論語6-2 哀公問 弟子孰爲好學:原文対訳・解説

南面 論語
雍也第六
2
好学者
原文 書き下し
漢文叢書
現代語訳
下村湖人
要検討
哀公
哀公あいこう
問とふ。
 哀公が
先師にたずねられた。
弟子孰
爲好學
弟子ていし孰たれか
学がくを好このむと為なす。
「門人中で誰が
一番学問が好きかな。」
     
孔子
對曰
孔子こうし
対こたへて曰いはく、
 先師が
こたえられた。

顏回
顏回がんくわい
といふ者もの
あり、
「顔囘
と申すものが
おりまして、
好學 学がくを好このんで、 大変学問が好きでありました。
不遷怒 怒いかりを遷うつさず、 怒りをうつさない、
不貳過 過あやまちを貳ふたたびせず。 過ちをくりかえさない、
    ×ということは、
なかなか出来ることではありませんが、
それが顔囘には出来たのでございます。
不幸
短命死矣
不幸ふかう
短命たんめいにして死しせり。
しかし、不幸にして
短命でなくなりました。
今也
則亡
今いまや
則すなはち亡し。
もう
この世にはおりません。
未聞
好學者也
未いまだ
学がくを好このむ者を
聞きかざるなり。
顔囘亡きあとには、残念ながら、ほんとうに
学問が好きだといえるほどの者は
いないようでございます。」
南面 論語
雍也第六
2
好学者

下村湖人による注釈

 
○ 孔子の学問という意味が、道徳的精進を意味することは、本章に極めて明瞭にあらわれている。

 

【と注されるが、道徳的というより「好」「学」に対比させた表現が、怒りうつさず・過ちふたたびせず(不遷怒・不貳過)で表したと見るべきで、それを道徳的と言うならそうかもしれないが、道徳性というのは理解がピンポイントではない。好きな人の言ったことは忘れないように学を好んだ。それが好学者。

 

 本章の「未聞好學者」と対をなすものに「我未見好仁者」(4-6)がある。そこで孔子が未だ見たことがないという「学」より明らかに上位概念の「好仁者」につき、下村訳は何も難しいことではないとしていたが、仁の理解と実践はそこまで簡単なのだろうか。

 

 読者は、孔子の概念で「学」と「仁」はどういう関係にあると思うだろうか。

 私は、「仁」は天(天道天命)に仕える(使える)道具として生きる人間性・人道性、「学」はそのための第一の手段・道具と思う。それが高次の道徳性。

 仁が道(精神)、学が徳(世俗現世)に該当】