徒然草236段 丹波に出雲といふ所あり:完全対訳解説

主ある家 徒然草
第六部
236段
丹波に出雲
柳筥

 

原文 現代語訳 解釈上の問題点
 丹波に出雲といふ所あり。  丹波に出雲という所がある。 ・丹波:兵庫と京都の辺り。丹波なのに出雲(島根)? とこの時点でおかしいと思うセンスが大事。著者もそれですぐに説明している。丹波の出雲を当然視しているのではない。
大社を  大社を ・大社:島根の出雲大社
うつして、 移して、 ・うつして:分社して
めでたくつくれり。 可愛らしく造った。 ●めでたし:めづらし・めづる(愛でる)の延長で、微笑ましさが語意の中核。大社との対比で小さい意もある(以上独自)。大真面目な意味ではない。△素晴らしいは拡大解釈
  それを  
しだのなにがし しだの何とか 〇人物未詳(旧大系・全注釈・全集・集成・新体系)
→原初の徒然草注釈書『寿命院抄』に「志太之字乎」(しだは志太の字か)。
×在京後御家人信太氏(角川ソフィア)→断定しているが論拠は示さず以降の信太注全て「かもしれない」推測。
とかや とかいうのが 〇文脈上特定に意味はないという表現
しる所なれば、 知る所となったので、 ●しる:知る・不知(なにがし)との対比(独自)
→知る(旧大系)
×知行する(角ソ) 知行=支配
×領る(通説):領地領有という根拠が文脈に全くない。
+そもそも「領る」自体、伊勢物語初段の「しるよしして狩りに」を昔男業平ありきの貴族目線で決めつけた文脈に根拠がない解釈。
ここは「しるよし」=領るとする通説に兼好が問題提起したものと思う。
徒然1段「勢ひ猛にののしり」とし、竹取での有力者解釈と相容れなくさせたのと同じ。
秋のころ、 秋のころ、 〇場面が一区切りする
聖海上人、 聖海上人が、 ・聖海上人:未詳(旧大系・全注釈)
●主格省略
紛らわしいが同時期の宇治拾遺で頻出し、典型例が「道命阿闍梨、和泉式部の許に」(宇治拾遺1)
これは両者のもとの意味ではなく道命阿闍梨が和泉の許に行った意味だが、それは文脈によらないと区別できない。逆に全体を見れば区別できる。
ここで「しだのなにがし」「聖海上人」の主体性をどう見るかだが、前者は実質全く描かれない(和泉式部と同じ)ので主体性はない。
そのほかも、 その他も、 〇徒然の「そのほか」は全て直前で文章が切れ(118,121,140)、ここでは上人の主体性を示す。
人あまた誘ひて、 人を沢山誘って、 ●人を集めたのは何某の話を聞いた上人と見る方が筋に沿う
△何がしが誘った(通説)
そうすると領有とした関係で歪みが生じ、在京御家人想定→根拠ない補い
「いざ給へ、 「さあおいで下さい、 〇いざ+給へ:さあおいで+下さい
 同訳の全注釈は「いざものしたまへ」と見るが、こういう後世の補いは常に違和感がある。
△さあおいで+なさい(全集)
△さあ+いらっしゃい(旧大系)
△さあ+参りましょう(角川)
※細かいが(給ふでない)「給へ」はできる限り「下さい」とする。古文Top5の超重要語。
出雲拝みに。 出雲を拝みに。  
かいもちひ ぼたもちを

・かひもち(ひ):ぼたもち。お菓子→をかし。
 同時期の宇治拾遺『児の掻餅するに空寝したる事(児ちごの空寝)』でも坊とセット。
×そばがきともいう(全集):蕎麦がきはネリ物だが、これは想定に想定を重ねた拡大解釈・循環論法による定義で不適当。
 そばがきや田舎料理を御馳走する根拠となる文脈はない。

召させん」とて あげましょう」といって、 ●かひもちひ召させん:お菓子あげるから(ついておいで)
→幼児を誘う決まり文句(甘言)に掛けた面白表現(独自)。坊=子供・坊主包括概念
 本段は一貫して坊主達が大真面目におかしなことをする文脈。うるさくて幼稚な坊主と神官の「おとなし」が明確に対比されている。
×田舎料理を御馳走する慣用句(旧大系=旧通説)
×田舎へ誘う時の謙退の辞か(全注釈)
×刈上祭の供物であろう(角川)
→こうして説が分かれていること自体、従来の説やそばがきでは通らないことの表れだろう。
 どれが文脈と文言に照らし素直で多角的根拠があるのか考えてもらいたい
具しもていきたるに、 引き連れて行ったところ、 ・具す;連れて行く・引き連れる
・もていく:引率。つまり上人はグループの中心人物で影響力がある
おのおの拝みて、 各々拝んで、  
ゆゆしく信おこしたり。 滅法な信心を起こした。 〇ゆゆし:ひどい・とんでもない、という口語調→ゆゆしき
△非常に(旧大系)・えらく(全注釈)
×深く(全集・角川)→語義から離れかつ文脈を取り違えている
→やべーだろ同様、悪い意味なら笑えず、良い意味なら笑える。
 素晴らしい立派という定義は、本段で揶揄されるをかしさを全く解せない人々の解釈そのもの。
     
 御前なる獅子、狛犬、  神社前にある獅子と狛犬が、  
そむきて、 背中合わせに  
後ろさまに立ちたりければ、 後ろ向きに立っていたので、  
上人いみじく感じて、 上人は激しく感じ入り(感激して)、 ・いみじ:ゆゆしと対になり同旨
「あなめでたや。 「ああめでたいことや。  
この獅子の立ちやう この獅子の立ち様は  
いとめづらし。 とても珍しい。 ・いと:とても。veryと同じ簡単な口語。「非常に」は過剰な訳で不適当。
ふかきゆゑあらん」 深い由縁があるだろう」 ・ゆゑ
と涙ぐみて、 と涙ぐんで、  
「いかに殿ばら、 「どうしてあなた方は、 ・殿ばら
殊勝の事は御覧じ 立派なことを御覧になり  
とがめずや。 黙っているのか。 ・とがむ:問い質す・質問する
むげなり」と言へば、 最低です」と言うと、 ・むげ【無下】なり:あまりにひどい・非常によくない・最低な
△いけませんぞ(角川)
△それではあんまりです(旧大系・全注釈)
×なさけないことです(全集)
→「むげなり」の強い非難と端的断定を同時に満たさない
     
おのおのあやしみて、 各々(それは本当か)怪しんで、  
「まことに他に異なりけり。 「(立ち様は)本当に他と違っているなあ。 ・けり:過去+詠嘆
  (誰か知っているか)  
都のつとに語らん」 都でちょっと話してみよう」 〇つと:さっと・ふと・早く。時間的早さ短さ
△土産話(旧大系・全注釈・全集・集成・角川等、支配的通説)
→既存の特殊概念「苞」に引きつけた解釈(領る同様の解釈)
※微妙な文言は、まず一般用法「つと・つとに」から検討。
 文脈の必然なく、特殊な当て字解釈に漫然と前ならえしない。
など言ふに、 などと言っても、  
     
上人なほゆかしがりて、 上人はなお知りたがって、 ・ゆかし
おとなしく物知りぬべき顔したる 大人しく物を知ってそうな顔をした ●おとなし:大人しい=うるさくない・落ち着いて静か
→うるさく動き回る上人達と対にした表現(坊主と神官。独自説)
△年配(旧大系・角川)
×かなりの年配(全注釈)
×老成して(全集)
※諸説が年配性を強調するのは、この語の本質の精神性を考えてないから。
子供にも大人しいは用い、むしろこちらが本来。
「おとなし」を年配・主だっているとする定義は、本段の読解を根拠にした循環論法。
神官を呼びて、 神官を呼んで、  
「この御社の獅子の立てられやう、 「この神社の獅子のたてられ様は、  
さだめてならひあることに侍らん。 きっと言われがあることでしょう。 ・ならひ:言われ・言い伝え・伝説
ちと承らばや」 ちとお聞きしましょうか」 〇ばや:~たい・ほしい・よう(願望・意志)
と言はれければ、 と言われたので、  
     
「そのことに候ふ。 「そのことでございます。  
さがなき童べどものつかまつりける、 性悪な子供達が致したことで、 ・さがなし:質が悪い・いたずら好き
奇怪に候ふことなり」とて、 変な風にされたことです」と言って、

〇奇怪:変な、妙な、おかしな。狛犬の状態描写
×けしからぬ(旧大系・全注釈・全集・集成・角川等、支配的通説)
→本段の読解しか根拠がない学者的思い込み解釈
→神官の大人しさと相容れない。神官は事情を知りつつ聞かれるまで直してない。

さしよりて、 近寄って、 ・さしよる:近寄る。さしは接頭語。意味的にはふと、のような意味
据ゑなほして往にければ、 据え直して行ってしまったので、  
     
上人の感涙 上人の感涙は  
いたづらになりにけり。 無駄になってしまった。 〇いたづら:子供のさがない悪戯に掛けたと見る(独自説)