論語6-11 子謂子夏曰女爲君子儒:原文対訳・解説

力不足 論語
雍也第六
11
君子儒
澹台滅明
原文 書き下し
漢文叢書
現代語訳
下村湖人+【独自】
要検討


子夏曰
子し
子夏しかに
謂いつて曰く、
 先師が
子夏しかに
いわれた。


君子儒
女なんぢ
君子くんしの儒じゆ
と為なれ、
【そなたは
志高い人の需要(求める所)
となれ。


小人儒
小人せうじんの儒じゆ
と為なる
無なかれ。
志低い人の需
となる
なかれ】
    ×「君子の儒じゅに
なるのだ。
小人の儒に
なるのではないぞ。」

 
:孔子の思想を受け継ぐ学問、それを学ぶ人。
 儒学の儒もこの意味。下村訳と注釈ではこのまま日本語とする方が面白いとされるが、儒だけでは一般的でなく面白い以前に意味が分からない。人の需要で儒。人の需要に応える学問で儒学。そのままでは儒の字義に反するのではないか。

 肝心ほど先に簡潔に示すのが論理。また、解釈は自在に具体化するのではなく、一般的な字義と文脈に多角的に基づかねばならない。小人は論語で常に君子と対にされる志の低い(低次元の)人。それで小さい人(独自)。4-5によれば孔子のいう君子は仁をなす者で(君子くんしは仁じんを去りて悪いづくにか名なを成なさん)、自分の世俗的成功を主に志すことは仁ではない(富とみと貴たふときとは、是これ人ひとの欲ほつする所ところなり)。世の中を豊かにすることを主に志すのが君子の特性たる仁(道によって富と貴を得なければ貧と賎は去らない、ということの反対解釈)。世の構成上みなが君子になることはないし、その必要もない。ただ理想の君主か何か興味がある人向けの本が論語。

力不足 論語
雍也第六
11
君子儒
澹台滅明

下村湖人による注釈

 
○ 君子の儒、小人の儒は強いて訳さないで、このまま日本語として通用させる方が面白い。

 儒は濡(水にひたるの意)を人扁にしたもので、先聖の道を学んで、それに身をひたす人を意味する。

「君子の儒」は真実に道を求めて学問をする人、「小人の儒」は、立身出世を求め、利害の打算に終始し、徒らに物知りになるような学問をする人。いつの時代にも小人の儒が多い。