら、恥ずかしいとお思いになるのもお気の毒なので、「どうして、自分までが噂を聞いて口出ししたりしようか」とお思いになって、このことは、全然一言もお出し申し上げなさらないのだった。
 
 
 

第四段 夕霧、宮の帰邸を差配

 
   大将も、  大将も、
   「とかく言ひなしつるも、今はあいなし。
 かの御心に許したまはむことは、難げなめり。
 御息所の心知りなりけりと、人には知らせむ。
 いかがはせむ。
 亡き人にすこし浅き咎は思はせて、いつありそめしことぞともなく、紛らはしてむ。
 さらがへりて、懸想だち、涙を尽くしかかづらはむも、いとうひうひしかるべし」
 「あれこれと言ってみたが、今は無駄なことだ。
 宮のお心ではお聞き入れなさることは、難しいことのようだ。
 御息所が承知済みであったと、世間の人には知らせよう。
 どうしようもない。
 亡くなった方に少し思慮が浅かったと罪を思わせて、いつからそうなったということもなく、分からなくさせてしまおう。
 年がいもなく若返って、懸想をし、涙を流し尽くして口説いたりするのも、いかにも身にふさわしからぬことだろう」
   と思ひ得たまうて、一条に渡りたまふべき日、その日ばかりと定めて、大和守召して、あるべき作法のたまひ、宮のうち払ひしつらひ、さこそいへども、女どちは、草茂う住みなしたまへりしを、磨きたるやうにしつらひなして、御心づかひなど、あるべき作法めでたう、壁代、御屏風、御几帳、御座などまで思し寄りつつ、大和守にのたまひて、かの家にぞ急ぎ仕うまつらせたまふ。
 
 と決心なさって、一条邸にお帰りになる予定の日を、何日ほどにと決めて、大和守を呼んで、しかるべき諸式をお命じになり、邸内を掃除し整え、何といっても、女世帯では、草深く住んでいらっしゃったので、磨いたように整備し直して、お気づかいぶりなどは、しかるべきやり方も立派に、壁代、御屏風、御几帳、御座所などまでお気を配りなさり、大和守にお命じになって、あちらの家で急いで準備させなさる。
 
   その日、我おはしゐて、御車、御前などたてまつれたまふ。
 宮は、さらに渡らじと思しのたまふを、人びといみじう聞こえ、大和守も、
 その日、自分でいらっしゃって、お車や、御前駆などを差し向けなさる。
 宮は、どうしても帰るまいとお思いになりおっしゃるのを、女房たちが熱心に説得申し上げ、大和守も、
   「さらに承らじ。
 心細く悲しき御ありさまを見たてまつり嘆き、このほどの宮仕へは、堪ふるに従ひて仕うまつりぬ。
 
 「まったくご承知するわけには行きません。
 心細く悲しいご様子を拝見し心を痛め、これまでのお世話は、できるだけのことはさせていただきました。
 
   今は、国のこともはべり、まかり下りぬべし。
 宮の内のことも、見たまへ譲るべき人もはべらず。
 いとたいだいしう、いかにと見たまふるを、かくよろづに思しいとなむを、げに、この方にとりて思たまふるには、かならずしもおはしますまじき御ありさまなれど、さこそは、いにしへも御心にかなはぬためし、多くはべれ。
 
 今は、任国の公務もございますし、下向しなければなりません。
 お邸内のことも任せられる人もございません。
 まことに不行届なことで、どうしたものかと心配いたしておりますが、このように万事お世話なさいますのを、なるほど、ご結婚ということを考えてみますと、必ずしも今すぐに移転するのが良いというのではないお身の上ですが、そのように、昔もお心のままにならなかった例は、多くございます。
 
   一所やは、世のもどきをも負はせたまふべき。
 いと幼くおはしますことなり。
 たけう思すとも、女の御心ひとつに、わが御身をとりしたため、顧みたまふべきやうかあらむ。
 なほ、人のあがめかしづきたまへらむに助けられてこそ、深き御心のかしこき御おきても、それにかかるべきものなり。
 
 あなたお一方だけが、世間の非難をお受けになることでしょうか。
 とても幼稚なお考えです。
 いくら強がっても、女一人のご分別で、ご自分の身の振りをきちんとなさり、お気をつけなさることがどうしてできましょうか。
 やはり、男性から大事にお世話なされるのに助けられて、初めて深いお考えによる立派なご方針も、それに依存するものなのです。
 
   君たちの聞こえ知らせたてまつりたまはぬなり。
 かつは、さるまじきことをも、御心どもに仕うまつりそめたまうて」
 あなた方がよくお教え申し上げなさらないのです。
 一方では、けしからぬことをも、ご自分たちの判断でかってにお取り計らい申し上げなさって」
   と、言ひ続けて、左近、少将を責む。
 
 と、言い続けて、左近の君や、小少将の君を責める。
 
 
 

第五段 落葉宮、自邸へ向かう

 
   集りて聞こえこしらふるに、いとわりなく、あざやかなる御衣ども、人びとのたてまつり替へさするも、われにもあらず、なほ、いとひたぶるに削ぎ捨てまほしう思さるる御髪を、かき出でて見たまへば、六尺ばかりにて、すこし細りたれど、人はかたはにも見たてまつらず、みづからの御心には、  寄ってたかって説得申し上げるので、とても困りきって、色鮮やかなお召し物を、女房たちがお召し替え申し上げるにも、夢心地で、やはり、とても一途に削き落としたく思われなさる御髪を、掻き出して御覧になると、六尺ほどあって、少し細くなったが、女房たちは不完全だとは拝見せず、ご自身のお気持ちでは、
   「いみじの衰へや。
 人に見ゆべきありさまにもあらず。
 さまざまに心憂き身を」
 「ひどく衰えたこと。
 とても男の人にお見せできなる有様ではない。
 いろいろと情けない身の上であるものを」
   と思し続けて、また臥したまひぬ。
 
 とお思い続けなさって、また臥せっておしまいになった。
 
   「時違ひぬ。
 夜も更けぬべし」
 「時刻に遅れます。
 夜も更けてしまいます」
   と、皆騒ぐ。
 時雨いと心あわたたしう吹きまがひ、よろづにもの悲しければ、
 と、皆が騷ぐ。
 時雨がとても心急かせるように風に吹き乱れて、何事にもつけ悲しいので、
 

543
 「のぼりにし 峰の煙に たちまじり
 思はぬ方に なびかずもがな」
 「母君が上っていった峰の煙と一緒になって
  思ってもいない方角にはなびかずにいたいものだわ」
 
   心ひとつには強く思せど、そのころは、御鋏などやうのものは、皆とり隠して、人びとの守りきこえければ、  ご自分では気強く思っていらっしゃるが、そのころは、お鋏などのような物は、みな取り隠して、女房たちが目をお離し申さずいたので、
   「かくもて騒がざらむにてだに、何の惜しげある身にてか、をこがましう、若々しきやうにはひき忍ばむ。
 人聞きもうたて思すまじかべきわざを」
 「このように騒がないでいても、どうして惜しい身の上で、愚かしく、子供っぽくもこっそり髪を下ろしたりしようか。
 人聞きも悪いとお思いなさることを」
   と思せば、その本意のごともしたまはず。
 
 とお思いになると、ご希望通り出家もなさらない。
 
   人びとは、皆いそぎ立ちて、おのおの、櫛、手筥、唐櫃、よろづの物を、はかばかしからぬ袋やうの物なれど、皆さきだてて運びたれば、一人止まりたまふべうもあらで、泣く泣く御車に乗りたまふも、傍らのみまもられたまて、こち渡りたまうし時、御心地の苦しきにも、御髪かき撫でつくろひ、下ろしたてまつりたまひしを思し出づるに、目も霧りていみじ。
 御佩刀に添へて経筥を添へたるが、御傍らも離れねば、
 女房たちは、全員急ぎ出して、それぞれ、櫛や、手箱や、唐櫃や、いろいろな道具類を、つまらない袋入れのような物であるが、全部前もって運んでしまっていたので、独り居残っているわけにもゆかず、泣く泣くお車にお乗りになるのも、隣の空席ばかりに自然と目が行きなさって、こちらにお移りになった時、ご気分が優れなかったにも関わらず、御髪をかき撫でて繕って、降ろしてくださったことをお思い出しになると、目も涙にむせんでたまらない。
 御佩刀といっしょに経箱を持っているが、いつもお側にあるので、
 

544
 「恋しさの 慰めがたき 形見にて
 涙にくもる 玉の筥かな」
 「恋しさを慰められない形見の品として
  涙に曇る玉の箱ですこと」
 
   黒きもまだしあへさせたまはず、かの手ならしたまへりし螺鈿の筥なりけり。
 誦経にせさせたまひしを、形見にとどめたまへるなりけり。
 浦島の子が心地なむ。
 
 黒造りのもまだお調えにならず、あの日頃親しくお使いになっていた螺鈿の箱なのであった。
 お布施の料としてお作らせになったのだが、形見として残して置かれたのであった。
 浦島の子の気がなさる。
 
 
 

第六段 夕霧、主人顔して待ち構える

 
   おはしまし着きたれば、殿のうち悲しげもなく、人気多くて、あらぬさまなり。
 御車寄せて降りたまふを、さらに、故里とおぼえず、疎ましううたて思さるれば、とみにも下りたまはず。
 いとあやしう、若々しき御さまかなと、人びとも見たてまつりわづらふ。
 殿は、東の対の南面を、わが御方を、仮にしつらひて、住みつき顔におはす。
 三条殿には、人びと、
 ご到着なさると、邸内は悲しそうな様子もなく、人の気配が多くて、様子が違っている。
 お車を寄せてお降りになるに、全然、以前に住んでいた所とは思われず、よそよそしく嫌な気がなさるので、すぐにはお降りにならない。
 とてもおかしな子供っぽいお振る舞いですわと、女房たちも拝見し困っている。
 殿は、東の対の南面を、自分のお部屋として、仮に設けて、主人気取りでいらっしゃる。
 三条殿では、女房たちが、
   「にはかにあさましうもなりたまひぬるかな。
 いつのほどにありしことぞ」
 「突然あきれたことにおなりになったこと。
 いつからのことだったのかしら」
   と、驚きけり。
 なよらかにをかしばめることを、好ましからず思す人は、かくゆくりかなることぞうちまじりたまうける。
 されど、年経にけることを、音なくけしきも漏らさで過ぐしたまうけるなり、とのみ思ひなして、かく、女の御心許いたまはぬと、思ひ寄る人もなし。
 とてもかうても、宮の御ためにぞいとほしげなる。
 
 とあきれるのだった。
 色めいた風流事を、お好きでなくお思いになる方は、このように突然な事がおありになるのだった。
 けれども、何年も前からあった事を、噂にもならず素振り知られずにお過ごしになって来られたのだ、とばかりに思い込んで、このように、女のお気持ちは不承知であると、気づく人もいない。
 いずれにしても宮の御ためにはお気の毒なことである。
 
   御まうけなどさま変はりて、もののはじめゆゆしげなれど、もの参らせなど、皆静まりぬるに、渡りたまて、少将の君をいみじう責めたまふ。
 
 お調度類なども普段と変わって、新婚としては縁起が悪いが、お食事を差し上げたりした後、皆が寝静まったころにお渡りになって、少将の君をひどくお責めになる。
 
   「御心ざしまことに長う思されば、今日明日を過ぐして聞こえさせたまへ。
 なかなか、立ち帰りてもの思し沈みて、亡き人のやうにてなむ臥させたまひぬる。
 こしらへきこゆるをも、つらしとのみ思されたれば、何ごとも身のためこそはべれ。
 いとわづらはしう、聞こえさせにくくなむ」
 「ご愛情が本当に末長くとお思いでしたら、今日明日を過ぎてから申し上げて下さいませ。
 お帰りになって、かえって、悲しみに沈み込んで、亡くなった方のようにお臥せりになってしまわれました。
 おとりなし申し上げても、辛いとばかりお思いでいらっしゃるので、何事もわが身あってでございますもの。
 まことに困って、申し上げにくうございます」
   と言ふ。
 
 と言う。
 
   「いとあやしう。
 推し量りきこえさせしには違ひて、いはけなく心えがたき御心にこそありけれ」
 「まことに妙なことです。
 ご推量申し上げていたのとは違って、子供っぽく理解しがたいお考えでありますね」
   とて、思ひ寄れるさま、人の御ためも、わがためにも、世のもどきあるまじうのたまひ続くれば、  とおっしゃって、考えていらっしゃる処遇は、宮の御ためにも、自分のためにも、世間の非難のないようにおっしゃり続けるので、
   「いでや、ただ今は、またいたづら人に見なしたてまつるべきにやと、あわたたしき乱り心地に、よろづ思たまへわかれず。
 あが君、とかくおしたちて、ひたぶるなる御心なつかはせたまひそ」
 「いえもう、ただ今は、またもお亡くし申し上げてしまうのではないかと、気が気ではなく取り乱しておりますので、万事判断がつきません。
 お願いでございます、あれこれと無理押しなさって、乱暴なことはなさいませぬように」
   と手をする。
 
 と手を擦って頼む。
 
   「いとまだ知らぬ世かな。
 憎くめざましと、人よりけに思し落とすらむ身こそいみじけれ。
 いかで人にもことわらせむ」
 「これはまだ経験のないことだ。
 憎らしく嫌な者だと、人より格段に軽蔑される身の上が情けない。
 是非とも誰かにでも判断してもらいたい」
   と、いはむかたもなしと思してのたまへば、さすがにいとほしうもあり、  と、言いようもないとお思いになっておっしゃるので、やはりお気の毒でもあり、
   「まだ知らぬは、げに世づかぬ御心がまへのけにこそはと、ことわりは、げに、いづ方にかは寄る人はべらむとすらむ」  「まだ知らないとおっしゃるのは、なるほど恋愛経験の少ないお人柄だからでしょうと、道理は、仰せのとおり、どちら様を正しいと申す人がございますでしょうか」
   と、すこしうち笑ひぬ。
 
 と、少しほほ笑んだ。
 
 
 

第七段 落葉宮、塗籠に籠る

 
   かく心ごはけれど、今は、堰かれたまふべきならねば、やがてこの人をひき立てて、推し量りに入りたまふ。
 
 このように強情であるが、今となっては、邪魔立てされなさるおつもりもないので、そのままこの人を引き立てて、当て推量にお入りになる。
 
   宮は、「いと心憂く、情けなくあはつけき人の心なりけり」と、ねたくつらければ、「若々しきやうには言ひ騒ぐとも」と思して、塗籠に御座ひとつ敷かせたまて、うちより鎖して大殿籠もりにけり。
 「これもいつまでにかは。
 かばかりに乱れ立ちにたる人の心どもは、いと悲しう口惜しう」思す。
 
 宮は、「まことに嫌でたまらない、思いやりのない浅薄な心の方だった」と、悔しく辛いので、「大人げないようだと言われようとも」とご決意なさって、塗籠にご座所を一つ敷かせなさって、内側から施錠して、お寝みになってしまった。
 「これもいつまで続くことであろうか。
 これほどに浮き足立っている女房たちの気持ちは、何と悲しく残念なことか」とお思いなさる。
 
   男君は、めざましうつらしと思ひきこえたまへど、かばかりにては、何のもて離るることかはと、のどかに思して、よろづに思ひ明かしたまふ。
 山鳥の心地ぞしたまうける。
 からうして明け方になりぬ。
 かくてのみ、ことといへば、直面なべければ、出でたまふとて、
 男君は、心外なひどい仕打ちとお思い申し上げなさるが、このようなことで、どうして逃れることができようかと、気長にお考えになって、いろいろと思案しながら夜をお明かしなさる。
 山鳥の気がなさるのであった。
 やっとのことで明け方になった。
 こうしてばかり、取り立てて言うと、にらみ合いになりそうなので、お出になろうとして、
   「ただ、いささかの隙をだに」  「ただ、少しの隙間だけでも」
   と、いみじう聞こえたまへど、いとつれなし。
 
 と、しきりにお頼み申し上げなさるが、まったくお返事がない。
 
 

545
 「怨みわび 胸あきがたき 冬の夜に
 また鎖しまさる 関の岩門
 「怨んでも怨みきれません、胸の思いを晴らすことのできない冬の夜に
  そのうえ鎖された関所のような岩の門です
 
   聞こえむ方なき御心なりけり」  何とも申し上げようのない冷たいお心です」
   と、泣く泣く出でたまふ。
 
 と、泣く泣くお出になる。
 
 
 

第六章 夕霧の物語 雲居雁と落葉宮の間に苦慮

 
 

第一段 夕霧、花散里へ弁明

 
   六条の院にぞおはして、やすらひたまふ。
 東の上、
 六条院にいらっしゃって、ご休息なさる。
 東の上は、
   「一条の宮渡したてまつりたまへることと、かの大殿わたりなどに聞こゆる、いかなる御ことにかは」  「一条の宮をお移し申し上げなさったと、あの大殿あたりなどでお噂申しているのは、どのようなことなのですか」
   と、いとおほどかにのたまふ。
 御几帳添へたれど、側よりほのかには、なほ見えたてまつりたまふ。
 
 と、とてもおっとりとお尋ねになる。
 御几帳を添えているが、端からちらちらと、それでも顔をお見せ申し上げなさる。
 
   「さやうにも、なほ人の言ひなしつべきことにはべり。
 故御息所は、いと心強う、あるまじきさまに言ひ放ちたまうしかど、限りのさまに、御心地の弱りけるに、また見譲るべき人のなきや悲しかりけむ、亡からむ後の後見にとやうなることのはべりしかば、もとよりの心ざしもはべりしことにて、かく思たまへなりぬるを、さまざまに、いかに人扱ひはべらむかし。
 さしもあるまじきをも、あやしう人こそ、もの言ひさがなきものにあれ」
 「そのようにも、やはり世間の人は取り沙汰しそうなことでございます。
 故御息所は、とても気強く、とんでもないことときっぱりおっしゃいましたが、最期の様子の時に、お気持ちが弱られた折に、わたし以外に後見を依頼できる人のないのが悲しかったのでしょうか、亡くなった後の後見というようなことがございましたので、もともとの心積もりもございましたことなので、このようにお引き受け致すことになりましたが、あれこれと、どのように世間の人は噂するのでございましょう。
 そうでないことをも、不思議と世間の人は、口さがないものです」
   と、うち笑ひつつ、  と、ほほ笑みながら、
   「かの正身なむ、なほ世に経じと深う思ひ立ちて、尼になりなむと思ひ結ぼほれたまふめれば、何かは。
 こなたかなたに聞きにくくもはべべきを、さやうに嫌疑離れても、また、かの遺言は違へじと思ひたまへて、ただかく言ひ扱ひはべるなり。
 
 「あのご本人の宮は、もう普通の暮らしはするまいと深く決心なさって、尼になってしまいたいと思い詰めていらっしゃるようなので、どうしてどうして。
 あちら方こちら方に聞きずらいことでもございますが、そのように嫌疑を招かぬことになったとしても、また一方で、あの遺言に背くまいと存じまして、ただこのようにお世話申しているのでございます。
 
   院の渡らせたまへらむにも、ことのついではべらば、かうやうにまねびきこえさせたまへ。
 ありありて、心づきなき心つかふと、思しのたまはむを憚りはべりつれど、げに、かやうの筋にてこそ、人の諌めをも、みづからの心にも従はぬやうにはべりけれ」
 院がお渡りあそばしたような時に、よい機会がございましたら、このようにわたしの申したとおりに申し上げてください。
 この年になって、感心しない浮気心を起こしたと、お思いになりおっしゃりもするだろうと気にいたしておりますが、なるほど、このようなことには、人の意見にも、自分の心にも従えないものだということが分かりました」
   と、忍びやかに聞こえたまふ。
 
 と、声を小さくして申し上げなさる。
 
   「人のいつはりにやと思ひはべりつるを、まことにさるやうある御けしきにこそは。
 皆世の常のことなれど、三条の姫君の思さむことこそ、いとほしけれ。
 のどやかに慣らひたまうて」
 「誰かの間違いではないかと思っておりましたが、本当にそのようなご事情があったのですね。
 すべて世間によくある事ですが、三条の姫君がご心配なさるのも、お気の毒です。
 平穏無事に馴れていらっしゃって」
   と聞こえたまへば、  と申し上げなさると、
   「らうたげにものたまはせなす、姫君かな。
 いと鬼しうはべるさがなものを」とて、「などてか、それをもおろかにはもてなしはべらむ。
 かしこけれど、御ありさまどもにても、推し量らせたまへ。
 
 「かわいらしくおっしゃいますね、姫君とはね。
 まるで鬼のようでございます性悪な者を」とおっしゃって、「どうして、その人をいい加減に扱っておりましょうか。
 恐れ多いですが、こちらのご夫人方のご様子からご推量ください。
 
   なだらかならむのみこそ、人はつひのことにははべめれ。
 さがなくことがましきも、しばしはなまむつかしう、わづらはしきやうに憚らるることあれど、それにしも従ひ果つまじきわざなれば、ことの乱れ出で来ぬる後、我も人も、憎げに飽きたしや。
 
 穏やかである事だけが、女性として結局良いことのようでございます。
 口やかましく事を荒立てるのも、暫くの間は煩しく、面倒くさいように遠慮することもありますが、それに必ずしも最後まで従うものではないので、浮気沙汰が出てきた後、自分も相手も、憎らしそうに嫌気のさすものです。
 
   なほ、南の御殿の御心もちゐこそ、さまざまにありがたう、さてはこの御方の御心などこそは、めでたきものには、見たてまつり果てはべりぬれ」  やはり、南の殿の上のお心遣いこそが、いろいろとまたとないことで、それに次いではこちらのお気立てなどが、素晴らしいものとして、拝見するようになりました」
   など、ほめきこえたまへば、笑ひたまひて、  などと、お誉め申し上げなさると、お笑いになって、
   「もののためしに引き出でたまふほどに、身の人悪ろきおぼえこそあらはれぬべう。
 
 「そうした女性の例に出したりなさるので、我が身の体裁の悪い評判がはっきりしてしまいそうで。
 
   さて、をかしきことは、院の、みづからの御癖をば人知らぬやうに、いささかあだあだしき御心づかひをば、大事と思いて、戒め申したまふ。
 後言にも聞こえたまふめるこそ、賢しだつ人の、おのが上知らぬやうにおぼえはべれ」
 ところで、おかしなことは、院が、ご自分の女癖を誰も知らないように、ちょっとした好色めいたお心遣いを、重大事とお思いになって、お諌め申し上げなさる。
 陰口をも申し上げなさっているらしいのは、賢ぶっている人が、自分のことは知らないでいるように思われます」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「さなむ、常にこの道をしも戒め仰せらるる。
 さるは、かしこき御教へならでも、いとよくをさめてはべる心を」
 「さように、いつも女性の事では厳しくお仰せになります。
 しかし、恐れ多い教えを戴かなくても、自分で十分に気をつけておりますのに」
   とて、げにをかしと思ひたまへり。
 
 とおっしゃって、なるほどおかしいと思っていらっしゃった。
 
   御前に参りたまへれば、かのことは聞こし召したれど、何かは聞き顔にもと思いて、ただうちまもりたまへるに、  御前に参上なさると、あの事件はお聞きあそばしていらしたが、どうして知っている顔をしていられようかとお思いになって、ただじっと顔を窺っていらっしゃると、
   「いとめでたくきよらに、このころこそねびまさりたまへる御盛りなめれ。
 さるさまの好き事をしたまふとも、人のもどくべきさまもしたまはず。
 鬼神も罪許しつべく、あざやかにものきよげに、若う盛りに匂ひを散らしたまへり。
 
 「実に素晴らしく美しくて、最近特に男盛りになったようだ。
 そのような浮気事をなさっても、人が非難すべきご様子もなさっていない。
 鬼神も罪を許すに違いなく、鮮やかでどことなく清らかで、若々しく今を盛りに生気溌剌としていらっしゃる。
 
   もの思ひ知らぬ若人のほどにはたおはせず、かたほなるところなうねびととのほりたまへる、ことわりぞかし。
 女にて、などかめでざらむ。
 鏡を見ても、などかおごらざらむ」
 何の分別もない若い人ではいらっしゃらず、どこからどこまですっかり成人なさっている、無理もないことだ。
 女性として、どうして素晴らしいと思わないでいられようか。
 鏡を見ても、どうして心奢らずにいられようか」
   と、わが御子ながらも、思す。
 
 と、ご自分のお子ながらも、そうお思いになる。
 
 
 

第二段 雲居雁、嫉妬に荒れ狂う

 
   日たけて、殿には渡りたまへり。
 入りたまふより、若君たち、すぎすぎうつくしげにて、まつはれ遊びたまふ。
 女君は、帳の内に臥したまへり。
 
 日が高くなって、殿にお帰りになった。
 お入りになるや、若君たちが、次々とかわいらしい姿で、纏わりついてお遊びになる。
 女君は、御帳台の中に臥せっていらっしゃった。
 
   入りたまへれど、目も見合はせたまはず。
 つらきにこそはあめれ、と見たまふもことわりなれど、憚り顔にももてなしたまはず、御衣をひきやりたまへれば、
 お入りになったが、目もお合わせにならない。
 ひどいと思っているのであろう、と御覧になるのもごもっともであるが、遠慮した素振りもお見せにならず、お召し物を引きのけなさると、
   「いづことておはしつるぞ。
 まろは早う死にき。
 常に鬼とのたまへば、同じくはなり果てなむとて」
 「ここをどこと思っていらっしゃったのですか。
 わたしはとっくに死にました。
 いつも鬼とおっしゃるので、同じことならすっかりなってしまおうと思って」
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
   「御心こそ、鬼よりけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、え疎み果つまじ」  「お心は、鬼以上でいらっしゃるが、姿形は憎らしくもないので、すっかり嫌いになることはできないな」
   と、何心もなう言ひなしたまふも、心やましうて、  と、何くわぬ顔でおっしゃるのも、癪にさわって、
   「めでたきさまになまめいたまへらむあたりに、あり経べき身にもあらねば、いづちもいづちも失せなむとするを、かくだにな思し出でそ。
 あいなく年ごろを経けるだに、悔しきものを」
 「結構な姿形で優美に振る舞っていらっしゃるお方に、いつまでも連れ添っていられる身でもありませんので、どこへなりとも消え失せようと思うのを、このようにさえお思い出しますな。
 いつのまにか過ごした年月さえ、惜しく思われるものを」
   とて、起き上がりたまへるさまは、いみじう愛敬づきて、匂ひやかにうち赤みたまへる顔、いとをかしげなり。
 
 と言って、起き上がりなさった様子は、たいそう愛嬌があって、つやつやとして赤くなった顔、実に美しい。
 
   「かく心幼げに腹立ちなしたまへればにや、目馴れて、この鬼こそ、今は恐ろしくもあらずなりにたれ。
 神々しき気を添へばや」
 「このように子供っぽく腹を立てていらっしゃるからでしょうか、見慣れて、この鬼は、今では恐ろしくもなくなってしまったなあ。
 神々しい感じを加わえたいものだ」
   と、戯れに言ひなしたまへど、  と、冗談事におっしゃるが、
   「何ごと言ふぞ。
 おいらかに死にたまひね。
 まろも死なむ。
 見れば憎し。
 聞けば愛敬なし。
 見捨てて死なむはうしろめたし」
 「何を言うの。
 あっさりと死んでおしまいなさい。
 わたしも死にたい。
 見ていると憎らしい。
 聞くも気にくわない。
 後に残して死ぬのは気になるし」
   とのたまふに、いとをかしきさまのみまされば、こまやかに笑ひて、  とおっしゃるが、とても愛らしさが増すばかりなので、心からにっこりして、
   「近くてこそ見たまはざらめ、よそにはなにか聞きたまはざらむ。
 さても、契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり。
 にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契りきこえしか」
 「近くで御覧にならなくても、よそながらどうして噂をお聞きにならないわけには行きますまい。
 そうして、夫婦の縁の深いことを分からせようとのおつもりのようですね。
 急に続くような冥土への旅立ちは、そのようにお約束申したからね」
   と、いとつれなく言ひて、何くれと慰めこしらへきこえ慰めたまへば、いと若やかに心うつくしう、らうたき心はたおはする人なれば、なほざり言とは見たまひながら、おのづからなごみつつものしたまふを、いとあはれと思すものから、心は空にて、  と、まこと素っ気なく言って、何やかやと宥めすかし申し慰めなさると、とても若々しく素直で、かわいらしいお心の持ち主でいらっしゃる方なので、口からの出まかせの言葉とはお思いになりながら、自然と和らいでいらっしゃるのを、とても愛しい人だとお思いになる一方で、心はうわの空で、
   「かれも、いとわが心を立てて、強うものものしき人のけはひには見えたまはねど、もしなほ本意ならぬことにて、尼になども思ひなりたまひなば、をこがましうもあべいかな」  「あの方も、とても我を張って、強く頑固な人の様子にはお見えではないが、もしやはり不本意なことと思って、尼などになっておしまいになったら、馬鹿らしくもあるな」
   と思ふに、しばしはとだえ置くまじう、あわたたしき心地して、暮れゆくままに、「今日も御返りだになきよ」と思して、心にかかりつつ、いみじう眺めをしたまふ。
 
 と思うと、暫くの間は絶え間なく通おうと、落ち着いていられない気がして、日が暮れて行くにつれて、「今日もお返事さえなかったな」とお思いになって、気にかかりながら、ひどく物思いに耽っていらっしゃる。
 
 
 

第三段 雲居雁、夕霧と和歌を詠み交す

 
   昨日今日つゆも参らざりけるもの、いささか参りなどしておはす。
 
 昨日今日と全然お召し上がりにならなかった食事を、少々はお召し上がりになったりなどしていらっしゃる。
 
   「昔より、御ために心ざしのおろかならざりしさま、大臣のつらくもてなしたまうしに、世の中の痴れがましき名を取りしかど、堪へがたきを念じて、ここかしこ、すすみけしきばみしあたりを、あまた聞き過ぐししありさまは、女だにさしもあらじとなむ、人ももどきし。
 
 「昔から、あなたのために愛情が並大抵でなかった事情は、大臣がひどいお扱いをなさったために、世間から愚かな男だとの評判を受けたが、堪えがたいところを我慢して、あちらこちらが、進んで申し込まれた縁談を、たくさん聞き流して来た態度は、女性でさえそれほどの人はいるまいと、世間の人も皮肉った。
 
   今思ふにも、いかでかはさありけむと、わが心ながら、いにしへだに重かりけりと思ひ知らるるを、今は、かく憎みたまふとも、思し捨つまじき人びと、いと所狭きまで数添ふめれば、御心ひとつにもて離れたまふべくもあらず。
 また、よし見たまへや。
 命こそ定めなき世なれ」
 今思うにつけても、どうしてそうであったのかと、自分ながらも、昔でさえ重々しかったと反省されるが、今は、このようにお憎みになっても、お捨てになることのできない子供たちが、とても辺りせましと数増えたようなので、あなたのお気持ち一つで出てお行きになることはできません。
 また、まあ見ていてくださいよ。
 寿命とは分からないのがこの世の常です」
   とて、うち泣きたまふこともあり。
 女も、昔のことを思ひ出でたまふに、
 と言って、お泣きになったりすることもある。
 女も、往時を思い出しなさると、
   「あはれにもありがたかりし御仲の、さすがに契り深かりけるかな」  「しみじみとも世に又となく仲睦まじかった二人の仲が、何と言っても前世の約束が深かったのだな」
   と、思ひ出でたまふ。
 なよびたる御衣ども脱いたまうて、心ことなるをとり重ねて焚きしめたまひ、めでたうつくろひ化粧じて出でたまふを、灯影に見出だして、忍びがたく涙の出で来れば、脱ぎとめたまへる単衣の袖をひき寄せたまひて、
 と、お思い出しなさる。
 柔らかくなったお召し物をお脱ぎになって、新調の素晴らしいのを重ねて香をたきしめなさり、立派に身繕いし化粧してお出かけになるのを、灯火の光で見送って、堪えがたく涙が込み上げて来るので、脱ぎ置きなさった単衣の袖を引き寄せなさって、
 

546
 「馴るる身を 恨むるよりは 松島の
 海人の衣に 裁ちやかへまし
 「長年連れ添って古びたこの身を恨んだりするよりも
  いっそ尼衣に着替えてしまおうかしら
 
   なほうつし人にては、え過ぐすまじかりけり」  やはり俗世の人のままでは、生きて行くことができないわ」
   と、独言にのたまふを、立ち止まりて、  と、独言としておっしゃるのを、立ち止まって、
   「さも心憂き御心かな。
 
 「何とも嫌なお心ですね。
 
 

547
 松島の 海人の濡衣 なれぬとて
 脱ぎ替へつてふ 名を立ためやは」
  いくら長年連れ添ったからといって、わたしを見限って
  尼になったという噂が立ってよいものでしょうか」
 
   うち急ぎて、いとなほなほしや。
 
 急いでいて、とても平凡な歌であるよ。
 
 
 

第四段 塗籠の落葉宮を口説く

 
   かしこには、なほさし籠もりたまへるを、人びと、  あちらには、やはり籠もっていらっしゃるのを、女房たちが、
   「かくてのみやは。
 若々しうけしからぬ聞こえもはべりぬべきを、例の御ありさまにて、あるべきことをこそ聞こえたまはめ」
 「こうしてばかりいらしてよいものでしょうか。
 子供っぽく良くない噂も立つでございましょうから、いつものご座所に戻って、お考えのほどを申し上げなさいませ」
   など、よろづに聞こえければ、さもあることとは思しながら、今より後のよその聞こえをも、わが御心の過ぎにし方をも、心づきなく、恨めしかりける人のゆかりと思し知りて、その夜も対面したまはず。
 「戯れにくく、めづらかなり」と、聞こえ尽くしたまふ。
 人もいとほしと見たてまつる。
 
 などと、いろいろと申し上げたので、もっともなことだとお思いになりながら、今から以後の世間での噂も、自分のどのようなお気持ちで過ごして来たかも、気にくわなく、恨めしかった方のせいだとお考えになって、その夜もお会いなさらない。
 「冗談ではなく、変わった方だ」と、言葉を尽くして恨みのたけを申し上げなさる。
 女房もお気の毒だと拝す。
 
   「『いささかも人心地する折あらむに、忘れたまはずは、ともかうも聞こえむ。
 この御服のほどは、一筋に思ひ乱るることなくてだに過ぐさむ』となむ、深く思しのたまはするを、かくいとあやにくに、知らぬ人なくなりぬめるを、なほいみじうつらきものに聞こえたまふ」
 「『わずかでも人心地のする時があろうときに、お忘れでなかったら、何なりとお返事申し上げましょう。
 この御服喪期間中は、せめて他の事で頭を思い乱すことなく過ごしたい』と、深くお思いになりおっしゃっていますが、このようにまことに都合悪く、知らない人のなくなってしまったようなことを、やはりひどくお辛いことと申し上げておいでです」
   と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
   「思ふ心は、また異ざまにうしろやすきものを。
 思はずなりける世かな」とうち嘆きて、「例のやうにておはしまさば、物越などにても、思ふことばかり聞こえて、御心破るべきにもあらず。
 あまたの年月をも過ぐしつべくなむ」
 「愛する気持ちは、また普通の人とは違って安心ですのに。
 思いも寄らない目に遭うものですね」と嘆息して、「普通のご気分でいらっしゃったら、物越しなどでも、自分の気持ちだけでも申し上げて、お心を傷つけるようなことはしません。
 何年でもきっとお待ちしましょう」
   など、尽きもせず聞こえたまへど、  などと、どこまでも申し上げなさるが、
   「なほ、かかる乱れに添へて、わりなき御心なむいみじうつらき。
 人の聞き思はむことも、よろづになのめならざりける身の憂さをば、さるものにて、ことさらに心憂き御心がまへなれ」
 「やはり、このような喪中の心の乱れに加えて、無理をおっしゃるお心がひどく辛い。
 他人が聞いて想像することも、すべていい加減なことで済まされないわが身の辛さは、それはそれとして措いても、格別に情けないお心づもりです」
   と、また言ひ返し恨みたまひつつ、はるかにのみもてなしたまへり。
 
 と、重ねて拒否してお恨みになりながら、つき放してお相手していらっしゃった。
 
 
 

第五段 夕霧、塗籠に入って行く

 
   「さりとて、かくのみやは。
 人の聞き漏らさむこともことわり」と、はしたなう、ここの人目もおぼえたまへば、
 「そうかといって、こうしてばかりいられようか。
 人が洩れ聞くことも当然だ」と、きまり悪く、こちらの人目も気にかかりなさるので、
   「うちうちの御心づかひは、こののたまふさまにかなひても、しばしは情けばまむ。
 世づかぬありさまの、いとうたてあり。
 また、かかりとて、ひき絶え参らずは、人の御名いかがはいとほしかるべき。
 ひとへにものを思して、幼げなるこそいとほしけれ」
 「内々のお気づかいは、このおっしゃることに適っても、暫くの間はお気持ちに逆らわないでいよう。
 夫婦らしからぬ様子が、とても嫌である。
 また、こうだからといって、まったく参らなくなったら、あなたのご評判がどんなにかおいたわしいことでしょうか。
 一方的にお考えになって、大人げないのが困ったことです」
   など、この人を責めたまへば、げにと思ひ、見たてまつるも今は心苦しう、かたじけなうおぼゆるさまなれば、人通はしたまふ塗籠の北の口より、入れたてまつりてけり。
 
 など、この女房をお責めになるので、なるほどと思って、拝するのも今はお気の毒になって、恐れ多くも思われる様子なので、女房を出入りさせなさる塗籠の北の口から、お入れ申し上げてしまった。
 
   いみじうあさましうつらしと、さぶらふ人をも、げにかかる世の人の心なれば、これよりまさる目をも見せつべかりけりと、頼もしき人もなくなり果てたまひぬる御身を、かへすがへす悲しう思す。
 
 ひどく驚いて情けなくむごいと、伺候している女房も、なるほどこのような世間の人の心だから、これ以上ひどい目に遭わせるに違いないと、頼りにする人もいなくなってしまった我が身を、かえすがえす悲しくお思いになる。
 
   男は、よろづに思し知るべきことわりを聞こえ知らせ、言の葉多う、あはれにもをかしうも聞こえ尽くしたまへど、つらく心づきなしとのみ思いたり。
 
 男は、いろいろと納得なさるような条理を尽くしてお説き申し上げ、言葉数多く、しみじみと気を引くようなことをどこまでも申し上げなさるが、辛く気にくわないとばかりお思いになっていた。
 
   「いと、かう、言はむ方なきものに思ほされける身のほどは、たぐひなう恥づかしければ、あるまじき心のつきそめけむも、心地なく悔しうおぼえはべれど、とり返すものならぬうちに、何のたけき御名にかはあらむ。
 いふかひなく思し弱れ。
 
 「まったく、このように、何とも言いようもない者に思われなさった身のほどは、例のないくらい恥ずかしいので、あってはならない考えがつき始まったのも、迂闊にも悔しく思われますが、昔に戻ることのできない関係で、何の立派なご評判がございましょうか。
 もう仕方のないこととお諦めください。
 
   思ふにかなはぬ時、身を投ぐるためしもはべなるを、ただかかる心ざしを深き淵になずらへたまて、捨てつる身と思しなせ」  思い通りにならない時、淵に身を投げる例もございますそうですが、ただこのような愛情を深い淵だとお思いになって、飛び込んだ身だとお思いください」
   と聞こえたまふ。
 単衣の御衣を御髪込めひきくくみて、たけきこととは、音を泣きたまふさまの、心深くいとほしければ、
 と申し上げなさる。
 単衣のお召し物をお髪ごと被って、できることといっては、声を上げてお泣きになる様子が、心底お気の毒なので、
   「いとうたて。
 いかなればいとかう思すらむ。
 いみじう思ふ人も、かばかりになりぬれば、おのづからゆるぶけしきもあるを、岩木よりけになびきがたきは、契り遠うて、憎しなど思ふやうあなるを、さや思すらむ」
 「まったく困ったことだ。
 どうしてまったくこのようにまでお嫌いになるのだろう。
 強情を張っている人でも、これほどになってしまえば、自然と弱くなる様子もあるのだが、石や木よりもほんとうに心を動かさないのは、前世の因縁が薄いために、恨むようなことがあるが、そのようにお思いなのだろうか」
   と思ひ寄るに、あまりなれば心憂く、三条の君の思ひたまふらむこと、いにしへも何心もなう、あひ思ひ交はしたりし世のこと、年ごろ、今はとうらなきさまにうち頼み、解けたまへるさまを思ひ出づるも、わが心もて、いとあぢきなう思ひ続けらるれば、あながちにもこしらへきこえたまはず、嘆き明かしたまうつ。
 
 と思い当たると、あまりひどいので情けなくなって、三条の君がお悲しみであろうことや、昔も何の疑いもなく、お互いに愛情を交わし合った当時のこと、長年にわたり、もう安心と信頼し、打ち解けていらっしゃった様子を思い出すにつけても、自分のせいで、まことにつまらなく思い続けられずにはいられないので、無理にもお慰め申し上げなさらず、嘆息しながら夜をお明かしになった。
 
 
 

第六段 夕霧と落葉宮、遂に契りを結ぶ

 
   かうのみ痴れがましうて出で入らむもあやしければ、今日は泊りて、心のどかにおはす。
 かくさへひたぶるなるを、あさましと宮は思いて、いよいよ疎き御けしきのまさるを、をこがましき御心かなと、かつは、つらきもののあはれなり。
 
 こうしてばかり馬鹿らしく出入りするのもみっともないので、今日は泊まって、ゆっくりとしていらっしゃる。
 こんなにまで一途なのを、あきれたことと宮はお思いになって、ますます疎んずる態度が増してくるのを、愚かしい意地の張りようだと、思う一方で、情けなくもおいたわしい。
 
   塗籠も、ことにこまかなるもの多うもあらで、香の御唐櫃、御厨子などばかりあるは、こなたかなたにかき寄せて、気近うしつらひてぞおはしける。
 うちは暗き心地すれど、朝日さし出でたるけはひ漏り来たるに、埋もれたる御衣ひきやり、いとうたて乱れたる御髪、かきやりなどして、ほの見たてまつりたまふ。
 
 塗籠も、格別こまごまとした物も多くはなくて、香の御唐櫃や、御厨子などばかりがあるのは、あちらこちらに片づけて、親しみの持てる感じに設えていらっしゃるのだった。
 内側は暗い感じがするが、朝日がさし昇った感じが漏れて来たので、被っていた単衣をひき払って、とてもひどく乱れていたお髪、かき上げたりなどして、わずかに拝見なさる。
 
   いとあてに女しう、なまめいたるけはひしたまへり。
 男の御さまは、うるはしだちたまへる時よりも、うちとけてものしたまふは、限りもなうきよげなり。
 
 まことに気品高く女性的で、優美な感じでいらっしゃった。
 夫君のご様子は、凛々しくしていらっしゃる時よりも、くつろいでいらっしゃる時は、限りなく美しい感じである。
 
   「故君の異なることなかりしだに、心の限り思ひあがり、御容貌まほにおはせずと、ことの折に思へりしけしきを思し出づれば、まして、かういみじう衰へにたるありさまを、しばしにても見忍びなむや」と思ふも、いみじう恥づかしう、とざまかうざまに思ひめぐらしつつ、わが御心をこしらへたまふ。
 
 「亡き夫君が特別すぐれた容貌というわけでなかったが、その彼でさえ、すっかり気位高く持って、ご器量がお美しくないと、何かの折に思っていたらしい様子をお思い出しになると、それ以上に、このようにひどく衰えた様子を、少しの間でも我慢できようか」と思うのも、ひどく恥ずかしく、あれやこれやと思案しながら、自分のお気持ちを納得させなさる。
 
   ただかたはらいたう、ここもかしこも、人の聞き思さむことの罪さらむ方なきに、折さへいと心憂ければ、慰めがたきなりけり。
 
 ただ外聞が悪く、こちらでもあちらでも、人がお聞きになってどうお思いなさろうかの罪は避けられないうえ、喪中でさえあるのがとても情けないので、気持ちの慰めようがないのであった。
 
   御手水、御粥など、例の御座の方に参れり。
 色異なる御しつらひも、いまいましきやうなれば、東面は屏風を立てて、母屋の際に香染の御几帳など、ことことしきやうに見えぬ物、沈の二階なんどやうのを立てて、心ばへありてしつらひたり。
 大和守のしわざなりけり。
 
 御手水や、お粥などを、いつものご座所の方で差し上げる。
 色の変わった御調度類も、縁起でもないようなので、東面には屏風を立てて、母屋との境に香染の御几帳など、大げさに見えない物、沈の二階棚などのような物を立てて、気を配って飾ってある。
 大和守のしたことであったのだ。
 
   人びとも、鮮やかならぬ色の、山吹、掻練、濃き衣、青鈍などを着かへさせ、薄色の裳、青朽葉などを、とかく紛らはして、御台は参る。
 女所にて、しどけなくよろづのことならひたる宮の内に、ありさま心とどめて、わづかなる下人をも言ひととのへ、この人一人のみ扱ひ行ふ。
 
 女房たちも、派手でない色の、山吹襲、掻練襲、濃い紫の衣、青鈍色などを着替えさせ、薄紫色の裳、青朽葉などを、何かと目立たないようにして、お食膳を差し上げる。
 女主人の生活で、諸事しまりなくいろいろ習慣になっていた宮邸の中で、有様に気を配って、わずかの下人たちにも声をかけてきちんとさせ、この大和守一人だけで取り仕切っている。
 
   かくおぼえぬやむごとなき客人のおはすると聞きて、もと勤めざりける家司など、うちつけに参りて、政所など言ふ方にさぶらひて営みけり。
 
 このように思いがけない高貴な来客がいらっしゃったと聞いて、もとから怠けていた家司なども、急に参上して、政所などという所に控えて仕事をするのだった。
 
 
 

第七章 雲居雁の物語 夕霧の妻たちの物語

 
 

第一段 雲居雁、実家へ帰る

 
   かくせめても見馴れ顔に作りたまふほど、三条殿、  このように無理して馴染んだ顔をしていらっしゃるので、三条殿は、
   「限りなめりと、さしもやはとこそ、かつは頼みつれ、まめ人の心変はるは名残なくなむと聞きしは、まことなりけり」  「これが最後のようだと、まさかそんなことはあるまいと、一方では信頼していたが、実直な人が浮気したら跡形もなくなると聞いていたことは、本当のことであった」
   と、世を試みつる心地して、「いかさまにしてこのなめげさを見じ」と思しければ、大殿へ、方違へむとて、渡りたまひにけるを、女御の里におはするほどなどに、対面したまうて、すこしもの思ひはるけどころに思されて、例のやうにも急ぎ渡りたまはず。
 
 と、夫婦の仲を見届けてしまった感じがして、「どうにしてこの侮辱を味わっていようか」とお思いになったので、大殿邸へ、方違えしようと思って、お移りになったところ、弘徽殿の女御が里にいらっしゃる時でもあり、お会いなさって、少し悩みが晴れることとお思いになって、いつものように急いでお帰りにならない。
 
   大将殿も聞きたまひて、  大将殿もお聞きになって、
   「さればよ。
 いと急にものしたまふ本性なり。
 この大臣もはた、おとなおとなしうのどめたるところ、さすがになく、いとひききりにはなやいたまへる人びとにて、めざまし、見じ、聞かじなど、ひがひがしきことどもし出でたまうつべき」
 「やはりそうであったか。
 まことせかっちでいらっしゃる性格だ。
 この大殿の方も、また、年輩者らしくゆったりと落ち着いているところが、何といってもなく、実に性急で派手でいらっしゃる方々だから、気にくわない、見るものか、聞くものかなどと、不都合なことをおっしゃり出すかも知れない」
   と、驚かれたまうて、三条殿に渡りたまへれば、君たちも、片へは止まりたまへれば、姫君たち、さてはいと幼きとをぞ率ておはしにける、見つけてよろこびむつれ、あるは上を恋ひたてまつりて、愁へ泣きたまふを、心苦しと思す。
 
 と、驚きなさって、三条殿にお帰りになると、子供たちも、半ばは残っていらっしゃって、姫君たちと、それからとても幼い子は連れていらっしゃっていたのだが、見つけて喜んで纏わりつき、ある者は母上を恋い慕い申して、悲しんで泣いていらっしゃるのを、かわいそうにとお思いになる。
 
   消息たびたび聞こえて、迎へにたてまつれたまへど、御返りだになし。
 かくかたくなしう軽々しの世やと、ものしうおぼえたまへど、大臣の見聞きたまはむところもあれば、暮らして、みづから参りたまへり。
 
 手紙を頻繁に差し上げて、お迎えに参上なさるが、お返事すらない。
 このように頑固で軽率な夫婦仲だと、嫌に思われなさるが、大殿が見たり聞いたりなさる手前もあるので、日が暮れてから、自分自身で参上なさった。
 
 
 

第二段 夕霧、雲居雁の実家へ行く

 
   寝殿になむおはするとて、例の渡りたまふ方は、御達のみさぶらふ。
 若君たちぞ、乳母に添ひておはしける。
 
 寝殿にいらっしゃると聞いて、いつもお帰りの時に使う部屋は、年配の女房たちだけが控えている。
 若君たちは、乳母と一緒にいらっしゃった。
 
   「今さらに若々しの御まじらひや。
 かかる人を、ここかしこに落しおきたまひて。
 など寝殿の御まじらひは。
 ふさはしからぬ御心の筋とは、年ごろ見知りたれど、さるべきにや、昔より心に離れがたう思ひきこえて、今はかく、くだくだしき人の数々あはれなるを、かたみに見捨つべきにやはと、頼みきこえける。
 はかなき一節に、かうはもてなしたまふべくや」
 「今になって若々しいお付き合いをなさることだ。
 このような子を、あちらやこちらにほって置きなさって。
 どうして寝殿でお話に熱中なさっているのですか。
 不似合いなご性格とは、長年見知っていたが、前世からの宿縁だろうか、昔から忘れられない人とお思い申し上げて、今ではこのように、手のかかった子供たちも大勢かわいくなっているのを、お互いに見捨ててよいものかと、お頼み申しているのです。
 ちょっとしたことで、こんなふうになさってよいものでしょうか」
   と、いみじうあはめ恨み申したまへば、  と、ひどく非難しお恨み申し上げなさると、
   「何ごとも、今はと見飽きたまひにける身なれば、今はた、直るべきにもあらぬを、何かはとて。
 あやしき人びとは、思し捨てずは、うれしうこそはあらめ」
 「何もかも、もう飽き飽きしたと見限られてしまった身ですので、今さらまた、直るものでないのを、どうして直そうかと思いまして。
 見苦しい子供たちは、お忘れにならなければ、嬉しく思いましょう」
   と聞こえたまへり。
 
 とお答え申し上げなさった。
 
   「なだらかの御いらへや。
 言ひもていけば、誰が名か惜しき」
 「穏やかなお返事ですね。
 言い続けていったら、誰が悪く言われるでしょう」
   とて、しひて渡りたまへともなくて、その夜はひとり臥したまへり。
 
 と言って、無理にお帰りになりなさいとも言わずに、その夜は独りでお寝みになった。
 
   「あやしう中空なるころかな」と思ひつつ、君たちを前に臥せたまひて、かしこにまた、いかに思し乱るらむさま、思ひやりきこえ、やすからぬ心尽くしなれば、「いかなる人、かうやうなることをかしうおぼゆらむ」など、物懲りしぬべうおぼえたまふ。
 
 「変に中途半端なこのごろだ」と思いながら、子供たちを前にお寝せになって、あちらではまた、どんなにお悩みになっていらっしゃるだろう様子を、ご想像申し上げ、気の安まらない心地なので、「どのような人が、このようなことを興味もつのだろう」などと、懲り懲りした感じがなさる。
 
   明けぬれば、  夜が明けたので、
   「人の見聞かむも若々しきを、限りとのたまひ果てば、さて試みむ。
 かしこなる人びとも、らうたげに恋ひきこゆめりしを、選り残したまへる、やうあらむとは見ながら、思ひ捨てがたきを、ともかくももてなしはべりなむ」
 「誰が見聞きしても大人げないことですから、もう最後だとおっしゃるならば、そのようにしましょう。
 あちらにいる子供たちも、かわいらしそうに恋い慕い申しているようでしたが、選び残されたのには、何かわけがあるのかと思いながら、放っておくことができませんから、どうなりともいたしましょう」
   と、脅しきこえたまへば、すがすがしき御心にて、この君達をさへや、知らぬ所に率て渡したまはむ、と危ふし。
 姫君を、
 と、脅し申し上げなさると、いかにもきっぱりしたご性格なので、この子供たちまで、知らない所へお連れなさるのだろうか、と心配になる。
 姫君を、
   「いざ、たまへかし。
 見たてまつりに、かく参り来ることもはしたなければ、常にも参り来じ。
 かしこにも人びとのらうたきを、同じ所にてだに見たてまつらむ」
 「さあ、いらっしゃい。
 お目にかかるために、このように参上するのも体裁が悪いので、いつも参上できません。
 あちらにも子供たちがかわいいので、せめて同じ所でお世話申そう」
   と聞こえたまふ。
 まだいといはけなく、をかしげにておはす、いとあはれと見たてまつりたまひて、
 と申し上げなさる。
 まだとても小さく、かわいらしくいらっしゃるのを、しみじみといとしいと拝見なさって、
   「母君の御教へにな叶ひたまうそ。
 いと心憂く、思ひとる方なき心あるは、いと悪しきわざなり」
 「母君のお言葉にお従いになってはなりませんよ。
 とても情けなく、物事の分別がつかないのは、とても良くないことです」
   と、言ひ知らせたてまつりたまふ。
 
 と、お教え申し上げなさる。
 
 
 

第三段 蔵人少将、落葉宮邸へ使者

 
   大臣、かかることを聞きたまひて、人笑はれなるやうに思し嘆く。
 
 大殿は、このようなことをお聞きになって、物笑いになることとお嘆きになる。
 
   「しばしは、さても見たまはで。
 おのづから思ふところものせらるらむものを。
 女のかくひききりなるも、かへりては軽くおぼゆるわざなり。
 よし、かく言ひそめつとならば、何かは愚れて、ふとしも帰りたまふ。
 おのづから人のけしき心ばへは見えなむ」
 「もう少しの間、そのまま様子を見ていらっしゃらないで。
 自然と反省するところも生じてこようものを。
 女がこのように性急であるのも、かえって軽く思われるものだ。
 仕方ない、このように言い出したからには、どうして間抜け顔をして、おめおめとお帰りになれよう。
 自然と相手の様子や考えが分かるだろう」
   とのたまはせて、この宮に、蔵人少将の君を御使にてたてまつりたまふ。
 
 と仰せになって、この一条宮邸に、蔵人少将の君をお使いとして差し向けなさる。
 
 

548
 「契りあれや 君を心に とどめおきて
 あはれと思ふ 恨めしと聞く
 「前世からの因縁があってか、あなたのことを
  お気の毒にと思う一方で、恨めしい方だと聞いております
 
   なほ、え思し放たじ」  やはり、お忘れにはなれないでしょう」
   とある御文を、少将持ておはして、ただ入りに入りたまふ。
 
 とあるお手紙を、少将が持っていらっしゃって、ただずんずんとお入りになる。
 
   南面の簀子に円座さし出でて、人びと、もの聞こえにくし。
 宮は、ましてわびしと思す。
 
 南面の簀子に円座をさし出したが、女房たちは、応対申し上げにくい。
 宮は、それ以上に困ったことだとお思いになる。
 
   この君は、なかにいと容貌よく、めやすきさまにて、のどやかに見まはして、いにしへを思ひ出でたるけしきなり。
 
 この君は、兄弟の中でとても器量がよく、難のない態度で、ゆったりと見渡して、昔を思い出している様子である。
 
   「参り馴れにたる心地して、うひうひしからぬに、さも御覧じ許さずやあらむ」  「参上し馴れた気がして、久しぶりの感じもしませんが、そのようにはお認めいただけないでしょうか」
   などばかりぞかすめたまふ。
 御返りいと聞こえにくくて、
 などとだけそれとなくおっしゃる。
 お返事はとても申し上げにくくて、
   「われはさらにえ書くまじ」  「わたしはとても書くことできない」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「御心ざしも隔て若々しきやうに。
 宣旨書き、はた聞こえさすべきにやは」
 「お気持ちも通じず子供っぽいように思われます。
 代筆のお返事は、差し上げるべきではありません」
   と、集りて聞こえさすれば、まづうち泣きて、  と寄ってたかって申し上げるので、何より先涙がこぼれて、
   「故上おはせましかば、いかに心づきなし、と思しながらも、罪を隠いたまはまし」  「亡くなった母上が生きていらっしゃったら、どんなに気にくわない、とお思いになりながらも、罪を庇ってくれたであろうに」
   と思ひ出でたまふに、涙のみつらきに先だつ心地して、書きやりたまはず。
 
 とお思い出しなさると、涙ばかりが辛さに先走る気がして、お書きになれない。
 
 

549
 「何ゆゑか 世に数ならぬ 身ひとつを
 憂しとも思ひ かなしとも聞く」
 「どういうわけで、世の中で人数にも入らないわたしのような身を
  辛いとも思い愛しいともお聞きになるのでしょう」
 
   とのみ、思しけるままに、書きもとぢめたまはぬやうにて、おしつつみて出だしたまうつ。
 少将は、人びと物語して、
 とだけ、お心にうかんだままに、終わりまで書かなかったような書きぶりで、ざっと包んでお出しになった。
 少将は、女房と話して、
   「時々さぶらふに、かかる御簾の前は、たづきなき心地しはべるを、今よりはよすがある心地して、常に参るべし。
 内外なども許されぬべき、年ごろのしるし現はれはべる心地なむしはべる」
 「時々お伺いしますのに、このような御簾の前では、頼りない気がいたしますが、今からは御縁のある気がして、常に参上しましょう。
 御簾の中にもお許しいただけそうな、長年の忠勤の結果が現れましたような気がいたします」
   など、けしきばみおきて出でたまひぬ。
 
 などと、思わせぶりな態度を見せてお帰りになった。
 
 
 

第四段 藤典侍、雲居雁を慰める

 
   いとどしく心よからぬ御けしき、あくがれ惑ひたまふほど、大殿の君は、日ごろ経るままに、思し嘆くことしげし。
 典侍、かかることを聞くに、
 ますますおもしろからぬご気分に、気もそぞろにうろうろなさっているうちに、大殿邸にいる女君は、何日も経るうちに、お悲しみ嘆くことしばしばである。
 藤典侍は、このようなことを聞くと、
   「われを世とともに許さぬものにのたまふなるに、かくあなづりにくきことも出で来にけるを」  「わたしを長年ずっと許さないとおっしゃっていたと聞いているが、このように馬鹿にできない相手が現れたこと」
   と思ひて、文などは時々たてまつれば、聞こえたり。
 
 と思って、手紙などは時々差し上げていたので、お見舞い申し上げた。
 
 

550
 「数ならば 身に知られまし 世の憂さを
 人のためにも 濡らす袖かな」
 「わたしが人数にも入る女でしたら夫婦仲の悲しみを思い知られましょうが
  あなたのために涙で袖をぬらしております」
 
   なまけやけしとは見たまへど、もののあはれなるほどのつれづれに、「かれもいとただにはおぼえじ」と思す片心ぞ、つきにける。
 
 何となく出過ぎた手紙だとは御覧になったが、何となくしみじみと物思いに沈んでいる時の所在なさに、「あの人もとても平気ではいられまい」とお思いになる気にも、幾分おなりになった。
 
 

551
 「人の世の 憂きをあはれと 見しかども
 身にかへむとは 思はざりしを」
 「他人の夫婦仲の辛さをかわいそうにと思って見てきたが
  わが身のこととまでは思いませんでした」
 
   とのみあるを、思しけるままと、あはれに見る。
 
 とだけあるのを、お思いになったままだと、しみじみと見る。
 
   この、昔、御中絶えのほどには、この内侍のみこそ、人知れぬものに思ひとめたまへりしか、こと改めて後は、いとたまさかに、つれなくなりまさりたまうつつ、さすがに君達はあまたになりにけり。
 
 あの、昔、二人のお仲が遠ざけられていた期間は、この典侍だけを、密かにお目をかけていらっしゃったのだが、事情が変わってから後は、とてもたまさかに、冷たくおなりになるばかりであったが、そうは言っても、子供たちは大勢になったのであった。
 
   この御腹には、太郎君、三郎君、五郎君、六郎君、中の君、四の君、五の君とおはす。
 内侍は、大君、三の君、六の君、次郎君、四郎君とぞおはしける。
 すべて十二人が中に、かたほなるなく、いとをかしげに、とりどりに生ひ出でたまける。
 
 こちらがお生みになったのは、太郎君、三郎君、五郎君、六郎君、中の君、四の君、五の君といらっしゃる。
 藤典侍は、大君、三の君、六の君、二郎君、四郎君といらっしゃった。
 全部で十二人の中で、出来の悪い子供はなく、とてもかわいらしく、それぞれに大きくおなりになっていた。
 
   内侍腹の君達しもなむ、容貌をかしう、心ばせかどありて、皆すぐれたりける。
 三の君、次郎君は、東の御殿にぞ、取り分きてかしづきたてまつりたまふ。
 院も見馴れたまうて、いとらうたくしたまふ。
 
 藤典侍のお生みになった子供は、特に器量がよく、才気が見えて、みな立派であった。
 三の君と、二郎君は、六条院の東の御殿で、特別に引き取ってお世話申していらっしゃる。
 院も日頃御覧になって、とてもかわいがっていらっしゃる。
 
   この御仲らひのこと、言ひやるかたなく、とぞ。
 
 このお二方の話は、いろいろとあって語り尽くせない、とのことである。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと思ふは山の蔭にぞありける(古今集秋上-二〇四 読人しらず)(戻)  
  出典2 あな恋ひし今も見てしか山賤の垣ほに咲ける大和撫子(古今集恋四-六九五 読人しらず)(戻)  
  出典3 夕闇は道たどたどし月待ちて帰れ我が背子その間にも見む(古今六帖一-三七一)(戻)  
  出典4 君恋ふる心は千々に砕くれど一つも失せぬものにぞありける(後拾遺集恋四-八〇一 和泉式部)(戻)  
  出典5 夕霧に衣は濡れて草枕旅寝するかも逢はぬ君ゆゑ(古今六帖一-六三三)(戻)  
  出典6 なき名ぞと人には言ひてありぬべし心の問はばいかが答へむ(後撰集恋三-七二五 読人しらず)(戻)  
  出典7 飽かざりし袖の中にや入りにけむわが魂のなき心地する(古今集雑下-九九二 陸奥)(戻)  
  出典8 身を捨てて行きやしにけむ思ふより外なるものは心なりけり(古今集雑下-九七七 凡河内躬恒)(戻)  
  出典9 我が恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行く方もなし(古今集恋一-四八八 読人しらず)(戻)  
  出典10 心には千重に思へど人に言はぬわが恋妻を見むよしもがな(古今六帖四-一九九〇 かさのにらう)(戻)  
  出典11 かねてより辛さを我にならはさでにはかに物を思はさぬかな(源氏釈所引-出典未詳)(戻)  
  出典12 人に逢はむ月のなきには思ひおきて胸走り火に心焼けをり(古今集俳諧-一〇三〇 小野小町)(戻)  
  出典13 風早み峯の葛葉のともすればあやかりやすき人の心か(拾遺集雑恋-一二五一 読人しらず)(戻)  
  出典14 秋なれば山とよむまで鳴く鹿に我劣らめや独り寝る夜は(古今集恋二-五八二 読人しらず)(戻)  
  出典15 秋の夜の月の光し明かければ暗部の山も越えぬべらなり(古今集秋上-一九五 在原元方)(戻)  
  出典16 いかにしていかによるらむ小野山の上より落つる音無の滝(源氏釈所引-出典未詳)(戻)  
  出典17 朝露貪名利 夕陽憂子孫(白氏文集二-七九「不致仕」)(戻)  
  出典18 足引きの山鳥の尾のしだり尾の長ながし夜を独りかも寝む(拾遺集恋三-七七八 人麿)(戻)  
  出典19 身を捨てて深き淵にも入りぬべし底の心の知らまほしさに(後拾遺集恋一-六四七 源道済)(戻)  
  出典20 人非木石皆有情 不如不遇傾城色(白氏文集四-一六〇 「李夫人」)(戻)  
  出典21 言ひたてば誰が名か惜しき信濃なる木曽路の橋の踏みし絶えなば(奥入所引-出典未詳)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 うしろやすさ--うしろやすき(き/$さ<朱>)(戻)  
  校訂2 知らぬ--しか(しか/$し<朱>)らぬ(戻)  
  校訂3 例ならぬ--れ(れ/+い<朱>)ならぬ(戻)  
  校訂4 満ちて--みちに(に/$<朱>)て(戻)  
  校訂5 いとほしげなり--*いとほしけなる(戻)  
  校訂6 身の--身(身/+の)(戻)  
  校訂7 きこえたまひ--きこえ(え/+給<朱>)(戻)  
  校訂8 笑ふ--わつ(つ/$<朱>)らふ(戻)  
  校訂9 取らむ--*とゝむ(戻)  
  校訂10 今めかしくなり変はれる御けしきのすさまじさも、見ならはずなり--*いまめかしさも見ならはすなり(戻)  
  校訂11 女は--*女なは(戻)  
  校訂12 心幼くて--*をさなくて(戻)  
  校訂13 片へこそ--かたへに(に/$こ<朱>)そ(戻)  
  校訂14 なきを--な(な/+き)を(戻)  
  校訂15 いかなるにか--いかなるに(に/$<朱>)にか(戻)  
  校訂16 先ざきも--さま(ま/$き)/\も(戻)  
  校訂17 所からにや--所から(ら/+にや<朱>)(戻)  
  校訂18 そよや--そ(そ/+よ<朱>)や(戻)  
  校訂19 かうやう--か(か/+う<朱>)やう(戻)  
  校訂20 思ひ取る方ありて、今すこし思ひ静め--*おもひしつめ(戻)  
  校訂21 ゆくりか--ゆくる(る/$り<朱>)か(戻)  
  校訂22 見譲る--*ゆつる(戻)  
  校訂23 げにと--けにとも(も/$)(戻)  
  校訂24 御唐櫃--御からう(う/=ひ<朱>)つ(戻)  
  校訂25 心憂ければ--心うけれ(れ/+は<朱>)(戻)  
  校訂26 たまへかし--たまへり(り/$か<朱>)し(戻)  
  校訂27 ひとつを--ひとつに(に/$を<朱>)(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。