徒然草 序 つれづれなるままに:完全対訳解説

    徒然草
第一部

つれづれなる
いでやこの世に

 

原文 現代語訳
つれづれなる 他にすることもない

徒然=いたずらに自然=無駄に自由=暇過ぎる

ままに ので、 その状態が継続中(まま)+に(なので)=理由
日ぐらし、硯にむかひて、 一日中、硯(すずり)に向かって、 日ぐらし=一日中・終日
心にうつりゆく 心にうつりゆく うつる=映る×移る。掛詞的用法
よしなし事を、 訳もない事を、 よし(由)=理由・訳
そこはかとなく つらつらと そこはかとなく=何となく。
書きつくれば、 書きつけると、 エば=確定条件(~すると) ×仮定
あやしうこそ おかしなもので あやし=多義語=要注意 こそ=強意・語調整え
ものぐるほし 頭がおかしくなって もの狂おし=とち狂って。顕著な特有語で最大注意
けれ きたようだ。 けり=た。たようだ。けれ=こそ已然

 

解説

つれづれなるままに
源氏物語独自の定型句(6例:夕顔・葵・須磨・幻・橋姫・蜻蛉)。「つれづれなるままに、いにしへの物語などしたまふ折々もあり」(幻)
「つれづれ」は伊勢物語の45段・83段(つれづれと・つれづれの)が初出だが、「つれづれなるままに」は枕草子にも和泉式部日記にもない。
このフレーズは古の先例が血肉としていることの表れだが、それをもって直ちに本作品の「つれづれ」の文脈まで他作品と同一とすることはできない。それが本文の「つれづれ」に対する題の「徒然」表記。
なお「徒然」は上記先例にはないが、後の平家物語に一度だけあり「神妙なり。何とやらん、世に徒然なるに」(巻第二・徳大寺之沙汰)、これは他4例の「つれづれ」と書き分けられている。そして徒然226段は平家物語に言及している(行長入道、平家物語を作りて)。
つれづれなる
つれづれ(なり)=徒然=いたずらに自然=無駄に自由=暇すぎて無為に過ごしている状態。他に何もすることがない(ので)。裏返せば、それしかすることがない状態。
 暇過ぎて無為に過ごすといっても、必ずしも手持無沙汰という意味ではない。それは有為な人生の目的意識なく他律的に生きる人達の発想。自由でのんびりしすぎて時間を上手く使えないという有閑階級は、別に手持無沙汰なのではない。自由時間が多い人を裕福(well-off)という。この裕は余裕の裕。字義で見ても、徒然と余裕はパラレル。なお、兼好は世間を基準にすると余裕は全くなく、社会的には憐れむべき弱者。それが以下の通常の解釈(世間の見方)だが、なお余裕を貫こうとしている(そうでないと日ぐらし硯に向かえない)という自覚的皮肉。
 
 この点、「所在なさ(にまかせて)」(新旧大系・新旧集成)というのが旧来の通説だが、これは落ち着かないという意味で、兼好は以下の通り、自ら強い意図で計画的に(水田を領有して)自由人になっていると言えるので不適当。兼好は一応貴族のはしくれ。「土民」などを用い(技術ある里人と区別)、いわゆる大衆的でがむしゃらな労働称揚的発想はない。
 特に数多の解説に理論を提供してきたであろう旧大系は「何かしたいがすることもない、話相手もない、ひとり居の所在なさ(にまかせて)」と消極的意味に解するが、そもそも解釈が一般的字義と論理から離れて、補いが過ぎる。兼好は、通説によればそこそこ高い官位(従五位下左兵衛佐)を捨てて遁世しており、それは経済社会の基盤が弱い当時今以上に社会的死(世に背く)を意味するため、消極的理由で遁世したと漫然とみなす根拠はない。つまり強い目的意識で遁世した(いでや、この世に生まれては、願はしかるべきことこそ多かめれ……ありたき事は、まことしき文の道、作文、和歌、管弦の道:1段)、意図的に社会関係を放棄した世捨人(引きニート)なので、話し相手を当然のように持ち出す根拠がない。無職が世間の人とかかわると、余計なお世話(説教)をされる。法師と言いつつ寺にも属さない。この方は一体何をされている方なの? 徒然を著した方。だから書くしか存在意義がなかった。なお通説は「作文」を漢詩とするが根拠がなく、これは一般的語義でも文脈でも手習いのこと(作文、詩序:67段、文…手書く事…文、武、医の道、誠に欠けてはあるべからず:122段)。
 「無聊をもてあましている(人間が)」「手持ち無沙汰で所在ない(のに任せて)」(新体系)という説は、「無聊(=退屈)」自体辞書をひかないと通用しない説明で単純なことを徒に難解にしており、解釈の方向自体が背理。冒頭から徒然を「何たる矛盾」「顛倒」と喝破しており執筆動機が倒錯しているが、徒然と物の見方が末節ではなく根本で反転して相容れないと解る。そこから派生した「無聊孤独(にまかせて)」(角川ソフィア)という説は、兼好を思いつきで動き出す人物と見ており不適当。孤独から逃れようとしているようにも見える点も世間的発想で不適当。むしろ世間から逃れている。
 「しようにもすることがない(のにまかせて)」(全注釈)は意志があるように見える点は妥当だが、結局自発的にすることはないとしてしているので世捨ての事情(30代で官位放棄という強い行動)、上記1段の記述とも相容れず不適当、
 「なすこともなく、ものさびしさ(にまかせて)」(全集)は、寂しいという主観を、恐らく世間的観点で補っている点で不適当。
 
 どうしても一人でしたい事があるから、つれづれなるままに(他に何もすることがない状態)に至り、執筆に走るしかすべきことがなくなった(いわば総じて煩わしい世間からそこに逃れた)。そうして世のおかしい・馬鹿げていると思う鬱憤をつらつら書き連ねると、世間からは当然、自分でも頭が狂ったと思うようなことも書いてしまう。
 
 なお、題名の①徒然の草は、②枕草子に由来している。両者は大体、①超暇人の文章(言)と、②枕になるような枕詞の本(百科事典の類で読むと眠くなる厚い本)。枕詞以外どちらも独自説なので、何かで用いる場合には、世間や学界では全く通用していない(大抵の場合、誤りとみなされる)ことを留意されたい。しかし他説より多角的根拠はある。
 現状の解釈は要所の頓知やウイットを解せない。枕草子は枕元に置く備忘録とすべしとするのが旧来の通説とされるが、写本用の分厚い紙を枕とすべしとした唯一枕の根拠となる原文の文脈に全く根拠がない。
 自虐して要所でひねってぼかしてクサすのが歌人の文=古文の本質(古き歌どものやうにいかにぞや、ことばの外にあはれに:14段)。表面的な文ならいくらでもある。
(つれづれなる)ままに
(他にすることもない)ので。まま(その状態が継続中)+に(なので:順接確定条件)=理由。ひたすら暇なので。
この点、上述の通り通説は「(所在なさ)にまかせて」とするが、こういう言葉の端々の解釈に世に巻かれる読者達の他律的的発想が出る。抽象的な単語を著者の総体的文脈(プロファイリング=諸々の記述)に応じて意味を決めるのが解釈。単体で決めるのは単なる決めつけ。
あやし(うこそ)
おかしい、変だ、妙だ。現代同様の多義語で、このような普通の言葉を多角的に見ることが古文の心髄。「こそ」は強意の係助詞で語調を整える。
ここでは、あやしい~(笑)、妙だな~、おかしいな~(失笑)、という面白い文脈。怪しい(真剣)、妙だ(深刻)ではない。
徒然草は、おかしさ・いたずらを全く理解できない大真面目で視野が狭い人達の態度を、いくつもの段で皮肉る(仁和寺にある法師・丹波に出雲)。よって大真面目な人がしている徒然の解説は、肝心ほど文脈を取り違えている。著者とされる兼好法師は世捨て人(30代の働き盛りで職務放棄した偉そうなニート)なので、世間にはまって大真面目に汲々とすることを良しとしている人がその心を理解するのは絶対無理で、少し世間から距離を置いた人が解説しないと、おかしなことになる。おかしさ・笑いが理解できない。それが大真面目で以下の狂気とか気違いという訳になる。
ものぐるほし
頭がおかしく変になって。文言に即せば「とち狂って」。頭がぶっとんだ状態。「もの」は接頭語で、この段のテーマ「何となく」の意味でここでは「狂」の語感を弱めている。
枕草子224段あやしう…をかしきこそもの狂ほしけれ」の先例がありこれに拠るため(通説)、おかしさ(をかしき)と無関係な解釈は誤っている。加えて、徒然草は要所で枕草子や諸古典のフレーズを意識的・明示的に引用しているから(14・19・138段)、題名の草も枕草子に由来していると見るのが当然の成行きで、そう見ないのはナンセンス(=意味・ナシ)。
この点、通説は、狂気じみている・気違いじみたとしてきたが(大系・新旧集成。全集は「もの狂おしい」と回避、全注釈は苦心して「ばかばかしい」と弱める)、いずれもシリアス(大真面目)過ぎて不適当。「おかしな」(角川ソフィア)でも良さそうだが「狂」は頭のおかしさ・ぶっとんでいることをいうので頭を入れる。クレイジーは表面的な気違い的意味だけではなく、世間の理解が及ばないやり方で突き抜けて何かをやり通す人にも用いる。
兼好の頭がぶっとんだ例として「上藹は下藹になり、智者は愚者になり、徳人は貧になり、能ある人は無能になるべきなり」(98段)「すべて人は無智、無能なるべきものなり」(232段)
けれ
「けり」の已然形「けれ」。…た。…(き)たようだ。…きたようで。…きたような。…きたようだな。「こそ~けれ」の係り結びで、徒然で繰り返される定型句。語尾が本来の言い切り「けり」ではない変則(係り結びの法則は本則に対する変則)なので、感嘆的に多少ひねるのが本来のニュアンスで、忠実な訳である(けりがつかない=物事が終わらない、収束しない)。ここでは全体の流れを考え、結びと強意の係りを掛け合わせ、…きたようだなとした。
「けり」は通常「…た」という過去の意味が第一義だが、文脈において、…たそうだ、…というようだ、という婉曲的意味を持つ(今は昔、竹取の翁といふものありけり)。ここでは「頭がおかしくなった」と言い切るとシリアス過ぎておかしいので、丸めて「…たようだ」とした。
この点、同じ過去の「き」は直接体験、「けり」は伝聞と分類されるが、それは従来の訳から導き出した苦肉の策で、その従来の分類理解は誤っていることをこの段は証明している。その使い分けは語調による。ネイティブは分からないかもしれないが、生きた言葉はそういうもので、直接体験とか伝聞とか一々考えない。もっと緩い意味で用いる。つまり「けり」は口語(物語)的、「き」は文語(格式ばった書き言葉)的という理論をここで立てる。そもそも最初に古語を文語と定義していること自体、自分達目線の理論で不適当。だから物語の祖から始まる古典文学の心を解せなくなる。