原文 |
書き下し 漢文叢書 |
現代語訳 下村湖人+【独自】 |
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子曰 | 子曰く、 | 先師【孔子】がいわれた。 |
朝 聞道 |
朝あしたに 道みちを聞きかば、 |
【朝に 道を聞いたら |
夕死 可矣 |
夕ゆふべに死しすとも 可かなり。 |
夕に死んでも 良い。】 |
△×「朝に 真実の道をきき得たら、 夕には死んでも 思い残すことはない。」 |
【道:一般的には、本章を孔子の一意専心・求道の思いの強さを表したものと解するものと思うが、朝夕で時間差があるのがポイント。普通なら、そこまでして聞きたかった道(理想)は自ら行かないと意味がないと思うが、聞けばその日のうちに死んでもいいと言う。つまり孔子の「道」は、自分の歩んで来た道(4-15吾道一以貫之)で、ここで道を聞けば死んでも良いというのは、孔子の道に続く志のある者の出現を喜び(恐らく盃を交わし)死にたいと解すべきものである(次章士志於道参照)。直後でそういう文脈になっているのだから。なお独自説。
この点、下村訳は一般目線で「道」を未知の道と解しているようで、微妙に的外れ。しかしここら辺の理解は孔子の言う器による。御猪口と丼で優劣はないが、洋の東西問わず伝説的哲人と認められている孔子を一般的な器量ではかれる道理はないだろう。自分は孔子以上という人ならともかく、その役は少なくとも孔子とほぼ同じ生き方をしてきた人である必要がある】